第七話「クリスマス・イブに光が射して」


ぴぴっぴぴっぴぴっぴぴっぴぴっぴぴぴっぴぴぴっぴぴぴっぴぴぴっぴぴぴぴっぴぴぴぴっぴぴぴぴっぴぴぴぴっぴぴぴぴっ……

 朝の静けさを打ち消す電子音。その小さな連続音はだんだん音の数が増え、音自体もやかましくなってくる。しかし、その音を止める人間はここにはいない。
 いや、正確に言うと人間はいる。ただ、その者は目覚し時計の呼びかけに一向に応じる様子は無かった。

ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ……

 ついに、目覚ましは自分が与えられた最大能力を発揮した。そのけたたましい連続音が、室内を埋め尽くす。だが、その音に混じって規則正しい寝息がかすかに入っている。

ぴぴぴぴぴぴぴぴぴっ……かちっ

 端から見ている者がいたとしたら、持ち主が起きるのが先か、時計の電池が切れるのが先かと思うだろだろうその光景は、唐突に目覚ましの音が途切れたことによって瞬間的にかき消された。良く見れば、時計に白い手が伸びている。しかし、規則正しい寝息だけは室内に残っていた。

「全く……。よくこの音の中で熟睡できるな」

 白い手……もとい、前足の持ち主が、寝息の発信源を見、嘆息する。
 もちろん杉村さんだった。目覚し時計ぐらい彼にも止めることはできるが、千春が起きないので止めなかったのだ。しかし、あまりにものやかましさに、その小さな堪忍袋の緒は早々に切れていた。

「千春、起きろ。時間だぞ」

 布団の中で小さく丸くなって眠っている千春の耳元に寄り、声を掛ける。だが、この程度で起きるようならば、目覚ましレベルが2段階目に移る頃には目が醒めている筈だ。
 当然、寝息は途絶える事は無い。

「むむむ……。起きろーー!! ちはるーー!!」

 耳元であらん限りの声を上げる。しかし、その声にも千春は何の反応も示さない。
 いや、千春の右手が動いた。布団の中からすっと出てきたそれが、猫が顔を洗うかのように数度、頬を擦り。
 ……そのまま布団の中に仕舞われた。

「まったく昔から全然変わらないな。ならば手段は……」

 普通のやり方では起きないと判断した杉村さんは、別の手段を捜すべく部屋中を見渡す。
 そして見つけたのは、椅子と勉強机。

 (音で起きないのなら、後は物理攻撃しかあるまい)

 そう思うや否や、ベッドから飛び降りると、できる限り椅子から遠ざかる。そして、それに向かって猛然とダッシュした。そして、タイミングよくジャンプすると、椅子と机を足場に高く飛び上がる。
 しかし、その先は壁。

 (ここだ!)

 ぶつかる瞬間、杉村さんは思い切り壁を蹴りつけた。別に、壁に穴をあけようとしたのではない。更に高いところに行くために、壁をも足場にしたのだ。そして、その勢いは天井にまで達する。
 そこで彼は身を反転させ、今度は天井を蹴った。当然のごとく、杉村さんの小さな身体はものすごい勢いで落ちていく。
 ベッドの上にと。
 自分の身体では、千春を起こすような衝撃を与えることはできない。そう考えた彼は、落下による加速をつけた体当たりを敢行したのだ。しかも、着弾地点は頭。いくら千春でも、これを喰らえば起きるだろう。
 だが、杉村さんの決死の作戦(?)は、まったくの予想外な結果に終わった。

「……うにゃ?」

 (何!?)

 突然、千春が半身を起こしたのだ。

ぼふっ!

 (……まったく、そこで起きるとは、私の苦労は一体何だったんだ?)

 気の抜けた音を立てて、柔らかい枕の上に落ちた白い物体は、心中そうぼやく。
 しかし、彼の不幸はそんなつまらないことで終りなどしない。
 ……その時、千春はまだ『眠って』いたのだ。
 瞬間、気が抜けていた杉村さんは、次の千春の動きを見ていなかった。だから、自分の身体に影が差すまで、それに気づかなかった。
 そして、気づいた時には時既に遅し。

「っ!!!?? ☆£#*@◇⊃∀▼∇¶≒Å∬∠§◎〇〆¢!!!……」

「ふにゅぅ……。枕が気持ちいい」

 ふさふさで温かな白い枕に頭を埋めた千春は、心底幸せそうな声で呟くと、声も出せずにもがくおこじょにはまったく気づかず、そのまま再び寝息を立て始めた。
 ……なお、この後30分ほどの時間、千春の枕であり続けた杉村さんは、彼女が目覚めた後数分間、ぴくりとも動かなかったと言う。





「はうっ。はうっ。はうう〜!」

 掛け声なのかなんなのかよくわからない声が、行き交う車と一緒に街中を駆ける。そのあまりにもの慌てぶりに、すれ違う人の9割5分が何ごとかと振り返った。
 今日は12月の24日。言わずと知れたクリスマス・イブ。街中のいたるところでいろんな電飾が目に付いた。もっとも、今はその電飾が美しい輝きを放つ時間には遠く、剥き出しの配線が逆にそれらを汚く写す。
 しかし、彼女にはそんなことをじっくり観察する余裕など微塵も無い。

「はうぅぅ〜。遅れるぅ〜!!」

 出発予定時刻より遅れる事20分弱。慌てて家を出た彼女はただひたすら、駅へと向かって走っていた。普段の言行、外見から運動能力ゼロと思われる事がほとんどだが、実際のところそんな事は無く、いざ本気になると結構何でもこなせるのだ。特に走らせると速く、持久力もあるので、追いかけてもそう簡単には追いつけない。

たたたたたたっ、たんっ! たんっ! たたたた……

 コーナリングも見事だ。膨らまずに、ほとんど直角に曲がっている。速度もほとんど落ちていないので、目の前でこれをやられると、動体視力が追いつかず消えたように見えたかもしれない。
 疾風が街中を駆け抜ける。
 しかし、その快走が突如止まった。足は止めずに、その場でじたばたしている姿はとてもコミカルだ。

「はううぅぅ! 信号早く変わってよぅ〜」

 道幅5メートルあるかないかと言った道路。しかし、どれだけ慌てていても決して信号無視などしたりしないところは、千春らしいと言えば千春らしかった。





 ……あれから数週間の時が流れていた。
 ひょんな事で出会った5人は、何かと出会う事が増えていた。千春と綾芽はもとよりよく行動を共にしているし、有志と輝和は康斗に何かと用を作っては会っていた。そして、千春が綾芽を引き連れて康斗達に会いに来る……これが集まるときのパターンだった。
 千春達はもうすぐ社会人である大学の4回生。康斗は大学受験生で、輝和達はまだ高校一年生。年齢も性別も違うこの5人は、不思議と波長が合っているらしい。あるときは料理作り、あるときはトランプ等のゲーム、あるときは揃って買い物と……。
 そして、今日は5人でクリスマス会を開く事になっていた。発案したのは千春。特別な日を皆で楽しもうと、純粋な気持ちで言った彼女は、全員のOKに今日という日が思い出になると信じていた。
 だからこそ、慌てていたのかもしれない。発起人が遅れるなど言語道断だからだ。

「はうはうっ、何とか間に合いそうっ」

 目的地である大型駅「新神棚駅」はもう目の前に見えている。待ち合わせ先の改札まではここから3分と掛からない。
 彼女は駅に辿りつくと、入り口から改札へと続く長い階段を一気に駆け上がる。そして、行き交うサラリーマンやカップルの群れを、その小さな体を生かして次々とすり抜け、改札前に到着した。

「はあっ、はあっ、はあっ……。間に合ったぁ」

 さすがに息荒く、両膝に手をついて息を整える。

「大丈夫か、千春」

 その時、唐突に彼女のマフラーが喋った。いや、マフラーではなく、言わずと知れた杉村さんだ。先ほどの件で本日の体力をごっそり使ってしまった彼は、千春のマフラーになっている間、ずっと目を瞑り回復を試みていたのだが、苦しそうに酸素を求める彼女の様子がさすがに心配になったらしく、思わず声を掛けていた。

「はい、なんとか大丈夫ですよぅ……って、あれれぇ?」

 そう言ってきょろきょろあちらこちらを見渡す。左右に振られた杉村さんは、その異変に思わず目を開ける。
 そして、あまり見たくは無い風景を目にしてしまった。

「みんないないよぅ」

 更に首を左右に振る千春。しかし、改札の向こうを見ようが、行き交う人々の向こうを見ようが、挙句の果てには売店の中を覗き見ようが、彼女を待っているであろう者達の姿はない。
 当然だった。

「千春。念のために聞くが、待ち合わせの場所は覚えているだろうな?」 

 覚えていないだろうと確信を持ちつつも、敢えて問い掛ける。

「あぅ? 新神棚駅の改札前ですよね」

 予測通りの答えが返ってきたことに、杉村さんは思わず嘆息していた。

「はう……あたし、間違えてました?」

「その言葉内に間違いはない。ただ……」

 ちょっとの間を置いたのは、その意味を強調するためだろう。

「どこの新神棚駅の、改札前だ?」

「……」

 暫くの間が空く。その間、千春は「はうぅ」と意味不明な呻き声を漏らしながら首を傾げ……。

「はぅわああぁぁぁーーーー!!」

 再び謎の爆音を鳴らしながら走るミニカーと化していた。


 ……この新神棚駅は、旧国鉄と3本の私鉄、さらには市営地下鉄までが交わる大型駅で、それらの駅名は全て『新神棚』。
 千春が通学に利用しているのはいわゆる旧国鉄。
 今日の待ち合わせの場所は、『大急電鉄・新神棚駅』の改札前だった。





ゴロゴロゴロ……パカーン!!

