◆目次◆

  第1話    第2話    第3話    第4話    第5話    第6話    第7話    第8話


  第9話    第10話    最終話























      第1話

 もう涙は枯れ果てた。あなたが逝ってしまったあの日から、私はどのくらい泣いたのだろう。……朝から晩まで、夜から昼まで、泣けるだけ泣いた。泣けなくても泣いた。
 私の目の前で息を引き取ったあなた。もうそんな力は残っていないはずだったのに、最後に僅かに、ほんの僅かに笑ったあなた。
 目をつぶっても、浮かんでくるあなたの顔。耳を閉じても聞こえてくるあなたの声。その全てが愛しくて、その全てを守りたくて……でも、私にはそれが出来なかった。


 あなたのいなくなったこの部屋で、私はどのくらい泣いたのだろう。
 あなたのいなくなったこの部屋で、私はどのくらい夜を過ごしたのだろう


『あなたが好きでした』
『あなたの声が好きでした』
『あなたの優しさが好きでした』
『あなたのぬくもりが好きでした』
『あなたの笑顔が好きでした』
『あなたの匂いが好きでした』
『あなたといた時間が好きでした』
『あなたの眼差しが好きでした』
『あなたの全てが好きでした』
      ・
      ・
      ・
『あなたを愛していました』



 あなたのいない部屋で、私はどのくらいの時を過ごしたのだろう。
 あなたのいない部屋で、私はどのくらいの時を過ごしていくのだろう


 あなたのいないこの部屋で。
 何もないこの部屋で。

 何もないこの部屋で。
 あなたのいないこの部屋で。






      第2話

 中途半端に冷たいハンドルがあたしの意識を現実へ引き戻した。昼間にしては暗めの車内から外に目を移すと、激しすぎて白い雨が視界を遮る。右手のカフェテラス、左手のオフィスビルがよく見えない。
 フロントガラスを滑り落ちる水。アスファルトを洗う水。他の車を叩く水。この街にオフホワイトのカーテンをかける水。……それらに歩道を通行する傘が彩りを加えた。
 雨を見ていると不思議と落ち着く。それだけは今も昔も変わらない。子供時代は雨が好きだった。雨にうっとうしさを感じるようになったのはいつからだろうか。
 パネルの時計を見ると、午前11時を回ったばかり。ドリンクホルダーの中で携帯がメールを着信してバイブしてる。車内の空気の感触を肌で感じる。何の苛立ちも焦りも駆け上がってこないオフ……。
 信号が青に変わり、車の列が再び流れ始める。フロントガラスがより一層強く雨に叩かれ、ワイパーが必死に水を押しのけてる。でも、ゆっくり、ゆっくり、流れてる。傘が。ビル群が。
 スクウェアな街に差し込む6車線。もいちど車の流れをせき止めた。ゆっくりと。
 6車線をまたぐ横断歩道。そこを歩いてく人々の中に、忘れもしない人の姿を見つけた。
 
