一言もの申すコ-ナ-
かたい法話では、ありません。毎日の生活で感じたことを書かさせていただきます。

2019年年頭の挨拶
 
年が明けました。「明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします」私は昨年母が亡くなり、一般的に言うと喪中の正月ですが、浄土真宗は、このような風習は関係ないと言われております。

年頭の挨拶として、2019年のはじめですので、この言葉で挨拶させていただきました。ご了承願います。

 さて、昨年は、漢字一文字で表すと、「災」という字が選ばれました。これは、多くの災害が全国であったことによるものです。

北海道においても胆振東部地震があり死者41名をはじめ、多くの災害に見舞われました。大願寺におきましても白壁などが剥がれたりして被害が甚大でした。

多くのご門徒より耐震工事の寄付さなかでしたので、多くのご門徒が気にかけてくれ、御見舞金を兼ねて寄付してくれました。

この場を借りて、心からお礼申し上げます。坊守と話していたのですが、昨年より耐震工事の寄付をお願いしていても、なかなか関心が向かないところ、

今回大きな地震があり、否応なしに地震の怖さが感じられ、寄付に結びついたような気もしています。普段、維持費の出さない方からも今回耐震工事の寄付を頂きました。

「人間万事塞翁が馬」という言葉通り、困ることもあれば、良きこともあります。人間生きていると色々なことが起こります。

それを、「困った困った」と嘆いているより、しっかり事実を受け止めて、肥やしにして生きていくことが、大切なことと思います。

 しかし、人は一人で、事実をすべて受け止めていくことは難しい事と思われます。凡夫の人間ですから「愚痴」をこぼすことも、時には大切です。泣くことも大切な時もあります。

時間と仲間が大切です。そしてすべてを見通している「仏」存在を見いだすことも大切です。「仏」存在を感じるのは、科学的な事実ではありません。

感じるか、信じるかそう思えるかどうかです。ですから、人に強制するものでもありません。自分自身が、そう感じられて、我が身が喜ぶだけです。

お互いお互いが,助け合って生きて行く生き方を、大切にしなければなりません。ものの豊かな時代、お金だけあれば良いと思って生きていきた私たちに、

地震という災害を通じて多くの助け無くして生きられないことを教えてくれました。2011年東日本大震災の時に選ばれた漢字「絆」という文字がその事を教えて下さっています。

 ご縁を基調に説かれている仏教は、すばらしい宗教です。心の問題を大切にする仏教は、これからの社会に、大切な役割を担っていると思います。

 どうか、今年一年、色々なことがあると思います。その出来事を通じてお念仏が興るような年であって欲しいものです。これをもちまして、年頭の挨拶とさせていただきます。 合掌

(2019年新年の挨拶 大願寺本堂にて)


本を発刊して
2014年10月に発行した本「お坊さんがイチから教える!葬儀・法要マナーと心がまえ」と2016年4月に発行した「坊さんがイチから教える!
お墓と仏壇 選び方・建て方・祀り方」の本を、一冊にまとめた本です。内容は、ほとんど前回と変わらないです。しかし、現代の葬儀事情のデーターが、
変わっているのに、驚きます。前回には取り上げなかった、一日葬(お通夜をしないで、葬儀だけをする形態)も多く増えているという。家族葬、直葬の割合も
多くなっているという。葬儀を通じて、親戚・地域社会の再構築とは、なっていないようだ。現代は、ますます「孤独」を作り上げている。
葬儀は、①「亡き人の別れ」の他に、②往生「旅立ち」の意味や、③遺族のブリーフ・ケアー(悲しみのいやし)の意味もある。

主婦の友社発行
(2018年3月27日)



大谷幼稚園報恩講のお話

(お歳はいくつ?約38億歳です!)
 みなさん、おはようございます。ようこそお参りに来て下さいました。今日は、報恩講といって「ありがとう」と感謝する日です。「ありがとう」と感謝することを教えてくれた方が、「親鸞」さまと言って、ここに絵でお姿が描かれて、お飾りしている方です。今からちょうど850年前に生きた方です。

 みなさん、みなさんが大切にしている事は、何でしょうか?大切にしている事も、歳と共に変わってきます。みなさんなら、家族、お父さん、おかあさんかな?お金、ゲーム、携帯電話、健康など、これから色々大切なものが、増えてくることと思います。

 親鸞さまは、「生まれた意義と、生きる喜びを見つけよう!」と教えてくれています。どうか、大きくなっても、何のために生まれてきたのか分からなくなった時には、仏様のお話を、聞いて欲しいと思います。仏様の教えは、生きていく上で、最も大切な事なのです。忘れないで下さいね!

 皆さんは、お歳はいくつになりましたか?3歳、4歳、5歳、多分この歳の方がほとんどですね。お父さん、お母さんの歳は聞かないよ!色々な年齢の方がおられるから。でも、今日、お寺さんは、皆さんのお歳は、3歳、4歳、5歳プラス38億歳なんですよと言う事を覚えておいて欲しいと思います。数字、1.2.3.4.5.6.7.8.9ここまでが一ケタです。10から99まで二桁、100で三桁、1000で四桁、万で五桁、10万で六桁、100万で七桁、1000万で八けた、億で九桁。莫大な長さ、年月ですよね!

 38億歳というのは、地球で「いのち」生命が誕生した歳なのです。地球は約46億年前に出来たと言われています。そんな前は、誰も見たことがないから、色々な科学的資料を参考に想像して決めたようです。だから、生物の誕生も、地球が出来てから8億年ぐらい後でないだろうかという話です。ですから、とてつもなく長い年月がかかっていると言う事だけ、知っていて下さい。

 一人の生きていける年数は、100歳前後です。でも、命はみんなつながっているということなのです。命のバトンタッチをして、皆さんがここに生きているということなのです。

 先日、アメリカのラスベガスで、銃の乱射事件がありました。鉄砲の弾が当たって多くの人が亡くなりました。一発の銃弾で、人は命を落としてしまうのです。亡くなるのです。簡単、命を奪うことが出来るのです。しかし、死んだ人を生き返らせることは、出来ないのです。一方通行なのです。死からよみがえることは、決して無いのです。(マンガや映画ではあるかもしれませんが)

 そして、人を簡単に作ることは出来ません。人間の遺伝子(人の設計図)みたいものがすべて分かっても、試験管の中に、人間の材料をかき混ぜたり、熱を加えたり、色々の刺激を与えても、人間を作ることは出来ないのです。

 人間が誕生する方法、それは、お父さんお母さんが結婚して、赤ちゃんを産むことしか無いのです。お父さんお母さんの前に、お爺ちゃんお婆ちゃんがいるのです。皆さんから見れば、お爺ちゃんお婆ちゃんですが、子と親の関係がずっと続いているのです。一回も途切れてはいないのです。一回でも途切れてしまうと、皆さんはこの世にはいないのです。その長さが。38億年、命の歴史なのです。無機物から有機物が出来た歴史がこの長さなのです。そして、人へと進化したのです。難しい話ですみません。人間の誕生でも約200万年前、道具を使う人間が誕生したのも5万年前だと言われています。そのような長い年月を経て、今皆さんがいるのです。自分一人だけの命ではないのです。みんなに願われて守り続けられて生まれた命なのです。どうか、「いのち」を大事にして下さい。そして人間に生まれた事を感謝できるような、生き方をして下さい。
 お寺さんのお話を終わります。有り難うございます。 
   (2017年10月6日)

 

2017年年頭の挨拶

2017年(平成29年)が明けました。本年も、宜しくお願い致します。

 さて、今年は、酉年です。鳥と聞いて、思い出す鳥がいます。それは、共命鳥(ぐみょうちょう)と言ってお浄土にだけいる鳥です。この鳥は、頭が2つありますが、胴体は一つなのです。仏教説話には、以下の様な話が、あります。昔、お浄土以外にも、共命鳥がおりました。二つの頭は、よく言い争いをしました。一つの頭は、優秀で何でもこなすことが出来ました。もう一つ頭は、優秀でなくいつも失敗ばかりをしていました。優秀な方の頭は、出来の悪い頭に向かって、「お前がいなければ、もっと良い生活ができるのに!」と常々言っておりました。出来の悪い頭は、ついに自分がいなければ、優秀な頭に迷惑をかけないですむと思い、毒を飲んで死のうとしました。すると、胴体が一つなのですから、優秀な頭の方も、どちらも死んでしまったのです。

 この話は、深い意味のある話です。地球という共通の一つの胴体に、数多くの頭という国が存在しています。何処の国が優秀で、何処の国が出来が悪い、貧乏だと言っても、所詮地球という胴体1つなのです。地球温暖化や地球の裏側での放射能漏れが、地球全体に影響を及ぼすのです。このような時代になってきているのです。共通の一つの地球という概念を大事にしてもらいたいと思います。

 かつて共産主義の国々が、富の平等を謳い、土地や財産を国有化にしました。その結果、民衆は労働意欲が失い、生産力が落ちてしまいました。欲は人間について回ります。欲は働く原動力になっているのです。しかし、欲ばかりでも、問題があります。

 世界の風潮は、トランプ現象(国家の右傾化)と呼ばれるぐらい、自国だけ良ければそれで良いという、自己中心的な傾向が強くなってきています。

 「少欲知足」すくない欲で、満足を知る。真宗以外の仏教では、このような考えを推し進めています。しかし、これは簡単なようで難しいことです。欲深い人間であることを理解して、仏様と共に、相手の立場になって考え、思いやりをもって、今年一年、歩んでいきたいものです。

(2017年1月1日年頭の挨拶)






大谷幼稚園報恩講のお話

(手を合わせることを忘れずに!)

みなさん、おはようございます。ようこそお参りに来て下さいました。今日は、報恩講といって「ありがとう」と感謝する日です。「ありがとう」と感謝することを教えてくれた方が、「親鸞」さまと言って、ここに絵でお姿が描かれて、お飾りしている方です。今からちょうど850年前に生きた方です。

 みなさん、みなさんが大切にしている事は、何でしょうか?大切にしている事も、歳と共に変わってきます。みなさんなら、家族、お父さん、おかあさんかな?お金、ゲーム、携帯電話、健康など、これから色々大切なものが、増えてくることと思います。

親鸞さまは、「生まれた意義と、生きる喜びを見つけよう!」と教えてくれています。どうか、大きくなっても、何のために生まれてきたのか分からなくなった時には、仏様のお話を、聞いて欲しいと思います。仏様の教えは、生きていく上で、大切な事の一つなのです。忘れないで下さいね!

 さて、みなさん、今年は4年に一度のオリンピックの年でした。みんなもテレビで日本人の活躍を見た人も多いと思います。オリンピックの年には、パラリンピックと言って、体に障害のある方のスポーツ大会もあります。日本人はメダルの数は多かったようでしたが、一番の金メダルは取れなかったと伝えられています。東京大会まで、金メダルをと言っていました。選手を強化する事は、悪い事ではありません。しかし、パラリンピックは、体に障害のある方のスポーツ大会なのです。世界は、色々な所で戦争しております。地雷で足がとばされた子ども、戦争で、体に障害をもった方がたくさんいるのです。毎年毎年、生まれつきではない障害者が生み出されているのです。戦争で障害を持った方が多くなって、パラリンピックで金メダルを取っても、それは、良いことのように思えません。金メダルが取れなくても、戦争で、死者や障害者を出さない世界の方が、大切な気がします。

 中村久子さんという両手・両足のない方がおられました。私は、どうして仏様を拝む手がないのだろうと淋しく言っておられます。久子さんは、心の手で仏様を拝みました。

私たちは、幸いにも、仏様を拝む手をもっております。美しい姿です。1人では生きていない、みんなに支えられて生きていることを、拝む姿を通して教えてくださっているのです。

手をあわせる姿は、美しい姿です。昔、熊牧場に行ったことがあります。色々な熊がいましたが、えさをもらうとき、拝む熊が、一番もらいが多かったことを、覚えています。容貌で無く、その姿が美しいこともあるのです。

そして感謝し手を合わせる(合掌する)生活が、人を幸せにすることにもつながる事だと教えてくれました。いつまでも手を合わせる(合掌する)ことを忘れない生き方を歩んで下さい。英語に訳せば、サンキュウー・ブッダということでしょうか。

 これで、大願寺に住職のお話を終わります。最後まで静かに聞いてくれて有り難うございました。

(2016年10月6日、大願寺に、大谷大学附属幼稚園の報恩講のお参りで話すこと)

 





「家族が亡くなったら
しなければならない
手配と手続き」を出版して
2014年7月に、札幌市仏教連合会監修ということで、「坊さんがイチから教える葬儀・法要のマナーと心がまえ」という本を主婦の友社から出版してもらった。ペーパレスの時代と言われている中で、再版もして売れているという。
 そこで、主婦の友社から姉妹本を出して欲しいという要請を受けた。姉妹本と言うこともあって、上記の本が売れても売れなくても「札幌市仏教連合会」に迷惑をかけない条件で始めた故、姉妹本も残念ながら印税は入らない。
高校時代の友達と相談して「坊さんがイチから教える!」シリーズ第二弾「お墓と仏壇~選び方・建て方・祀り方」を2015年8月に出版した。この本は、すでに各寺院に所属している檀家や御門徒にはあまり魅力の感じない本であるが、何処にも所属していない中・高年層には、そこそこ売れたようである。
 売れると、出版社は、柳の下のドジョウを探すようである。「身近な人が亡くなった後の手続きのすべて」自由国民社から出ている本が、単行本ビジネス2015.6~12まで売り上げ1位になっているという。それに習った傾向の本を出したいとのこと。後出しジャンケンの性格もあるので、葬儀と法要、納骨について、少し詳しく書いて、出版したいという意向がきた。
シリーズ本から外れるので、今回は札幌市仏教連合会監修ではなく、北個人でお願いしたいということだ。印税がはいるのであれば、札仏連にもお伺いをたてなければいけないが、今回も主婦の友社の本。責任も出版社ということなので、札仏連の事務局長に相談して、個人の名前を使わせていただいた。
私も、参考に上記の本や、同類系の本を読ませていただいた。「身近な人、大切な人」とタイトルについているが、基本的には、いかに国にお金が取られないで、自分にお金を残すかに主眼が置かれている。葬儀・法要・納骨を通じて、亡き人に、今一度、あってもらうことが大切であると思えてきた。それがまさに、仏事を営むということになる気がする。仏事を営むことそれ自体が、一番大切な相続である。
 今回の本は売れるかどうか分からないが、家族が亡くなった時、お金の相続とは別に、仏法相続もあるのだよと分かってほしい。尚、一般の書店や、インターネットサイトでも取り扱っている。

(2016年8月2日)



2016年年頭挨拶
2016年(平成28年)が明けました。本年も、宜しくお願い致します。さて、昨年を表す漢字一文字は「安」が選ばれました。安全保障関係の法案が成立された事、世界中安全が脅かされている時代に、「安心」「安全」を求める国民の声が反映されていると思います。

 昨年は、シリアでのISのテロのニュースが飛び交いました。日本人のジャーナリストも2名殺されました。シリアの有志連合の空爆、パリのテロ無差別乱射事件など、そして多くのシリア難民流出問題。人が死ぬ度に、その都度「報復」という言葉を耳にします。また、日本の犯罪で身内が殺された事件などは、犯人を死刑すべきだという声も上がります。「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典以来の報復論が、いまだに主流を占めています。しかし、亡くなった方は、その人を殺した犯人が、死刑になれば生き返るのでしょうか?残念ながら、亡くなった方は、決して生き返ることはありません。

 「報復」は、負の連鎖がついて回ります。「復讐」「復讐」の連続です。このことを断ち切った大切な話があります。私たちの「浄土真宗」を弘めた方は、親鸞聖人です。その師匠が法然上人(源空上人)です。親鸞聖人は、「よき人の出遇い」ということで、法然上人に出遇われ、お念仏の教えに出遇ったことを終生、喜ばれました。この法然上人は、今の岡山県美作(みまさか)の武士の出であったと伝えられております。押領使であった父漆間時国(うるまときくに)が夜襲に遭い、勢至丸(法然上人の幼名)の目の前で殺されます。武士の世界では、仇討ちが当たり前の考えでありました。しかし、父は、「仇討ちをしないで、良き社会を築いて欲しい」と遺言されて亡くなりました。勢至丸は、その願いもと、出家して僧侶となり、お念仏の教えを弘めて下さいました。もし、父が仇討ちして欲しいと遺言していたならば、日本の浄土教団は存在しなかったかもしれません。「報復」と浄土真宗の教団とは、このように深い関わりがあると思います。

 私たちは、仏教徒として、キリスト教社会、イスラム教社会とは、一線を隔て、「武力による平和」は有り得ないとの信念の下に、行動していかなければならないと思います。
 どうか、お寺参りを忘れずに、聞法生活に勤しみましょう!世の中安穏なれ!
(2016年1月1日)

世界の中の日本

917日、お彼岸の頃、日本では安保保障関係法案が参議院で可決された。集団的自衛権の問題も含めて色々問題がある法案が通過した。政府もこの法案通過によって、防衛装備庁(101日)の発足、そしてこの庁より武器輸出を充実させることを可能にした。また、南スーダンPKOに「駆けつけ警護」などを加える方針を次々と打ち出してきている。本当に目の離せない事である。

また、日本では、あまり大きく報道されていないが、世界ではシリアの難民問題が大変である。難民を出さない方法は、シリア国内の安定化が一番であるが、アサド政権をロシアが支援し、欧米が反体制派を支援している。そして過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭してきて、政局が安定する要素はまったく見られないのが現状だ。はっきりした人数は把握出来ていないようだが、今年だけで40万人以上の方が、ヨーロッパに殺到している。ハンガリーやクロアチアの国境では、警察官と衝突が続いている様子をテレビ等で放映していた。多くのシリア人は経済的な豊かな国、たとえばドイツ入りを希望しているらしい。その背景には、メルケル・トイツ首相が、難民の地位を保障する制度や支援態勢が整えているからだという。

日本は、難民受け入れ態勢は、どのようであろうか?9月24日の朝日新聞に、元国連難民高等弁務官緒方貞子氏が「難民受け入れ 積極的平和主義の一部」と題して、大いに受け入れるべきだと話している。しかし、現実は、約60名のシリア人が日本に難民申請をしたが、認定したのは、たった3名だけだった。緒方氏は失望している。

日本が、憲法9条があり、武力による世界貢献が難しいなら、このような難民受け入れることが、日本として必要なことのような気がする。日本は、シリアから遠いので、日本に来たいと思う人は多くない。しかし、距離だけでなく、日本が知られていない気もする。世界中、カメラ・電化製品・車・バイクなどの日本の製品は何処にでもある。しかし、日本自体は、日本人が思っているほど知られていない気がする。日本人自体が、島国根性で、自分の国のことしか考えていない感もあるからだ。

安部晋三首相は929日、訪問先のニュー-ヨークでの記者会見で、冒頭で「(国連総会の)今年の最大のテーマは難民問題だ」と強調している。その後、記者より「日本がシリア難民を受け入れる可能性を問われたとき「移民受け入れより女性、高齢者の活躍だ」と自国の問題を解決しなければならないと述べ、受け入れに消極的な姿勢だった。この安部首相の「ひと(他人)ごと」発言が問題にもなっているという。

私は、難民受け入れは、積極的平和主義として、実践していかなければならないと思う。

しかし、その前に、イスラム教の方と日本人が共に歩むために、日本人がきちっとした宗教的常識を形成しなくてはならないと思う。イスラム教徒に対する偏見、差別意識。日本人としての誇れる宗教心を持ち合わせているのか?まず、日本人が自分の宗教をきちんと確認して欲しい。そこから相手を認め合う世界を見つけたいと思う。日本の場合、日本人自身の宗教確認。宗教的免疫力をつける。これが大切である。難民の地位を保障する制度や支援態勢と平行に実施しなければならないことであるような気がしてならない。

日本はこれから生産者人口が激減していく。支援態勢が充実して、難民が日本語を覚え日本に永住する可能性だってありうる。世界の中の日本という視点が大切になってくると思う。
(2015年10月1日防衛整備庁発足の日に)



宗教に対する免疫力

 みなさん、いかがお過ごしでしょうか? 今年は二月に入ってからは、たいした雪も降らず雪どけが進みました。段々、地球が温暖化しているという事でしょうか?雪が少ないのは有難い事ですが、手放しに喜べないのも事実です。

 さて今年に入ってから、日本から遠く離れた西南アジアのシリアの国で、日本人二名がイスラム国(IS)に、拉致され殺害されるという衝撃的なニュースがありました。イスラム過激派によるテロ事件は、このところ世界中で、毎日のように報道されています。治安の良い日本には関係ないように思われていましたが、イスラム過激派の人々は、日本人も標的にしていることが分かりました。今、色々な国々の人々が、日本を訪れます。日本への銃や、爆弾の持ち込みも厳しくしていますが、不可能な訳でもないようです。訪問者が、テロリストかそうでない人か、判別することは、大変難しいことです。また、日本人がイスラム過激派の思想に共鳴して、事件を起こすかもしれません。今後は、日本でも自爆テロが起きない保障は何処にもありません。大変な時代になってきたようです。

 ここで私たちは今一度、イスラム教などの外国の宗教を知っておくべき時代にきたような気が致します。 今の日本人は、無宗教で良いと言う人もいますが、世界情勢から考えても、宗教というものに対して、しっかりとした免疫力をつけておかなければならないと思います。

 
世界の三大宗教
 世界には、色々な宗教があります。その中で、三大世界宗教と呼ばれているものが、あります。一番古いのが、仏教です。インドで紀元前六世紀、シャカ族のゴータマ・シッダールタが、仏陀となり人の生きる道を教えて下さりました。インドの差別制度カースト制度を否定し、平等を説きました。聖戦を認めず、不殺生を尊びました。

 次に起こったのは、ユダヤ教・キリスト教です。紀元前十六世紀パレスチナにセム語族の遊牧民ヘブライ人が定住するようになり、これがイスラエル人またはユダヤ人と呼ばれるようになりました。紀元前二世紀頃にエルサレムにヤーベの神殿を建て、種々の規則を定めて「聖書」を作りました。一神教、偶像崇拝の禁止、神の子(メシア・救世主)の出現、こうしてユダヤ教が生まれました。ユダヤ人だけが、神に、選ばれた民だとするのが、ユダヤ教です(選民意識)。これに対して、イエス・キリスト(紀元前四年)は、ユダヤ人だけでなく、すべての神を信じる人は、神の愛で救われると、説きました。奇跡を起こしたイエスをメシア(救世主)と信じました。しかし、反逆者として、十字架の刑に処せられたと伝えられています。その後、イエス復活信仰が生まれ、ペテロ、パウロなどの弟子によって福音書が作られ、新約聖書が編纂され、世界に広まっていきました。

 
イスラム教
 最後の世界宗教が、イスラム教(ムスリム・モスレム)です。ユダヤ人と同じセム語族に属するアラビヤ人のマホメット(ムハンマド)が七世紀に現れました。キリスト教やユダヤ教に影響を受け、人格神への信仰をもとにして、アラーを唯一神とする信仰を説き、自らアラーの預言者であると説きました。部族や階級を認めず、人は平等であるということを強調しました。宗教上の改革だけでなく、政治や軍事にも関わって広まっていきました。イスラムとは、神への絶対的奉仕・服従の意味です。教えは、コーラン(クルアーン)の中にまとめられ経典となっています。神への絶対的な帰依が真の救いをもたらし、最後の審判によって楽園に入るとされています。また、神に対する殉教の徳が賛美され、信仰上の実践(信仰の告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が強調されます。イスラム教は、仏教やキリスト教と異なり聖職を置かず、僧俗の差別がありません。そしてマホメット亡き後は、カリフ(宗教上の権威の他、政治上、軍事上の権威をもっていた)と呼ばれる人が、コーランの教えを忠実に守りながら周辺を征服していきました。(サラセン帝国が出来ました)

 
シーア派とスンニー派
 第四代のカリフの時、紛争が起こり、アリーの血を引く者が、カリフにふさわしいと考えたのが「アリーの党派」、党派のことをシーアと言います。これが、イラン国に多いシーア派です。シリアの一部にもシーア派(アラウィ派)がいます。
 一方は、「血統にはこだわらずイスラム教の教えを守っていけばよい」いう考え方も生まれました。慣習を「スンナ」といいますので「スンナ派」(スンニ派)です。サウジアラビアなどイスラム教の八五%を占めています。この二つの派は、仲良くありません。
 このように、イスラム教は始まりから、聖戦を認め、テロを生む殉教の考え方があり、絶えず争ってきた歴史があるのです。八世紀にイスラム教徒がインドに進入してきた時、ことごとく仏教寺院を破壊しました。仏教僧侶は、もちろん殺されました。

 キリスト教やイスラム教は、起こりから似ています。最終の預言者が、イエス・キリストかマホメットということです。どちらも一神教であり、聖戦を認めます。十字軍の遠征など、長い歴史の中で闘ってきました。イスラエルの地は、ユダヤ教にとってもイスラム教にとっても聖地なので、いつも奪い合いの歴史でした。ですから、聖書やコーランに従って生きようとすればするほど、原理主義となり、一般社会とは相容れない生き方となるのです。イスラム教徒の中では、平等かもしれませんが、異教徒に対しては、容赦のない差別がありました。


 
親鸞聖人の他の宗教に対しての考え方
 仏教の流れを汲んでいる真宗は、聖戦を認めていません。ですから、第二次世界大戦の時、大谷派が戦争に荷担した事に対して深い反省をしております。現在の集団的自衛権の問題においても、反対を表明しております。また、殺生の問題からも、死刑制度にも反対しております。親鸞聖人は自らの信心を「愚身の信心」とみています。自分の教えが、一番と言っておりません。この教えしか私には、ないといっているだけです。
他の宗教を、非難したり、けなしたりしていません。


 
無信心と言えるのも仏教徒!
 昔からお寺参りすることは、良いこととされていました。忙しく、申し訳ない気持ちで「無信心で」と言い訳したものです。それは、上記にも書いたように、仏教は僧侶という聖職者を設けました。普段は、仏教徒らしくなくとも、葬儀・年忌法事には、坊さんを呼ぶ。困った時は、専門家というように教えに出遇う機会を作っているのです。分限化しているのです。坊さんは、檀家さん(ご門徒)の御布施で、しっかり仏教の教えを学ばせてもらいました。そして事ある時に、檀家さんに法を伝えるのです。無宗教と無信心は、異なります。寺院と共に生きる、成り立っていることは、理解して頂きたいものです。


(2015年3月21日お彼岸の寺報より)

仏法の話をしよう!

