第十二話『雪と闇が舞ったその日に』


 冬の深夜。太陽という熱源を失い、冷やされるだけ冷やされた空気が、風に流れる飢えた獣と化す季節、時間。その獣は狭い路地へと入り込むと凶暴性をさらに増し、誰彼構わず人間たちを次々と襲う。その獣に襲われた人々は皆、服の隙間から入り込まんとするその牙から身を守るため、とりあえず防御の甘い留め具付近を両腕でカバーする……。
 そしてそれは、連日の殺人事件が記憶に新しい、今日本全国で最も『危険』な地区と称するに相応しいこの街の、最も『危険』であろう人気のない路地を一人歩く、強風に激しく煽られてもなお美しい、その長い髪の持ち主も例外ではなかった。

「殺人鬼でも寒いものは寒いんですね……」

 いつ頃から癖になっていたのだろうか。知らずと呟くようになっていた、その独り言に込められた自嘲……。
 彼女、霧生院綾芽は敢えて、世間が自分に与えた称号をこの場で使った。しかし、それを聞く者はどこにもいない。
 いないからこそ、使ったのだ。しかし、何故わざわざ呟いたのかが、彼女自身判らなかった。

(ひょっとすると、誰かに知ってもらいたいのかもしれませんね)

 歩きながら考え抜いた結果、出た答えはそれだった。自らに殺人鬼の本性が眠っていることなど、両親にすら話した事はない。もちろん、千春を初めとする親しい友達にも話していない。もし、誰かがそれを知れば、ある者は自分を敬遠するようになるだろう。またある者は自分を警察機関へ突き出すかも知れない。だから、ずっと一人の秘密にしてきたのだ。有志が虫と話せる力を秘密にしていたのと同じように。
 しかし、心のどこかに、知って貰いたい自分がいるこをと綾芽は今はっきりと認識した。知られれば、もう恐れる事はないのだ。例えそれが、彼女のすべてを破壊する悪魔の兵器だったとしても……。
 だが、やはり知られる訳には行かない。
 怖いのだ。警察機関に捕まるということが。
 だが、それは決して捕まることに対してではない。捕まって、即死刑というのならともかく、取り調べから判決が下るまでそれ相当な時間が必要となるだろう。そして、下された判決内容が死刑とは限らない。細かいところまでは判らないが、懲役で済む可能性もある筈だ。
 だが、それだけの時間を警察機関の中で過ごす間に、果たして自分は人を殺さずに済むのだろうか?
 もし、刑務所の中で殺人鬼の本性が目覚めたならば、一人や二人の犠牲者で済むとは思えなかった。警察機関が簡単に、『あれ』を止める事など出来やしないのだから……。

(もっとも、警察に私が犯人と立証することができるのかどうか、怪しいですけどね)

 彼女が性根からの殺人鬼であれば、恐らくほくそ笑んでいただろう。だが、綾芽のその時の表情は、周りの闇に負けないぐらいに暗かった。
 今頃、警察は躍起になって犯人割り出しに勤しんでいるであろう。そして、煮詰めて行った結果ある答えに辿り着く筈だ。
 この殺人は、人知を超えた生物によるものだと。
 そして、その生物とこの霧生院綾芽を結びつけることが容易ではないことを彼女は理解していた。もし、自分にその趣味があれば、当分は楽しめるという事を。
 もちろん、彼女にはそんな趣味などない。

「ないから、こんな寒い中出歩いているんですよ……」

 そう呟いた瞬間、突風が彼女の身体を舐めながら、その脇を通り過ぎて行く。今日の寒さはこの冬一番だろうか?
 絶対零度の殺気の持ち主が、実は寒いのが苦手だなんて、笑い話にしかならなかった。

「まったく……。輝和さんが羨ましいですね」

 クリスマスイブの夜、輝和は自信が『魔法』と呼ぶその力の一つに、冷気や熱の影響を受けなくするものがあると言っていた。例の鍵探しの件で散々身体を冷やし、暖房の前を一人陣取っていた有志が、それを聞いて彼女から見れば可愛いと思えるあの高い声で散々文句を言っていたのを思い出し、綾芽は少し微笑んだ。もし、並んで歩いているものがいたならば、彼女を中心に発せられている自然のものとは違う冷気が、その瞬間だけ和らいだのを感じただろう。
 だが、綾芽は輝和のことを羨ましく思うと同時に、嫉ましくも思っていた。自分と同じ、人とは違う能力を持つ人間。あの川原で、有志を引きとめる際に使った空間を爆ぜさせる力。あれを人の間近に発動させれば、殺傷能力が期待できるであろう。それだけでなく、彼はもっと色々な力を持っていると言った。そんな事は口にはしなかったが、その中には人を殺めるのに適したものもあるはずだ。
 それなのに、彼は闇を恐れない……。
 ふと、彼女は暗闇が覆う空を見上げた。田舎ではないが、大きいとは言い切れないこの街の深夜。人工の明りに照らされた空は決して明るいとは言えない。だが、今夜の空にはいい光源があった。
 月……月齢12から13と言ったところだろうか。満月に近くなっている。これだけの光があれば、簡単に殺人鬼化する事はないだろう。だが、あれがなくなると……?
 ふと、彼女の表情が先程同様に綻んだ。しかし、今度は逆に、彼女を取り巻く冷気が数℃下がる。

(いけない……)

 それに気づいた綾芽は、慌ててその笑みを消し去る。すると、再び周りの気温が先ほどまでと同じ位にまで戻った。
 普段彼女は夜に外出したりなどしない。理由は、彼女の能力を知ればおのずと判るであろう。だが、今日は違う。
 あの男が待っているのだ。昼間会った黒衣の男が。
 間違いなく、自分と同族の……。
 本来、会うべきではないだろう。あの時、輝和が割って入らなければ、激しい戦闘になっていたかもしれない。あからさまな殺気は感じなかったが、自分と互角以上に戦える力を彼女は感じていた。あの、3体の肉塊は間違いなく、あの男が作り出したものだ。いくら相手が未知の危険に対する抗体を持たない普通の人間だとはいえ、逃げ切る事はおろか、死体が5メートル範囲内に固まっていたという事実が、男が相当人間を『殺す』事に慣れていることを物語っていた。
 人を殺すという行為に少しでも戸惑いがあれば、あんなことなど出来やしないのだから……。
 だけど、綾芽は男に会うために歩を進めた。
 聴きたいことがあった。初めて会った同族に……。
 だから、歩を進めた。場所を聞いた訳ではない。だが、彼女の足取りに迷いはなかった。一歩、一歩、彼女は進むたびにその全身に纏わりつかんとする、自分とは違う闇が増えていくのを感じる。
 その闇には、想像し難い危険の他に、懐かしさ、安堵感、寂しさ、辛さ……。色々なものが含まれていた。





 人家が少なくなるにつれ、街灯の間隔が広がっていく。それに伴い、闇が光を凌駕せんとする空間が増えていった。そんな彼女にとっては危険な地域を、やはり迷いなく進んでいく。
 そして彼女の歩は、この街の中心を流れる川の車両進入禁止の道……先日千春の家でクリスマスパーティーをする際に使った土手上のコンクリ道に差し掛かっていた。

(近いですね)

 男のものと思える闇は、もう抱きしめられるほどに近くなっていた。昼間会った時はこんな闇は感じなかったのに、今はまだ視界の範囲に捕らえる事が出来ていないにもかかわらず、はっきりとその存在を感じる。
 巡り会うのはもう間近の時となっていた。
 川原へと降りるコンクリートブロックの階段を降りると、そのまま水の流れとは逆方向に進む。このあたりに来ると、ただでさえ数の少なくなった街灯の明りはほとんど役に立たないものとなっていた。当然、人の姿など見当たらない。
 しかし、綾芽はその闇の中を、まるでよく知った道を歩くかのように歩いていた。こんな所に光源もなしに踏み込めるものなど、生まれつき闇の中で生きることに適した者達だけであろう。
 そして、彼女同様闇の中で生きることに適した者が、もう一人そこにいた。奇しくも、数日前有志たちが鍵探しで必死になっていた場所に、黒いコートを羽織った男が闇を撒き散らしていた。

(やはりここでしたか……)

 綾芽の予想通りだった。彼女はただ単に、この街の深夜、一番暗くなると思われる所に向かって歩いていただけだったのだ。彼女にとって、一番危険と思われる所へ……。
 男の方も綾芽が来るのが判っていたようだ。こんな時間に女性の身で一人、暗くて世間一般に危険と称される場所にいる。それだけでも不思議なのに、間違いなく自分に向かって歩いてきた女性に対し、男は眉一つ動かさなかったのだ。綾芽はそれを当然と捉えた。自分が男の闇を感じ取ることが出来るのだから、向こうも自分の闇を感じ取れて当然だろう……と。

「……」

 とりあえず、5メートル弱の距離で歩を停めると、男の出方を窺う。男はどうやら自分を観察しているらしく、鋭い人間でないと判らないぐらいに微妙に視線を動かして、その全身を見極めんとしている。ただ、その行為から嫌らしいものは感じなかった。

「昼間より今のほうが良く見えるな。月夜に映える美しさだ」

 だから、そのような異性を意識した台詞が聞かれようとは、まったく予想していなかった。世辞かと思ったが、男がそんな世辞を言うようなタイプには思えない。だが、本心でもそれを真っ先に口にするようなタイプにも見えなかった。

「……ありがとう」

 男の思考は読めなかったが、取り合えず普通に応答することにした。本音をいうと、闇を纏う男にその容姿を誉められたところで、嬉しくも何ともない。綾芽が求めている異性は闇の男ではないからだ。極端な例えをすれば、それは見たくもない不細工な男に言い寄られているのと同じようなものである。だが、今から話をする相手だ。いきなりだんまりや辛辣な言葉を浴びせるのも問題がある。必要最低限レベルの礼をするのが妥当と思えた。
 そのまま、綾芽は男の次の言葉を待つ。しかし、男は何かを思案しているようで、綾芽の観察を終えた後は視線を外し、腕を組んだまま微動だにしなくなった。二人の動きがなくなると、辺りは川を流れる水の音だけが占める。
 そして、時間が冷めきった風とともに過ぎ去っていった。

「特に前口上はないようですね。早速本題に入らせて貰っても良いでしょうか?」

 先に動いたのは、綾芽のほうだった。綾芽自身は早く事を済ませたい──いつ身体の奥底に眠る闇が、綾芽を勝手に動かし始めるか判らないから──のだが、男には急ぐ気がまったくないらしい。

「まあ、慌てるな。私の思惑通りに事が進むのであれば、決してお前との付き合いは短いものにはならないからな」

 常人の返答から2テンポ程遅れて発せられた男の次の台詞は、早く終わらせたい綾芽の意向を完全に無視するものだった。

(思惑通り……?)

 訝しげに思い、綾芽はその美しい額に少し皺を寄せた。その言葉から男が彼女を殺しに来たのではなく、連れて行くことを目的としているのは想像できた。もしそうならば、彼が欲しているのは『霧生院綾芽』ではなく、『闇の力』であろう。しかし、この自分と同じ闇を感じる男にどういう能力があるのかは判らないが、少なくとも自分だけを見れば殺す事しか能のない……ただそれだけの力を、同じ力を有しているであろう同族が欲する理由が判らなかった。

(まさか、この男が自分を恋愛対象に選んだなんて事は、ないでしょうけど……)

「取り合えず、名前を訊いておこうか」

 色々と男の思考を読んでいる間に、突飛のない至極無難な言葉が掛けられた。異質の者達が交わす会話にしては、あまりにも普通な内容だと綾芽は内心ほくそえんだ。

「人に名前を訊くのなら、まず自分から名乗ったらどうですか?」

 返答に少し冷たいものを含めておいた。馴れ合うつもりはない……その事を暗に伝える。しかし、男はそれに対し何か心を揺さぶられたような反応は見せなかった。

「嘉峨……剣堂(かが・けんどう)」

 判りやすいように、苗字と名前の間でやや間を空けて名乗る。何か、名前の渋さに自分と共通するものがあるなと綾芽は感じた。もちろん、それで親近感を覚えたという訳ではないのだが。
 しかしこれで、綾芽も名乗らなくてはいけなくなった。彼女自身、訊きたいことがあるのだ。馴れ合うつもりがなくても、むやみやたらと男の機嫌を損ねるような行為は慎むべきだろう。男が素直に応じたように、綾芽も普通に応じることにした。
 ……が。

「私の名前はき……」

「霧生院綾芽……だな」

(えっ!?)

 先に名前を言われた綾芽は狼狽する。表面上は出していないつもりだったが、男の鋭い眼光は、その僅かな変化を見逃さなかったらしい。その証拠に、僅かに……本当に注視しないと判らない程度に、嘉峨の表情が笑っていた。

(まさか、警察機構の関係者?)

 瞬間、そう訝しげる。だが、自分と同じ黒一色の出で立ち。そしてその全身からにじみ出る闇の気配から、真っ当な人間が持つものを感じ取る事は出来なかった。

「心配するな。半日もあれば、女一人の名前を調べることぐらい素人にでも可能だ」

 嘉峨はそう言ってのける。しかし、その街に住む者ではない彼が、一体どういう手段で自分を調べ上げたのか、綾芽には想像できない。それに、調べ方によっては、まったく関係の無い者にまで色々詮索されるようなことになりかねない。いい感じなど決してしなかった。

「名前を調べる……なぜ? 調べてどうするつもりだったのですか」

 元より自分に会うつもりだったのだろう。ならば、今訊いたように本人に直接訊けばいいのだ。どうも男の行動が腑に落ちない。
 男はやはりすぐさま返事をしなかった。その答えを待ちながら、綾芽は色々と自分なりの想像を膨らませる。しかし、その答えは想像とは違う、彼女の神経を逆撫でするものだった。

「特に意味はない。ただ、夜まで時間を潰すのには丁度良いかと思っただけだ。用があるのは、昼間のお前ではなくて、夜のお前だからな」

(ただの時間潰しで、ストーカーみたいに人の周りをこそこそ嗅ぎ回っていたのですか……)

 人とは明らかに違う能力を持っている……その点を除けば、彼女は誰もが認めるごく普通の精神を持った女子大生だ。そう言う行為をされれば、苛立つのは当然だろう。思わずその美しい眉間に皺を寄せ掛ける。
 だが彼女は、その感情を無理やり押さえ込んだ。男が一体何の目的で自分の前に現れたのかは判らない。しかし、嘉峨の持つ特異な雰囲気が、この男の前で弱い部分を見せてはいけないと言う危険信号を作動させる。わざわざ名前を調べたのは、相手の動揺を誘い心理面で優位に立つ手法かも知れない。これ以上、心が乱されていることを見せないようにするべきだろう。

(自分が欲しい情報を聞き出すことに集中しないと、この男の思う壺ね)

 そう考えた綾芽は、一度落ち着き、平静に戻してから、嘉峨の先程の台詞を反芻する。そうして、その後半に気になる部分があることに気がついた。

「……夜の私に?」

 そのまま鸚鵡返しに、気になった部分を呟く。
 意外にも、今度の返答は早かった。

「この期に及んでとぼける必要性はない筈だ。お前が私と同じ『闇を纏う者』だという事は、昼間見たときに既に感じていた。お前も、私の闇を辿る事が出来たからこそ、ここに来れたのだろう?」

 綾芽の嘉峨の思考には多少のずれが生じていたらしい。綾芽自身は端から相手に
正体が知れていると思っていたのだが、嘉峨のほうはそう思ってはいなかったようだ。その部分を正そうと口を開きかけた瞬間、綾芽の心臓を直接突くような言葉が掛けられた。

「24日の惨殺体。あれは綾芽……お前の仕業だな」

(!!)