「よっしゃあっ!!」

 輝和が投じたボールは、吸い寄せられるようにヘッドピンと3番ピンの間へ曲がり、全てのピンを弾けさせた。

「あら、いきなりストライクですか」

 優しそうな笑顔で小さく拍手する綾芽に、ガッツポーズで笑顔を見せる。彼にとっては、ストライクよりも綾芽の笑顔の方が嬉しいのかもしれない。
 ……予定より数分遅れて全員が集合した後、3駅離れた『貴島中町』駅で降りて向かった先は、ボウリング場だった。初めはパーティーだけの予定だったのだが、もっといろいろ遊ぼうという事になり、輝和の提案でボウリングということになったのだ。
 なお、この後適当に町をぶらついてから、千春の家でパーティーを行なう予定になっていた。

「よしよし、幸先いいぞっ」

 発案者だけあって、ボウリングの腕には自信があるのだろう。意気揚揚と引き上げてくる。
 背中の『冥』の文字が、やたらと大きく見えた。

「次先輩ですよ」

「……そうか」

 自分の番を教えられ、康斗が椅子から立ち上がり、ボールを溜めている場所(ボールリターンという)に歩み寄る。

「先輩はボウリングよく来るんですか?」

 有志は康斗のその迷い無き動きに、彼が経験豊富だと踏んだらしい。だが、その康斗の答えは否定。

「いや、前に1回やっただけだ」

「あ、そうなんだ」

 心底意外そうに言う。有志は嘘を吐くのは下手糞なタイプのようだ。感情が表情になって表れてしまうので、何を考えてものを言っているのか非常にわかり易かった。
 康斗が1投目を投じる。それによって、8本のピンが薙ぎ倒された。
 同時に左の方で炸裂音。見れば、全てのピンが綺麗に消えている。

「わー、綾ちゃんすごいですぅ」

 左のレーンには女性陣2人がいるのだが、綾芽もいきなりストライクを出したのだ。

「お?」

 男性陣でただ一人、綾芽の投球を見ていた輝和が、そのフォームに驚く。

「ん、高水君どうかしたの?」

「いや、霧生院さん、ひょっとすると結構やっているんじゃねえかなって……」

 そう言って輝和が指差した先……綾芽を見る有志。引き上げるその優雅な仕草に、有志は暫く見とれていた。
 椅子に座り、何気なくこちらを向いた綾芽が、有志の視線に気付いて、「何か?」とでもいいたげに微笑む。それを見た有志は少し頬を赤らめ、慌てて視線を外したが、

コツン

「あいたっ」

 その外した視線の反対方向から、軽い拳が降ってきた。

「どこを向いているんだ。お前の番だぞ」

 康斗の淡々とした口調に、怒ったようなものは含まれていない。見れば、男性陣のレーンは綺麗にピンが並び直っていた。モニターを確認すると、康斗の名前の横に9という数字が入っている。どうやら、スペアは取り損ねたらしかった。

「あ、はいっ!」

 慌てて自分のボールを取りに行く。別段慌てなくても、遊びなんだからと思いながらその仕草を見ていた輝和が、「んあ?」と、妙な声を上げた。

「ん? 何、高水君」

「野々上、それ、持ち方違うぞ。これはなぁ、こうやって中指と薬指で……」

 そう。有志はまったくの初めてだったのだ。ボールの持ち方も知らない彼は、前の2つの穴に人差し指と中指を突っ込んでいたのを輝和に矯正される。

「高水君、ありがとー。それじゃあ……あっ!」

ゴトン!

 早速投げようと走っていった有志の手から、ボールがすっぽ抜けて康斗の足元まで転がってきた。

「あわわ……」

 慌てて有志はボールを取りに戻る。そして、「何やっているんだ?」とでも言いたげに無表情で彼を見る康斗から逃げるように、そそくさと元の位置に戻って行くが、この時点で有志以外の4人は、次の結果がどうなるかを大方予測していた

「今度こそ……」

 その言葉どおり、ボールを後ろに転がすような真似はしなかった。
 ただ、転がり始めた2メートル程で、右の溝へと落ちて行ったが……。

「あれ?」

 次の投球は、半分ぐらい行ったところでやはり右の溝へと落ちる。

「連続がーたぁ」

 輝和がいちいち声に出して言わなくても、誰が見てもそうだった。「おかしいなあ?」と言いながら後ろへと下がっていく有志。

「それじゃあ、あたし投げるね」

 人数が少ない分適当に時間を合わせるつもりなのか、有志の投球を待っていた千春が1投目を投じた。そのボールはヘッドピンを捉えたものの、6本のピンを倒すに留まる。

「あうぅ……残念」

 惜しくも2投目は残った4本のうちの2本を倒しただけだった。だが、スペアこそ取り逃したものの、その動作に初心者臭さは見受けられない。
 この時点で、輝和は自身の「格好良いところを見せて、霧生院さんがちょっとでもこっちを向いてくれたら良いな作戦」が崩壊しかけている事を感じ始めた。





「……なんなんだよ、この人たちは」

 椅子からずり落ちるような格好で、ボールリターン上にあるモニターを呆然とした表情で見つめているのは輝和だ。
 1ゲーム目のスコア。彼の162というのは、遊びでやっている限りでは自慢してもいい数字だろう。いつの間に練習したのだろうか、高校一年生でこのレベルなら大したものだ。
 だが、綾芽と康斗のレベルは、素人の次元から逸脱していた。

「わー、綾ちゃんすごいですぅ」

 2ゲーム目開始から4連続ストライク。その優雅なフォームに正比例した得点。そしてその投球をしている者がとびきりの美女とくれば、観客が集まるのは当然といえよう。普段客の投球など見慣れているはずの従業員や、彼女連れの男どもまでが綾芽に見とれている。そして、各所からやきもちを焼く女達の声が聞こえてきた。
 そして、右のレーンで投げる康斗の動きも、全く無駄のないものに『変貌して』いた。初め、康斗の投球は本人の言う通り「1回やっただけ」にちょっと毛が生えている程度のものだったが。

 (確か『覚えた』とか言ってからだったよな……)

 そう。康斗は綾芽の投球を見て、あっという間にその全てを理解してしまったのだ。さすがに、完全に再現するには至っていないが、それでも1ゲーム目のスコアは200を超えている。
 ということは、綾芽のスコアはもっと上だったということだ。

 (霧生院さんも凄いけど、先輩も何で真似しただけであんなに上手くなるんだよ……。二人とも常識外れているよ)

 自分が一番常識外れだという事を棚に上げて、内心ぼやいているところに、投球を終えた康斗が戻ってきた。だが、綾芽をぼうっと見ている輝和は康斗に気付いていない。

「どうした、高水?」

 呼びかけられて、ようやく思考の世界から戻ってきた。

「ん? あ、いや……。霧生院さんも先輩も滅茶苦茶上手いなあって」

「俺を誉めても何も出てこないぞ」

 面白くもなさそうに康斗は言う。おだてたところで、彼は決して調子に乗ったりなどしない。もちろん、貶したところで怒りもしないだろうが……。
 その時、自分の名前が出た事に気付いた綾芽が二人の方を向いた。

「霧生院さん、それだけ上手いんだったら、プロボウラー目指したらいいんじゃないの? 絶対なれますよ」

「僕もそう思うよ。霧生院さんがプロボウラー……格好いいだろうね〜」

 割り込んできたのは、7連続ガーターを記録するなど、ほとんどまっすぐボールが転がらないため、27点という綾芽達とは別の意味で見事としかいいようがないスコアで1ゲーム目を終えた有志だった。
 なお、今のフレームも連続ガーターだったらしい。

「ふふっ、そんなに簡単なものじゃないですよ」

 恐らく本気で謙遜しているのだろう。右手をパタパタと左右に振りながら、いつもの優しそうな声、表情で言う。

「そうかなあ? 霧生院さんがプロだったら、賞金女王だってなれると思うけどなあ」

「あら、ありがとう」

 (ん?)

 話し終えたとき、輝和は綾芽の表情が変わっている事に気がついた。やんわりとした口調で礼を言う彼女の微笑みに、僅かながら困ったようなものが混じっていたのだ。

 (俺、なんか変な事言ったっけな?)

 無神経と多少の自覚がある輝和は、自分の言葉の意味を良く噛み砕こうとする。
 しかし、それを飲み込む前に、綾芽が喋りだした。

「あの〜、その『霧生院さん』って、渋い呼び方はやめて、『綾芽』って、呼んで貰えませんか? なんか、そっちで呼ばれるほうが慣れていますので……」

 少し申し訳なさそうに、彼女はそう言った。

「えっ? 綾芽さん……ですか?」

 何故か有志は顔を赤らめる。

「ええ。済みませんけど、それでお願いしますね」

「あ、だったらあたしも千春でいいですよ〜」

 その時、自分の投球を終えたらしい千春が、話に入り込んできた。
 がしかし。

「え? あ、千春……?? って、朱音さんそれ苗字だったんですか!?」

 大ボケた台詞が一つ。頓狂な声を上げる輝和に、視線が一気に集中した。

「何を言っているんだ、高水? それが名前だったら、ここに書いているのが一人だけ名前って事になるだろう」

 さすがの康斗もこれには少し呆れたらしい。そう言って彼が指差した、2つあるモニターの右のほうには「高水」、「黒木」、「野々上」。そして左側のモニターには「霧生院」、「朱音」と表示されている。

「それに、綾ちゃんはあたしの事ずうっと『千春』って呼んでますよ?」

 千春は少し首を傾げ、不思議そうに輝和を見ていた。

「へ? そうなの? 全然気付かなかったです。あっはっは」

 明るい声で笑い飛ばす輝和。何度も会っていればいい加減気付きそうな気もするのだが、彼はたまにこのような大ボケをするのだ。もっとも、笑い飛ばす辺り、その悪癖を深刻に取っていないのは明白だが。