 その数秒間、周囲の全ての音が聞こえなくなった。……君を見て、心の風が凪いだのだ。












      第3話


 雨に滲む信号が青に変わる。ビルの谷間に消えていった君の後を追った。少し走った先に君の姿が見えた。喫茶店に入っていく後ろ姿。店の向かいに車を止め、後を追った。人違いだったらどうしようか。
 店のドアを開け、なるべく見てない振りして中へと進んだ。横顔を見ただけで、手が震えるのが分かる。
 出来れば気づいて欲しいけど、多分あたしから声をかけないと気づいてくれないだろうな。
 懐かしい背中。何度この人にもう一度逢いたいと思ったか。……彼のすぐ後ろで声をかけた。
「……オサム君」
すぐに振り向くと、「え?」という顔をしてしばらく固まった。
「久し振りね。ビックリした?」
「……真里子?」
うなずいてみせると、体から緊張が抜けた彼は背もたれにもたれ落ちた。
「なんだよーおまえか。ビックリしたよ。何でここにいるの?」
「ちょっと車でぶらぶらしてただけよ。そしたらあなたが歩いているのを見つけて」
「偶然だねぇ。何年ぶり?14年ぶりだよね」
 彼とは高校時代に一年ほどつきあっていた。今にして思えば、何だか友人と恋人の中間みたいな交際だったのかも知れない。友達同士だった頃との境界線もはっきりしない。そんな恋だった。
「バレンタインの時、郵送でチョコを送ったの覚えてる?」
「うん」
「『手作りよ』って書いたけど、あれ、本当は」
「分かってたよ。言わなくていいよ。今更そんなこと」
「分かってたの?!」
「分かってたよ」
「……怒らないの?」
「怒らないよ。何でついそう書いちゃったか分かってたから。……そういう嘘に気づかない振りしてあげるのも優しさだと思う」
「……」
好きだったからとはいえ、思えば子供じみた見栄だった。でも彼はそれを暴くこともせず、受け入れてくれたのだ。気づかない振りをしていてくれたなんて、思いもしなかった。
 昔話に話が盛り上がり、小一時間ほど経ったところで携帯の番号を交換して店を出た。別れ際に彼の車の中をちょっと覗いたのだけれど、あのころよく聴いていたテープがいくつも積まれていた。彼の好きだったシカゴ、WHAM!、オリビア・ニュートンジョン、ボン・ジョビ、ジェネシス……。
「シカゴやオリビアはともかく、WHAMなんてミーハーだよね〜」
「うるさいなー」
昔と変わらないところを見つけるたび、まだそんなに遠くに行ってない気がしてほっとする。
 
 その夜、つきあいの終盤の頃を思い出して辛くなった。
 
 










      第4話


 つきあいの終盤の頃……もうそのころはお互い忙しく、実際に会うことはほとんど出来ない状況になっていた。つながりといえば、電話と手紙だけ。彼は大学受験、あたしは専門学校受験と部活で忙しく、交際どころではなかった。
 そんなある日、電話での会話で彼にとんでもないことを言ってしまった。
 確か、お互いの近況を話していたと思う。そんな話の流れの中で、彼に
「ねー、彼女とか作らないの?好きな子はいないの?」
と訊いてしまった。冗談めかしていたが、それだけじゃなかった。あまりにも忙しくて会わなくなっていたため、「つきあってる」と思われているのかどうか確かめたい下心があった。……でもオサム君から返ってきた答えは、自分の発言がウカツだった事を知らしめるのに充分だった。
「真理子はそういう風に思ってるのかもしれないけど……」
「……」
「俺がずっと好きなのは……真理子だから」
「……」
「……」
好きだって言ってもらえたのは初めてだった。言ってもらえると思っていなかった。全然会わなくなって久しかったし、そんな言葉が返ってくるなんて予想外だった。彼の口から続きかねない言葉を
「ちょっと待っ……心の準備が」
と遮ってからしばらくの間、頭の中が真っ白で返す言葉も思いつかなかった。……多分30秒ほどパニクっていたのではなかろうか。彼はその間もずっとあたしの言葉を待っていてくれた。
「……ごめんね……。全然いい彼女じゃなくってごめんね……」
「……」
「オサム君が「会おう」って言ってくれても、全然時間を作ってあげられないし……。会ってあげられないし……」
「……」
「手紙だって、約束したのに最近は返事も書けなくなってきて……なのにオサム君は一度も約束を破らないでずっと手紙を書いて送ってくれて……」
「……」
「彼女らしい事なんて何にも出来てないのに……」
「……」
謝るつもりだったのに、いつの間にか自分の非を無計画に喋り続けていた。申し分けなさすぎて、気持ちが形にすらならなかった。……ごめんね。本当にごめんね。何にもしてあげられなくてごめんね。ごめんね……。
 それからしばらくは電話も手紙も途絶えた。そして……
 
 