 心臓が小さく跳ねる。嘉峨の言葉に動揺した彼女は、苗字ではなく名前で呼ばれたことに気づいていなかった。
 感づかれているとは思っていた。しかし、相手がどういう素性の者であれ、隠し続けていたものをあっさりと言い当てられると、少なからず心を揺らされるのは止むを得ないことだろう。今回も表面上は隠したつもりだったが、男には嘘発見器のような発汗センサーでも付いているのか、また微妙な笑みを見せていた。

「それを訊いてどうするつもりですか?」

 先程までの口調よりもさらに事務的に。聴く者によっては、小馬鹿にしているとも取れる口調で綾芽は返答する。しかし、この話相手はこういう扱いに慣れているのだろうか、まったく意に介した様子もなく、再び間が空いてから返事が返ってきた。

「ただの確認だ。別に誰にも言ったりはしない。それと、今朝の骸たちは私が作ったものだ。これで条件は同じだろう? もっとも、いちいちそれを伝える必要性などないのだろうがな」

「そうね……」

 綾芽はそれ以上否定をしなかった。本当は確認する必要などないのだろう。わざわざ聴くのは、男の性分なのか。必要外の事は喋らないという印象があったのだが、意外とよく喋る男だと綾芽は感じた。

「私に用があるから、ここの来たのだろう? 違うか?」

「……判っているのなら話しは早いですね」

 先程から、ずっと嘉峨のペースで話が進んでいたため、こちらの話を切り出す機会を失っていたのだが、意外にも嘉峨のほうから会話を促された。内心ほっとすると同時に、こちらの考えていることをすべて見透かされているような嫌な感じが、喉を渇かすのを早める。
 いや、喉が渇くのは、これからこの男に問う、その内容がさせているのかもしれなかった。
 今まで誰にも聞いたことなどなかった。当然のことだ。架空の人物を立てて遠まわしに聞くことすら憚られる。だが、この男なら……この自分と同族であろうこの男なら、この質問を投げかけることになんら問題はない。
 無論、まともな回答が得られる保証などありはしないのだが……。

(そのために、わざわざ危険を冒してまでここまで来たのですから)

 そう心の中で呟き、口腔内に少しばかり溜まった唾液を飲み込むと、綾芽はその綺麗な形の唇を開いた。

「あなたが闇の力と呼んでいるこの力……。あなた自身がこれをどう思っているのかは知りません。ですが、私には不要なものです。だから、この力を封印する方法を聞きに来ました。あなたなら何か知っているのではないですか?」

「知らんな……」

(え?)

 書き記せばたったの4文字と言うその短い返答は、ゼロコンマ何秒という単位で返ってきた。あまりにも早かったため、瞬間彼女は答えが帰ってきたという事実に気づけずにいた。何を言われたかを頭の中で復唱し、その意味を理解し、ようやく彼女は失望する。
 無理にその心情を隠すような真似は、彼女はしなかった。

「これだけの優れた能力を何故封じようとする? 望んでも得られるものではないのだぞ?」

 それだけ言うと、嘉峨はコートの内ポケットに手を入れる。そこからライターと煙草の箱を取りだすと、嘉峨は器用にも両方片手で持ったまま、煙草を取りだしそれをくわえ、火をつけた。

「私は光の中で平穏に過ごしたいだけです。そのためにはこの力が邪魔なことぐらい、あなたなら判るでしょう」

 確かに優れた能力だ。本来人間が持っている力の限界を、遥かに凌駕する素晴らしいものだ。だが、光のあるところでは使えず、闇が訪れれば人を殺めることに使わずにはいられない。月明かりが肌を照らす今日でさえ、目の前の男が大量の血を流し、倒れ伏している場面を想像してしまうのだ。夜になれば誰にも会うことなく自室に篭り、自分自身の力と殺意に怯えながら、眠りにつくのをただひたすら待つ……それの繰り返し。そんな状況下で、いつまでまともな精神でいられるのか、彼女自身わからないのだ。もし、自分が壊れてしまった時、一体どれだけの人間の命を奪うのか、まったく想像できない。
 そうなる前に、捨てなければならないのだ。
 だが、それを聞いた嘉峨の肩が微妙にゆれ始めた。不思議に思い、改めてその表情を観察すると、その口元に先ほどまでは入っていなかった力が加わっているのがわかった。
 笑っていたのだ。
 綾芽の話を聞き、その内容を理解し、その上で……。

「何がおかしいのですか?」

 その行為に、侮辱めいたものを感じた綾芽の語気が思わず強まる。
 しかし、返された言葉は、彼女にとって辛辣なものだった。

「光の中で平穏に……か。今更どう平穏に過ごそうというのだ……。一体今までいくらの人間を殺した? 一人か? 二人か? それとも数えられないか? そのような者が平穏無事に過ごせる場所など、光の中には存在しない」

 言われて綾芽は押し黙った。殺しの手口が余りにも人間離れしているため、今のところ彼女に捜査の目が向いたことはない。だが、絶対に自分が安全だと言う保障はないのだ。もしかすると明日、何気ない日常から手を引かなくてはならないかも知れない……そんな恐怖を常に身に纏い生きてきたのだ。
 そう、いちいち言われなくても判っていることだ。今更、闇の力がどうこういったところで遅いのかも知れない。
 だが、捨てたくなかった。せっかく手中にした昼間の安息を。大切な仲間との安らぎのひとときを……。
 嘉峨がまたコートに手を入れる。今度は逆の内ポケットに手を入れると、意外にもそこから携帯灰皿が出てきた。その口を開け、慣れた仕草でそこに灰を落とすと、灰皿だけを懐に戻し煙草は指に挟んだまま喋りだした。

「俺の元に来るんだ、綾芽。お前がいるべき場所はそこではない」

(なるほどね……)

 今の言葉で綾芽は嘉峨の目的を理解した。嘉峨の目的は、自分の仲間となる人間を探し出すことだったのだ。確かに、その目的であれば「付き合いは短くならない」と言う発言も納得できる。
 だが、綾芽には男に着いて行く気など毛頭なかった。彼女の目的はあくまでも、光の中で生きて行くことなのだから。
 しかし、自分以外の闇に興味がない事はなかった。先程嘉峨は自分の質問に対し何も知らないと答えた。とぼけたのか本当に知らないのかは読み取れなかったが、もしかするとこの男との会話の中に、何か自分のためになる言葉が潜んでいる可能性はある。

「闇の中になら平穏が存在するとでも言うのですか?」

 改めて男の目を見つめながら、いかにも興味があると言う素振りで言う。
 だが、また瞬間で返ってきた嘉峨の答えはあっさりとしていた。

「今はないな」

(……)

 言われて、綾芽は二の句が継げなくなる。どうも、この男の会話ペースとは合わせ難かった。
 しかし、それで終わりかと思った台詞には続きがあった。

「綾芽よ。何故我々は人目に隠れて生きていかなくてはならないと思う」

 それだけ言うと、再び煙草を咥える。その間、嘉峨は綾芽から視線を離さなかった。

「人を殺すことが、人として正しい道から外れているからでしょう」

 長い者なら百年という、気の遠くなるような時を歩むはずの人生を、瞬間的に終わらせる。そのような罪深き行為が許されるところなどない。そんな事は小学生の低学年でも知っていることだ。
 だが、嘉峨は意外な事を言ってきた。

「なら、その『人として正しい道』を作ったのは誰だ。光の者たちではないのか? そのようなものが存在するから、我々闇の者が苦しむ……そう思わないか? 綾芽」

(また変わったことを考えるわね)

 確かに、殺人がまかり通る世の中があるのならば、自分が裁かれる事を恐れる必要などないだろう。だが、人間は数千年もの昔には既に同族を殺めることを重罪と定義し、同族と協力し合ってここまで発展してきたのだ。それが間違えているとは決して思わなかった。
 それを根底から覆そうというのだろう。人間が築き上げてきた『歴史』に喧嘩を売ろうという考えに、綾芽はどういう反応をすればいいのかわからなくなってしまった。

「闇の者だけが集まる場所……そういうのを造らないか? 我々の造る常識だけが通用する世界。それが存在すれば、自らの正体を隠すことなく生活することが出来る。お互いが理解できる闇同士なら、お前のいう『平穏』も生まれるだろう」

「それは極論でしょう。例え闇同士で平穏が作れたとしても、社会が生み出せるまでの人数を集めるだけに、どれだけの時間が掛かると思っているのですか?」

 すぐさまそう切り返す綾芽。社会を造るのに、少なくとも二桁の人間はいるだろう。だが、今現在嘉峨のまわりに誰か他の人間がいるようには見えない。
 それと、例え人が集まったところで、闇の者同士での殺しが続けば、すぐさま滅んでしまうだろう。あと、この日本各地で他の人間の目が向かないところが存在するのかも問題だった。

「少なくとも、私たちが生きている間は難しいだろうな。だが、各地にいるであろう同族のためにも、私たちが不自由なく過ごせる場所を作らなくてはならないのだ」

「同族のため……ですか」

 仲間のために、自らの幸せは放棄する。なかなか素晴らしい考えだ。自らの幸せばかりを考え、殺人者という現実から逃げようとしている自分とは大きく違うと綾芽は内心苦笑いした。

(色々と捻じ曲がってはいますけどね)

 一応、頭の中でそう付け加えて置いたが……。

(けど……)

 しかし、そこで一つ疑問が発生した。

「一つ質問があります。私は今まで自分と同じ力を持つものに出会った事はありません。どうもあなたの口ぶりを聞いていると、沢山仲間がいるように聞こえますが、どのぐらいいるのかご存じなのですか?」

 早速その疑問を嘉峨にぶつけてみた。夜になればその力を抑え難くなる。そんな能力の持ち主が沢山いるのであれば、テレビや新聞をにぎわす猟奇殺人はもっと多いだろう。しかし、彼女の耳に今までそういうあからさまに不自然な殺人の情報は入ってきていない。敢えて挙げるなら、昨日のこの男が起こしたものぐらいだろうか。

(いや、もう一件あったわね)

 ふと、綾芽は数年前、ニュースを賑わせたとある事件を思い出した。
 彼女の力が目覚める前の話を。

「どのぐらいいるのかはわからん。ただ、私たち二人だけでない事はわかっている……。念のために訊くが、6年前の北岡山中の連続殺人。あれは綾芽、お前ではないな?」

 案の定、嘉峨の言葉の中には、今自分が思い出した地名が含まれていた。
 北岡……西の方では比較的名の知れた温泉地だった。だが、ある事件を境に客離れが起こり、今ではすっかり閑古鳥が鳴いている状況だという。
 その事件が、冬の深夜、宿泊施設から離れた山中で起こった6人の連続殺人事件だった。旅行者をも巻き込んだその殺人は、犯人を特定する事はおろか、人間の仕業かどうかを判別することすら出来なかったらしい。
 当時は不可解な事件もあるものだと、大した興味も持たず片付けていたのだが、今思い出してみると、それは自分の同族の仕業だったのだろう。もう少し興味を持っていたらと、今更ながら後悔した。
 だが、その事件に対する知識があまりなくとも、はっきりとわかることがある。それは、その犯人が自分ではないことだった。

「私は北岡には行ったことありません」

 その事実を嘉峨に伝える。北岡はおろか、綾芽はそもそも西日本に足を踏み入れたことすらないのだ。例え自分が夢遊病患者だったとしても、いくらなんでも寝ている間にそんなところまで足を運ぶ事は出来ないだろう。
 その答えを9割9分予測していたのだろう、嘉峨の表情は一切合財変わらなかった。

「やはりな……。私はその事件の少し前、あの周辺で闇を感じる女とすれ違ったことがある。本当はその女を捜していたのだが……まあ、お前と出会えたのは予想外の幸運だったな」

 もう間違いなく自分を連れて行くつもりでいるのだろう。だが、彼女には毛頭その気はない。これ以上話をしても有用な情報が得がたく感じてきた綾芽は、そろそろ切りを付ける事にした。

(簡単に諦めてくれるといいのですが……)

 淡い期待を胸に、取り合えず牽制を放つ。

「幸運ですか……。私は不運だと思っています。あなたは私が求めていた答えを知らなかった。それどころか、私を更なる闇に引き込もうとしている。そんな出会いが、幸運な訳ないでしょう?」

 言葉の上では丁寧に。しかし、先程までとは違う凛とした声で嘉峨に臨む。だが、明らかに態度を変えたにも関わらず、嘉峨は何ら特別は反応は見せずにそのまま会話を続けてきた。

「私についてくれば、いずれ幸運だったと思える日が来る。それよりも、このまま光の中にいれば、いずれ大きな不幸に晒される可能性が高い。その前に、闇の中に入っておくのだ。その方が綾芽、お前のためになる」

「お断りします。6年間探して、見つかった同族が2人だけで、社会が創れるなんて馬鹿げた話に乗るよりかは、光の中で安心して生きて行く方法を探す方がまだ賢明ですから」

 間髪いれず、先程と同じ態度で切り返す。いい加減、綾芽が自分を切り離そうとしている事くらいわかっているだろう。だが、続く嘉峨の台詞にも相変らず、口調や態度の変化が見られない。相手の揺さぶりにまったく動じず、常に自分のペースで物事を進められるところがこの男の強みなのだろう。
 そして、その言葉に、綾芽の態度の方が逆に崩れてしまった。

「私たちが生きている間は難しいといっただろう。あくまでも後世の為のものだ。それと、別に同族の者が見つからなかったとしても、極端な話、男と女1人づついれば問題はない」

 瞬間、言われた意味を理解し損ね、思わず眉を顰める。そして、反芻して綾芽は思わず目を見開いた。

「闇の者同士からなら、闇の者が産まれるとでも言うのですか?」

 思わず声音が変わる。男と女が一人ずついて、取り合えず出きる事といえば、子を生す為の行為。それ以外は考えられなかった。

「元より、この能力は生まれつきのものだ。隔世遺伝か遺伝子異常かまではわからん。が、同じ力を持つ者同士が交われば、似たような力を持つ者が産まれてくる可能性が大きい筈だ」

