それは私がスペインへと家族で引っ越したばかりの頃だ。
転校の手続きを後回しにされ、一週間ほど、新しい家で、
誰もいない部屋で一人、過ごしていた。

外に出たくても、海沿いのがけの上にぽつんとたたずむその場所から、
出かけるとしても車が必要だった。・・・中学生の私がもっているはずもない。
歩いて散歩する・・・気にもなれなかった。誰かに話し掛けられるのが怖かった。
怖いくらいなら、部屋にいる。それが私の出した結論だった。

ベランダから地中海が見える。この海を・・・ずっといけば、社会科でやった、
スエズ運河に出る。そしてそれを越え、インド経由でいけば、日本につく。
遠い遠い地となってしまった、つい先日まで自分が住んでいた国。

初めて嗅ぐ異国の地のニオイは、私を不安に陥れた。
懐かしい・・・日本の我が家のニオイ。その場にいるだけでホッとさせる・・・。
私を取り巻く新しい土地での薫りは、懐かしさなど微塵も含んでいなかった。
私は飛行機にのってここに辿り着くまで、少しでも懐かしさ・・・既視感を感じたいと思った。
が、それすらも目に入る以前オリンピックが行われた土地からは感じなかった。

ここにいる、それだけで私を不安にさせた。



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「ねえ、これって誰の話?」

いつものように私が書いた話に目を通している市子。
首をかしげながら私にいつも自分の事しか書かないのに、
他の誰かの事を書いているのかと質問してきた。

「うん?自分の話だよ」

「あれ、輪子ってスペインなんて行ってたっけ?」

机に肩肘をつき、椅子に座りながら、立って書いた紙に目を通す
市子の姿を見ていたが、膝の上に座るように勧め、
ちょっと戸惑いながらも私の膝の上に腰を下ろしてきてくれたので、
背後から軽く抱きしめ、耳元で質問に答えた。

「行ってたのはロサンゼルス。でも、なんかそのまま書きたくなくて、
ほら、私の居た土地って名前がスペイン語由来のものが多いから、
スペインで書いてみよっかなってね」

「へーそうなの。例えば?」

「有名だけど、”LosAngels=天使達”だし、
”Rancho Palos Verdes=木々豊かな農村”だしね。
・・・で市子、最後まで読んだの?」

「まだ。いつもみたいに自分の話にしてはスペインなんかでてるから」

「単なる気まぐれ。読まないなら返してよ」

ちょっと苛めようと、読んでいる紙を取り上げようとしたら、
再び逃げるように市子は立ち上がった。

「あっ、読むから待ってよ・・・」


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部屋に一人でいて、何をするわけでもなく、
新しい部屋の新しいベッドの上で横になりながら、
新しい生活の行方を考えていた。・・・あまりいいものじゃない。
不安を抱いたままで考えるそれが、いいものにはなりにくいようだ。
もともと楽観的に物事を考えられる方ではない。

先行きに何の明るさも見出せないまま、
自分のニオイがまだしない新しい枕に顔を押し付けていた。
・・・と、何かが鳴っている。・・・でんわ?

両親から電話にはでる必要がないからといわれていた。
もちろん、私自身も出るつもりはなかった・・・出たところで、
スペイン語など何もわからない。

早く鳴り止まないかと思ったが・・・皮肉にも電話のベルは鳴りつづける。
仕方なく、心臓が止まるかと思うほどのドキドキと、冷や汗を背中にかきながら、
電話の受話器を恐る恐る持ちあげる。

’Hola?’

’Hola. Este es・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・’

今考えると、新聞か何かのアンケートだったと思うのだが、
そのときの私には単なる呪文の羅列のように聞こえ、
明るい声も、何もわからない私を嘲るようにしか思えなかった。
結局、私は’No hablo Espa・・・’と言うと切ってしまった。

もともと私は日本にいたときから、電話が嫌いだった。
友達の家に電話を掛けるだけなのに、
もし本人が出なかったらどうしようなどと、
話す内容以上にその事を心配してしまう損な性格。

正直、長電話などした事なかったし、
用事がなければ友達に電話を掛けることもしない。
もちろん、それは大学生となった今もそうである。

たった1週間・・・それだけの間で、電話恐怖症に陥るかと思った。
電話が鳴る気配を察しただけで、体がびくついてしまう。
親から電話がかかってくる17時以降まで、電話線を抜いてしまった事もある。
それで安心するかと思ったが、もし親から急な用事で電話があったら・・・と、
また他の事で心配してしまい、気が休まる事はなかった。

もともと、FAX電話で、もしかしたら、仕事のFAXが入るかもしれないし、
・・・そして実際入っていたし、線を抜くのはまずいと、抜く事はやめた。
音を消音にしようかとも思ったが、それも、親からの電話がわからない。
・・・そんなことを考えているうちに、昼間に寝る習慣ができていた。
時差ぼけのせいもあるけれど、寝てしまえば不安に苛まされることもなく、
親の電話に出なかったとしても、寝ていたと言えばすむ。
何より、何も考えなくてすむのだから・・・。


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「これが、今も電話が嫌いな理由?ずっと携帯を持ってくれなかったでしょ?」

「それはちょっと違う理由」

「あ、そうか。携帯には勧誘電話とかないものね。迷惑メールはあるけど」

「日本に戻ってきてからも、今も正直、電話をかけるのも、かかってくるのも好きじゃない。
理由は・・・やっぱりどこか不安を感じるのが嫌なんだと思う」

「そうなの?」

「トラウマとは違うと思うけど、もともと電話が好きじゃないって事だと思うよ」

「携帯に電話を掛けても出てくれないのは?」

「それは単に本人が携帯を身近に置いていないから」

「意味ないじゃない・・・」

「ごめん、直すよ。でも、市子が電話を掛けてくることなんてほとんどないじゃん?
その他の人からの電話は、別にどうでもいいよ」

「・・・輪子、それはそれで嬉しいけど、それはまずいでしょ?緊急の電話があるかもよ」

「それはないね」

「なんで?」

「あれ、言わなかったっけ?この携帯の電話番号、市子にしか教えていないよ。
親も知らない。だから、市子の為だけの携帯なんだ」

「・・・それならしっかり持ち歩いてよ」

初めて告げる事実にさすがに動揺を隠せないらしい。
少し顔を赤らめて、こっちを上目使いでみている。
それを見て、照れ臭そうに頭をかく私。

「今度からそうするよ・・・」



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電話。

直接会えない代わりに声と想いとを時間差なく届ける事のできる道具。
市子はいつも一緒にいるんだし、待ち合わせなんてほとんどしない。
だから本当は携帯なんていらないと思っているんだよ。

知ってる?市子?


あとがき

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