第二話「薄雪の千春」
「あーぅー」
彼女は立っていた。朝の通勤ラッシュに飲み込まれそうになりつつも、三本の私鉄と旧国鉄、市営地下鉄が乗り上げる大型の第三セクター、その駅前バスロータリー前でいつもの様に彼女は彼女を待っていた。
頭の上に乗っている、おこじょを手で撫でながら何度もリーマンにぶつかろうとも、その場を動こうとせずに、ただ々々待つ。
別段、待ち合わせている相方が遅い訳ではない。ただ、彼女が異常なまでに早く来てしまっただけなのだ。
いつもなら、彼女が相方を待たせているのだから、偶には……と、言うことで早い目に待ち合わせ場所に来たのだが、何も一時間半前から待たなくてもいいのに、彼女が、冬が迫りつつあるひんやりとした雰囲気の風を受けながら待っていた。
「あーぅー、遅いですね〜」
枯れ草色をしたシックなロングコート――実はハーフコートなのだが、彼女の背丈の為ロングになってしまっている――のポッケから携帯を取り出し、時間を確認する。
「お前が馬鹿に早く来たのがいけないのだろうさ」
頭の上から声がかかる。待ち合わせ相手ではない。
「うぅ、だってだってぇ! いっつもお待たせしてるから今日は! って思っちゃったんですよぅ」
口を尖らせて、頭の上のおこじょに反駁する。
「それで? 綾芽が来るまで後何分あるのだ?」
呆れた様な声で言って、欠伸をするおこじょ。
「えとですね……12分ですぅ」
「ならそろそろ来るだろう」
そう言って、寝心地が悪いのか、頭の上から下りて首にマフラーの様に巻き付く。それは、マフラーを準備していなくて少し寒そうにしている彼女への心遣いなのだが、動物である彼のそう言った行動はあまり認識されない。彼女を除けば数人にしか。
「温かいですよ」
尻尾を掴んで頬ずりする。
「千春さんお早う御座います」
突如に頭上から声がかかる……正確には上からだ。
「オハヨウ!」
彼女は見上げながら背の高い彼女――霧生院 綾芽――に挨拶を返した。
彼女は、成人を済ませた女性にしては背が低すぎた。否、背だけでなく全ての発育が悪い。身長は140pに届かず、顔も、ファニーフェイスと言えば聞こえが良いが、童顔とも言ってしまえる。何より、その言動があまりにも可愛いに過ぎるのだ。
「あら、温かそうですね」
首に巻き付いているおこじょを撫でながら言う。
「はい温かいですよ〜」
頬ずりを止めずに言う。
「それでは少し早いですが、学校に行きましょうか」
ニッコリと微笑んで、歩みを進める。
「あ、綾ちゃん待って下さいよぅ」
手提げ鞄の中から定期入れを出そうとして苦戦する。
「あれ? あれれれ? 定期がないよー」
鞄の中に頭を入れる様に覗き込んで探すが、やはり見つからない。『朱音 千春』と印字された定期の入った、薄い紅色の定期入れは中々に見つからない。
「そう言えば、先日コートのポケットに入れていませんでしたか?」
彼女に言われ、ピタッっと動きが止まる。コートのポッケに手を入れて、
「えへへへへ、ありました〜」
かわいらしく笑う。その様は、辺りの中年リーマンズが一斉に――ザッザッっと――、歩くのを止め前屈みになり眼鏡を正すフリをしてキッラーンと目を光らせている様を思い浮かべて貰えばわかるだろう。
長身の美女と、可愛らしい少女――でも、同い年――は、改札を抜け、旧国鉄のプラットホームへと向かう。
「そう言えば、千春さん今日は朝ご飯を食べて来られたのですか?」
いつもは、待ち合わせ時間のぎりぎりに来る千春が今日は早く来たので、少し心配になったのだろう。
「大丈夫ですよぅ。ちゃ〜んと食べてきましたよー」
最も、千春の朝ご飯を知っている彼女は冷や汗を流すだけなのだが。千春の朝ご飯というのは、パンにマヨネーズを少し塗って、その上にツナ缶を一缶塗した物なのだ。美味しい美味しくないと言った問題ではなく、猫を連想させるその朝ご飯は何故かあまり大衆受けしない。