 確かに、力に目覚めたのはそう遠い昔の話ではないが、暗闇の中に身を置くと何か普段の自分とは違うものが身体の中で蠢くのは、物心がついた時から感じていた。この力が後天的なものではなく先天的なものだというのは、綾芽自身もわかっていた。
 だが、先天的か後天的かなどという事は今の綾芽にはまったく関係のないことだった。好きでもない者……それも、自らが嫌悪する同族に「俺の子を産め」と言われて、気分が良い訳がない。
 しかも、闇の子をだ。
 嘉峨の考えにも共感する部分はあった。不幸体質の闇の力を持つ者達を救おうという考え自体、間違っているとは思わない。
 だが……。

「……お断りします! 自分の力を忌み嫌っているのに、その力を持つ者を自ら作り出すなんて事に協力するつもりなんか、毛頭ありませんからっ!!」

 ついに綾芽は感情を抑える事無く声を発した。恐らく、昼間の彼女を知る誰も見たことがない表情で。
 恐るべきことに、それでもその美しさが褪せる事はなかったのだが……。
 兎にも角にも、これ以上不幸になるとわかっている人間をわざわざ産み出すつもりなどあるわけがなかった。
 その激しい拒否反応に、嘉峨が眉をしかめた。声を荒げた程度で表情を変えるとは思えなかったのだが、その目から意外なものを感じ取った綾芽の怒りが薄れていく。遥か昔、綾芽がまだ生家で過ごしていた頃……それも古い記憶。駄々をこねた自分を見る母親の目と、その目に何故か同じものを感じだからだった。

「何故にそこまで闇を嫌う? このまま光の中に身を置いても、いつかは破滅の道を辿る。そうさっき言ったはずだ。光の中にいる時間が長いほど、破滅の際に受ける傷は大きくなる。光に固執するのはやめるんだ。綾芽よ」

 表情を元に戻し、例の調子で再び語りだす。先程までと同じ闇への勧誘……。
 だが、綾芽は嘉峨が瞬間見せた表情が気になっていた。

「そういうあなたこそ何故そこまで闇にこだわるのですか? 光に馴染めさえすれば、平穏なんてどこにでもあるんです。そのぐらい、あなたも判っているはずです。なのに、何故そうなるような努力をしないのですか?」

 この男がどういう人生を送っていたのか、人の心を読み取る能力がない綾芽にはわからない。だが、この男こそ、何か闇にこだわり過ぎているような気がした。確かに、既に判っているだけでも3名の人間を殺しているこの男が、ごく普通の生活を続けられる保証がないのは分かる。だからといって、そこまで光を拒否する必要性があるのだろうか? 理由があるのならば、一体それはなんなのか?

「その訳を今この場で言うつもりはない。お前が私の元へ来るというのなら、いずれ教えてやろう」

 結局、嘉峨は答えなかった。同じ力を持つ者が歩んだ、自分とは違う道には興味はあったが、損失を被ってまでして聞き出そうとは思わなかった。
 首は動かさずに視線だけを動かし、嘉峨の遥か後方に見える空を見る。常人ならばはっきりと目視する事は出来ないであろうその空には、どす黒い雲がかなり増殖していた。あの雲が月を覆い隠せば、のんびり会話している場合ではなくなるであろう。
 別段、嘉峨に危害を加えるつもりがある訳ではないのだ。それに、例え闇の力を使ったところで、この男を倒せる保証はない。一口に闇の力と言えど、まったく同じ力なのか、どのぐらいの力量の差があるのか、それともまったく別の力を持っているのか、全然わからないのだ。これ以上、この場に留まる訳には行かなかった。

「そんな交換条件で、あなたの元に行くつもりはありません。もっとも、どんな条件を突きつけられても気持ちは変わりませんが……。私は、光の中で過ごして行きたいのです。ですから、あなたに協力する事は出来ません。あなたから闇の者が光の中で生きて行く方法が聴けないのなら、もうこの場にいる必要もありません。失礼させていただきます」

 言い終えると、嘉峨の了承を待たずに踵を返し、来た道を戻り始めた。一歩踏み出すたびに、男との距離が確実に広がっていく。
 瞬間、そのまま見逃してくれるのかと思った。だが、それなりに距離は離れたはずなのに、大して声量を変えたとも思えなかったその言葉は、しっかりと彼女の耳へと届いていた。
 綾芽の予想した通りの内容で。

「あいにくだが、お前をこのまま帰すつもりなど毛頭ない。そんなこといちいち言わなくても解っているのだろう?」

(このまま振り切っても、しつこく探すんでしょうねきっと……)

 嘉峨が諦めるまで断り続けるしかないだろう。とりあえず足を止め、振り返らずにそのまま話し掛けた。

「私の気はいくら待っても変わりませんよ? 別の方を当たってください」

 その他の方がほとんどいないという事実を聞いた上で、敢えてそう冷たく言い放った。話術では相手の方が上だという事は承知しているが、実力行使は避けたかった。このまま話し合いで済まさないといけないだろう。
 だが、その予定を速攻変える必要性が出てきた。

「こちらとしても手荒な真似をするつもりはない。だが、お前が変わらないと言うのであれば、こちらが変わるように仕向けなければならないな。とりあえず、光の中にいられないようにするのが一番早いか……」

(!?)

 ぎくりとして慌てて振り返る。淡々と語られたその言葉に含まれていた危険性は、綾芽の心拍数を変化させるのに充分な効果を持っていた。

「な、何をするつもりですか?」

 思わずどもる。明らかに動揺しているのが判るだろう。しかし、この男なら普通の人間なら出来ないことを考え、実行するはずだ。そしてそれは、綾芽の生活に甚大なる被害を与えるに違いない。
 じっくり考えているのか、また会話のテンポを変えているのか、嘉峨の返事が遅れる。その間に、綾芽は予想される回答を思い浮かべ……。
 そして、覚悟を決め心拍と共に狂っていた呼吸を整えた。

「取りあえず思いつく限りでは、お前が頼る光の者を片っ端から消して行くか、その者達にお前の正体を見せるかと言ったところか。いないとは言わないだろう? 昼間、お前を連れて行った少年……あいつはお前にとって特別な存在の一人な筈だ。違うか?」

「……」

 綾芽は答えない。黙り込んで、じっと嘉峨を見つめている。
 いや、睨むと言った方が正しいか。呼吸は整い、既に準備は完了している。
 その間、嘉峨は煙草を喫う一連の動作を行っていた。綾芽の返答が期待出来ないと判断したのだろう、言葉を続けはじめる。

「別段、私はお前に好かれたいと思っている訳ではないからな。最終的に私の目的を達する事に協力しえくれればいいだけだ。無論、従順であるならばそれに越した事はないがな……。取りあえず、逃げないよう身柄の確保だけはさせてもらう。そのための手段を選ぶつもりはない」

 その言葉を機に、綾芽は動き出した。

「……分かりました」

 そう一言だけ言うと、防寒用の黒のロングコートを脱ぎ始めた。タイミング良く強く吹き抜けた、氷をナノ単位ぐらいにまで砕いたような風が防具を外した彼女を襲うが、集中を始めた彼女はまったく去に返さなかった。二つ折りにしたコートを無造作に地に放ると、嘉峨に向き直り、自分の意思を伝えた。

「嘉峨さん……でしたね。今すぐ、この町から出て行ってください。そして、二度と私の前に姿を現さないで下さい。それが出来ないというのならば、立ち去るまであなたを攻撃します」

 揺るがない意思を含んだ声。今の彼女を前にして、今の言葉を冗談と取れる人間はいないだろう。例え、彼女の本性を知らない者だとしても。
 綾芽は少し身を前屈にし、両手の拳を胸の辺りへと持ってきた。その目つきは獲物を狙う肉食獣のそれと近づいている。しかし、嘉峨はまったく意を介さず、再び煙草を吹かせ始めた。

「応答がない場合は、非承諾と見なしますよ?」

 脅す。その一言に、ようやく嘉峨は反応した。
 ただし、見せた表情は笑い。それは、綾芽の脅しがまったく通用していない証拠だった。

「くっくっく……。面白いことを言うな、綾芽」

「……可笑しいですか? 私が攻撃を始めたら、笑うことなんかできませんよ。出来れば、そうなる前に引くことを願います」

 内心無駄だと思いつつも、もう一度繰り返す。こうなればもう変な気を起こすつもりがなくなるまで、相手を痛めつけるしかないだろう。だが、先程から見せている嘉峨の余裕が気になった。綾芽が持つ力の危険度を認知しているはずなのに、それを恐れる様子がまったく見受けられない。
 何か、物凄く危険な感じがする。だが、もはや引く訳には行かなかった。

「やるつもりなら、さっさと来るが良い。元より、お前の力を確かめたいが為に、この時間を待っていたのだからな」

(『用があるのは、夜のお前……』ね。そういうことでしたか……)

 自分の方が確実に上……嘉峨にはそういう自負があるのだろう。だが、綾芽は嘉峨の力を量り知ることが出来ない。相手の実力を量れない以上、本来ならば殺すつもりで掛かるべきだ。だが、彼女は闇の力を制御することが出来ない。力を暴走させてしまった場合、目の前の嘉峨はおろか、関係のない者まで巻き込んでしまう可能性がある。それだけは避けなくてはならない。
 だから、彼女はもう一つの力を使うことにした。

「引く気はなしですか……。ならば、多少の怪我の覚悟だけはお願いします」

 言うと同時に、音もなく一気に彼女は嘉峨との距離を詰めた。そして、手を伸ばせば届く距離まで詰め寄ると、あっという間に鉤爪状に形作った右手を嘉峨の首へと押し付ける。その動きに、一切の無駄は存在しなかった。明らかに、訓練した者のみが可能な動きだ。
 その間、嘉峨は一歩も動かなかった。それどころか、右手の指に挟んだままの煙草の位置すら変わっていない。だが、反応できなかったのではない。走り出してから右手を突き出すまで、嘉峨の目はしっかりと綾芽の動きを追っていた。つまりは、寸止めすることを見越していたか、この状態からでも対処できる自信があるか……そのどちらかだ。

「何の真似だ?」

 首元に鉤爪を押し付けられたまま、嘉峨が問う。それが、攻撃してきた事に対してではない事は明白だった。近くにいるだけでその存在を感じ取れることができるのだ、その力を使ったかどうかぐらい一目で……いや、見ずとも判るだろう。
 そして、それが嘉峨が望んだ攻撃と違うことを綾芽は理解していた。

「殺法と呼ばれている、古来より私の家系に伝わる暗殺術の一つです」

 いつ嘉峨が動き始めても良いよう、全身の神経からあらゆる情報を読み取ることに集中しながら返答した。
 ……実は、綾芽が持つ人殺しの力は、先程から双方が『闇の力』と呼んでいるものの他にもう一つあった。彼女の先祖である霧生院一族は、戦国時代暗殺を生業としていた一族で、日本から内戦が無くなった今も、その技術だけは受け継がれてきたのだ。今の霧生院家の一人娘である彼女も、例外なくその技術を親に叩き込まれ、今や生きる秘伝書と言えるまでの技術を身に付けていた。先日、ボウリングの際に見せた器用な面も、幼い頃から色々身体能力を鍛え上げられたものの一環だった。
 これも、滅多に人には言えない力ではあろう。だが、それは彼女にとって、どうしても隠し通さなくてはならないようなものではない。人殺しの技とはいえ、この日本にあってそれが実用されていないという事は、誰の目にも明白なことだろう。家庭の事情で技を覚えているが、護身術程度にしか使わないと言えば、大方の人間は納得するはずだ。それに、この力は殺人を目的としたものとはいえ、使い方を変えれば簡単に制御が利く。だから、綾芽自身それほどこの技自体を毛嫌いはしていなかった。
 この技なら、適当に相手を痛めつけ撃退することも可能だろう。だが、それは普通の人間が相手の話だ。目の前にいる男はどこをどう見ても普通の人間とはいえない。自分自身が、普通の人間と呼べないことを数年前から認識しているのと同じように。
 それと、不安はもう一つ……。

「念のためもう一度聞きます。今は寸止めしましたが、引かないというのであれば、この爪を引きます!怪我をしたくなければ、この場を去ってください!」

 その不安を悟られないよう、凛とした声でそう宣告する。しかし、それを聞いた嘉峨は口元の端を少し吊り上げた。どういう意味で笑ったのかは判らなかったが、それが綾芽にはすべてを見透かされているような気がしてならなかった。

「無駄な労力とだけ言っておく。お前の力を観察できない事は残念だが、大人しくさせるという目的を達するためならば、こちらとしては好都合だ。闇の力で勝負するか、その技で勝負するか、好きにするが良い」

 その回答はやはり拒絶を意味するもの。そもそも、何度も聞くこと自体無駄だったのだろう。嘉峨は首筋に爪を突きつけられていることに気付いていないかのように、煙草を口に咥え、喫い始めた。

「なら、覚悟してください!」

 意を決し、鉤爪を作ったまま手を引こうと、爪先にまでその情報を送った瞬間だった。

(!!)

 強烈な殺気を感じた綾芽は、慌てて地を蹴り、2メートルほど後方に飛ぶ。その直後、綾芽のいた空間を豪腕が薙いだ……かに見えた。しかし、よく見ると、嘉峨は煙草を咥えたまま先ほどと変わらぬ姿勢で立っていた。

「殺さないように手加減を考えているようでは私には勝てんぞ。全力でかかって来い。私の思惑通りにさせたくないのならな」

(確かにそのようですね……)

 言葉にはしなかったが、心の中で彼女はそれを認めた。今綾芽を後退させた殺気の中に、体感温度をも狂わす異質な力を感じなかったのだ。実際に振るった訳でもないのに、まるで建物解体に使う巨大な鉄球が通り過ぎたような錯覚に捕らわれる。
 彼女に内蔵されている危険感知センサーが、警告音のボリュームを最大値にまで高める指令を流した。闇の力を使わず、ましてや拳も振るわずに彼女を後退させたのだ。その上、綾芽が頚動脈を狙わずに、肩に狙いを変えようとしたことさえ見抜かれた。手を動かすところまで行かなかったにも関わらずだ。
 この男も間違いなく、自分同様殺人鬼の力を持つだけでなく、殺しの技を磨いている。それも、かなり高レベルのものをだ。全力で掛かったところで、勝てるかどうかも怪しい。加減することまで考えていたら、勝ち目など無いに等しいだろう。だが、大切な人達を守るためにも、この場を引く訳には行かないのだ。しかし、加減をして相手が引くことも望めやしない……。
 ならば、答えはひとつだけだった。

(やむを得ません。全力で殺しに行くしかないですね……)

 殺めは生まれて初めて、自らの意思で人を殺める決心をした。

「死んでも……恨まないでくださいね」

 そう宣告して、両手を胸の辺りに構え、少し背中を丸めたその時だった。
 その言葉が脳裏に響いたのは……。

(ソウヤッテ何カト理由ヲツケテ、殺人ヲ正当化スルノカオ前ハ……)

(……!!!) 

