かつて誰かが言ったこと。誰が言ったかは知らないが、それでも誰かは確実に言ったこと。

『 生きることの方が死ぬことよりも遥かに辛いことである 』

 ――ふざけるな、と思う。
 そんなものは生者の無知であり、誤解であり、傲慢に過ぎない。
 死者にはすでに感覚が無い故に、苦しみ惑う生者の方が辛いに決まっている………その程度の浅薄さに過ぎないはずだ。何故ならば、誰が死者の苦しみを知っているというのか。 おとぎ話ではないのだから、生者は死者たりえない。過去に死者だった生者など在りはしないし、死者との対話でその苦痛の程を教えてもらえる者も在りはしない。
 死者を語りうるのは死者だけであり、生者は関与のしようがない。ましてや殺した者が被害者に対して償い?馬鹿げている。取り返しなどつかないからこそ生命は尊いのだ。死んだところで被害者は帰ってこないのだから、死んで詫びるというのは遺族の感情を晴らしてやる意味にしかならない。懺悔などは自己安堵のために過ぎない。詫びるのは、死者に対してではなくその遺族に対して詫びているに過ぎず、後悔は自己満足に過ぎず、真の意味で死者に対する詫びなどできはしない。
 ただ、だからといってそれら全てを忘れ、もうどうにもならないことだからなどと妥協することは許し難い裏切りだ。それこそまさに、死者に対する裏切りだ。死者を創出した時点で、その人間に殺人者として以外の生き方など許されるはずもない。人間という生物が知性を持ったが故に抱く同族殺し。理由がないのに殺す生物は人間だけだ。そして、滅亡に直結しかねない『理由のなさ』を抑えるがために人に課せられた桎梏。それが『殺人者』というラベルであり、その自覚であるのだとも思う。殺す以上はそれ故のペナルティを背負うのが当然であり、殺人とそのペナルティとの平衡点で種としての滅びを回避する。そう考えれば良く出来たシステムであり、そして同時に唾棄すべき妥協だ。殺人という本質に全く手を触れずに、寧ろそれすらもシステムの根底に据えてしまう狡猾な人間の知恵。殺人に対する禁忌感を無くし、罪悪感を無くし、その非日常性すら消去してもついて回る保存策。なるほど、進化の頂点、万物の霊長などと放言するだけのことはある。
 言いようの無い怒りと悔しさが浮かんできた。ふと邪悪な妄想が頭をよぎる。このようなシステムを作り上げた原初の者をこの手でくびり殺してやるのだ。少なくとも、そんなシステムが存在しなければ自分がここまで苦しむことはなかっのだろうから。


 苦痛の起源は何であったか。


 気がつけば、また夜が明けていた。




 第九章『 ハレ -the unusual day- 』



 いつもの時間ならば目覚ましが鳴って久しいはずの時間ではあるが、ここ数日は全く音も聞こえない。
 手に残る感触。恐怖に染まった顔。記憶に残る全てが綾芽を追い詰め、一睡たりとも許さない。自らの罪を思い、脅え、泣き喚くことすら出来ずに自責しつづける。あの男が、酒精も手伝ったとはいえ、ある程度下卑ていたことは確かだろう。だが、だからといって殺すことがあったのか。
 答えは無論、否。殺したのは内面の闇が抑えられなかった自分の勝手だ。男には家族もあっただろう。自身にやりたいこともあっただろうし、死など全く想定していなかっただろう。突然に与えられた終焉に、男は何を思っただろうか。想像されるあらゆることが頭を苛み続ける。ただとにかく暴れ、壊し、壊れ続けた身体も既に動かない。
 動くこともままならぬほどの嫌悪と恐怖の渦に、しかし綾芽の身体はあくまで一生命で在り続けようとした。精神に反して、浅ましくも飢えに物を口に運び、乾きに水を求め舌を伸ばし、そのわずかに手に入れた養分で更に嘔吐を繰り返す。
 死。ただそれだけが救ってくれるのだと朦朧と思った。自分の罪ではなく、自分の精神ではなく、将来自分が殺してしまうだろう人々と、それに対する自分の苦痛を。
 ………浅ましい。この期に及んでまで、自分も救済の対象に入っているのか。論理的思考などとうに手放した頭が、自責の対象を発見して狂喜する。その狂喜は何に対する喜びなのかなどとは考えはしない。この頭にとっての役目は既に自責の一点に特化している。役割に疑問を挟むことに意味などあろうはずもなく、全てを甘受するのみが綾芽に許された最後の行動だった。

