「文学横浜の会」

 随筆

「柿をむく」
「よのもり駅」

2003年01月18日


「遠い日の汽笛」

 新年を八景島で迎える娘を送り出すと、部屋の中が急に寒々となった。恒例の歌番組も終わりに近づき、夫はほろ酔い気分で床に就いた。私は遅い夕食の片づけを済ませ、ゆっくりと湯に浸かった。それにしても静かな夜である。私が音を立てぬように肩まで湯に浸かったその時、汽笛が聞こえた。

 遠い過去に私は汽笛を聞いたことがある。そこは東北の田舎町、日本一小さいと云われている小浜漁港から数キロ北西に行ったところに私の家はあった。母は小学校の教師をしていた時期もあったが今で言うサラリーマン家庭であった。姉が二人、近くに母の両親も住んでいたので全員が集まると七人という、当時にすれば当たり前の人数でもあった。当たり前の家族を悩ませていたのは少なからず私にあった。

 不慮の事故で半身不随となった私を背負い母は四年という月日を病院通いに費やした。治療方法は毎日の土踏みとマッサージ。そのお蔭で足は健常者となんら変わらないくらいまで回復していた。失っていた声も戻ってきた。後は右手指先の神経が戻れば完治するはずだった。だがリハビリ治療もここまでだった。

「この病院での治療はこれが限界です。後は家で気長にマッサージを続けることですね」医師の言葉に祖母は涙ぐんだ。家族も諦めかけたある日、私は生まれて初めて「おがみやさん」という聞きなれない言葉を耳にした。山奥に住む「おがみやさん」が、神様に供えた塩を焼いて身体の悪い場所に擦り付ける。神様も入ったという湯に浸かるとたちどころに悪いところが直るという。

「神様に頼るしかねぇべした。二年生になるのにぎっちょじゃ仕方ねえからな」
祖母は口癖になった言葉を私に向けると、手拭いで目頭を押さえた。見放された患者が行くところ。そこに行けば救われると信じている祖母。それが迷信だと判っていても、家族の誰もが祖母の話を否定する者はいなかった。

 朝霧が陸を灰色に染めている。私は母と祖母に連れられ始発のバスを待っていた。じっとしているとズボンの下のほうから冷たい初春の風が入ってくる。私は母の手を握りながら、冬の間雪に埋もれ眠っていた木の葉を踏んだ。霜を含んだ葉は、長靴の底にくっついて離れない。風が吹くと乾いた葉だけが面白いようにくるくると回り場所を移動していく。私は母と手をつないでいるのが嬉しくて、ときどき母の顔を見上げた。

「お母ちゃんも行くよね」
 家を出るときから幾度となく母に訪ねようとした言葉を口にした。停留所の薄暗い光線の下で、母は黙って私の頭を撫でた。今にも消え入りそうな豆電球の明かりは、母の顔をより青白く照らしている。どのくらいそうしていただろうか。空が白々と明けだしたころ、山道を下りてくるバスの姿が見えた。

 一緒に乗ろうとしたとき、母は私の手を振り解いた。驚いている私に母は黙って風呂敷包みを押しやった。バスはすぐに走り出し砂埃を巻き上げ、その向こうに母の姿が見えたとき、やはり母は来ないのだと悟った。手のひらに残された包みは、ほのかに暖かく磯の香りがする。私は後部座席に走り、急いで窓ガラスに顔を近づけた。バスは坂を下ると、突然視界に目覚めたばかりの海が顔を出した。姉と遊び疲れて足をつけた海が、怒り狂い海岸の小石を幾つも呑みこんでいる。唸るような汽笛の悲鳴を聴いたのはその時だった。すでに母の姿はどこにもなかった。 

「六つ数えたら帰れるからな」
 何度となく繰り返されてきた祖母の慰めに、私はぷいと横を向き、深く椅子に体を埋めた。

 *

 林を抜け、折り重なるような岩を何度も超え奥地にたどり着いたとき、春の山は紫色に変わっていた。トタン屋根を打ち付けた平屋の建物は、いかにも仮の住まいといった感じだった。木戸を押し、中に入ると薄暗い土間に不揃いの椅子がいくつか置かれ、中央の火鉢の上でやかんの蓋がカタカタと音を立てていた。裸電球の下に女の人が座っていた。

「バイク事故でせがれの足が動かんのです」
 母親らしき人がすがるような目を祖母に向けた。祖母は無言で頷き、がさついた両手で私の手を包み何度も摩った。重く張り詰めた空気が辺りを包んだ。生活の匂いすら感じさせない一室で 、私は二度と家には戻れないのではないかという不安と戦っていた。

その時、閉ざされたカーテンの奥からうめき声が聞こえた。奇妙な叫び声に私は驚き、祖母のもんぺの裾を思いっきり掴んだ。あの声は祖母が神様だと慕う「おがみやさん」なのだろうか。手を合わす祖母の姿を見ながら、私は幼心にも果てしなく遠いところに来てしまった思いだった。バス停で別れた母はどうしているのだろうか。バスの中で聞いた汽笛がいくつにも広がって頭の中を駆け巡った。私は無性に母に会いたかった。

「婆ちゃん、指が動かなくてもいいから家に帰ろう」
 涙を溜めた私に祖母は優しく笑いかけた。

「ぎっちょじゃ仕方ねぇべ」

*

 汽笛の音を聴きながら私は両手を目の前にかざした。発達した左手に比べると右手はほんの少し小さい。だが塩の効果があったのかあれからしばらくして指先の神経が温度を感じるようになったのには家族皆が驚いた。神様も捨てたものじゃない。あの時の祖母の笑顔が目に見えるようだ。ワープロを始めて購入したとき、右手人差し指で「お母さん」と叩いてみた。ゆっくりだが確実に文字が画面に現れた。しばらくその文字を見つめていたのを思い出す。あぁ汽笛が聞こえる。今年も亡き母と祖母のためにも書いていこうと思う。それが一番自分にふさわしい親孝行だと思うから。そんな気持ちに駆られながら、私は思いっきり湯船を飛び出した。

<記憶のページより S・K>


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