 嘉峨は黙ったままだ。先ほど少し見せた、嘲りを含んだ笑みは既に消えて久しい。煙草は今は右手の指に挟んでおり、綾芽の動きを待っているらしく、その冷たさを感じる細い目で彼女の挙措を監視している。決して、何かを喋ったという様子は見受けられない。
 だが、それは確かに綾芽の脳裏へと届いた。

「五月蝿い!!」

 本当に誰かが言った言葉だったのか、それとも綾芽の中に隠れたもう一つの人格が作った幻聴だったのか、彼女には判断する事が出来なかった。ただ、その言葉を掻き消さんがために彼女は叫び、目の前の殺人鬼に襲い掛かった。
 先程のように首元を狙いに行くように見せかけて、その腕の動きを途中で止めた。しかし、足の動きは止まっていない。結果、半身の状態でそのまま嘉峨に接近する形となる。
 そしてそのまま、鳩尾に左の肘が叩き込まれたかに見えた。だが、実際に命中したのは嘉峨の右腕だった。フェイントに惑わされることなく、しっかりその打撃をブロックしたのだ。
 だが、次の瞬間、その右腕から血が舞っていた。

「相当鍛えこんでいるな、その手先……」

 驚いているのだろうか? 表情をまったく変えずに嘉峨は言う。肘による攻撃をブロックされた綾芽は、そのまま左へとステップした。その際に左手の爪先を嘉峨の右腕に引っ掛ける。それだけで、厚手のコートごと皮膚を切り裂いたのだ。長年積んできた修行の成果。きめ細かい美しい肌の持ち主の腕に、こんな力が備わっているなど、誰が想像しようか。この武器で、相手の肉体を切り裂き、急所に指先を突き入れる……。これが、戦国時代数多の武将の命を奪ってきた、暗殺拳の極意だった。
 しかし、まだ嘉峨は余裕を見せている。今の攻撃も少し切り裂かれはしたものの、後ろに下がって深手を負う事は避けていた。その指先に挟んだままの煙草も落としていない。これ以降の戦闘に大した影響はなさそうだった。

「次ぎ行きます!」

 再び嘉峨に向かって綾芽は駆けた。嘉峨の視線がその凶器……綾芽の両手首に注視する。しかし、綾芽はその武器を使わなかった。左の足を上げると、踵で押し潰すようにして、右足の膝頭を狙う。だが、嘉峨は素早く反応すると、その右足を引いて綾芽の右側に回った。
 しかし、綾芽はその動きを狙っていたのだ。左足を踏み出した事で半身になった綾芽の、その正面に立った嘉峨の左脇腹を、今度は鉤爪ではなく指を手刀の形にして突き出した。まともに入れば、その腹筋を突き破り、内臓を破壊することも可能だったろうが……。

「甘いな」

 爪先が、皮膚を突き破らんとしたとろで、その手首が掴まれた。慌てた綾芽が次の行動に移る前に、嘉峨は右足で綾芽の右足を刈る。それと同時につかんだ手首を引くと、長身とはいえ軽量の彼女の身体が簡単に宙に浮いた。

(あっ!!)

 しまったと思った瞬間、嘉峨の右の掌が彼女の綺麗な顔を押さえつける。そして、嘉峨は全体重をその部分へと乗せてきた。

「うっ!」

 そこがアスファルトに固められた道路ではなく、川沿いの地面だったことがまだ救いだった。何とか宙で身をよじって頭をサンドイッチにされることだけは避けたが、即頭部をしたたかに打ちつけた綾芽は、歪む視界が戻るのを待たずに、自分の右腕を掴んだままの嘉峨の左腕を左手で薙ぐ。それで嘉峨が手を離したのを感じ取ると、素早く地面を転がり距離を取った。

「くくく……。今ので終わるかと思ったが、上手くかわしたな」

 とりあえず半身を起こし、嘉峨が襲ってこないのを確認すると片膝を付いたままの姿勢で回復を待つ。
 上手くかわしたのではなく、嘉峨がかわせるだけの余地を残していたに過ぎなかった。掌を押し付けたのではなく、頭部を鷲掴みにしていれば避ける事は出来なかっただろう。それをしなかったのは、なんて事はない、まだ指に煙草を挟んだままだからだ。
 半分片手落ちのような状況でも余裕を見せつける。嘉峨はまだ自ら攻撃を仕掛けては来ていない。これで相手から攻められようものなら、ひとたまりもなくやられるかもしれない。

「どうした。もう攻撃手段が尽きたか?」

 そんな不安に駆られた綾芽を挑発する嘉峨。それを聞いた綾芽の闘争心が再び燃え上がった。

「まだ始まったばかりです」

 そう、自分は相手の攻撃を一発喰らったに過ぎない。そう自分に言い聞かせて、再び攻撃を再開した。相手の動きを止める事を狙いとした、足技による打撃。そして鍛え上げた手刀で急所を、鉤爪で動脈を狙い右手、左手を繰り出した。しかし、そのことごとくがかわされ、払われ、止められる。
 そんなことを繰り返しているうちに、当たらないことに焦り始めた綾芽の動きがだんだん雑になり始めた。嘉峨はそれを待っていたのだろう。大きなモーションで突き出してきた右の手刀を左に動いてかわすと、がら空きになっていた綾芽の鳩尾に拳を叩き込んだ。

「……っ!!」

 ろくに悲鳴を上げることもできずに、カウンターで嘉峨の拳を貰った綾芽はその場にうずくまる。嘉峨の追撃を懸念して何とかしゃがんだまま後ろにステップするが、うまく身体を支えることができずに、着地の際に尻餅をついてしまった。起ち上がろうと身を起こしはしたが、腹部の激痛で身体をまっすぐに立てることができない。
 それでも、綾芽は上目使いで嘉峨を睨む。見れば、嘉峨は綾芽を小馬鹿にするかのように、煙草を喫ってその回復を待っていた。

「綾芽よ。確かにお前の技は人間を殺すのに適している。まともに当たれば、一発で片付けることもできるだろう」

 ふーっと、口から煙を吐く。闇の中にその白い煙が溶けて行くのを見届けてから、言葉を続ける。

「だが、その技はいったいどれぐらいの間、実用を成していない? 実戦から遠ざかったまま受け継がれてきた技など、私には通用しない。大体……」

 そこで半拍置いてから、言った。

「お前は、この力で人を殺してはいないだろう?」

(あっさりと見抜かれたわね……)

 その通りだった。戦闘前、綾芽が抱いていたもうひとつの不安……それが、この技の実戦投入が初めてだったことだった。当然のことだが、模型の人形相手にその手刀を突き刺したことはあっても、自分の意思で人間相手にその手首を突き入れたことはない。実戦形式の模擬戦闘は行ったことはあっても、それはすべて寸止めで終わるものだ。
 先ほども述べたとおり、今の日本にあってこの力は必要ないのだ。
 明らかなる実戦不足。それが、目の前の男に翻弄されている原因だった。だが、今の日本において実戦経験が不足しているのは、相手の嘉峨も同様だろう。しかし綾芽には、その動きが訓練のみで得られたものにはどうしても思えなかった。今までの動きの中で特にその武術の名前を特定できるものはなかったが、明らかにその腕で、足で、人を傷つけ、殺すことに慣れている。単なる喧嘩で鍛えたようなものとは違う……。

「私はこの数年間、自分と同じ力を持つ者を求め全国を旅してきたと言ったな?」

 唐突に話が飛んだように思えて、睨み付ける力が少し弱まる。確かに嘉峨はそれらしきことを言っていたが、そのことと今話していることがどう関係しているのかがわからなかった。
 その不明点は、次の嘉峨の台詞で合点がいった。間は空けてはいるものの、始めから返答を期待してはいなかったのだろう、勝手に続きを話し始めた。

「その私がどうやって、旅をしながら収入を得ているのか、考えてみるといい。おのずと、私が何を言いたいのか解るはずだ」

 そこまで言われれば簡単だった。この、殺しの技に長けた男が、収入を得るのに一番手頃な仕事……。
 流れの殺し屋。
 今の話の流れから考えて、それ以外を考える必要などなかった。確かに、そう言われれば心当たりがないでもない。嘉峨は綾芽に会う前から彼女の名前を知っていた。半日もあれば素人にでも調べられると本人は言っていたが、一流の殺し屋ともなれば、都合のいい場所、時間を見繕うために、ターゲットの身の回りを洗うことぐらい造作もないだろう。その技術の一環を使えば、名前ぐらいは簡単に調べられるはずだ。
 いや、それだけではない。もしかすると、今の綾芽に不利なことまで既に知っている可能性もある。彼女の両親……父親はともかく、母親は普通の人だ。狙われると一溜まりもないだろう。それ以外にも、人質に都合のいい綾芽の大切な存在に気づいているかもしれない。既に会っている輝和はともかくとして、康斗や有志……。
 そして、千春にも。

(やはりこの男は危険すぎる。でも、このままでは勝ち目はない……)

 暗殺を生業とした一族の末裔は、ここで敗北を認めた。負けを認めた以上、それ以降の選択肢は大雑把に区分けすると三つ。降伏するか、逃げ出すか、潔く散るかのどれかだ。
 しかし、綾芽という個人は、まだ敗北を認めてはいなかった。
 ちょうどその時、空を覆いかけていた大きな雲が、月明かりを陰らさんとしているのが目に入った。

「その古武術に頼っている限り、お前には勝ち目はない。私に捕らわれたくないのであれば、闇の力を使うがいい。ちょうどいい頃合になりそうだしな」

 嘉峨もそれに感づいたようだ。再び彼女の隠された力を催促する。

(素直に応じるしかなさそうですね……)

 もう、あの力を使うしかない……そう綾芽は覚悟する。どの道、月明かりがなくならんとしているこの状況下で、手負いの自分があの力を抑え続けることは不可能だろう。
 ならば、これ以上不利にならないうちに、目の前の男を消し去るのみ……。
 ふと、辺りが暗くなった。月が完全に雲の中に隠れたのだ。いや、実際のところ、この深夜でも灯り続ける都会の光がある限り、月が隠れた程度で暗くなった事を感じなどしないだろう。だが、この人気のない河原で対峙する異質な二人は、その光源の損失を敏感に感じ取る。それと同時に、抑え難き殺人衝動が湧き上がってきたのも、綾芽は感じ取っていた。もしこの場に人がいれば、その凍てつく殺気に心臓麻痺を起こしたかもしれない。
 どちらが上かなどわからない。例えこの男と倒したとしても、その後自分がどうなるかもわからない。
 完全なる賭け……しかし彼女は、その一か八かに頼らざるを得なかった。
 スサッ……
 彼女はゆっくりと起ち上がる。それと同時に発せられる衣擦れの音。普段自分の立てる音など気にも留めない。だいたい、コートを脱ぎ捨てた彼女が立てる音は小さいはずなのに、側を流れる川のせせらぎに掻き消されることなくはっきりと聞こえる。それだけ、自分の感覚が鋭敏になってきた証拠だろう。
 人を殺すのに、全力を尽くすために。

「私の闇を呼ぶ不届き者は、その者に相応しき場所へ送りましょう」

 綾芽はついに、自らの意思で身体の奥底から湧き上がる衝動にあがらうのを止め、動くがままに身を任せた。





 綾芽が闇の力を解放したのを、嘉峨は感じ取っていた。

(いよいよか……)

 実際のところ、彼自身綾芽の力というものをまったく予測できていない。報道された情報によると、この女の力と自分の力はまったく違うものの可能性が高い。殺しの手口が、自分の力では不可能なものだったのだ。
 同族……それだけでも興味をそそる存在であるのに、その上自分とはまた違う力の持ち主。これほど面白い存在が、あの少女以外にもまだいたというのが驚きだった。
 仲間を集めて新しい社会を造る……確かに、綾芽の言う通り、1人見つけたぐらいで驚いているようでは到底不可能だろう。だが、とりあえず2人。いや、1人でもお互いの存在が理解できる相手がいれば、自己満足ができる空間ぐらい作れるのではないかと思う。色々と理想を並べてはいるものの、やはり本質的には利己的思考に基づくものに過ぎないのだ。
 6年前に見かけた少女は、手に入れようと思った時には、既に自分の手が届くところから消え去っていた。だが、今回のターゲットは今、目の前にいる。逃すつもりなどなかった。とりあえずはどんな形ででも、自分の周りに置いておく必要があるだろう。相手が拒み続けるなら、力ずくで連れて帰るだけの話だった。

(まずは、その力を拝見させてもらうとするか)

 力ずくでというのであれば、わざわざ相手に最大の攻撃を仕掛けるチャンスを与えるのは賢明ではないだろう。正直、今まで綾芽を昏倒させる機会などいくらでもあった。それをしなかったのは、ただ単にその力に興味があったからだという訳ではない。初めのうちにその力を把握しておかなければ、後々それが大きな誤算となる可能性があるからだ。今なら、こちらも充分な準備ができている。綾芽の力を量るのには絶好の機会だった。

(!?)

 唐突に、綾芽が左腕を縦に振り下ろした。自分と綾芽の距離は、先ほど彼女が後ろに跳んだ際にできた分だけ開いている。その距離で腕を振るったところで、何もない空間が引き裂かれるだけだった。
 通常ならば。
 その動きに異様な気配を感じた嘉峨は、反射的に地を蹴り左に大きく飛び跳ねた。その直後、嘉峨のいた空間を何かが高速で通り過ぎる。それと同時に、煙草を挟んでいた指先が軽い衝撃を感じ取った。

(……真空の刃か)

 見れば、煙草の先……火種の部分が地面に転がり落ちていた。あのままあの場に止まっていたのならば、数日前綾芽に殺された男のように、身体の一部が分断されていただろう。表情にこそ出さなかったが、嘉峨は心底驚いていた。

(ちっ!)

