「遅いな・・・イッちゃん。時間は守る人なのに・・・」

そう言って、テレビの上に乗っている置き時計を見詰める由紀子。
もうしばらくしたら片付けないといけない家具調コタツに足を入れ、
テーブル上で腕を組むと、交差した部分に頭を乗せてため息を吐く。
相変わらず樹は携帯を持ってくれない。
理由はわかっているから別にいいけれど、こんな時は不安でしょうがない。

「連絡もくれないなんて・・・バカ・・・」

軽く息を吐きながら上半身を後ろに投げ出す。見慣れた白い天井が視界に入る。
そこに、樹の姿が映し出された。いつも不機嫌そうな顔を見せる彼女。
そんな彼女が自分といる時に見せる吸い込まれそうな笑顔。
由紀子がいつも見ていたいと願う樹の顔がそこにはあった。

「バカ・・・イッちゃんの・・・バカ・・・」

近くにあったクッションを掴み寄せると、
吐き出しきれない思いを込めて力いっぱい抱きしめた。
そして、そのままの体勢で台所のほうに体を向ける。

一人暮らし用のあまり大きくない冷蔵庫。
その中に、昨日バイト先でなんとか場所を借りて作ったチョコレートケーキ。
甘い物はそれ程好きではない樹だけど、チョコレートは好んで食べる。
ビターチョコをメインに使い、ほんの少しだけリキュールを入れた。
どっしりと食べ応えがある食感に仕上げ、食通ぶる樹の舌を満足させられるだけの、
由紀子特製バレンタインケーキが白い箱の中に入っている。

「私と一緒に迎えたくなかったのかな・・・そんな事はないよね・・・」

冷蔵庫のほうに視線を向けながら、由紀子は昨夜の事を思い出す。
夜、バイトから帰ってきた由紀子は、嬉しさをこらえながら、樹に電話をした。


「ねぇ、明日、会えない?」

「明日?・・・バイト」

「知ってるわよ。前にお休みを聞いておいたもの。でも、少しぐらいダメかしら?」

「少し?なんで?」

「渡したい物があるの」

「明後日じゃダメ?」

「明日、渡さないと意味がないの・・・」

すると、電話口の向こうで苦笑する樹の声がすることに気付いた。

「由紀子、素直に言ってよ。バレンタインのチョコを私に渡したいってさ」

「イッちゃん・・・意地悪。人がせっかく驚かせようと思っているのに」

「それは無理。突然やってきて渡してくれるのならまだしも、こんなんじゃバレるよ」

「・・・明日はダメなの?どうなの?」

「私は由紀子にチョコを渡す気はないんだけど、それでもいいの?」

「いいの。私がイッちゃんに渡したいだけで、何かを欲しい訳じゃなんだもの」

「オッケー。それじゃあ、22時頃になるけどいいかな?」

「いいわよ。イッちゃんありがとう」

「ん?もらう方の私がお礼を言われるのっておかしくない?」

「いいのよ」

「はいはい。それじゃあ、明日ね」


いつもと同じような感じで会話は終った。別に、変な感じではなかった。
・・・けど、渡したいという気持ちばかりが先走って、
樹が本当はそういった行事ごとを嫌いなのを考えていなかった。
「バレンタインデーは特別」そう思った自分がいけなかったのかも知れない。

そろそろ15日を迎えようかという時間になっている。
由紀子は冷蔵庫のほうから視線を動かそうとはしなかった。



「倉橋君、申し訳ないけど少し残業をしてもらえないかな?」

「えっ?」

「今、岡野君から電話があってね。熱を出してしまって、動けないそうなんだ。
江木君が来るまでお願いできないかな?」

「・・・いいですが」

樹は駅前にあるコンビニでバイトをしている。大学に入学した直後からなので、
そろそろ3年目に入ろうかとしている。愛想がいいとはお世辞にもいえないが、
接客は丁寧だし、仕事はしっかりとこなすし、人が足りない時も、よほどのことがない限り、
快く受けるので、店長からかなり頼られるバイトとしてこき使われている。