「まあ、確かに私達、正式な自己紹介ってした覚えないですものね」

 しかし、そんな輝和にも綾芽はしっかりフォローを入れていた。

「それだったら、俺も輝和って呼んで貰って良いですよ!」

 身を乗り出して、目を輝かしながら輝和はそう提案する。

「判りました、輝和さん」

「判ったよー」

 優しそうな笑みと楽しそうな笑み。二つの笑みが同時に快諾する。そして、楽しそうな笑みが、その様子を何か言いたげに見ていた有志の方に向けられた。

「だったら、野々上君も『有志君』で良いよねっ?」

「え?」

 千春にそう言われた有志は、喜びと困惑を混ぜ合わしたような複雑な表情を見せる。
 康斗はその時、初めて有志と千春に会った時の事を思い出していた。「友達になろう」といった千春から、逃げるようにして去った年下の少年の事を。
 しかし、今度は彼は拒否しなかった。

「あ、うん! そう呼んでもらえると嬉しいです」

 笑顔でそういう。だが、その中に潜むものを、洞察力に優れた康斗はあっさりと見抜いていた。本人は隠しているつもりなのだろうが、その奥底に隠した困惑が、少しだけ表情に出ていたのだ。

 (こいつ、まだ何か遠慮しているな)

 自分たちが知り合って、もう半月以上が経っている。それに、何かにつけて会おうとするのは有志の方だ。だが、どうも何か遠慮しているところが抜けない。相手が先輩だからというのもあるのだろうが、それで片付けてしまうには妙な違和感があった。だいたい、同い年の輝和に対しても、同じような態度を見せる事がある。
 特に彼は、相手がより親密になろうとした時に、戸惑っているようなところが見受けられた。

 (まあ、自分も似たような存在かも知れないがな)

 そう思い、少し苦笑いする。今日もこうやって集まっているが、彼から誰かに会おうとした事は無い。いつも勝手にやって来る相手に付き合っているだけであって、取り立てて親密になろうという意思がないからだ。『断る理由が無い』からそうしているだけだのだが、相手にとって受動的に映るだろうこの男は、いい玩具なのかもしれない。
 最も最近、こんなのも悪くないと思い始めていたいのだが……。

「ん?」

 そんな事を思いながらふと、前を見れば全員の視線が自分へと集まっていた。その期待の眼差しに、瞬間戸惑いを見せた康斗だったが、聡明な彼はすぐに、自分に何を期待しているのかを理解していた。

「別に好きに呼んで貰ったら良いですよ」

 そう、5人中4人が名前で呼び合う事が決定されたのだ。残る一人にも、同じ事を期待するのはあたりまえだろう。自分としては、『黒木』と呼ばれようが『康斗』と呼ばれようがどうでもいい事なのだが、それで相手が喜ぶんだったら別に構わないだろう。

「それじゃあ、これからは全員名前でな! よ〜しっ!」

 何が「よ〜しっ!」なのだろうかと思いながら、康斗は輝和の小さなガッツポーズを見ていたが、すぐにそれへの興味を失うと、腕を組み再び別の思考へと入っていった。

「わかりました。……あ、ちょっと飲み物を買ってきますね」

「あ、あたしも行くよ」

 すっと席を立ち、自動販売機へと歩む綾芽を千春が追おうとする。

「あ、はーい……わっ!」

 その千春の動きを見ていた有志が、視線の反対側から突如視界に飛び込んできた白い影に驚く。その白い影は真っ直ぐに千春の元へ向かうと、その足元に纏わり付いた。

「あー、びっくりした。杉村さんかぁ……。どこにいたんだろう?」

 その姿に気付いた千春が差し出した手を伝い、頭の上まで登っていった杉村さんの姿を眺めながら、呟く雄志に答えたのは、少し呆れた様子の康斗だった。

「ずっとここにいたぞ」

 組んでいた腕を微妙に崩し、指した先はボールリターン。そこに集まるボールの最後列に、その指先が向けられている。

「え、居ました?」

 不思議そうにそこを見つめ、有志は首を捻った。しかし、どうも心当たりがないようで、彼は早速思い出すことを放棄していた。

 (どうでもいいけど、ペットの持ち込みはいいのかなぁ?)

 そんな事を考えながら、何気なしに周りを見る。そして彼は、ボーっと一点を見つめている輝和に気がづいた。

「どうしたの……って」

 そう言ってから、その視線の先にあるものに気がついたようだ。そこには、自動販売機の前でなにやら談笑している綾芽たちの姿がある。どうやら、ずっと彼女たちを目で追っていたらしい。
 いや、彼女たちを見ていたのは、輝和だけでないようだ。場内いたる所に、二人に(一部は頭の上の白い物体に)魅せられた者達の姿があった。美人系にかわいい系、そしてマスコット的存在が一箇所に集まれば、人の目を引くのは当然だった。

「やっぱりあの二人は目立つよなぁ」

 呟く輝和に、「うんうん」と有志が相槌を打つ。

「千春さんも綾芽さんも持てそうだもんねぇ。千春さんたちと仲良く出来ている僕達って、幸せなのかもしれないね」

 実際のところ、綾芽はともかく、千春はアイドル的な要素はあっても一般的には持てたりしないだろう。中身的にはともかく、外見的にはややもすると中学生以下なのだから……。しかし、そんな彼女をも恋愛対象に見てしまうのは、有志自身の中身も下手すると中学生以下だからであろう。
 それはともかくとして、そんな有志の言葉を聞いているのか聞いていないのか、輝和はぼーっと二人を見つづけ、そしてまた呟いた。

「……綾芽さんて、彼氏いないのかな? 今日俺たちに付き合っているってことは、多分いないんだよなぁ」

「え? うーん」

 言われて、有志は思案した。今日はクリスマス・イブ。確かに彼氏がいるのなら、千春の提案にも応じなかっただろう。だが、彼女はここにいる。

「綾芽さんぐらいに綺麗で優しい人だったら、恋人の一人や二人はいてもおかしくないと思うけど。そういや、聞かないね」

「二人いたら二股だろうが」

「あ……」

 有志の大ボケに、輝和が速攻ツッコミを入れていた。

「この後、会いに行くのかもしれないぞ。相手が社会人だったら、仕事が終わってからというのも考えらえるだろう」

 横から康斗が会話に割り込んできた。今日は平日であり、康斗達学生は冬休みだが、社会人は仕事中の時間である。確かに、自分たちの集まりにそんなに遅くなる予定はない。せいぜい、7時ぐらいで終わるつもりだ。それは綾芽の要望だった。「早い目に帰りたいので……」という一言で、食事を済まして解散という事になったのだが、よくよく考えてみれば、それはその後に用事があったからと解釈して構わないだろう。

「そっか、そうだよなあ……」

「あれ? 輝和君どうしたの?」

 戻ってきた千春があからさまに落胆した輝和を見て声を掛ける。しかし、輝和は俯いたまま反応しない。

「あぅ……?」

 千春は不思議そうに首を傾げた。その瞬間、足場を傾けられた杉村さんがそこから飛び降る。そして、先程康斗が指したボールの上へ乗ると、そのまま丸くなり目を閉じた。

「……なんか杉村さん疲れているみたいだね」

「はうっ!?」

 その様子を見た有志の一言を聞いて、輝和を見たままぼけーっとしていた千春が突如慌てた声を上げた。

「たぶん気のせいだと思いますよ〜」

「……?」

 それだけ言うと、投球を再開した綾芽の元へ逃げるようにして行ってしまう。
 まあ、さすがにぼけぼけとしたところのある千春でも、「ちょっと枕にして寝てました〜」とは言えないだろうが……。

「なんなんだろう……って、杉村さんに言っても判らないか」

 まさか通じているとは思わず、ボールから尻尾を垂らしたおこじょに向かって呟いた。

「しっかし、なんかこうやってみるとタオルが置いてあるみたいだなぁ……」

 有志はやっと、先程まで杉村さんに気が付かなかった理由を理解したようだった。だが、勝手に理解された方は堪ったものではない。

 (この美しい毛並みのどこをどう見てタオルに見える? そんな事思うのはお前ぐらいだ)

 目を瞑ったまま有志の一人事を聞いていた杉村さんは内心憤慨する。しかし、一応有志や康斗の前では喋れないようにしている彼に反論する事は出来なかった。

「げげ、駄目だぁ」

 情けない顔で輝和が帰ってきた。見れば、8本ものピンが残っている。どうやら、さっきの件がよっぽどショックだったらしい。

「やったあ、またストライクだぁ〜」

 そんな輝和とは対照的で、飛び跳ねながら千春が戻ってきた。周りの点数がすごいので目立たないが、彼女も1ゲーム目に120を記録している。

「いいなぁ……」

 その様子を見て羨ましそうに呟く有志の番が早速回ってきた。康斗がストライクを出したからだった。

「うーん、何で上手く転がらないのかなぁ」

 2ゲーム目に入ってからも、彼はまったく進歩を見せるそぶりが無い。このままでは、このゲームも『超』低スコアに終わるだろう。
 だが、そんな彼に差し伸べられた救いの手があった。

「有志さん、あのですね……」

「え?」

 綾芽が寄って行ったのだ。

「投げる位置がばらばらですよ。大体4歩ぐらいで投げるところに行けるぐらいの位置に立って……有志さんだったらこの辺ですか。それで……」

 言いながら、文字通り手取り足取り事細かく説明を始める綾芽。初めは戸惑っていたものの、素直な有志はその一つ一つを真剣に聞いている。

「……なんか、適度に上手いのが損だって感じてきた」

 その光景を少し口を尖らせながら、輝和は羨ましそうに眺めていた。

「それと、ボールが重すぎるんじゃないですか? 千春さんのボール使ってみてはどうです?」

 そう言って綾芽が指差したのは、6という数字が大きく書かれた黄色いボールだった。いわゆる、一番軽いボールと言う奴だ。

「いくらなんでも軽すぎるんじゃねえの? それに、指入るのか?」

 輝和の言う通り、子供ならともかく、普通の男性なら6ポンドなどという軽いボールにつけられた穴に指を入れる事は出来ない。
 まあ、今有志が使っている9ポンドも、入らない人は入らないのだが……。
 しかし。

「あ、これだったら楽に投げれるよ。あれは重くて……」

 と、信じられない事を言いながら、有志はごく普通にそのボールを持っていた。

 (あいつの腕は女並か?)

