◆目次◆

  第1話    第2話    第3話    第4話    第5話    第6話    第7話    第8話


  第9話    第10話    






















      第1話

 私が3歳の頃ぐらいまで、父は画家になる夢を追いかけていた。絵を描いているときの父は生き生きとして、とても優しかった。一人娘の私にも、妻である母にも。あの頃過ごした田園風景と幸せだった時代は、今でも心に強く印象づけられてる。
 母の優しい眼差し。父が私の頭を撫でるときの手のごつごつした感じ。今にして思えば、なんて輝かしい時間だったのだろう。
 時折母に手を引かれて散歩した。どこまでも広い空。田舎の風景を駆け抜けていく風が私たちを包んだ。
 家庭の味って何だろうか。こんな何でもない毎日の積み重なりなんだろうか。
 
 4歳になったばかりの頃、父はとうとう画家として成功する道をあきらめた。そして父は、サラリーマンになった。子供の目にも十分に映る多忙な日々。私は母と二人だけで向かい合って夕食をとるのが当たり前となっていった。深夜に帰ってきてタイムテーブルを握りしめたまま机で寝てしまった父に毛布を掛けてあげたのも覚えている。画家だった頃の父は、ろくに収入もなかったが生き生きしていた。だが勤め人となってからは、次第に瞳に翳りが差すようになった。
 仕事でのストレスも多くのし掛かるようになったのが子供心にも感じ取れた。画家時代は友人と陽気に呑んで帰るだけだったのが、怒気と酒気を帯びて深夜帰宅することも珍しくなくなっていた。憂さ晴らしに呑んで帰らなくても午前一時二時の帰宅なんて当たり前。母や私との会話もほとんどなくなり、家事もほとんどできず、母と衝突することも珍しくなくなっていった。
 当時の私は幼すぎて、父の苦悶の子細までは分からなかった。ただ、はっきり分かったことは、父は変わってしまったこと。……そして、母や私をうまく愛せなくなったこと。父の背中が、小さく、弱々しく見えていった。
 父の弱さを愛せなかった。父の脆さを抱きしめてあげられなかった。父にも母にも当たり散らすことが次第に多くなった。まだ小学校にも上がっていない私にはできるはずもなかった。……父に愛されたかった。昔のように、暖かく抱き上げて欲しかった。ただ、それだけだった。子供だった。
 小学校に上がる半年前頃、父は酒を呑むと母や私に暴力をふるうようになった。特に母に対しての暴力はすさまじかった。母の顔を平手でなく拳で殴る。柱に母の頭を叩きつける。髪をつかんで引き回す。倒れた母の顔を足で踏みつける。…そんな母は何度も私に助けを求め、「助けてえ!!」と絶叫していた。折檻される母を直視できなかった。顔を上げられなかった。どうすればいいのか分からなかった。
 
 よく晴れた火曜日の朝、母は荷物を持って家を出て行った。
「香織ちゃん、いつか迎えに来るからね」 母が迎えに来ることは二度となかった。
 父に愛されたかった。母に愛されたかった。どうして?
 
 小学校の入学式の日。桜が舞う校門を一人でくぐった。自分の周囲の子供たちにはみな親がついていた。盛装した親に手を引かれ、幸せいっぱいに歩く子供たち。両親から愛情をいっぱいに受けたその顔を見るたびに、自分の中に腹黒いものが湧き上がるのを感じる。
 正式に学校生活がスタートして、あまりみんなになじめなかった。みんなの中に入っていかない方が楽だった。いつの間にか、私は人に愛されることが苦手になっていたのではないか。
 そんなクラスの中心に、みんなから人気と注目を浴びて輝いている子がいた。妬ましかった。……本当に妬ましかった。
 
 愛されることに秀でているのは、一つの才能なのだろうか?
 