      第5話


 そして……彼は居なくなった。家族ごと居なくなった。学校にいくら転居先を問い合わせても
「転居先や転校先については口外しないでくれと頼まれているので」と頑として断られた。
 彼が居なくなった家に行ってみた。玄関のカギは開いており、中にはいることが出来た。
「ごめんくださーい」
一応呼びかけてみたが、誰が返事するわけでもない。……返事して欲しい。
 二階の彼の部屋に行けば彼が居るんじゃないか。確かめてみたい。そう思って二階へ向かった。何度も踏みしめた階段の感触。きしむ音。確かにこの家には、あの家族の音と気配があったのだ。
 彼の部屋に入った。机もタンスもポスターもカーペットも何にもなくなった……。カーテンもなくなった窓から夕日が射し込んでいたのだが、光の足の先に手紙が置いてあった。私宛だった。床からそれを拾うと、次のように書かれていた。
「こんにちは、オサムです。この手紙を投函せずにこの部屋の真ん中に置いてゆきます。何となく、数日後に君がこの部屋に来て見つけてくれるような気がするから。
 急にいなくなってごめんね。それはとても申し訳なく思っています。でも事情があり、理由も行き先も言えません。
 
 君と共有した時間、君の言葉、君の声、君の優しさ、全部宝物です。絶対に忘れません。瞼(まぶた)を閉じれば、君と過ごした時間が鮮明に蘇ってきます。10年先も、20年先も同じように瞼の裏に同じように浮かべることが出来ると信じています。

 真里子のことが好きだった。
 いままでありがとう。本当にありがとう。いい思い出です。
 さよなら」

あんまりだった。訳も言ってくれないで一方的に「さよなら」の押しつけなんてひどすぎるよ。「いい思い出」って何よ。申し訳ないと思うんだったら置いていかないでよ。


「ありがとう」なんて言葉を残して、去らないで。







      第6話


 目を開けて自分を現実に引き戻してみた。あれからもう十年あまり経つんだっけ……。
 枕元においてある携帯電話に手を伸ばす。メモリに記憶されている最後の電話番号を表示させると、暗闇にオサム君の番号が浮かび上がる。また会ってくれるかな。

 翌日。忙しい業務を飲み干していく……。業務そのもので疲れるならまだいい。好意的とは言い難い同僚の存在ってどうしてこうも心を疲弊させるのだろう。
 心が疲れると、夜中の高速を飛ばすことで和らげようとする傾向があたしにはある。今夜も冷たいハンドルを握った。アクセルをぐいぐい踏み、紺の星の空を泳ぐ。走行車線と追い越し車線を揺れ動きながら、一歩間違えれば車ごとぐちゃぐちゃになりかねない危険性を心地よい緊張として噛みしめてる。なんか、ストレスをストレスで相殺してるね。きっと。

 家に帰ると、携帯に彼からのメールが届いていた。
「心配なのは、職場に心からの仲間がいないんじゃないかってこと」














      第7話


 ブルーグレーの摩天楼を高速エレベーターが貫いてく。浮かび上がっていく床が体に心地よいGを奏でている。深く、高い吹き抜けを映すガラスに外の雨模様がオーバーラップしている。手に持った携帯がバイブしてきた。オサム君からだった。
 「今度の土曜日あいてる?遊びに行こうよ」
 断る理由もなかった。「いいよ」の返事を返した。
 「遊びに行くのはいいけどー、どこへ?」
 「がっこー」
 「へ?」
 「いいから! 明倫高校の正門に夜10時ね」

 学校に着くともっとぶったまげた。オサム君がガクラン着て正門の前に立ってるー。
 「……なーにしてんのよ、頭おかしいんじゃない??」
 「どうだ、すごく自然だろう」
 「どこがよぉ。めちゃ不自然。恥ずかしー」
正門をよじ登って乗り越えると、昔のいい思い出も辛い思い出も詰まったグランドや校舎まわりを散歩した。無かったことにしてしまいたいような恥ずかしい思い出もたくさんあるなあ……。
 「おれって真里子の昔の男なんだよねー?」
 「何よ今更ーふふっ」
 「おれは真里子ちゃんの昔の男でっす!」
 「はーいはい、わかったわかった」
オサム君が急に立ち止まり、あたしの左手を取るとマジな顔して薬指をチェックした。
 「なぁに?」
左手を離し、あたしの頭をなでなで。彼の口から突拍子もない言葉がこぼれた。
 「一緒に暮らさないか?……同じ家で、ずーっと住もうよ」
 「……マジ?」
 「うん」
 「ちょっと待ってよ。そんなこと急に言われても……」














