第四話  「The close road which has no crossing」


 目を閉じて見る。
 当然の話ではあるが、何も見えなくなる。だが、それでも見えているのだ、自分には。
 右手には一昨日徹底的に研いだばかりの利刃。
 熊でも解体できるだろう鋭さだ。こんな街中に熊などがいれば、の話ではあるが。
 大きく一息吸い、また一息吐く。
 獲物は眼前だ。そして最早動くことはない。
 焦ることはなかった。ゆっくりと、落ちついていけばいい。
 ただ白色蛍光灯の灯りのみが照らす室内。
 対照的に黒を基調とした衣服を着用している自分。
 目を開ける。もう準備は十分だ。
 見えている、と言ってもあくまで空想に過ぎない。その空想がどれだけ現実と正確に対応しているかはさておいても。
 今現在この空間は自分の物だった。何も動くことのない静寂の中、近所の人の散歩中にでもかち合ったのだろうか、犬の吠える声のみが響く。
 自分の意識が全てを満たし、そして把握するのを感覚として捕らえる。
  一閃。
 突如として、そこに存在していた獲物――つまり、生を失ったタンパク質の塊である肉塊――に銀光が走る。
 当然その銀光とは手に持った刃が光を反射したために起きたものだ。
 刃を通されたその肉塊は綺麗に首と胴に分かたれた。
 その無残な死体に、しかし自分は何の感慨も抱かずに立っている。
 この哀れな肉塊にとって、今の自分はネロかはたまたカリギュラか…とにかく暴君にも等しい存在であっただろう。
 しかしこの虚ろな目は何も返してこない。死んでいるのだから当たり前か。
 無心に只右手を動かす。動かす度に銀光が走り、更に胴が三つに切り裂かれていく。
 いささか不謹慎である感は否めないが、綺麗に切れた時は、ある意味で快感であることは間違いがない。
 四つに分かたれた肉の内、首はそのまま生ゴミのゴミ箱行きだ。全く興味がない。
 興味があるのは胴体だけ。それ以外は必要がない。
 今日は好調だ。巧く行っている。
 基本的に何事にもも感慨は抱かず、また無表情とも言われている自分ではあるが、口の端が僅かに吊りあがるのを抑えられなかった。





「先輩〜、お願いですから魚捌きながら笑わないで下さい…すごく怖いんですけど」

「た、確かになぁ…」

 本気で引きつった声、そして見てみれば引きつった表情で座っている後輩二人。
 一人は先日知った(というか、押しかけられた)野々上有志。
 そしてもう一人は、今日知った別の後輩だった。
 高水輝和(たかみず てるかず)。それがその後輩の名前である。
 有志のクラスメイトである。他人と関わることの乏しい康斗の部屋に、何故彼等がいるのかは説明を要するだろう。





   それは、約7時間前に遡る。





 昼休み。
 康斗は有志に帽子を返すため一年の教室に向かっていた。
 気付いて取りに来るかも知れなかったが、どうせ暇なのだ。どうせ会わなければならないなら、今渡しに行ってやっても大差はない。
 三年の教室から一年の教室へはそう遠くない。三年は旧校舎一階、一年は新校舎一階にそれぞれ教室がある。
 寒風吹き荒ぶ渡り廊下を歩き、新校舎の戸を開く。
 廊下では一年達が思い思いの時間を過ごしている。
 談笑する者はどうでもよいのだが、ゴムボールでキャッチボールする者や廊下を走り回っている者などがいるのには不快感を禁じえない。小学生並だ、とも思う。
 まあどうでもいいことだ。本当にどうでもいいことなので、一瞬後にはその不快感ごと彼等を視界から消した。
 消したところで重要なことに気が付いた。我ながら迂闊なことだった。1年だということは聞いていても、クラスは知らない。
 始めは適当な1年に渡せばいいとも思ったが、それは、康斗のせいではないにしてもあまりに無責任であろう。とりあえずそこらにいる、不快ではない1年に野々上有志のクラスを尋ねてみることにした。
 そして…三分後。ようやく聞き出したのは、B組ということだった。何故三分もかかったかといえば、五人に声をかけて五人知らなかったからだ。1年だからだろうか、同じクラスの生徒のみから聞くことができた。
 B組の前のドアから眺めて見ると有志は最も遠い場所、つまり窓際の一番後ろの席に座っていた。一人で。
 友達がいない、と言っていたのを思い出した。