 ピンポ〜ン

 「綾ちゃ〜ん、朱音ですよ〜」

 ドクン
 心臓が、跳ねた。完全な静寂一歩手前の空間に響いた音。紛れも無く彼女の声だ。きっと何時ものように白いオコジョを頭の上に乗せているのだろう。数日間全く連絡のなかった自分を心配してきたのだろうか。
 正直、今もっとも会いたくない人間だった。彼女にこのような様を見せるわけにはいかない。見れば彼女は心配し、尋ねてくるだろう。どうしたのか。何があったのか。一体、何をしているのか。それに答える術を今の綾芽は持ち合わせていない。聞かれたならば、恐らく事実を話してしまうだろう。
 誰かが囁く。"言ってしまえばいい。自分の汚濁した面を全て見せ、あの可愛らしい友人に軽蔑の眼を受けるがいい。所詮お前は、"

 ゴンッ!

 この衰弱しきった体のどこにそんな力があったのかは知らないが、血の滲みそうなほど握り締めた拳が床に叩き付けられた。偶然汚物のない場所に当たったらしく、水気のない大きな音が耳を貫く。頭の声はそれきり黙ってしまった。

 「綾ちゃん?……開けますよ〜?」

 覚醒した脳が叫ぶ。声を上げろ。
 彼女は。彼女だけには!

 「待ってください!!」

 喘ぎ以外の声を上げたのはあの日以来だ。思いのほか大きく出た声を驚く前に言葉を続けた。

 「………さっき起きたばかりなので、少しそこで待って頂けますか?」

 少しトーンを落とすことに成功する。何を気取られてもいけない。彼女に嫌悪を伴った視線を向けられるのは、絶対に耐えられない。自分はいつも通りの霧生院綾芽でなくてはならない。

 「あ、ごめんなさい。わかりました、待ってますね〜」

 千春の調子に何かを気取った様子はない。良かった、まだ自分は彼女にとっての霧生院綾芽たりえている。許されるはずのない安堵は、綾芽の精神と感覚を、一気に現世に呼び戻した。匂いが酷い。身体のどこにも吐瀉物と排泄物の匂いがしない部分はなかった。シャワーを浴びなければ。
 無意識に考えるというのも可笑しい話ではあるが、綾芽はその浮かんだ考え通りに行動した。シャワーを浴び、出来る限りの垢と匂いを落とし、壊れた箪笥から比較的無事であった服を出し、落ちていない匂いがあるのではないかと滅多に使わない香水を控えめにふる。
 日常に戻り始めれば、後は早い。匂い同様酷いことになっていた顔に化粧を施し、隈などが目立たないようにする。そして財布とバッグを引っ掴み、玄関に向かう。

 これだけの作業を、綾芽は15分でやってのけた。

 玄関前に辿りついて、再び頭が声を上げた。そうしてお前は日常に戻っていくのか。自分の罪を一時でも忘れ、友人と楽しい日常を過ごすのか。被害者は二度と取り戻せない日常を、お前は何の代償もなく享受しようというのか。殺人者たるお前が。そのようなことが、許されると思うのか。
 その問に対する答えはない。あるのであろうが、今の綾芽にそれを受け止める心力はない。ただ全てを振り払うように、思いきりドアノブを捻って前に押しやった。





「すみません、お待たせしました」

 綾芽が出てきたのは、返事があってからきっちり15分後だった。少し違和感があったが、危なげなくて安心した。いつもと比べ、少し化粧と香水の匂いがすることが違和感の正体だったようだ。当然鼻が曲がるように臭いと言うわけではなく、仄かに香る程度の上品なものだ。だが、常はこのような彩りを加えずとも、十分な美しさを持つ綾芽である。違和感は拭い切れない。
 一方、杉村さんは小動物故の優れた嗅覚で、その裏にある不快な匂いまで感じ取っていた。 臭い、絶対に嗅ぎ慣れたくは無い匂いだ。それ自体は日常的に存在する匂いではあるが、日常にこの匂いを組み込むことを喜ぶ者もそうはいまい。紛れも無く、排泄物と嘔吐物の匂いだ。更に、嗅ぎ慣れない匂いも一つあった。少し前に嗅いだことがあったはずだが………。綺麗さっぱり忘れたようだ。思い出せない。

 その他の衝撃的、且つ非常識的な出来事に紛れたため、忘れたその匂いを思い出したならば、彼は驚いただろう。それは、他ならぬ血の匂いだった。


 「朝ご飯まだなんですけど、どこかに寄ってもよろしいですか?」

 綾芽が何時も通りの微笑をたたえたまま歩いている。背の低い千春からは見上げる格好になるが、歩幅を合わせて歩いてくれているのでいつもは置いていかれることはない。だが、今日は感じた違和感のわけを考えていた所為か、声に気付いて前を見てみれば3メートルほどの距離ができていた。