首に巻き付いていたおこじょが、頭の上に戻り、首を振って、ヤレヤレと言った態度を取る。
「遅れましたね、杉村さんお早う御座います」
おこじょに頭を垂らす綾芽。
「ああ、オハヨウ」
ぞんざいに言うおこじょ――杉村さん――。
「綾ちゃん綾ちゃん、今日のおべんとはですね」
話の間などは一切お構いなしに話掛ける千春。
「はい、今日のおべんとはなんですか?」
苦笑しながら尋ねる綾芽。綾芽も千春も大学四回生なのにバイトすらしていない。綾芽は家からの仕送りで、千春については家庭の事情と言う奴で、アパートを幾つか経営している為もあって、金銭に困ったことはなかった。だから、大学に行ってものんびりと時間を潰すことが出来るのだ。
「えとですね……あにゃ? う〜ん……あ、コーンの入ったクリームコロッケと〜竹輪の磯辺上げとかですぅ」
「美味しそうですね」
千春の弁当は贔屓目なしに美味しい。何より、全てが手作りなのだ。『コーンの入ったクリームコロッケ』も、中身から全部手作り……昨今の若者にしては信じられないだろうが、少なくとも、綾芽は彼女の弁当の中に、冷凍食品を見たことはなかった。
話の途中で、電車が来たので、ラッシュに揉まれることを覚悟して乗り込む。電車の中などでは、動物嫌いの人も居るだろうから、と言って杉村さんに鞄に入って貰う千春。
電車通学と言っても高々一駅。それも僅か数分の物。それでも歩けば三、四十分掛かってしまう。
そうこうしている内に、 駅で学生連中を吐き出した鉄の塊は無愛想に次の駅に向けて走り始める。綾芽は、ドアの側でじっとしていて邪魔になる人を押し退けて――力無い千春の為にちゃんと通れる様に、邪魔な人たちを余所へやる事も忘れずに――降りた。
「あーぅー」
良く分からないぼやき? 悲鳴? だかを上げながら鞄の中から杉村さんを取り出して頭の上に乗せる。人目のあるところではあまり話さない様にしているらしいのだが、千春が心配なのかなにかあるとすぐに口を挟む。節介焼きなのかも知れない。
プルプル
千春の頭の上で杉村さんが身を震わせる、寝起きの伸び程度の物なのだろうが……。
「あぅううう」
千春の頭も一緒に震えてしまう。
「杉村さーん」
怒った様に頬を膨らませる。その可愛らしい顔を「あらあら」と笑いながら眺める綾芽の姿があった。
キーンコーンカーンコーン
一限目の終了のベルが鳴り響く。
大教室の最前列に座っていた二人はほぼ同時にノートを閉じる。と、言うのもこの授業の講師が、ベルがならないと終わらないからだ。そして、ベルが鳴っても、ノートを閉じて帰る準備を始めないと、話すのを止めないからだ。講師は渋々「今日はここまで」と言ってファイルやマイクを持って――誰よりも早く――退室して行く。
(もしかして、理由を付けているだけで一番早く帰りたいのはこの講師なのかも知れませんね)
その様を見て胸の内で独り言ちる綾芽。
「む〜〜」
大きく伸びをしてへにゃ〜っと机に頽れる千春。
「おわった〜」
机の下で足をぶらんぶらんさせながら、にへら〜っと笑う。椅子に座ると床に足が着かない千春だからこそ出来る芸当だろう。
「さて、今日の講義も終わってしまいましたね」
鞄を手にして颯爽と立ち上がる綾芽。
「う〜ん、どうしようね〜」
鞄を手にして、ぴょんと椅子から飛び降りる千春。
「それでは、少し早いですがお昼御飯にしましょうか?」
「そだね」
小高い丘一つを使ったこの大学は、敷地内に緑が多く、ちょっとしたピクニック気分が味わえる為、春や秋の昼食時には辺りで弁当を広げる学生が多く見受けられる。
そんな屋外も今の季節では寒々としている。北風が吹き、青々としていた芝生は茶に色を変え、木々も姿を露わにしてきていた。
「はぅ〜」
「外は寒いですね」
「うにゅ〜」
研究棟――教授室が集まった棟――の休憩室での〜んびりとする二人の姿があった。
