F-1ミニカーコレクション!

その2

   

 

・1989年フェラーリ640(ナイジェル・マンセル)

サイドポンツーンが魅力的。セミオートマを初めてF-1で採用した。

デビュー戦優勝で飾ったが信頼性の問題もありシーズン4勝にとどまった。

   

・マクラーレンワールドチャンピオンセット

・左:1988年マクラーレンMP4/4(アイルトン・セナ)

なんと16戦中15戦優勝(セナ8勝、プロスト7勝)した最強のマシン。アイルトン・セナは初のワールドチャンピオンを獲得した。

ちなみに逃した1勝はイタリアGP。残り2周までセナが1位だったが周回遅れのマシンに接触・リタイヤ!なんとフェラーリが1-2フィニッシュし、この年亡くなったエンツォ・フェラーリへ勝利を捧げた。

・右:1989年マクラーレンMP4/5(アラン・プロスト)

セナVSプロ対決が険悪となった。日本GP鈴鹿のシケインでの接触はあまりに有名。結局アラン・プロストがチャンピオンに。

   

・1987年ロータス99T(中嶋 悟)

日本人初のフルタイムF-1ドライバー中嶋悟のデビューマシン。チームメイトはアイルトン・セナ!!

後にウィリアムズが完成させるアクティブサスペンションを搭載していた。

   

 

・1986年マクラーレンMP4/2C(アラン・プロスト)

最終戦オーストラリアGPまでもつれたウィリアムズのナイジェル・マンセル、同じくウィリアムズのネルソン・ピケとの戦いを制し、2度目のチャンピオンを獲得!

  

 

・1986年ベネトンB186(ゲルハルト・ベルガー)

イタリアのアパレルメーカー・ベネトンがトールマンチームを買収。

1986年に投入されたベネトンB186は7色にブラッシングペイントされ、さすがアパレルメーカーと言わしめるデザインだった。なんとドライバーのヘルメットもマシンに合わせてデザインし、予選時はタイヤの側面にも色を塗るというこだわりようだった。

デザインだけでなくポールポジション2回、優勝1回とポテンシャルの高さを示したが、信頼性が低く、リタイヤが多かった。

 

・1986年ブラバムBT55(リカルド・パトレーゼ)

空気抵抗を減らしウィングの効果を引き出すために前衛投影面積を減らすために極力平たいボディ。「フラットフィッシュ」のニックネームで呼ばれた。低いボディを実現するためにBMWエンジンを72度傾けて搭載。パワフルなエンジンと低いボディでストレートスピードは速かったが、熟成が進まず信頼性が低かった。

しかしデザインの方向性は間違っておらず、デザイナー ゴードン・マーレイはマクラーレン移籍後同様のコンセプトでMP4/4を作り上げ16戦15勝を記録した!

   

 

・1984年トールマンTG183B(アイルトン・セナ)

アイルトン・セナがF1デビューを果たしたマシン。

フラットボトム規制(※1)対応のためフロントウイングの部分がベンチュリー構造(※)になっている。

デビュー2戦目で6位入賞を果たした。第5戦目フランスGPからニューマシンTG184がデビューし、予選ではシングルグリッドも度々獲得し、3度表彰台に登り、デビュー1年目でランキング9位を獲得した。

特に第6戦雨のモナコGPでは予選13位からスタートし、トップのアラン・プロストより2秒以上(!)速いタイムで2位までポジションアップし、プロストを追い抜きデビュー6戦目で優勝するのは時間の問題に見えた。しかし、プロストに7秒差まで迫った31周目、77周で争われるはずだったレースは雨足が強まったことにより打ち切られ、セナは2位に終わった。しかし実力は確実にアピールでき、翌年トップチームのロータスに移籍する。

余談だが、その雨のモナコをセナより速いペースで走り、3位となった同じくデビュー1年目の男がいた。ステファン・ベロフ(ドイツ人)、チャンピオンを期待されたが、翌1985年スポーツカーレース中に事故死する。F1ドイツ人初チャンピオンは、2000年シューマッハまで待たなくてはならなかった。