 どうしてあたしには愛される才能がないのだろう。感じるたび、認めたくない気持ちでいっぱいになった。












    第2話

 やがて、中学生になり、高校生になった。昔ほど頻繁でないにせよ、時折気に入らないことがあると私に暴力で当たり散らした。父の酒代がかさみ、生活も一向に豊かにならなかった。
 父への反抗心もあり、どうしようもない不良生徒・アキラとつきあうようになった。愛情なんて微塵も感じなかった。事実上のセックスフレンドのようなものだった。
 クラスメートたちにも相変わらず好かれなかった。クラスメートたちが心配して色々してくれる全てに食ってかかった。ガラスの破片のような私だった。
 親に愛されてこなかった。周囲のクラスメートたちにも愛されなかった。男性の愛情にも飢えていた。そして、貧しかった。こんな生活から抜け出す為には、一流大学に行き、人が羨むような職業につくしかないと考えるようになっていた。もう、狂ったように受験勉強に励んだ。下克上しか考えられなかった。そして、暴力をふるう父、私を分かってくれないクラスメート、下衆な彼氏、貧しい生活、全部捨ててやるんだ。












      第3話


 イギリス、ロンドン。すごくいい天気だ。パティサリに入る鈴木武。フランスパンを数本買うと店を出、店の前に止めておいた自転車のかごに買ったものをどさっと入れ、自転車を走らせた。ちょうどいい具合の風が頬を撫でていく。ロンドンの人々、町並みが次々と流れていく。自分の住むアパートの前に自転車を止め、階段を駆け上がった。
 部屋のキーをテーブルにおき、留守番電話の再生ボタンを押した。
「You have two messages...
(ピー)武、生きてる?連絡ぐらいよこしなさいよ。まさか勉学に目覚めたんじゃないでしょうね。お母様、具合悪いみたい。連絡してあげて」
姉の声だ。
「(ピーッ……ピーッ)私だ。何故連絡しない?母さんが亡くなった。すぐに戻ってこい。(ブッ……)」
二件目は父の声だった。父の声だと分かった時点で再生停止ボタンを押そうとしたが、「母さんが亡くなった」の一言でその指が止まった。ソファーに腰を下ろし、深呼吸した

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 さっきあたしに電話があった。父が勤務中に事故に遭ったとのこと。現在重体で集中治療室で治療中。病院名と病院の場所を訊いて大急ぎで家を出た。
 私が着いたときには、もう集中治療室にはおらず、病室に移されていた。
 横たわっている父は、ぴくりとも動かなかった。顔がひどくむくんでおり、拭き取った地の跡が少し残っていた。
「父さん?父さん?しっかりして……何でこんなことになったの?」
 後ろから誰かに声をかけられた。父の所属するテレビ番組制作会社の課長・竹内だった。いいことを思いついた。
「父がこうなったのはあなたのせい!?……詐欺にあった父が馬鹿なの!?この寒空に働きっぱなし。一銭もくれず、それでも人間なの!!」
「……気持ちは分かるが、会社としても大変なんだ」
「父さんを返してよ……返してよ!!私たちの苦しみが分かって!?このままですむと思ってるの!?父さんを返して!!」
 激しく罵り続ける私と、ただただ詫びる課長を、周囲の人もちらちら見ているのが分かった。私はありったけの演技力で、涙を浮かべ、顔を紅潮させ、怒鳴り散らした。
「保険で事故に関する保証はできる。だが賃金については私に権限はない」
その言葉を聞いて悄然と頭を垂れ、その場に崩れ落ちた。なるべくゆっくりと。
「あんまりだわ。いくら取り柄のない父でも……」
泣き崩れる私に、課長はハンカチを差し出した。
「お母様は?」
「私がまだ小さい頃に実家に帰ったきりです」
「そうですか……」
課長は父に視線を移し、何か思いを巡らせていたようだった。
「……思う存分泣くがいい。私にもこの春、大学に入る娘がいる」
そういうと、私の肩をぽんぽんと叩いた。
 課長は程なく退出した。しばらく父の前に黙って座っていた。30分ぐらい経ったあたりからだろうか。父に話し始めた。
 「ありがとう……入学金を用意してくれて。父さんらしいやり方ね。私をこんな風に育てたのは父さんよ。……一緒に暮らしはしたけど、辛かった。……このまま死んでくれたら本望よ。二度と一緒にいたくない」
 父の顔を鼻で嗤ってやった。いろんな思いが涙と一緒にこぼれ落ちた。複雑な涙だった。
 父がこのまま死んだって、微塵も悲しくない。せいせいするわ。二度と一緒にいたくない。