 再び綾芽が動いた。今度は右手を横に振るったのを見て、嘉峨は内心舌打ちする。普通、縦の攻撃に対しては、横に動きさえすれば比較的簡単にかわせる。その原理で言えば、横の攻撃に対しては縦に動けばいい訳だが、横の動きはともかく、縦の動きというものには比較的限界があるのだ。長身の部類に入る嘉峨がしゃがんだところで大して低くはならず、飛び上がれる高さにも限度がある。今みたいに腰の辺りを狙われると対応が難しい。
 とりあえず、嘉峨は後ろへ下がる手段を取った。直線で射程距離の判らない攻撃に対しての防衛手段としては愚策だが、かわし損ねて至近距離で浴びるよりかはましだろう。思い切り地面を蹴って距離を取りながら、コートの裾を持ち上げて少しでも衝撃を弱めるようカバーした。
 腕に、何かが当たる衝撃を感じる。ちょうど先程綾芽に引き裂かれた部分を直撃し少し顔をしかめた。だが、新たな裂傷は負わなかったようだ。改めて確認すると、厚手のコートの生地に何かが深い溝を作り上げていた。

(なるほど、これが射程距離か)

 現在の距離は4メートルほど。しかし実際はバックステップしている途中で真空波が当たったので、本当の射程は3メートル程度なのだろう。これで殺傷能力の有効距離は判った。ならば、今度は範囲だ。
 ふと下を見れば、先程綾芽が脱ぎ捨てた黒のコートが転がっていた。

(これを使うか)

 それを素早く拾い上げる。綾芽は真空波の有効範囲に捉えようと、一歩踏み出してから、先程とは逆の左手を横に振るう。実に、嘉峨にとって都合のいい攻撃だった。コートを適当に持ち大きく両手で広げ、先程と同じように後ろに飛ぶ。すると、見事にそれだけが切り裂かれた。大きな裂傷だが、分断された訳ではない。1メートル程度と言ったところだ。これで、綾芽の持つ力の正体が量れた。目に見えない武器だが、それだけの情報があれば、彼にとっては見えているのも同じこと。それほどの実力を嘉峨は備えていた。
 欲しかった情報は手に入れた。ならば、あとはこの攻撃をかいくぐって、綾芽を昏倒させることに集中するだけ……。そう思い、攻撃に移ろうとした瞬間、逆に綾芽の方が動いた。こちらに向かって跳躍すると、縦に右手を振るう。その動きを察知した嘉峨は、今度は前進しながら左にそれをかわし、一気に距離を詰める。
 だが、そこで綾芽が予想外の動きを見せた。いきなり、距離を詰めた嘉峨に対して滅茶苦茶に両手を振り回したのだ。

(何っ!?)

 先程までの動きから単発の攻撃しか出来ないと予測していた嘉峨は、不意を突かれ慌てて横に飛ぶ。しかし、それを追って綾芽も向きを変えながらさらに腕を振るった。身体中の至るところが裂け、血が弾け飛ぶ。しかし、先程までの攻撃とは違い、一発で両断するほどの力はないようだった。
 体勢を立て直さんと、綾芽のほうに向き直りとりあえず後ろに跳ぶ。だが、先程とは違い執拗に綾芽は追ってきた。

(むっ!?)

 目をやられてはさすがの嘉峨もきつい。片手で顔面をガードし狭まっていた嘉峨の視界の上部に、大きな黒い影が映った。なんと彼女は、嘉峨の身長よりも高く跳躍していたのだ。そして、全体重を乗せたつま先が、嘉峨の頭骨を砕かんと迫ってきた。何とか身を捩って頭部に命中する事は避けたが、左の肩口にそれはヒットする。と同時に、激痛が嘉峨を襲った。綾芽は蹴りが命中すると同時に、今度は蹴りに使った逆の足……左足を突き出す。さすがに今度はがっちりと両腕でブロックする嘉峨。しかし、元々それは攻撃用ではなかったらしい。つま先を使わず普通に嘉峨を蹴り飛ばし、その反動で後ろに跳ぶと空中で美しい軌跡を描きながら後方に宙返りし、着地した。

(まさか、そっちの使い古された技を使ってくるとは思わなかったな……)

 左腕を動かそうとすると激痛が走る。しかし、動かせない事もなかった。比較的軽症に済んだのだろう。

(まあ、直撃を食らわなかっただけでもましか)

 普通蹴り技を使う際につま先は使わない。確かに、つま先のような打点が小さい部分の方が内部を破壊するのには適しているだろうが、下手にそんな部分で蹴ろうとすると突き指あるいは骨折する恐れがある。だが、綾芽は躊躇なくその部分で蹴りを放ってきた。これは手先同様、その部分を鍛え上げてきたからに違いなかった。

「なかなかやるな。もっと楽をして連れて帰るつもりだったんだがな」

 台詞的には少し劣勢になっているように見受けられるかもしれないが、実際のところ嘉峨にはまだ余裕がある。彼はまだ、綾芽と違い切り札を出していないからだ。
 対する綾芽は、少し身体を斜にし構えもせずにすっと立ったまま、一言も発さずに嘉峨を冷たい視線で見据えていた。何気ないその佇まいが妙に綾芽には似合っている。今の彼女は、殺人という行為に対し何の躊躇も見せないだろう。もう完全に、殺人鬼の正体を現していた。

(あまり使いたくはなかったが、止むを得んか)

 闇の力に手を焼いているのに、その上古武術を混ぜられたら完全に綾芽のペースに嵌ってしまう。この辺で、自分の術中に収めておかなくてはならないだろう。それに、先程から獲物を前にして、その力が暴れたいと嘉峨を催促している。
 焼き尽くすのに丁度良い奴が、目の前にいるじゃないかと……。

(生憎と焼きつく訳には行かんが、形勢を変えるのには良いかも知らんな)

 嘉峨は心中そう呟くと、身体の奥底で溢れんとしていたその力を呼び出さんとする。力の制御が効く程度に、慎重に。そして、右腕を顔面の前に持っていくと、そこにその力を集約した。
 ボゥ……
 ガスコンロを点火した時のような音がした。だが、炎はどこにも見当たらない。
 いや、炎はそこに確かにあった。暗闇に紛れてはっきりと目視できないのだが、確かに嘉峨の右腕付近に何かが纏わりついている。
 それは、黒い色の炎だった。普通、物が燃えて立ち上る炎には、燃焼の状態やその燃えている物質によって様々な色がつく。しかし、暗闇に紛れるような色の炎など普通にはありえない。
 その炎の向こうに、綾芽の姿が見え隠れする。黒色の炎から垣間見た彼女の目が、注視しないとわからない程度に丸みを増していた。

「お前の力はしっかり確認させてもらった。その礼代わりと言っては何だが、私の闇の力を見せてやろう。黒き炎の威力、とくと味わうがいい!!」

 その暗闇の塊を、嘉峨は綾芽目掛けて射ち放った。自分同様、闇を見通す能力に長けているであろう綾芽なら、自分に迫るその大きな力の塊がはっきりと見えているはずだ。
 まず綾芽は左手を払い、真空の刃でそれを落とそうとした。しかし、自然の炎を刀で切っても切れないのと同じことで、お互いの力が素通りしてそのまま向こうへと突き抜ける。

(むっ?)

 自らの力が邪魔になり綾芽がどう腕を振るったのかはっきりと目視できなかったため、勘だけでそれをかわした。またコートの右肩辺りを切り裂かれたが、裂けたのは生地だけだ。一方の綾芽も自分の行為が無駄になったことを知ると素早く横に動き、間一髪その黒き炎を避けたかに見えた。
 だが、嘉峨が生み出した炎は、綾芽がいた空間に最後まで残っていた部分を捉えていた。
 その、同姓が見て羨む美しき長髪を。

「!!」

 自分の背中からちりちりという音と焦げ臭いにおいを感知した綾芽は、素早く首を後ろに回す。そして黒い炎が髪に燃え移ったのに気がつき驚いた。しかし、そこは冷静に左手で髪の根っこを持ち前に持ってくると、残った右手を一閃、燃えている部分を切り落とす。
 そんなに時間を掛けていた訳ではない。寧ろ、対処にほとんど無駄がなかったといえるだろう。だが、一瞬でも相手から視線を外したという事実。それは、嘉峨にとっては充分すぎる隙であった。
 ドゴッ!
 綾芽が嘉峨に視線を戻そうとした瞬間、右側頭部を殴打された綾芽は数メートル吹き飛んでいた。瞬間的に距離を詰めていた嘉峨の、視界の影から繰り出された左の拳が彼女を捕らえていたのだ。土の上を数回転しながらも、気を失わずに起ち上がろうとする綾芽。そんな彼女を、すぐさまその距離を詰めていた嘉峨の容赦ない腹部への蹴りが襲う。何とか両腕を交差させてダメージを軽減させるが、再び吹き飛んだ際背中から地面に落ちた彼女は、後頭部を強打したようだった。

(まだ意識があるのか……)

 動きが緩慢にはなっているが、それでも半身を起し嘉峨を睨みつける。しかし、そこから動くつもりはないようだった。よく見れば、片頬に血が伝っている。先ほど嘉峨が殴打した右側頭部ではなく、左の方だ。どうやら、吹き飛ばされた際にそちらも強打していたようだった。

「これ以上むやみやたらと傷つける趣味はない。大人しくついてくれば、悪いようにはしない」

 これ以上続けるとどちらかが致命傷を負いかねない。そう感じた嘉峨は動かない綾芽に降伏勧告するが、綾芽は黙って嘉峨を睨みつけるだけだった。

 「そうか……。後悔だけはするな」

 その沈黙を拒絶と解釈した嘉峨は、再び右手に黒い炎を生み出すと、それを綾芽に向かって放り投げた。しかし、先ほどよりも幾分速度は遅くしてある。この速度なら素人にでも避けられるだろう。殺すつもりはないから、この闇の力を当てる訳には行かない。だから、先ほどから予告して使っているのだ。
 その黒い炎を見た綾芽が起ち上がる。さすがに今度は切り落とそうとはせずに左に飛び退くと、今度は後ろにステップして距離を取った。だが、その足取りはあまりスムースとは言えなかった。恐らくはまだ回復しきっていないのだろう。

(一気に終わらせるか)

 これ以上長引かせないために、嘉峨は詰めに入った。両の手を真正面に突き出し、力を集約する。両手首にそれぞれ黒い炎が生まれると、嘉峨はその手を引いた。すると、バスケットボール程の大きさの黒い炎が二つ、その空間に残る。勢いよく蠢く黒い炎は、ちょっと元気のいい人魂と例えるのがちょうどいいだろうか。
 今度は少し両手の間隔を広げて突き出すと、同様に炎を生み出す。結果、人魂だとしたら、生前はかなりの悪行を尽くしたのだろうと言いたくなるような色の炎が四つ、嘉峨の前に並んだ。それを右手でぽんぽんと右から順に軽く押す。形がないのは先ほど綾芽の真空波で切れなかったので証明済みだが、嘉峨は特別なのだろうか、その手の動きに応じて一つずつ、綾芽に向かい始めた。しかし、四つの火の玉のうち、綾芽に命中しそうなのは真ん中の2つのみ。一番初めに動かされた、綾芽から見れば左の火の玉は放って置いても彼女の横を通り過ぎるだろう。火の玉の速度は全て人が歩くのと同程度だ。一番接近している左側の反対に動けば、誰にでも問題なくかわせるだろう。実際、綾芽も右へ移動し始める。
 だが、それは嘉峨の計算通りであった。
 ドゴォン!!
 突如、綾芽の行き道を黒い火柱が遮った。嘉峨が放った、これまた黒いソフトボール大の球が地面に炸裂したのだ。これは先ほどから使っている火の玉とは、明らかに特性の違う別の攻撃手段だ。
 行き道を塞がれた急停止した綾芽に、かわし損ねた火の玉が迫る。しかし、それはの火の玉は綾芽の手前で突然崩れると地に落ち、先ほどの黒球同様火柱となる。
 結果、五本の火柱が綾芽の周りを取り囲んだ。彼女からはもちろん、嘉峨から見ても相手の姿は見えない。だが、細かい位置まではともかく、その方向ぐらいなら同族の闇をお互い感じ取ることができる。
 綾芽は間違いなく、まだ火柱の向こうにいた。それを確認すると、嘉峨は火柱に向けて走り出した。
 もし、闇に紛れた敵が真正面から来るのを感じた場合、自分だったらどうするか……。自分なら、その闇ごと焼き尽くすような広範囲に渡る攻撃を仕掛けるだろう。なら、綾芽なら?

(間違いなく、横薙ぎの真空波だ!!)

 そう決め付けるな否や、嘉峨は先ほどの綾芽の跳び蹴りに勝るとも劣らない位に跳び上がった。その跳躍が自らが生み出した黒い火柱を通り過ぎようとしたとき、その下を何がが通り過ぎていったのを感じる。
 そして炎の先端付近を突き抜けたとき、嘉峨が見たのは前傾姿勢で両腕を交差したまま、静止していた綾芽の姿だった。

(貰った!!)

 気配を感じた綾芽が、鋭い動作で上空を見る。その左側頭部を、狙い澄ました嘉峨の飛び回し蹴りが捕らえた。踏み止まることなく横倒しになる綾芽。しかし、終わったと思った瞬間、その右手が動くのが見えた。

(まだ意識があるのか……信じられんな)

 ゆっくりではあるが、右手に力を込めて半身を起こそうとしている彼女を見て少なからず驚く。闇の力を発現させているとはいえ、別段肉体的に大きな何ら変化がある訳ではない。自分自身のことは聞くまでもなく解るが、先ほどからの綾芽の動きを見る限りでは、彼女にも身体能力的に変わった点は見受けられない。なのに、起ち上がろうとしている……。
 いや、見受けられないだけで、実は耐久力が向上しているとかそういう変化でもあるのだろうか。そう思いたくなるような、綾芽の粘りだった。一応加減をしているとはいえ、何かを間違えれば死んでいるかもしれない。それぐらいのダメージは与えているはずだった。
 だが、もう抵抗する力は残っていないだろう。目は開けてはいるが、その瞳はまだ地面を見るだけで嘉峨自身を捕らえていない。今近づいて終わらせるのは簡単……。
 そう思いゆっくり近づいたのは、嘉峨の単なる油断だった。

(!!)

 今までの緩慢な動作はなんだったのか、急に加速ボタンでも押したかのような速度の切り替えで首だけをこちらへ向けると、血が流れ込むのも構わず両目を見開き、睨む。

(ちぃっ!)

 慌てて詰めに入らんと、嘉峨は真正面から突っ込む。今から彼女が攻撃動作に入ろうとしても、確実にこちらの攻撃が先に入る。
 その筈だった。

「はああっっっ!!」

 綾芽の口から久しぶりに、声が漏れた。いや、声というより、ただの咆哮と言った方が良いだろう。それと同時に、瞬間的なものすごい突風……というか、大きな空気の塊みたいなものが叩きつけられ、思わず動きが止まる。
 その一瞬の隙を、綾芽は狙っていた。
 だが、結局嘉峨は綾芽の逆転を許さなかった。彼の持つ戦闘の才能・経験が、綾芽が左腕を振るう前に必殺の一撃を叩き込ませていたのだ。先ほど、綾芽の動きを止めるために使った高速の黒球。それの直撃を胸に受けた綾芽は、服が燃えたのだろう、黒と橙が適度にミックスした炎に巻かれながら、まるで人身事故にでもあったかのように地面を転がり、そのまま大きな音を立てて川の中へ落ちてしまった。

(しまった!)