 飽きれる輝和には気づかず、有志は綾芽に言われた事を復習している。そして、一通り確認した後、投球動作に入った。

 (お?)

 その動きが先ほどのものとぜんぜん違う。完璧とまではさすがに行かないが、一度聴いただけの割にはなかなかに様になっている。特に、きちんと後ろまでボールを振り上げる所は直前まで見られなかった部分だ。
 そして……。

パッカーンッ

 軽快にピンの弾ける音が響いた。

「やったあ、ストライクだよ!」

 回りへの迷惑をまったく気にせず、飛び跳ねながら戻ってきた有志が甲高い声で言った通り、全てのピンが綺麗に倒されていた。

「よかったですね、有志さん」

「うんっ。霧生……綾芽さんの言う通りにしたら上手く行ったよ。ありがとうございました!」

 そう言って、真面目な新入社員でもそこまでやらないと言うぐらいに深々とお辞儀した少年に、綾芽はにこりと微笑む。

「それでは有志さん。今の投げ方、忘れないで下さいね」

 その微笑みを見て少し顔を赤らめていた有志は、綾芽の一言にちょっと困ったような顔をする。それは、先ほど綾芽が名字を連呼された時に見せたものと同じような表情だった。

「あら、どうしました?」

「うーん……。綾芽さん、なんか恥かしいです……その呼ばれ方。君づけで呼んでくれません? 綾芽さんのほうが年上なのに、『さん』付けするのは変ですよ」

 右手を首の後ろに回しながら、彼はそう言った。その仕草は照れているときに見せる彼の癖だ。
 そして、それを聞いた綾芽は瞬間きょとんとし、短く一呼吸ぐらいの時間を置いて再び微笑む。

「いいですよ、有志君」

「あ、ありがとうございます!」

  再び元気にお辞儀をすると、椅子には座らず、そのまま自動販売機の方に駆けて行った。

「……元気な奴だな」

「まったくだ」

 腕を組んだまま、目だけで有志を追っていた康斗の呟きに輝和が同意する。
 その会話を皮切りに、ゲームが再開されていた。
 しかし、自動販売機の前でジュースを選んでいる有志は、見本の缶を眺めながら、ぼんやりと考え事をしていた。その表情は、先ほどまでとは打って変わって精彩に欠けている。

「……はぁ」

 そしてため息をついた。
 自販機から戻ってきた有志を待っていたのは、「お前の番だぞ」という康斗の声と、「スペアスペア〜」と言いながら戻ってきた千春の姿。彼は先ほど綾芽に言われた通り実践し、今度は2投で9本の成績を上げる。前までとは打って変わっての上々の結果にも関わらず、急に押し寄せてきた不安を拭い去るには至らない。
 彼は訝しげる綾芽の視線に気付かないまま、とんと椅子に腰を掛けた。
 ……この地に越してきて半年。ひょんな事で親しく話せる関係になった4人は、少年の心の隙間を確実に埋めていた。綾芽は綺麗で優しい姉のような存在。気さくな輝和は色々自分に話し掛けてくるし、康斗は自分の我侭にも良く付き合ってくれる。
 だが、もしも自分の能力が彼らに知れた場合、彼らはどういう態度を取るのか?
 それを考えると不安だった。彼らといれば楽しい。だから、彼らに会う事を望む。だが、会えば会うほど、そして楽しければ楽しいほど、その事を考え心が沈んだ。
 好きなものを失った時の衝撃は、それが好きであればあるほど大きいのだから。

「よ〜し、あたしの番だぁ」

 上機嫌そうに椅子から立ち上がったのは千春だった。先ほどから成績を上げ、このフレームでストライクを取れば150も狙えるところまで来ており、すっかり夢中になっていた。投げるとき指が滑らないようにとタオルで汗を拭っている。そんな彼女を……ややもすれば幼く見える自分よりも更に年下に映るだろうその女性を、有志はじっと見つめていた。
 初めて出会ったあの時、「友達になってあげる」と言ってくれた女性を……。
 見つめていて、それに気がついた。

「朱音さん……それ」

「はぅ?」

 名前で呼べと言われた事も忘れ、呆然と有志が指差した先……千春が持っているタオルが、彼女を恨めしそうに見つめている。
 そのタオルと千春の目が合った。暫くの間、それを不思議そうに見つめていた千春は、唐突にその正体に気が付く。
 杉村さんだった。

「はうわああぁぁ!! ごめんなさいごめんなさい杉村さんごめんなさい〜っ!!」

 小さな白い物体にひたすら謝りつづける千春を、有志を始めとした一同ほか、群集皆一様に見つめていた。





 時刻は4時少し前といったところか、沈むのが早い冬の日は、もう結構な傾きを見せている。そんな空の遥か下、6、7メートルほどの幅しかない川の側道を、買い物袋をぶら下げた5人が歩いていた。
 本来ならもっと早い時間に千春の家に着く予定だったのだが、遅れたのには訳があった。輝和の思惑と大きく離れたボウリング大会が終わった後、新神棚駅に戻りパーティー用の食材などを集めようと駅前商店街に入ったところで、輝和が「少しゲーセンに寄ろう」と言い出したのだ。
 輝和はそこで見つけた流行のゲーム……対戦可能の格闘ゲームで地元のゲーマーを蹴散らしていた。どうやら、先ほどのボウリングでし損ねた自慢を、ここでするつもりだったらしい。だが、渋る有志を無理やり対戦相手に勧誘した事が、今日二度目の誤算に繋がった。有志は全国レベルで見てもかなりの腕前を持つ『超上級ゲーマー』だったのだ。3度リベンジを試みて、そのことごとくを『秒殺』で片付けられた輝和は、どんどん乱入してくる地元ゲーマーのやられぶりを見て、なぜ有志が渋っていたのかを理解していた。まったく実力が合わなくて、彼にとってつまらないのだ。
 結局、有志は10連勝したところで、「時間がもったいないよ」と言う台詞を残し、プレイを放棄していた。

 (まさか、有志があんなにゲーム上手いとはなぁ……。今日はなんか、こんなのばっかりだ)

 いい所を見せようとして空回りを繰り返す輝和。しかし、そんな彼もそのゲーセンで猫好きの心を揺さぶる可愛いぬいぐるみを取って機嫌を回復していた。白猫と黒猫、2個あるのは同じ猫好きの姉の分も考慮していたからである。姉のブラコンぶりに閉口気味の割には、こういう御土産を用意しようとするところ、多少なりシスコンの気があるのかも知れなかった。

「しかし、だいぶ遅くなりましたね。千春さん、今からケーキ作っていて大丈夫なんですか?」

 綾芽が横を歩く千春を見下ろしながらいう。170を越える、女性にしては長身の彼女は、千春と話す時どうしても極端に見下ろす形になってしまう。しかし、それでも威圧感を与えないのは、綾芽が自然と発している柔らかい雰囲気によるものだろう。
 そして、見上げる千春が発する、人を魅きつける魅力もまた、彼女独特のものだった。

「大丈夫ですよ〜。スポンジ部分は、昨日作ってあるもん」

 一人買い物袋を持っていない彼女は、代わりにまだちょっとむくれ面の杉村さんを胸に抱え、優しい手つきでその綺麗な毛並みを撫でながらそう返答する。
 実は、千春の寝過ごしはこれが原因だった。普段、彼女の寝起きは決して悪くない。なのに、今日寝過ごしたのは、前日夜遅くにスポンジケーキを作っていたからだった。「スポンジケーキは、焼いたすぐ後より、一日置いた方が美味しいんだよ」とか言いながら、何を思ったのかマンションの明かりもほとんど消えようという時間に作り始めたのだ。
 ただ、出来の方には自信があるらしい。「任せといて」と言いながら胸を叩こうとして、落としそうになった杉村さんを慌てて抱えなおしていた。

「だったら、ケーキは千春さんに任せて、他の料理は私が作りますか」

「お、綾芽さんの手料理!? うわっ、楽しみだ」

 先ほどから、ケーキの会話に「千春さんのケーキ美味いんだろうなあ……」と、涎を垂らしそうな表情で呟いていた超甘党の輝和が、綾芽の一言に素早く反応した。

「千春さんに比べたら、ちょっと落ちますよ?」

「大丈夫ですよ。綾芽さんの料理だったら、一粒残さず食べますからっ」

「ふふっ、ありがとう」

 輝和の勢いにちょっと困惑したようなものを含めながらも、微笑みながら綾芽は礼を言う。そして、ふと彼女は思い出した。
 輝和の『一粒たりとも食べられない料理』の事を。

「そう言えば、輝和さんたちのクラスの『お好み焼き大会』はどうなったんですか? 確か、終業式の日にするって言っていたと思うんですが」

 そう。5人が初めて揃った日。あの後康斗の部屋で千春が二人に『千春流お好み焼き』の作り方を伝授していたのだ。それまでの康斗のレッスンにより基本をマスターしていた有志は、すぐにその違いを理解し、自分のものにしていた。だが、輝和はと言うと昨日までの出来の酷さに、更に輪をかけたような物体(もはや、料理とは表現できない)が増えるだけ。どうやら、料理の内容が煩雑になればなるほど、出来が酷くなるらしく、これにはさすがの千春も「はうぅぅ」とか言いながら首を傾げるしかなかった。
 結局、輝和の事は康斗同様、彼女たちも諦めたまま本番を迎えたわけだが。