(※1)フラットボトム規制:前タイヤ後端と後タイヤ前端の間のクルマの底は平らでなければならない)

(※2)ベンチュリー構造:空気が広いところから狭いところへ流れていくと流速が速まり、吸い寄せる力が働く(ベンチュリー効果)。車体底部をベンチュリー構造にしてダウンフォースを得るマシンを「ベンチュリーカー」及び「グランドエフェクトカー」、またベンチュリー構造がウイングに似ていることから「ウィングカー」とも呼ぶ。ベンチュリー効果はウィングと異なり抵抗を伴わず、間新開発の最重点要素だった。よって、マシンのコーナリングスピードが増加、またベンチュリーカーは挙動変化に弱いためサスペンションをガチガチに固めた。そのためドライバーの肉体的負荷が増大。またベンチュリー空間が何らかの原因で乱れたときマシンが挙動不審になったり、舞い上がる等の重大事故につながるために1983年に禁止された。

     

  

・1983年ブラバム 左:BT52(リカルド・パトレーゼ) 右:BT52B(ネルソン・ピケ)

この年からウィングカーが禁止(フラットボトム規制)。そのため今までウイングを形成していたサイドポンツーンが役に立たない抵抗になると考えたブラバムチームはサイドポンツーンを後半に部分に凝縮。アロウシェイプ(イカ型?(笑))がかっこいい!シーズン前半は白ベースで、後半から紺ベースのデザインもにくい!

この年ネルソン・ピケはドライバーズチャンピオンを獲得(ターボエンジンとして初のチャンピオン)。チームタイトルはフェラーリが獲得。フェラーリはサイドポンツーンは今まで通りの長さ。フラットボトム後のサイドポンツーンでもダウンフォースを稼げると分かり後にサイドポンツーンはまた長くなる。

    

 

・上:1982年フェラーリ126C2(ジル・ヴィルヌーブ)

・下:1982年フェラーリ126C2ロングビーチ仕様(ジル・ヴィルヌーブ)

アグレッシブな走りで人々を魅了した伝説のF-1ドライバー。元F-1ドライバー、ジャック・ヴィルヌーブの父親。

1982年チームメイトのディディエ・ピローニとの確執の末にベルギーGP予選中に事故死。

ピローニもドイツGP予選中の大クラッシュで両足複雑骨折し、再起不能。1982年フェラーリはチームタイトルは獲得したが悲しい年となった。

下のロングビーチ(西アメリカGP)仕様はリアウィングが互い違いに2枚ついています。レギュレーションでリアウィング幅が1100mmに規定されていたのに2枚つけて幅を広げたというこんなのありか?というもの。実際失格になった。しかしこれは当時スタート前に水を積み、スタート後に水を捨てて規定最低重量以下で走るという反則技が横行した事への抗議の意味も含めたあからさまな反則だったとも言われる。

    

  

・1982年ウィリアムズFW08(ケケ・ロズベルグ)

まれにみる混戦となった82年(16戦中11名が優勝)、前年まで無名(獲得ポイント0!)だったケケ・ロズベルグがポイントを確実に稼ぎ、優勝1回ながらチャンピオンを獲得!

ウィングカーであるため車体で発生するダウンフォースが強く、フロントウィングは装着されていない。(ミニカーでも車体の底が後輪に近づくに連れて跳ね上がっているのが分かる)

ウィリアムズはこのマシンをベースに6輪車を開発していたが、83年から禁止されたため、幻と消えた。

   

    

・1981年ブラバムBT49C(ヘクター・レバーク)

ちょっと反則なクルマ(笑)。ウィングカーの規制の第一歩として、マシンはあらゆる状態で地面から6cmの車高を保たなければならないというレギュレーションができた。これにより車体下の空気の密閉性が薄れダウンフォースが弱まる。

しかし走ってる最中に車高を計る術は無いということで、BT49Cは「ハイドロニューマチックサスペンション」という車高が調整できるサスペンションを搭載した。走り出したら車高を下げるのだ!これによりブラバムのエースドライバー、ネルソン・ピケは1981年チャンピオンを獲得した。