 今の一撃には何の加減も加わっていなかった。嘉峨は普段闇の力を使うとき慎重に加減している。通常ならいくらでも調整が利くのだが、その力を生きている物に向けた瞬間、余計に力が入ってしまうのだ。油断すると、気がつけば相手を炭化させていることもある。
 そのような力を、まともに振るってしまった。

(どこに行った……)

 すぐに川に落ちたので、大火傷は負っていないはずだ。黒球が炸裂した際の爆発によるダメージ程度ならば、即死したなどと言う可能性は少ないだろう。だが、重症を負っているならば、急いで手当てをしなければならない……。
 そう思い、川岸に走り寄ると、綾芽の姿を確認する。しかし、その姿がどこにも見当たらなかった。30秒以上経っているのに、まったく姿が確認できないのだ。水の中に落ちたのが原因なのだろう。いつの間にか、彼女が発する闇の気も捉えられなくなっていた。

(……まずいな)

 川幅から想像するに、そんなに深い川ではないはずだ。ならば、完全に気を失って沈んでいるのだろうか。
 ちょうどその時、先ほどの雨雲と思っていた雲から雪が舞い降りて来た。辺りの気温も相当下がってきている。川の中にいれば著しく体力を奪われるだろう。早く見つけなければ、綾芽の命に保証はない。
 だが、目を凝らして川面を見るうちに疑問が浮かんだ。いくら綾芽が鍛え上げられた身体の持ち主とはいえ、女性であることには変わりはない。体脂肪率の比較的高い身体が、気を失っていたとしてもこの浅い川に沈み切っているとは考えにくい。身体の一部でも浮き上がってきてもおかしくはないだろう。
 なら、何故浮かんでこないのか……。

(自らの意思で潜水しているのか?)

 嘉峨には自分の考えが信じがたかった。あれだけのダメージを被って、意識があるというだけでも驚嘆に値するというのに、まだ何か反撃を企んでいるというのだろうか。仮に、その考えが正解であれば、やはりその耐久力も彼女の持つ闇の力の一環だとしか思えなかった。
 だが、潜り続けてどうするつもりなのかが読み切れない。さすがに、水中で呼吸する能力はないだろう。いずれ、水面に顏を出す必要がある。そうなれば、嘉峨にとって綾芽はもぐら叩きのもぐら同様、出てきた瞬間を叩くだけのことだ。反対に綾芽は、水面から顔を出して視界が戻るまでに時間を要する。そこから、相手を確認するのにさらに時間を費やすだろう。彼女にとって、この状況が不利であることに変わりはないはずだ。
 何か策がある……そう感じた嘉峨は、右腕に黒い炎を纏わりつかせると、綾芽が姿を現すのを待った。出てきた瞬間、この炎を叩き込む積もりだった。この炎は先ほどのような爆発はしない。例え、直撃したところですぐに水中に潜りさえすればそんなに大きな火傷は負わないだろう。意味合い的には、綾芽へのダメージというよりも、策潰しのための牽制であった。

(むっ!?)

 比較的緩やかな川の流れの中に、一箇所だけ自然な水流によるものとは違う川波を見つける。
 その次の瞬間、そこから大きな影が水飛沫を上げながら飛び出してきた。

「甘いぞ綾芽!」

 その影に、先ほどから用意していた黒い炎を投げつける。その直撃を受けたその影が、先ほど同様黒と橙の炎に包まれた。
 だが、その影は嘉峨の思惑と違い、水中へと逃げ帰らなかった。

「はあぁっっ!!」

「なっ……!?」

 先ほどの空気の塊……それと一緒に、綾芽を包んでいた筈の黒と橙の炎が嘉峨の身体を捉えていた。この嘉峨の『闇の力』である黒い炎は、嘉峨自身の身体を焼くことはない。だが、彼が着ている服自体にはその耐性がないのだ。そして、その黒い炎の熱によって発火した部分……つまり、橙の炎に関しては、服はもちろん、嘉峨自身も耐性が具わっていない。結果、彼は雪が降る寒さの中、冷たい川の中に飛び込まざるを得なくなっていた。

「ちっ」

 消火したのを確認すると、綾芽の攻撃を警戒しながら水面に顔を出す。そして川岸を見、そこで既に半分炭化した物を見つけた嘉峨は、その正体に舌打ちせざるを得なかった。
 綾芽のセーターだった。全身炎に包まれていたように見えた彼女、本当はこのセーターを盾にしていたのだ。そして、その炎の盾をそのまま空気の塊に乗せてぶつける……。
 見事な戦略だった。なかなか水面に顔を出さなかった理由は、水中でセーターを脱いでいたからだろう。つまり、完璧に嘉峨の行動は完全に読まれていたのだ。

「じゃじゃ馬が……」

 綾芽もかなりのダメージがあるだろうが、嘉峨も小刻みに怪我を負わされている。心臓の鼓動に合わして血が全身を廻るたびに、全身のいたるところから疼痛が走った。それに伴い、その傷を負わした張本人に対する憎悪が広がっていく。そして、その憎悪が闇の力を増幅させて行くのを嘉峨は感じていた。今綾芽と対峙すれば、誤って殺してしまいかねない。
 だが、その綾芽の姿が見当たらなかった。

(逃げたのか!?)

 神経を集中して、綾芽の発する『闇』を感じ取る。どうやら、綾芽は今彼女自身が来た道を戻って逃げたようだった。逃げようとしないように色々と脅しを掛けていただけに、嘉峨はその意外な綾芽の行動に戸惑っていた。少なくとも、闇の力を使うまでの綾芽が、背水の姿勢で戦っていたのは間違いない。

(まさか……)

 闇の力を使い始めてから、綾芽は一言も喋っていないことに嘉峨は気がついた。もしかすると、闇の力を使っている時の彼女を動かしているのは、彼女の意思ではなくて、闇の力そのものなのではないだろうか? 獲物を狩るのに全神経を集中し、勝てないと悟るやあっさり尻尾を巻いて逃げる。そこに、体面など存在しない……。
 嘉峨自身、闇の力を完全にコントロールできる訳ではない。だが、力に自分自身がコントロールされるなどということはなかった。

「ちっ、世話の焼ける」

 苛立ち紛れにそう一言吐き捨て起ち上がる。水を多量に含んだコートを脱ぐと、もう使い物にならないと判断したのか、それをそのまま放り投げて川に流す。そして、岸に上がるとすぐさま綾芽を追い始めた。かなりの距離を離されているのは判っていたが、ここで綾芽を逃すつもりはなかった。先ほどは逃げても問題ないような事を言って余裕を見せていたが、言ったとおりに綾芽に関係のある者に手を出すつもりは毛頭ない。それは、彼女自身を大きく傷つけることになるからだ。
 実は嘉峨という男、多少なり歪んだところや不器用な面が見受けられるが、闇の者を救うという考え自体には偽りを持っていない。自分自身が『闇の者』だったがために負った無数の傷。肉体的なもの、精神的なもの数多く。その辛さを知っているからこそ、同族に同じような目にあって欲しくはなかったのだ。
 彼女はまだ光の中にいる。しかし、既に殺人に手を染めた彼女の周りが崩れて行くのは時間の問題だろう。その時、彼女は大きく傷つくはずだ。ややもすれば、修復不能なほどに。そうなる前に、多少強引にでも闇の中に引き込み、その中で生きることを諭す事が出来たなら、彼女はまだ自分よりはましな人生を送ることができるはずだ。
 だが。

(やはり、一度は傷つかないと理解できないのか……)

 走りながら嘉峨はそう思う。闇の力に目覚める以前の自分が、今の自分の生活を想像することなど微塵もなかったように。
 そして、最後まで光の中にいようと足掻いたように……。

(無駄なんだ綾芽……お前には既に、茨の蔦が幾重にも絡まっている。足掻いたところで、傷つくだけだ)

 雪が少し強くなり始めた。このまま降り続ければ、夜が明けたとき素晴らしい銀世界が広がっているだろう。しかし、この天候は水に濡れた身体にはすこぶる悪い。ましてや、防寒用のコートは先ほど脱ぎ捨てているのだ。
 そして、それは綾芽も言える事だった。いや、実際のところ自分よりもかなり状態は悪いだろう。水に濡れているのは同条件だが、コートはおろか、彼女は先ほど攻撃手段としてセーターまで脱ぎ捨てているのだ。今の彼女の格好がどうなっているかは確認できていない。その下が下着だけだったということはないだだろうが、たとえ何か着ていたところで、それはどちらかといえば防寒用というより肌を保護するための物のはずだ。そのような格好で雪が降る深夜を歩けば、凍死してもおかしくはないだろう。
 とにかく早く、彼女を保護しなくてはいけない……。
 常人なら足元すらろくに見えないであろう暗い道を、何の戸惑いを見せることなく綾芽を追って嘉峨は走り続けた。





 頬に冷たいものが当たるのを康斗は感じた。その細い目を少し開けて──それでもなお細い──暗闇の中、辺りを舞うものの正体を見た康斗は少し眉を顰めた。
 雪……どちらかといえば寒い部類に入るこの地方ではそう珍しくもないものだ。この雪が交通網を寸断することなどそう稀な話ではない。だが、康斗にとって雪というものは特別な意味を持っていた。
 特に、夜の雪には。

(嫌な予感がするな……)

 康斗の周りで何かが起ころうとしていた。
 日付が変わっているので既に一昨日になるが、その時初めて出会った黒コートの男。そして、死亡推定時刻から自分がその男を呼び出した少し後に起こったらしい殺人事件。この二つが直線で結ばれているのを康斗は確信していた。普通の人間にあれだけ見事に人間を殺すなどということはできない。だが、あの男なら出来る。康斗は直感でそれを感じ取っていた。
 だが、それだけなら今彼はこんな人通りのない暗い所を歩いていなかった。殺人の第一発見者となり、その犯人の目星もついている。だが、彼はそのことを警察に事情説明を受けた時に一言も話さなかったのだ。あまり要らぬことを言って、話をややこしくしたくないという理由も少なからずあったのも事実だ。彼に犯人を捕まえる協力をしようなどという正義感など存在しない。例え自分が手助けをしなくても、勝手に誰かが犯人を見つけ、気がつけば解決していると思っている。面倒ごとをわざわざ自分から背負う意思などさらさらなかった。
 だが、康斗はこの件を無視しようとするのが間違っていると感じてきていた。一昨日の黒コートの男の言葉。24日の殺人現場付近で見かけたあの男は、自分の動きがとある殺人鬼に通じていると言った。大体、人間の動きというものは、長い間同じ時間を共有していたものと似てくる傾向がある。基本的には、親兄弟。
 あくまでも基本的には、だが……。
 康斗の中に眠る幼き頃の記憶。その記憶と男の言葉の関連に康斗は気づいている。あの時、康斗は男に「殺人鬼の情報を持ってはいない」と告げた。だが、それは完全なる『虚言』に過ぎない。ただ、あのような出来事に二度と関わりたくなかっただけなのだ。
 康斗という人間を、根底から変えたその出来事に……。
 だが、あの後男はすぐに無関係な人間を殺した。これは、自分が何かを隠しているのに感づいた上での『警告』だったのではなかろうか? 「隠している事を言え。言わなければ、今度はお前の近くにいる者を殺す……」と。
 ただの考えすぎのはずだった。男が康斗に……正確には、輝和に与えた殺人鬼の情報は『細身・長身・長い黒髪・若い女』だけだ。一言で『長身』と形容できる女性の割合が、そう呼べない女性に対してどのぐらいであるのか康斗は知らない。だが、決して両手の指で数えられる程度でないことぐらい、勉強の嫌いな小学生でも判るだろう。そこに残る条件を加味したところで、その数字の桁がいきなり1になるようなこともありえない。だから、そのような質問内容にまともに答えられる訳がないのだ。そのぐらい、当人も判っているに違いない。つまりは端からまともな回答を期待してなどいないのだろう。ならば、自分の回答がどのようなものであれ、それを男は信用しないはずだ。そのような意味不明の質疑応答の中で、相手が真実を隠しているかどうかなど見抜ける訳がない。
 しかし、なぜか不安が拭い切れない。
 そして、不安といえばもう一つ……綾芽のことだ。昨日の彼女の行動はあからさまに不自然だった。あの殺人現場に偶然通りかかった彼女は、一緒に来た千春や周りに何の弁明もせずに、一言だけ残して唐突に帰ってしまった。追いかけた輝和から用事を思い出したからという簡単な理由を聞きはしたが、それにしてはタイミングが良すぎるような気がしてならない。康斗のイメージの中には、用事を忘れて友だちと遊び歩く彼女のイメージがないのだ。もし、ただ単に気分が悪くなってその場から去りたくなったのであれば、そうはっきり伝えればいいだろう。あの場面でそう伝えたところで、誰も咎めたりなどしないはずだ。
 なら、違う理由なのか。一体彼女は何故、あの場から急に立ち去る必要があったのか。単に本当に用事を思い出しただけだった可能性も低くはない。いや、その可能性のほうが高いだろう。しかし、そう片付けるには何か、言葉にし難いしこりが残るのだ。
 これらの康斗が持つ情報。それらを混ぜ合わせると一つの仮定が出来上がる。しかし、それは実に馬鹿馬鹿しい仮定だった。もし、クラスの誰かにこの事を話せば、確実に「黒木康斗はオカルトの世界に走った」と言った内容が学年全員に広まることになるだろう。それぐらいに馬鹿馬鹿しい……。
 しかし、康斗はその仮定を捨て去ることが出来ないでいた。周りにオカルト研究会が泣いて喜びそうな実験体がいるせいもあるが、それ以前の彼の記憶……それが、その仮定を忘却の彼方に飛ばすことを不可能にしていたのだ。
 放っておくにはあまりにも気になることが多すぎる。どうせ、家に帰ったところで眠ることなど出来やしないのだ。ならば、真実をこの細い目で見極めるのが一番だった。
 まずは、あの黒コート会うのが先決だ。かなりの危険を伴うが、男の目的を確認しておく必要がある。場合によっては、そこで半分は片がつくはずだろう。

(しかし、暗いとは思ったが極端に暗いなここは……)

 数日前にも通った川沿いの道。あの時は昼間で見晴らしのいいところと言うイメージがあったが、今この時間の暗さは十数メートル先の相手を識別できないのではないだろうか。ここまで暗くては、痴漢も寄り付かないのではと康斗は思う。あたりに民家もなく、また駅から帰宅する会社員の通り道にもならないので、市に苦情も行かないであろう。康斗自身、24日にこの道を使ったのが数年ぶりだったぐらいだ。
 しかし、闇を糧に生きる者には、最高の場所であろう。そう、あの黒コートのような、誰がどう見てもまっとうに生きているとは思えない輩には、このような場所が似合う。そう思って、敢えてこの道を選んだのだ。ここに来れば、真実に出会える。そんな気がして……。

(……!!)