 「あ、はい〜。でも、ここらへんでペット同伴可のところってありましたっけ?」

 「誰がペットだ、誰が」

 杉村さんが小声で文句を言う。何の根拠もなくオコジョがしゃべるなどと思っている、電波系の危ない人間以外には、どこからどう見てもペット以外には見えないし、それは当然承知しているのだが。

 「まあいい。私はバッグの中に入っているからな」

 答えを聞く前に、器用に千春の頭から降りて、彼女が背負ったバッグの口を開け入っていった。基本的にバッグの中などは好きではないが、自分が同伴すると、以前どこの喫茶店やレストランにも入れてくれなかったため、食事時のみは我慢することにしている。

 「いつもごめんなさいね、杉村さん」

 申し訳なさそうに綾芽が謝る。気にするな、と一言残してから眼を閉じた。少しすれば眠れるはずだ。

 「――――――」

 「――――――」

 聞き耳を立てるのも何なので、耳を伏せる。
 眠りにつくまえに考えた。今日の綾芽はどこか変だ。しかし、その変である理由は化粧や臭さからでは単純に把握できなかった。
 まあいい。いつか、聞いてもらいたいことならば話してくれるだろう。態度は常に不遜である杉村さんではあるが、そういうことに掛けての優しさは持ち合わせているし、綾芽を十分に信頼しているし、誰よりも大人であった。











 現場というものは、いつでも人が多いものだと聞き及んでいる。工事現場は職人たちが沢山働いているし、発掘現場では考古学者やアルバイトが汗水をたらして土を弄っている。事故現場ならばその事故の当事者や警察、場合によっては保険会社の社員などがいるかもしれない。そして無論のこと野次馬も。
 殺人現場にも、例に漏れず人が多い。一番多いのは警察ではなく野次馬なのが微妙なところだが。いつの時代も不謹慎な野次馬は後を絶えないものだ。それが無惨な殺人現場であっても、いや寧ろそこが無惨な殺人現場であるからこそ、野次馬の量というのは半端ではなかった。その野次馬相手に質問している有名TV局のアナウンサーや、それに追随するカメラマン、アシスタントなども複数組いた。人の死に考え無しに触れようとする者、人の死を飯の種にする者。世の中に溢れている不謹慎は、日常に非日常性を添加するスパイスなのかもしれない。まあ不謹慎とは言っても、殺された者が文句を言うわけではないし、野次馬とても殺された者に対して同情する者もあるだろうし、殺した者に対する憤りを露にするものもあるだろう。その行動自体が不謹慎と呼び習わすべきものではあっても、同情や憤りという人情は不謹慎なものではないのだろう。

 「お〜、凄い人だかり」

 「そうだねぇ………」


 だから、思う。こいつらは絶対確実に不謹慎な側だ。誰も気にしていなかろうと、自分はそう見なすことに決めた。

 「高水、野々上。騒ぐな。もう行くぞ」

 「え〜?もうちょっといましょうよー」

 声をかけ、返事を無視して歩き出す。
 そもそもは、輝和が殺人現場を見てみようなどと言い始めたことが発端だった。殺人事件が比較的近所で起きたらしいこと、それ自体はテレビや新聞で知っていたが、康斗自身は取りたてて興味はなかった。当たり前のことではある。殺人事件など、メディアの中でなら日常的に起こっていることであり、そして大半の人間には全くにして関連のない事柄である。自分に関係のないところで起こった殺人事件など、当てにならない天気予報や気力を減退させるだけの温度・湿度予測よりも関心は薄いはずだ。それが高々同じ街で起きた、というだけのことである。距離的な近さと興味は全く比例しない。この事件自体も、康斗の知らないところで知らない人間が起こし、知らない人間が犠牲になり、知らない人間が調べ、知らないうちに解決するはずだった。
 始まりはいつものことだった。毎度の如く有志に呼ばれて出てくれば、一緒にいる輝和が殺人現場を見ようなどと言い始めた。呼び出されるのは毎度のことであるし、特に断る理由がなかったからといって付き合ったのが良くなかったらしい。悪意はないのだろうが、人込みに入り込んだ後輩二名は見事に不謹慎の例を示してくれた。人の多さに驚きの声をあげ、神妙な顔つきを一片たりとも見せることなくちょこまかとはしゃいでいる。無論、康斗も彼らが全く能天気にはしゃいでいるとは思っていない。ただ、それを外に見せないのは、美徳とされることもあれば疎まれることもある。特に他人の領分ではその区別がつけにくい。出来うるならば、下手な面倒事が起こる前に早く立ち去りたかった。