「……」

 普段会話の切り返しが速い輝和が、言葉を返せずに黙っている事で、おのずと結果が判ってしまう。
 代わりに、独特の高い声で綾芽に返答をしたのは有志だった。

「ちゃんと終わりましたよ。僕は上手く出来たんだけど、結局2位でした」

「あら、2位になったんですか。すごいですねぇ」

 微笑み、有志を見下ろす綾芽の視線に、有志は顔を少し赤らめ、右手を首の後ろに回した。

「えへへ、先輩たちのお陰ですよ。でも、あれだけいろいろ教えてもらったのに、優勝出来なくてちょっと悔しいかも……ですね」

「確かに、あれだけのものを作れて2位というのもおかしな話だな」

 康斗の言う通り、康斗と千春のお好み焼きの『いいとこ取り』をして完成した有志のお好み焼きは、その辺りのお好み焼き屋で食べるものよりも美味いといえるものに仕上がっていた。元々、学園祭で出したお好み焼きが不評だったと言う理由で開催された大会だ。同クラス内にあれより美味いお好み焼きを作れる奴がいるというのも不思議な話だ。
 その謎は、次の有志の台詞で解き明かされた。

「実は、本場まで足を運んだ子がいて……。初めは休みの日に試食に行っていただけだったんだけど、物足りなくなったらしくて学校休んで泊り込みで修行してきたらしいんです。その子に負けちゃいました」

「それはまた、凄く気合入ってますね」

 そう言う綾芽の表情は、コミカルに描けば汗マークが付けられる事間違いなしの、微妙に崩れた笑みだった。

「1週間帰ってこなかったんだよ。完全にお好み焼きの魅力に取り付かれたみたいで、卒業後はお金を溜めてお好み焼き屋を作るんだって」

「まあ、そこまでした子が相手だったら仕方がないですよ〜」

 負けた事を本当に申し訳ないと思っているのか、ちょっと沈んだ表情をしながら喋る有志をフォローするかのように千春が言ったのを聴いて、有志の顔がパッと明るくなった。

「それで、高水の方はどうだったんだ?」

 輝和に言っても答えはないと判断したのか、敢えて有志に問いたのは康斗だ。有志は一旦輝和を見、アイコンタクトで「喋るな」と言っていないか確認してから、一言こう呟いた。

「開始5分でレフェリーストップが掛かりました」

「はうぅぅ……」

 大きくため息(?)を吐く千春。「あらあら」と、ちょっとおばさん口調で言う綾芽に、聴くまでもない答えに表情一つ変えなかった康斗と、反応はそれぞれ。
 しかし、その話題のネタである輝和は、あさっての方向を向いていた。別段、照れて視線を外しているわけではない。いや、初めはそうしていたのだが、今は別のものに意識を取られていた。

「どうした、高水」

 自分は変えないつもりなのだろうか、いつもの呼び方で輝和を呼ぶ。呼ばれた彼は首だけを後ろに向け、すぐに元の方向へ戻すと、見ていた物を指差した。

「あれ、なにやっているんだろうなと思って……」

 指差したのは進行方向。道から少し視線を横にずらした川の中に人影があった。距離が離れているので判らないが、かなり小さな男の子のようである。手で川底を漁っているようだが、その際に胸元が水面に触れているように見えた。

「この寒い時期に何をやっているんでしょうか?」

 綾芽の言う通り、12月も後半というこの時期は決して水遊びに向いているとは言えない。もし、魚を掬っているのならば網を使ったほうが効率がいいだろう。

「ちょっと僕行ってみるよ」

 訝しげる他の4人を尻目に、そう一言有志が走り出した。

「別にわざわざ走らなくても……」

 輝和が呟く通り、進行方向なので歩いていてもそこには辿りつくのだが、

「あぅ、あたしも」

 と、千春まで駆けて行ってしまった。残った3人はそれぞれ顔を見合わせ、少し早歩きでそこへと向かう。
 そして見たものは、胸元を濡らせるだけ濡らしたまま川底を漁る、今時珍しい半袖半ズボンの少年──小学校中学年ぐらいか──と、素足になってズボンの裾をたくし上げている有志、その横に佇む千春だった。

「何やっているんだお前?」

 訝しげる声を掛けたのは輝和だ。有志は一旦手を止めると、首だけを彼らの方に向け、こう言った。

「みんな、この子の鍵を捜すのを手伝ってくれない?」

「はあ?」

 再び、3人は顔を見合わせる。

「あのですね……」

 横で佇んでいた千春が説明するに、どうやらこの少年、家の鍵を遊んで振り回しながら歩いていたところ、誤ってこの川に放り込んでしまったらしい。両親の帰りが遅いらしく、鍵がないと家に入れないそうで、さっきから必死で捜していたそうだ。

「それは判ったが、中々難しそうだぞ」

 康斗が川の流れを眺めながら、既に川に入り作業を開始している有志に向けて言う。川の深さは有志の膝ぐらいまでが一番深いところか。川幅は7メートル程度。場所さえ特定できればそう難しくないと思えるかもしれないが、現在川は前日の雨で濁っており、目測で捉える事は難しいだろう。

「でも、捜さなきゃ見つからないよ」

 もっともな事を言い返す有志。どうやら、見捨てて帰るや諦めさせると言う選択肢は、彼の中にはないようだ。それ以上、康斗は何も言うつもりはないらしく、黙って靴下を脱ぎ始めた。もとより、自ら何かにか関わるような事はしない。だが、関わってしまった以上それを無下にしたりはしないのが、黒木康斗という人間だからだ。

「ちぇっ。何が悲しくてこのくそ寒い状況下、水遊びをしなきゃらなんのか……」

 輝和がそうぼやく。文句を言いながらも、用意を始めるところ本気で面倒くさがっている訳でもないようだ。

「あう、あたしも……」

「朱音さんたちは、荷物の管理をしていてください」

 にべもなく千春にそう言ったのは康斗である。女性にそんな真似をさせる訳にはいかないと思うのは当然であろう。だいたい、鍵を失くしたと言う少年と千春の身長はほとんど変わらない。と言う事は、彼女がいくらパンツの裾をたくし上げても、濡れてしまうと言う事だ。もちろん川底に手を伸ばせば、この少年のように上半身まで水浸しになる事は避けられないだろう。

「はうぅ……」

 消沈してうめく千春。しかし、康斗はいくら千春が申し出たところで、承諾するつもりは無かった。

「それと、お前。もう上げっていろ」

「え?」

 川に入りざま、康斗が黙々と作業を続ける少年に向けてそう言い放った。呼ばれたその少年は康斗を見て、瞬間顔を強張らせる。それもその筈、康斗のその冷めた細目は、子供にも決して受けたりしない。だが、すぐに害意がない事を悟ったようだった。

「駄目だよ。お兄ちゃん達だけに捜して貰うの、悪いから……うわぁ!」

 しっかりとした口調でそう答えた少年の身体が突然浮いた。いや、後ろから抱え上げたのは、文句を言いながらも康斗より先に作業を開始していた輝和だった。

「人の好意は素直に受け取っとけって。お前、顔が真っ青なんだよ」

 少しにやつきながら、そのまま川岸に待機していた綾芽の元まで少年を持っていくと、再び作業に戻る。

「大丈夫ですよ。すぐに見つかると思いますから」

 震えながら、不安そうな表情で作業する3人の姿を見つめる少年に、綾芽は優く声を掛け、その頭を撫でていた。





「なあ、本当にこの辺なんだろうな?」

「間違いない……と、思う……」

 大きな声で呼びかける輝和に、答える少年の声は少し尻すぼみだ。
 綾芽の言葉も空しく、作業開始から30分経過した現在も、鍵は見つかっていなかった。現在、少年は濡れたシャツを脱ぎ捨て、代わりに綾芽から借りた上着に包まりながら千春の買ってきたホットの飲み物を飲んでおり、だいぶ青ざめた顔は戻っていた。だけど、不安そうな表情だけは、ますます深いものになっている。
 そして今、千春の姿がこの場から消え去っていた。

「はう〜、ただいま〜」

 その千春が、紙袋を抱えて戻って来た。そして、早速その中身を開けて見せる。
中から出てきたのは、一枚のプリントシャツだった。濡れたシャツが使いものにならないと判断した彼女は、近くの衣料店にこれを買いに行っていたのだ。

「はい、これ着ているといいよ。あげるから」

「え、いいの? お姉ちゃん」

「いいですよぅ、風邪引いたら大変だからね」

 戸惑う少年に、最高の笑みを見せると、それを手渡す。

「あ、ありがとうございます」

 体育座りをしたまま頭を下げ、早速少年はそれを着込んだ。それを優しそうな目で見つめる千春を見て、横にいた綾芽がくすりと笑った。

「綾ちゃん、どうしたんです?」

「いや、何でもないですよ」

 ひらひらと手を振って、きょとんとする千春を誤魔化す。さすがに、姉弟みたいだと思ったとは、ちょっときつい冗談だと思ったからだった。

「それで、鍵はまだ見つかってないんですよねぇ」

「……ええ」

 暫くの間、頭の上にクエスチョンマークを浮かべていた千春が、思い出したかのように言う。まあ、その答えは聞かずとも、男3人が作業を続けている様を見れば瞭然なのだが。

「まさか、流されて下流の方に行っちゃったって事ないですよね?」

「多少重量のあるものですからね。そうそう流されたりしないとは思いますが……」

 答える綾芽の歯切れが悪い。今日の川は普段よりも多少増水しており、流れもそれに乗じて早くなっている。濁流というほどではないにしろ、不安材料の一つではある。もし、流されたのならば捜しだすことは不可能だろう。
 綾芽達はそうなっていない事を祈るしかなかった。

「なあ、諦めて両親戻ってくるのを待っていた方がいいんじゃないか? いくら服着たからって、こんな吹き曝しの所にずっといたら本当に風邪を引くぞ」

 岸でのやり取りを見ていたのだろう。輝和がそう少年に声を掛けた。ただ単に作業が面倒くさくなったか、本気でそう思っているのかは本人に聞かない限り判らないが、その仕事ぶりから察するに後者である可能性が高いだろう。実は、作業中の3人の中、一番元気に作業を続けているのは彼なのである。
 もっとも、さり気なく魔法を使い冷気をシャットアウトしているからというのも関係しているのだろうが……それはともかく、答えようとしない少年を代弁する声が、輝和の予測しない方向から上がった。
 有志だった。