「失礼」

 一言断ってから(まあ必要はなかったかもしれないが)教室内に入る。
 一瞬クラス内に残っていた生徒の目がこちらに向けられるが、すぐに皆慌てたように視線を逸らす。
 慣れたことだ。そう珍しいことではない。
 入ってきたのが上級生、それも目付きの悪い男だとしたらそれも頷ける話だ。
 全くそんな気はないが、康斗の表情は人に言わせると『常に見下すかの如き細目』なのだそうだ。
 別に目が悪いわけではないが、どうしてもこの状態に落ちつく。
 意識すれば直すことは容易だが、メリットもないのにそこまでする必要性がなかった。

「…黒木先輩?」

 高い声。いや、声で判断するまでもなくこの場所で自分に声をかけるような奇特な人間は一人しかいない。
 周りの雰囲気で気付いたのか、有志がこちらに声をかけてきた。都合はいい。

「どうしたんです?」

 どうやら気付いていなかったらしい。これでは待っていても取りに来なかったのは間違いないだろう。
 無言で帽子を机の上に置いてやる。

「あ、僕の帽子」

「忘れて行っただろう?」

「わざわざ…ありがとうございます」

「いや、いい。じゃあな」

 さっさと背を向けて教室から出ようとする。読みかけの本が鞄の中にまだ残っている。

「あの、先輩」

 後ろから声がかかった。

「なんだ?」

 半身に振りかえり、ほぼ真横に来ている有志――康斗からはどうしても見下ろすような形になってしまうのだが――に尋ねる。

「えっと今日もおじゃましていいですか?まだちょっと教えてもらいたいんですけど」

 これには康斗も…そして、他ならぬ有志自身も驚いていた。
 康斗にしてみれば昨日で十分教えることは教えたはずだった。まあプロ並とは到底言い難いが、食べられる程度の物は作れるようになったはずである。
 また、有志にしてみれば康斗はあくまで昨日だけ、そして適当に料理ができるようになるまで教えてもらう相手だったはずだ。
 長く関われば彼の虫と話すという、大多数の人間からは好ましいと言い難い能力がばれてしまうかもしれない。そうなれば康斗とて例に漏れず消えて行くことだろう。
 康斗がどうでもいい相手であったからこそ本性を出していたものを、それがどうでもいい相手でなくなってしまったら。
 友人に去られる悲嘆にはもううんざりするほど慣れている。慣れすぎてしまっている。
 それ故に本音から関わろうとはしないのだ。相手消えるのが怖いから。得たものを失うのが怖いから。
 それが今の一言は何か。
 有志自身にもわからない。それは理解しえない。何故なら無意識に出た一言だからだ。

「別に構わん。どうせ暇だしな」

「じゃ、じゃあ放課後またおじゃまします」

 有志は俯き、そそくさと行ってしまった。教室の外へ。
 一瞬怪訝そうに眉を顰めたが、そのまま興味無さげに康斗は去って行った。



 (余談だが、このときの有志と康斗を見てアブない想像をしていた女子が数人、いたとかいなかったとか…)




「ほんと、どうしちゃったんだろうね」

 ほんの少し、うっすら雪の残った外に出て、虫に――わざわざ屈んで見なければならないほどの位置にいる団子虫に――語りかけている、怪しい少年一人。
 言うまでも無く有志だった。
 教室から逃げるようにして出てしまった後、ふと自分の態度が奇妙だったことに気付いたが、急いで出てきてしまったため帰ろうにも帰れず中庭で話し相手を見つけていた。
 話し相手…というのは不適当かもしれない。
 一方の石陰の団子虫からは『五月蝿い。知るか。寝かせろ』と言った類の返事しか返ってこないからだ。
 多くの人間は、虫なんぞ、と言った感があるが、その逆もまた然りである。
 普通の人間には虫の声は聞こえない。よって自然彼等に対する意識は人間本意のものになる。
 同じように虫も人間の話など理解できない。つまり彼等にとっては人間などただの『でっかい奴』に過ぎず、声を聞くことの出来る有志にはあくまで対等の立場、または上の立場さえ取ることもある。
 しかしこの団子虫が後者であるというわけではない。そもそもが冬なのだ。のろのろ動いていたのを有志につかまってしまっただけであり、団子虫本人としては眠いと言うのも至極当然であろう。
 さしずめ冬眠暁を覚えず、と言ったところか。