 

大願寺の住職をしていると、色々な地域の役職を頼まれることが多い。法務に支障をきたすので、多くの場合は鄭重にお断りしている。しかし、前住職がしていた公共的な役職などは、断りきれなかった。少年補導員、保護司、教誨師(札幌刑務所に行って、受刑者にお話をする仕事等)と、現在させてもらっている。これらの役職は、本来の業務に加えて、犯罪防止や青少年の健全育成にもかかわっている。

 9月5日(金)、依頼を受けて「北海道青少年育成大会」に参加した。大会のメインは、「少年の主張」全道大会であった。北海道を16の地域に分け、そこから選ばれた代表者が、社会に向けての意見、未来への希望などを発表してもらうものだ。

 16地区の代表者は、15名が女性、1名が男性。少年という言葉は、男女両方を指す言葉になっているが、「少年・少女の集い」と言うように、響きとしては、男の子をさすほうが多い言葉だ。今日、少年の主張全道大会は、圧倒的に女性が多い。これは、私の個人的感想だが、小学校・中学校の生徒を見ると、活発で行動力のあるのは、女性が多い。現在社会で、男女共同参画の問題が叫ばれているが、将来は心配ないような気がする。

 地域から選ばれた代表者の主張は、内容・発表の仕方が、どれも堂々として素晴らしく、甲乙つけがたいものであった。

 内容を分類してみるといくつかの傾向がある。Aグループ 発表者の家族との付き合い方について(年老いていく祖母、障害のある弟、母の病気、家族の中の自分の立場など) Bグループ 思いやり、言葉の大切さ、いじめからの解放を訴えるもの Cグループ 自分の将来の仕事を見据えた生き方 Dグループ 東日本大震災のボランティア活動を通じて感じたこと 等が多かった。中には、渡島地区代表のように、今年廃線となったJR木古内線に対する思いを語った主張もあった。

そのような主張の中で、「私たちが担う日本の未来と知る権利」のテーマのもと、若者は政治に関心を持たなければならないと主張する異質の発表がありました。他の発表は、自分が経験したことを中心に発表していたのに対して、ドイツのアドルフ・ヒットラーは、「青少年に政治は必要ない」の言葉から始まり、独裁政治は、民衆の無関心から始まった事を取り上げ、今日問題になっている集団的自衛権にも触れた。若者は、大いに目を開いて、マスコミなどの情報操作に惑わされない、正しく知る力を養いたいと訴えかけるものであった。昔の弁論大会のような主張であった。これを聞いていた保護司の仲間は、この発表に対して賛否両論の意見が出た。発表の仕方は、素晴らしい。しかし、経験談ではないこと、現代の政治の事にあまりにも触れすぎている点であった。公共の場所では、政治と宗教に触れてはならないと、先輩保護司が言っていた。私が審査員であるならば、最優秀賞は無理でも何らかの賞を差し上げたいと思った。

結果は、やはり選ばれなかった。なにか空しく思った。公共の場所では、政治や宗教の話は、激論になり人間関係をおかしくするから、しない方が良いかもしれない。しかし、政治も宗教も、人間の考え方・生き方を左右する大切な事である。何処かで、しっかり話合わなければならない。その場所は、家庭であると思う。また、心の通った仲間では、宗教の話もした方が良いと思う。これが親友であり法友だ。今の時代は、この事が、無いように思える。うわべだけの家族、仮面夫婦という言葉もある。心の通じ合わない家族、親子。宗教が語られない家族、友達は、寂しい。

(2014。9.20 少年の主張を聞いて)



友達と「お坊さんがイチから教える葬儀・法要のマナーと心がまえ」を出版して
昨年札幌市仏教連合会で「今、葬儀を考える」というパンフレットを制作しました。企画から完成まで一年間以上かかりました。
その中で、お坊さんが関わった「エンディングノート」を作りたいねという話がおこりました。高校時代の友達が、編集関係の仕事をしているので、
相談致しました。(葬儀のパンフレット作成にも監修していただいた)その友達が、東京の出版社にこの企画を相談したところ、出版してみたらという
承諾を頂いた。本の構成、執筆は、私の友達が中心になって行う。私は、札幌市仏教会の仲間に、各宗派ごと内容の監修を行ってもらう。その準備に
当たるというものだった。パンフレット制作に一年以上かかったのだから、本となると多くの日数を要するとたかをくくっていた。
しかし、友達から作成の行程表を頂いて見たならば、約半年で作成、出版するというのである。「びっくり」である。
友達は、昨年の12月に、ほぼ原稿を書き上げた。
それを、各宗派の僧侶に見てもらう。そして問題点をあげてもらい、編集、校正をする。おおくの僧侶がいるが、決められた出版日まで時間との勝負でもある。
執筆して下さっている友達の立場もある。なるべく迷惑をかけぬように、私が出来ることは、私なりに校正させて頂いた。
2014年3月に脱稿できた。プロが装丁している本である。垢抜けて、自分でもよく出来たと思っている。興味のある方は、是非呼んでみて欲しい。

定価:本体1200円(税込み1296円)
出版社 主婦の友社

無宗教の時代だからこそ
今、大谷派の僧侶の中でも、葬儀のあり方が問題になっている。急な死に対して、
遺族は何も分からない。必然と葬儀社に全てお任せをする。葬儀社が中心となって、
僧侶も決める。僧侶と葬儀社の癒着が、貨幣経済だけが中心となって決まる。
生活もかかっているので、軽率なことは言えない。しかし、「人の死」ということを、
目をそらさないで見て欲しい。普段からお坊さんとの
付き合いを考えてほしいものだ!
(2014年7月10日)


卒業式に参加して

今年は、二月にロシアでソチ冬季オリンピックが開催されました。毎日、日本人選手の活躍が報道され、熱い応援や多くの感動を頂きました。四十一歳のジャンプの葛西紀明選手は、海外からも「レジェンド」(伝説)の名前で親しまれていました。今まで長く現役を続けてきて、ようやく個人の銀メダルを取った事などが報じられました。「諦めなければ夢はかなう」成果をあげた多くの選手は同様な言葉を言っていました。

 三月は、卒業式の季節でもあります。色々な関係で私も色々な卒業式に出させてもらいました。ある高校の生徒に向けた贐の言葉に、「諦めなければ・・・・」という言葉を引用して、努力して頑張って下さいと励ましの言葉がありました。

 私は、何か変な気がしました。努力することも頑張ることも大切です。しかし、オリンピックでメダルをとれた方が、「諦めなければ・・・・」と言っていることを指導者や教育者が、言う事は、違う気がしました。

 「努力しようとすることも才能である」という話を聞いたことがあります。勉強にしてもスポーツにしても能力や才能が関係してきます。能力や才能のある方が、頑張って頑張って、オリンピックでメダルを取ることが出来るのです。四年に一度ですから、ピークが合わなければ、能力があっても恵まれない人もいます。運・縁も関係してきます。みんながみんな努力して諦めなければ、得られるものではありません。

 余命幾ばくもないと宣告されている方のお見舞いに行って、その方に「頑張って下さい」と言えるでしょうか?病気と闘って苦しんでいるのに、何を頑張ればよいのでしょうか?こんな時のお見舞いは、ただ顔を出す。今までの付き合いに感謝する。触れる事が出来るのであれば、手を握り合うことぐらいだと思います。(宗教的立場が同じであるならば、仏様の本願やお浄土のお話など、信心談義が出来ます。しかし、身内で無い場合は、宗教の話は避けた方が良いでしょう)

 
これと同じように、努力する才能の無い方に、頑張れといっても、何を頑張ってよいのか分からないこともあります。頑張っても頑張っても、縁や運がないことだってあります。一人ひとりが、「途中で諦めたら夢はかなわない」と思って、努力することは、大変すばらしいことだと思いますが、指導者・教育者から、上から目線で言われたくない言葉のような気がします。

  
北海道新聞の卓上四季の言葉

 二月二十四日、ソチ・オリンピックが閉幕した日の北海道新聞の卓上四季に、「要職にある人に『巨人の星』のファンが多い企業は要注意」ということで、作家・元外務省主任分析官の佐藤優さんの面白い「仮説」を取り上げてありました。(世界と闘う『読書術』集英社新書0715C)私も、書店で買い求めて道新で取り上げた引用部分を探したが、見つからなかった。しかし、道新の卓上四季に書かれていることが、興味を引いたので紹介します。

 『巨人の星』は言うまでもなく名作野球漫画。根性で困難を乗り越えるストーリーに筆者もかつて夢中になった。それが危ないという。〈会社が危機になったとき、思い込みと試練で物事を解決しようという人たち〉への警戒である。根性や努力で解決するのではなく、周囲の協力や助言。そして正確な情勢分析が大切なことを訴えてありました。

  仏縁が深まる学校もある

 受験生も一生懸命努力していると思います。努力できない能力の人もいます。同じ価値観だけで、人を見るのは問題がありすぎます。お釈迦様が、天上天下唯我独尊と言っているのは、お釈迦様が偉いということではなくて、一人ひとりかけがえのない人生がある。比べる必要のないすばらしい人生があることを私たちに教えて下さっているのです。受験が失敗して、自分の思っていた学校に入らなくても、その人が、ダメになったわけでもありません。色々な苦難を肥料にして、打たれ強い人生を歩んで頂きたいと、卒業式に参列して思いました。

  

大谷学園

 学校の中に「大谷」という名が付く学校があります。真宗大谷派の関係学校です。そこでは、宗教の時間があり、学生や生徒に、親鸞聖人の教えを聞いてもらう授業があります。若い時代に、宗教のご縁を、頂くことは、限りない喜びでもあります。「大谷」の付く学校があるのは、若い人に、宗教のご縁が大切である表れでもあるのです。このような学校を、縁ある方に胸を張って、勧めて頂きたいと思います。

(ある高校の卒業式に参列して 2014.3.1)




年頭挨拶「複眼思考を!」

明けましておめでとうございます。本年も、聞法生活に勤しみましょう!さて、昨年を振り返って見ると、色々な事件がありました。その中で、10月にホテル食品偽装という事件がありました。ことの発端は、阪急阪神ホテルで、ビーフステーキと表示しているにも関わらず牛の脂を注入した肉が出されたことから、大騒ぎとなりました。その後、エビや野菜やジュースなどに、同じような偽装が各地のホテルでみつかりました。もちろん札幌のホテルでもありました。しかし、このような偽装は、食べた消費者からの苦情から発覚したものではなく、内部調査の結果分かったことでした。消費者は、高額のお金を支払ったのに、安い食材を食べさせられたと怒りをあわらにしたのでした。

 また、ぐるナイというグルメ番組があります。「ごちになります」という言葉とともに人気のある番組です。6人ぐらい方が、色々な高級料理を食べる。食べた料理の合計値段を当てるという志向だ。そして一番金額のあわない人が、全員の食費を払うことになっている。この番組は、高級な食べ物が、いかに高いか、そして高い食材はおいしいことを言っているような気がします。そして多くの視聴者の心を捉えているということだ。

 このように見てみると、食べ物の本当の味とは別に、「お金」という価値観で食を見ているような気がしてならない。

 ある友人から、「いのちをいただく」という本を紹介された。西日本新聞社発行、文:内田美智子、1200円+税という本だ。食肉加工センターにお勤めの坂本義喜さんの実話をもとにした絵本です。食肉加工センターとは、屠殺所のことです。牛を殺す仕事をしている坂本さんが、みいちゃんと名付けられた家族同様に育てられた牛を殺さなければならない話でした。その牛みいちゃんが、殺されることを知って、大きな目から涙をこぼしました。しかし、屠殺するとき暴れもせず、殺されていきました。みいちゃんの家族がその肉を少しもらっていって、家族で泣きながら、みいちゃん有り難うと言って食べたお話でした。ここには、まさに食べ物は、生き物であることが分かります。人が生きると言う事は、命を頂くこと。つまり殺すことです。私たちの命は、多くの命に支えられている。それを実感したとき、食べ物のありがたみが分かる。そして、人間の残酷さも分かる。そこに感謝の生活が生まれるのでは、と思います。

現代人の多くは、屠殺所で殺す場面に出会うと、かわいそう、残酷とその場面しか見ません。しかし、そのような人ほど、普段は「肉、肉」と叫んでいるのではないだろうか?ステーキ、焼き肉、すき焼きの肉と、生きている大きな牛とが、結びつかなのであろう。 これが、宗教心の入り口だと思います。凡夫の自覚(迷惑かけ続けて生きている。失敗だらけ、間違いだらけの自分)とか罪悪深重(ざいあくじんじゅう)という自分を深く鋭くみつめた人間観です。

 食べ物を、貨幣経済の「お金」の値段でみるか、生き物とみるかで思考が、ガラッと変わります。

 是非、貨幣経済優先のものの見方とは別に、「いのち」を見る見方。別なものの見方、それを複眼思考と呼んでみたいと思います。一方的な物の見方ではない見方です。どうか複眼思考の出来る生き方をしてもらいたいと思います。本年もどうぞよろしくお願いします。

20141月10日)

プロメテウスの火?

 1月5日に孫が生まれた。みんながいうように孫は本当にかわいい。子と孫とは次元が異なるので、どっちが可愛いという問題ではない。孫は、今9ヶ月。前に進むハイハイは出来ないのですが、いろんなことに興味を示します。おもちゃよりも、いろいろな新しいものを、口に入れるのでヒヤヒヤです。目が離せません。しかし、これが人間なのだとつくづく思います。人間は、火も恐れません。他の動物は火とか、初めてのものを見ると恐れます。これが自然の法則なのだと思います。先日、南区で熊が出ました。熊は本来、臆病な動物です。山から出てこないと長生き出来ます。麓や里に興味をもって降りてくると、人間に打たれて死んでしまいます。

 ギリシャ神話の中で、「プロメテウスの火」という話があります。人間が火を手に入れて、人間の進歩が始まるという話です。しかし、現代人は、自分の力で、火をおこせるでしょうか?チャカマンやマッチですぐに火をつけられますが、摩擦熱から火を熾すことは大変なことです。私はボーイスカウトで、昔、火をおこす体験をしたことがあります。手にまめをこしらえ、一生懸命こすりましたが、残念ながらこの方法で火を熾すことが出来ませんでした。(昔、冒険手帳という本があって、この方法で火がおこせる!と出ていました。しかし、私のボーイスカウトの仲間全員だめでした。私は、大きな虫眼鏡で、太陽の光を利用して黒い紙に火を熾すことが出来ました。)

 火を熾すことは大変なことでしたから、一度手に入れた火を消さないで守り、種火として、これを分け与えて、生活をしていったのです。つながり、伝統はここから始まったのです。火を手に入れて、夜でも明るく灯すことが出来たり、また、焼いたり煮たりして、食文化も始まりました。最初、人間特有の好奇心から色々なものを人間は食べ、食べられるもの、食べられないもの、時として毒を食べて死んでいった人もいるでしょう。それを経験として蓄積していったのです。文字の発達とともに、書き残すことも出来るようになりました。ここから人間の文化が始まったのです。

オリンピックの聖火をつないで各国を回ることに特別の関心を呼ぶのは、人間特有の火を分け与えたり、つなぐことに対する本能(DNA)が関係しているように思えます。また、ある京都のお寺では、お寺が出来てから一回も火を絶やさないお寺も、それだけで有名であります。

火は、使い方を間違えると火事になってしまします。火遊びは危険です。このように人間は、火を上手に利用して生きてきました。しかし、現代はあまりにも簡単に、火を利用することが出来るようになりました。それがかえって、自然の中に生きる人間性を、忘れたような気がします。たき火や火熾しを忘れ、火を自由に扱えない人間は、長く築き上げた伝統やつながりを忘れたような気がします。

人間は、自然と共に生きています。日常生活、家庭での役割を大切にして欲しいと思います。食後の後片付け、おそうじ、自分の布団をたたむことなど、裁縫、家の修繕など、いろいろと手伝い致しましょう。人間の生きることの原点を大切にしましょう!いろいろ、お手伝いをしていくと、いろいろな事が見えてきます。つながりを感じていくことでしょう。独りでは生きていないこと。そこに、感謝する心が起こってきるのです。大地に根ざした生き方に目を向けることが大事です。足が宙に浮くような生活は、大事な人間性を失ってしまいます。いろいろな命の犠牲の上に、人間の営みがあるのです。現代人は、感覚が麻痺していることが多いような気がします。感謝し合掌する生活が、人を幸せにすることだと教えてくれました。感謝し合掌するということは、人と生まれた悲しみが、いつまでもある、忘れない生き方なのでしょう!それを、私はついつい忘れて生きているのです。

 (2013.10.4 大谷幼稚園のお話をして)

 
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月8日「花まつり」(釈尊の誕生日)に想う

今年の冬は、大雪、寒い日が長く続きました。四月八日のお釈迦様の誕生日「花まつり」の頃になっても、雪がまだ残っています。

 一昨年の3月11日に東日本大震災があり、2年経ちました。約2万人の方が死亡・行方不明となっています。すでに多くの皆さんから大地震は過去のものとなり、忘れ去られてきました。しかし、福島第一原発事故もあり、過去の事とかたづけられない、色々な問題を、未だに残しております。「福島を忘れない!」のスローガンのもと、生き方の上からも、心に刻んで置くべき事のように思います。

  ・アルジェリア人質拘束事件
 今年の1月16日、北アフリカのアルジェリア、イナメナスの天然ガス精製プラントで人質拘束事件が起こりました。日本人17名を含む外国人が人質拘束されました。犯行グループは、イスラム原理主義のアルカイダ系武装グループ。アルジェリア人などイスラム教徒は、すぐに解放されましたが、日本人10名を含め、8か国約37人が、死亡しました。日本人は全員が日揮という会社関係者であり、これまでアルジェリアでは信頼が厚かったという評判でした。

 なぜこのような痛ましい事件が起こったのかは、依然謎が多いようです。アルジェリアは、資源が豊かな国なのに、多くの国民は貧しい。一部の特権階級の人と他の外国の国だけが儲けている。このような背景に、イスラム原理主義武装グループが生まれてきたことは間違いのないことです。複雑な要因がありますが、それが集約されると宗教対立となるようです。外国人を異教徒と見て、攻撃の対象になりました。一連の報道の中で、日本人を仏教徒として扱っていたのも驚きでした。現代の日本人の中で、自分が仏教徒と自覚している人は、どれくらい、いるのでしょうか?ほとんどいないと思います。しかし、外国の宗教がはっきりしている国から見れば、無宗教だと言っていること自体、日本の仏教徒なのです!

 日本の仏教徒
 このような事件が起こり、日本の仏教徒ということを考えさせられます。日本人として仏教徒という意識はなくとも、考え方・文化には深く、仏教の影響が日本人には残っております。人質の扱いでも、日本と欧米とでは異なっております。日本は、人命尊重だと言われています。人の命は、地球よりも重いなど言われ、かけがいの無い命、比べることの出来ない命、このような事を言う背景には「天上天下唯我独尊」と言った仏教の精神が感じられます。

 人の命より神の教えを守る宗教
 イスラム教やキリスト教では、神と人間との契約が教義として大切にされています。神との約束を守ることで、来世が保証されるのです。一人の命よりも、神との約束の方が大事とします。異教徒を殺し、神に忠誠を貫く方が、来世は幸福がもたらされると考え、自爆テロなども、現に行われているのです。

 仏教は、契約する神を、そもそも最初から立てません。神を守る為の聖戦は、イスラム教やキリスト教には存在しますが、仏教には、聖戦は存在しません。これは、良いことだと思いますが、過去の時代を見ると、悲しい歴史も存在します。7世紀にイスラム教が、西南アジアに起こり、イスラム教徒がインドへ侵入してきました。多くの仏教寺院は破壊され、仏教徒の僧侶は、ことごとく殺されました。インドの仏跡は、ほとんどイスラム教徒によって破壊されてしまいました。インドにあった経典等もほとんど失われました。インドを逃げた僧侶や諸外国に伝わった仏教の経典によって仏教が残ったのです。

 平和の宗教「仏教」
 創造主の神からの解放が、近代に起こりました。しかし、人間至上主義になると、他の動植物を顧みないことになり、地球の環境破壊が、新たに生まれてきました。人間だけ物質的豊かさを追い求めるのではなく、他の生き物と調和して生きる倫理観が必要になってきました。まさに、仏教の教えは、他の動植物とともに生きる「縁起」の思想です。そして聖戦を認めない、「和」を大切にする仏教が、今後ますます、重要になってくると思うのです。

 仏教の分からない日本人
 先日、「観光大国日本をめざそう!」というテレビ番組がありました。日本は戦後、家電製品・車・カメラなどの分野での海外輸出が多く、貿易黒字大国でありました。ところが、お隣の韓国・中国をはじめ諸外国でも安い家電製品が作られるようになり、輸出が少なくなってきました。それに加えて、福島原発事故により日本の原子力発電が出来なくなり、火力発電が増えました。その燃料の石油・石炭の輸入が大幅に増え、このままでいくと、輸出より輸入の方が多くなります。外貨が無くなり貿易赤字国になる予想が示されていました。そこで、外貨を獲得するために、外国人に日本に来てもらって外貨を日本に落としてもらう「観光」に力を入れようという番組でした。その番組の中で、日本人は、日本の良さを知らないと言われていました。 特に、日本の文化は、日本の仏教土壌に根ざした文化であり、他の国とは異なるものが多くあります。座禅から発生している瞑想や「道」の付くスポーツ。華道・茶道・香道・雅楽など色々あります。外国人とって興味があり、体験学習も人気があるようです。日本にいる人はこのことが分かりません。外国に行って初めて日本の良さが分かることもあるようです。この番組を見ていて思ったことは、「仏教」そのものを一番忘れているのが、日本人です。仏教をもっと違った視点から見直して見て欲しいと思います。そこに本当の伝統の良さ、先人の願いも見えてくると思います。

悪人の自覚と宗教心

 お寺の近くに小学校があります。もちろん私が出た母校であり、私の子供もお世話になりました。その学校が開校60周年になりました。周年行事として、必ず教育実践発表会が行われます。私は、いまだに小学校の関わりがあるので、見に行ってきました。発表会は、1時間目と2時間目に授業があり、その後意見交換会となっていました。授業は複数あり、興味のある授業を参観することになっています。私は、法務もあるので、すべては参観することができなかったので、普段から興味のあった道徳の授業だけを参観させていただきました。

 51組の道徳「イルカの海を守ろう」という授業でした。

オーストラリアのインド洋に面した西オーストラリア州のモンキーマイヤという浜辺は、生き物の宝庫でイルカ達が浜辺に多くやってきます。野生のイルカと触れ合うことが出来るということで年間10万人を超える人々が集まります。レンジャーと言ってイルカの生態を守る仕事する人も活躍しています。しかし、観光客が増えるにつれ、困った問題も多くなりました。キャンピングカーをはじめ、車が列をなし、排気ガスや騒音がひどくなりました。また、ゴミを置いて行く人が増え、イルカが、ビニール等を飲み込んでしまうので、生命にも関わるのです。

 イルカの海を守ることは、美しい地球を守っていくことにも通じるのです。

 このようなお話を聞いて、どう思うかということで授業が始められました。

子供達は、①ゴミを出さない。②車に乗らない。排気ガスの出ない電気自動車に乗る。歩くといった意見。

それを受けて、①共生(きょうせい)、自然とともに生きる事の大切さ。②車はすべてダメと言うことでなく、利便性を考えて上手に利用する。③失われた自然は簡単には元には戻らない。というまとめ。

人と自然と仲良く付き合って行きましょう!ということで授業が終わりました。小学校5年生の道徳の時間としては、これで良いのかも知れません。ですから、先生の教え方に問題があるなど言う気は、毛頭ありません。ただ、親鸞聖人のみ教えを聞いてきた者にとって、何か物足りない気がしました。お寺に帰って、この悶々した気持ちは何だろうかと考えてみました。それは、冒頭の言葉のように、「悪人の自覚と宗教心」がないことではないだろうかと思うようになりました。

①ゴミを出さない。ある程度の方は、みんな分かっていると思います。分かっているけれど、やってしまう人間の弱さ、問題。ここがはっきりしなくてはならないと思います。極端な例かもしれませんが、殺人はいけないと言っている人間だけが、同種の人を殺します。ハゲタカは、他の動物の死んだ肉を食べますが、ハゲタカの肉は、餓死しても食べることは、出来ないようになっているという話をきたことがあります。(種の保存の法則でしょうか)

人間だけが、何でもします。人間の肉も食べることもできますし、多くの人間の殺戮もします。

話を戻します。近くに公園があります。その公園の遊具を入れ替えるときに、住民のご意見を聞かせて欲しいということで、「公園再整備の会」なるものが出来何回か参加したことがありました。そこでビックリしたのが、新しい公園の遊具を入れ替えた後には、ゴミ箱を撤去するという事でした。
 昼間、すがすがしい季節、公園でお弁当などを食べたら楽しいです。しかし、その時出たゴミは、必ず家庭に持ち帰ってもらう。原則はそれで良いと思います。しかし、すぐに家庭に帰らない人もいますので、ゴミ箱があれば便利だと思いました。ところが、公園管理課の方のお話では、ゴミ箱を設置すれば、管理責任が発生する。今日では、家庭のゴミを自家用車で大量に、公園に持ってきて捨てていく人が多いのだそうです。その量の多さで、公園管理課では対応出来ないとのことでした。一部の心ない人の為に、ゴミ箱が撤去される。ゴミ箱がないから、一部の心ない人が、公園にゴミを捨てていく。悪循環で公園が汚れていく話を思い出しました。

ボーイスカウトで公園のゴミ拾いをしたとき、その量の多さにビックリしたことがありました。それとともに、ゴミ拾いをした子供が、「ゴミを捨てたらみんなが迷惑する。自分一人だけやってもかまわないと思う事が問題だな」と言った言葉を思い出します。みんなに迷惑をかけていると思うことが、ゴミを出さないでおこうと思う抑止力になっている気がします。迷惑、お世話になっている、自然を汚しているのは、人間なんだ。偉そうに上から目線で地球を守ろうと言っているのはおこがましいのではないでしょうか?ゴメンね!ゴメンね!と痛みを持ち続けて、自然を破壊している自覚に立つことが、唯一、自然を守ることになるような気がしました。

人間は、地球のがん細胞です。人間だけが、増殖して、他の生き物を絶滅に追い込んでいます。しかし、私は、人間です。地球から見れば、一番やっかいな生き物です。それが、私です。

        (2012.11.13近くの小学校の教育実践発表会に出会って)


オウム真理教特別手配、髙橋克也容疑者が逮捕されて

6月15日に、地下鉄サリン事件等で19人の特別手配のオウム真理教の最後の1人、髙橋克也容疑者が逮捕された。17年前に起こした数々の凶悪犯罪に一応、一つの区切りがついたことになる。

しかし、このような凶悪事件を起こしたカルト教団、ひとの命を簡単に奪うことを是とした教義、宗教の問題は、なんら解決していないと思う。

地下鉄サリン事件が起こってから、子供を持つ親は、子供が本州の大学に行く時、仕送りが大変ゆえ、4年間で卒業して欲しいという懇願に加えて、「変な宗教に入るな!」ということが加わった。多くの親は、自分の子供に宗教の危険性を教えた。しかし「変な宗教」とはどのような宗教を指すのだろうか?宗教を勧誘する時、「私は、変な宗教」ですよと言って勧誘するだろうか?「変な宗教」だけでは、何がなんだかさっぱり分からない。

広辞苑で「宗教」をみると、神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌(きんき)された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教。特定の民族が信仰する民族宗教。世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教など。多種多様。多くは教祖・経典・教義・典礼などを何らかの形でもつ。

この説明では、多くの人は、分からないと思う。また、納得できないだろう。それぐらい、「宗教」を定義することが、難しいことである。

また、カルト教団という言葉も耳にすることがある。これも定義することが難しい。

1.精神の不安定化

2.法外な金銭的要求

3.住み慣れた生活環境からの断絶

4.肉体的保全の損傷(性的関係の強要)

5.反社会的行動(絶対的な道徳観)

6.指導者に対する崇拝

1~6のような特徴があり、洗脳され、他の人の話が聞けなくなる傾向がある。

 私にとって「宗教」とは、心の拠り所(支え)であり、生き方そのものであるような気がする。「変な宗教に入るな!」ではなく、自分が喜んでいる(信じている)宗教を子供に伝えることが大切ではないかと思う。宗教を否定するのではなく、わが身が喜んでいる(信じている)宗教を伝えることが、大切なのである。

現代人の多くは、宗教を否定する方向に向かっているので、現代の闇というか、病んでいる精神の救いにはならないのである。

各大学で、カルト宗教の勧誘が盛んであることを聞いた。多くの学生は、受験戦争をくぐって難関の大学に合格した。将来の目的を決めて大学を選んだ学生は問題ないが、大学受験を目的にした学生は、入学同時に、目標を失う。「人は、パンのみに生きるにはあらず」の聖書の言葉ではないが、経済主義だけで人生はおくれない。生きる方向性を失った学生に、魔の手が伸びる。生き方について考えよう!自己啓発セミナーなど、宗教という名を隠して忍び寄る。

オウム真理教のようなカルト教団への入信者は、増え続けている傾向にある。何ら問題は、解決していないどころか、悪化している。

本来、宗教心、信仰心は、良いことであり、大切な事である。それを、ほっておくから、空っぽの心に、新興宗教やカルト宗教が入り込む。

福島第一原子力発電所事故の際、放射能があふれ出た時、このような話を聞いた。放射性ヨウ素(131I)という放射線は、甲状腺にたまる。吸収される前に、ヨウ素剤を飲むと良い。ヨウ素が体内にあると、放射性ヨウ素(131I)という放射線が取り込まれなくなるということだ。

宗教心も同じだと思った。心を空っぽにしていると、色々なものが取り込まれる。普段から、生き方を考えて宗教的なことや心の問題に関心を持つことだ。

アメリカインディアンの教えがある。(作:ドロシー・ロー・ノルト 加藤諦三著)その中に、「思いやりのある中で育った子は信仰心を持ちます」というのがある。

良い意味で、宗教心を養う人生、環境にしたいものだ。

(容疑者逮捕を受けて 6/26)



2012年年頭のご挨拶

明けましておめでとうございます。昨年は、3月11日に東日本大震災がありました。約2万人の方が死亡・行方不明になりました。福島第一原発事故もあり、過去の事とかたづけられない、色々な問題を残しております。今年はこのような事実を踏まえて、歩んでまいりたいと思います。ご縁のある方、本年も、よろしくお願いします。

 さて、昨年の漢字大賞(毎年12月12日に発表)は、「絆」という字が選ばれました。この「絆」に関しては、この「一言法話」でも何回も取り上げてきました。そこで今回は、「絆」の漢字の語源から、この字に託されている意味をもう一度、考えてみたいと思います。

 諸橋轍次著大漢和辞典8巻1031頁によりますと、1.きずなイ,馬の足をつなぐひも、ロ,物をつなぎとめるもの 2.つなぐ、ほだす、つなぎとどめる。と言った意味が書いてありました。

「きずな」とは、一回深まれば、長く続くものではないようです。この字が漢字大賞に選ばれた時に、テレビに出ていた解説者の方は、「束縛」の意味もあり、「絆」は良い意味だけではないと言っていました。

 しかし、私は、縛り直す、つなぎとどめると言った意味があることが重要な気が致します。人間の「つながり」「絆」は、一回きりでは深まりません。ことある度に、結び合うことが大切なのです。人と人とが結び会うこととは、何でしょうか?私は、冠婚葬祭であると思います。喜怒哀楽が冠婚葬祭には含まれております。その時、人と人とが、喜怒哀楽を共有するのだと思います。人の悲しみを我が悲しみとする。人の喜びを我が喜びとする。ここに共有する世界があるのだと思います。

 色々な出来事を、自分に関係あるものと見ることが大切だと思います。関係ないと切り捨てていくところには、共有する世界はありません。

 大震災を通して、日本人が学んだことは、つながりがあること。自分にとって、関係ない事はない。ということだったのでしょう。日本の起こした原発事故が、大気汚染や海流汚染で世界中の方に迷惑をかけている事実を認識しなければなりません。

 仏教の教えてくれる「縁起」の考え方を、もう一度大切にしたいものです。

すぐ「関係ない」と言う、多く若者を育ててきた私達大人も、責任の痛みを感じなければなりません。仏法のご縁が、今年は少しでも深まりますように!みなさんと歩んでまいりたいと思います。よろしくお願いします。合掌

(2012.1.6)



京都本山御正当報恩講に参拝して

宗祖親鸞聖人御正当報恩講に、京都に行ってきました。今年は750回忌御遠忌ということで、ご門徒を引率して5月に団参しました。しかし、僧侶として内陣には出仕しなかったので、11月21日の最初のお参り(初逮夜)に、坊守と本山京都に行き、内陣出仕いたしました。約2時間の長い勤行でした。

 5月の御遠忌の時は、席が指定でイス席でしたが、今回は自由席、畳の上に座る形でした。東日本大震災の為、3月の御遠忌は中止になりました。その為、中止になった教区の団参が組まれ、多くの参拝者が訪れるようになったようです。しかし、団参の旅行の時間配分が悪いのか、勤行が済むと、みんなザワザワ立ち上がり、本堂から退出します。ご門首(東本願寺住職)が、まだ内陣から退出しない前から参詣者が出ていくのです。況んや、その後の法話など聞く人は、まばらでした。本堂のお勤めは満堂で、法話の時は100人いるかいないかの人数でした。

 聞法が大切であるとか、お念仏が聞こえないとか言われています。せっかくの本山にお参りする企画を立てた住職たちが、聞法を入れた本山参拝を企画しなければと思った次第です。本山がとクレームをつける住職が多い中、各住職の姿勢が一番問われていると思いました。

映画館で映画が終わった後、感動し配役などの字幕を見て、余韻にひたる、その余裕が必要な気がします。それだけ今回の750回忌御遠忌は、感動がなかった仏事にしてしまったのでしょうか?  