今日も、樹なら断らないだろうという気持ちからか、樹と交代で入るバイトの休みにも動揺していない。
樹にしてみれば、(何でこんな時に・・・)なのだが、もともとが断れない性格。
由紀子が嬉しそうに自分を待っている姿を思い浮かべたが、もう一人が入る1時間だけだと、
不本意ながらも、残業を承諾する事にした。

樹のアパートから、由紀子のアパートまで、昼間ならバスで行っているのだが、
夜になると、バスの本数がめっきりと減ってしまうから、自転車で行くしかない。
大学の前の道を走るのだけど、山を一つ越えるから、自転車だと、30分以上かかってしまう。
でも、もともと余裕をもって約束の時間を由紀子に伝えていたから、時間には間に合う。
樹はそんな事を考えながら、乗車客で切れることのない夜のコンビニでの
仕事に再び専念していった。



「バレンタインデー終っちゃう・・・な」

由紀子はまだ横になりながら冷蔵庫を見ていた。
樹と付き合い始めて初めてのバレンタインデー。
これから何度もこの日を一緒に過ごしたいから、
本当に色んな思いを込めて作ったチョコレートケーキ。
今日渡さなければ・・・その意味は半減してしまう気がする。
樹への思いが減ってしまう訳ではないけれど、
なにか、やり切れない思いが由紀子の胸の中を占めていく。

「まさか・・・イッちゃんに何かあったのかな・・・」

今まで思いつかなかった樹の身の安全を案じて、
由紀子はクッションを投げ出すように置くと、「ガバッ」と立ち上があった。
部屋の隅に置いてある携帯電話に向かうと、急いで樹の電話番号を押した。

「トゥルルルル・・・」

何度目かこの音が由紀子の耳に入った後、機械的な女性の声で、
お決まりの留守電メッセージが流れた。由紀子は留守電にメッセージを残そうか
迷ったその瞬間、誰かが部屋をノックする音が聞こえた。

(イッちゃん!!)

こんな時間に由紀子の部屋を訪れるのは樹しかいない。
慌てて携帯を切ると、それを手に持ったまま、ドアの方へ走っていった。
もちろん、そのままドアを開けてしまうような無用心な事を由紀子はしない。

「・・・はい」

「由紀子・・・私・・・」

間違えなく樹の声。夜も遅いとはいえ、周りを気遣っているのか、
声が聞き取れないくらい小さい。由紀子はとりあえず樹の身が無事か、
不安になってドアを急いで開けた。

「こんばんは・・・由紀子」

壁にもたれながら樹が珍しく優しい微笑を見せている。
由紀子は逆にそれで樹が普段と違う状態である事を知った。
そして、目の前に樹の自転車が止められているのに気付いた。

「もしかして・・・自転車できたの?」

「先に・・・部屋・・・あがっていい?」

消えるような声。荒々しい息遣い。
由紀子はそんな樹を心配に思いつつも、
部屋の中に樹とともに入った。

「水、もらえる?」

ドアを閉めると同時に崩れるように玄関先に座り込むと、
斜め上に顔を向けてお願いしてきた。由紀子は樹の横を急いで
駆け抜けると、入ってすぐ右にある台所で水をコップに入れ、樹に差し出した。

「はい、イッちゃん水よ」

「・・・ありがとう」

相変わらず笑顔を見せながら由紀子からコップを受け取ると、
一気に飲み干した。そして、「フーッ」と大きなため息を吐くと、
いつもの表情に戻った。心配そうに見守る由紀子の頭を軽く撫でると、
靴を脱ぎ、部屋に上がった。由紀子もその後をついていくかのように部屋に戻った。

スイッチの入っていないコタツに二人は向かい合わせに入った。
(なにがあったか話してくれてもいいのに・・・)由紀子がそう思っているのを知ってか知らずか、
樹は何も言う気配を見せずに、じっと由紀子の顔を眺めている。

・・・と、樹が少し体を後ろに下げると、上半身を大きく曲げた。

「ごめん、遅刻した」

樹の言葉はそれだけだった。なぜ遅れたかも言ってくれない。
何を言ってもそれは言い訳にしか過ぎないと樹は思っているから。
言い訳でも言いから、話して欲しいと由紀子が思っているのはわかっているのだけど、
そのために、他の人のせいにするような言い訳をしたくないのだ。