「風邪でもひいたかなぁ。ここ数年ひいてなかったんだけど」

 なんとなく額に手を当ててみる。冷たい。十分冷え切っていた。

「う〜…そろそろ帰ろうかなぁ…」

 『そうしろ、とっとと行け』と団子虫。
 何か釈然としないものを感じつつ、有志は教室へ歩を向けた。




「野々上〜」

 がしっ

「ひゃっ!」

 女のような声で、女のような悲鳴を上げる有志。
 教室についた途端後ろから誰かが首筋に冷たいものを当てたのだ。

「ははっ、驚いただろ」

 声を聞き、相手が誰だか悟る。

「誰だって驚くよ、高水君」

 首筋を押さえながら後ろを振り向く。
 黒髪黒瞳の少年が一人。特別大柄というわけではないが、小柄な有志からすると少し見上げた感じになる。
 左目の左下に傷があるが全体的に愛嬌のある顔立ち。
 クラスメイトの高水輝和だった。明るい人柄であり、また非常にカルい性格の持ち主だ。
 席は前であるが有志と特別仲がいいというわけではない。しかし他の人間にするように、たまに有志にも軽い悪戯をすることがある。
 今回もまたその類だろう。手が冷たかったから驚かせてやろう、とかその程度の考えなのだろうと思った。

「ああ!そんな怒るなよ野々上〜」

 無言で席に座った有志に、慌てて謝る輝和。

「別に気にしてないよ」

 有志はこの少年が苦手だった。
 そのカルさ…言い換えれば、その気さくさに、時たま本性を引き出されそうになるからだ。
 だから他の人と同様にあまり関わらないようにしていた。とはいっても輝和からはちょっかいを出してくるのでほぼ同じ事なのだが。
 まあ今日は少し違うらしい。いつもはそっけなくしていれば、その内興味を無くしたかのように他に移ってくれる。
 しばらく無視していても今日は引き下がらない。

「どうかしたの?」

 何か用があるのだろうか。このままでは埒があかないと思い、こちらから尋ねて見る。
 それに対し、待ってましたと言わんばかりの顔をする輝和。

「さっき何か先輩と話してただろ。ええっと…」

「黒木先輩?」

「いや名前は知らないけど。でさ、今日先輩の家行くって言ってたよな」

 なんでそんなことを知っているのだろうか。どうやら盗み聞かれていたらしい。

「…うん。お好み焼きの作り方教えてもらいに」

「っしゃ!!確か先輩調理部だと思ったからそんなとこだと思ったんだ。あれだろ、文化祭の雪辱を晴らすって奴だろ」

「うん」

「悪いけどさ、俺も連れてってくれない?」

「………え?」

 いきなり話が飛んだ気がする。どうしてそのような話になるのか、思わず間抜けな声を上げてしまった。
 それに気付いたのか輝和は説明を始めた。非常に簡潔に。

「ええと…なんていうか、俺も姉貴に教えてもらおうと思ったんだけど、さじ投げられちゃって」

 そういうことか。
 以前のクラス会議で、お好み焼きを美味しく作る秘訣を各々調べてくることが決定している。
 ある者は必死に料理本と格闘し、ある者は親に聞いて済まし、またある者は本場に行って修行(とはいってもそう長い期間があるわけではないのだが)している者もいる。
 それで有志は康斗に教えを請いに行ったのだ。そして輝和は姉に聞こうとしたらしい。
 しかし、輝和の話によれば姉には断わられたらしい。面倒だったのか、それとも別の理由があったのかはいざ知らず、また他に当ても無かった輝和が困り果てていたところに、おあつらえ向きにさっきの光景があったのだ。
 どうしようか、と考える。正直あまり関わりたくない。かといって余計な角を立てたくもない。
 康斗は別に気に留めないだろう。自分が昨日突然訪問しても断らなかったくらいだ。
 となれば…嫌だと言う理由もない。