 「………………」

 肩越しに後ろを見、後ろに二人ともちゃんとついているのを見て歩く速度を上げる。この場から離れたい理由は一つではなかったからだ。康斗とて、興味のないものを全く見ないわけではない。たまに非日常が存在するのならばそれを見るのは悪いことではないし、関わった以上は見るものは見ておきたい。
 しかし、康斗の鋭い目は必要外のものまでもはっきりと捕らえてしまっていた。必要外である以上はその存在を無視してしまえばいいのであろうし、実際今までの康斗ならばそうしている。だが、到底無視し難い圧倒的な存在感を出している者というのも存在することを、今日康斗は知ってしまった。
 恐らく普通の人間は通りすぎても全く気にしないだろう。黒い服を着ている人間など、今は冬なのだからそう珍しいものでもない。しかしその機械じみた完璧な動きと、こちらに向けられた冷徹な視線は無視するには異常に過ぎた。その視線は明らかにこちらを向いており、明らかに何かの目的を持って凝視されている。が、無視が出来ないからと言って、関わるなど真っ平だった。全く不可解な人間ではあるが、明らかに厄介事を背負っている人間であるのは見た瞬間に察知できる。
 だが、だから何だというのだ。こちらに関心を持って視線を投げかけているのかもしれないが、そんなものは勝手にさせておけばいい。視界内にいて無視できないのならば、視界から外してしまえばいい。
 これがこの場を即離れたい、何よりも曖昧ではあるが、はっきりした理由だった。


 「先輩〜、どうしたんですか?」

 少し前までは後ろからだった有志の声が、何時の間にか左側から聞こえている。小走りで追いついてきたらしかった。少し心配そうな顔つきで尋ねられ、少なからず困惑する。

 「いや、どうもしていない。どうかしたように見えるか?」

 有志は呆けていることがあっても、決して鈍くはない。しかし、自分の表情に思考は出ていないはずだ。早く歩いたことに対しての疑問なのかもしれないが、その程度のことならばわざわざ聞いては来まい。

 「さっきあっちずっと見てましたよね?珍しいなって思って」

 腑に落ちた。確かに自分がどこか一点を凝視しているというのは、有志にとって珍しいことだったろう。だが、どう言ったものか。黒衣の男にじっと見られていたのに気がついたので、気になってこちらも見ていた?馬鹿げている。
 ふと、一つのことを思い出した。口の端が自然と上がる。彼は一つの実験的な遊びをしてみることにした。

 「……………知りたいか?」

 歩く速度を下げ、背の低い有志に合わせるため腰を曲げ、必要以上に顔を接近させて問う。始めて見る康斗のその態度に、有志は大仰に狼狽していた。

 「ええ?!………え、えっと、もしかして知らない方がいいことなんですか………?」

 急に引いた顔つきになり恐る恐る尋ねてくる後輩を笑いたくなる。それを堪えて、続けた。

 「そうか、知りたいか。知りたいんだな。そう見て取った」

 早口で決め付けると、この臆病な後輩はいよいよ本格的にうろたえはじめた。眼を丸くし、次に周囲を見まわし、深呼吸などの意味のない行動すらし始めた。

 「いや、ち、ちょっと心の準備を」

 「そこまで言われたからには教えねばならんな。耳を貸せ。とくと教えてやる」

 今度は返事すら聞かず、耳をつまみ無理やりこちらに寄せる。

 「いいか、一言一句聞き漏らさずに聞くんだぞ。一文字でも聞き逃したりしたら現在、しいてはお前の一生の損になることなんだからな。どれくらいの損かといえば、宝くじの連番を買って、その次の番号が一等大当たり一億三千万というところで買うのを止めたとか、大きな買い物をしようと大金を持っていったところ、たまに善行でも積むかと滅多なことを考えた挙句、間違えて全額緑の募金に入れてしまったくらいの損だ。これがどんなに損かくらいは考えなくても分かるだろう?いっそ分かれ」

 思いきりまくし立てる。混乱しきった後輩は『あの』だの『その』だの何の文章も為さない指示代名詞系の単語を洩らしているが、相手の言っていることなど聞かないことがコツだと聞き及んでいるから完全に無視した。

