【第3部】


「ごきげんよう」

「ごきげんよう」

さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
マリア様のお庭に集う乙女達が、
天使のような無垢な笑顔で背の高い門をくぐり抜けていく。
汚れを知らない心身を包むのは、深い色の制服。
スカートのプリーツは乱さないように、
白いセーラーカラーは翻らせないように、
ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ。
もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった生徒など
存在していようはずもない。

私立リリアン女学園。

明治三十四年創立のこの学園は、
もとは家族の令嬢のためにつくられたカトリック系お嬢様学校である。
東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、
神に見守られ、幼稚舎から大学までの一貫教育が受けられる乙女の園。

時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日でさえ、
十八年間通いつづければ温室育ちの純粋培養お嬢様が箱入りで出荷される、
という仕組みが残っている貴重な学園である。

私―福沢祐巳もそんな温室に14年間通い、15年目を現在過ごしている一人である。



「福沢さん」

そう呼ばれるのにも違和感を感じなくなった。
クラスメイトにずっと苗字で名前を呼ばれることなんてなかったから、
初めはどこかむずがゆいものだったけれど、今は大丈夫。

「ごきげんよう」から、「おはよう」に挨拶も変わっていったけれど、
今ではそれが当たり前のことになっていった。

自分でも不思議なくらい、環境の変化に対応していると思う。
それこそ、それまでのことが「自然」だったのに、
いつの間にかに「不自然」になって、
そしてまたそれが「自然」になっていく。

聖さま…聖と同居するようになって初めは戸惑いっぱなしだったけれど、
今では二人でいることの方が落ち着くし。

う〜ん、不思議。今の生活をしていると、
ふと、私は聖とずっと前から一緒に住んでいた気持ちになるから。
ずっと続く生活ではないけれど、だからこそ、
今を大切にしよう、そう思いながら生活を続けている。

日曜日の午後。
普段だと、映画を観に行った後に、食品や、日用雑貨の買出しをしたりするけど、
聖はバイトが入ったので、今日は一人でお留守番。

外は雲で薄暗く、今にも雨が降りそうなので、布団を干す訳にも行かず、
仕方がないから、インスタントの紅茶を入れて、
お気に入りのリーフパイをお茶受けにして、「アフタヌーンティーもどき」を気取る。

どうせ、夕方までは聖は帰ってこないし、
夕飯のシチューは昨日の内に作って冷蔵庫の中だし、時間を持て余し気味。
あ〜あ。早く帰ってきてくれないかな…。

「プゥ〜〜〜〜ッ」

当然のことながら前触れもなく玄関のチャイムが鳴った。
誰だろう?NHKの集金は引き落としにしているからこない。
光熱費も全部そう。新聞屋だって来ることはないし。

とりあえずインターホンを取るまでも無いかなと玄関に行き、小さな覗き口から外を見る。
(あれ?誰もいない?いたずらかな?)
念のために、ドアを開けて外を恐る恐る見ると…

「聖、来ちゃった!」

そう言って、どこから現れたかわからないほど素早く私の脇をすり抜け、
ドアの中に入る一つの黒い影。靴を脱いで部屋の中に上がっている。
ううう、これがもし強盗とか変質者だったら大変だった。
今度からは外に誰もいなかったら無視を決め込もう…って、だ、誰??

小さなボストンバックを右腕にかけ、
玄関先で中腰になりながら、几帳面に靴をそろえようとしている。
祥子さまほど長くははないけれど、やっぱり綺麗なロングの黒髪の女性。

髪の毛が邪魔をして顔が見えない。
仮に見えたとしても、聖の大学での交友関係はほとんど知らないから、
誰かはわからないのだけれど。

「たまにはいきなり来るのもいいかなって。ねぇ、驚いてくれたかしら?」

靴を指先でピッと揃えながら、
ちょっと楽しそうな声で私に話し掛けてくる。
どうやら、私のことを聖だと思っているみたい。
そうよね…ここは聖のマンションなんだし。

……えっ?「たまには」ってことは、
このお方は頻繁に聖に会っているってこと?
そんな人がいるって聖から聞いてない。

話す必要のない関係の人…なら、こんなに親しそうに、
しかも、他人の部屋にずかずかと入ってくるとは思えない。
ということは…まさか、話すと都合の悪い人?
玄関を閉めようと思っていたのだけれど、
体が硬直してしまって動かない。
もしかして、聖は私を…騙していた?

本当は付き合っている人がいるのに、
いつも会える訳じゃないから、
その人の代わりに私をこのマンションに住まわせたとか?
(そ、そんな…)
きっと、バイトと偽って、どこかでこの人と会っていたに違いない。
それに、実家に顔を見せに行くこともあったから、
そんな時を利用して、この人をこの部屋に呼んでいたんだ。

(そんな、そんな、そんな!なんで?なんでよ、聖?)

今まで「自然」と思っていた生活が、まさか「偽り」まみれの生活だなんて…
あまりのショックに周りが何も見えなくなっていた。

妄想が頭を駆け巡る。
そんな私を正気に戻したのは、目の前にいる人の一声だった。

「あら?祐巳ちゃん?」

(えっ?)

何で私の名前を知っているの?
しかも「ちゃん」付け。知り合い?
そう言えば、この声……聞いたことがあるような。

もう一度ゆっくりと目の前の御仁を見た。

「あ〜っ!蓉子さま!」

髪の毛の長さが以前より伸びていて、
それが大人っぽさを格段にアップさせていたから
パッと見ただけではすぐにわからなかったけど、
今、私の前にいるお人は紛れもなく彼のお人だった。


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