「うん、いいよ。放課後に先輩の部屋だよ」

「先輩の部屋知らない」

「じゃあ僕が案内するから」

「おお、サンキュな!」

 満面の笑みを浮かべ、無造作に有志の手を取りぶんぶんと振りまわす輝和。
 有志は困った顔をしながら、また周囲の奇異の視線を感じながらもその手を見ていた。






 康斗は帰宅後、色々と準備をしていた。
 準備とはいっても、材料は有志に買うよう言っておいたから持ってくるだろう。だから材料は準備する必要はなかった。
 布巾やボウル、お玉など必要な道具を用意し、棚の上からホットプレートを下ろすだけだ。
 普段は一人分を作ればいいだけだから、基本的にホットプレートのような大きいものは使わない。フライパン、片手鍋やオーブンがあれば大抵のものは作れるからだ。
 箱を下ろし、箱からホットプレートを取り出す。
 時計を見れば四時半過ぎ。
 放課後に来ると言っていたから、一旦着替えてから来たとして、そう後でもないだろう。
 そう判断するとコンセントを差し込み、電源を入れておく。調整は必要だが有志が来る頃にはいい温度になっているはずだ。
 あとは…
 ピンポーン

「せんぱ〜い、野々上です」

 やたらと、やたらめったら明るく、あまり好めないインターホン――まあ家賃がそれなりに安く、風呂も台所もちゃんとしているものがついているから文句は言えないのだが――と、高校生にしてはやはり高い有志の声が丁度良いタイミングで響いた。

「開いてるから入っていいぞ」

「それじゃ、おじゃまします」

「おじゃましま〜す」

 康斗が言うのと、ドアが開く音、そして有志の声と…知らぬ人間の声がしたのは同時だった。

「野々上、横にいるのは誰だ?」

 振り返れば知らない少年が有志の後ろにいた。
 身長は康斗より少し低いくらい。見るからに普通の高校生だ。
 眼の下の傷はともかくとして、全体として愛嬌のある顔立ち。
 有志が後をついてくる子犬だとしたら、この少年は悪戯好きの子猫といったところか。

「1年B組の高水輝和です」

「野々上と一緒に来たってことは、お前もお好み焼きだな。材料は持ってきたのか?」

 有志の予想通り、何故知らない人間を連れてきたのかということに対して康斗は全く言及しなかった。
 どうでもいいのだからまあ当たり前と言える。一人だろうが二人だろうが、そんなことは康斗にとって考えるだに値しないことだった。
 見ると、有志はちゃんとスーパーの袋を手に提げていた。
 キャベツや粉など、昨日使ったものとと同じものを持ってきたようだ。但し、量は輝和がいる分適当に増やしているようだが。

「ちゃんと二人分持ってきましたよ」

 こちらの視線に気付いてか気付かずか、高々と袋を掲げる有志。
 ご丁寧にも、レシートまでひらひら振っている。
 それにざっと目を通し、少し眉をひそめた。

「どうしました?先輩」

「野々上、キャベツは八百屋で買った方が安いぞ。それに豚肉とかイカも、肉屋や魚屋の方が安いものだ」

 どうでもいいことだが、とりあえずは教えておく。まあ金を出すのは康斗ではないから関係ないといえば関係ないのだが。

「あ…はい、確かにそうですね」

 対して、有志は納得したような、それでいてどうでもいいかのような気の抜けた返事をしただけだった。
 有志は一人暮しではなく、そのような節約の知恵など知るわけもなかった。別にスーパーで買ってきた

「まあいい。とりあえず、昨日の復習も兼ねて一枚焼いてくれ。それで悪いところを見るから」

「あ、はい。わかりました」

 指示する康斗と、頷いて粉をボウルに空ける有志。

「…俺はどうすれば?」

 その中で、先日いなかった輝和が一人戸惑っている。

「そうだな…とりあえず野々上の手順を見ててくれ」

「了解っ!」

 言われ、じっと括目する。
 康斗は出来あがるまで本を読んでいることにした。自室に一旦戻り、一冊ハードカバーの本を持ってまた現れた。
 有志が生地をつくるカチャカチャといった音や、紙の擦れる音のみが響く。
 ……………



「ええと……高水君……」

 十分経ったくらいだろうか。唐突に有志が口を開いた。

「何?」

 体勢を崩さず口だけ動かして返事する輝和。そちらにちらと目を向けると、有志は苦笑して、

「そんなに睨まれてるとやりにくいんだけど」

 そう。当に『体勢を崩さず』なのだ。有志は椅子に座ってテーブルの上で作業をしているのだが、そのテーブルに顎を乗せた体勢のまま――つまるところボウルと同じ高さで――、この十分間一言も喋らず、他の部屋内の物に目を当てるでもなく、ただただじっと有志の作業を食い入るように観察していたのだ。