      第8話


「オサム君へ

  先日の申し出、とても驚き、戸惑いました。冗談ではないですよね?
  自分なりによく考えた結果、オサム君と暮らすことに決めました。あまりいい同居人ではないかもしれないけど、そうなれるように努力します。
  これからは同じ部屋にオサム君がいるなんて、なんだかちょっと考えにくいです。
  
  オサム君、私のことを大切にしてね。ずっと。

                    真理子より」














      第9話


 一緒に暮らし始めて一年ほど経った或る休日。土砂降りが家の窓ガラスを神経質に叩いていた。
 「真里子、どうしたの、顔色が悪いよ?」
 「うん、ちょっと・・・朝から熱っぽいの」
 「今日は寒いから朝がた体を冷やしたのかな」
 「そうかもね」
 「今日は朝食作らなくてもいいから。俺が代わりに作るから。おまえは寝てなよ」
 彼の大きな手が私の頭を優しく撫でてくれた。彼の手に吸い込まれたような気がした。
 「おーし!!じゃあ具合がよくなるように、栄養のつく朝メシ作るぜ!!」
 「え??」
 「今から買出しに行ってくるからな」
 「冷蔵庫にあるものでいいよぉ?」
 「いいからお前は寝てろって」
 熱っぽいおでこに軽くキスすると、彼は楽しそうに買い物に出ていった。
 彼がいなくなり、雨の手の中にいるような部屋。雨の音が次第に遠くなり、眠りに落ちた。荒れた海。沈み行く船の上で多くの乗客とともに海に飲み込まれていく夢を見た。
 一本の電話の呼び出し音で現実に引き戻された。少しくぐもった電子音が私を呼ぶ。ずきずきする頭を起こし、電話のある場所まで移動する。頭を起こしたとき。ベッドから立ち上がったとき。歩くとき。そのたびに稲妻のような頭痛がした。
 「はい、吉田ですが」
 「オサムさんはそちらのご家族ですか?」
 聞きなれない、知らない男性の事務的な声だった。いきなりそんなことを訊かれるなんて変だなと思いながら
 「・・・はい」と答えた。
 「オサムさんの会社名は?」「オサムさんのご両親のお名前は?」などといくつか質問され、最後に
 「警察ですが、オサムさんが交通事故に遭い、病院に搬送されましたので、急いで向かって下さい」と告げられた。
 信じられない私はすぐに、搬送先の病院に電話をした。間違いであって欲しい、そう願った。
 「はい、横尾医科大学付属病院です」
 「もしもし?吉田と申します。そちらに今日うちの者がお世話になっていると訊いたのですが、本当でしょうか?」
 「申し訳ありません、患者の方のお名前をお聞かせ願いますでしょうか」
 「吉田オサムと申します」
 「暫くお待ちください」
 少しキーを叩く音が聞こえ、なにやら電話の向こうで話をしていた。そして・・・
 「ご家族の方ですか?大変危険な状態です。とにかく早く来て下さい」と言われ、頭の中が真っ白になった。
 とにかくオサム君のご両親に連絡をして、急いで病院へ向かった。自分がどういうルートで病院へ向かっているのか、ぜんぜんわからない。病院内をどう歩いているのかも、わからない。わからないまま、気がつくとICUの前だった。だけど、何も、聞こえなかった。「手術中」のランプ以外、何も見えなかった。
 「真里子さん?真里子さん?」
 オサム君のお父様の声でわれに帰った。背後にご両親がいらっしゃった。
 「とにかく座りましょうよ」
 