 急に真後ろに気配を感じて、康斗は歩を止めた。今の今まで、足音一つ聞こえなかったのだ。どう考えても、ただの通りすがりとは思えない。

(黒コートか!?)

 いきなり襲ってきてもおかしくない。そう思った康斗は身体を捻りながら前へ跳び、180度向きを変えるといつでも攻撃できるように身構えた。しかし、すぐさまその行為が不要だったことを知り、彼は構えを解く。
 そこには、目を丸くした見知った顔があった。

「輝和か……。趣味の悪いことをするな」

 康斗はその名前と悪態を一緒に口にした。その愛嬌のある顔立ちに似合わない、目の下に目立つ傷のある少年。いくら暗いとはいえ、その顔を見間違えたりなどしなかった。以前、彼のことを悪戯好きの子猫と思ったことがあったが、性格だけでなく性質まで猫だなと康斗は少し呆れた。

「びっくりした……。よく気付いたっスね先輩」

 実は猫は猫でも、某ネコ型ロボットのように少し宙を浮きながら歩いていた輝和は、忍足には絶対の自信を持っていただけに、あっさり康斗に感づかれたことに少しショックを受けていた。

「驚いたのはこっちのほうだ……。それはともかく、こんなところで何をしている?」

「それは先輩もでしょう? 先輩がこんなところにいたら、似合いすぎて怖いっスよ?」

 自分の問いには答えずに、意味深な言葉を加味して輝和はそのまま質問を返してきた。瞬間、その意味を問い詰めてやろうかと思ったが、疲れるだけなのでやめておいた。

「バイトの帰りだ」

 言葉少なに返答する。その言葉には嘘はない。さっきまで例のバーで仕事をしていたのだ。本来なら今日は休みの日だったのだが、康斗と交代で来ている男が急用で来れなくなったため、突然代わりに入ることになってしまったのだ。
 だが、康斗がバイトの帰り道にここを利用しないということは、先ほど述べた通りである。しかしそのことを知らない輝和は、康斗が真実をごまかしたことに気づかなかったようだった。それで良いと康斗は思う。どれもこれも、彼の勝手な想像である。今彼がここにいる理由をそのまま言う必要などなかった。

「バイトって、先輩って受験戦争の真っ最中じゃなかったっけ? バイトなんかしていて大丈夫なんスか?」

「お前の心配がまったくの無駄な程度にはな」

 その言葉に嘘はない。彼の特異的な記憶力を持ってすれば、勉強など普通にやっていれば問題はない。さすがに計算はそうはいかないが、それでも高望みさせしなければ、特に意識して勉強しなくてもそこそこの大学なら合格する自信はあった。

「うう、いいなあ……」

「そんな事はどうでも良い。それよりも繰り返すが、お前こそ何でこんな所にいる? 帰る方向が違うだろう?」

 無駄話などいつでもできる。何も雪が降る深夜にする必要などない。そう思った康斗はすぐさま輝和の話を切り、自分の質疑に切り替えた。今康斗が向かっている方向は、康斗本人や有志、千春の自宅がある方面だ。綾芽と輝和の自宅は逆方向になるのだが……。

「なんか、嫌な予感がするんですよ……。家にいちゃいけないような。この……何て言ったら良いのかなあ? とにかくまあ……深夜徘徊です」

「用事がないのならさっさと家に帰れ」

 にべもなく言い放った。

「うわ、言葉に出来ないだけっすよ。ちゃんと目的もってうろついているんですから」

「未成年の深夜徘徊にちゃんとした目的もくそもあるか。それにお前、昨日の朝見た物の事忘れたのか?」

 自分のことを棚に上げているなと思いながらもそう言う。言葉こそぶっきらぼうだか、康斗なりに後輩の身を案じているのだ。昨日の殺人犯──恐らく黒コートの男──はもとより、イブの夜の殺人犯も捕まっていない。あれも黒コートの仕業なのかは康斗には判らないが、この街の夜が危険極まりないという事は明白だった。
 だが、その康斗の心遣いを知ってか知らずか、輝和は食い下がってきた。

「大丈夫っスよ! 先輩は俺の力を知っているでしょう? いざとなったら、逆に殺人鬼をぶち殺してやりますよ。それに……」

 屈託のない満面の笑みで、なにやら物騒なことを口走る後輩を窘めようとしたが瞬間、輝和は急に今まで見たことないような真剣な表情に切り替え、一旦切った言葉を続けた。

「先輩、バイト先から家に帰るのに、ここを通る必要ないですよね?」

(気付いていたのか……)

 どうやら、何も考えていなさそうな笑顔に騙されていたようだと康斗は思った。面白半分でうろついている訳ではなく、真剣に何かを感じ取ったのだろう。本人が『魔法』と呼ぶ不思議な力が関連しているのかもしれない。

「わかっているなら話が早い。歩きながら話すか」

「いえっさー!」

 場にそぐわない輝和の明るい声が、辺りに響き渡った。
 二人は暫くの間無言で肩を並べて歩く。舗装されているとはいえ、土手の上に設けられた道は細く、二人並んで歩けば道幅いっぱいを占領してしまう。前から人が来れば一列にならないとかわせないだろう。しかし、街灯が切れているのだろうか? どこの田舎かと思うような暗い道を好き好んで歩く者などいやしなかった。

「ところで、お前は何に気づいた? やはり黒コートに関連することか?」

 暫く続いた静寂を打ち破ったのは、意外にも康斗のほうだった。

「それもそうなんだけど、それ以外にもなんか気になるんだよなあ。まあ、俺あほだから真剣に考えても答えでないだろうし。とりあえず、あのおっさんに会えば何か解るかなと思って……」

「なるほど……」

 考えていたことは同じだったようだ。やはり、鍵となるのはあの黒コートらしい。こうなると、是が非でもあの男に会う必要があるだろう。
 問題は、奴がここにいるという、自分の勘が当たっているかどうかだが。
 そこで、輝和がその勘を『確信』に近づける言葉を口走った。

「実は、クリスマスパーティの帰りに、この近辺であのおっさんに会ったんですよ。まあ、会ったのはまだだいぶ向こうで、時間ももっと早かったんだけど」

「前にも会っていたのか?」

「ええ、その時はなんか会話らしい会話をせずにそのまま去って行かれちゃったんですけどね。「殺人鬼を探しているから、見つけたら教えてほしい」って、連絡先も特徴も言わずに……なんだありゃって思いましたよ。あはは……」

(そうか……やはりこの近辺にいる可能性が高いな)

 輝和が既にあの男と面識があったというのは意外だったが、その内容自体は自分が直接話した時に得た情報以上のものはなかったようだ。それよりも、今の会話で自分たちが正しい場所にいるということに自信が持てたというほうが大事だった。実際のところ、この時間はどこかで寝ているような気もしたが、どうもあの男が今頃どこかで眠りこけているとは思えない。あの男の本質は闇。そして、闇に属する男の活動時間は夜……勝手なイメージだが、それが正しいような気がしてならなかった。

「あ、ねこねこ……」

 唐突に輝和が駆け出した。彼が向かったその先をよく見ると、2つの小さな光が地面近くにあった。僅かな光にも反射するその物体は、紛れもない猫の目。普通、猫は人間が近づくと逃げるものだが、その猫は輝和を人間と思っていないのだろうか、逃げもせずその場でじっとしていた。輝和は猫の前まで行くとしゃがんで背中を丸める。恐らく、撫ででもしているのだろう。彼が無類の猫好きだというのは知っていたが、猫にも好かれるというのは意外だった。

(案外、こいつの正体は化け猫なんじゃないだろうな?)

 輝和が使う不思議な力も、そう考えれば納得も行くだろう。まあ、彼が人間だろうが化け猫だろうが、どちらにせよマッドサイエンティストの格好の研究材料なのには間違いないのだが。

「う〜、かわいいなあ〜♪」

 完全に何かが憑いているとしか思えない輝和を別段追いかけもせずに、そのまま歩いてきた康斗が上からその様子を覗き込む。
 ……と、その眉が微妙に寄せられた。

「黒猫か……また不吉な奴が出てきたな」

 どうりで目以外が見えないはずである。見事に闇と同化したその体毛の色は、見事な黒一色だったのだ。黒猫が前を横切ると不吉だと昔から言われるが、彼は本来そんな迷信などは信じないタイプの人間である。しかし、嫌な予感が止まない今現在において、あまり見たくはないものであることには間違いなかった。

「え〜。こんなかわいい存在が不吉だなんて絶対に間違ってるっすよ! それよりも、あのおっさんの方が遥かに不吉だと思うんだけどなあ」

「確かに、それを否定する要素もないし、わざわざ否定してやる義理もないな」

 相変わらずの仏頂面で、腕を組んだまま返答した。確かに同じ黒一色でも、輝和に頬を撫でられ目を細めているこの存在と、間違って触れれば切れるどころか、両断されかねない雰囲気を滲ませているあの存在とを比べること自体が間違っているだろう。素直に康斗は同調する。
 だが、その不吉の象徴にとりあえず認定された存在に、2人とも会っているのが現実だった。

「でも、本当になんか嫌な感じがするよなあ。ただでさえ、朝変なもの見てるのにさ。これ以上変なことが起こったら、今日は一生に一度のウルトラ厄日になりそうだよ……」

(ウルトラなんて表現、今時しないだろうが……)

 先ほどとは打って変ってトーンの落ちた輝和の言葉に、数十年前に流行った表現が含まれているという事実に多少呆れながらも、その発言内に含まれる誤りを指摘する。

「輝和。厄日に段階があるのかどうかは知らないが、お前の言うところの『今日』は、既に『昨日』になっている」

「それじゃあ、厄週?」

 黒猫を撫でる手を止め、首だけを後ろに回して康斗を見上げると、輝和はそう切り替えしてきた。

「……そんなに災厄が好きか? 一週間も立て続けに死体が見たいのか。お前は?」

 そう言った康斗の目は、イラスト化すれば一筆書きで終わりそうな程に細められている。さすがに、普段は無駄に明るい輝和の表情も、それを見ては強張らざるを得ないだろう。

「い、いや。見たくないです……。というか先輩、厄日だからって必ず死体が出てくる必要ないでしょう?」

 もっともなことを言う後輩を、康斗は無視した。

「なら、どういう厄日が望みなんだ? 何かお好みの厄日があるんじゃないのか? ほら、言ってみろ。今言葉に出来ないのなら原稿用紙を用意してやる。お前好みの厄日というものを纏めて書き記せ。それを、冬休み中に俺の元に提出しろ。尚、100枚以下の文章量は認めん。言葉で伝えるか、文章で伝えるか、さっさと選択しろ」

「済みませんもう厄月や厄年なんて言いませんから勘弁してくだ……あっ!」

 反省の意思があからさまにない小学生のような、棒読みの台詞が途中で止めらられる。
 止めたのは、輝和が先ほどまで撫でていた黒猫だった。先ほどまで気持ちよさそうにコンクリートの上で寝そべっていたのだが。急に起ち上がると、まるで感電でもしたかのように身体を硬直させる。そして次の瞬間彼らの脇をすり抜け、全速力で走っていった。

(来たか……)

 猫の動きを追っていた二人が同時に振り返る。その視線の先から、表現しがたい禍々しき闇が迫っているのを感じた。先日あの黒コートに会った時に感じたものの比ではない。下手をすれば、この闇に取り込まれたが最後、絶命しかねない程のものだ。
 康斗が昔感じたものと同じ程の……。

(む?)

「先輩」

「輝和、何かがおかしい。非常事態に備えろ」

 何かを言いかけた後輩を制すると、康斗はその気配のする方向に神経を集中する。輝和は何も答えなかったが、すぐさま康斗を見習うと、強まった雪で余計に視界が悪い闇の先を何とか見ようと注視し始めた。
 康斗が違和感を感じたのは走る音だった。前方から迫る闇の発信源が立てているのは判る。
 だが、何故に走る?
 むやみやたらと走る人間などいない。ジョギングならともかく、聞こえてくる足音は全速力で駆けるものだ。大方、街中を全速力で走らなくてはいけない理由として考えられるものといえば、取り敢えず遅刻か、逃走・追跡によるものが挙げられるだろう。しかし、先頭を走る者が全速力で追跡というのもおかしい。ならば残るのは二つだが、康斗が抱いている黒コートのイメージに、追跡はともかく遅刻や逃走などというものがないのだ。
 ならば、今こちらに向かって走ってきている者は?

「先輩! 今来ているのあのおっさんじゃないです!」

 輝和も気付いたようだ。ようやく見えてきた走る者の影は長髪だったのだ。このシルエットは、あの黒コートではありえない。
 あの影は女性……それを悟った時、走る影はもう目の前へと近づいていた。影に色がつき、相手が判別できるその寸前に、その女性は走りながら両腕を交差させ顔を見せないようにした。
 いや……。

(……違う!!)

「のうわっ!!」

 康斗に突き飛ばされた輝和が声を上げる。まさか、横から攻撃されるとは思っていなかったのだろう。見事に土手を転がり落ちて、下にあったフェンスに当たり大きな音を立てる。

(っ!!)

 康斗のほうは声を上げなかった。素早く身を伏せた康斗は『それ』の直撃を受けはしなかったが、左肩を大きく裂かれていた。しかし、普通の人間なら間違いなく胴を切り裂かれていただろう。
 『黒木康斗』だから、避けることが出来たのだ。
 激痛に耐え起ち上がると、地を蹴って相手への距離を詰めようとする。康斗は既に知っていたのだ。この攻撃に対する方法は、相手が腕を振り切れないよう、密着することだと。相手は右腕を振り翳さんとモーションを起したところだ。いま飛び込めば、相手の動きを止めることができるはずだった。
 だが、その相手の姿を確認したその瞬間、康斗の動きは固まっていた。

『康くん……』

(!!)