「気にしないで続けて続けて。一日分のハンデがあるからちゃんと見てないといけないし」

 閉口し、また作業に戻る有志。

カチャカチャ

「じーっ」

カチャカチャ

「じーっ」

カチャカチャ

「じーっ」

「…もう何も言わないからさ、口でじーじー言うのは止めて欲しいんだけど」

「わかったよ」

 本当にうんざりした顔で言われると、流石の輝和も悪ふざけを止めた。
 何だかんだ言っても見ているだけは暇らしい。



 そうこうやっているうちに、調理は着実に進んでいた。
 タネは出来あがり、ホットプレートに油をひく。
 まんべんなく鉄板上に行き渡らせ、タネをおたまで円状に延ばす。
 
「いい匂いだな〜」

 顔をホットプレートに近づけながら呟く輝和。
 その言う通り、しばらくすると部屋の中にはお好み焼きの焼ける香ばしい匂いが広がっていた。
 有志は、先日の不器用な手つきとは打って変わった手馴れた手つきで鉄べらを使い、出来あがったお好み焼きを皿に盛った。

「先輩、できました」

「ああ」

 目の前に皿が置かれると、本を閉じて置き、康斗は箸を手に取った。
 見た目はそれなり。鉄板の上に広げられた円形を保ったままで、相似形のような円形の皿の上に乗せられている。その上には鰹節が熱で踊っている。
 箸を入れた。感触もそう悪くない。いや、先日から見れば相当の進化とも言える。
 少し切り分けて口に運んだ。

「…どうですか?」

 自信作なのか、多少誇らしげな顔つきで、そして反面緊張した面持ちで尋ねる有志。

「ほら、高水も食べて見ろ」

 感想も何も言わず、当然いつもの仏頂面のままで皿と箸を輝和の方に回す。

「頂きますっ」

 先ほどからじっと食い入るように――本当に食べたそうだったが――見ていた輝和は、顔をぱっと輝かせて猛烈な勢いで食べ始めた。
 対照的に有志は落胆したようだった。何の言葉もなしに箸を置いた、つまり不合格通知に等しかったからだ。

「どうだ?」

 そんな有志の心情を知ってか知らずか、輝和に感想を尋ねる康斗。
 見れば、そう時間は経っていなかったはずだが、ほとんど一枚残っていたお好み焼きはもう無くなっていた。
 満足そうにお好み焼きを頬張った口を動かし、そして嚥下すると輝和は答えた。それはもう満足そうに。

「美味い!」

 一言。その一言に全てが込められていると言ってもいい。あまりに単純だが、それ故にまさしく真であり、また調理者にとっての最大級の賛辞である。
 そしてそれを聞いた康斗も頷いた。表情は変わらないが。

「高水の言う通り、上出来」

「やった!」

 破顔一笑、飛び跳ねる有志。着地時にどん、と大きい音を立てて康斗に睨まれたのはこの際どうでもいいことだった。

「というよりもこれ以上教えることはない。あとは慣れだ。わざわざうちに来る必要はなかったと思う」

「すみません」

 謝ってはいるが、やはり嬉しそうだ。何かをやり遂げたというか、そんな感じの満足さが全面に押し出ている。

「次は高水か」

 そう言って輝和の方を向く。

「はいっ!」

 輝和はそれに応ずるように、勢いよく返事した。









「…………………」

「あ………あはは………」

 約1時間後。
 そこには、顔面痙攣を起こしたのではないかと思えるほどに引き攣った笑いを浮かべた有志の姿と、ただでさえ細い目付きがいつも以上に鋭くなった康斗がいた。
 理由は明らかだった。
 周囲に散ばった材料の飛沫。その場の中では唯一綺麗に千切りされたキャベツと、元の色がわからなくなったほどのこんがり焦げた――いや、焼けたといった方が正しい、作り方だけで言えばお好み焼きたるべき物体や妙な形に歪んだりした物体。その数五枚。