                            (2011.11.21 本山参拝して)



「絆」-幸せはどこに?-

 お寺の住職の他に、社会で生きていると、色々な役職をお願いされる。大願寺は、青少年活動の一環として、前住職の頃からボーイスカウト運動をしている。その関係もあって、前住職がしていた少年補導員を、引き継いでやっている。たいしたお役にもたっていないと思うが、この地域の班長と東区の会計監査もさせていただいている。

 1011日に市内のホテルにおいて、「安全・安心なまちづくりの日」道民の集いがあり、駆り出された。主催は、北海道犯罪のない安全で安心な地域づくり推進会議。会長は、高橋はるみ知事。当日は、欠席。副知事が代理出席。北海道警察が主になって行っている事業だ。しかし、会長が、欠席の集まりだ。これだけで、この会の熱意や意義が、分かるというものだ。企画・運営している方は申し訳ないが、おざなり会というか消化試合のような会のような気がする。しかし、地道に日頃地域活動をしている防犯団体の顕彰表彰など、それなりの意義も感じられる。

 講演は、講師に、遠軽にある社会福祉法人 北海道家庭学校長 加藤正男氏、映画にもなった初代校長留岡幸助氏の話を中心に、家庭学校の紹介をされた。少年非行の原因は、家庭環境に問題があることを強く訴えておられた。しかし、講演時間が短く、話す内容が多く、テーマが絞りきれず、映像の説明、資料を読むだけの講演だった。

 講演の後に、ミニオペラがあった。2時間の集いに、オープニングセレモニーとして、高校生アカペラグループの発表があり、式典セレモニーがある。その後表彰式があり、表彰された団体の活動報告があり、加えて講演、ミニオペラである。いささか、盛りだくさん過ぎで、消化不良をおこす。やっていることは悪くはないが、もっと一つ一つを味合うことが大切な気がした。途中で帰る人があまりにも多かったことが、参加者の気持ちを表しているような気がする。別に、この会の評論をしたいわけでない。長々書いてしまった。

ミニオペラのことを言いたかったのだ。

 ミニオペラは、出演が二期会マミーシンガーズ。このグループは、日本最大の声楽団体「公益財団法人東京二期会」の会員で構成された会で、オペラ歌手であると同時に全員が子供を持つ母親。子ども達への参加型コンサートを中心にミュージカルからオペラ、オリジナル音楽劇まで幅広く取り組み、生の音を通して、多くの人々に夢と感動を与えているとのこと。

 ストーリーは、猫と一人暮らしをしている高齢女性が主人公。息子夫婦とは別居。息子を名乗る人にだまされ、振込サギに遭って、老後の年金も取られてしまっている。主人を亡くし淋しい生活をおくっている。そんな中で、近くのスーパーで食料品を万引きして店主に見つかってしまう。万引きも犯罪ということで、通報され警察に身柄を拘束される。

身元引受人として、息子夫婦に連絡が行き、釈放となる。息子夫婦も母親と一緒に、スーパーの店主に謝りに行く。息子夫婦は、母親が万引きをしたことにショックを受け、母親の一人暮らしの寂しさを理解し、小さな家だが、孫もいる。一緒に暮らそうと提案する。

嫁さんも賛同するが、しかし、主人公の高齢女性は、地域の人たちと一緒に暮らしたいので、息子夫婦とは同居しないで生きていく。地域のみなさんよろしく、ということでこのミニオペラは終わる。一応、ハッピイーエンドということらしい。

見ている私は、釈然といない。これが、ハッピイーエンドということなのだろうか?二期会のミニオペラは、音楽的には素晴らしいものがあった。現代の家庭問題をミニオペラにして考えさせる企画も見ている者を飽きさせない。

でも、終わり方に問題がある。一人暮らしの寂しさを理解した息子夫婦が、母親と同居することを提案したのに、母親が断っている。嫁と姑が一緒に暮らすことは大変なこと。それにも関わらず、嫁さんも賛同してくれたならば、同居して欲しいと思った。現代社会では、嫁と姑問題があり、同居できない事が多い。そういう事情を察するのであれば「今まで母親のことを気遣わなかった。お母さんに会いに、これからは、ちょくちょく孫を連れて遊びに来るよ!」程度の表現にとどめて、あとは、「地域の方、よろしく!」であれば、納得できる。息子夫婦に、同居の提案をさせておいて、断る。おかしい。

お年寄りは、若い人たちに、伝統や宗教心を教え、伝える義務がある。主人を亡くしたのであれば、仏壇等を置き、孫達と一緒にお勤めもしなければならない。年忌や月参りなどは、しているのだろうか?そのような宗教行事を教えないで、家族の絆が深まるのだろうか?今、親から子へ、子から孫へと引き継ぐものが無いのが問題だと思う。孫と祖母が触れ合ったり、時にはけんかすることで、本当の絆は深まると思う。嫁・姑バトルももちろん大切である。きれい事では、家族の絆は深まらない。

このようなミニオペラを見て、めでたし、めでたいと思うこと自体、「家庭、絆を考える」時、おかしい気がする。そして、これが「安全・安心なまちづくりの日」を推進する場所で演じられていること自体、私には、心寒い思いをする。

(二期会のミニオペラを見て 2011.11.18)

戦後の終焉

荒れ野からの復興

2011年3月11日午後2時46分に東日本大地震が起こった。広範囲に津波が押し寄せ満中陰にあたる49日が近くなった4月25日現在、死者14,358人、行方不明11,889人という大惨事となった。

 津波や火災で、変わり果てた地域の映像が、テレビに放映される度に、昭和3年生まれの母は、第二次世界大戦で空襲にあった荒野を思い出すと言った。母は、戦中時に、京都の女学校に通っていた。しかし、戦争がひどくなり、勉強どころではなく、汽車を乗り継いで、北海道に戻ってきた。(その後間もなく、父とお見合い結婚をしている)

京都から北海道に帰る時、汽車の窓から見えた軍需工場のあった福井市、富山市、新潟市の光景と、今回の被災地と、重なりあったというのだ。

 今回の大震災は、M9.0と規模が大きく、1ヶ月半が過ぎようと言うのに、まだ原発事故の影響で、収束したと言える状況ではない。何か、「一口法話」を書かなければならないと思ったが、考えがまとまらずにいた。そのような中で、京都で3月26日に「大谷スカウト研修会」があり、小川一乗先生のお話を聞いた。今回の大震災の事と真宗に生きるものとしての捉え方も話され、大変意義深いものであった。先生から教示を受けて、「荒れ野からの復興」を中心に思ったことを書いてみようと思う。

 第二次世界大戦敗戦と今回の大地震は、前述したように、日本が荒れ野に帰したことに加え、原子力爆弾と原子力発電所爆発と言う被爆・被曝ということでも関係している。これは、歴史の転換期であるような気がする。今までの価値観を変えなければならない節目に来ていると思う。

敗戦後の価値観

 まず、第二次世界大戦敗戦は、どのような価値観の転換があったか考えてみたいと思う。それは、戦前にあった価値観の変更にあった。日本は、精神文化を大切にしてきた。それが、アメリカを中心とした物量文化に負けたという意識が生まれた。どんなに精神が強くても、物量にはかなわないという意識から、幸せは、「もの豊かさ」からということになった。経済社会を中心にして、欧米に追いつけ追い越せの経済成長を進めてきた。利便性を追求して、人の流れは、地方から都会へと動いた。当然家族はバラバラになり、都会は若い核家族、地方は年寄りの核家族となった。

 また、戦前の精神文化の依り処として新人神(あらひとかみ)天皇による国家神道が、あった。その天皇が人間宣言をして国民の象徴となった。このことは、大変良かったことだと思うが、その反動で宗教自体を軽視して、戦後の教育は、宗教教育というものをおろそかにしてきた。その結果、精神的な支えを無くした人間が育ってしまった。(エコノミック・アニマル)

震災前の日本の状況

 東日本大震災の起こる前の日本は、戦後歩んできた問題点がいろいろな形で、噴き出していた。物の豊かさを追求していくと、「これで良い」という限界がないこと。物の豊かさだけで、「幸せ」感が生まれないこと。これに加えて、人がもの豊かさを追求していくと、地球が保たなくなってきた。地球の温暖化や環境破壊の問題である。地球の氷が融けだし、陸地が減ってきた。クリーンエネルギーとよばれている電気を供給するための原子力発電。現代は、電気が供給より需要の方が多くなりつつある。この他にも、様々な環境破壊問題を引き起こしている。

 また、人間関係を見ると、利便性を追求して核家族になったことで、戦後すぐは都会では若い核家族であった家族が、今日では老人家族となってしまった。核家族が定着して、息子や孫とは一緒に住めない。生涯未婚者も増えている。親が亡くなったり、配偶者が亡くなると、その結果すぐに孤独社会、無縁社会となる。近所付き合いもなくなり、地域連帯も消えた。孤独死、無縁死が、年間三万二千人以上いると言われている。高齢者の所在不明も問題になっている。

心の拠り所の宗教が無くなり、非常に精神が病む人間が増えてきている。人間は、本来宗教心が必要だと思う。ですから、不安から都会では、戦後生まれた新興宗教に入信する人も多い。また、人が法を説いた既存宗教に依らず、人そのものに依ったカリスマ宗教が次々に生まれた。その教祖が亡くなると、カリスマ宗教は衰退しますが、人の流れは、次に似たような教祖のカリスマ宗教に鞍替えをしているのが現状だ。(乗り換え)

既存の宗教教団は、残念ながら大都会に宗教施設が少なく、教化する方法が乏しいのが現状だ。また、既存宗教の多くは、世襲制にどっぷりあぐらをかいて、葬式・法事だけの儀式執行だけの現状維持に陥り、民衆の教化することを忘れている傾向にある。

震災後の日本の方向性

このような中で、東日本大震災が起こった。起こった瞬間から、コンビニ・ストアーも流され、多くの救援を待たなければならない生活が始まった。公共広告機構の広告も、絆、思いやり、あいさつなどのコマシャールが流れ出した。お金を持っていても、人間のつながりがなければ、どうしようもない事実が突きつけられた。

ここで、私達は、考え方を変えなくてはならない。戦後65年、物質文明・資本主義の一辺倒だった考えから脱却しなくてはならないと思う。物質文明・資本主義がすべていけないというのではない。精神文化も大切に、宗教心も大切に、仏教の「中道」の考え方が大切なのだ。一方に偏ってはいけないのだ。別な見方で言えば「少欲知足」(しょうよくちそく)の考え方だ。人は、欲はなくならない。少ない欲で満足する考えだ。しかし、これも人間には難しいと宗祖親鸞聖人は教えてくれる。煩悩具足の凡夫は、少欲知足が出来るわけがない。近づくとすれば、「小欲知足」が出来ないと、つねに自覚しつづける、如来との歩みとの中で実現される。これが、如来より与えられた念仏生活ということになるのであろう。この部分の説明理解は、多少難解になるので、次回以降に書きたいと思う。

物質文明・資本主義だけで、「幸せ」のものの見方を考えず、戦後失ってきた、宗教心や家族愛や親戚の付き合い、地域の連帯や郷土意識など、貨幣経済から離れたものに、価値観をもち、物質文化と精神文化の両方を大切にする「中道」を歩む生き方が、今後求められていると思う。

(2011.5.6 東日本大震災に遭ってみて)


「多思知恩」

 私の三男が通っている高校でPTA会長をさせてもらっている。会長という名が付けば、必ずしなければならないのが、卒業式の祝辞である。三男も卒業。私にとっても最後の卒業式の挨拶になる。色々何を話そうかと考えるが、まとまらない。家族からのアドバイスもあり、平易な言葉で話し、一つだけ四文字熟語で、卒業生に贈る言葉を入れたと方が良いということになった。

 そこで思い出したのが、私の亡き父が、いつも通夜説教などで話していた「多思知恩」という言葉だ。これを中心に卒業生に、贐の言葉として挨拶をしました。

「思いを多くして恩を知る」というお言葉。思いとは、思いやりの心。思慮ある心。相手のことを気遣う気持ちだ。恩とは、感謝の心。これが人間らしさであり、人間にとって一番大切な事であると、鳩摩羅什は、言っている。鳩摩羅什は、現在の中国の西域の国、亀慈国の出身の訳経僧。(三百四十四年~四百十三年)

訳経僧とは、インドで生まれた仏教の経典を、中国の漢字のお経にする僧侶のことだ。鳩摩羅什は、翻訳の天才で、現代私達がお勤めしている「阿弥陀経」「法華経」をはじめ大乗経典三百巻を翻訳している。中国の王は、鳩摩羅什を欲しくて、亀慈国を滅ぼす。また、鳩摩羅什の優秀な子孫が欲しいと、僧侶にもかかわらず娶らされ、犯戒させる。 鳩摩羅什が、国を滅ぼされて涼州に連れて行かれた頃、西域から馬が中国に伝わる。中国は、権力で欲しいものがあると国を滅ぼしてまで、得ようとする。鳩摩羅什は、自分と馬と同じく見た。最高の馬は、駿馬と呼ばれ、鞭をあてなくても主人の意図を察して走る。普通の馬は、鞭をあてて走る。駄馬は、鞭をあてても走らない。この馬は殺されて桜肉となる。馬は、走りが命。人は、多思知恩である。これが仏教の心である。無縁でも仏縁が得られる人は、最高である。しかし、一般の人は、有縁の死などによって諸行無常を知り、仏縁を得る。どうしようもない人は、有縁の死に出会っても仏縁が深まらない。馬は桜肉になるが、人はいかに?

 上記の文は、彼岸にあわせて寺報に書いた文である。祝辞は、「多思知恩」ということを忘れずに、人間らしい人生を歩んでもらいたいと話させてもらった。三男に聞いてみると、原稿を見ないで話したので、いつものように「カミカミ」おじさんだったようだ。三男の友達は、原稿を見ないでの挨拶、それなりに評価してくれた。

 過日、三年生の保護者で、先生の謝恩会が開かれた。280名ぐらいいる学年の謝恩会に担任の先生を抜かして集まった人数が、15名程度だった。何か愕然とした。人それぞれ色々な考え方がある。先生に対する恩、謝恩会などしなくても良いという考え方もある。また、東北関東大震災の折り、謝恩会どころではないという人もいると思う。それにしても、全体に呼び掛けて、十数名の謝恩会とは、寂しすぎる。高校のレベル、保護者の教育に関する問題意識など色々考慮しても寂しすぎる。卒業する生徒だけでなく、親や保護者も「多思知恩」の言葉をかみしめなければならない。

(2011年318日、高校卒業の謝恩会に行った日)

2011年 年頭の挨拶

新年、明けましておめでとうございます。たった一日の違いで、一年違う。当たり前のことが、当たり前でないと気が付く、瞬間でもあります。若い時は、年が明ける事が、なぜめでたいか、疑問をもった事が思い出されます。生かされている事の不思議、有り難さを感じた人が、まだ生かされて、一年を越す喜びを、「おめでとう」と表現したような気がします。ですから、その年に家族が亡くなった家では、年を越す新年のお祝いの言葉は、言わなかった(喪中)。そのような伝統があったような気がします。

 昨年の一年間の漢字一文字の流行語は、「暑」(あつい)という字が選ばれました。確かに、2010年の夏は、暑い日が続きました。バンクバーオリンピック、サッカーのワールドカップなどスポーツは、熱い戦いがみられました。しかし、就職戦線は冷え込み、就職率は、よくないようです。円相場は、一ドル80円台の円高で、経済情勢は、あいかわらず、よくないようです。

一昨年頃から、NHKを中心に「孤独死」を「無縁死」と名付けて、核家族から生まれる、たった一人で誰にも看取られることない「死」が、取り上げられるようになりました。そして、昨年は、足立区の111歳の存在していない高齢者のミイラ化した遺体問題から、多分生きてはいないのに、除籍されていない高齢者がたくさんいることが判明しました。音信不通なのに年金だけはもらっている人もあることもあるようです。つながりがなくなってきている社会での色々な問題が、報道等で取り上げられることが多くなりました。恒例大晦日「紅白歌合戦」にもテーマがあるようで、「歌で、つなごう」となっておりました。「トイレの神様」をはじめ、家族を考える歌、つながりを大切にしようというメッセージが込められていました。NHKの公共放送で、つながりをアピールしなければならないほど、つながりが希薄になった社会になったことが伺えます。

「孤独死」「無縁死」は、急になるのではありません。普段からのつながりの無さから生まれてきます。結婚しない「生涯未婚」が急増しています。ファーミリーレストランなどから「おひとりさま」という言葉も市民権を獲得しました。働き盛りの「ひきこもり」「巣ごもり」という現象も起こってきました。

常日頃から、つながりを大切にする意識を持ち合わせていかなくてはなりません。家族、親戚とのつながりを持てない人は、学生時代の仲間、趣味の仲間、町内会、老人クラブなど血縁と異なった「つながり」でも、良いのです。そのようなつながりから、家族のいない方は「後見人」を見つけて欲しいものです。

「おっそ分け」ということが、昔、私の周りには、多くありました。地方の親戚などから送られて来た珍しい品物を、近所の方に配りました。また、近所の方からも頂きました。
 コンビニがなかった頃は、隣近所から、みそ、醤油、お米などをもらった事も多くありました。みんなが、助け合っていかないと生きていかれなかったのです。お互い「分け与えて」生きていくところに、「つながり」の原点があるような気が致します。

 今年一年、穏やかな年でありますように、念じ上げます。合掌(2011年年の初めに)



老人が危ない

 標題から想像すると、老人が交通事故に遭ったり、振り込めサギに遭う話題かと思われるかもしれない。しかし、被害者の話ではなく、加害者としての話だ。

 お寺でボーイスカウトを育成している関係上、先代の父の代から、東区の青少年補導員を受けている。青少年社会教育は、未来ある人材育成には欠かすことのできないことであり、寺院存亡にも深い関係があると思っている。

 先日、青少年補導員関係で、出席のお願いがあり、北海道警察犯罪脆弱者(ぜいじゃく)対策研究委員会主催のシンポジウムに参加しました。

 青少年犯罪のきっかけは、夜の無断外出であり、その後万引きなどの犯罪行為に移っていく。昔から「万引き」は、青少年犯罪の代表であった。しかし、そこに異変がおきているのだ。平成17年までは、確かに未成年が、万引き犯罪のトップであった。しかし、その後は、65才以上の高齢者が、万引き犯罪のトップになってしまった。未成年の万引きの原因は、①好奇心、②ゲーム感覚のスリルを味合う、③お金がないのに欲しいものがあり、その欲求が抑えられなくなったなどにある。しかし、高齢者の万引きの原因は、孤独にある。万引きをする高齢者の55%が家族との付き合いがない。また、社会とのつながりが薄い。社会とのつながりが、規範意識と直結しているのだ。

 高齢者の社会のつながりを補う組織として、老人クラブがある。札幌市の「老人クラブ」届け出最盛期には、630ぐらいあった老人クラブは、現在467つで、参加人数は、3万829人と最盛期の75%まで落ち込んでいる。札幌市の高齢者が増えてきているのに、加入率は下がっている。「老人」という言葉に拒否反応をいだいているのだろうか?いつまでも現役と思っていることが、老醜だ。若者の仕事を奪うのも問題だ。

 高齢者の方は、社会奉仕や町内会のお世話、そしてお寺参りを通じて、宗教儀式の相続、社会規範、倫理観の維持などに努めなくてはならないと思う。

 昨今、家族葬や直送が増えた背景に、戦後の年寄りが増えたことも関係しているように思われる。戦前の年寄りは、教育の影響もあったのであろう。家族、親戚、周り近所を大切し、優先してきた。戦後の年寄りは、まず自分を中心に考える。どちらかというと自己中心主義の傾向がある。核家族を「よし」としてきた。一人ぼっちであり、守るものがなく、失うものが何もない人が増えている。宗教心もなく、相続するものもない。社会とのつながりも希薄になっている。

 これから、ますます戦後の年寄りが増える。今まで、規範意識を護り続けた、年寄りが変わりつつある。大変な問題だ。ちょうと前までは、お寺参りもしてくれる年寄りが多くいた。これを親亀としよう。子亀、孫亀が、揺らいでも、親亀だけは、伝統を守り、ルールブックでいてくれた。今までは盤石(ばんじゃく)であった。今、戦後の親亀がぐらついている。これでは、「みな、こけた」ということになる。常識も、大いに変わっていくものなのだ。

 基調講演で話してくれた宇都宮輝夫北大大学院文学研究科教授が、言っておられました。

万引きのような犯罪を容認していくと、社会規範・秩序が崩壊していく。

 それと同じように、私は、大切な宗教儀式・行事が、無くなっていくと、人間のつながり・きずなも薄くなり、やがて崩壊していくように思われます。

 老人が危ない。お寺参りに来ない、聞法しない、老人が危ない!人間社会が危ない!

    (2010.11.24 安全・安心まちづくりシンポジウムに参加して)




老いを忘れさせる社会

 カーナビが車についたことによってテレビが見られる!

毎日、車で、月忌参りなどの法務をしている中で、本当にカーナビは便利だ。

カーナビの無い頃は、ゼンリンの住宅地図を見ながら新しい家を捜したものだ。

 夜、新しいご門徒で亡くなった家を捜す時は、いちいち車を止め、降りて住宅表示板を見ながら、家を捜し、枕経を勤めたものだ。カーナビがついてからは、住所を入力するだけで、家の前まで案内してくれる。本当に助かっている。

 カーナビが車についたことにより、ラジオ等しか聞かれなかったものが、テレビも見られるようになった。運転中は、画像を見ることが出来ない(純正でなければ、運転していても見られるそうだ。しかし、安全運転のためには、見てはいけないのだが)しかし、テレビの音声は聞けるし、止まった時はもちろん画像を見ることが出来る。

 平日の午前中、車の中でテレビ入れておくと、CM(コーマシャール)に一定の関連性があることに気が付いた。当たり前と言えば、当たり前のことなのだが、この時間帯は、働いていない方が多い。高齢者とか主婦層の方々だ。その方をターゲットにしたCMが多い。色々なCMがあるが、三大CMと言えば以下の三つだと思う。

三大コマーシャル

一番は、やはり「健康食品」だ。「健康器具」も含まれる。特に午前中は女性のお肌の維持、太らない健康器具が多い。健康食品のCMは、民放番組ならどこでも、何回でもやっている。ヒアルロン酸、皇潤、ニンニク卵黄、黒酢、青汁、ブルーベリイなど色々ある。これでもか、これでもかとCM放送されている。色々な有名人が体験発表して、効果があることを実証している。

 次に多いのは、「生命保険」のCMだ。病気があっても入れる。年齢が重ねても入れる。癌などの高額医療にも対応している。死ぬまで保証してくれる。等々のうたい文句で勧めている。

 三番目は、「かつら」のCMだ。アデランス・ニドなどの男性CMもあるが、女性向けの「かつら」のCMが多い。女性の方が平日はテレビを見ているからだろう。野際陽子さん、松坂慶子さん、萬田久子さんなどが登場して、いつまでも若々しくと、宣伝している。

老いを受け止めない社会

 「いつまでも若々しく健康で」ということは、大変良いことで、CMを批判するようなことは、毛頭ない。しかし、反面、現代社会のものの見方が、CMに反映されていると思う。それは、「老いる」ことを認めない時代でないかとも思う。「老いる」ことを受け止めない社会とも言える。

 現代は、お金や技術があれば、何でも出来る社会になってきました。出来ないことがあれば、技術力を高め、新しい科学・医学で無理矢理、出来るように努力していくこと。このことが、素晴らしい事としている。

老いを受け止めたところに仏法の世界がある

 「老」「病」「死」という人間にとって、どうにもならないことも、どうにかできるような錯覚を生み出しています。「何でも出来る時代なのだ」と錯覚します。

 ですから、実際に「老」「病」「死」がきた時、取り除くことを中心に動いている社会ですから、これらを受け入れる社会には、なっていないのです。「老いる」ことが排除されている社会です。「老いた」ものを受け入れる社会になっていません。私自身が、老いた時、居場所のない社会です。

 お釈迦さまが、四門出遊(しもんしゅつゆう)の譬え話にあるがごとく、「生」「老」「病」「死」を我が問題とした時、仏法に遇(あ)えるのです。

 ここが明らかにならないから、聞法(お寺参り)の縁が結べないと思う。「老い」を取り除く発想から、受け入れていく発想が求められている。

(最近のCMをみて感じたこと 2010.10.20)

煩わす?
暑くなってきた昨今の夏
 
今年は観測史上初めての暑い夏となった。九月に入っても残暑が厳しく、北海道とは思われない気候。 地球がおかしくなってきた、温暖化になっているとテレビや新聞等で報道されてきましたが、正直に言うと人ごとに見ていた。しかし、このような異常な暑さに見舞われ、実感している。また円高も改善されず、一昨年の十月より続いている経済不況の嵐は、改善されない状態が続いている。今年、大卒予定者の就職も決まらない人が多いそうだ。
一喜一憂しない不動の心
 
一年前の今頃は、民主党が総選挙に勝ち、政権交代でした。北海道初の鳩山由紀夫首相が誕生し、、大いに期待しました。しかし、一年後の今、既に鳩山由紀夫氏は退陣してしまった。民主党の代表選挙が行われ、菅さんが再び代表となった。多くの国民の思っていることと国会の政治家(永田町の論理と言われております)と何か異なっているような気もする。しかし、私たち国民は、マスコミの報道や評論家の意見に一喜一憂しないで長い目で、政治を見ていきたいものだ。
つかこうへいさんの遺書
 
さて、七月十日に劇作家つかこうへいさんが亡くなった。つかこうへいさんには、「蒲田行進曲」などの代表作がある。また、多くの女優を発掘し、世に送り出す方としても有名で、演劇界ではなくてはならない存在でもある。その方が生前の書かれた遺書が話題になりました。つかこうへいさんは、信仰心がなく、戒名も墓もいらない。通夜、葬儀、お別れ会もしないでほしい。遺骨は、対馬海峡に散骨してもらいたいというものでした。多くの無宗教の方は、このようなことを言います。加えて、恥じの多い人生であったことを言い、先に逝くものは、後に残る人を煩わせてはならないと思っていると書いている。人それぞれ色々な考え方があり、私は、即断で良い悪いとは言いません。しかし、現代の人は、自分の生き方が定まっていない人が大半です。ですから有名人の言った生き方考え方を、鵜呑みにしてしまうことが多いのだ。
凡夫の自覚
 
どうか親鸞聖人のような考え方をしてほしいものだ。私たち人間は、生きていくことは、多くの方に迷惑をかけ、生きている。みんな恥じの多い人生だ。しかし、先立つものは、後に残る人を煩わせてはならないのではなく、きちんと人生の道筋を教えていかなくてはならないと、思う。凡夫の自覚(自分は愚かで、みんなに迷惑をかけどうしな存在、欲や妬みが消えない存在)が本当に分かったならば、人を煩わせてはいけないとは言わないと思います。多くの現代人は、子孫に迷惑をかけたくないということを言う人が、非常に多い。
迷惑かけどうしの人生
 