基本的に研究棟には、関係者と用のある学生以外の立ち入りが禁止されている為、昼を過ごす学生など姿も無いはずなのだが、二人は……正確には千春は違った。その愛くるしい――幼過ぎる――外見から教授達から絶大な人気を誇り――当人は至って普通なのだが――、研究棟にも彼らが呼び寄せて、昼を過ごす許可を出したと言うエピソードがある。
その後に綾芽と知り合ってからも、彼女の昼食と言えば研究棟となっていた。
昼時ならば昼食を摂る教授や講師の姿もあるだろうか、まだ10:30を少し回った時間では彼女たち二人以外は居らず、のんびりとした時間を過ごしていた。
「今日のお弁当はですね〜。あっ」
二人分の弁当箱を鞄から出そうとして、鞄に手を入れた千春が声をあげた。
「どうかしましたか?」
困った時の千春の癖をしっている綾芽はその事態があまり深刻でないことに気付いている為、尋ねるだけに止めた。
「あぅ〜。杉村さんを鞄の中に入れっぱなしでした〜」
鞄の中から出されたのは、ふてくされた一匹のおこじょだった。
「あらあら」
口元を手で押さえながら微笑む綾芽。
「すす、杉村さんごめんなさい〜」
「あぅあぅ」と良く分からない、困り声? をあげながら杉村さんをソファに置いて、今度こそ弁当を取り出す。
「今日はね今日はね〜。ジャーン」
蓋を開けられた弁当箱の中には、鶏の煮付けと、可愛らしく海苔の巻かれた細丸いおにぎりが顔を覗かせていた。
「美味しそうですね、頂きます」
プラスチックの箸で鶏肉を啄む綾芽。それをみて千春が杉村さん用に、弁当箱の蓋に小さく切った鶏肉を置いて、未だ不貞腐れている杉村さんの前に置いてやる。
「…………美味美味」
渋々ながら口を付けて、偉そうに言う杉村さん。
「本当に美味しいですよ」
杉村さんをフォローするかの様に言う綾芽。
「じゃぁ〜あたしもいただきます〜♪」
手を合わせて、ピンク色のプラスチック箸で食べ始める。
「そう言えば、千春さん?」
「ふぁい? なんれふか?」
口をモゴモゴさせながら話す千春。
「飲み込んでからにしろ」
いつの間にか千春の頭の上に戻っていた杉村さんが言う。
「あぅ〜。 はい。それでどうかしたの?」
やっとの事で飲み込み終えて尋ね返す。
「あ、はい。今日はこの後ご予定ありますか?」
「ん〜っと〜。アパートのお家賃の集金に行こうかな〜って思ってますケド?」
「あ、そうなんですか? 頑張って下さいね」
「はい〜」
「それで? 今日集金に行くのはどことどこなんだ?」
大学から帰り、鞄を置いて集金用のリストとお金を入れる為の小さな鞄をもって家を出た所で杉村さんが尋ねた。
「えっとですね〜。柳川さんと、黒木さん…かな?」
「二人だけか?」
怪訝そうな声をあげる杉村さん。
「ん〜? そだよ? 他の人はみんな振り込みになっちゃったもん」
「そうか……その方が安全だな」
別段千春が家賃を受け取ったことを忘れるワケではないが、物騒な話ばかりの最近では、集金よりも振り込みの方が良いと杉村さんは考えていた。
「大丈夫だよ〜」
「ふぅん……」
あまり信用していないと言った風な杉村さん。
「それにね〜、柳川さんは刑事さんだから何かあったら助けて貰えばいいよ〜」
「そうだな」
そうこう話している間に、目的のアパートの『柳川』と書かれた表札の置かれた部屋に辿り着く。
トントントン
「やっなぎかわさ〜ん。朱音で〜す。集金ですよ〜。」
「一つ聞いて良いか千春?」
「はい? なんですか?」
「今日は平日だよな? それも昼過ぎの……」
「…………あぅあぅ」
「馬鹿め」
ヤレヤレと溜息を吐く。
「じゃ! 気を取り直して黒木さん!」
と、隣の『黒木』と紙に書かれたプレートの下にあるインターフォンを鳴らす。
「平日に学生が居るものか」
「けっ」と言った風な杉村さん。
「大丈夫ですよ〜」と根拠のない自信の千春。
「わっわっ! 先輩誰か来たよ!」
中からは少年の様な少女の様な声が聞こえて来た。 続く