「そう言うわけには行かないよ。鍵無くしたって言ったら怒られちゃうじゃないか。ずっと一人、玄関の前で待ちつづけて、やっと帰ってきたと思ったら怒られてじゃあ、辛いだけだよ」

 それだけ言うと、有志はまた淡々と作業を開始した。普段の子供っぽい表情、仕草を微塵も見せず、真剣そのものの姿で鍵を捜しつづける。

 (そういや、こいつも鍵っ子だったな)

 作業を続けながら、聴覚神経だけを二人の会話に傾けていた康斗は、頭の中に仕舞い込まれていたその情報を無意識の内に引っ張り出していた。初めて有志と会ったとき……確か、一人暮らしかどうかを問われた時に、「両親は家にいるが、帰ってくるのが遅い」と返答していたはずだ。ひょっとすると、同じような経験が過去にあったのかもしれない。

 (……最後まで付き合うしかないか)

 どうせ、自分たちが止めると言ったところで、有志は止めたりしないだろう。そうなったら、陸にいる二人もこの場から離れたりする事も無いはずだ。ならば、作業を続けるのみ。
 そう、康斗が判断したときだった。

「あ、ごめん……」

 小さな声だった。有志の高い声で無ければ、聞き逃していたかもしれないような声量だった。見れば、こちらに背を向けて背中を丸めている彼の姿。しかし、その動きはどう見ても先ほどまでの真剣に作業を続けるものとは違っていた。ポケットの中を漁ったり、水面に手を浸したりと明らかに不可解な行動を隠そうとしている。そして、唐突に持ち場を離れ、下流の方へと歩いて行った。5メートル程離れたところで、おもむろに川底を漁りだす。
 僅か3秒ぐらいか、彼はいきなり何かを拾い上げた。
 ……空き缶。

「これじゃないよ。……まったく、こんなことするから川が汚れるんだ」

 むっとした表情で、それを岸に放り投げると、その場から離れ、またまったく違う場所を漁り始めた。その動きは、先ほどまでのローラー作戦ではなく、間違いなくそこに何かあるのを確信してのもの。
 そして。

「あ、あったあ! 君ぃ、これだよねっ」

 有志が高々と掲げたそれが、夕日に照らされる。だが、反射の為によく見えない。

「おいおい、まじかよ?」

 全員が岸に戻る有志の元へと集まって行く。そして、真っ先に有志の所へ辿り着いた少年が、喚起の声を上げた。

「これだよ! お兄ちゃん、ありがとう!! ……ございました」

 よく教育されているらしく、少年は慌てて丁寧な口調に切り替えると、ぺこりと少し可愛らしいお辞儀をした。

「はい、良かったね。もう振り回しちゃ駄目だよ」

「うんっ!」

 元気よく返事をすると、鍵を受け取った少年はその出で立ちから想像できる元気さをフルに発揮し、走り去って行った。

「ちぇ、やっぱり報酬はなしかぁ。ま、期待してないけどな」

 そう言いながら千春が用意よく買ってきていたタオルで足を拭き、けらけらと笑っているのは輝和だ。さり気に反則技を使っていたので、彼にとっては面倒な事を除けば楽な作業である。

「まあ、なんにせよ見つかってよかったですねぇ。普通、あれだけ流されたら見つかりませんよ。有志君、なんであの辺りにあるって判ったんですか?」

 綾芽が訝しげるのも無理はない。有志が鍵を見つけた場所は、彼らが主に捜していた地点より10メートルほど下流に下ったところだ。あのまま作業を続けていたら、間違いなく見つからないまま終わっていただろう。

「え? ああ、なんとなしにですよ」

「嘘を吐くな」

 困っているのを笑顔で誤魔化している。そんな誰にでも判るような嘘を切り裂いたのは、普段他人がどういう行動に出ようと関心を持ったりしない康斗だった。嘘を指摘された本人はもとより、他の3人までが彼に注目する。そして、康斗を見る有志の表情が硬いものへと変貌していた。

「お前、さっき一体何と喋っていた」

「……」

 黙りこむ有志を、康斗は細い目をさらに細くして見続ける。普段の淡白さを微塵も感じさせないその眼差しは、言葉は少ないながらも引くつもりが一切ない事を語っていた。
 ……そう、有志は間違いなく何かと喋っていた。後ろ向きで小声で話していたので、声は聴こえなかったが、康斗は仕草で有志が何かと『喋って』いたのを見抜いていたのだ。

「ふぅ」

 小さく嘆息すると、有志は身体に入っていた力を抜いた。それに伴い、表情が何か疲れたようなものに変わっている。

 そして、彼は何も言わず川岸へと歩んで行った。

「ごめん、みんなちょっと集まってきて!」

 そして、誰もいない筈の川中に向かって、そう呼びかける。そして、暫く待ってから、彼は両手で川の水を掬った。それをそのまま、彼らのところへ持ってくると、それを皆に見せる。

「ゲンゴロウ……だよな?」

 輝和が怪訝な様子で呟く。有志が掬ってきた水の中には、1センチ程度の小さな虫が5匹、所狭そうに泳いでいた。

「正確にはハイイロゲンゴロウが正解だよ。彼らに頼んで、鍵を捜してもらったんだ。彼らは匂いに敏感だからね、鉄の匂いを知ってもらって、それらしきものがある場所を調べてもらっていたんだよ」

 先程康斗が見ていた有志の謎の行動はこれだったのだ。自分の家の鍵を引っ張り出して、それを水中に浸け込み、鉄の匂いを覚えてもらっていたのだ。

「はぅ?」

 目を丸くして不思議な事を言う有志を見る千春たちに、有志は言葉を続けた。
 今まで隠し続けてきた大切な事を。

「僕はね、生まれつき虫たちと『会話』することが出来るんだよ。千春さんたちと話すように、普通にね」

 それだけ言うと、「ごめんね、寒いのに変な頼みごと聞いてもらって。また何か食べるもの持ってくるから」と言いながら、再び川岸に戻るとゲンゴロウ達を川中へと帰す。
 そして、再び歩き始めた。千春たちを無視するかのように、そのまま先へと。

「おい、ちょっと待てよっ。まだ準備できてないって」

「いいよ、僕は帰るから」

 慌てて靴下を履こうとする輝和を、背中を向けたまま有志は制した。

「はあ、何言ってんだよお前?」

 その言葉にも、有志は振り返らなかった。歩みだけを止め、そのまま話し始める。

「良いんだよ。気味が悪いことぐらい、自分でも判っているから……。変な子って知って、無理に付き合ってもらうなんて悪いよ。僕は、一人でいるの慣れているからね。……それじゃあ」

 それだけ言うと、そのまま彼らから遠ざかり始めた。寂しげな背中が、一歩、二歩と彼らの距離を開けていく。それと同時に、心の距離も開けようとしていた。いずれ、この能力は彼らとの距離を離してしまうだろう。ならば、自分から離れる。その方が傷つかないと有志は思っていた。
 しかし。

ボゴォンッ!

「うわっ!!」

 その足元が、突然爆音と共に弾けた。驚き尻餅を付く有志を、2度目の爆発が襲う。

「わわわ……」

 慌てて身を翻し、その場から離れようとして有志の目の前に、彼を睨みつける輝和の姿があった。

「輝和君……?」

 何も言わずに有志を睨みつけていた輝和が、日本語ではない、理解不能な言葉を紡ぎながら両手を複雑に動かし、宙に何かを描く。
 そして、右手を横に翳した。

「気よ集えそして爆ぜよ……コンプレスドエアー!」

 輝和が指した先の地面が、先程と同じように弾ける。それを見た有志が驚愕した。

「まさか、輝和君の仕業!?」

「その『まさか』や……。お前、何逃げようとしとうねん?」

 眉間に皺を寄せながら喋る輝和。その口調がいつもの彼と違っていた。そのイントネーションは、間違いなく関西系のもの。
 そして、再び何かを呟きながら複雑に両手を動かした。

「大空を舞う光翼よここに……エンジェルウィング!」

「うわっ」

 突然現れた光に、有志は慌てて手を翳す。そして、その光に慣れた有志が恐る恐る見たものは、突如背中に現れた光の翼を使い、身体を宙に浮かせた輝和の姿だった。

「どうや、有志? お前が虫と話せるんやったら、俺はこんな力を持っとるで。……自分でもよう解らん力やと思うわ。だからってな、それを持っとるからって一体なんやねん!? 人より優れた能力、持っとったら悪いゆうんか!?」

 一気にそれだけ言うと、光を翼を消し、地に降り立つ。そして、振り返り千春を見る。
 いや、違った。

「おい、杉村も何とか言ってやれや」

 輝和は千春の腕の中にいる小動物へと呼びかけたのだ。
 そして、本来喋るはずのない生物が、九官鳥がただ覚えた言葉を繰り返すのとは違う、明らかな意思を持った返事を返した。

「高水。杉村ではなく、『杉村さん』と呼べと言っただろうが」

「え? ええーっ!?」

 文句一言、千春の両腕から飛び降りると、大きな声で驚く有志の元へと駆け寄った。そして、自分の数倍はあろうかという相手を見上げると、その小さな腕を組み背中を反らせる。そのしぐさは、なぜか妙に人間じみていた。

「まあ、そう言うことだ。今更驚く事でもあるまい? 虫と喋れる奴や、そこの名前一つ覚えられん馬鹿みたいに、魔法まがいの力を使える奴がいるぐらいだ。別段喋れるおこじょがいても不思議ではなかろう」

「大体なぁ、ちょっと人とちゃうからゆうて、敬遠されると思う方がおかしいで? それだけの理由で敬遠するようなの、モノの分別がつけられへん子供だけや。俺ら一応、それぐらいの区別はつけれる大人やで?」

 杉村さんの言葉を輝和が続けた。それを聞いた有志は、二人(一人と一匹)を交互に見、そして後方に視線を向ける。
 そこには、微笑む二人の女性の姿が見えた。

「まあ、私にとってはお前が居ろうが居まいが、どうでもいい事なのだが、お前がいなくなると千春が悲しみそうなんでな」

 それだけ言うと、杉村さんは千春の元へと戻っていく。そして、彼女が差し出した手を伝い、頭の上で丸まった。

「……それじゃあ、僕、みんなと一緒に居てもいいの?」

 おずおずと言った感じでそう言う有志を、「はぁ?」と一言、輝和は呆れた様子で見ていた。

「端からそんなこと誰も言っとらんやろうが? お前が勝手に勘違いしとるだけや」

 それを聞いた有志は、一人一人の表情を確認する。輝和、康斗、綾芽と……。
 そして。

「有志君。一緒にパーティ、楽しもうね」

 最後に視線が合った千春が、邪気のない最高の笑みでこう言った。

「……みんな、ありがとう」

 顔を俯けて、らしからぬ小さな声で礼を言う。
 その理由は、すぐに判った。

「なんかお前、泣いとんのか? アホやなぁ」

「……だってぇ」

 良いながら袖で涙を拭う有志の頭を、寄って来た千春が背伸びして撫でていた。

 (ん?)