迷惑をかけないのが、良い生き方ではなく、迷惑をかけどうしの人生に気が付き、感謝する人生を歩むことが大切だと思う。このことを教えてくれるのが、親鸞聖人が伝えてくれた真宗の教えです。先立つものは、後の人にきちんと伝えなくてはなりません。そうしないと、家族のつながりも、切れてしまいます。今は本当に、好き勝手でバラバラです。個人主義です。自分だけ良ければ良いという時代です。宗祖親鸞聖人が連続無窮で、休止しないようにと願っていることが、痛いほど分かります。お寺参りをしてくれた方が亡くなると、その家族からお寺参りする人がいなくなります。仏法相続は、本当に難しいことだ。
どうか老若男女問わず、仏縁を深めてほしい。お寺に教えを聞きに来て、お寺とのご縁を結んでほしい。(2010年秋の彼岸寺報の話)

                      
  薫習(くんじゅう)
この頃、「相続が難しい時代になった」と痛感するようになりました。預貯金や不動産の相続の話ではありません。仏法の相続の事です。仏法を相続することは、あらゆる「相続」の中でも、最も難しいことかもしれません。

仏法相続は、昔から「薫習」(くんじゅう)だと教えられてきました。お香の良い薫りは、その場にいるだけで衣服に染み込みます。また、タバコを吸っている集団の中にいるとタバコを吸わなくても衣服に臭いがつき、なかなかとれない経験をした方もいると思います。「薫習」とは、長く一緒にいることによって、身に付いたり伝わったりすることを意味しています。

「朱に交われば赤くなる」という諺もあるように、環境がその人のものの見方、価値観を左右するのです。特に若い年代であれば、周囲の人の価値観が「刷り込み」教育となって善悪の判断の基準になるのです。

仏法相続は、祖父・祖母の影響が強いと言われています。しかし、現在は、核家族化の影響で、お内仏(仏壇)の無い家が増えています。そのため、折に触れてお内仏の前に座り、手を合わせる生活とは無縁になってきています。しかし、心の渇望を覚える気持ちは昔も今も変わりません。伝統的な宗教は別に、カルト宗教などに救いを求めようとする若い世代も増えて来ております。

 紙芝居

 私自身の「薫習」にあたるものが、いま思えば、お寺の紙芝居にあったような気がします。

私のお寺では、昔日曜学校を行っていました。しかし、私が日曜学校に参加する頃には、テレビの普及に伴って、お寺に子どもが来なくなっていました。日曜学校で使っていた紙芝居がお寺に結構ありましたので、私は、小学校のお楽しみ会などの余興に、その紙芝居を披露しました。もの珍しいこともあって級友たちの受けもよく、味を占めた私は、読み方を工夫したり、紙芝居に書いていないセリフを入れたりして人気者になったものです。(今、その紙芝居は紛失してしまい大切な宝物を無くした気がします。)

 一つのおもり

 紙芝居の中で一番印象深かったのは「一つのおもり」という話でした。舞台は、バクダットのような西南アジアの町です。裕福な商人二人が、「人の幸せ」について語り合う話です。一人の商人は、人の幸せは「お金が多くあることだ」と主張します。もう一人の商人は「人と人とのご縁を大切に生きる」ことだと言い合います。そこで、二人は、「実際に試してみようじゃないか」という事になります。

お金が大切だという商人は、ある貧乏な町人の家に、たくさんの金貨をこっそり置きました。一ヶ月たって二人の商人は、様子を見に行きます。

「さぞ良い暮らしをしていることだろう」とお金をあげた商人は期待しました。ところが、町人は相変わらず貧乏な暮らしをしていました。話を町人から聞いてみると、大切なお金だから人に盗られないようにこっそり汚れた壺にしまったと言います。ところが、事情の知らない家の者がその壺を捨ててしまい、急いで探しに行ったが見つからなかったとの事です。お金をあげた商人は、それを聞いて、「今度はちゃんと隠しておくんだよ」と、さまざまな宝石を町人に与えました。そして一ヶ月後に様子を見にやって来ました。

 町人は、やはり貧乏のままでした。宝石を帽子の中に隠して置いたところ、鳶に帽子ごと持っていかれてしまったとの事です。

 「そこで今度は、私の番だ」と、そう言って、「ご縁を大切に生きる」と言った商人が、貧しい町人に一つのおもりをあげました。

「何かの役に立つことがあるかもしれない。大切にしなさい」と言って、また一ヶ月後に訪ねることにしました。

 一ヶ月後に、二人の商人は、町人を訪ねましたが、家は無くなっていました。お金をあげた商人は、「暮らして行けなくて夜逃げでもしたのでは」と言い出しました。そこへ、貧しかった町人が、見違えるような立派な服装でやってきました。びっくりした商人たちは、事の次第を尋ねました。

ひとつのおもりをもらった日の夜のことです。漁師が夜遅く訪ねて来て、「網のおもりが足りない。おもりがあれば分けて欲しい」と言いました。町人は、もらったばかりのおもりを差し出しました。翌日、再び町人の家を訪れた漁師から、「おもりを分けてもらったおかげで、いっぱい魚が捕れた。これは、そのお礼に」と、魚を一匹もらいました。

魚を食べようとすると、お腹の中から小さな宝石が一つ出てきました。町人は、それを売って、家の庭に実のなる木を植えました。

するとその木に巣を作るため、鳶がやってきました。巣をみると以前さらわれた帽子があります。「あの鳶だ」急いで登って巣作りに使われた帽子をみると、中から商人にもらったたくさんの宝石が出てきたのです。それを元手に家を買い替え、仕事も始めたところ、汚れた壺までも見つかり、大金も戻ったということでした。

お金ばかりを求めても、豊かな生活は出来ないこと、「与えられたご縁を前向きに生きること」の大切さを教えてくれる話でした。   

 四〇年以上も前の事であり、こまかいところは、うろ覚えです。日本の「わらしべ長者」に似た話ですが、私の生き方を左右する薫習となりました。

 紙芝居のあらすじは、たいていが教訓めいた話や親孝行の大切さを説く話などで、いま思えば、いわゆる「見えすいた」話かもしれません。しかし、何度も何度も聞かされることによって、良心の形成に寄与したような気がします。

 仏法相続も同じです。感謝の気持ちを形に表す行為を、合掌や称名念仏で表してきました。多くの人が、それを見習って自然に行ってきたのです。日々の暮らしの中で繰り返されるこうした習慣が次代を担う人々の心に根付き、仏法に遇うご縁をつくってきたのです。

 このような習慣が生き残り、仏法が相続されることを願ってやみません。
(2010.5.3憲法記念日、法律によってある程度、人は生き方を決める。しかし、心は宗教的なものによって、育つと思う)


バンクバー・オリンピックが終わって

皆さん、いかがお暮らしでしょうか。二月は、第二十一回冬季オリンピックがカナダ、バンクーバーで開かれました。二月十二日から二十八日(現地時間)の十七日間の熱戦に、日本選手の応援であっという間に過ぎ去った気が致します。

国別メダル順位は二十位、金なし、銀三、銅二という結果でした。私個人の感想としては、日本のウインター・スポーツの状況から考えて見て、このような成績が順当だと思います。しかし、オリンピック試合前の日本人の活躍を報道するテレビ番組では、期待を含めてもっと多くメダルが取れるような報道をしていました。少し騒ぎ過ぎのような気がします。オリンピック以外のウインター・スポーツには、ほとんど目を向けないのに、オリンピックの時だけ大騒ぎするのは、良くないと思います。スポーツ選手を助けている企業や地域の紹介もされましたが、熱しやすく冷めやすい日本人です。普段からの選手育成に心がけなければならないと思います。(パラリンピックの日本人選手が活躍したのは、障害者でも、スポーツが出来る環境が整っている豊かな国を象徴していると思います)

 札幌の中学校では、現在ほとんどスキー授業は無いようです。(二年後に、札幌の中学校でスキー授業が復活する話があるようです。大いに賛成です)お金がかかる、教える先生がいないなど様々な理由があるようです。しかし、中学生時代にスキーをしないと大人になってからスキーを滑ることは難しいようです。小学生の時、スキーが滑れても、それは子どもの体で滑れたのであって、大人の体になってからではありません。雪のある土地札幌で育ったのですから、うまい・下手はあっても、スキーにのれるだけは、して欲しいものです。昔ありましたセットスキーの安売りの店は、姿を消してしまいました。また、札幌市近郊のスキー場も利用者が少なく、リフト待ちは、ほとんどありません。スキー人口が、減っているということです。

 先人から以下のことを教えて頂いたことがあります。人間は、一人では弱いものです。努力、意志なども一人だけでは、長続きしません。手からこぼれる砂のようなものです。優勝や金メダルを取るという高い理想が、高い山の頂に立つと言うことであるならば、裾野を広げることだと教えてくれました。さらさらした砂で高い山を作るには、まさにすそ野が広くなくてはなりません。色々な仲間が切磋琢磨して高い境地に赴くものだと思います。近くにライバルがいれば、競争の原理がはたらいて、頑張りあうものです。

 スキーは、雪が降り、山のある札幌を中心とした日本海側の人間が頑張らなければと思うのですが、現在の環境では、難しいように思われます。札幌オリンピックの際に作られたボブスレーの手稲山コースやリュージュのコースも無くなりました。ジャンプ少年団も昔は色々な所にあったような気がしますが、この頃はあまり聞かれなくなりました。色々な組織を、維持・相続することは大変なことだと思います。
(少し遅くなりましたが、オリンピックという世界を感じる場を通じて日本を考えました。2010.3.25)
 

2010年年頭挨拶

2010年が明けました。本年もよろしくお願いします。昨年は、「政権交代」が流行語大賞、「新」が漢字一文字で世相を表す文字となった。この背景には、民主党による鳩山新政権の誕生ということがあるようだ。「新」とは、新しいということで、今までは良いイメージがあったような気がする。しかし、新型インフルエンザの流行のように、これからは、「新」ということに、気を付けなければならない時代になったような気がする。

「新人類」という言葉が流行った時もあった。今までの常識が通用しない人々ということが、言葉の背景にある。「ニュー・ファミリー」ということで、核家族になってきた。これに合わせてますます、家族の絆が薄くなってきた気がする。「家族の崩壊」ということだろう。

 昨年の年末、立て続けに本州で亡くなった方の葬儀が3件ほどありました。その葬儀というのは、本州で一人身の方が亡くなり、札幌の身よりの方が、遺骨を引き取るというものでした。札幌の身よりの方は、ただお経をあげてもらい納骨したい意向でした。本州では、火葬にしただけ(いわゆる直葬というのでしょうか)で、法名もついておらず、お坊さんにお勤めもしてもらっていないのです。遺族の方に説明して、法名をつけ、葬儀という形をとり、その後納骨いたしました。ある亡くなった方は、部屋で腐乱し白骨化した状態で発見されたようです。またある方は、札幌から遺骨を取りに行かず、宅急便で送ってもらったとの事です。本州で亡くなった方のそれぞれ詳しい事情は、あえて聞きませんでした。しかし、どう考えても人間関係は、寒々としています。

ひと昔では、考えられない出来事です。仏事を教えてくれるような長老もいなくなったのでしょう。核家族が進み、親戚のつきあいも薄くなり、忠告や助言を言い合う環境にもないのでしょう。口うるさいけれど、面倒見のよい「おじさん」「おばさん」を排除してきたのです。「他人のことには、口出すな!」ということで、身近な親戚も「他人」ということになったのです。

習慣・風習を教えてくれる人がいなくなった現代では、分からなくなる時、頼りにしているものが、マスコミなどの「メディア媒体」です。テレビに出ている知識人という人が、これまた危ないのです。多くは、無宗教の知識人で、家族を大事にしないような人ばかり登場しているような気がします。マスコミが、意図的に、風潮、世相というものを操作している感じも受けます。「新」というものを、押しつけてきたのもマスコミの影響も大きいようです。

私達は、肉親の死を通して儲かった損したという経済的価値観から、「いのち」を中心とした「つながり」を大切にする価値観を見出すのです。

ある末期がんの手記の本を見たことがありました。末期がんの宣告を受けるまでは、会社経営など、経済的なものが大切だと思っていたそうです。ところが、余命幾ばくもないと知った時から、今まで大切だと思っていたことがあまり大切に思えなくなった。むしろ家族との時間や宗教が大切になったと言っていたことが思い出されます。

2010年、私達は、「新」より「伝統」というものに心を向けなくてはならない気が致します。人間は、一人では生きてはいけません。つながりを大切にする。家族を大切にする。祖父、祖母も家族です。親戚を大切にする。このように心を結び合わせなくてはなりません。

アメリカインデアンの教えに以下のような言葉があります。思いやりのある中で育った子は信仰心を持ちます。(加藤締三、作ドロシー・ロー・ノルト)

この言葉をかえせば、今はいかに思いやりがないか分かります。仏さまの願いを受け止める心が大切です。多くの知識人と言われている人も、心の底に穴があいているのかもしれません。

今年、皆様の家庭が、心結ばれ、不況であっても、信じ合える温かな家庭になることを念じあげます。
(2010年新年年頭のあいさつ)


「徳」について

皆さん、いかがお暮らしでしょうか。今年は夏に入って長雨が続き、まるで梅雨のような気候が続きました。 前の冷害の時には、外国のお米を食べた経験から、外米は嫌だなあと思っておりました。今年は外米は食べなくても済みそうですが、やはり冷害の年のようです。また昨年十月より続いている経済不況の嵐は、改善されない状態が続いております。どうも自然も経済も、どちらも乱れております。

 一年前から、選挙があると言われ続け、ついに八月三〇日に総選挙。民主党に期待するというよりも、国民の民意を問わないで、首相が次々と替わる。一年間待たされた事に対する反動が、民主党三百八議席。自民党惨敗で政権交代となったようです。北海道初の第九十三代、六十人目の鳩山由紀夫首相が誕生しました。北海道から出た首相ということで、大いに祝福したいと思います。しかし、前述のような経済不況の状況にあります。いろいろ良いことを選挙の公約に上げても、財源不足から実行に移すことも難しいと思います。私たち国民は、政策に一喜一憂しないで長い目で、政治を見ていきたいものです。

 また、経済や政治的な価値判断はもちろん大切ですが、それとは別な価値観を持ち合わせて生きていくことも大切な事だと思います。

 端的な表現が、「徳」という言葉です。徳とは、道をさとった立派な行為。良い行いをする性格。身についた品性。とか、人を感化する人格の力。めぐみ。神仏の加護。と広辞苑に書かれています。自然と身についた品性であり、人を自ずから感化する人格力です。このような徳は、儲かった損したという貨幣経済や頭が良いといった学歴から生まれるものではありません。
 広辞苑では、「神仏の加護」となっておりますが、徳は、宗教心、信心から生まれてくるものです。残念ながら、宗教心が薄くなった現在の日本では、徳のある方が少なくなってきたように思われます。

 さて、今お寺は、当寺報恩講の準備に入っており、お寺の奉仕もあります。昔からお寺は自分の家と同様、またはそれ以上に考えて下さったご門徒が多くおりました。徳を積むということで多くの方が、お手伝いに来て頂きました。しかし、今は本当にお手伝いをしてもらう事が困難になってきました。自分の家の大掃除すら業者にお金をかけてやってもらう時代です。お寺の大掃除、お手伝いとは、何事だと考えているのでしょう。ご縁のある方は、高齢化してきております。核家族になって、若い方とは別居していますので、つながりを持つことが出来ませんので、後継者は望めません。
 これからの寺院を運営していくことは、大変なことです。また、新たな手段を講じなければならない時代に来ているかもしれません。

 しかし、現代人が、すべて宗教離れを起こしているかと言えば、そうではありません。昨年九月から一年間、北海道新聞等で、作家五木寛之氏の「親鸞」が連載されました。多くの方が、関心をもって読んだと言われています。今回は、越後流罪で終了しました。それで多くの読者から、続編の要望が殺到したと言われています。真宗に対する宗教的関心は、あるのです。
 また、時代の不安を反映して、色々な宗教書も書店で売れております。新宗教に入信する方も、依然多いようです。人間である以上、必ず宗教は必要なのです。
 しかし、残念な事に、それが既成の教団と結び付かないのです。もちろん、魅力のない既成教団や僧侶に、問題があるのです。それとは別にしても、昔は寺院を我が家と同じように考えてきた「つながり・絆」がありました。それが薄れたり切れたことも大きいと思われます。

 日本は、今未曾有の高齢化社会になっております。 冒頭に書いた政治の話でも、高齢者の医療など国の費用がかかる問題があります。介護の問題も大変で、高齢者が高齢者の介護をしているのが現実です。生活保護世帯も増え、仕事がない、働けないで生活保護の申請だけが増え続けております。どこの地方自治体でも一番の支出が生活保護への支給ということになっております。政治だけの力では、どうも解決の出来ない問題になっているような気が致します。日本は、どこか狂っております。お年寄りを敬えない社会。お年寄りも、若者に伝えるものがない生き方をしてきた事実があります。
 宗教的価値観の伝承は、高齢者の勤めだと思います。

 お経を読むことを「お勤め」と言います。「お勤め」という言葉の響きは、好きだから嫌いだからとは関係なく、「仕事」をお勤めというように、しなければならない事と言った意味があります。趣味とは異なります。仏法相続は、お勤めです。どうか老若男女問わず、仏縁を深めて下さい。お寺とのご縁をもって下さい。そして、お寺に教えを聞きに来て下さい。合掌(2009.9.20お彼岸)


今、いのちが あなたを 生きている

私たちの宗派「真宗大谷派」が2011(平成23)年に、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要を迎えるあたり、現代人に宗派として発信されたテーマが、上記に掲げられた標語です。過去から伝わってきた「いのち」それが現在の私になっている。その「いのち」が未来にもつながっていることを表している。「いのち」のつながりが、宗祖親鸞聖人のお念仏の教えにあるということだ。裏をかえして言うならば、宗祖親鸞聖人の教えに出遇わないと、「いのち」のつながりを実感出来ないということになる。

 最近、テレビ・新聞等で、「お墓事情の特集」の番組や記事をよく目にする。その中で特に目を引くのが、個人墓である。亡くなった人が、ゴルフが好きだったからゴルフのクラブとボールの墓。リンゴが好きだったからリンゴの形をした墓。忙しく働いたからゆっくり休めるようにと長いすソファにした墓などが紹介されていた。また、墓にモニターテレビが内蔵されて、故人の略歴や映像が流れる墓もあるという。多くの費用をかけた立派な墓。しかし、墓を建てた後、その墓を維持し、守っていく人がどれだけいるのかと思うと不安になる。しょせん個人墓である。一人きりである。亡くなった方はそれで良いし、建てた人も、故人の供養をしてやったと満足かもしれない。その人が忘れ去られた時、どうなっていくのだろうか?世知辛い世の中だから、永代使用料を払っても、民間墓地などは無くなるかもしれない。

 昔から浄土真宗の墓標は、先祖代々之墓とか○○家之墓とは書かなかった。故人がそこに眠る墓ではなかったのです。「南無阿弥陀仏」とか「倶会一処」(くえいっしょ)と書いて亡き人が、諸仏となって浄土に還り、私たちを見守っている、はたらいて下さっていると感じてきました。ご縁のある方すべての遺骨を、納めてきました。個の墓ではなかったのです。まさに「つながり」のある墓だったのです。

 現代人の多くは、亡き人を「もの」でしか見ていません。ですから年忌法要をするときも墓の前でしたいと考えている人も多くなってきました。墓を管理している霊園が大切ですから、年忌法要も、代々の「お手次寺」(真宗は菩提寺と言いません。如来の教法を取り次ぐ意味合い)に頼まないで、霊園が雇っている僧侶に頼む人も増えてきました。墓だけ大切に思っても、教えや感謝の気持ちが、子孫にないと墓は生き残れない。

 核家族になり、つながりを大切にしない。考え方が変わり、自分だけ良ければそれで良いという考えでは、仏法に出遇って頂けません。昔の先人は、教えを聞かない人にたいして、実存的な地獄描写など脅迫めいた方便によって、教えを聞くことを子孫に強制しました。聞くことによって、教育され、人間の心が芽生えるご縁を作ったのです。

 現代は、まさに教えを聞かない人によって、この世自体が、地獄化している事実に気が付いていないのです。(2009.5.19)


「おくりびと」効果?納棺は家族の手で!

2月22日、第81回アメリカ・アカデミー賞の「外国語映画賞」に滝田洋二郎監督の「おくりびと」が受賞した。日本映画黄金期の1950年代には、黒沢明監督の「羅生門」など3本が外国映画賞の前身の名誉賞を受けた。しかし、「外国語映画賞」が出来た1956年以降は、受賞がなかった。初めての受賞。私も心よりお祝いしたい。「おくりびと」の映画が、国内外の映画賞を約60の受賞している映画、色々な人から評価された映画だと思う。私も劇場映画館で見たいと思っていたが、今日まで見るご縁がなかった。近いうちにリバイバルする映画館もあるようで見たいと思っている。

 映画も見ていないので、映画の批評するつもりは毛頭ない。しかし、テレビ・新聞等の報道を見たところ、「おくりびと」の主演の本木雅弘さん演じる「納棺師」になりたいと、いう方が激増しているという事に対して、不安を覚える。

 「納棺師」とは、亡くなった方のご遺体を整え、柩に納める仕事をする仕事のことを言う。私も、枕経(亡くなった時、自宅でお勤めりする)の時など、納棺師の方に会うことも、しばしばある。ご遺体は、死後硬直をしているので、衣服の着せ替えなどは、一般の素人の方には難しい。納棺師という仕事は必要である。しかし、遺族を差し置いて、プロの納棺師が、一人で大活躍するのは、おかしいと思う。亡くなった方の身の回りを整えるのは、本来遺族の仕事だと思う。娘を嫁がせるとき、白装束(納棺に着せる服)を縫えるようにして送り出すという話を聞いたことがあります。亡くなった方は、生前、はだかを他人に見られるのが恥ずかしいと思っているものです。亡くなった途端、はだかにされて他人の納棺師に、下の恥部やお乳をさらけ出す。故人の遺志を考えると、何かへんな気がする。納棺師の方が施した死化粧が、けばけばしく、「おてもやん」のような頬になっている事もある。私は柩のご遺体を見て「この顔は、生前の顔と違っている。家族の方が直しておいて」ということもよくある。これは、納棺師が悪いわけではない。生前の化粧の仕方など、納棺師が分かる訳もなく、家族がすることなのです。核家族になって、遺体に触れないという人が増えているという話も聞く。家族のご遺体が汚い・穢れているとでも思っているのだろうか。愛情がない家族になってしまった。このような家族が希薄の時代だからこそ、納棺師の仕事は増えてくる。しかし、納棺師は、納棺の「主」であっては欲しくない。遺族の「従」になって、遺族を支えるプロに徹してもらいたい。

 「同朋」という真宗大谷派から出版している雑誌の1月号に原作者の青木新門さんのインタビューが掲載してありました。青木さんは『納棺夫日記』を読んだ主演男優の本木雅弘さんから映画化したいと頼まれ、許可をした。しかし、シナリオを見て宗教が全く排除されている。それでお断りした。(テレビの報道では、それで本木雅弘さんは、映画化許可の為、青木さんの所に頭を下げに来て、正座をして何時間も動かなかったと言っていました)

 それで、「納棺という世界はあっていいから自由に引用して下さいと「納棺夫日記」をタイトルに使わないことを条件に、映画化を許したと語っておられます。」

納棺の厳粛性だけを強調していて、「いのちのつながり」を忘れていることは、原作者が一番知っていたようです。肉親の死を通して教えられ、照らされ、「俺が、俺が」という生き方が砕かれた。讃嘆(さんだん)と懺悔が生まれてきた。その親鸞聖人が教えてくださっている真実の世界が表現されていないことが残念です。と話されています。

 本当の納棺夫「青木新門」さんの詩

  人は必ず死ぬのだから いのちのバトンタッチがあるのです

  死に臨んで先に往く人が 「ありがとう」と云えば

  残る人が 「ありがとう」と応える

  そんなバトンタッチがあるのです

    (2009.28 「おくりびと」に沸き立っている時に)


2009年新年のご挨拶

平成21年が明けました。本年もよろしくお願いします。昨年一年を象徴する漢字一文字が「変」ということでした。アメリカの大統領が、今年から史上初めての黒人大統領になることや、日本の総理大臣がコロコロ変わったことなど、変革の一年であったことから「変」が選ばれたようだ。私は、同じ「変」でも、自然が変になってきたことや、人間が「変」になってきたことでの「変」の気がする。

 昨年、11月下旬に某小学校PTAOB会が、あるホテルでありました。そこで、宴会担当の方が、私にこぼしていました。それは、人が集まる会自体が、段々少なくなっているとのことでした。札幌は、ホテルは増えているのに、PTAOB会をやっている学校も少なくなってきている事に加えて、結婚式の披露宴も少なくなってきている。結婚式の披露宴の集まる人数も減ってきているとの事でした。少子化の影響で結婚する数が少ない為かと思いましたが、この影響も確かにあることは事実です。しかし、原因は、それだけではないとの事でした。人が、集まることを嫌がる年代が増えてきているとの事でした。冠婚葬祭すべてが、成り立たなくなってきているとのことです。

 確かに、葬儀も僧侶が一人で良いという葬儀(本来僧侶一人では、導師・金打ちと分けてする葬儀は出来ません。また葬儀で着る七条は、一人で着る法衣ではありません)や家族葬や直葬(葬儀をしないで直接火葬場に持っていく事を言う)も増えています。

 人という象形文字は、支え合って生きていく形から出来た字です。人間という「間」は、いろいろな人の間を生きる(世間)存在であるということを意味しています。人間は、いろいろな人と交わって、色々なことを学ぶのです。知識以外の「情」というものは、人と人とが触れ合って初めて身に付くものです。

 友達と直接遊ばない子供、遊べない子供。ファミコンや携帯電話など機械を通してしか、交流の図れない子など増えているのも事実です。また、その親も、人間関係のコミュニュケーションがとれないようになってきています。自分勝手で、わがままな親も増えて来ています。

 本当に恐ろしいです。人間は、人間によって育てられるのです。インドのアマラ・カマラのように、幼児期にオオカミに育てられた子は、人間の心を死ぬまで持つことが出来なかった話は、有名であり、大切な事を示唆しています。

 顔かたちは、人間のように見えますが、こころは、おもいやりも感謝の心もありません。

お金しか見えず、自分の好き勝手な事ばかり求める人ばかりが、増えています。損得ばかりの勘定しかありません。そして、何かちょっとした良いことをすれば、必ず良い結果が与えられると思う傾向にあります。(賢善精進){これを勧める宗教だけが、流行る傾向にあります}

 嫌なことを、そのまま受け入れていく。嫌なことが、その人を育てたり、磨かれることを信じるような生き方が大切です。世の中は、祈っても何しても自分に都合の悪いことはたくさんあります。人間は、弱いですからそこに、神、仏の存在が必要なのです。神・仏に祈って何かを、してもらうのではなく、私という人間存在そのものを認めてもらう事が大切だと思うのです。

世の中がどのように変化しようとも、人間の心を持った人間でありたいものです。人間の心だけは、「変」にならない1年でありたいものです。

(年頭にあたって 2009.1.7)



家族を大切にしない?

 テレビのドラマは、半年ごとに作られる番組が多い。4月と10月が編成期なのだそうだ。新番組が始まる時、各テレビ局は、視聴者に興味を持って見てもらうために、ピーアール番組を制作します。「OLニッポン」という朝日テレビ系の番組で、札幌地域では、水曜日の夜10時に放送する、そのピーアール番組を見た。

 「OLニッポン」という番組は、日本のある会社が、企業成績が落ち込んでいる。そこで、中国の研修社員を雇い、日本の社員をリストラして、人件費をうかし、会社を再生していく物語のようだ。(アウトソーイングという言葉を使っていたが、私にはよく分からない)主演は、観月ありさ。

 このピーアール番組では、実際に日本で働いている中国人の女子社員と中国人を受け入れている会社の女子社員に、中国人・日本人の相手の国の人の「ここがヘン」ということを、前もってアンケートを採ったものを、意見の多い順に1位から5位に分けた。それを「OLニッポン」の出演者に、当ててもらうという番組であった。

 日本人から見て中国人がおかしいと思う事は、1.近くにいるのに、甲高い声で話している。うるさい。2.過ちを犯しても、謝らない。3.仕事が出来ないのに、プライドが高い。など上がっておりました。(順位は不同)

 中国人から見た日本人がおかしいと思う事は、1.化粧が気持ち悪い。化粧は美しくなるためするのに、日本の女性は「化け物」になっている。(私も同感)2.隣の人と会話をすれば良いのに携帯メールで連絡を取り合っている。(私も同感)3.家族を大切にしない。など

 「家族を大切にしない」というのは、ショックである。人間の「心」の成長は、家族の温かい愛情から生まれる。「思いやり」や「宗教心」も家族の愛情から生まれのだ。

 日本に来ている中国人の多くは、頻繁に家族に電話をしたり手紙を書いて、安否を確かめ合っているそうだ。

 物が豊かになって日本では、家族が助け合わなくても生きていけるということだろうか?核家族であり、自分の好き勝手なことだけを追い求めている。このような状態を、中国人に見透かされている。

 罪を犯した方の更生のお手伝いを8年ほど前からさせてもらっている。(保護司)このごろ増加傾向にある青少年犯罪の約9割が家庭に問題があるという。殺人未遂の少年の私記を、読んだことがあります。その私記の中で、殺人を犯そうと思った時、母親の顔が浮かんだそうです。自分は、殺人犯になっても良いと思ったけれど、母親が悲しみ、殺人犯の親ということで、ひどい目に遭うと思った時、ナイフの手が止まったということが書かれていました。

 「家族を大切にしない」これは、中国人から指摘されたとは関わりなく、真剣に考えなければならない問題であります。

 それにしても、11月になってしまいました。今年もあと2ヶ月。

(札幌に初雪が降った日 2008.11.4)


「お金」以外の価値観を!
皆さん、いかがお暮らしでしょうか。九月に入っても残暑が厳しいです。四年に一度のオリンピック。四年前のアテネから今回の北京のオリンピック。
色々な問題もあり、開催されるのは遠い先のように思われましたが、すでに終わってしまいました。
真剣にスポーツに取り組む選手の姿に、連日テレビ放送に釘付けの生活、色々な感動を頂きました。一度聞いても分からない国々や国旗。世界は広い。しかし環境問題でも分かるように、世界の人々が、一緒に手を携えて当たらなければならない問題も多くあります。スポーツでは、まとまる事があっても、政治・経済では難しいようです。みなさんは、オリンピックをどのようにご覧になったでしょうか?