 「分かったな?では始めるぞ。聞きたがってたことを教えてやろう。事の発端は3年前だ。あれは木漏れ日が肌寒い初春の日だった。曇天が心地よく天蓋を包み素晴らしい感覚を与えてくれていた。俺は独りで神社の500段ある階段を後ろ向きにステップを踏みつつ昇っていた。祈りは既に具体的に右腎臓のボーマン嚢あたりに溜まり込んでいた。お百度参りも九九度を過ぎ、最後の一回を迎えるときだった。そのときだったな、彼女が現れたのは。その髪は萌芽を思わせる浅葱色で、思わず食欲がそそられる韮玉のようだった。厚さ1mの糸蒟蒻すら見通すだろうX線のような瞳に見据えられ、この心臓は野兎が瞳に点鼻薬を刺されたかのごとくに飛び跳ねていた。嗚呼、聖なる哉。我が心と身体は共にホールドされ牢獄に入れられる寸前だった。だがそのとき奇跡が起こった。わずか3cmの穴から差し出された柄付き針は見事なまでにずっぽりとあの忌まわしき鋼鉄のパンへと嵌まったのだ。それはあつらえたようでもあり、廻せば今までどうあっても開かなかった禁断の扉が開いたのだ。分かるかこの感動が?寧ろ分かれ」

 「あうあうあうあうあう…………」

 「つまりだ、俺が言いたいのはこういうことだ。―――あのときの俺達の戦いは無駄ではなかったと。自由と信念と、あとわずかばかりの缶ジュースのプルタブを求めて立ちあがった俺達は、しかし確実に正義であったと。犠牲となった21.5人の御霊はきっと蓮華座の元でヨガの境地に達したと確信している。髪は死んだのだ!だが、常に毛根は生きているはずなのだ。即ち、常に希望は失われていない。即ち敢えて言わせてもらおう。ハブであると!今こそ立ちあがれ若人よ!我々は君達のその融資を待っている。喜びの園への最短コースは突っ切ることではなく地面を掘り進むことだと気付いた君達こそが勇者なのだ。よって…………。ん?聞いているのか、野々上?」

 「あう…………お願いします…………もう聞きませんから勘弁してくだあさい…………お願いします…………もう絶対に聞こうとはしませんから…………」

 耐えきれなかったらしい。康斗ですらそうだったのだから、このノリを知らない有志では到底不可能な話だろう。結果、有志は泣きかけながらうわ言のように許しを請うていた。目にうっすら涙すら浮べながら。

 「………ク………ククク………はは、野々上、お前、面白いぞ。ここまで反応の大きい奴も始めてだ」

 康斗はあまり大声を上げて笑わない。だが、人間たまには羽目を外して笑いたいときもある。

 「…………はっ。って、え?え?え〜!?」

 いきなり爆笑し始めた康斗に、我に帰った有志はますます混乱の度合いを強めたようだった。目を白黒させながら、奇声を上げて全身で不可解の意を示す。

 「いや、本当にお前は面白い奴だよ。この仏頂面が言うんだ、間違いない」

 ひとしきり笑ってから、それでも尚笑いを堪えながら言う康斗に、有志の顔は一瞬だけ間抜けに口をぽかんと開けた後、見る間に紅潮していった。からかわれていたことに気付いたらしい。

 「先輩ッ!!酷いですよ。おかしくなっちゃったかと思ったじゃないですか!!」

 憤激して食いかかってくる。まあもっともではあるが…………だが、幸運であったとも言える。食いかかってくるだけの気力が残っているのだから。

 「すまない………だがな、一つだけ言わせてくれ」

 「いいですけど。何ですか?」

 有志は本質的に『いい奴』なのだろう。からかわれた後でも、こちらが神妙な顔つきになればそこに感情を持ちこむことがない。
 まだ多少顔は紅潮しているが、こちらを向き、話を聞く姿勢は万全のようだ。
 康斗は、ただでさえ明るくはない顔に出来うる限り沈痛な面持ちを作り、告げた。

 「一割も話していない」

 「…………へ?」

 言葉の意味がわからないのだろうか。首を傾げた。
 確かに端的に過ぎたかもしれない。今度は、わかりやすく噛み砕いて伝えることにした。

 「さっきの『アレ』はな、俺が作ったというわけじゃない。俺も、聞かされたんだ。………下手に耐久力があったのがいけないんだろうな、きっちり最後まで聞かされたよ。始終あの調子でな」

 作ったはずの表情が、本当に痛々しくなっていくのを感じる。あのときは本当に辛かった。どのくらい辛かったかといえば、聞いている最中には実行に移しかねないほど上昇した話し手への殺意が、終わった後には完全に打ちのめされていたほどだった。あれほどの苦痛を彼に与えた事態など、五指で数えるほどもあるまい。