 その時だった。康斗が、綾芽の様子が変だと言う事に気付いたのは。
 いつもなら優しい声の一つでも掛けるだろう。そうでなくとも、今千春が無理矢理やっているように頭を撫でて慰めるぐらいのことはするかもしれない。しかし、今の彼女は笑顔でいるものの、意識が違うところに向いているように見える。それだけなら、彼女が偶に見せる一種の癖みたいなものなので気に留めなかったかもしれない。だが、何かが違う……。
 結局、康斗はその違和感を掴みきる事が出来なかった。





「あー、美味しかった。綾芽さん料理上手いですよ」

 すぐ横を歩く長身の女性に、世辞抜きの賛辞を贈る。輝和はその味を思い出すと、釣られて出てきた口腔内を満たす唾液を飲み込んだ。まだ、胃袋に収めたい気分である。

「ありがとうございます。でも、千春さんのケーキには敵いませんね」

 微笑みながらも、綾芽は少し首をすくめた。

「確かに、あれはめちゃ美味だったな」

 本来なら、この場にいない千春よりも、今横にいる綾芽を持ち上げるべきであろう。だが、その揺るぎない事実は、輝和にそうさせる事を忘れさせていた。一見、3歳児の誕生日ケーキかと思えるような装飾とは裏腹に、その味は有名ケーキ店の味に匹敵するものだったのだ。超のつく甘党である輝和は、自分の分だけでは飽き足らず、有志の分にまで手を出して散々文句を言われていた。

「しかし、輝和君って怒ると関西弁になるんですね。少し驚きましたよ」

「ああ、あれですか。昔あっちの方に住んでたから……。だいぶん抜けたんですけど、ちょっとイライラするとまだあっちの癖が出たりするんです」

 少し照れた様子だ。ひょっとすると、関西弁が格好悪いと思っているのかもしれない。

「ふふふ……。ああいうものは中々抜けないものですよ」

 そう言う綾芽の顔を見て、その美しさに驚く。この人の美貌は、闇夜に照らされるとより映える。輝和はそう感じていた。

 (しっかし、こうやって綾芽さんと並んで歩けるなんて幸せだなあ)

 今現在、彼と綾芽の他には誰もいない。康斗と有志は千春の家から近いところに住んでおり、ついさっき両人とは別れたところ。それに対し綾芽と輝和の家は多少距離が離れており、また同じような所にあるので、そこまでの間は幸せな時を味わえるのだ。
 が、しかし。

「あ、ちょっと用事思い出しました。輝和君、申し訳ないのですが、私走って帰りますので。……それではまた会いましょうね」

 (がーん……)

 いきなりその時が終わりを告げた。返事も待たずに急に走り始めると、手前の角を曲がって消えようとする。
 しかし、彼女はそこで唐突に止まった。

「あ、そうそう。今日の輝和君、格好良かったですよ。それではまた……」

 綾芽はそれだけ言うと、今度こそその姿を消した。

「……よっしゃあ!」

 その場でガッツポーズする。計画通りではなかったが、今日の目的だけは達成出来たらしかった。
 だがその時、輝和の声に驚いた辺りの飼い犬が、一斉に吼え始める。

「やかましい……」

 自分に原因があることを棚に上げ、一言ぼやくととことこと歩き始めた。

 (しっかし、やけに慌てて帰ったなあ。やっぱり始めから用事があったのか……いや、違うなぁ)

 時刻は予定から遅れに遅れ、既に9時を大きく回っている。本当に用事があるのなら、途中で抜けるなりしているだろう。

 (まさか俺、嫌われてる?)

 瞬間そう思うが、どう考えても嫌われるような理由が思いつかない。少なくとも、先程の綾芽の態度は、嫌っている者に対するものではなかった。だとすると、本当に用事を思い出したのだろう。
 彼はそう解釈し、黙々と街灯の少ない通りを歩く。そして、その歩みは昼間ちょっとした事件のあった川にまで差し掛かっていた。

 (しっかし、有志の奴おおはしゃぎだったなあ)

 パーティーの様子を思い出し、彼は苦笑する。箍が外れた有志は、もの凄く生き生きとした表情でその時間を楽しんでいた。その様子は、教室の端っこで一人で休み時間を過ごす彼とも、どことなしに遠慮気味で自分たちと付き合っていた彼とも違う。恐らく、あれが本当の有志なのだろう。
 彼は、友達を失うという恐怖から開放されたのだ。

 (でもなあ、普通ちょっと変な力があるからって、そんなに気にしたりするものかなあ?)

 腕を組みながら歩き続ける。自分もその力を隠してはいるものの、別段迫害されるのが怖いからではなく、ただ単に色々問われたり、説明したりするのが面倒だという下らない理由からだ。だから、有志の気持ちというのは判らない。

 (……まてよ)

 判らないで済まそうとした彼は、その時珍しくも思考を深部まで持って行った。

 (そう言えば、俺と有志とでは決定的な違いがあるな)

 輝和はそれに気がついた。彼と有志の違い……それは、自分には生まれつき、仲間がいたと言うことだ。
 ……実は、彼の姉である美奈も、彼同様不思議な能力を持っているのだ。そんな姉と一緒に暮らしてきたから、今まで孤独というものを感じた事は無かった。だが、もし姉がいなければ……この力を理解できる者が側にいなければ、そして一度でも、それを迫害の対象にされれば、それが精神的外傷となって残っても不思議はないだろう。
 そう考えれば、自分の姉のブラコンぶりも理解できた。

 (俺って、恵まれた人生を送ってきたんだな……)

 もし、あそこで康斗が食い下がらなかったら、有志の不安な日々はまだ続いていただろう。そう思うと、他人事ながらぞっとした。

 (しかし、先輩があんな態度を取るなんて、珍しいこともあるもんだ)

 普段、他人がどんな行動を取ろうと、それに対しどうこう言う事などない。偶に言ったところで、その事に固執したりしない……一言で言ってしまえば淡白な康斗が、今日の有志に対しては絶対に引かない態度を取っていた。その事が、輝和にはどうも引っか掛かっていた。もしかすると、康斗は初めから有志の能力に気づいており、ああいう展開になる事を予測して、わざとあんな態度を取ったのではないのだろうかと……。

 (違うかな?)

 瞬間そう思ったが、結局その考えを自ら否定する。どうも、普段の康斗が持っているイメージから、彼がそう言う行動に出たという結論を下すのは誤っていると思えたからだった。

 (まあ、先輩の事だから多分気まぐれだろうな……ん?)

 その時だった、異様な気配を感じたのは。
 今輝和がいるのは、ただでさえ少ない街灯の明かりが一番弱い、街灯同士の中間点。そんな薄暗い闇夜の中、人影の輪郭だけがこちらへ向かってくる。身長は輝和よりも数センチ高いか。どうやらロングコートを羽織っているらしいその影は、彼を避けようともせず、そのまま真っ直ぐにこちらへと向かってくる。

 (なんだ……?)

 暗いとは言え一応アスファルトで舗装された道路だ。当然、人一人ぐらいすれ違うだろう。だが、この男が持っている雰囲気はただの通行人が発するものではなかった。多少なりそう言う気配を感じ取る事に優れた輝和でなくとも、それを感じる事ができるだろう。その、近寄れば一太刀で両断させられそうな、背筋を凍らせる危険な空気を。
 その距離が詰まる。それと同時に、その男の風貌が明らかになってきた。歳の方は20代後半から30前半か。まったく癖のない黒髪は、襟元で綺麗に切り揃えられている。そして、その美しい髪質に正比例した容姿は、幾多の映画俳優と並べても色褪せて見えないであろう代物だった。
 その、明らかに堅気の人間が持つものではない、冷たい瞳さえなければの話だが。

 (……ちっ)

 輝和は内心舌打ちする。どうやら、その男は自分の方向へ歩いているのではなく、『自分に向かって』歩いているらしい。そして、手前5メートルと言ったところでその歩みを止める。
 だが、男は何も言わずその場に留まっているだけだった。

「……なんだよ」

 輝和をじっと見たまま、動こうとも喋ろうともしない男に焦れた輝和が先に口を開いた。普通の人間ならば、怯えて声一つ出せないかもしれない。だが、人間外の力を有する輝和は、いくら常人離れした気配を持つ者が相手でも怖気づいたりしなかった。男がいつ、どのような行動に出てもいいように全身の筋肉を軽く緊張させておく。
 だが、その答えはその緊張を思わず緩めてしまうようなものだった。

「……女を探している」

「はあ?」

 ただ一言、男が言ったのはそれだけだった。

「女だけじゃ判りませんよ。俺、天才じゃないんですから」

 頓狂な質問に輝和が眉を潜めるのも当然だろう。男が特定の人物を捜しているのは明らかだ。だが、それを指し示す情報が性別だけでは、例え輝和が本当にその人物を知っていたとしても、答える事など出来やしないだろう。
 もっとも、例え男が求めた答えを知っていたところで、それを教えたりなどしなかったが。

「……」

 (なんだ?)