由紀子も樹が言い訳をしない理由を十分承知している。
そして、そんな樹を好きなのだから、本当は何も追求したくない。
でも、今日は違った。今日だけは、二人にとって特別な日だと思っているから。

「・・・どうして遅れたの?」

まだ、頭を下げたままでいる樹に優しい声を掛けてあげたかったけれど、
今日は、そんなことは出来なかった。そんな自分が由紀子は嫌になりそうだったけれど、
さっきまでの不安を打ち消すには、やっぱり言い訳でも良いから、
樹から遅れた理由を聞きたかった。

「いつも時間を守るのに・・・なんで今日に限って・・・」

「・・・ごめん」

樹は、ゆっくりと顔を上げると、少し哀しそうな表情を見せて、由紀子に謝った。
やっぱり、遅れた理由は話そうとしなかった。

「本当は・・・私からもらいたくない・・・とか?」

由紀子は言ってはいけない言葉を言ってしまったと、
「ハッ」とした表情を一瞬樹に見せたかと思ったら、
珍しく、肩をすぼめるような形で、縮こまってしまった。

そんな由紀子を見て、さすがに樹も理由を話さないわけにはいかないと、
体を乗り出す形で由紀子の肩に手を乗せると、ゆっくりと口を開いた。

「そんなわけないよ。ただ、ちょっと、色々とあってね」

由紀子は樹が理由を話してくれそうだということに気付き、
樹の方に顔を向けると、続きを促した。

「今日、バイトは21時までだった。で、22時なら来れると思ってた。
でも、交代の子が一人は熱で寝込んでしまって休み。一人は、彼女と過ごしてたら、
電車に乗り過ごして、遅れてきた。結局、23時近くまで店にいた」

「それから、自転車で来てくれたの?」

樹は照れ臭そうな笑顔を見せ、手を後頭部に持っていった。

「もう、バスはない時間だし、タクシーは使いたくなかった。
さすがに夜、山を越えるのはきつかったよ」

「イッちゃんのバカ・・・電話をくれれば良かったのに。心配したじゃない」

遅れた理由はわかったけれど、それなら、
連絡をくれればこんなに不安になったり、
樹の身を心配する必要などなかったのだ。

「あ・・・そうだね。思いつかなかった。
一分でも早く、由紀子の部屋に着くことしか考えてなかった」

一瞬、「アッ」と全てを忘失したような表情をみせた樹。
後頭部に持っていった手で髪の毛を「ワシワシ」とかき混ぜるようにすると、
そのことを思いつかなかったことを反省するかのように、こぶしを作るり、
頭のてっぺんを「ゴンゴン」と何度か叩き始めた。

そんな樹を見て、目をぱちくりさせると、「プッ」と由紀子は笑い出した。

「イッちゃんらしいわね。ひとつの事だけ思いつくと、それだけに全力投球なんだから」

半分呆れながらも、自分の事をやっぱり心底思ってくれていたと、
樹のことを少しでも疑った自分を恥じていた。

「ごめんね。私、イッちゃんが私からチョコを受け取りたくなくて来てくれないと思ってたの」

「・・・由紀子、私がいけないんだよ。約束を守れなかったから、由紀子を不安にさせた。
電話をすればよかったのに、それすら思いつくことが出来なかった」

「いいのよ。それより・・・」

由紀子はコタツから立ち上がると、冷蔵庫に向かった。
扉を開けると、真っ白な箱に入ったケーキをゆっくりと取り出し、
扉を閉めると、コタツの上に置き、そして、箱を開け始めた。

「私からイッちゃんへの想いよ。このケーキのように、
甘すぎず、苦すぎず、丁度いい関係を築きたい・・・かな?」

取り出された直系10cmほどのチョコレートケーキを一瞥すると、
「ニヤッ」と樹は笑った。コタツの前に中腰になっている由紀子の顎に
自分の手を当てると、顔を由紀子の目の前まで持っていった。

「由紀子、私はチョコレートがないから、代わりにこれで良いよね?」

そう言うと、顔を斜めに向け、ゆっくりと由紀子の唇に自分の唇を当てた。



テレビの上の時計は、あと少しで0時を指そうとしていた。


あとがき

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