「行っちゃうんだね祐巳・・・」


「行ってきます、聖さま」






それはある初夏と間違えるほどの陽気と、
吸い込まれるぐらい透明な青空の午後のこと。
祐巳は目の前に立つショートカットの御仁に別れを告げていた。

「なんか、寂しいもんだね、せっかく一緒に住めることになったのに、
こうして祐巳が出て行っちゃうなんてさ」
マンションの玄関先で荷物を持っている祐巳に対して、
いつも皮肉めいた笑顔が多い聖さまが、目を細め、
優しさであふれている笑顔を向けている。

ジーパンに白いシャツという普段着の聖さま。
片手を壁につけながら、少し体を斜めにして、
自分の大切な人の出発を見送っている。

「自分でも信じられないよ。こんな気持ちになるなんて・・・ね」
「そうですか?どうせすぐに戻るんですよ?」
「それはそうだけど・・・さ。やっぱり離れたくないもの」

すでに靴を履き、ボストンバックを両手で持っている祐巳。
少し狼狽気味の聖さまに内心自分への自信を持ち始めている。
そう、自分は聖さまに必要とされている。

祐巳はボストンバッグを置くと、目の前に立つ聖さまの背に両腕を回した。
何度も何度も自分はこの人の背に腕を回してきた。
そして、これからも数え切れないくらい回すに違いない。

「大丈夫ですよ、明日には戻ってきますから」
「・・・いいよ、せっかくなんだからゆっくりしてきな」
「気にしないで下さい。もともと、そのつもりでいたんです」
「そっか・・・じゃあ、ご家族によろしく伝えておいて。
『娘さんのことは私が責任を持ってお預かりをいたします』って」
聖さまも腕を回してきた祐巳の背に腕をやる。
ほんの少し力をこめながら。

「保護者みたいですね」
「そう、私は祐巳の保護者だもの。ここに一緒に住んでいる間は」
「保護者だけ・・・ですか?」
「・・・保護者兼恋人って言っていいのかな?」
「今更何を言うのですか?聖さま、怒りますよ!」
クスクスと笑いながら、回した右手で白いシャツとその下の肉をつまみあげた。

「い、痛いよ祐巳、ギブ、ギブ!!」
「え、もう降参ですか?」
「さすがに背中はお肉がないから痛いわよ!」
「仕方ないですね、それじゃあ、尋ねますね。聖さまにとって私は?」
「恋人!一番私でいられる場所を提供してくれる存在!・・・だから早く帰ってきてね」

「素直にそう言って欲しかったです。聖さまって、肝心なところで・・・ですからね」
「そんじゃあ、おねだりしていい?」
「なんですか?」
「キスしてよ、お出かけのさ」
「ハイ・・・」
すでに抱き合った形になっている二人は、体を少しずらしてキスを交わした。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい。明日はこっそり見に行くからね」
「えっ?来るんですか?」
「ダメかな?」
「ダメじゃないですけど・・・照れます」
「いいじゃない、こっそりと行くから!」

そう言って祐巳から体を離すと、両手を祐巳の両肩に乗せた。
「でも、私は自分の時に両親に『来ないでくれ』と言ったけどね」
「え〜っ、それで私のには来るつもりなんですか?」
「だって、私は祐巳の両親ではない。それに、単純に見に行きたいしさ。ダメ?」
「う〜ん・・・」

祐巳は自分の両親にでさえ、「来ないで」何て言っていない。
別に年子の兄弟がいるところのためにではないんだろうけど、
リリアンと花寺の大学の入学式は1日違いになっているし、
父親はさすがに仕事があるので来ないけれど、
母親が二人の入学式に見にくると言ってきたので、
祐巳も祐麒も拒否することなく、あっさりオッケ−を出したのだった。

それに、本当に聖さまに来られるのが嫌かというと、そんなことはない。
それどころか、自分を観たいと言う聖さまに嬉しさを感じている。
祐巳はその気持ちを正直に伝えることにした。

「来てください!でも、生徒数が多くないからといっても、私を見つけるのは大変ですよ」
「大丈夫、好きな人なら、どんな所にいても見つけられるわよ」
そういいながら、右手はまだ祐巳の背に回しつつ、左手で頭を撫でる聖さま。
目を細めながらも、その顔には「見つけるさ」という自信にあふれている。
祐巳はその表情を見て、ちょっと頬を膨らませる感じで聖さまに釘を刺す。

「まさか、家からつけてくるなんてことはしないですよね?」
「お、それはいいアイディア!」
「や、止めて下さいよ〜それじゃあ、ストーカーです!!」
「そう?それじゃあ、向こうで勝手に探すわね」

「あっ・・・」
「どうしたの?」
「そう言えば、令さまが入学式に来るって由乃さんが・・・」
「当然でしょう。あ、見つかるのが心配?大丈夫、さっき自分で言ってたじゃない?
見つけるのは大変なんだから、見つからないって!!」
(でも、そういうときにこそ、見つかってしまうのがこの世の中なんです・・・)
そう祐巳は思いつつも、それは口に出さずに、床に置いたボストンバックに手を伸ばす。

「それじゃあ、行って来ます・・・聖さま」
「じゃあ、また明日ね!」
「はい」


もう一度、玄関先で軽くキスを交わす。
そして、聖さまはマンションの入り口まで祐巳を見送り、
手を振りながら二人は別れた。



ゆっくりと歩き始めた祐巳。足取りは気持ち重い。
桜の花びらがひらりと舞う道路を歩きながら、少し離れた自宅へと向かう。
ほんの数日前に引っ越したばかりなのに、久しぶりに帰る気がするのはなんでだろう。
それに、ちょっと心に春風が吹くような暖かい、でもちょっと寒さも感じるこの感じ・・・。

(よし・・・決めた!)

祐巳はいきなり回れ左をするとまだ数分しか歩いていない道のりを再びたどり始めた。
明日の入学式の後、高等部の温室で待ち合わせをして一緒に帰る約束をするために。


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