 雪が降る真冬の夜にはあからさまに向いていない、タートルネックのシャツ1枚に、いたるところが裂けた黒のパンツ。その両方が水に濡れ、その美しい身体のラインを浮き上がらせる。いや、水だけではない。生地の色を微妙に変えて見せるものも混じっているようだ。
 そしてそれは、その美しい顔にも大量に付着していた。それが、康斗がしまいこんでいた記憶の蓋を開いたのだ。ある程度予測はしていたはずだった。しかし、現実を目の当たりにした時、そしてそのあまりにも似た情景を見せられた時、康斗は目の前にいる人物とは違う名前を叫んでいた。

「春姉っ!!」

 そう呼ばれた方も、右手を振りかぶったままの状態で固まっていた。彼女はまた、罪のない者にその悪しき力を振るってしまったことに気付いたのだ。そして、その相手の姿を正確に認めたとき、絶対にその力を振るってはいけない相手だと彼女は知った。
 そして、それと同時に、もうここには戻れないということを彼女は悟っていた。
 ドンッ
 先に硬直から解けたのは、康斗を傷つけた相手の方だった。両手で康斗を突き飛ばすと、康斗達が来た方へと走り去っていく。一方、無防備で突き飛ばされた康斗は、土手の下へと転落する。

「おわっ! とっと」

 それを止めたのは、土手を登り掛けていた輝和だった。

「先輩!! いまのひょっとすると綾芽さんだったんじゃ……って、なんですかこれ!?」

 輝和は康斗の身体を受け止めた際、丁度その左肩の傷を触ってしまった輝和が驚く。その手には、康斗の血が大量に付着していた。

「治療するから動かないでください!! 苦しみを癒す奇跡の光、キュアライト!」

 まだ呆然としている康斗の左肩に輝和が両手を翳し、呪文を唱えると青白い光が血に濡れた肩を包む。以前杉村さんにも使った輝和の『魔法』により、その怪我があっという間に癒されていった。だが、康斗はそれに驚きもせず、ただ綾芽が走り去っていった方向を見つめているだけだ。

「ちょっと先輩? どうしたんですか!?」

 輝和がやっと康斗の異変に気づいたらしく、大きな声で呼び掛ける。
 その時、呻き声のようなものが、康斗から発せられた。

「追わなくては……」

 その自分自身の言葉が、彼を覚醒させるキーワードとなった。

「いかん、追うぞ輝和!!」

「あ、はい!!」

 その輝和の返事も康斗の耳には届いていない。彼の全神経は、もはや姿の見えない綾芽を追うことに注がれていたのだ。
 だから、後輩がついてきていないことにも、彼は気付いていなかった。





「何の真似だ? 怪我をしたくなければそこを退け!」

 何者かに道を塞がれた黒コート……嘉峨は、止まるや否や鋭い語気で言い放った。だが、並の人間ならば慌てて土手を転がり落ちるか、その場でへたり込むかするだろうその気迫にも、まだ少年という方が相応しいだろうその男は、怯むことなく彼を睨み付けていた。

(む、こいつは……)

 よく見れば、道を塞いでいる少年はここ数日の間に何度か見かけた相手だった。綾芽と親しくしている者の一人。それに気がついた嘉峨は、黒い炎で焼きつくさんと動かした手を止める。

(さて、どうする?)

 ただの通行人なら、蹴散らして終了だ。しかし、綾芽と親しいこの者を傷つけるというのは、闇の力を持つ者が精神的な深手を負う前に仲間に引き込もうという、彼自身の目的から外れる行為に該当する。それに、綾芽であろうとなかろうと、仲間を傷つけるような輩の考えに同調する者などいないだろう。できれば避けて通りたい所だが、この少年はどうあっても、彼をここから先に進ませるつもりがないようだ。

「なあ、おっさん。ちょっと聴きたいことがあるねん」

 先に口を開いたのは少年のほうだった。この少年、普段は標準語だが喋っている途中で関西特有の方言に切り替わる。大概その時は怒っているようだ。今現在もその表情を見れば、怒っているのは誰が見ても明白だろう。
 そして、その怒っている理由も大体察しがついていた。

「綾芽さんに何をしたんや? 何をどうしたら、綾芽さんあんな状態になるねん? 答えんかい」

「……」

 少し背中を丸めて少年は凄む。やはり、綾芽とすれ違ったようだ。厄介だと嘉峨は感じる。この少年は自分が綾芽を連れて行こうとしていると察すれば、間違いなくそれを妨害しようとするだろう。しかし、少年を傷つける訳にはいかないのだ。
 (多少綾芽を傷つけることになっても、この少年は叩いておくべきか?)
 予想外の相手の登場に戸惑う嘉峨。しかし、少年は彼が決断するのを待たなかった。

「あんなあおっさん。わいな、アホやけど自分の言った事はよう覚えてんねん。聞こえてへんかったんか? 『襲ったりしたら、なぶり殺す』って、昼間ゆうたよな?」

(なんだ?)

 少年から発せられる何かの力を感じ、嘉峨は少し眉を吊り上げる。自然の力で作られるものとは明らかに違う、表現が難しい何かのエネルギーが彼の周りで膨らんでいるようだった。そこから、嘉峨が持つような禍々しい『闇』は感じられない。それは純粋なる『力』だった。

「出でよ! 乱世を渡りし名刀達よ!」

「なんだと!?」

 両手を左右に広げた少年が叫ぶ。すると、何も持っていなかった筈の少年の両の手に、忽然と現れた刃渡り70センチほどの日本刀が握られていた。

(なんだこいつは?)

 これにはさすがの嘉峨も驚きを隠せないでいた。この少年からは自分や綾芽が持つ闇の気配を感じない。だが、自分たち同様不思議な力を使う……。

(気に食わんな……)

 彼は次第にそう感じ始めていた。闇の力ではないという事は、闇の中で彼らを襲う不必要な殺人衝動に駆られることもないのだろう。もし彼自身、この人より優れた能力である『闇の力』を昼夜問わず自由自在に操ることさえできていれば、今の自分はなかったはずだ。そう考えると、目の前で二本の刀を構える少年が非常に憎らしい存在に思えてきた。

「おっさん。わいは自分の大切な人に手を出す相手は殺すことも厭わへん。その気になれば、跡形もなく消し去ることぐらい出来るからな」

 そういう少年の目は間違いなく本気だった。しかし、嘉峨とて殺人のプロであり、人知を超えた力の持ち主である。少年の気迫に押される事はない。
 そして、彼は決めた。
 ボゥ……
 音を立てて突如現れた、嘉峨の『黒き炎』を見た少年の表情が、明らかに驚嘆へと変わっている。

「お前は生かして置くつもりだったのだが、気が変わった。この炎で、骨まで灰にしてやろう」

 嘉峨の持つ、一般人には形容し難い……敢えて言うなら強烈なる殺気が一段と強まっていた。相手も不思議な力を使うことを知った少年が瞬間怯んだのを感じたが、すぐさまそれは消えてなくなる。
 お互い引く意思などない。ならば、その次の展開は決まっている。
 激突……。
 異能の者同士の対決。その第二ラウンドが、今ここに始まらんとしていた。





『あれ? 君、どうしたの……』

 康斗は全力で雪が舞う中を、ただひたすら駆けていた。

『そう、まだ家の人帰ってきてないんだ。だったら、お姉さんの家に来る? ほら、いいから……』

 既に綾芽の姿も見えず、あの殺気とも呼べない禍々しい気も感じ取れない。だが、左は大きな工場を仕切るフェンス、右は川。彼女が今続いている一本道を走っているのは間違いないだろう。

『あ、そっか。名札読んだんだ。でも、はずれ。これで、『のうえ』って読むのよ。覚えてね……』

 元々風が強く冷え込んでいた夜に、雪が追い打ちを掛ける。Gジャン姿の彼ですら、かなりの寒さを感じる。先ほど見た綾芽の格好は、寒いどころでは済まないはずだ。

『私の家、そこを曲がってすぐにあるの。ここに引っ越してきたばかりだから、近所に話せる人がいなくて……』

 何があったのかは想像ついた。綾芽も、そしてあの黒コートも、康斗が知っている者と同じ力を持っていたのだ。そして、その二人が激突したのだろう。あの綾芽の姿は、その結果なのだ。

『お姉さんいるんだ。だったら、私の事は春菜お姉さんって呼んで良いよ……』

 彼が危惧した通りだった。どうやら自分は、そういう能力の持ち主に好かれる体質らしい。そういえば、輝和にしろ、有志にしろ、あの千春の傍らにいつもいるおこじょにしてもそうだ。まったく以って、困った体質だと康斗は自分を呪う。できれば、二度とこういう輩とは関わりたくなかったのが本音だった。

『あれ。カップ麺なの、今日の晩御飯? 成長期の子供がそんなんじゃダメだぞ? そうだ! 今日は私が晩御飯作ってあげるよ……』

 しかし、綾芽があの人と同じ人間だと知った以上、それを見捨てる訳に行かなかった。
 何故なら、彼は黒木康斗なのだから。

『康くん。子供が家に篭ってなんかいないの。外に出ようよ。ほら、桜が綺麗だよ……』

 走りながらも、次々と勝手に呼び出される過去の映像。記憶力の良い彼が、普段意識してしまいこんでいるそれが、今一気に溢れ出てきていた。

『ん? かわいい弟だと思っているよ。私、兄弟はいないからね。ずっと、康くんみたいな弟が欲しかったんだ……』

 この記憶がある限り、今彼が止まることなど許されないのだ。

『ほら、チョコレート。あれ、要らないの? せっかくの手作りなのに……』

(む?)

 今になって、彼はようやく子犬のような後輩がついてきていないことに気がついた。綾芽は何者かに追われていたのだ。追っていたのは間違いなくあの黒コートだろう。そいつに出会ってしまったのだろうか? ならば、輝和の身が危険だ。そう思い、康斗は急停止しようとする。

『なんだか眠そうね。ほら、ここで寝なさいな。贅沢三昧の膝枕!……って、あれれ……』

 しかし、逡巡したのは一瞬だった。彼は再び、綾芽を追うためにその足を動かした。自分が戻ってしまえば、綾芽を追う者がいなくなってしまう。

『康くん、なんだか最近おかしいよ? 私何か悪いことしたかなあ……。お願いっ、教えて! 私謝るからさ……』

(輝和、頼んだぞ!)

 輝和が持つ不思議な能力。それがあの黒コートを止めることを信じ、綾芽の救出に向かう。

『そっか。小学生と高校生……凄い差だと思ってたけど、良く考えたら五つしか違わないんだよね……』

 今の彼の顔をもし、同級生が目撃したならば、彼と見分けることが出来るだろうか? 今の康斗は、それほどまでに必死の形相で暗闇の中を駆けていた。

『私のこと守ってくれるんだ。ありがとう。でも、何年後なの? 私はせっかちだから、あんまり待たないよ……』

 今の康斗を作り上げたとある事件。その事件の真相を知る者はどこにもいない。彼一人を除いて……。

『デート? あはは……。まあ、康くんがそう言うんだったら、それでも良いわ。私はどっちでも……』

 いや、真実を知った者は他にもいただろう。しかし、物言わぬ骸になってしまえば、それを誰かに伝えることなど出来やしない。

『髪、伸ばしてみようと思うんだ。可愛いって言われるのも良いけど、やっぱり女の子だから綺麗って言われるのに挑戦したいしね。似あうかどうか判らないけど……』

 本来ならば、自分も他の真実を知った者と同じ運命を辿っていただろう。そうならなかったのは、すんでのところで相手が自分に気づいたからに過ぎない。
 そう、先ほどの綾芽のように……。

『ねえ、康くん。今度の冬休み、家族で旅行に行くの。康くんも一緒に行かない? ほら、お父さんに許可貰って……』

 そして、彼は誰にもその真実を告げなかった。だから、数年経った今でも彼女は綺麗な姿のままで人々の記憶に残っている。

『もっと近くに寄ってくれない? 私怖いの。最近夜が……』

 だが、康斗は別に綺麗なままで彼女にいて欲しくなどなかったのだ。例えその身が汚れようと、どれだけ傷ついていようと、側にさえいてくれれば……。
 しかし彼女は、彼の意思を聞くことなくその美しき笑顔を永遠のものとしてしまった。

『う、うそ!? 康くん……い、嫌ぁぁっ!!』

 そして今、綾芽も彼女と同じところに立っている。真実を親しき者に知られた彼女が、何事もなかったかのように彼らの元に戻ってくる事などありえないだろう。だから、自分が連れ戻さなくてはならないのだ。
 絶対に手の届かない場所に行かれる前に……。

『ごめんね康くん。本当に……。こんな形で別れる私を許してね……』

「せっかく面白くなり始めているのに……また元の生活に戻ってたまるかよ! あんな結末、何度も見たくなんかあるかぁっ!!」

 康斗の絶叫が暗闇に木霊する。繰り返されようとしている悲劇を途中で終わらせるため、彼はその舞台に上がらんと走り続けた。 続く


あとがき

どうも、この場ではお久しぶりです。みるきぃです。
大変長らくお待たせ致しました。不思議が舞う空の第十二話「雪と闇が舞ったその日に」を公開しましたが、どうでしたでしょうか?
個人的には「最悪」ですね。(ーー;)
技術的に他の方に劣っているのはともかくとして、この数ヶ月の間、忙しすぎてほとんど集中できないまま書き上げざるを得なくなってしまったのが本当に悔しいです。書けても1日数行、まったく書けないなんて日が数日続くこともざらでした。このあとがきにしても、本文書き終えてから一週間以上、しかも仕事を抜けて行っている病院の定期検診の待ち時間を利用して書いている始末……。もうむちゃくちゃです。(ToT)
公の方もそうですが、私の方もなかなか……やっぱりネットゲーには手を出すものじゃないですね。ほったらかしにしすぎると友達において行かれて共同プレイに支障が出るので、起動するとつい熱中……そりゃ、終わらんやろ。(^^ゞ
まあとにかく、そのような状態でつまみ食いみたいな書き方をしたため、出来の方は本当に自信がありません。後ろの方、なんとか誤魔化して下さいね。m(__)m
しっかし、今回もまた異常に長くなってしまいました。前回の3倍と言った7話の更に1.5倍……。(^^;;;
読んでもらえれば判ると思いますが、一番今回書きたかったのは一番最後の部分です。どうしてもそこまで持って行きたかったのですが、そこに行くまでの過程が無駄に長くなりすぎてしまいました。これも下手な証拠なんでしょうね。(ーー;)
短くてあっさりしているのも下手の証拠でしょうが、長すぎてぐちゃぐちゃしている下手というのも珍しいと我ながら思ったり。(^^;;;
しかもこれだけ長いのに、前半部分は綾芽とようやく名前が出てきた嘉峨のみ。全部見ても有志や千春&杉村さんの姿はなし。(爆) お子様有志のファンがいるのかどうかはともかくとして、千春&杉村さんファンの方には申し訳ないこと……。
しかし心配御無用!! 13話ではなんと体長7メートル30センチに巨大化した杉村さんが所狭しと大活躍するそうです。\(^o^)/
え? (・・?
……すみません、誤情報のようです。m(__)m
まあ、とりあえず後ろの御陵さん、よろしくお願いします。
次からはでしゃばらんようにページ数減らすようにしないとな……。

みるきぃ