 さて、今お寺は、当寺報恩講の準備に入っております。お盆の頃より、報恩講の経費を含めた、年に一度の大願寺維持費のご依頼をお願いしております。
いつもの事ですが、維持費納入と合わせて、大願寺の法務員は、お彼岸・報恩講のお参りをお誘いします。
ところがこの頃、少しづつ異変があるように思われます。今までは、お寺のお参りをお誘いしますと、来る来ないに関わらず、お誘いしたことに対して、何ら問題がありませんでした。
なかには、お誘いしてくれた事に対してお礼を言う方もおりました。それは、真宗門徒である以上、自坊の報恩講にお参りするのが当たり前という前提があったからです。ですから、来れない方は、済まなさそうにお詫びや言い訳を言うものでした。たとえば、体の調子が悪いとか、膝や足が悪くてお寺まで行けない。色々な都合で札幌にいないとか、やむを得ない用事が入っているなどです。
 ところが、最近お寺のお参りお誘いすると、大願寺維持費をきちっと払っているのに、なぜお参りすることまで強制されなければならないのか?お寺に参る参らないは個人の勝手であると文句を言う人が現れました。真宗門徒という定義自体が分からなくなってきたということでしょうか?本願念仏の教えを聞き、報恩感謝の生活をおくるのが、真宗門徒であります。「聞法」が、念仏申す身になる「助行」であります。

 昨年の九月に、安倍首相から福田首相に代わりました。「安倍しちゃおう」ということで、途中で放り投げることを、流行語にもなりました。その福田首相も辞意を表明しました。
自民党の総裁選が、今始まっております。また、民主党の衆議院の一次公認が発表されました。今年度中の解散総選挙の噂も飛び交っております。このような中で、日本の将来展望を、色々語る報道を目にします。
選挙を勝つために、各政党すべて国民に甘い公約をする。その結果、財源が無いため、借金を未来に先送りする構造が感じられます。医療問題、年金問題・介護問題などは、将来がない不安な問題です。これらの問題は、しっかり政治の世界で解決して頂きたいと思います。

 しかし、日本は高齢化社会になってきております。「高齢者」とされる六十五歳以上は総人口の二二・一%にあたる二千八百十九万人います。政治・経済の価値観だけでは本当にこの問題は、解決しないと思います。「生き甲斐」ということに関係する別な価値観を持たなければならないと思います。これに一番深く関わっているのが、「信心」という宗教的価値観だと思います。現代日本人は、あまりにも宗教的価値観が無くなったように思えます。俗に言う「お金」しか見えなくなったのでしょう。

 六十五歳までは、色々な会社に勤めて所得があります。お金を稼ぐ事が出来ます。人を使って、使える人間だ、使えない人間だと管理します。まさに金を稼ぐ生産性に従事しています。ところが定年を過ぎると、金を稼がない、生産性が無くなるのです。
今の社会では、貨幣経済だけを重視している社会ですから、回りからも金を稼がないから、不必要な人間に思われます。高齢者自身が、生きる価値を見い出されないのでしょう。ですから、働けることだけを生き甲斐にしていつまでたっても、お寺にも来ないで、第二の職場、第三の職場と給与の高い安いに関わらず働き続けるのです。働き口のない人は、駄目な人間と自分で考えて自殺する高齢者が増えております。若者の自殺する割合を超えているのが、現在の状況です。

 何か、日本は狂っております。貨幣経済だけで良いのでしょうか?お年寄りを敬えない社会。お年寄りも、若者に伝えるものがない生き方をしてきた事実があります。現代は、生産構造がめまぐるしく変化しました。パソコン・機械の発達により、職人技術の伝承・相続が軽んじられるようになりました。しかし、人間として生きることには、今も昔も変わりありません。逆に人間関係と取り持つ会話など、地域社会で生きる生き方が下手になってきております。宗教的価値観の伝承は、高齢者の勤めだと思います。老若男女問わず、お寺に教えを聞きに来て下さい。合掌

(解散総選挙が近い噂がある彼岸前 2008.9.19)


娑婆世界

68日秋葉原で無差別殺傷事件があった。車ではね次々刺す通り魔殺人で、7名の方が死亡、10名の方が重軽傷を負った。犯人は、青森県出身、静岡在住の加藤智大容疑者。25歳。ナイフを2日前に購入、計画的な犯行であった。携帯サイト掲示板にも書き込みがあり、犯行に及んだ心情が書かれていた。

 無差別殺人をおこした動機等は、やがて明らかになってくると思うが、殺された被害者や遺族の気持ちを考えると、どんなことがあっても何ともやるせない。新聞・テレビの報道だけで、軽率な発言は出来ないが、「自分が女にもてない。彼女が出来ない。人生負けっぱなし。みんな裏切る」などの携帯サイトの発言から、劣等感が強くあったことが伺える。落ち込んだりすることは誰にでもある。人生が嫌になった時、自分だけで自殺しないで、他の人を巻き添えにするのが、この頃の無差別殺人の傾向だ。

 殺人犯罪が増加しているのかと思えば、20年ぐらい前に比べて少なくなって来ているとのことだ。しかし、殺人犯罪の検挙率は下がっているという。これをどのように見るかと言えば、現代は、個人的な怨恨やお金の貸し借り等から殺人が起こるのではなく、殺意のない、動機のない殺人が増えているということだ。日本の警察の捜査方法は、昔から怨恨の動機から追っていく方法が主流だった。この方法では、犯人が浮かび上がってこないのだそうだ。相手に問題があるのではなく、殺人する人が、むしゃくしゃして、殺す相手は誰でも良いということなのだ。

 簡単に切れる人が増えているという。我慢が出来ない。社会に適応出来ない人が増えている。

 仏教では、この世を「娑婆」(しゃば)と呼んでいる。これは、思い通りにいかない社会「堪忍土」と訳されている。我慢する世界と初めから教えられている。この意識が、あまりにもなさすぎるのではないかと思う。この事は、何回もこの法話の中に書いてきたことだ。

 このような事を、教える場が家庭であると思う。しかし、家庭が崩壊している。家庭における親族殺人もまた増えている。困った世の中である。「念仏よ興れ!」と高史明さんは叫ばれている。過日、講演を聴きに行った「夜回り先生」こと水谷修さんも、宗教の大切さを訴えてくれているのだが。まずは、親鸞聖人のみ教えを聞くことから始まる。

(2008.6.30色々な殺人事件を聞く中で)


み仏の前では皆平等

  一月二十八日元門首代行でありました大谷演慧鍵役が九十三歳で亡くなられました。親鸞聖人の末裔でもあり、私も色々お世話になった方でしたので、二月十二日の京都本山の宗派葬に参列させて頂きました。

 宗派葬当日は、雨でした。京都は暖房設備があまり整ってはおりません。非常に寒い中での葬儀・出棺でした。午前十一時から阿弥陀堂で勤まり約一時間半の中で出棺まで終了しました。特別な祭壇もありません。卓に打ち敷きを掛け、紙華などお飾りも一般寺院の葬儀とほとんど同じでした。お勤めも、私たちが普段葬儀にお勤めする法要式次第と同じでした。(和讃だけ異なっておりました)規模が大きかった為に、雨の出棺の準備に手間取っただけで、一般の在家の葬儀とほとんど変わらない葬儀でした。この在家と変わらない葬儀に改めて感動致しました。みんなと同じ浄土に還帰されたという感を抱きました。

 近隣の他宗住職が亡くなり参勤したことがあります。導師が五人ほどおられまして、色々な葬儀法要を営みました。約二時間半以上かかりました。
 後日、他宗の僧侶に聞いたことがありますが、出家僧侶と在家の葬儀とは儀式作法が全く異なっていることを教えてもらいました。真宗が、僧俗一体の宗旨であり、平等を大切にしていることを改めて身を通して教えて頂きました。しかし、宗教の事は昔は何か当たり前であった事が、現代では分からなくなって来ている事が多くなったような気がします。

 阿弥陀仏の前では、皆平等である。この考えは、宗祖親鸞聖人から続いて来ております。ですから、今では当たり前に捉えている考えも、封建制の強かった武家社会では許されない考えでもあったと思われます。 特に戦国時代の下克上時代になればなるほど、武士階級の人々は、身分制度をはっきりさせようとしました。半農民出身者であった豊臣秀吉が、なした政策は自分のような農民から武士にならないようにと太閤検地と刀狩りによって身分階級を固定化することでした。

 戦国時代に親鸞聖人の教えを蓮如上人から聞いた年貢の厳しい取り立てに苦しんでいる農民。虐げられている人々は、「南無阿弥陀仏」の基に集まりました。むしろ旗を立てて、最低限の生活が出来るように生活改善闘争を起こしました。これを一揆と言います。

 特に一向専念無量寿仏という阿弥陀様だけで全て良いという考えから、浄土真宗が絡んだ一揆を「一向一揆」と呼ばれるようになりました。浄土真宗が盛んな石川県・愛知県や近畿周辺の各地でおこりました。それが天下統一を狙っていた大名と各地で衝突しました。一向一揆は階級闘争でもありましたので、大名は、厳罰をもって鎮圧しています。織田信長は、三重県長島の一向一揆の際、死んだ母親が身ごもっている場合は、腹を切り開いて嬰児まで首をはねたという記録が残っています。その頃の本山は、大阪にあり石山本願寺と呼ばれました。織田信長と約十一年間、戦争をしていたのです。その後、和睦が成立して本願寺は残ります。 織田信長が本能寺の変で亡くなると、豊臣秀吉・徳川家康の時代となります。徳川家康は、本願寺が政治に目を向けさせない為に、東西本願寺に分割させました。また一向一揆に参加した人々を、被差別身分に落とし(穢多という身分)、民衆同士が差別と憎しみ合うようにさせ、武士への反抗を押さえる事をしたのです。

 平等を説いた浄土真宗の多くの御門徒が、かえって被差別身分となって苦しむ事になったのです。現代にまで続いている同和問題は、このような経緯から生まれてきました。尚、東西本願寺分派の歴史や穢多・非人などの同和問題も大変複雑で、色々な見方があります。

 明治時代になって身分制度が無くなり、第二次世界大戦を終えて、真の平等社会が実現されたように思います。しかし、戦後六十年経ちますと、この平等社会を維持することを忘れてしまったような気が致します。

 自分だけ良ければそれで良いというような個人主義になってきています。金を儲けて何が悪いといった格差社会を、生んできています。娑婆は確かに穢土ですが、心で浄土を求める生き方だけは、忘れてほしくないものです。何事も当たり前になってしまうと、有り難みを忘れて、不平不満しか表す事の出来ない寂しい生き方になってしまうようです。お念仏よ!興れ!

(2008年3月彼岸に寺報「開聴」に書いた原稿より)

大雪も温暖化のせい?

 明日から3月だというのに、札幌は雪が多い。札幌管区気象台によると、2月28日現在、札幌で平年比32センチ増の105センチの積雪だという。
1月2月の前半まで雪が降らず、雪はねもしなくて助かったが、2月の中頃より、雪が降り始めた。雪が降るのは、寒さの為かと思ったが、専門家の話だと、毎年北海道上空に張り出している強い寒気が後退し、北海道付近で寒暖差が発生したため、この寒暖差により、北海道付近で低気圧が発生し、暴風雪が起こるのだそうだ。冬の気圧配置、低東高西が早く崩れているために、大雪が降るとのことだ。

正月の特集番組でも、何回も取り上げられていた温暖化問題が、身近にこのような形で起こっていることに、不安を感じる。石油も値上げになり、雪を融雪溝で融かすのも大変な中で、これから世界はどうなるだろうと考える。

それにしても、よく雪が降る。お寺の窓も、屋根雪が落ちて、2カ所破損してしまった。
お彼岸までに直さなければならない。建築業者も除雪の副業が忙しく、本業の方が、出来ないと言っている。
表通りの道路もほどんと道がない状態だ。

(2008年2月29日、四年に一度の閏年の日


初夢

 このごろ、ほとんど夢など見たことがない。病理学から言うと、夢はたびたび見ているのだが、起きるころには忘れているらしい。
そのような中で、昨日変な夢をみた。(夢は、夢。論理的につじつまがあわないことが多いので、その点はご了承を。)今年になって、覚えている夢なので「初夢」ということになるのだろうか?以下のことが、初夢の内容だ。

 どこからか、私に、近代未来建築の展覧会のポスターを書いてくれと言う依頼があった。「私は、画家でもない。」と断ると、依頼主は、「今までの近代建築の展覧会のポスターは、ポスターを書く人が、勝手な想像で未来の家を書いてしまう。それでは、展覧会に出品する人の建築と隔たりがありすぎる。近代未来建築、特に家の理想を象徴して書いて欲しい。」という依頼だ。私は、絵もうまくない。でも、責任感からか、何とかしよう考える。そこで、いつも文章などを書くときに困った時に、相談するY・Sさんに声をかける。すると分野外であるY・Sさんは、夫も美術的なことには関心も深いので資料を持っている。相談にのってあげると言ってくれた。そこで出かけて行く。Y・Sさんの家には、いろいろな美術の本やポスター集の本があり見せてもらう。

 そんな中で、純和風的な玄関のポスターを書くことを決める。その玄関には、色々な家族の靴がきちっと並んで置いてある。子供の靴。スニカー。婆ちゃんの草履。父さんの革靴。お母さんのサンダル等々。その上に、「ごはんだよ!」と呼ぶ声の字。「ただいま!」に対して「おかえり!」と呼ぶ声の字。

 ポスターの一番上に、近代未来の展覧会、そして日時と会場が書いているポスターだ。

 ここで、夢から覚める。何で近代未来建築なのに、家族の靴のポスターなのかと自問自答してみる。そこで、夢に理由づけしてみようとするのが面白い。

 すると、家の理想と考える時、この夢が実にあっている気がして楽しかった。

 私の理想なのかもしれない、夫婦だけの家族ではなく、祖父や祖母も同居している。子供も何人かいる。日常生活の中では、色々なトラブルがあるが、それを含めて一緒に暮らしている。

これからますます核家族の時代になるのに、近代未来建築に、温かい家族の団欒を思い出させる象徴を、色々な靴が並んでいる玄関。

純和風とはいかないが、これは我が家の玄関に近い。そうであるならば私は、まさに幸せな家族、生活をおくっているということなのだろうか。有り難い。  (2008.1.9初夢を見た朝)

賞味期限と100均時代

 今年は、牛肉偽装、老舗菓子メーカーの賞味期限偽装など食の安全に関心が高まった年となった。年間の漢字大賞に、「偽」という字が選ばれた程だ。

 確かに、会社やメーカー側は、食の安全には万全を期してもらいたい。しかし、賞味期限に対する私たち一般消費者の意識が、あまりにも異常に過敏になり過ぎている気もする。食も色々なものがある。賞味期限をきちっと守った方が良い食べ物もある。しかし、賞味期限が多少過ぎても、食べれるものもたくさんある。賞味期限内であっても、体調の関係やアレルギー的な事で、体がおかしくなることだってある。

 昔から、味見をして自己判断、自己責任において食べてきた歴史がある。この頃は、味見もしないで、賞味期限だけを見て、簡単に捨てしまう。自分の舌で確かめ自己を守る感覚が生物学としての人間には大切なことと思う。中には、大丈夫と思って食べて、お腹を壊した事も大切な事かもしれない。同じものを食べても、体の調子、それぞれの人によって腹痛は異なる。自己判断・自己責任が求められている。人間純粋培養では生きられない。色々な殺菌に対して抵抗力を付けて生きて行かなくてはならないのだ。

また、食べ物の「いのち」ということを考えない生き方も増えてきた。もちろん、会社やメーカーが食品を「いのち」と見ないで売れれば良いという考え方は絶対反対である。

「もったいない」という意識がなくなってきた。世界全体では、人口の3分の1の方が飢えで苦しんでいる。ものを粗末にする人は、人をも粗末にするという先人の教えがある。私はこの考え方は、本当にあっていると思う。

現代は、100均時代だという。使い捨てということであろうか。生活用品が手軽に100円で買える。包丁や鍋焼きうどんの鍋なども100均で売っている。包丁が切れなくなるとすぐ捨てる。鍋焼きうどんの鍋が中まで焦げ付いたら鍋を投げる。研ぐとか焦げ落としをすることが少なくなった。
 
 そういえば、補修とか修理ということが少なくなった気がする。私の家に来ていた「町の電気屋さん」も無くなった。テレビなど家電製品や時計は、壊れたら買い換えた方が良い時代になってしまったのだ。傘などの修理をして自転車で回っていた人が懐かしい気もする。50歳を越えてそろそろ賞味期限が切れてきた人間にとって、使い捨ての時代は何か本当に寂しい気がする。

今年は、灯油をはじめ多くのものが値上がりをしている。しかし、給与の方は思ったほど上がってないという。質素・倹約が求められているのに、一度味わった生活基準は、落とせないのであろうか。そして、金がない金がないと愚痴をいう生活の中で、一年が過ぎていく。(2007.12.18)


変わっていいもの・変わってはいけないもの

 福田自民党総裁が、首相に指名された。国会も正常化され、政治の空白が埋まった。これからの日本の舵取りよろしくお願いしたい。新聞の読者の欄に、流行語ということで今若者が使っている言葉が紹介されていた。
「安部しちゃおう!」安部とは、安部晋三前首相のことだ。“体の不調を口実に、途中で、責務を投げ出すこと。”を意味する。
若者は、この手の流行語を作るのは得意だ。そして、流行に合わせて便乗する傾向にある。殺人でも同じ事が言える。
放火して肉親を殺人する事件が起これば、放火殺人が流行る。斧で殺人事件があると、同じように斧で殺人する。
模倣犯というか、マネをする事件が出てくる時代でもある。マスコミ・インターネット・ケイタイ電話などで、色々な情報が飛び交っている。偽の情報もある。誹謗中傷の情報もある。今多くの事件は、このような昔では考えられなかった情報から引き起こされている。
(ケイタイ電話の援助交際サイトで知り合った同士のトラブルから殺人。アダルトサイトを見たことなどからの不正請求、またそのお金を工面する為の窃盗行為。チャット等の掲示板の書き込みが原因と思われるいじめなど)

 いろいろな機械が創り出され、科学が進歩した。人間は、大いに便利な機械を利用してきて便利な世の中を創ってきた。しかし、科学技術がめざましく発展してきたが、それらの情報をうまくコントロールする「こころ」対応が追いつかないのではとも思える。情報は情報と割り切って、自分のなかで、情報を受け入れた後の消化作業というものが為されていない気がする。情報から自分の独自の価値観・判断を持たなければならない。

 前にもHPに書いたことだが、現在の若者は純粋である。しかし、打たれ弱い。権力にも弱い。これが前述した「安部しちゃおう!」なのかもしれない。

 流行は、一時代的なものを言う。今、はやれば来年には時代遅れとなる。仏教の教えに、流行はない。裏を返せば、現代人に迎合はしていないということだ。分かりにくかったりもする。しかし、味わえば味わうほど、人間の生き様を、見事に見通している。このような考えを、お経という形で教えてくれている。

 経とは、縦糸という意味。釈尊のおられた頃のインドでは、まだ紙というものはなかった。お経は、木の薄皮に記した。それを、二カ所穴を開け、糸を通して繋げたことから、このような名前で呼ばれるようになった。(貝葉)縦糸があれば横糸もある。織物は、縦糸と横糸から成り立っている。縦糸は、目立たぬ丈夫な糸を使い、金糸銀糸など綺麗な目立つ糸は、主に横糸に用いる。このことから、お経は、真理を中心に説かれているものとされ、過去・現在・そして未来と三世を貫いて説かれている教えという意味を持たせた。

私たちは、教えという縦糸と、情をもって一喜一憂する横糸を織り込んで人生という織物を、仕上げる。横糸は、新しく開発される新技術、それをコントロールする心の要は、仏教の教え「縦糸」お経である。横糸ばかりでは、人生は、うまく織り上がらない。

 仏教が教えてくれる人間らしさ「多思知恩」おもいやりと感謝の心は、時代が変わっても、変わらないものでありたいものだ。 
(2007.9.26福田新首相誕生の時)


有縁の方の葬儀に参列して

過日、子どもがお世話になっている中学先生の親のお通夜に参列させて頂いた。私は、PTAの役員をやっているのでその関係やボーイスカウト関係、保護司関係、私の高校母校の同窓会関係(約450名いる同期会の事務局をしています)などで、しばしば他のお通夜・葬儀に参列させてもらっている。葬儀を執行している僧侶には、通夜説教がやりずらいとは思いつつも、亡き人の為にお参りに来ているのだから衣(間衣)を着てお参りさせてもらっている。但し、前列の方には座らず、僧侶の視線に入らないように後ろの方に座わるようにしている。

お通夜が終わった後は、その関係の仲間うちでコーヒーなど飲んで帰る事が多い。当然、その日のお通夜の事が話題になる。亡き人の病歴、家族構成など、知っている人からの報告が一通り済んだ後、必ずお通夜の僧侶の振る舞いや通夜説教の事が話題になる。私にとって一番嫌な時間でもある。大抵、通夜説教の内容がよく分からない。長すぎる。内容がお通夜・葬儀にふさわしくないという意見が多い。そして最後に、僧侶である私に向かって「北さんもあんな話をしているの?」ということになる。私は、へたな弁解はせずに「通夜説教は大変難しい。わたしもうまく話すことが出来ない。しかし、一つでもお通夜のご縁によって仏縁が深まれればと思って話している」と答える事が多い。

他宗の僧侶の方の時は、「他宗だから」と言う逃げ道もある。しかし、同じ宗派の時は何とも言い逃れが出来ない。たしかに私たちの宗門は色々な研修会があるが、通夜説教など法話についての研修会はない。また、研修会などで通夜説教がうまくなるといったテクニック的な問題でもないような気がする。通夜説教を私自身聞いていて、一番がっかりしたり憤りを感じる話は、話している僧侶が「本当にそう感じているの?思っているの?」と感じさせる話です。自分が本当に感じたり経験した話は、説得力があります。しかし、若くそんな経験もしていないのに、親鸞聖人のお言葉をそのまま使って、自分もあたかも聖人と同じ気持ちになったような話は、聞くにつらいものがあります。営業的な見せかけの偽善者が見えてくる。(私は、事前の情報により、通夜説教している僧侶の実際の私生活も少しは分かっていることも影響しているが。)ところが、おもしろいもので、私のようにその僧侶の実生活を知っていなくても、参列者の意見は、だいたい同じように感じていることが分かった。このような訳で、私自身、他のお通夜に参列して、色々なことを学ばしてもらっている。

 この頃、家族葬や密葬が増えていると聞く。(本来の密葬というのは、本葬をすることが前提になっている言葉です。山で遭難死して、地方で荼毘に付す。
これが密葬です。のちに、地元、郷里で葬儀「本葬」をするのです。ところが、今は、秘密に葬儀を執り行う意味に変わってきました。)
その理由として会社関係や子どもの関係の方に通夜・葬儀に来てもらう迷惑をかけたくないという意向もあるようだ。しかし、この考えは心配しなくても良いような気がする。昔は確かに義理があったものだから、亡くなった方に面識がなくても、息子さん娘さんに大変お世話になっているということで多く参列した事があった。しかし、現在、公の保険料の未払い、子どもの給食費未払いに代表されるように、自分に直接関係しないと、頼まれてもお通夜・葬儀には参列しない。主催者側(喪主)が、気を使かったり遠慮する前に、すでに来る方で選択されたり判断されているのである。

核家族などもあり、死に直面することの少ない年代の方にとって、お通夜・葬儀に参列することは、死を通じて自分の人生を考える上で、きわめて重要な時間である。亡き人がご縁となって色々な事を考えさせられる。有縁の死が、大切な仏縁を作って下さっているのである。そう考えると、通夜説教を大切にと自戒の念を込めて思うのである。
(2007.6.4)


朝ドラの視聴率最低の現状!