 
 やがて手術が終了したが、面会謝絶の状態が続いた。医師からは「今晩あたりが峠でしょう」といわれた。
 時間がたつにつれ、精神的に落ち着きを取り戻し、現状に考えが向くようになった。
 ・・・オサム君をあの時行かせなければ。私が代わりに行っていれば、こんなことにはならなかったのに。私のせいで、オサム君は今生死の境を彷徨っているのだ。責任を痛感し、後悔が涙となって頬を伝った。
 夜21時過ぎ、用を足しにお手洗いへ行った。お手洗いから出てきたら、遠く廊下の突き当たりで手を振るパジャマ姿のオサム君が見えた。














      第10話


 自分の目を疑った。オサム君は動けないはずなんじゃ?いつも通りの優しさをたたえて微笑むオサム君の顔に苦しみは読み取れなかった。近寄ろうとすると、曲がり角の向こうに消えた。
 窓の外へ目をやった。窓外の夜景を霧雨が遮っていた。霧雨の中、紺の傘が遠ざかっていった。建物の陰と夜の暗がりに溶けてはいたが、ぼんやりと見えた、傘の下の後ろ姿。あれは彼の後ろ姿なんじゃ?
 階段を駆け下りる。病院の庭に出ると、霧雨の気配を一層強く感じた。月に向かって傘を差すと、紺の傘が吸い込まれていった闇へと走り始めた。

 どうしてあなたは出歩けてるの?重体で意識もないはずなのに?その上どこに行こうとしているの?

 あなたと過ごした明倫高校。あなたと再会したあの街角。彼の姿を求めて走った。時折雨に滑って転倒し、脚や肘に激痛を感じた。それでもそのたびに立ち上がって走り続けた。走った。走った。走った。 夜の闇に突き刺さる摩天楼も、それをオフホワイトに彩る雨も、6車線の小川も視界に入らなかった。
 最後に家へ向かった。さすがにもう走れず、筋肉痛の脚を引きずりながら歩いた。雨はいつの間にか土砂降りになっており、アスファルトを激しく叩いている。
 土砂降りのその先、家の前の寂しい街灯の前に傘を差して立っている男性がいる。その人が顔を上げたとき、数秒間、周囲の全ての音が聞こえなくなった。……君を見て、もう一度心の風が凪いだのだ。
 少しずつ周りの音が聞こえてくると、彼の顔に笑みが滲んだのが分かった。嬉しかった。
 「オサム君、顔が疲れてる」
 「うん」
 「どうしてここにいるの?」
 「だって約束したじゃん」
 「・・・」
 「俺が代わりに作るからって」

彼の顔がぼやけた。この人はどうしてそんなにまでして約束を守るんだろう。

 彼のほほに手を伸ばし、触った。雨に濡れたそのほほをゆっくりと愛撫した。時がこのまま止まればいいのに。

 優しい時間を寸断された。真上の街灯も、周囲の家の明かりも全て突然に消えた。あちこちから「停電かぁ?」と遠く聞こえた。














      最終話


 突然暗くなった街。徐々にその暗さに慣れ、彼の顔が浮かび上がってきた。
 「中に入る?」
 「うん」
 中に入り、真っ暗な中で蝋燭を灯しながら彼の調理が始まった。手伝おうとすると着替えて寝てるよう促された。シャワーを浴び、着替えてくると食事の支度はできていた。彼の作ってくれた食事を食べながら、ぼつりぽつりと話をした。
 「オサム君」
 「ん?」
 「どうしてここにいるの?重体で意識もないはずなんじゃないの?」
 「信じてくれるかどうか分からないけど、変な夢を見たんだ」
 「・・・」
 「すごい土砂降りの埠頭に座り込んでて、沖合で客船が少しずつ沈んでいくのが見えてた。一緒に座り込んでたおじいさんに「おまえにはやり残していることがあるだろう」といわれて海に突き飛ばされた。海に落ちる瞬間に、病室の自分のベッドのそばにトランスした」
 「え??」
 「目の前に、ベッドで眠る自分が見えた。不思議な体験だった。この感覚は夢じゃない」
 「・・・」
 「ベッドで眠っている自分は重傷を負ってるのに、自分は怪我一つしてない。・・・ほんとにやり残したことをやってきていいのかなって、申し訳ない思いがして迷ったけど、最後の約束を果たそうと思った。そうして、病室を出て、君を捜して・・・」
 「うん・・・」
 少し考えて、彼の手を握ってみた。・・・彼の手は、いつも通り、すごく暖かかった。
そしたら、彼がすごく強く握りかえしてくれたんだよね。彼、確かに生きてるんだよ。目の前で、生きてるんだよ。
 