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 藤木隆史の母・悠子が経営しているコンビニ。竹内涼子はその店に入り、悠子に声をかけた。
「おばさん♪」
「あらぁ、涼子ちゃん、おかえりぃ」
買ってきたものをテーブルの上におろすと、屈託のない笑顔で話しかけた。
「今夜は海鮮鍋を作るの」
「親孝行な子ねぇ〜、このキャンディーお食べ」
レジにあったキャンディーを涼子に手渡した。
「えへ♪食べに来てね」
「大げさだねぇ。ふふふふ」

「あの人もそろそろ再婚を考えなきゃね」
「おばさんこそ」
「女は一人でも大・丈・夫」

「後で味見してね」
「あんたの味付けなら大丈夫よ」
「それでもよ♪」

涼子は店内を見回すと、
「隆史兄ちゃんは?」と訪ねた。
「長い撮影旅行から帰ってきたと思ったら、また会えないよ。コンテストに出すんだとか?ばたばたしてるよぉ。全く」
「じゃ、いくよ」
「ご苦労様」

涼子が店から出て行くと、悠子はため息をついた。
「はぁ〜、ええ子やねぇ。可愛いねえ。あの子がほんとにうちの娘だったらいいのに」










      第4話


 涼子は隆史の住む家にノックもせずに入り、あがっていった。涼子の表情はルンルンそのもので、自然と笑みがこぼれていた。どうも隆史は部屋の中にはいないようだ。隆史の部屋を掃除することにすると、買い物袋をテーブルにおき、まず暗室を覗いた。
 「誰だ?」中から大きな声がして、びくりとした。隆史だった。
 「ごめん、中にいたのね」涼子は詫びると、すぐ外に出た。
 暗室から隆史が出てきた。目に涼子に対する慈しみがあふれている。
 「ノックしろよ」
 「ダメにしちゃった?」
 「危うくな、寿命が縮んだよ」にっこりしながら、涼子の頬を両手で優しくぽんぽんと叩いた。
 「お詫びに晩ご飯ごちそうしてあげる」
 「今日はおじさん来るの?」
 「うん」
 「今日は大忙しだな。手伝ってやろうか」
 「実はそれを頼みに来たの」
 「やっぱりな」二人でくすくす笑った
 「さぁ、キッチンに行こう」
 二人で料理を作りはじめた。隆史は水の中からタマネギを取り出し、包丁で刻む。結構上手だ。
 「上手ね。目にしみない?」
 「だから水につけておくのさ。台所仕事を10年やって覚えた知識さ」
 涼子は作業している隆史を数秒間見つめて、嬉しそうに頬をゆるめた。
 「おばさんに叱られそうね」
 「なんで?」
 「二人きりでいるから。おばさん古いし」
 「おふくろはもう!俺たちが絶対安全だって事わかってないね」
 そういわれて涼子はむっとした。
 「そうかもしれないけど……」
 電話が鳴った。涼子が電話台に近づくと、受話器を取った。
 「パパ?今どこ?」
 「ごめん、そっちに行くの、かなり遅くなる」
 「どうして?」
 「ちょっと仕事がらみで……」
 「また?」涼子はぶすっとした。
 「勤務中に亡くなった人が居てね。だから、ちょっとね」
 「……分かった。仕方ないもん」
 「泣くなよ?」
 「泣かないわよ。子供じゃあるまいし」
隆史が受話器を奪った。
 「隆史です、急用でも?」
 「ええ、ちょっと……涼子は大丈夫かな?」
 「僕がついてますから大丈夫ですよ。仕事を済ませてゆっくり来てくださいよ」
 「すまんな」
 「いえいえ……じゃあゆっくり待ってますね」受話器を置いた。涼子をちらりと見た。うつむいてむくれている。
 「仕事中に誰か死んだそうよ」
 「危険な仕事だからな……何か食べに行こうか?な?」
 涼子は首を横に振った。そんな気分になれないわという風に。そして立ち上がると、心配して見つめる隆史の視線を背に受けながら、二階にあがっていった(涼子にとって、藤木家は第二の我が家のようだ)。隆史はため息をついた。やれやれ。
 悠子が家に帰ってきた。
 「涼子ちゃん!居る?」悠子には涼子の行き先はお見通しだったようだ。
 「母さん、お帰り」
 「涼子ちゃんは?」
 「さっきおじさんから電話があってね」
 「来れないって?」
 「うん」
 「あの人ったらしょうがないわね」
 「死亡事故だって」
悠子は目だけで驚くと、
 「だからって晩ご飯食べないつもり?……あの子呼んできて」悠子は階上を指さした。
 「うん」
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 その頃、涼子の父・竹内誠一は香織の父の通夜に出ていた。部下を呼び、そろそろ退席することを伝えた。
 「後を頼む」
 「はい」
 香織の後ろ姿をもう一度見つめた。辛い。針のムシロに座らされている気分だ。
中年女性が前を横切り、香織の方を握り、前後に揺すった。
 「香織!どうしたらいいのかねえ……香織が可哀想だよ」
 香織はその中年女性の方に向き、言った。
 「お願いがあります。……もうこれ以上悲しむのは嫌、最後にしたいの」
 「どういう意味なの?」
 「これっきりにしたいの。ね?」察してください、と目で訴えた。意味を解し、中年女性はうなずいた。
 「ありがとう」
 