毎朝平日放送されるNHKのドラマ、春になると新しくなる。今は「どんど晴れ」という番組が放送されている。衛星放送でも放映されている。学校や会社に行く時計代わりに利用している方も多く、見逃した方は昼の再放送もあり、結構な視聴率を保ってきた番組だ。

ところが、今の「どんど晴れ」の視聴率は、今までの朝ドラの中で最低であるとの事だ。

 番組制作が悪くておもしろくないということで、視聴率が下がっているのであれば、致し方ない。でも、内容が気にくわないということで見ないというのであれば恐ろしいことだ。妻や母はよく見ているが、私はあまり見ていないので詳しい内容が分からないが、実家の横浜のケーキ屋から彼氏の実家、岩手の旅館の女将になっていく話のようだ。彼氏が好きな為、彼の実家の旅館に修行して女将になっていくという内容だ。都会から地方へ嫁いで行く内容が悪いのだろうか?核家族を望んでいる人に、大家族主義を奨励しているように思えて、拒絶されているのだろうか?三月末で終わった仲間由紀恵主演の「エライ所へ嫁いできたもんだ」という番組のことも思い出された。仲間由紀恵主演の番組は、高視聴率とることで有名な女優である。ところが、上記の番組は、視聴率も悪く低調に終わった。私は結構はまって見ていた。私の感想は、確かに最初の頃はおもしろかったが、後半はあまりおもしろくなかった気がする。それでも、色々な地方の風習を見られて勉強になった気がする。しかし、この番組も、親との同居とのことがテーマにあり、今の方々に支持されなかった気もする。日本は益々高齢化社会になる。介護問題も含めて、避けて通れない問題であるのだが。

 久しぶりに友だちが来るので部屋の掃除をした。その時、何を録画したか分からない古いビデオに何を録画したか、ラベル貼りをした。歌手のテレサ・テンが亡くなって8年後、2003年8月、作曲家の三木たかしが、作詞家荒木とよひさに、詞を付けてもらって、テレサ・テンの台湾の墓の前で歌う番組が録画されてあった。(ちなみに私は、テレサ・テンのかくれファンである)何故、作曲家三木たかしが、このような行動をしたかには訳があった。テレサ・テンが亡くなる前に、日本で、また歌いたい。それで作曲家の三木たかしに曲を依頼していた。しかし、曲づくりが進まず、日本に来ることが出来ずに、タイのホテルで一人ぜんそくの発作で亡くなってしまった。三木たかしは、早くに曲が出来ていれば、テレサ・テンは、日本に来て高度の医療も受けられ亡くならなくても良かったのではと言う後悔の念があったからである。私もテレサ・テンがもっと長生きして色々な歌を歌ってもらいたかった一人である。三木たかしの気持ちはよく分かる。でも、私は一番の問題は、「一人暮らし」であったのではと思っている。具合が悪くなっても、一人だと、どうすることも出来ない。健康な時は、一人暮らしが、気が楽かもしれない。しかし、具合が悪くなった時など、医者も呼べない。すぐ、死に至ってしまう。この頃毎年のように、元気な一人暮らしの方が、突然亡くなっている葬式を執り行っている。誰か、そばにいれば助かったのでは思う事もあった。

 人間一人では、暮らしていけないのだ。介護問題も含め、つながりのある家族をもっと大切にしたいものだ。

(2007.4.14)

千の風になって
皆さん、いかがお暮らしでしょうか。今年は、暖冬。気象庁観測始まって以来の温かさとの事。地球温暖化も考えられ、手放しには喜べない気も致します。

 
さて、昨年のNHKの紅白歌合戦でテノール歌手、秋川雅史氏が歌われた「千の風になって」という歌が、今静かなブームになっているようです。これは、アメリカの原詩(作者不詳)に新井満氏が翻訳して曲をつけたものです。
 
『私のお墓の前で 泣かないでください
  
そこに私はいません 眠ってなんかいません
  
千の風に 千の風になって
  あの大きな空を 吹きわたっています


  
秋には光になって 畑にふりそそぐ
  
冬はダイヤのように きらめく雪になる
  
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
  夜は星になって あなたを見守る
 

  
私のお墓の前で 泣かないでください
  そこに私はいません 死んでなんかいません
  千の風に 千の風になって
  あの大きな空を 吹きわたっています

 
千の風に 千の風になって
  あの大きな空を 吹きわたっています

  あの大きな空を 吹きわたっています』


 
この詩を見て、妙好人讃岐の庄松さんを思い出しました。(寛政十一年〔一七九九年〕現香川県大川郡大内町土居生まれ、文盲、独身。農夫や草履作り、勝覚寺の寺男。人々にお念仏の有り難い法味を伝える。明治四年〔一八七一年〕三月四日七十三歳命終。法名「正真」)

 
おらぁ、石の下にはおらぬ
 
庄松が臨終の床についた時のことです。近くの石田村の市蔵という同行(お念仏を喜ぶ仲間)が見舞いにやってきました。庄松は生涯、妻も子どももありませんでした。ひとりぼっちで寝ているすがたを見て哀れに思った市蔵は、彼のために墓を建ててやろうと思い立ちました。庄松は色々村の人々のお世話をしましたので、市蔵が、ご縁のあるお同行たちに相談してみたところ、みんな同意してくれました。

そこで市蔵は、どうせなら庄松が生きているうちに知らせて喜ばせようと枕元へ行き、「同行が、庄松さんが死んだら墓を建ててつかわしましょうと相談がまとまったので、あとのことは心配するなよ」と言いました。すると庄松は、にこりともせず、「おらぁ、石の下にはおらぬぞ」と言い放ったということです。この煩悩の生涯が尽きるならば、お浄土という永遠な「いのち」に輝く悟りの境涯に生まれていくのです。阿弥陀仏と同じはたらきをさせていただくわけです。キリギリスじゃあるまいし、おれは石の下やら草葉のかげなどには、いないぞ!と庄松は言いたかったのです。ところが皮肉なことに、庄松がなくなると有縁の同行が、墓を建てました。大正九年の五十回忌に改修して玉垣を巡らした立派な墓が出来上がりました。「おらぁ、石の下にはおらぬぞ」という意味を含めた墓となりました。私も三年前にこの墓にお参りに行ってきました。

 このように、真宗門徒は、風になるのではなく、如来の本願力によって仏(諸仏)となるという方が、好ましいでしょう。

 ただ「千の風になって」という詩が流行る背景には、あまりにも合理的な考え、無宗教的な世界観が、現代にあるのです。その反動みたいものが、この詩を支えているのでしょう。現代は多くの人が、死んだらおしまいと思っています。亡くなった人を病院からすぐ火葬場に持っていって終わり。無宗教での葬儀をしたり、親戚・知人等に知らせないで家族だけで葬儀を済ませる葬儀も増えています。
 一人の人生を、そんなに軽るやすく扱って良いものでしょうか。色々なご縁、人間関係の中で生きてきたのです。やはり一人の人生を重く受け止めていく場もなくてはならないのです。
 亡き人が、ご縁のある方と、ともにある考えは、人間の自然の考えだったのです。真宗では、還相回向(げんそうえこう)と言って、亡き人が浄土に往ったきりではありません。この世(娑婆)に還って有縁の方に、呼びかけて下さっております。どうかその声を聞いて下さい。ともに、浄土に生まれんと。これを倶会一処の世界と言います。
 物だけしか見ることが出来ない価値観から、宗教的な繋がりを大切にする価値観を、大事に失わないように、生きて欲しいと思います。
(2007.3.21春彼岸、開聴62の文)


虫恵 蛄
(けいこ)
春秋を(し)らず、(いちゅう)あに(しゅよう)の節を知らんや

聖典P275

虫恵 蛄(けいこ)とは、むぎわらぜみ、なつぜみのこと。ひぐらし

伊虫 こおろぎ

朱陽 夏のこと

今年一年を振り返って、漢字1文字で表すというのが、最近注目されてきている。漢字1文字というシンプルさも受けてか、テレビなどの報道で、よく取り上げられている。去年は、「愛」、今年は「命」(いのち)だそうだ。根拠は、今年天皇家で男子誕生したことが一番。それに加えて、いじめによる自殺。酒酔い運転による痛ましい交通事故死など「命」が軽んじられていることが、加えられて「命」となった。いのちを大切にということだろうか?しかし、多くの人が命を大切にと大合唱しても、いのちを大切にするのだろうか?私は、疑問に思う。

表題の上記の言葉が思い出された。教行信証といって親鸞聖人が書かれた書物の中に、人がしていることは、人では分からない譬えとして、中国の言葉を引用したものだ。

「ひぐらし」という蝉は、春も秋も知らない、夏に生まれて夏に死ぬ虫である。しかし、この虫が夏に生まれるからといって、夏を知っているということではない。夏と分かるのは、四季と通して、初めて夏と分かるのだ。秋に成虫になって鳴くコオロギも夏は分からないのだ。

この譬えは、あることが分かるためには、一部だけみても分からない、全体を通してみて、初めてある一部も分かるということを教えてくれる。

命(いのち)を大切にということであれば、生きている命とは別に、死というものも真剣に見つめる必要がある。限られた命を感じるためには、死を見つめなくてはならない。核家族で、死ということが本当に分からなくなった。葬儀でも、町内や職場の方の手伝いが少なくなり、葬儀社の専門の方がすることが多くなっている。小学生ぐらいの子供は、死んでも生き返ると思っている人が、4割以上いるというのも驚きだ。(前述)死の恐怖というのも、分からない気がする。

又、大切な命を養うために、命を奪っていかなくてはならないということにも気がつくべきだ。さかなの命、鳥の命、豚・牛の命。水や塩などを除いて、カロリーになるものは、私たちは、命あるものしか食べられないのだ。

感謝なども、現実に色々な事が見えて起こってくるものだ。現代は、職業が細分化され、汚いものや嫌なことは見せないようにしている。それでは、人間は大切な生き方に気がつかないのだ。

(2006.12.23 今年の漢字1文字をみて)

いのちと意思

最近、いじめによる自殺が相次ぎ、文部科学省伊吹大臣まで全国の小中学校ひとりひとりに「いじめ」をやめよう、自殺をしないようにという文章を配布する状況だ。

 このような問題は、前から私たちの宗門で言われている「与えられたいのち」「無量なるいのち」が分からなくなったことが、本当の原因であると思える。

2011年、私たちは親鸞聖人の750回忌御遠忌(大きな法要)を迎える。その為、本山は、明治に建てられた両堂(御影堂・阿弥陀堂)の瓦の御修復などの事業を展開している。それに併せて、宗門が現代に親鸞聖人の教えを具体的に表したテーマを発表した。

「今、いのちがあなたを生きている」というものだ。国語力のある方ならば、この日本語はおかしいと思うはずだ。日本語、英語をはじめ、主語は人称である。それなのに「いのち」が主語になっているのだ。一般的な文であれば、「今、私がいのちを生きている」となる。この違いを、よく考えて見て欲しい。

 合理主義、近代哲学の祖、デカルト。彼は、「我、思う、故に我有り」という有名の言葉を残した。まさに、現代は、私の存在(いのち)は、意思(思う)ということと一緒にある。と考えられている。医療の延命行為を止めるのも本人の意思(リビングウィル)である。また、犯罪でも、精神病で犯罪行為を認識できない人は、罪にならない。こうゆうことも、意思というものを重視した考え方だと思う。

この延長上に立って考えれば、人生が嫌になった。生きることが辛くなった。だから、自分のいのちだから、自分の意思で死を決断する。何も間違ったことではない。となる。

現代の合理主義から考えれば、私もそのように思える。現代、合理主義を是として、自殺はいけないと言っても、矛盾に感じる。いのちを自分の所有物でないと考える事が、今一番大切なのだ。

ベストセラーにもなった「バカの壁」新潮新書003の養老孟司氏が、言っている。一発のピストルで「いのち」は奪える。死は可能だ。しかし、「いのち」を作り出すことは絶対に出来ない。無から生命のある有に移行することは、不思議である。
この現象を起こす「はたらき」を神が造った(わたしたには、無量なるいのちから生まれ出でた)と言える(要約)

「いのち」を私有化しない、「与えられたもの」「願われたいのち」の見ていく仏法の信心(価値観)に目覚めて欲しいものだ! 
(2006.12.6成道会を前にして)

関係ない?

 近くの美香保小学校から、学習発表会のご案内をいただいた。年忌法事の合間に、見に行った。13年ぐらい昔、美香保小学校の学習発表会で6年生の素晴らしい劇を見て以来、小学校劇の素晴らしさの「とりこ」になってしまった。それから、今日まで時間が許せば毎年美香保小学校の学習発表会には行っている。
 しかし、最初に見た劇ほど完成された劇には出会っていない。しかし、子供達が真剣に演じている劇は、魅力がある。そして、劇の役を通じて、子供達が相手の立場になってものを考える事が出来る。人格形成に非常に大変役に立っている気がする。今年の美香保小学校6年の劇は、考えさせる事が沢山あっておもしろかった。(もっと時間をかけて、見せる劇が出来ればなお素晴らしいものになったと思う。このごろ、劇をこども達が主体的、自発的に制作したという言い方をすることが多い。しかし、私の個人的意見としては、それは先生の教育放棄に思える。こども達が自主運営しているのだから、完成度が高められないという言い訳、逃げ道作りに聞こえてくるのだ。小学生の劇は、劇そのものを子供達は知らない。先生達の劇に対する情熱を子供達に伝えれば良い。学ぶ事は真似ることから始まる。素晴らしい劇で良い役を演じて感動した子供は、次からは(中学年代以降)自分たちで動き出す。実際にそのようになった子を私は知っている。感動していない子供が劇を制作しても、見るだけでも疲れる劇になる。)

 話が横道に逸れた。今年の6年生の劇のあらすじは以下のような内容だ。劇の題名は「未来からのSOS」 そもそも、未来を知ることができたなら?不思議なリモコンにさわると未来の自分が現れて、壮大な「新世界の音楽」にのせて自分の未来、友だちの未来、そして地球の未来を救う旅が、描かれていました。未来の自分が非行に走っている。その自分を、更生させようと奔走する今の自分とその仲間の姿。小学生の子供が、高校生不良役、年頃の子供を持った親の役を演じるなど、見ている者に本当に興味を持たせてくれました。演じた子供達は、親の気持ち少しは分かったでしょうか?戦争になっている国の子供が登場し、敵・見方になって争っている。日本は平和だから私たち日本の子供には関係ない?という見方を否定しようとした劇の意図が、感じられました。

確かに、日本人は、狭い部分でしか、自分との関わりを見られないようです。今回の学習発表会の時もそうです。各学年の自分の子供が出るときだけ親が来ています。自分の子供の発表が終われば、ぞろぞろと帰ります。ひどい人は劇の途中でも自分の子供が出なくなったら帰って行きました。また、人が見ているのに、前で平気でビデオを回しています。このような親に育てられているのですから、思いやりをもつ事など育つわけがありません。
 他の学年の色々な劇を見て、帰ってから自分の子供と話し合う。このようなことは出来ないのでしょうか?6年生の劇などは、こども達と「戦争と平和」とか「家族」ということに話し合う格好の話題だったと思います。

 仏教が、大切にする考え方が「縁起」の思想です。みんな「つながり」があるということです。「持ちつ持たれつ」です。仏教が、分からなくなった時代、関係ない?時代になったのでしょう。「縁起」の思想が、今ほんとうに求められています。

(2006.10.29 近くの学習発表会に行って)


いい顔だ!いい顔だ!

毎年、大願寺の報恩講に、札幌大谷附属幼稚園の子供がお参りに来る。今年は10月5日の日だった。約200名。
悲しいかな、大願寺の報恩講で、一番のお参りの数である。毎年思うのであるが、大谷幼稚園の園児は、本当にしつけが出来ている。
私の話をじっと静かに顔をのぞき込むように見て聞いてくれている。

 今年の子供たちにお話したことは、報恩講の説明(しんらんさまが、わたしたちに、感謝することを教えてくれた事。
そして感謝する日が報恩講であること)と仏さまの教えをこれからも、聞き続けて欲しいということを話しました。

 近くの公立小学校集会の様子も見る機会もあるのだが、小学校に上がると子供達は、私語が増え、先生が静かにしなさいという声が飛ぶ。せっかくおとなしく静かに話の聞ける子供達が、小学校に上がるとうるさくなるのは、悲しいものである。
そして何より残念なのが、顔が暗くなるということである。今回あらためて、大谷附属幼稚園の園児の顔を一人一人見て、観察した。
本当にいい顔をしている。美人とかかわいいとは異なる。なんと言えばよいか分からないが、輝いているのだ。

 地獄は、獄という字が表すように、獣(犬)が吠えあっているのに、言葉が通じ合わない世界を表しているという。

 浄土は、仏仏相念という言葉があるように、見合っただけで相手の気持ちが通じ合うと言われている。

 人間界は、言葉を尽くしていかなければ、分かり合えない世界であると言う。そして絶えず、比較して、物事を理解する世界だという。人間は、増上慢(優越観)と卑下慢(劣等観)の間を行き来している人生である。

 このような歌があるのに気が付いた。

 いい顔だ!いい顔だ!おまえの顔はいい顔だ!

 おさるの顔より まだましだ!まったくだ!まったくだ!

 いい声だ!いい声だ!おまえの声はいい声だ!

 かえる声より まだましだ!まったくだ!まったくだ!

いい顔やいい声は、何も比較しないで、いいものはいいと言えば良いのに、おさるやかえるに較べて、判断している。

 私たちは、生きていると色々な出逢いが待っている。良いご縁もあれば、嫌なご縁もある。その中で、そのご縁を大切に、仏との出遇いにしていただきたいと思う。そこに比較しなくても良い、いい人生が待っている。

 幼稚園の園児がこれから生きていく人生に心から、エールを贈りたい!

(2006.10.11大谷幼稚園参拝に出会って)


ヒヤリ・ハット
大願寺では、文部科学省の委託を受けて、昨年よりボーイスカウトが中心となって「子どもの居場所づくり」をしている。
今年は、札幌別院(ボーイスカウト第9団)と組んで年24回実施することになっている。
(24回のうち、大願寺は5回実施予定)


実施にあたり、文部科学省から特に安全に配慮するために、実施に関わる方で「安全研修会」を実施しなけばならないことになっている。私も、昨年と今年受けさせてもらった。

安全対策の参加者に配布されるマニュアル本やそれに併せたスライド等も用意されている。ある程度、安全対策にたいして確立した研修会であった。今までの事故の起こった後の救急処置等の事後処理から事前の安全対策を考える事は、私自身意義深いものがあった。

 そこで、上記にあげた「ヒヤリ・ハット」という言葉が出てきた。300対29対1の法則というのだそうだ。同じ原因の場合、全体で300回ヒヤリがあった場合、幸運にも事故とならない関わりは、270回、軽症を伴う事故は、29回となり、不幸にも重傷を伴う事故は、1回となる。安全管理では、これを「ヒヤリ・ハット」と言い、分析し、背景となっている原因を排除する重要な手段と位置付けているのです。

 夏休み中、夏まつりや盆踊り会場など、お酒の出るビヤー・ガーデン等に、青少年の巡視に出ました。高校生年代の不良少年の同窓会みたい所です。中学時代問題のあった子供達は、必ず来ていました。夜8時を過ぎても、小学生が遊んでいるのです。
小学生年代の子供達に「もう遅いから早く家に戻りなさい」と言うと「お母さんが、ビヤー・ガーデンでお酒を飲んでいて、家に鍵がかかって入れない」というのです。これにはまいりました。
しかたなく「お母さんに、注意されたから早く帰ろうよ!と言って」と言いましたが。

 又、中学年代の子どもに注意すると、あまり面識のない子は、「何で帰らなければならないのだ!自分の事は自分で責任を取る」みたいなことを言います。

 仏教は、縁起の思想です。非行や犯罪に手を染める種(素質・因)を持っている子が、そのような環境にいると発芽します。しかし、そのような種(因)があっても、そのような環境でなければ発芽しません。植物の種が、あっても発芽しないような環境(水がない。温度が低い。太陽が当たらない。肥料がないなど)であれば、発芽しません。悪い因子を持った子供は、やたらに悪い環境を望むのも事実です。上記のような夏まつりには、不良少年の同窓会みたいだと言ったのも、このような事です。

 健全育成を望む大人の役割は、いかに悪い因子を持った子供に対して、悪い環境を提供しない。もっと前向き的に言うならば、よい環境を整備するかではないでしょうか?

 「ヒヤリ・ハット」の法則のように、全てが非行や犯罪に巻き込まれる訳ではありませんが、一割ぐらいの割合で、問題が起こっているのです。

 8月25日(金)夜10時50分ごろ、九州福岡市の「海の中道大橋」で飲酒運転していた市の職員の車が、多目的レジャー車(RV)に激突。RV車は、海に転落。3人の幼児が亡くなったニュースが入ってきた。良い悪いを言えば、飲酒運転をしていた22歳の市職員が悪い。しかし、事故の要因を考えると、夜は、飲酒運転も多い。犯罪に巻き込まれる割合は、多い。カブト虫取りが、大きな事故に巻き込まれた。

 夏まつりでの中学生の質問に返答します。夜になったら何故家に帰らなければならないのか?それは、犯罪に巻き込まれる危険性が高まります。また、自分が非行に走る危険性があります。一度事件になると、未成年者が自分では責任を問えません。みんなに迷惑をかけます。そして、どうしても償えない死にも至る危険があるのです。私は、ハッキリ言いたいです。
(2006.9.10 夜遅くなった青少年を見て)


今の子供達と接して

8月3日~8日、石川県珠洲市で、第14回日本ジャンボリーと言ってボーイスカウトの全国の集まりがありました。全国から約2万2千人が集いました。私は、お盆中でもありましたが、大谷スカウトの関係で宗教班の班長として参加しました。約850名の子ども達に、宗教関係で接しました。多くの子供達は、仏教徒であると言いますが、念珠の持ち方や礼拝の仕方が全く分かりませんでした。この事については、予想していた通りで、多くの子供達に、指導しました。これは、核家族が進んで、家庭で宗教儀式が正しく伝わっていないのです。直接子ども達に接することが少ない僧侶において、明確な信仰を奨励するスカウト運動に関わる事は大切な事だと思います。

 直接宗教には関わりがありませんが、多くの子供達と接して感じたことがあります。それは、現代の子どもは、毎日生きている最低限の生活が出来ていないという事です。今回北海道を8月2日に出発して9日に帰りました。北海道のスカウトが結構、健康をそこねました。その多くは、排便が出来ていないという事です。食べる事、寝ることは、何とかみんな出来ています。しかし、水洗トイレに慣れている今の子どもは、臭いにおいのするくみ取り式のトイレでは、用をたすことが出来ないのです。熱中症になった子どもいましたが、その子ども全員が、排便をしていないのでした。浣腸をかけ、つまった便を取るのに大変であったと、救護班の医師が言っておりました。

また、落とし物が大変多いのです。それは、物が豊かになり、物を大事にしないのです。物が無くなれば、買って足せば良いということになっているのでしょう。現在ボーイスカウトは女性も加入しています。生理用品や下着など数え切れないほど、落とし物として届けられました。そして持ち主が現れないのです。困った現象です。

 それから、あと一つ思ったことがあります。それは、困ったことがあれば、何でもリーダーや大人に聞いてくるという事です。ある程度分からないことがあれば、大人やリーダーに聞かなくてはならないのですが、何でも聞いてくる、自分で判断出来ない子どもが多いようです。宗教班で、所定の用紙に記入しなければならない事がありました。筆記用具の持ってこない子が、私にボールペンを貸して欲しいと頼みました。私が貸すと、そのまま使った後、返しに来ないのです。上記にも書いたように、物を大切に扱えないのですから、困った時は人に借りるのは当たり前。しかし、返すという行為が出来ないのです。それで、子ども達に筆記用具を貸すのは、やめました。筆記用具がなかったら、他の班員から借りる。もしくは、自分のキャンプサイトに戻って、取ってくる。ハサミを使うことがありましたが、同じようなことがありました。自分でハサミが必要なら、観察して何処にハサミがあるかを調べる。そして使用して良いかを聞くのが大切なに、最初から「ハサミ下さい」とリーダーに聞く子どもが、多いのです。上げ膳、据え膳で子供達が育てられているのです。

 基本的な日常生活を送り、物を大切にすることが、今問題になっている「いのちを大切にする」人間に育つのではないかと感じました。
(第14回日本ジャンボリーに参加して 2006.8.10)

人としての実り 

札幌では、今ライラック祭りが行われています。(毎年5月中旬に、開催)街じゅうにライラック(リラとも言う)の花が咲いています。ちなみにライラックは札幌の木になっています。北海道の春は、一辺にやって来ます。本州と違って、桜と梅が一緒に咲くのです。色々な花が、五月にいっせいに咲き乱れるのです。しかし、リンゴ・梨などの実をならせようと考えるならば、花が綺麗だとばかりは言っていられません。肥料を、前の年に充分にやる、いわゆる根回しをしないと、果実は多くは実らないのです。花は、あくまで受粉をさせる為に、虫たちを呼ぶ手段であり、木にとっては、「実り」というものが一番大切なのでしょう。

それにくらべて人間はどうでしょう!若いときは、青春であり、春です。何事にも、心ときめき、楽しいことも多いことでしょう。青春の真ん中にいる方は、気が付かないものかもしれませんが、青春でなくなって、往々に後で気が付くものです。若い時は、まさに花の咲いている時でしょう。若い時が過ぎ去った後に「実り」にあたるものは、人間にあるのでしょうか?肥料は、人に蓄えられているのでしょうか?こう考えて見ると、人としての肥料に乏しいのに気が付きませんか?若い時から、蓄えておかなければならないものに、仏法を聞くという事があります。若い時には、仏法を聞きたいと思わないと思います。それは、青春を謳歌する事には関係ないからです。花を咲かせる事にも、直接は関係ないからです。しかし、人生というその場限りでない生き方を考えるとき、必ず、仏法という肥料が必要になってくるのです。人間を熟成する教え、完全燃焼する教えに仏法があるのです。どうか、若い時から、仏法を聞く事を忘れないで頂きたいと思います。(2006.5.24 お寺のライラックが咲いているのを、見て)


ハルとナツ届かなかった手紙の再放送を見て

橋田壽賀子原作のテレビドラマが今NHKで再放送された。この番組は、以前から興味があり、前に放送された時も、最初の第1話だけ見られなかったももの、後の放送は見た。それなのに今回も録画しながらまた見てしまっている。私にとって非常に関心があるからだ。

物語は、戦前戦後日本に取り残されたナツの人生と日本から移民した家族、とりわけハルのブラジルでの生活を対比させながら、70年の生き様をドラマにしたものだ。橋田壽賀子が、以前テレビに出てこのドラマを作製したいきさつについて、語っている番組を見たことがある。ブラジル移民80年を記念して、NHKから依頼されてこの番組を作成した。実話ではない。決まったモデルがいた訳ではない。移民した方の色々な話や記録資料を見て一般的な移民の苦労を描きたかった。それと併せて、今の日本の家族と比べてブラジルへ移民した家族が、より日本的な家庭を保っていることも描きたかった。このことを通して今の日本の家族のあり方に警告を鳴らしたいと言っていた。

 確かに、今の日本の家庭はどうかしている。核家族が進み、祖父・祖母が家庭にいない。結婚はしないし、結婚しても晩婚。子どもの出生率は、1.23人ぐらいである。これは、日本の平均であって、札幌は1人を下回っているという情報も聞く。結婚してもすぐ別れてしまう。単身家庭(父親、母親一人で子育てをしている家庭)も多いし、生活保護を受けている家庭も多い。一人っ子が多いから、自然と甘やかすから、我慢が出来ない子やわがままな子が多い。親を尊敬しない。況やご年配の祖父や祖母に対しての愛情もない、など問題点をあげれば、枚挙にいとまがない。

 第二次世界大戦があって、日本でもブラジルでも、大変な苦労、激動の時代を生きてきた。しかし、日本とブラジル移民との決定的違いは、家族を大事にするかしないかの違いである。ドラマの物語も、ハルが老後、ナツのいる日本の家族の近くに住み人生を終えたいと日本にやって来たのだが、反対にナツを連れてブラジルで暮らすということで終わりになっている。本当に、考えさせられる。金しか見えなくなった日本人。日本の教育が狂っていたのだろうか?

 さて、実は今回のドラマに興味が引かれる訳が、別にあるのです。それは、大願寺とブラジル移民とある家族を通して非常に密接な関係があるということなのです。テレビの物語の家族(高倉家だったか?)が、北海道出身となっている。これは、興味深いことである。橋田さんが、色々な資料からそう設定することが、自然だったからと思われる。明治時代に、北海道に本州から新天地を求めて多くの入植者が入った。ところが、明治の初期に入った方は苦労もしたが、利便性の良いところでの開拓であった。しかし、遅れて入植した人々は、利便性の悪い所か、もしくは土地を持たない小作人になるしかならなかった。

北海道での生活は厳しいものがあった。冬が越せないと思う日々も続いたことが想像出来る。そのような時に、ブラジル移民の話が、パラダイスのように伝えられた。テレビの物語では、次男三男の家族が、ブラジル移民になっていった。大願寺の場合のある家族は、北海道大学の農場の小作人であった。長男本家が、新天地ブラジルに自分の土地を求めて旅立っていった。札幌には、次男家族・三男家族が残った。親や長男本家は「これから日本での本家は、おまえ達だ。お寺(大願寺)のことは、よろしく頼む」と言って旅立っていった。

戦前・戦中の暮らしは、ブラジルも日本も変わらないように厳しいものだったに違いなかった。ところが、戦後、様子が大いに変わった。小作であった人々が、農地改革のお陰で働いていた土地が自分のものとなったのだ。しかも札幌は都市化が始まった。それまでの農家は、泥炭混じりのやせた土地で、トウキビとタマネギを中心に作っていた。札幌村が札幌市に編入され、土地の利用方も畑地から住宅地に変わり、一挙に土地成金になっていった。土地を売って一時的には大金持ちになった人もいたが、博打やススキノなどで大いに遊び、没落していった人もいた。上記の家は、父・長男の意志を大切に守ってくれた。ブラジルに行った父や長男に対しての援助等はどのようなものだったか聞いたことがなかったが(その後、ブラジルの人々が、日本に来て大願寺にもお参りに来たことがあったので、それなりのお付き合いがあったと思われる)、自分のお寺、大願寺に対しては、豊かになった感謝の気持ちを含めて本当に良くしてもらった。それに加えて次男夫婦は、大願寺の聞法を欠かすことがなかった。三代目住職北秀一は、何かあったらこの家族をあてにしていた。昭和37年の大願寺旧庫裡新築、昭和44年親鸞聖人700回忌御遠忌法要の時など、本当にお世話になった。ご本尊を安置する須彌檀(しゅみだん)宮殿(くうでん)や親鸞聖人の御厨子(おずし)や三男と協力して巻障子などを寄付していただいた。

 もちろん大願寺の責任役員を死ぬまで、勤めて戴いた。三代目住職が、具合が悪くなって、私が法務をするようになってから、北大のインド哲学の仲間と中国仏跡参拝旅行に行こうという話があった。その時、父がもう反対した。その理由は、上記の責任役員が亡くなった時、誰が葬儀を執り行うのか!というのが理由だった。私は、別な用事もあったので旅行をあきらめた思い出もある。それぐらい父は、責任役員に恩義を感じていた。しかも頑固であり、融通のきかない所もあったが、ハルとナツの親みたい憎めない日本人そのものであった。父が平成元年10月27日に亡くなった。上記の責任役員は、平成4年3月27日に亡くなっている。第三世住職(父)より後に亡くなったが、父が生前に生存法名として「大願院釈念西」と付けてあった。念西は、生前に「おかみそり」(仏の仏弟子になる儀式)を受けて戴いた名前に、大願寺に功労があったと言う最大の賛辞を込めて院号を贈ったのであろう。

現在の会館庫裡の新築する時、募財の話が持ち上がった。その時上記の責任役員は、会館庫裡よりも鐘楼堂が、欲しいと言ったことがあった。責任役員一人でも鐘楼堂を建立する意気込みを感じた。しかし、時代の流れから考えて、先にどうしても会館庫裡の工事をしなければならなかった。私は、会館庫裡が出来れば、必ず鐘楼堂は建立すると、上記の責任役員に約束した。責任役員は、私を信じ納得して会館庫裡の寄付に応じていただいた。平成8年に鐘楼堂が完成したとき、残念ながら生前には見せることが出来なかったが、約束を守ったことを、鐘を撞きながら、念仏を申しながらお浄土に報告させてもらった。

長々と、つい本家親・長男がブラジルに行き、残された次男家族・三男家族と大願寺のつながりを話してしまった。親・長男が、お寺(大願寺)をよろしく頼むと言わなかったら、今の大願寺とはなっていなかったことは、間違いないことは確かである。 2006.3.31


ライブドア(堀江貴文)事件について思う.
1月23日に證券取引法違反(偽計取引、風説の流布)の疑いで堀江容疑者らが逮捕された。

堀江容疑者は、ホリエモンのニックネームまで定着するほど、プロ野球球団買収、日本テレビ買収

、衆議院選挙に立候補などと、時の人として世間からもてはやされた。特に若者に絶大の人気があ

ったという。独自にベンチャー企業を立ち上げ、大金持ちなったとうことで、憧れの人になったのであ

れば良いが、株などでもうける。俗に言う額に汗して働かなくて儲かる代表として、若者達に人気が

あったのであれば、その風潮が恐ろしい。 日本テレビの株を買収する時に、時間外取引のことが

話題になりました。株の世界の事は、私は詳しく分からない。勿論、時間外取引も法律で認められ

たものなのでしょう。しかし、その時の堀江さんの会見の中で、「よくないことであるならば、ルールブ

ックにきちんと載せれば良い。ルールブックに載っていないのだから」と、このような発言をした。こ

れは、法律の規制がなければ何をしても良いという考えだ。法律とは、そんなに完全なものだろうか

?私は、すぐに亡き祖父のことを思い出す。祖父は、昭和35年交通事故で亡くなった。車が世間に

あふれ出した頃だ。交通法は、まだ完全ではなかった。祖父が、スクターに乗っていた時、バックし

てきたトラックにひかれた。一方的にトラックの運転手が悪い。しかし、その頃は、自賠責保険もない

。況や任意保険も無かった。私たち家族には、相手からのわずかなお見舞い金が支払われただけ

だ。その後、加害者からのお詫びや亡き祖父へのお参りなどは、一切なかった。交通事故が増え、

交通遺児などという言葉も生まれ、交通法が改正になって、自賠責保険の強制加入、任意保険制

度が確立した。法律というものは、問題が起こってから、後から後から成立するものだ。日進月歩で

開発される機械(パソコン・インターネット・携帯電話)に対する規制や法律などは、まだまだ不整備

だと思われる。新しいIT産業に対しては、法律が追いつかないのが実情だと思える。だから、堀江

容疑者逮捕の後から、株の協同組合など会社関連の法律を改正しなくてはならないという議論にな

っている。完全でない法律という認識に立てば、法律にないから何をしても良いという考えは、間違

っている。しかし、多くの若者は、このような考えなのであろう。私のお寺でやっている少年団の子ど

もが年末の大掃除をしてもらったことがあった。ここが汚いので、掃除してもらいたいと頼んだ。後か

らその場所を見たら、指定した場所だけが綺麗になっていて、その部屋の他の場所は、汚いままで

あった。どうして、大掃除なのだから、「ここ」という範囲を指定された部屋と受け止められないので

あろうか。子どもに尋ねると、言われた所は、しっかり掃除したと答えられた。何か、人間の思いやり

、気遣う心が欠けている気がする。そして、若者が、3K(きつい、きたない、危険)の仕事を極度に

嫌うのは問題があると思う。堀江さんが「金で何でも買える」と発言したような報道があった。事実は

どうであるか分からないが、そのことに同情した人が、多かった。なぜ、このようなことはおかしいと

言えないのだろうか?それぐらい、人間の営みが、貨幣経済だけになっているのだろう。宗教的価

値観、倫理観も人間にとって大切だ。「お金で、何でもは買えない」しっかり言っておきたい。このよう

に言えないのは、貨幣経済しか教え込まれていない家庭教育に問題がある。(若者だけに問題があ

るのではなく、若者を育ててきた親の年代にも問題があるのです。)このような現在の日本が恐ろし

いです。風潮が恐ろしい。私には、ライブドア事件(堀江容疑者)が、まさに日本の若者気質を代表

しているように思える。
                  (2006.2.10)

おじいちゃん、おばあちゃんの出番!
 