 次の言葉を待つ輝和を、男は表情一つ変えずその冷たい瞳で見つめるだけだった。その、ものを尋ねておいての非協力的な態度に、段々とイライラが募ってくる。

「いきなり話し掛けてきておいて、質問内容がそれじゃあ、答えようがないですよ。もうちょっと、具体的な特徴とかないんですか?」

 まだ一応敬語を使っているが、これ以上同じような態度を続けられたなら、関西弁が出るのは間違いないだろう。しかし、再び声のない時間が作られる。そして、輝和が既に寄せられていた眉間の皺を倍に増やしたとき、ようやく男が口を開いた。

「……殺人鬼だ」

「なんやて」

 やはり関西弁になった。これが電話での応答ならば、間違いなく受話器を叩きつけるようにして置いていたであろう。からかっている……そうとしか思えない。
 目の前にいる男が冗談を言うタイプかどうか、冷静になればわかるだろうが、関西弁モードになった輝和はそんな細かい事にまで気付いたりしなかった。

「そんなもん知っとったら、とうの昔に警察に突き出しとるわ!」

「そうか。お前なら知っているかと思ったのだが……。失礼した」

 そう一言、男はあっさり諦めると、意外にも非礼を詫び、再び歩み始めた。瞬間、輝和は緊張を強めるが、男は何もせずそのまま彼の横を通り過ぎ、そのまま暗闇の中へと消え掛ける。
 しかし、そこで歩みを止めた。

「いい忘れていた。もし、見かける事があれば教えて欲しい」

「……!? 教えろって……お前がどこにおるかわからへんっちゅうのに、どうやって教えろっちゅうねん……って、おい!」

 こちらを向いているのに気がついていたのだろうか、振り返らないままそれだけ言った男は、輝和の返答を待たず今度こそ闇の中へと消えて行った。

「なんやあいつ……。俺が殺人鬼やとでも言いたいんかい?」

 暗闇を睨みつけたまま彼は呟く。どうも、男の言葉の意味を図りかねていた。確かに、輝和の異質な能力は人を殺めることに充分すぎる力を持っているだろう。面白半分にその能力を高め、ゲームの主人公よろしく我流の剣技を身につけていることも事実だ。だが、それを実際の人間相手に使おうとなんか考えたこともない。
 しかしながら、男が適当にものを言っていたとも思えなかった。

 (まさか、俺の能力に気が付いて……いる訳ないか)

 外見的に、不思議な能力の持ち主を示すものなど何もない。その力を目の当たりにしなければ、誰も信じたりなどしないだろう。
 ならば、昼間の一件を遠目に見ていたとか……。

「……あああっ! やめやめっ!」

 どうせ、答えなど出やしない。結局そこに辿り着くと、彼は自宅への路次を再び歩み始めた。

 (しっかし、この辺りも物騒になったよなあ)

 歩く凶器のような、先程の男みたいなのが徘徊しているだけで、非力な女子供には脅威だろう。

 そのとき、輝和は一人で帰った綾芽の事を思い出していた。

 (大丈夫だと思うけど……追いかけてみるか)

 綾芽は走って帰ったのだ。今から追いかけても間に合わない可能性が高い。だが、それは自分も走ればの話だ。
 輝和には、『走る』以外に彼女を追う術があるのだ。

「我が骨肉よ形を変えよ……ミューテーション!」

 そう叫んだ輝和の姿が消える。いや、代わりにそこには闇に紛れた一羽のカラスがいた。この姿で、上から捜せば走る女性の姿ぐらいすぐに見つかるであろう。そう思い、更なる闇へと飛び立つ。
 が……。

ドカッ!!

 次の瞬間、電柱に嘴を強かに打ち付けたカラスが真っ直ぐ下に落ちた。

「そういや、鳥って鳥目なんだよなあ……」

 仰向けになり、両足をピクつかせながら、そのカラスは電柱を恨めしそうに眺めていた。





 その頃、綾芽はひたすら走っていた。

 (早く帰らないと……)

 人通りの少ない道……。帰宅への路次は商店もほとんど無く、比較的住宅も少ない閑静な場所が続く。通り魔が徘徊するには格好な場所だが、綾芽は自分が通り魔以上に危険な存在だという事を自覚していた。見上げれば、普段は見えるであろう月の姿が見当たらない。いや、あるにはあるのだが、今日はいわゆる三日月状態で、しかもその姿は雲の中に見え隠れしていた。

 (闇に、心が飲み込まれる前に……)

 一心不乱に暗闇を駆ける。本当なら、もっと早くに帰るはずだったのだ。綾芽が早く帰る事を希望した理由は、輝和達が推測したように何らかの用事があった訳ではない。もちろん、先程輝和に言ったことも嘘である。慌てて帰らなくてはいけないような用事など、彼女にはなかった。
 彼女はただ単に、暗闇の中に長時間いるのを避けたかっただけなのだ。もし、輝和と一緒に帰りなどすれば、彼女の中に隠れる黒い部分が鎌首をもたげるかも知れない。そうなれば、大事な友達を傷つける……あるいは、それでは済まないような事になるかも知れなかったから、慌てて彼と別れたのだ。
 もし、傷つけでもすれば、その瞬間彼女は『その場』にいることが許されなくなるのだから……。

 (でも、私はいつまでこうやって、暗闇に怯えながら暮らしていかなくてはならないの?)

 走る速度を緩めずに、そのまま思考の世界に入る。昼間の事件……有志の件は、彼女にとって衝撃的だった。彼は、自分の力を蔑まずに生きる方法を見つけたのだ。自分と同じような、不思議な力を持つ者の中にその身を置くと言う事を……。
 しかし、同じような常人と違うものを持っていても、彼女は彼らとあいまみえることはできない。たとえ、彼らが皆一様に聖人の心を持っていたとしても、綾芽の正体を許す事など出来やしないだろう。
 暗闇の殺人鬼という、その法を踏みにじる姿を。

 (一体いつまで……えっ!?)

ドンッ!!

 綾芽が思考の世界から戻ってきたときには既に遅かった。その、前に進む力を全て障害物に預けた綾芽は、その場にぴたりと停止する。しかし、預けられた方は堪ったものではない。十字路を曲がった先にいたその男は、軽く5メートルは吹っ飛んでいた。

「……あ、大丈夫ですかっ!?」

 慌てて男の元へ駆け寄る。だが、当たり所が良かったのか、「いつつ……」とか言いながらも、男はゆっくりとその身を起こしていた。

「くそっ、何すんだよこのアマぁっ!!」

 そして、早速綾芽に噛み付く。その口元が開くたびに、嫌な匂いが洩れてきた。

 (……酔っているようですね)

 飲み会の帰りなのか、着崩れたスーツ姿の中年男は、誰が見てもわかるぐらいに酔っていた。

「申し訳ありません。怪我はないですか?」

「おうっ、全身が痛いわ! 服もぼろぼろになるでよぉっ」

 丁寧に謝る綾芽に対し、イントネーションのおかしくなった日本語で中年男は言い返す。だが、男には怪我どころか、服のほつれ一つ見当たらない。どうやら、かなり性質の悪い相手にぶつかったらしかった。

「謝るだけで済むと思ってんのか? 慰謝料だよ、慰謝料出せよコラァ!」

 大きな声で吼える。しかし、綾芽は何も喋らず、男を見つめるだけ。その態度が、酔った男を更に苛立たせる。

「なんか言えよ姉ちゃんよぉ!?」

 その胸元を掴もうと、男が手を伸ばした。しかし、綾芽はすっと下がり、その手を避ける。避けられた事に瞬間男は驚いたが、ようやく綾芽の顔に気がついたらしく、いやらしい笑みを浮かべた。

「金がないのか? それで黙っているのか? だったら、別の方法で支払ってもらっても良いんだぜぇ?」

 その爪先から旋毛までを嘗めるようにして見た後、もう一度その美貌を拝まんとした男の表情が凍りついた。

「……なっ」

 その凍てつくような瞳は、先程男が見たものとはまったく違っていた。まるで、たった今氷の仮面を身に着けたのように豹変している。その美貌だけは変わっていない。だが、それにはとてつもなく危険なものが大量に含まれていた。それと同時に、周囲の気温が体感で数度下がったのを男は感じる。もちろん、大ジョッキ数杯程度の酔いなど一気に吹き飛んでいた。
 ……そう、狭い路地であるこの十字路は、街灯の明かりもほとんど届かないような暗闇だったのだ。

「ひっ……」

 恐怖で固まり、逃げる事すら出来ない男に向かって綾芽が発した次の言葉は、絶対零度の世界から運ばれてきたかと思えるほど、その瞳と同様に冷たかった。

「あなたは自殺志願者ですか?」続く


あとがき

ふう……。遅れました。(^^ゞ
自分の番に回ってきた途端仕事が多忙化して、集中して書けないので遅々として進まず……最悪でした。
まあ、その代わりと言ってはなんですが、いつもの3倍……3倍ですよ奥さん!!
……コホン (ーー;)
まあ、長くなりすぎたというか、遅れて当然ですね。(爆)
良く考えれば、自分は公開されていない小説を含めてすべて、一人称の小説を書いています。その感覚で5人のキャラクターを動かしたのが失敗かも知れません。
その代わりと言ってはなんですが、9割方自分の書きたかったものは入れたつもりです。こういう、何気ない日常というのを書くのは好きなもので……。まあ、面白い面白くないはともかくとして、自分ではある程度満足しています。ちょっと、後ろの方に迷惑かけているかもしれませんが。(^_^;
さて、そろそろ本筋に入って行くと思われますが、次私の番になった時にどういう話になっているのか楽しみです。
と言うわけで、後続の御陵さん、よろしくお願いします。

みるきぃ