 部屋の入り口を足で乱暴に開けて、誰かが入ってきた。アキラだった。ガムをくちゃくちゃと噛み、喪服を着ている一同に侮蔑の視線をばらまいた。香織はこみ上げてくる怒りと呆れを飲み込み、汚い物を見るような視線を投げ返した。










      第5話
 アキラを外に連れ出した。香織には、みんなの前で喋られたくない過去があるからだ。アキラはそれを知っている。
 「香織よぉ!望みが叶ったな。親孝行のふりしやがって」
 「何しに来たの?」
 「義父が死んだんだ。婿が顔を出すのは当然だろ。違うか?」
 「義父?」はぁ?あんた、婚約者のつもり?と言わんばかりの顔をして、香織はクス、クス、と笑った。
 「へへっ。そうさ。笑えよ。……いや〜喪服がかえってそそるな」そういいながらアキラは香織の喪服の胸元を開けようとしたので、香織はそれを無言で手ではねのけた。
 「孝行娘のふりして、俺の前でまで芝居すんなよ。それとも、死んだら急に可哀想になったか?」
 「父親だもの」
 「その父親を何とかしてくれと俺に泣きついたのが何年前だ?裸足で逃げてきたおまえをかくまって、俺まで殺されそうになった」
 「その時はその時よ」
 「なるほどな。憎い情も情の内って言うからな。…でも、俺への恩は忘れるなよ。ああ?」そういうと、香織の肩を恩着せがましくバンバンと叩いた。あーやだやだ。
 「行かなきゃ。後で連絡する」そういうと香織は会場へ歩き始めた。するとアキラはくすっと笑うと、後ろからついてきた。
 「どこ行くの?」
 「俺を馬鹿にするのはよせ。義父に最後の挨拶ぐらいしたっていいだろ」その言葉を聞いて香織は溜息をつき、
 「あんたは来なくていいわ。あんたを殺そうと、父さんが生き返ってしまうわよ」
 「この広い世間で、俺以外に頼れるところでもあんのか?」アキラはちゃかすように言った。
 「親父さんだって俺に頼むはずさ。香織を頼むとな」そういうとニカニカ笑った。
 「低能なくせに。気を利かせな」
アキラは目を剥き、ガムを吐きとばすと、香織に訊き返した。
 「低能!?」
 「今までの私は、父さんの棺の中にしまった。喪服を脱いで、パンティーを着替え、爪の先まで綺麗にする。どういう意味か分かるでしょ?」
アキラをより一層睨め付けた。
 「あんたとはもう赤の他人よ!」
 「は?イカれたか?」
 「そうよ、イカれたわ!」
 本気かよ?という顔をして香織の目を観察した。
 「死ぬほど勉強したのよ?分かる?……ごめんね。さよなら」
 香織は会場へと歩いていった。アキラは歩いていく香織を目で追った。そして香織を呼び止めようとして、やめた。香織は葬儀場の入り口へ入っていった。
 アキラは自分を嘲るように下品な笑いをし、タバコを取り出して火をつけた。タバコをひと吸いする顔が、「チキショウ!」という顔に変わった。
 香織は葬儀場のトイレに入り、洗面台の鏡の前で昂進する胸の鼓動を鎮めた。徐々に目を上げ、鏡の中の自分を見る。荒んだ子供時代に身につけた、向こうっ気の強い性格が鏡に良く現れていた。そんな自分を皮肉るように、口を斜めにつり上げ、「ふっ」とシニカルに笑った。
 