毎日、毎日青少年の犯罪事件が報道されている。今日のニュースは、東京都町田市の都立高校1年生の女子生徒が、同級生の男子生徒が殺人容疑で逮捕された。男子生徒は、女子生徒に好意を抱いていたが、団地内で、首や頭など持っていた刃物でメッタ切りにして殺したという。正確な情報は、これから明らかになると思うが、このような事件は日常茶飯事になってきた。
 大谷スカウトの研修会で、現代の青少年事情を知ろうということで、札幌市の教育委員会の指導主事に来てもらって講演してもらったことがあった。その指導主事さんが推薦してくれた本に、正高信男著“ケータイも持ったサル”「人間らしさ」の崩壊という中公新書(1712)の本が、あり思い出された。
 内容は、「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまった。
 このような内容を、気鋭のサル学者による動物としての人間の視点から家族論・コミュニケーション論が述べられている。私と見解を異にするところはあるが、多くは私が普段思っていることを言い当ててくれている気がした。特に著者は強く力点を置いていないようだが、人間の寿命に触れた話は、特に関心があった。(本P147-152)
 それは、動物の平均寿命というのは繁殖に関係している。ほ乳類以外では、産卵出来る間は生きている。卵を産めなくなった時点で死を迎える。ほ乳類は、子どもを産み続け子育てが終わると命が終わるようにできている。しかし、人間だけは、例外であるという。ほ乳類としての人間の結婚適齢期は、15才である。実際に、明治時代以前では人類の歴史上、15才ぐらいでずっと結婚してきた。結婚して子どもを産めば、親が30才になる頃には、息子・娘が15才になり結婚し子どもが生まれた。当然おじいちゃん、おばちゃんとなる。昔は、衛生状態や医学が進歩していなかった故、現在の様な長寿社会ではなかったが、平均寿命が30才ということではなかった。人生50年と云われたこともあったから、50才ぐらいの平均寿命はあった。当然おじちゃん・おばちゃんと呼ばれる人間の家族構成があった。人間だけが、自然の節理に反して、繁殖に関係なく寿命が決められているのかという問いに対して、答えは「違う」。人間の寿命も繁殖に関係して決められていると言う事です。それは、おじいちゃん・おばちゃんも孫育てに関わりがあったということだ。人間は、両親だけでは、子育ては成立しないのです。色々な人間関係の中から、人間らしい「心」が育っていくのです。学校教育・家庭教育・社会教育(地域社会教育)を通して愛情が注がれ、子どもの心が成長していくのです。
 況や、単身家庭(母子家庭・父子家庭)では子どもは育たないのです。この言葉だけを見ると偏見や差別のように思うかも知れない。だからこそ単身家庭では、おじいちゃん・おばちゃんの力が必要なのだ。叔父さん・叔母さん、従兄弟なども、子どもの成長には、必要なのです。一人っ子であればあるほで、多くの回りの環境に同じ年代の子どもが必要だ。人間は、一人では、人間らしい心が形成されないのだ。
 何か、現代の教育には、このようなことが忘れていないだろうか?一人っ子で、多くのお金をかけて、ピアノやバレーを習わしたり、野球少年団やサッカー少年団に入れれば将来は、プロになって良い生活が出来ると考えているのではないだろうか。あまりにも経済優先の論理だ。人間の「心」が育っていない人ほど、悲しいことはない。法律・経済では人間は育たない。多くの愛情によって人間は育つのだ。
 教育が荒廃しているとき程、宗教心を教えるおじいちゃん・おばあちゃんの役割は甚大だ。おじいちゃん・おばちゃん!出番ですよ! (2005.11.12高校生殺人を見て)


少子化の問題を思う

国の衆議院が解散になって、8月30日に公示される。今回の選挙は、争点が郵政民営化の是非、政党選択の選挙など、今までにない解散、総選挙ということで、選挙に関心を示す割合は高まっている。新聞・テレビ等の報道機関では、連日連夜、政治関係の番組が放映されている。わたしも嫌いではないので、「刺客」「新党」などの言葉の飛び交う政治番組を見ている。その中で、各党の討論の論戦の中心にはならないが、国民が一番関心のあるのは、年金問題であることが分かった。日本は、既に出生数よりも死亡数が多い国になった。よって人口は減少している。しかも、老齢人口は増え、幼児の人口は増えていないということだ。現在のスライド制(働いている人の社会保険等で払われたお金が、今の老人に支払われている)の年金では、現在働いて積み立てても、その人が老人になった時に支払われるお金が無いのである。これを何とかしなければならないと与野党ともに思っている。しかし、事が大きく重大な為、マニフェスト(選挙公約)にもなかなか入れられない問題であるようだ。だから、与野党とも、年金を払う子どもの増加、出生数を増やす話になっている。子どものいる家庭に「子ども手当」を出すとか、「優遇税制」を適応するような話だ。しかし、お金の問題で子どもが増えるのだろうか?また、育児所、託児所を増やして、女性に育児の負担を少なくすれば、子どもが多くなるのだろうか?お金の問題は、無いよりあった方が良いに決まっているが、それでは子どもが増えるとは絶対に思えない。こんなお金のことを言って、少子化対策を考えているとしたならば、これこそ問題だ。
 私は、少子化の一番の問題は、女性の意識の変化であると思う。また、核家族化が原因であると思う。昔は、女性の幸せは、好きな人と結婚して、子どもを生んで、温かい家庭を持つことに理想を置いた。結婚しない女性は、周囲からも白い目で見られた。しかしこの頃は、周囲との付き合いも薄いから他人の目も気にしなくてもよくなった。結婚だけが人生ではないという考えも強くなった。また、結婚して、育児を喜びと考える女性もいなくなった。(また、そのように考える風潮も減少した気がする)育児を教えたり助けたりする姑も同居していない。いろいろな考え方があるのは理解できる。そしてどの考え方があっているとか間違っているというつもりもない。しかし、少子化を防ぐ一番の方法は、早期に結婚して多くの子どもに恵まれて、人生を暮らすことを幸せと思う社会作りである。現在は、ほ乳類としての結婚適齢期と経済面での結婚適齢期があまりにもズレがある。お金が無いから、子どもの教育が出来ないなどと平気で言う。あるお金の中で、子どもに我慢させて教育することはしていない。親の生活状況とは関わらず、子どもは一般的に贅沢である。このような考え方が一番の問題である。人は、一人では生きて行けない。苦しいことつらいことを乗り越えて喜びがある。このような考え方の根本には、罪悪深重(ざいあくじんじゅう)と見る凡夫の自覚が必要だ。人は弱い。一人では、生きられない。ともに助け合って生きていくことが大事である。だから結婚するのだ。相手に理想を追い求めても無駄である。もし理想に一致する相手ならば、今度は自分が合わないはずだ。(そんなことが今の方には分からない)お互い欠点だらけである。しかし、欠点だけを見てもしょうがない。(人は欠点だらけである)ともに苦労しあえるものを見つけなくてはならない。それが浄土かもしれない。やはり、持ちつ持たれつの理解の出来る宗教心の欠如が一番の問題なのだろう!また、同じ結論に達してしまった。
                                      (公示日を前にして8.29)


JR宝塚線再開に思う
6月19日、事故発生から55日にぶりにJR宝塚線が開通した。それに先だって、18日、脱線事故の合同説明会が行われた。再発防止のための安全性向上計画の理解と今後遺族や負傷者への補償の個別交渉の日程調整の会であった。会は、遺族の心情に配慮して報道取材を規制して行われた。(良いことだと思う)亡くなった107名のうち90名の遺族が出席、JR西日本の会社への批判や要望が噴出したと伝えている。ニュースでは、亡くなった17名の遺族の方が、説明会拒否欠席。また、参加した多くの方が、まだ補償の問題を話し合う状況でないと言っていた。遺族の心情は痛いほどよく分かる。一人息子や娘、最愛の夫や妻。一瞬の出来事。別れの挨拶もしないで、永遠の別れ。補償金をいくら貰っても、亡き人は戻っては来ない。遺族の意向を尊重すれば、補償交渉は長期化するだろう。(遺族の意向は、亡くなった方を返して欲しいといことに尽きる。どんな誠心誠意の対応であろうとも、それは不可能な事だ)
 そこで思うのである。遺族の気持ちは上記に書いた通り、よく分かる。しかし、亡くなったことの事実を受け入れられなく、いろいろ不満をぶちまけている姿を何回も何回も放映されているのを見て、何時までもこのような事が続くのかなと思うとゾットする。
 人がこの世に生を受けた以上。みんな何処かで死んでいく。諸行無常である。親より子が先立つ事だってよくあることだ。昔は、子どもが何人いても、大人にならないで亡くなっていくのが多かった。戦争もあり飢餓もあった。医療状態もよくなかった。死が身の回りの出来事だった。現代は、日本では戦争もなく、医療も向上して、回りから死が見えなくなった。だから死ぬことを忘れたのでないかと思う。現在、結婚して子どもの出生率が、1.27人ぐらいである。2人の夫婦が1人の子どもしかいないのが、現状である。1人の子どもが、大人まで成長すると思っているのだろうか?また、親より長生きすると思っているのだろうか?それこそ妄想である。平均的には、多くはそのようになる事実かもしれない。しかし、我が子がそのような思っているように進むとは限らない。今回のような事故に遭うかもしれない。また、予期せぬ病気や町を歩いていただけで、まったく見知らぬ人に刺されて死ぬかも知れない。不確実な人生なのだ。それをあたかも自分の思ったように生きられると思っているところに、最大の悲劇があるのではないだろうか?
 現在は、感謝の言葉「有り難う」が消えた。(有ることが難しい。それが不思議にも思い道理になった。これが感謝なのです)ところが、みんな「当たり前」になってしまった。当たり前だから、何か思い通りに行かないと不平不満がでる。何も悪いことをしていないのに、何故自分だけこのようなつらい目に遭うのかと思ってしまう。挙げ句の果て、このようにひどい目に遭うのなら、神も仏もいるものかと思う人もいる。
 思い道理に行かないのが当たり前なのです。見方が、まったく異なっているのです。
人間の身勝手な、生き方考え方を、気が付かなければならない。
(2005.6.20 合同説明会のニュースをみて)

尼崎脱線事故に思う
4月25日、死者107名の大惨事が起きた。一瞬のうちに、尊い命が奪われた事故に対して、心より哀悼の意を表したい。事故原因は、専門家による調査の最終報告が出た後でなければ、軽率な発言は慎まなければならないと思う。しかし、新聞等で指摘されているのは、運転手個人の問題に加えて、JR西日本の経営姿勢に問題があることだ。乗客の中に、JR西日本の職員がいたにも関わらず、初期救急処置をしないで逃げた事。それを上司に報告しても、会社に戻れという指示がなされたこと。当日JR西日本車掌区でボウリング大会が行われ、事故が起き多数の犠牲者が出ているにも関わらず、試合続行していた事などである。
 私は、JR西日本に限らず人の命を預かる交通機関の方は、この自覚が本当に大事だと思う。私が飛行機に乗るとき、パイロットに私の人生を預けているのだと思うことがよくあった。利潤追求の為、過密ダイヤ。時間の遅れを取り戻すスピード。その結果、人命がおろそかになったということで、今回の事件は、私達に大切な事を教えてくれる。
 それにしても、日本人は急ぎすぎではないだろうか?ゆとりがない。スピードを上げすぎてはいないだろうか?
 私は、説教の中で人間の生きる人生を、汽車(電車)に譬えることがある。何か相通じることがあるからだ。人は好むと好まざるにかかわらず、オギャと生まれたからには、人生というレールの上に立っている。何処に向かっているかと問えば、多くの人は行き先が分からない。だだ、急いでいる。スピードを上げている。そんなに急いでいては、脱線もするだろう。回りの景色も見る余裕もない。只忙しい、忙しいとつぶやいている。
 たった一度の人生。先さきを追い求めるだけでなく、今日一日が尊いと言える歩みをしたい。そして終点は、お浄土に定める。往生すべき人生を送りたい。しかし、自分自身では、このような納得する人生はとうてい送れないから、如来のアドバイス(激励)に支えられて生きていかなければならないのだろう。
 子供が成長して、3人いる男の子のうち2人が札幌にいない。小学生がいなくなった。ゴールデンウイークになっても、子供達に何処かに連れて行ってくれとも頼まれない。子供が小さいとき、煩わしくも思えたゴールデンウイーク。本当に寂しくなった。その時その時を楽しまなければと、つくづく思う。  
                 (2005.5.5こどもの日に)

ニュースにならない!
日本地理学会という団体が、高校生や大学生に世界の国の位置をどれぐらい理解しているか調査したニュースがありました。結構大きく報道に取り上げていた。それは、日本の自衛隊イラク派遣、北朝鮮の日本人拉致問題・核疑惑、スマトラ沖地震と世界の国と日本といろいろ密接な関係があるからだ。昔のように鎖国して、日本の国だけで生活をすることは、決して出来ない時代になって来ている。世界の中の日本、国際社会の中で生きていく時代であるのです。
ところが、調査の結果は、驚くべきものだった。イラクについては高校生の半数に近い45・9%がどこにあるか分からない。お隣の北朝鮮の位置については、ほぼ4人に一人の23・9%が間違っていた。夏のオリンピックであれだけ報道されたにも関わらずギリシャの国は40・6%が知りませんでした。これでは、国際的なニュースが理解できない。色々な国と友好が保てないといったニュースでした。
 言っていることも、不安もよく分かります。しかし、へそ曲がりな私は、違うことを考えました。それでは、高校生に「あなたは信仰をお持ちですか?また、家の宗教が何だか知っていますか?」と問うたらどうだろうか?ほとんど分からないという結果になるだろう。解答率2~3%ぐらいであろう。イラクで誤爆を受け、家族を失って泣き叫ぶ母親が「アラーは偉大なり、必ずこの悲しみに報復を!」言っていたのが印象的だ。日本以外の多くの国では宗教が大事にされている。宗教的価値観に根ざして、道徳・倫理が形成されている。宗教が無くなると、倫理・道徳もおかしくなる。世界の国の位置が分からなくなっていると危機感を強める知識人・大人でも、宗教心が無くなっている社会には、何ら不安も危機感も持たない。ニュースにもならない。これが一番、私には恐ろしい。(世界の国が分からなくなった時代 2005.3.4)



2005年年頭あいさつ

明けましておめでとうございます。2005年(平成17年)酉年となりました。昨年一年は、漢字一文字で表すと「災」に象徴されるように、災害の多かった年でした。福井・新潟の洪水・18号・23号など台風被害・新潟中越地震・スマトラ沖地震による津波といろいろな出来事がありました。今年一年は、どのような年になるのでしょうか?いずれにしても起こった事は、嫌な事であっても受け入れていかなくてはなりません。色々な困難に打ち克つ心が大切です。この「心」が、今一番問題であります。この「心」がしかっりしていれば、どのような激動の年であっても、問題はありません。では、このような強い「心」は育っているのでしょうか?私個人としては、あまり育っていないような気がします。むしろ退化しているような気がします。
 今年2005年は、第二次世界大戦が終了して、60年経ちます。NHKなどの番組では、戦後60年の日常生活の変遷を映像で紹介しております。それを見るにつけ、生活スタイルが本当に変わったなあと実感しております。生活が豊かになることは、大変良いことだと思います。しかし、豊かさを追い求めているうちに、大事なものを、置き忘れした感がある気がします。助け合い、思いやり、我慢、忍耐などです。
 ある教育に携わっている方から現代の大学生の事について聞かせていただいたことがありました。連日連夜、報道機関では青少年の犯罪ニュースが流れています。このような状況からみて悪いことをする青少年の凶悪犯罪が増えているので、多くの青年が悪い人ばかりである印象を持ちます。しかし、一般の青年たちは、決して身なりとは異なり、純粋な心を持っていると言うのです。
 平成16年12月4日に、私は新潟中越地震義捐募金のために、札幌三越デパート前に立ちました。若い人で、身なりからは決して募金などの協力してくれない若者が結構、募金に協力をしてくれました。ですから私自身も、若者の「純粋な心」があるという点では、実感するところです。
  しかし、純粋な故、挫折することも多いというのです。ちょうとしたことで、ノイローゼになったり、精神病になったりするのです。しまいには自殺してしまうということです。 大学の教授は、ゼミの生徒の家やアパートを家庭訪問して、安否を確かめるといった話も聞いたことがあります。
 打たれ強い、逆境に耐えうる人間像が、これからの時代の若者に求められている気がします。
 仏教では、この世の事を「娑婆」(しゃば)と言います。意味は、堪え忍ぶところであると教えています。この世は汚い「穢土」であると言い当てられています。ワイロ・汚職があるのは、人間社会である以上、当たり前なのかも知れません。
 ところが、小さい頃から、物が豊かで何でも思い通りに出来る世代に育った子たちは、いつしかこの世を、努力すれば何でも出来る世界と間違えて生活してきたのかもしれません。努力すれが、必ず報われる。愛は、必ず勝つ。このようなことは、理想としては良いことかもしれませんが、理想と現実は異なります。この世を「娑婆」「堪忍土」と見る。しかし、心はきよらかな世界「浄土」を求めていく。「願生浄土」の心は、失わない。このような生き方が大切なのでしょう。これが、信心です。仏教徒なのです。
 泥の中から咲く蓮のように、汚い娑婆から、浄土を求め清らかに生きる人生を歩みたい物です。仏法を聞ける一年であっていただきたと思います。(年頭に挨拶したことを書きました2005.1.24)


信仰心で勝ったアメリカ大統領選挙??
日本時間11月3日の日は、アメリカ大統領選挙の開票速報がテレビに流れていた。私はあまりテレビを見ない方だが、世界の情勢を考えて気になったので、この日は当選が確実になるまで見ようと、長時間テレビの前に釘付けとなった。予想通りの激戦。日本の各局、各州の選挙人の人数は異なっているものの、日本時間夜10時ごろには、現役ブッシュ大統領の当選がほぼ決まった。(個人的願いとしては、イラク戦争に積極的に介入したブッシュ大統領より民主党のケリー候補に勝ったもらいと思っていた)
 アメリカの選挙を見ていて色々学んだことがあった。アメリカは、共和党、民主党の2大政党。各州の大統領を決める選挙人は、各州で勝った方がその州の選挙人全員取る方式であること。各州はだいたい両政党の色分けがなされている。(ニューヨーク・ワシントンなど東部とロサンゼルス・カルフォニヤなど西部は民主党地盤。南部・中部は共和党地盤。)よって共和党・民主党の色分けが鮮明になされていない2~3の州の選挙人によってアメリカ全体の大統領が決まるということだ。この2・3州にあたるのが、フロリダ州、オハイオ州、ペンシルバニア州ということだ。両候補もこの州を最重点州として、選挙に勝つために何回も訪れている。特に、前回選挙権が認められなかった、ヒスパニック系アメリカ人(スペイン語を話す南米系の移民が多い)の票が、勝敗を分けるとも言われていた。日本の多くのマスコミ関係者は、低所得者(ヒスパニック系住民に多い)の生活保護を重点政策に打ち出している民主党ケリー氏に、有利ではないかと伝えていた。しかし、実際はフロリダ州もオハイオ州も共和党ブッシュ氏が取った。色々な細かな理由(妊娠中絶・同性愛問題など)もあるだろうが、一まとめにして言うと宗教の差だと言っていた解説者がいた。 日本では考えられないが、アメリカ(失礼日本以外の国々)では、宗教がすべての価値観より優先される。ヒスパニック系の住人は、熱心なカトリック教徒が多いという。民主党の現状の快適な生活を公約したものより、来世を含め、信仰心の篤いブッシュ氏の共和党を支持したのだろう。
 アメリカが風邪をひけば、日本は肺炎になるとまで言われている。それだけ、アメリカの動きは、日本に影響を与える。また、世界の各国にも影響があるのが、アメリカ大統領なのだ。世界の関心は、イラク戦争に介入したブッシュ大統領の信任投票として見ていた。 しかし、結果として国内においては、信仰の篤いクリスチャンかそうでないかで決まってしまった感がある。
 これもある報道解説者が言っていたことだが、アメリカ人のパスポートを持っている人は約11%(ちなみに日本人は約26%)。パスポートを持っている方の多くは、ニューヨーク・ワシントンなど東部とロサンゼルス・カルフォニヤなど西部の人が多い。丁度民主党の支持基盤の場所に多い。中部・南部の方は、あまり世界に関心がない人も多い。それでいてアメリカが何でも一番と思っている人も多いそうだ。そのため、キリスト教が一番であり、絶対であると信じている。宗教心の篤いことは良いことだと思うが、他の宗教を認めなかったり、極端に軽蔑するのは、国際社会の中では問題である。
 ニューヨーク貿易センタービルが爆破された時(9.11)、ブッシュ大統領が、演説の中で、「異教徒がアメリカ(キリスト教社会)に攻撃を仕掛けてきた。十字軍として我々は迎え撃たなくてはならない。」と演説していたことを思い出す。
 私は、平和を願いつつ、一神教の恐ろしさ(単にイスラム教、キリスト教信者が恐ろしいと言っているのではない)を感じつつ、日本の仏教徒の役割の重要性をあらためて感じる。
(アメリカ大統領選挙が終わって 2004.11.6)

強き者、汝の名は女なり、されど母は弱し
(弱き者、汝の名は女なり、されど母は強しの諺をもじって)
ある御門徒(真宗では檀家とは言わない)の葬儀があった。お通夜で、乳飲み子が何人も泣いていた。「ずいぶんうるさいなぁ」と思った。最近は子供が少ない家族が多いので、色々な年代の人が親族の死に出合うことは大切な事だと言い聞かせて後ろでワンワン泣いている中、我慢して読経を続けた。法話の出来る状況でなかった。法話が途中で中断してしまった。まわりの参列者が、いっせいに泣いている赤ちゃん家族に視線が集まった。ようやくいたたまれなくなり、泣いている赤ちゃんが会場の外に出た。法話が終わり式場を出て、どんな赤ちゃんが泣いていたのだろうと廊下にいた赤ちゃんを捜した。見てビックリ。なんと、あやしていたのは、男性の夫2人。妻たちは知らん顔して会場の中にいたのだ。(泣いていた赤ちゃんのうち、母親があやしていた赤ちゃんは泣きやんだ)泣く赤ちゃんの家族に外に出なさいという人もいない。お通夜が終わって、お寺に帰ってお通夜の話を妻に話した。私の妻も、自分の子供が赤ちゃんの時、泣き出した赤ちゃんを静かになってもらいたい場面に何度も遭遇した事があったと言う。赤ちゃんを静かにする方法の一番は、泣き叫ぶ口を乳房に含ます事だったと言った。私も思い当たる事がある。よく人前で授乳している姿を見かけた。今は、ほとんどそのような光景を見たことがない。女性にとって人前で、乳房をさらすことは、抵抗のあることだ。しかし、女と母とを天秤にかけて、泣き叫ぶ我が子の為、まわりに迷惑をかけないために、母をとったのだろう。泣き叫ぶ赤ちゃんを、止める事の出来るのは、母乳を与える事が出来る母親だけなのだ。残念ながら、父親は、母親の代役は務まらない。人前で化粧する女性は増えているという。それは、周りの人は、自分には関係ない。人と見ていない風景だという傾向からきているという。そこには、恥ずかしいと概念はなくなった。今しきりと、常識・自己責任ということが問題になっている。そのような中で、「恥ずかしい」「まわりへの配慮」ということが、大切なことではないだろうか。そして、まわりの方が教えることも大切な気がする。女性は強くなったが、母は、弱くなったそんな気がする。
  (2004.11.4 自己責任という言葉が放映されている中で)



罪悪深重(ざいあくじんじゅう)
朝夕がめっきり寒くなり秋を感じる季節となった。年をとったのだろうか、しきりに子供時代のことを思い出す。秋の今頃になると、お寺の物置の部屋に、ネズミがやってくるのだ。ガサゴトと天井などからも、ネズミの来襲を告げる音がするのだ。お寺は、色々な人の出入りがあるため、家の中で飼う動物は禁止されていた。(今のお寺は公然とおかまいなく家でペット飼っているところも多いのだが)だから、ネズミをとる猫もいなかった。
 秋になると、「猫いらず」「ラットライス」をネズミの通る所に撒いた。そして「ねずみ取り」を仕掛けるのだ。ちなみに、「ねずみ取り」とは、太い針金で出来ていた。そして細かい針金で網こまれているカゴである。ねずみの好きそうな餌をつり下げておく。(かぼちゃの種が多かった)それを見てねずみが餌を採りに入る。カゴの中に入ると出られなくなってしまう仕組みになっているのだ。仕掛けは、昨年亡くなったS法務員が担当だった。小さかった私は、お手伝い。(怖かったのでほとんどがS法務員がしてくれた)仕掛けた次の朝になると、尻尾を除いて約25CM以上のどぶねずみが入っているのだ。時には2匹以上も入っていることもあった。目を合わせるのがとても怖かった。それを、殺さなくてはならないのが、また大変な事であった。大願寺の場合は、古い庫裏(住宅)の横に池があったので、ねずみの処理は、水責めであった。かごごと水に浸けるのである。池まで「ねずみ取り」をS法務員が運び、池に入れてくれる。かごが浮くので、棒で浮き上がらないように押さえるのが私の役目だった。ねずみも必死である。いいかげんな気持ちでやると逃げられてしまう。ねずみを逃がすと復讐されるとか、増えると教えられていた。 水の中で、苦しみながら死んでいくねずみに「ごめんごめん」と謝り、無意識に念仏を称えていた。
 殺したねずみは、これまたS法務員が作った軟石の畜生塚に埋めた。この畜生塚は今でもあり、私の子供が、飼って亡くなったカブト虫やクワガタなどを埋葬した。また、道路で車にひき殺された野良犬・野良猫も、私が見つけたときは、連れてきてここに埋めてある。そしてお盆には、必ず子供と一緒に畜生塚にお参りしている。
 私が子供の頃、親に何も言われなくても、人間の残酷さ、罪の深さを実感できた。殺さずには生きていけない人間の悲しさを感じた。自ずから念仏が口からでた気がする。
 物が豊かになり、環境も整備され、ねずみもでなくなった。しかし、その反面、生かされている「いのち」の実感はなくなったのではないだろうか?
 最近、インターネットで知り合った仲間が、7人集団自殺したニュースが飛び込んできた。まさに、現代を象徴するような事件だ。自殺した人たちは、「ねずみ取り」をしたことがあるだろうか?生きたい生きたいとするねずみを、ごめんね・ごめんねと言いながら殺したことがあるのだろうか?残酷と簡単な一言で済ませているのではないか?すえ通らない慈悲心。
 織田信長の妹、お市の方が夫浅井長政が小谷城落城し自害した折、後を追って自害しようとした。織田信長から妹お市を自害させてはならぬの命(めい)を受けた木下籐吉郎(のちの豊臣秀吉)は、浅井長政の家臣の遺体をお市の通る所に置いた。腐敗して、うじの湧いている悲惨な姿をみせ、今亡くなると、このようなものだと教えた。長生きして、菩提を弔った方が良いと勧めたと何かの本で読んだことがある。
 実際に、経験していないと、生かされている「いのち」の実感がないのも事実であろう。
願われている「いのち」をねずみ取りをした頃を秋の訪れとともに感じる今日このごろである。
(2004.10.17)