 「………先輩も、色々あるんですねぇ………」

 康斗の表情を見、有志は怒りの矛先をおさめたようだった。妙に同情したような言い方も少し気になったが。
 そこで、ふと気付いた。一人足りない。

 「ところで野々上、高水はどうした」

 「ああ、もうちょっと現場見ていくって言ってましたよ。先帰っててくれって」

 ということはあの元気な後輩は、恐らく今も現場ではしゃいでいるのだろうか。
 連れて来るべきかもしれない。その考えが浮んだのは、彼自身気付いてはいるが、奇妙なことであった。もう既に現場付近を相当離れている。あちらで何かアクシデントが起ころうと康斗に問題が振りかかることはないだろう。今までの康斗ならば、誰が残っていようとも全く気にしなかった。自分に関係してくるものと、自分に関係しないもの。その境界は確実であったし、それをある意味見切ってしまう術も彼は知っていた。
 本来、輝和が残る残らないは全く康斗には関係しない。ならば、何故…………?

 思考の結果、一つの顔が浮んだ。無機質な顔。康斗のポーカーフェイスとは違う、そもそもそれ以外の表情がありえないのだと主張しているばかりの無表情。あの黒衣の男だった。
 そうだ。常と違う不確定因子が入り込んだ以上、それを見極めるのは自身の安堵に繋がる。ならば知っておくべきだ。輝和のことなどはあくまできっかけに過ぎない。真の理由は、あの場で康斗があの男を見、そしてあの男がこちらを向いていたことを知ったことだ。

 「野々上、すまないが一人で帰ってくれ。少し買い物を思い出した」

 はっきりした理由が見つかった以上、為すべき行動は決まっていた。

 「あ、はい。わかりました。さようなら〜」

 今まで向かっていた方向から180度回転し、背後の声を聞き流しながら歩き始める。
 ――――決して走らず。さりとて、決して遅くなく。







 「おい、おっさん」

 背後の声とともに肩を叩かれ、男は振りかえった。三十前後のどんな年齢と言っても通用しそうな容貌だ。しかしそれは、あくまでその程度の年齢だということが分かる程度のものであり、実際のところこの男の年齢などにはあまり意味がないのだろう。同様に、切り揃えられた艶のある黒髪と、端正な容姿から来る美しさにも意味などない。この黒衣の男に存する意味は、雰囲気と目に集約する。氷点下の気配が相手の気を砕き、白刃を思わせる鋭角の視線が相手の魂を切り裂く。つまるところ、相手を蹂躙するというこの一点においてのみ本質的であるのだ――――そう思える。

 「……………」

 振り向いて、考える。目の前の少年は誰だったか。もしくは、全く知らない少年であるのか。
 しばしの逡巡の後、数日前に話を聞いた少年だと気付いた。
 基本的に彼は人を覚えない。彼が関わる人といえば、生活に必要な――つまり、ホテルの従業員やコンビニの店員――や、『事』を尋ねる相手しかいない。前者は一般人もわざわざ覚えないものであろうが、この男は後者ですら覚えない。
 大抵尋ねた相手は、ほとんど意に介さず去っていくか、話を聞いた者でも知らないと答える。稀にわかったら連絡をすると言う者もいるが、そういう者に敢えて連絡方法を教える愚を彼は犯さない。わかったらと言うが、知らない者は絶対に知り得ない。知り得たとして、喋ることの出来る状態で知りうることはまずない。アレはそういう存在だ。予め、そうとは知らずに知っている以外に知る方法はないのだと彼は決めてかかっていた。だから、一度聞いて知らない者に対して再度聞く必要はない。連絡など取る必要もない。見かければ教えて欲しいとは言うが、それは言わば常套句であり、意味を持たぬ呪言だった。
 よって実を言えば、一度尋ねた人間にもう一度会ったことすらこれが初めてだった。とうに潤いを無くした心が、わずかに期待を口に出す。

 「何か、用か?」

 あくまで抑揚はなく、低く耳に残る声が響く。周囲の雑踏と独立した、完全に固有の世界を作り上げている。
 対する輝和は、全く気負いなく――かといって機嫌がいいわけではないが――常のように話している。