 その夜、香織は自分の過去を伝える物を焼却した。写真、日記、手紙、子供服…。火に飲み込まれていく物を見つめながら、様々な思い出が頭の中を去来した。酔っぱらって家の中で暴れ回る父。ビール瓶や皿を床やテーブルに叩き付ける。千鳥足で香織の部屋の中に入ると、香織の参考書や教科書を部屋の中に投げ散らかした。
 「勉強なんかして何になる!何になる!何になる!」
 そんな父の言葉が頭の中でこだました。そうした記憶すべて、この地上から消え去って欲しい。忘れ去ってしまいたい。
 今度は父との楽しかった思い出が頭に蘇ってきた。父に欲しかったおもちゃを買ってもらった。にっこり笑った父からそれを受け取り、嬉しかった。風邪をひいて寝込んだ日。ふだん料理なんて作らない父が一生懸命おかゆを作って食べさせてくれた日。なかなか寝付けない夜、子守歌を歌いながら香織を寝付かせてくれた日。作品を作る手を休め、時々散歩に連れて行ってくれた日。父と草原に寝転がってみた夕日。
 父にあの時もらったおもちゃを火に投げ込んだ。










      第6話


 武の母の葬儀が青山で執り行われた。英国から急遽帰国した武ももちろん参加している。武はややうつむき加減で弔辞に耳を傾ける。読み上げが中盤を過ぎると、母の遺影を見つめ、母のことを思い出していた。──母との楽しかった日々。母の制止を振り切り、父が愛人宅へ引っ越してしまった日──。特に父が愛人宅にいってしまった日は辛かったに違いない。玄関で泣き崩れる母の後ろ姿……。あんなにも母を苦しめたことを、父はどう思っているのだろう。母が亡くなったこれから、父は、そして武の家族はどうなるのだろう。武は横で目を閉じて立っている父を恨めしく睨め付けた。
 参列者の中に、思い悩む武を見つめる女性が居る。山口 慶子。父の経営する電機メーカー・SOMYの技術者だ。武とは東京大学の同級生で友人。卒業後、慶子はSOMYに入社し、武は英国に留学した。
 葬儀が終了し、武は父とともに自宅に戻った。父が自宅に帰るのは何年ぶりだろう。自宅に入ると、父の愛人の燿子さんが母の代わりを務めていた。
 「お帰りなさい。お風呂はどうします?武君は?」
 「……結構です」
 疎ましそうに断ると、武は自室に入り、英国に戻る支度を始めた。
 そこへ父が入ってきた。武は父が入ってきたことに気づいた様子だったが、振り向きもせずに背を向けたまま作業を続けた。
 「武、話がある」
 「おめでとうございます」
 「武!」
 「悪いけど父さんの話を聞く余裕はない」
 こっちを向けとばかりに父は腕を引っ張った。それでも武は父の顔を見ようとはしない。
 「おまえの母親は、俺にとっては妻だ」
 「だからおめでとうといってるんだ!!」
 父の手をふりほどき、父の方に振り向いて声を荒げて言った。
 「母さんにも、悔しいけど同じ事を言いました。他に女を作った父さんをこれ以上待つ必要もない。やっと気楽になれたんだ」
 「それは誤解だ!」
 「母さんはいつも待ってた。その姿が、子供心に本当に辛かった。それでも誤解ですか?」
 「……」
 「僕は妻を待たせるような人生は送りません。愛のない結婚などしません。金と成功がいくら大事でも、妻をその踏み台にはしません。父さんから学んだ教訓です」
 「……」
 武はまた背を向け、作業を再開した。
 「財産目当てではない。結婚すれば愛し合えると思っていた。だが──俺を物乞い扱いする親戚の前で、自尊心を捨てるにはまだ若すぎた」
 「良かったですね。誰も父さんの成功を母さんのお陰だとは言わないでしょうね。母さんもやっと自由になれた」
 父は武を一層睨め付けた。そこでドアからノック音がした。燿子さんが入ってきて「食事ができました」と告げた。燿子さんにぴったり寄り添っている見知らぬ男の子と武は目が合った。
 「食べたくありません。三人でどうぞ」武は鞄を持つと、立ち上がって出口へ向かった。
 「失礼します」
 「せっかく帰ったんだ!」武の腕を強引に引っ張った。
 「飛行機は明日だろ!今夜はここで休め。朝飯でも食べていけ」
 武は鞄をおろした。