「また失敗だ…はは…」

 愛想笑いを浮かべる輝和を見ていると、無性にその黒焦げの円盤を投げつけたくなる。康斗は半ば本気にそう思った。
 料理音痴、と言う種の人間がいる。大体は不器用であったり、当人の味覚がおかしかったりする。或いはただ慣れていないだけ、とか。
 だが輝和の場合はそれらの人間とは明らかに一線を画していた。
 有志のお好み焼きを食べて美味いと言った。つまり味覚は常人と同様に機能しているということだ。
 包丁を持たせ、キャベツの千切りをさせてみたらちゃんとほぼ等間隔に切っていた。別にとんでもなく不器用というわけでもない。
 しかし。しかしだ。輝和の行動が『切断』や『攪拌』から『調理』という段階に入った時点で状況が一変した。
 鉄板にタネを流しこむ。作ったタネの約2割が放物線運動を描いて外に舞って行った。
 お好み焼きをひっくり返す。へらがお好み焼きにめり込み、原型を止めなくなった。
 ここまでならいい(あまりよくはないが)。しかし、途中でプレートの温度を上げて見ればいきなりお好み焼きが発火する。
 試しに有志が食べてみたら、泡を吹いて倒れた。ちなみに五分後に息を吹き返したが。
 なんというか、本人の資質云々を言うよりも料理というものに嫌われている――この場合憎悪すら受けているのかもしれない――としか思えないような結果だった。
 有志はここに来て始めて、輝和の姉が断った理由を真に理解した。というか身を持って知らされた。

「……高水、諦めろ。いいな」

「………はい」

 あまりにも低かった康斗の言葉に、ただ輝和は首を縦に振るだけだった。










そして現時間に戻る。





 『惨事』(としか言い様がない)から十分くらい経っている。
 時間は七時過ぎ。
 康斗が言ったのだ。よければ夕飯は食べて行ったらどうか、と。
 本来ならばお好み焼きで夕飯を済ましてしまおうと思っていたのだが、あの物体群を食べるつもりには流石の康斗もなれなかった。
 (ちなみに『惨事』の痕跡は責任を持って輝和に消させた。半ば強制的に。また物体群は土産として持たせてある)
 特に大意はなかったのだが、二人の後輩は喜んで応じた。
 そして魚を捌いていたときに冒頭のやり取りがあったのである。
 待つこと約一五分。軽い物ではあるが、それなりに立派な和風の夕飯が出来あがっていた。
 米は炊いていなかったため、レンジで炒飯にでもしようと思っていた冷や飯を暖めた。
 味噌汁も同様、朝食時に作った大根とワカメのをを火にかけ、魚はおろして網で焼いた。
 後は漬物などを適当に刻み、小皿に盛りつけただけの簡単な粗食だった。

「有り合せだが…」

「美味そー」

「そうだね」

 軽く濡れた手を拭き卓につく康斗を、賞賛の声が迎えた。
 頂きます、と手を合わせてから思い思いに箸をつけ、口に運ぶ。

「やっぱ美味い!」

「いいなぁ…和食」

 単純ではあるが純和風と言った感の夕食は相当好評なようだった。
 人に教えるだけのことはあり、康斗は料理が巧い。そこらの飯屋に行くよりも美味い、ととある人にも言われていた。
 大抵の料理はレシピと道具と材料さえあればそれなりの物を作ることが出来たし、一度味わえばその味をある程度まで再現することも可能だ。
 いつもは康斗のこと、一人でしか食べないために誰からも感想はないが、ここまで美味いと言われるのも少々気恥ずかしいものがあった。



 もともと食べ盛りの少年三人の食欲に耐えうる量があるはずもなく、すぐに食卓上は空になった。

「ご馳走さま〜」

「食った食った…」

 満腹げに呟く後輩二人。その食べ終えた食器を流し台に運び、手際良く洗う。

「先輩、これならいい主夫になれるよ」

 冗談混じりに後ろから声をかける輝和。
 その隣で密かに有志も頷いていたりする。

「さあ…どうだかな」

 肯定も否定もせず、ただ曖昧に口を濁す。
 しばらく雑談をしながら、有志がふと壁時計を見上げた。
 短針が丁度八時を指していた。

「あっ、もうこんな時間だ」

「八時か…そろそろ帰ろうか」

「ああ、じゃあな」

 軽く告げる。
 二人の後輩も同じく軽い挨拶をし、上着を羽織り、そして帰っていった。
 それを玄関口まで見送ってから、また洗い物に戻った。



 ゆったりと茶を飲みながら本日のことを少し考えて見る。
 自分にしては異常な日だった。誰かの名前を新しく知るというのもそうだし、そもそもが誰かと夕食を共にとったことすら二年ぶりだ。
 否応無しに頭に残る、というか残らされるような二人だった。
 時間を見てみれば八時二〇分。アルバイトは九時からだ。
 大体準備時間などを考慮すれば家を出るのに適当な時間だった。
 クローゼットからコートを出し、仕事先へ向かう。