 「僕と一緒に暮らした毎日のこと、覚えてる?」
 「覚えてるよ、忘れるわけないじゃん」
 「毎日の何でもないことばかり思い出しちゃう。真里子と、ほんとにこの部屋で暮らしたんだね」
 ゆっくりしたこの空気を、彼はすーっと吸い込んだ。高校時代の彼とのいろんな思い出。14年ぶりに再開した日のこと。彼と夜の高校に忍び込んだ日のこと。一緒に暮らし始めてからの日々。そんないろいろなイマージュがゆっくり、ゆっくり、浮かんでた。この部屋の中に。
 「この世を離れていく全ての人に、こんな優しい奇跡が起きてくれたらいいのにね・・・」
 「そうね、やり残したことを一つでもできたらね」
 
 「君のことを一生守ってあげられなくてごめんね」彼の言葉に力一杯かぶりを振った。 「僕より君に守られてるような毎日だったな」

そんなことはない。女にだって好きな人を守ってあげたい気持ちはある。でも・・・。

 握ってる彼の手が少しずつ透けてきているのに気がついた。彼の顔を見上げると、彼の顔も透けてきていた。
 「あは。何だかおれもう呼び戻されるみたい」
 「オサム君!」
 「このまま消えちゃって、病室の体に戻るのかな。もう約束も果たしたしね」
 「消えないで、お願い!」
彼はあたしの髪をくしゃくしゃっと撫でて、「じゃあな、真里子」とだけ言い残していなくなった。手にはあの人のぬくもりがまだ残っていた。



 その日の午後6時頃、彼は意識が戻らぬまま天国の人になった。病院の外の雨は、いつの間にか止んでたな。



 もう涙は枯れ果てた。あなたが逝ってしまったあの日から、私はどのくらい泣いたのだろう。……朝から晩まで、夜から昼まで、泣けるだけ泣いた。泣けなくても泣いた。
 私の目の前で息を引き取ったあなた。もうそんな力は残っていないはずだったのに、最後に僅かに、ほんの僅かに笑ったあなた。
 目をつぶっても、浮かんでくるあなたの顔。耳を閉じても聞こえてくるあなたの声。その全てが愛しくて、その全てを守りたくて……でも、私にはそれが出来なかった。


 あなたのいなくなったこの部屋で、私はどのくらい泣いたのだろう。
 あなたのいなくなったこの部屋で、私はどのくらい夜を過ごしたのだろう


『あなたが好きでした』
『あなたの声が好きでした』
『あなたの優しさが好きでした』
『あなたのぬくもりが好きでした』
『あなたの笑顔が好きでした』
『あなたの匂いが好きでした』
『あなたといた時間が好きでした』
『あなたの眼差しが好きでした』
『あなたの全てが好きでした』
      ・
      ・
      ・
『あなたを愛していました』



 あなたのいない部屋で、私はどのくらいの時を過ごしたのだろう。
 あなたのいない部屋で、私はどのくらいの時を過ごしていくのだろう


 あなたのいないこの部屋で。
 何もないこの部屋で。

 何もないこの部屋で。
 あなたのいないこの部屋で。






 仕事の帰り、懐かしい歌が街に流れてる。いつだったか、あなたが夢中になって聞いてた「I miss you...」よね? 誰の歌だったかな。











                  - 完 -