      第7話


 夜の22時。まだ帰らず仕事している慶子の目の前に、キャンディーが一個置かれた。
 「おつかれ。がんばってるね」
 見上げると、水田主任だった。
 「……ありがとうございます」
 「ほどほどのところで帰んなよ」
 優しい言葉に対して、慶子は笑みを含んで頷いた。
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 武はその頃、汐留のバーで一人で飲んでいた。目を閉じ、いろんな思いを巡らせていた。すーっと吐いたタバコの煙が薄暗いライティングに染みこんでいく。グラスに口づけると、少しずつ体に注ぎ込んだ。ビールが胃に焼き付くような感触。酔いが回り、少しずつ麻痺していく感触。そういったもので、不快なもの全てを包み込んでしまいたかった。店の入り口から一人の女性が駆け込んできた。慶子だ。急いで武の隣に座ると、少し遅れたことを詫びた。
 「待った?」
 「急ぐこと無いさ」
 「顔ぐらい見なきゃ。水田先輩も来るって」
 慶子はバーテンダーに視線を投げた。
 「同じものを下さい」
 武は慶子に微笑んで言った。
 「おまえの仕事する姿をいつかみたいな」
 「ありがとう。いつか見て欲しいな」
 武がまたぐっと飲み干した。
 「飲み過ぎは体に毒よぉ」
 「機内で寝るよ」
 「明日いくの?お父様、寂しがるわ」
 「ケンカしてきたばっかりさ」
 「お父様に冷たすぎるわ」
 前を向いたまま、無言でまたグラスを傾けた。
 「お父様にも立場が…」
 「おまえと婚約しなかったのは」
 「急に何の話?」
 「おまえは俺のことをよく知っている。だがそれ以上に知ってるふりをする」
 慶子の方に顔を向けた。
 「おまえに俺の気持ちが分かってたまるか。親でさえ子の気持ちが理解できないのに…わかるもんか」
 そういうと武は寂しそうにグラスを口に当て、慶子は言いようのない寂しさを胸にしまい、口をつぐんだ。