 バイト先は、一般の高校生ならば近寄らないような場所にある。
 駅から少し歩いたところの裏通りだ。
 入口は寂れた感のある木のドア。かといって不潔な感じは全く無く、むしろクラシック調の渋さが出ている。
 その客用の入り口ではなく、裏手の従業員用入口から入る。
 店の制服に着替え、マスター――店長のことである。そう呼ばないと怒る――に顔出しする。
 今日の仕事を聞いた。滅多に無い方だ。
 大体の場合、康斗はウェイターか厨房の方に回される。
 だがたまにだが、その担当者が休みのときにはそのポジションに回される。
 暗い、意図的にそういう照明が為されている店内の、一段高くなっているところに行く。
 客はまだ一人も入っていなかった。大体ここが込みはじめるのは十時かそれを回ったくらいからだ。九時開店なので一人も入っていないのもそう珍しいことではない。
 置かれた椅子に座り、目の前の巨大な物体――グランドピアノの鍵盤にかかった布をどける。
 この店は、つまり世間一般で言うバーだった。居酒屋といったらやはりマスターに怒られた。まあ当たり前といえば当たり前か。シックに纏められた店内には店長のセンスが光り、また小洒落た店としてそれなりに有名な店でもある。
 康斗はこの店で週三日、九時から十二時までアルバイトをしている。当然未成年だから労基法違反だ。だからどうした、と言った感じでもあるのだが。
 そもそも康斗が徹底的にこの場に不釣合いというわけでは決してない。寧ろ老成した雰囲気のある康斗がいることに対して疑問を抱く同僚はあまりいないし、年齢を言うと驚かれることすらある。
 そして、前述したようにたまにピアノの奏者――遊び人風の男なのだが、腕は確かだ――が休んだときには康斗が弾くことになっていた。
 実はここは康斗の姉がもともと働いていた場所だったのだ。そして、金に困っていた康斗が相談を持ちかけたところ、これ幸いと後釜に据えられて結婚してしまったのだ。そしてそのまま夫の異動に父親ごとついていって、康斗は一人暮らしをすることになったのだが。
 そんな事情があることで、マスターにはそれなりによくしてもらっている。そして、康斗のちょっとした特技も姉の口からマスターには語られていた。
 特技、といっても本当にちょっとしたことだ。人によっては凄いことだと言うのだが、康斗本人はあまりそうは思っていない。
 つまり、単純に、しかし極端に観察眼が鋭いのだ。そしてそれを容易に記憶できる。
 料理のレシピなども一度見れば解るし、学校の勉強も然り。かといってそれを覚えたからと言って再現できると言うわけではない。本当に『見』、『記憶する』だけだ。
 だがピアノは小学校のときに少し齧っていたし、康斗自身相当器用な方だ。
 よって、本職の人間ほどではないが、聴ける程度に弾くことは出来る。だからこんな役も回ってくる。
 康斗は、といえば普通にウェイターをやっているよりはピアノを弾いている方が楽だった。注文を取るときにいつもの仏頂面でいるわけにもいかない。よって仕事中は愛想笑いをし続けることになる。当然のことではあるが凄く疲れるのだ、これが。
 厨房の方もそれなりに楽ではあるが、ラッシュ時になると洒落にならないほどの人間が入ってくる。手首の休まる暇もなく、翌日に差し支えることもままある。
 今日は本当にありがたかった。大したことはしていないとはいえ、二人の元気な後輩の相手には多少なりとも疲れがあったからだ。
 あの後輩達…他にお好み焼きの調べ方くらい幾らでも知りようがあっただろうに、どうして自分の所になぞ来たのだろうか。少し考えて見たが、すぐに止めた。答えなど出ない問題だ。意味がない。









 今日はスローペースの曲で行こう。そう決めた。
 夜はまだ始まったばかりだった。   続く


あとがき

皆様凄い方々に囲まれ、肩身の狭い思いをしておりますemp.と申します(笑)
初回は、やはり皆様に倣いまして自案のキャラ、黒木康斗で始めてみました。
というか何か説明臭い気もします。はい、気のせいです。ごめんなさい(爆)
まあ後書きなどというものをつらつら書き連ねるのも何かボロが出るだけっぽいので、この辺りで(笑)
"The close road which has no crossing"
副題:その道近し、されど交わらず
とまあ意味有りげ(無い?)なことを一つ書いて、次の方に御渡し致しましょう。
それでは。

emp.