 「あのなあ、おっさん。こんなところで何やってるんだ?」

 輝和が残った理由はといえば、これだけだった。陽の本に似合わない男が、こんなところで何をやっているのかに単純に興味があった。

 「………手がかりを探している」

 手がかり。そう言われて思いつくこと。一つしかなく、そしてそれはこの場と容易に繋がった。

 「おっさんの探してる殺人鬼が、この事件も起こしたっての?」

 「そうだ。少なくとも私はそう確信している」

 「本当かよ。そんなことが何でわかるん?」

 一応疑問は口に出してみるが、男の態度に嘘を言っている様子はない。隠されれば自分には到底わからないだろうが、言っていることは真実だろうと思えた。

 「信じないのならば、それでもいい」

 男は素っ気なく答え、また現場の方を向いた。こちらに大した用事がないのを悟ったらしい。
 聞きたいことが終わってしまった。かといってこのままさようなら、では残ったことが馬鹿馬鹿しい。だから、輝和は思いついたことを聞くことにした。

 「なあ、その殺人鬼っての、特徴とかないの?女ってだけじゃわかんないけど、もしかしたら見たことくらいあるかもしれないし」

 「詳しいことがわかれば、もう探し出している。分かっているのは、二つだけだ」

 「一つは?」

 「あの女は素手で人を殺す。どのような技を使っているのかは知らないが、刃物も何もなしで素手で人を殺す」

 「相当な大女なんだ。熊みたいな」

 「いや、違う。二つ目だ。細身で、長身で、長い黒髪。これが私が見たあの女の姿だ。暗がりで顔は見えなかったが、若いと思う」

 細身で、長身で、長い黒髪の、若い女。断片的な情報ではあるが、少しはイメージが絞りやすくなった。いや、かなり限定された。細身で長身。この時点で颯爽として格好いいイメージがついた。長い黒髪、更に若い。ならば美人だ。勝手な妄想で殺人鬼の姿をどんどん肉付けしていく。そうして思い浮んだ姿は――――

 「高水」

 声。自分の世界に没頭していた輝和には、背後に立たれても気配が感じられなかった。しかし、よく聞き知った声。

 「先輩、どうしたんですか?」

 無論、相手は黒木康斗だった。男も気付いたらしく、こちらに横目を向けた。
 その視線に気付いているのかいないのか、康斗はいつも通りの言動で淡々と続けた。

 「いや、お前を放置しておくのも何だと思ったからな。連れに来た」

 言いながら、無茶苦茶な理屈だと気付いていないわけではない。だが、わざわざ筋道の通った理屈を話す気など始めからない。目的は輝和を連れてこの男から離れることだ。それ以外はいっそ不要だった。

 「ほら、行くぞ。きりきり歩け」

 無理やり襟首を掴み、引きずる。その男の方へ向かって。

 「ちょ、ちょ、先輩!苦しいですってば!先輩!!」

 待遇改善を訴える後輩はさておいて、ずんずんと進んでいく。

 「――――――」

 男の側を通るときに一言だけ残して。
 あとは、何を憚ることなく輝和を引き摺って、そして3分数えないうちに男の視界からいなくなった。





 当日12時10分。今日は週三日のバイトの日だった。バイトが終わり、私服に着替えた後、裏口から出て、少し歩く。店から少し離れた路地の奥に人影を確かめ、康斗はそちらに向かった。

 「時間通りですね。来るとは思いませんでしたよ」

 声をかける。昼間のあの男だった。というよりも、康斗が呼び出したのだが。

 「来いと言われれば来る。何の用だ」

 呼び出されたことに対する不快感もない、無機質な声。呼び出した理由。そう聞かれたならば尋ねようではないか。

 「ずっと、こちらを見ていたでしょう?どういうことか、お聞きしたいと思いましてね」

 相手は確実に年上であるが故に、康斗は表面上敬語を使う。敬意を表するわけでもなく、年上に対する惰性の反応だ。
 見たところ、親しいとまではいかないまでもこの男は輝和と面識があったらしかった。輝和を見ていたのならば、まだわかる。だが、何故自分を見ていたのか。

 「足運びがある女に似ていた。それが理由だ」

 「ある女………ご家族か何かですか?」

 男は答えない。代わりに、輝和に尋ねたのと同じ事を問い始めた。

 「女を捜している」

 「殺人鬼ですか」

 今男の言った話の内容。輝和との話の内容。わかっている、この男にはそれ以外の関心はない。

 「一応黒髪、細身で長身。だが、流石に女ではありえないな。だが、動きに通ずるものがあった。何かを知っているかと思ったので見ていた」

 輝和との話を立ち聞かれていたことには気付いたのだろうが、それについては全く反応がない。ただ自分の関心のみに従って動く。柔軟性のある機械のようなものだ。
 一応、本当に一応ではあるが納得の行く説明を聞き、康斗は納得した。納得であって満足ではない。始めから満足など求めていないのではあるが。