      第8話


 香織が帰宅すると、竹内 誠一が家の前で待っていた。話があるようだ。
 
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 近くの喫茶店で誠一からの話を受けた。父親が逝去し、とうとう両親とも居なくなった香織。大学進学にあたってどうしていくのか、誠一は一つ一つ問いただしていった。
 「大学進学に関わる費用は、賠償金で何とかするつもりです」
 「賠償金で全て?」
 「はい」
 「…もしよかったら、住むところを世話させてくれないか?」誠一が少し躊躇いを含みながら提案した。
 香織はもちろん、何故?という顔をした。
 香織の表情に誠一が答えた。
 「うちの娘は君と同い年で、ちょうど同じ大学の同じ学部に進学するんだ。一人っ子だし、友達になってあげてくれないか?」
 「…」
 「無理なお願いかな?」
 香織は一呼吸おいて確かめた。「そんなに良くしてくださるのは何故ですか?」
 「…」
 「あの事故のことがあるから、罪悪感を感じててそんなに良くしてくださるんですか?もしそうなら、結構ですよ?そこまでしてくださらなくても」
 棘のある言葉を、誠一はずしりと受け止めた。「罪悪感が全くないといったら嘘になると思う。でも自分の娘と同い年の他の子が自分の娘と少なからずイメージがだぶって見えて、この子によくしてあげたい、と思う気持ちが自然と湧いてくるのも本当だよ。それに、親になったら自然とよその子も気になるもんだよ」
 「…」
 「どうかな?」誠一は香織を何とか助けたかった。もし、この子にまだ父親が居たなら当然したようなことを。その気持ちを、無言でその子に伝えた。分かって欲しい。この気持ちを。
 
 誠一の目に心を感じ取った香織は、徐々にうち解けた表情を見せた。少しずつ心を開いてくれたのを誠一も感じ、安堵した。
 「お嬢さん、ほんとに同じ大学の同じ学部に進学するんですね?」
 「そうだよ」
 「どんな女の子なんですか?綺麗なコですか?」
 「美人じゃないけど、可愛い方じゃないかな。…親バカかなぁ」
 お互い笑みがこぼれた。
 「私、プロジェクトマネージャを目指したいんです」
 「ほう。すごいね」
 「女性でプロジェクトマネージャって少ないでしょ?」
 「そうだね」
 「女プロジェクトマネージャになりたいんです。 でも、女性としての潤いを失った、男みたいな状態でその地位までたどり着くのは嫌。女としても潤いのある女プロジェクトマネージャになりたいです」
 「ほう。夢があるね」
 その後、将来の話で盛り上がった。誠一は住まいを世話することを約束し、帰っていった。














      第9話


 誠一は翌日、香織のためにアパートを手配した。本郷三丁目の駅からもそう遠くない、新築のアパートだ。大学へも自転車で充分行ける距離だ。
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 やがて、入学式の日が来た。赤門の前で記念撮影する一行が居た。竹内 誠一、娘の涼子、涼子の幼なじみの藤木 隆史、隆史の先輩に当たる町田、隆史の母に当たる悠子、そして吉岡 香織である。
 6人は赤門の前で待ち合わせた。最初に来たのは竹内 誠一と吉岡 香織であった。地方出身者である香織を気遣って、アパートまで誠一が迎えに行ったのだ(もっとも、東京の人間でも東大の赤門の位置など把握している人間はそうそう居ないが)。涼子達には誠一と香織が知り合った経緯を伏せていた。誠一なりの気遣いであり、そのことを香織にも念押ししておいた。
 次に来たのは隆史と町田であった。
 「おお、町田君も来たのか?隆史が来るのは知ってたけど、町田君まで来るのは知らなかったな〜」
 「そういえば言ってなかったですね、すいません」
 「おひさしぶりです」
 「ひさしぶりだね〜。二人ともわざわざ休みを取ってきてくれたんだろ?わるいなぁ」
 「いえいえ〜」
 すぐ後に涼子と悠子が到着した。
 「おはよう!」
 「おはようございます」
 「おはようございます」
 「これで全員そろったな」
 悠子が香織に気づき、「彼女が香織さん?」と誠一に尋ねた。
 「そう、彼女が香織さんだ」
 「宜しくお願いします」と香織が頭を下げ、ほぼ同時に悠子達も挨拶した。
 「昔の友達の娘さんなんだ。仲良くしてやってな」
 「美人ですねえ。いくつ?」と町田。みんなから笑いがこぼれた。
 「18です」と香織は苦笑いしながら答えた。
 「香織さん、初めまして、涼子です」
 「初めまして」
 「これからの大学生活、宜しくお願いしますね」
 「こちらこそ」
 宿命のライバルが出会った瞬間であった。














      第10話


 とあるアパートの一室。ここが町田と隆史の作業部屋。そこで町田が隆史の撮影した作品を眺めている。
「これいいね。ほんとにおまえが撮ったの?」町田はただただ驚嘆していた。
「コンテストに出すべきか迷ってる」隆史はかぶりを振った。
「大丈夫、出品しろ。俺は撮る方はイマイチだが、見る目は確かだ」
「はいはい」
「後できちんとお礼しろよ」
「わかった」
「食い物以外だぞ」
二人で吹き出した。いつもこんな感じで面白い先輩なのだ。
「できれば、涼子ちゃんがいいな〜」
「はぁ?聞かなかった事にしま〜す」
「その気がないんだろ?譲れよ」立ち上がろうとする隆史の肩を掴んで言った。
すると、隆史の顔が急にマジになった。
「先輩が一年間、いや半年でも女を絶って、涼子ちゃん一途だったら考えてもいいですけどね」
町田の顔が(え〜?)とでも言わんばかりの表情を作った。
「山にでも籠もれってか?」
「先輩のような浮気者に涼子ちゃんはやれない」
「おまえのものか?」
「そういうんじゃありません!」
「ジョークジョーク」町田は適当に隆史をちゃかして楽しんだ。もう少し隆史の作品を眺めた後、少し真面目な顔をして訊いた。
「…なぁ、本当は気があるのに、親同士がそういう仲だから遠慮してるのか?」
「先輩!ちょっとお」少しだけ唇をとんがらせて、隆史は暗室に入った。
「まあ怒るなよ〜」
そこで机の上の携帯電話が鳴り始めた。町田の携帯だ。
「おい、隆史!」町田はその携帯電話を手に取り、暗室に駆け込んだ。
「入っちゃダメですってば」
「舞子からだ。留守だと言ってくれ」
隆史は厭ですよ、と手でジェスチャーした。
「下痢してトイレ、そういってくれ」
そういいながら無理矢理隆史に携帯を押しつけようとする。隆史も少し抵抗する風だったが、渋々通話開始ボタンを押し、耳に携帯を当てた。
「町田の携帯ですが、…あれ、静香ちゃん?」
町田はそれを聞くなり電話を奪い返して話し始めた。
「静香か?俺だよ」ニマニマしながら隆史の方を一瞥し、話を続けた。
「夕飯?このところ忙しいけど…時間を作るよ。」
自分の恋人に居留守を使おうとし、他の女性と分かったら「時間を作るよ」と言い始める町田に、隆史は横目で軽い軽蔑の視線を送った。町田はそれに「うるせえよ」と目で応えた。
「分かった、それじゃお休み」町田は携帯電話を閉じると、ニカッと笑って小さくガッツポーズを作った。とても嬉しそうだ。隆史は背を向けながら、心の中で「全く〜」と呟いた。
「舞子ちゃんとはどうして?」背中を向けたまま、町田に訊いた。
「俺に会いながら二股かけてたんだ。それも年下の男!」
隆史は町田の方に半分体を向けた。二人で顔を見合わせると、はははと軽く笑った。
「先輩、人の事言えないでしょ?」
「男女平等とは言っても、男と女は違う。外見からして違う。何なら見せようか?」
「見たくもありませ〜ん」
「女にはないものが男にはついているこの事実を無視できまい?」
「もういいですよ〜下ネタは!」隆史は町田を暗室から追い出した。
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 誠一の運転する車が春日通りを走る。信号機や歩道橋が後ろへと流れていく。ハンドルを握る誠一。助手席で唇をかみながらうつむく香織に時折優しい眼差しを向けた。伏し目がちに香織はもう一度尋ねた。
「…迷惑じゃないでしょうか。最初は嬉しかったけど、いざ行くとなると…」誠一にすまなそうな視線を向けた。
「気が引けます」
「気まずいかも知れないが、心配要らない。いい連中だからさ。安心してよ」





                  - 続く -