 「そうですか。まあ、それは実際のところどうでもいいんですよ。実際のところ、本質的に言うべきなのは一つだけでしたから」

 男が微妙にではあるが眉をひそめた。言うべきこと。問いに対する答えではなく、それ以外の何かを自分に言おうというのか、この少年が。あまりいい予感はしなかったが、それでも耳は傾けざるをえない。

 「私は、貴方の探している殺人鬼とやらについての情報を全く持っていません。そして、貴方が探していること自体には全く興味がありません」

 今夜の康斗は何時になく饒舌だった。芝居がかった仕草で、冗長に語り続ける。

 「貴方が何をしようと気にはならないはずですし、恐らくどうでもいいでしょう。ですが、一つだけ。願望だけは伝えておきます」

 一息つく。暫し目を瞑り、真っ直ぐに男を見据える。目を見開いた瞬間には、既に彼の雰囲気は一変していた。

 「俺の周囲を乱すな。俺は、俺から日常を奪う者の排除に躊躇はない」

 願望、康斗はそう言った。だが、誰がどう聞こうとそれは願望などではなく、もっと明確な形の――――そう、脅迫だった。先ほどまでの軽薄な仕草とのギャップが、若干十七歳の少年の言葉にとてつもない凄みを与えていた。
 男の眉がぴく、と微動した。それ以外の動きはない。

 「以上だ。用事はそれだけ。願わくば、そうならないことを祈っている」

 言うだけ言うと、殺意にすら似た物を向けた相手に背を向けた。そのまま背後には一瞥もくれずに歩き去っていく。男に対する警戒も、脅威も、ましてや恐怖もない。動かないことは分かっていたし、気にする必要もなかった。









 「……………く…………くははははッ……………ははははッ……………」

 狭い路地に男の哄笑が響く。ただ、ひたすらに愉快だった。
 排除に躊躇がない?笑わせる。排除。この自分を殺すというのか。たかだか高校生程度の、一般人が。

 「おい、おっさん」

 哄笑を上げ続ける男に、背後から若い声が掛けられる。昼間の少年か?しかし、振り向いた先にいたのは少年ではなく少年達だった。
 派手な服装をし、金のチェーンやごてごてしい指輪などをじゃらじゃらとつけた、どう見てもチンピラ予備軍といった体の十代後半の少年達であった。粗暴であることが強者であることだと心の底から信じ込んでいる顔つきだった。

 「おい、おっさん。死にたくなかったら笑ってねぇでどけよ、邪魔だからよ」

 にやにやと、何が楽しいのかわからない顔つきで威し紛いの台詞を吐く。

 「……………………」

 男は動かない。哄笑は止まっていたが、さりとて少年の発言に従うわけでもない。常の無機質な顔で少年達を見渡し、次に右腕の時計を見る。十分、夜は更けている。わかっていることではあった。そろそろ、時間だ。

 「おい、聞いてんのかよ、てめえ!」

 無視されたのが気に食わなかったらしい。一番先頭にいた、体格のいい少年が胸倉を掴み掛かって来る。

 ボキ、ドサ、ゴキ

 無骨な音が響いた。少年は、自分の身に何が起こったのか分からなかっただろう。そして、分かり得ない。永久に。
 一瞬のうちに掴み掛かった腕をへし折られ、足を払われ無様に転んだ後に、顎に近い顔面を踏み抜かれた。地に這いつくばった少年は、在らぬ方向に首を曲げ、白目を剥いている。
 ――――明らかに、即死だった。
 男は何の感慨も抱かずに死体を跨ぐと、悠然と少年達の方向へと歩き出した。少年達は何が起こったか分からないと言った表情で、目を瞬かせている。





 結局、何が起こったのかを判断する時間は彼らに残されなかった。   続く














あとがき


こんばんは〜、emp.です。夜である保証はなくとも、
差し障りなくこんばんはです。
第九章。正直申し上げて、ミスりました。
康斗以外の人を書こうかと思ったのに、結局康斗が前面に(爆)
しかも、途中壊れてます。或る御方に『壊れスト』などと呼ばれてしまいました。
壊れestですよ、壊れest。最上級です、最も壊れている。
さあ、崇めよ皆の衆(死)
なんてな、やっぱり暴走気味です。夏が熱いのがいけないんです、きっと。
冷房かけると微妙に寒いし。かといってつけないと熱いし。
夏生まれなんですけど、やっぱり夏は苦手です。
早く涼しい秋になってくれないかと時間に挑戦しようかとまで思う、今日この頃でした。

emp.