台風が来て想うこと
今年の夏は、本当に暑かった。又、アテネ・オリンピックや苫小牧駒澤高校の甲子園優勝もあり興奮した毎日を送った気がする。秋に入ってからは、札幌では滅多にない台風の直撃。大願寺は、木々が沢山あるのだが、たいした被害はなく、ほっとした。しかし、どうも北海道の人は、台風十八号の報道を聞いても北海道に来る頃には温帯低気圧に変わっているだろうなど台風に対して呑気な気がする。それは、呑気でいられるぐらい、台風の被害がなかったのだと、改めて感じる。(しかし、一歩間違えば大変な被害になるのだ。私は、9月8日の日、JRが台風の影響で止まっている時、自家用車で帯広まで行った。後で考えると恐ろしくもあり、無謀であった。事故遇わなかったのが不思議であった。今考えてもゾットする。木々が風で将棋倒しのように次々倒れていくのが真横で見たのだ。)
 世界では、いろいろな国で、戦争やテロによる爆発があり、多くの方が亡くないる。これらの国では、同じ場所に、時代ごとに民族・言語・宗教の異なった国が建てられてきているのだ。島国である日本は、歴史的にみても、他の民族に支配されるようなことはなかった。北海道での台風の災害のように、被害に遭っていないものは、家族がばらばらになったり、血で血を洗うような悲劇の状況が、よく理解出来ないのだろう。しかし、その中で世界の状況を見つつ、日本の風土、伝統に感謝する気持ちも考えてみなくてはならないと思う。
日本が、島国であるという事に加えて、日本の伝統・思想の背景には、仏教の「和」の精神。不殺生の考え。縁起の思想などが底流に流れている。しかし、現代では、そのような考えを生む土壌が完全に崩壊してきている。それは、核家族化が進み、親から子そして孫への引き継がれてきた家庭の伝統が相続されなくなった。 一つの例を出してみよう。今お仏壇(真宗ではお内仏と言う)は、そこの家で誰かが死んだ家庭でないとない。仏壇は、大抵じいちゃんばあちゃんの家だけにある。だから、若い人たちは、感謝して毎日仏壇に手を合わせるという習慣は、まったく生まれてこない。仏壇は、報恩感謝の日暮らしの中心。自己の生き方を見直す場でもある。しかし、現実は、死んだ人の位牌や霊を祀る場所だけになっているのではなかろうか。いわんや多くの若い人たちは、お寺さんやお坊さんとの付き合いはまったくない。小学生以下の子供達は、お寺さんお坊さんの存在自体、ほとんどの子供達は、分からないし無縁の存在だ。
 大願寺では、毎年四月八日「花まつり」に花御堂を、本堂の前に置いて、誕生仏に甘茶をかけてもらっている。案内看板立て、多くの方に、甘茶をかけてもらうようにしているが、現実は、誰もかけてくれない。これではいけないと、私は、近くの小学校の下校時に、甘茶をかけてもらうように、子供達を誘うが、多くの子供達は声をかけると逃げていく。それは、知らないおじさんに声をかけられたら、すぐ逃げなさいと小学校で習っているからなのだろう。衣を着ていても「知らないおじさん」なのだ。こども達には、衣姿(ころもすがた)のお坊さんが認知されていないのだ。
 先日、大願寺職員の山下君から、お坊さんの認知されていない新たなショッキングな事実を教えてもらった。それは、山下君が、用をたすために、公園のトイレに行った時のこと。公園で遊んでいた子供達が、黒い衣を着ている山下君に向かって「いい歳してハリーポッターの格好をしている」と指して言うのだ。 お寺さん・お坊さんの存在自体が、すでに抹殺されている。どうか、仏・法・僧の三宝が、敬えるような社会を遺(のこ)して欲しいものだ。
台風の風は、いろいろな物をなぎ倒す。しかし、被害を受けたことを認知して、復興しようと考えるし、復興は出来る。お金しか見えない考え方。心を乱す、すさんだ風潮は、無自覚で、人間存在自体を、ずたずたにしてしまうのだろうか?(2004.9.25)

お盆に憂(うれ)う
年月は、本当に過ぎ去るのが早く感じる。一年も半分過ぎた。かれこれしているうちに、8月のお盆が来る。大願寺には浄苑(納骨堂)がある。普段お寺に来ない人でも、お盆の墓参りということで浄苑には来る。私個人としては、お盆の墓参りは仏事(如来の本願に出合うこと)になっているかどうか疑わしい。しかし、普段来ない人が、ご先祖さんの遺骨の前に来ることは悪いことではないと思っている。しかし、奇異に思えることが沢山ある。浄苑にお供物(あげもの)を来る度にそれぞれ持ってくる。一般的なもの。盆菓子、果物、お酒、お花、お菓子など亡くなった方の好きな物など色々ある。お供物は、お参りした後、下げて持ち帰って欲しいとお願いしている。すぐ食べられない場合は、各家のお仏壇(真宗ではお内仏という)の前にお供えして下さいと指導している。持ち帰らないお供物は、お盆終了後、お金をかけて、企業ゴミとして処理している。食べ物を粗末にするようで、御門徒の方に、協力を呼びかけている。しかし、多くの方は、お供物を持ち帰らない。浄苑管理料も頂いているからこれ以上強く言えない。しかたがないと、食べ物の命を無視するようで心苦しいが、そのままお盆が終わるまで、腐ってもそのままにしている。 昔は、お盆の暑い時期だし、食べられそうなものは、お盆中に降ろして、寺院内で頂いていた。何年前だったか忘れたが、お供えした物が無くなっているという苦情がきた。色々な家庭があり、上げた物を、お盆の終わり頃、おろしに来る家庭もある。一軒一軒それぞれであり、こちらの対応が出来ないのだ。 それにしても、何故持ち帰らないのだろう。ある意見を妻から教えてもらって唖然とした。「住職!お供物をなぜ持ち帰らないか分かる?それは、次に来る人に、お参りに来たと分からせる為だよ。」という。確かに現在は核家族だ。嫁・姑などは、一緒に来ない。墓参りに行かないのは、やはり何か気が引けるのだろう。別々に来た場合、お参りしてやった証拠が必要になる。それがお供物なのだ。亡くなった方よりも生きている人の目が気になるということか?お寺さんに読経をお願いする人も、このごろは納骨堂の預かり人の方だけのような気がする。(昔はそうではなかった。来た人それぞれが、お寺さんを頼んで、経に出合っていた)ますます、本来の願いからかけはなれたお盆になりつつある。(2004.6.29)

人間絶滅の危機?

 長かった北海道の冬も終わり、雪解けが始まり、日も一日いちにちと長くなり春がやってきた。春は、卒業・入学・新年度・退職と人生の節目の季節でもある。仕事や学校の為、家族が別れ離れになる季節でもある。このような時にあらためて、家族の絆を確かめて見ては、どうだろうか。人が生きる最小の集団が家庭だ。現在、報道される恐ろしい凶悪事件や犯罪の低年齢化の状況を見るにつけ、家庭のあり方が、本当に考えさせられる。
 今年は、申年。それにあわせて正月のテレビ番組で、猿の特集番組があった。その中で、人間に一番近い動物は、猿。(このことは、多くの皆さんも周知のことだと思う)そして、遺伝子のDNAの比較でも、人間と猿との遺伝子は、ほとんど同じで、違いは二%の違いしかない。しかし、人間の子どもを、猿は育てることが出来ない。それは、人間の子どもの成長が、猿に比べて遅いのである。猿は冬に妊娠して、約五ヶ月して春に誕生。これは、気温が高く草や木の芽が出てくる時期に生まれるようになっている。(餌の関係がある)そして、猿の赤ちゃんの期間は三週間。そのあとは子ザル同士のグループでつきあいをする。(人間では義務教育の期間にあたる?)二年経つと一人前。ですから二年もの間、親の手を借りないと生きていけない人間の赤ちゃんは、猿には育てる事ができないのだ。
 ところが、人間の赤ちゃんを育てる事が出来る動物は、いるのです。それはオオカミ。家族ということで考えれば、オオカミが人間の家族に一番近いと言えるかもしれない。それは、オオカミの社会は、役割分担がはっきりしている。父親オオカミは、餌を捕りに狩猟に出かけ、母親オオカミは、子育ての時は、巣から一時も離れない。そして一度に何匹かの子どもを生むので人間の子どもが混じってもお乳をやることができるのです。また、人間と体重が近いことも関係している。母親オオカミは、本能である程度、子どもが成長するまで、子育てを続けます。ですから人間の赤ちゃんの時期は、約二年と大変長い期間にも関わらず母親オオカミは、面倒を看るのです。古代ローマ帝国を建国した方もオオカミに育てられたと言われています。(ですからローマ帝国の紋章は、オオカミです)また、心理学等で学ぶ、インドの奥地でオオカミに育てらたアマラとカマラもそうです。オオカミの社会を書いた本を読めば読むほど人間に似ていると思いました。オオカミは、家族を持ち、集団を形成する。家族だけでは、オオカミは一人前に成長しない。子育ての時は兄弟や同年代グループオオカミが必要で、グループで学習しないオオカミは、オオカミではないのです。シートン動物記の中に「オオカミ王ロボ」の話がある。頭の良いオオカミロボは、人間がどんな罠をしかけても捕まらないオオカミでした。そこで人間が考えたのは、ロボの妻のオオカミを先に捕まえて、おとりにて、ロボを呼び寄せる。ロボは罠だと知りながら、妻のオオカミを見捨てることをせずに捕まりに来る。実際にあった出来事であり、何とも泣かせる話だ。オオカミは、人間がいなければ、地球上で一番繁栄した動物だと私は思う。しかし、人間と住む場所が似ているので、いつもぶつかり合いました。ですから東西問わず人間の敵、憎たらしい動物の一番がオオカミ。(赤ずきんちゃん・三匹の子豚・七匹の子ヤギと狼など童話にも多く登場する。)北海道大学の中に博物館があります。そこに蝦夷オオカミの剥製があるが、その案内版には、明治末期まで、北海道には、蝦夷オオカミが沢山見られたが、昭和に入ると絶滅した。原因は分からないと書いてある。(だいぶん昔だったので今はその看板は無いかもしれない)オオカミは集団で生活している動物なので、家庭・集団が壊されると生きては行けない動物なのだ。それゆえ一匹オオカミというものは、自然界ではあり得ないことなのです。父親オオカミは餌を捕る狩猟専門、母親オオカミは育児専門、兄弟オオカミの中で、集団生活・ルールを学ぶのです。家族の一員の誰が欠けても種としてのオオカミは絶滅する。約五〇匹くらいがオオカミの生存する最低の集団単位であることも分かってきました。ヒグマなどは、家族を持ちませんから、全体の数は少なくても、かえって絶滅しにくいのかもしれない。全世界のオオカミは、ほとんど絶滅の危機にあります。
 家族を持ち人間の子どもをも育てられるオオカミは絶滅の危機にあるが、それでは、人間の家庭はどうだろうか?現在核家族が進んでおり、同年代の人とは話し合えるが、上司などの付き合いは出来ないという、人間関係がうまくいかない話をよく聞く。生まれてまもない子供をすぐに託児所に預けて働く母親の話も聞く。離婚も北海道は全国一番です。単身家庭と言って、母親一人や父親一人で子育てをしている家庭も多い。オオカミ以上に子育てに時間と愛情が必要な人間なのに、現実は、人間が育つ環境は悪化していると思う。しかも、子育てをしている今の母親・父親は、環境が悪化しているという自覚もない。経済的には豊かになったかもしれないが、人の心が育っていない。極端な言い方をすれば、顔かたちは人間かもしれないが、心は人間ではない。人の心も、まさに絶滅の危機に直面している。動物学では、「刷り込み」という言葉があるが、これは、生まれた時、一番最初に世話をしてくれたものを親と思うようになっている事を言う。また、諺に「三つ子の魂百までも」というのがあるように、小さい時受けた教育が、一生関係してくるのでだ。いかに幼児期が大切であるかが分かる。動物としての本来の父親の役割・母親の役割と分業をしながら営んできた人間の家族形態が、経済社会を優先した為に、心が今まさに絶滅の危機だ。おかしな事件が起こるのも当たり前。人の心を持たない(育ってない)人が、起こす事件ばかりなのだから。本当に、考えなくてはならない時だと思う。
(2004.3.20 お彼岸の寺報に書いた文)

「おれおれ詐欺」の真の問題点
1月22日の報道によると、道警は昨年の犯罪状況と検挙率をまとめた。治安の目安となる重要犯罪(殺人、強盗、強制わいせつなど)は、865件と前年より162件増で、過去3番目の多さを記録した。これに対して検挙率は過去最低となった。そのうち「おれおれ詐欺」の発生が未遂43件を含め219件(被害総額約1億5千万円)に上がったことも影響しているとしている。「おれおれ詐欺」とは、言うまでもなく孫を装い、祖父母にサラ金等に追われている。何とかしてくれと電話をして、指定の銀行口座にお金を振り込ませるのが、一般の手口だ。手口も色々巧妙になって、手段は色々変化してきている。しかし、基本は、孫を装い、祖父母からお金を巻き上げるのが手口だ。
 このような事件が成り立つ背景は、核家族が、影響している。しかも、孫と祖父母との交流がきわめて薄いことが分かる。同居しているならば、電話でかかってくることはない。交流があれば、声で孫か他人か、話口調等ですぐ分かる。そして、この事件の真の問題点は、祖父母が家庭に餓えている点にある。普段から、孫のことは、可愛く思っている。小さい時は、おもちゃ等を買って上げたり、よく遊んだこともあっただろう。それが孫が大きくなったら、ほどんど祖父母の所には来なくなる。いとおしく思っている所へ、孫だ「おれおれだ」分かるかと電話がかかってくる。お金が欲しいという電話でも、電話をくれただけでもうれしいと思う気持ちがあるから、このような詐欺事件が成り立つ。
 「おれおれ詐欺」とは、人間の愛に餓えた状況が生んだ事件のような気がしてならない。しかし、若者は、このような年寄りの家族の結びつきの事などは、何ら考えていない。かえって煩わしく思っている。若者は、小さいときから手をかけてもらって、甘えることには慣れているが、年配者をいたわることは、あまりしない。(現代の若者の心については、別の時に書こうと思う。)
 税制の改革問題の中で、老人同居の扶養控除も無くなるという。ますます、国は核家族を奨励しているように見える。老人問題は、高齢化社会の日本では大問題である。年金も国の金庫がパンクしつつある。いままで、国民から集めた年金の資金を、貯めとかないで違う公共工事に使ってしまった。老人介護の医療保険の改正を色々しているが、これも間に合わないのが現状だ。私は、いろいろな事情や問題はあると思うが、もっと核家族から3世代同居の家庭にしていかなければ、人間の思いやり、人間性が育たないと思う。ひとりひとりの身勝手では、社会は成り立たない。
         (2004.1.23 重要犯罪増加の報道を見て)

2004年 年頭挨拶

2004年が明けました。年頭に当たりまして一言、ご挨拶申し上げます。昨年は、海外では、イラク戦争。道内では十勝沖地震・台風10号本道直撃・冷害と色々な事がありました。いろいろな大きな出来事があった中、十大ニュースにも挙げられませんでしたが、私にとっては、気になる出来事がありました。それは、日本産トキ雌「キン」が絶滅したということです。トキは学名では「ニッポニアニッポン」と言います。日本の日本の鳥というぐらい、日本の代表する鳥だったのです。トキやコウノトリは、人と共生している鳥でした。人の周りによく居た鳥なのです。昔、子どもはどうして生まれてたのか?という時に、コウノトリが運んで来たという位、ありふれてどこでも居た鳥でした。それが、環境が変わり。色々な農薬を使うことにより、川の水が汚染されて、生き物が住めない環境になったのです。食べ物を同じくしている、からすやすずめは人に寄生している鳥です。人と共生していた動物・鳥が今一番絶滅の危機にあるようです。人と住む世界があまりにも違う動物・鳥は、数こそ減ったかもしれませんが、まだ絶滅の危機ということでは無いようです。トキは、日本の伝統的な鳥だったことから、天皇の継承する儀式にも用いられました。ですから、これからは、天皇家の伝統的な継承式は出来なくなったことを意味します。トキの絶滅は、伝統が継承出来ない象徴であるかのような気がしてしょうがありません。人は共生する仲間をみんな失いました。人だけが、繁栄しましたが、ひとりぼっちになりつつあります。同じ人間社会の中でも、核家族化が進み、人がいろいろな友達・仲間を持たないで大きくなっていっているようです。そこには、人の一番大切な人の心が育っておりません。顔・形が人間の容貌をしていても、人の温かい心がないのです。現代の青少年犯罪を見たり聞いたりするにつけても、人の心が育っていない事が感じられます。持ちつ持たれつ、人は一人では生きていけません。自然環境や哺乳類という動物である人間の自覚の中で、お互い助け合って生きていく生き方を送りたいものです。本年も大願寺を心の道場として、お参り聞法の生活よろしくお願いします。合掌(2004.1.1)


迷惑をかけない?
 過日、私の住んでいる東区PTAの関係で教育講演があった。その中で、講師の先生が、北海道の子育てをしている親が、子どもに一番望むことのアンケート調査を披露していた。1位「他人に迷惑をかけない人になってもらいたい」44%、2位「最後まで根気よく物事にあたる人」25%、3位「健康であって欲しい」、4位「おもいやりのある人」となっているそうだ。どれくらいの人数を対象にしたアンケートなのか、またどこの機関で調査したアンケートであるかなど詳細は分からないが、公の教育機関のアンケートであることは間違いない。アンケートの信頼性はあると見て良いだろう。(アンケートも気を付けなければならない事が多々ある)
 事実を確認した上で、この結果を見ると、私は何かおかしい気がした。日本の教育がおかしいとよく言われているが、私は、子どもを育てている親の意識が本当におかしいのではと思う。1位が「他人に迷惑をかけない人になってもらいたい」という結果である。このように望んでいる親は、親自身自分は他人に迷惑をかけていないで生きていると思っているのだろうか?このような発言からは、凡夫の自覚(自分は他人に迷惑をかけずには生きていないという自覚)は、全くない。
 十数年前、作家高史明(こうさみょん)先生の講演を思い出した。高さんは、在日朝鮮人で戦時中・戦後と酷い虐待を受けながら日本で生きてきた。その人生を「生きることの意味」という本にした。現代の日本人の子供達が、ひ弱になってきている中で、強く逆境にも耐え抜く人になって欲しいという願いを込めて書かれている。筑摩書房から「ちくま少年図書」として多くの少年に読んでもらいたいとして書かれたのだ。そして毎日新聞児童文学賞という賞もいただいた。ところが、高さんの一人息子が、12歳になった時、自宅の近くのアパートの屋上から投身自殺をしたのだ。親として子どもに先立たれるほど、つらく悲しいことはない。一人しかいない息子。自殺だ。そして、高さんは多くの子どもに、しっかり生きてくれと本まで書いた人です。どんな賞をもらって他の人が高さんの生き方を褒めてくれても、我が子を死なせた事実は、重いものがあります。高さんは、悩みます。 我が子岡真史(おかまさふみ)君の書いた日記を何度も読み直す日々を送ります。自宅に閉じこもり、ひとに会わずに悶々とした生活を送ります。そのような中で「歎異抄」と出遇うのです。(そして、高先生の親がよく称えていたお念仏「ナーム・ハブ・タブ」であったことに後で気が付き、いのちのつながりにも、驚くのです。)
 自分が間違っていた。高先生の生き方が変わったのです。高さんは、以下のように言っておられます。
 私は、息子真史が中学校に上がった時、『いいか真史。おとうさんはお前がもう中学生になるのだから、いままでみたく、あれしなさいこれしなさいという細かなことは言わない。自分のことは自分で考えて行動しなさい。しかし、他人に迷惑をかけるようなことはするな』と言った。しかし、これが間違いであった。
 真史の最後の日記に「ぼくはしなない」という詩があった。
 ぼくはしぬかもしれない でもぼくはしねない  いやしなないんだ
 ぼくだけは  ぜったいにしなない  なぜならば  ぼくは  じぶんじじんだから
まさに デカルトからはじまった近代合理主義のように、自我から存在をみていく見方が感じられます。
 私は、真史にこう言うべきであった。『いいか真史。人は他人に迷惑をかけていないようなつもりで生きているが、実はそうではないんだ。生きていること自体が、他人に迷惑をかけどうしの人生なのだ。どうかそのことが分かる人間になってなって欲しい。』このように言うべきであった。 
 私が補足してみたい。生まれた時から、人は一人で歩けない。親を含め、色々な愛情によって育てられる。また、一人でも死ねない。病気になり床に就く。多くの人のお世話になって、荼毘にふす(焼いてもらう)。
この生と死の間でも色々な方のお育てによって生きていく。「愛情・お育て」と言えば聞こえは良いが、裏を返せば迷惑をかけどうしの人生である。また、人は命あるものしか食べられない。牛・豚・鳥・さかな、広く言えば野菜・果物みんな生きているものの命を奪って生きている。挙げ句の果て、うまいとか旨くないといって食べないで捨ててしまっている。このような人間が、ひとに迷惑をかけていないとは、何とうぬぼれているのだろう。
 このように、発想の転換のしてくれるのが仏様である。宗教である。儀式行事でない宗教の大切な役割がある。上記の高史明先生と一緒に札幌で食事をした時「坊さんよ!頑張って欲しい。親鸞聖人のお念仏の教えを、一宗一派の教えにしないで欲しい。多くの若者に伝えて欲しい」と真剣に肩をたたかれた思い出があります。
 いつも、最後はこの話で終わる。多くの方が、親鸞聖人の教えに耳を傾けて欲しい。お寺参りをしてもらいたい。お寺参りから人生が変わる。
 高史明先生は、いつも言っている「念仏よ!興れ!」

(2003.11.14東区PTA研修大会に参加して)


他力本願?

 秋は、研修会の大流行だ!人は、口が一つで、耳が二つである。色々な話、考え方をきかねばならない。聞くことが出来なくなった人を、頑固とか老人と呼ぶのかも知れない。 私も、子育ての真っ最中で、PTAの役員をやっている関係上、宗教関係を除くと教育関係の講演会が多い。それぞれの講演会を聞いて、得るところの大小はあっても、それぞれ聞きてみて良かったと思っている。直接話を聞くことは、本で読むことと別な感動を伴う。そして、講演者の主張が、自然と入ってくる。(だから私は、講演会の後に講演者の本を読むことにしている。すると不思議にもある程度の筋が分かるせいか苦もなく本を読み通すことが出来る)ある講演会。テーマ「若い世代の子育てに思う」~子ども・今と昔~という地域の講演会がありました。講師は、七十歳後半の年代、学校教育に携わった来られた方で、その後少年育成センターの特別相談員や地域青少年育成委員会の会長も歴任した方でした。 レジメも用意され、話の筋もはっきりしておりました。1.はじめに(反論・意見を期待して)2.日本人の特性 3.子どもの姿(今と昔 社会人としての巣立ち) 4.子どもへの理解と心の成長 5.親の養育態度と子ども 6.現代学校の問題点 7.親としての成長 ということで講演されました。講師も言っておりましたが、本当に聞いて欲しいと思う、親は聞きに来ない。いつも教育関係に携わっている方だけが聴きに来て下さっていると、おしゃられておりましたが、まさにどの講演会も、顔ぶれはいつも見かける方で、だいたい決まっております。
 さて、今回の講演会の最初の方で、2.日本人の特性を話されました。日本人は、行政・他人への依存がつよい。宗教的基盤が弱い。正月に神社。お盆彼岸には墓参りやお寺参り。クリスマスには教会とばらばらである、こんな国は、世界中探しても他にないことなどを挙げておりました。日本には道徳教育のありますが、世界では稀であること。道徳がなくても宗教教育がしっかりしていれば問題ない。宗教的基盤が教育には大切であると力説して下さり、僧侶である私は心で「いいぞ!いいぞ!」とエールを送っておりました。 しかし、このようなお話をする方でも、行政・他人への依存ということを説明する時に「他力本願ではいけない」と発言しました。講師は、他人への依存ということの説明で言ったつもりだと思います。しかし、口がすべったというか、ついついこのようなことが見受けられます。他人をあてにすることと「他力本願」とは異なります。他力本願とは、阿弥陀如来のお救いを言っているのであって、他人をあてにすることではありません。「棚からぼた餅」とか「他人のふんどしで相撲を取る」(今はふんどし自体珍しい。肌にふれる他人のふんどしは、やはり使いたくない)と「他力本願」とは、けっして同義語ではない。このようなことが、分からないくらい日本人の宗教教育ができていないのだと思う。やはり一番お話を聞かなくてはならないのは、宗教だ。お寺参りの重要性をしみじみ思う。
(教育講演会を聞いて 2003.11.5)

お化けが死んだ??
 
昔から、夏になると納涼のいうことも兼ねて、怪談ものの映画・物語が放映される。今年は、冷夏ということもあるせいか、あまりテレビでも放映されていない。しかし、近年何回か見た怪談もの見てがっかりしたことを思い出した。それは、私が思っているようなお化けではないのだ。私が思っているお化けは、「うらめしや!」とこの世でいじめられたり、ひどい目に遭わされて、死んだ。死んでも死にきれない。よってばけて出てくる、日本の伝統的なお化けにはこのようなルールがあった気がする。ところが、たとえば子どもと一緒に見に行った「学校の怪談」でのお化けは、お化けというより化け物・怪獣といったものであった。化け物は、手当たり次第にそこにいる人間を襲う。日本伝統のお化けというものは、憎らしいうらめいしい方しか見えなかったような気がした。また、危害を加える人も、関係ある方だけだった気がする。
まるで、現代の殺人と同じ傾向があるような気がした。一般的には、憎かったたり・金銭トラブルからの殺人であった。しかし、今はむしゃくしゃしている人が、その場にいた人を手当たり次第に殺す。だから殺人動機から犯人を探し出す警察の検挙率は、下がるいっぽうだ。
 お化けを作る方は、放送界の人である。お化けのルールが忘れ去られたのだろうか?仏教で説かれるような因果応報の考え方も消えかかってきているのかもしてない。怨めしい方にだけに出るお化けの方が、ドロドロしてお化けらしい。この方が私は、納得出来るなどと、自分でお化け像を画いて見ていた。しかし、改めて考えて見るとやはり伝統的なお化けは、死んだかも知れない。それは、昔は貧しく、特に女性は、なかなか自立出来なかった。いじめられても環境を変えることが出来なかった。よって怨み辛みがあっても逃げ出せなかった。しかし、今は、怨みが積もれば、すぐに別居・離婚と怨みがたまることがない社会である。死んでも恨むような深い怨み辛みは無くなったようである。お化けのいなくなった社会は、良いことかもしれないが、人間の情念や厚みも併せて無くなったような気がしてならない。(2003.8.10涼しい夏に想う)

それでも、仏さまは、いらしゃる。

最近また、長崎県でおきた12歳少年による殺人事件で、青少年犯罪低年齢化の問題が論じられている。
これに相応して、各新聞・テレビ等で、知識人やタレントなどの方が出てこの問題を討論している。
原因は、一つでない。色々な問題が考えられる。私はこのような事件の背後に、
家庭に宗教が無くなったことも一つの原因だと考えている。
ところが、このようなことを指摘する知識人やタレントが、ほとんどいない。
何か、このことが一番の問題であるような気がしてきている。
 子ども達に、善悪の判断、価値基準を育てることは、案外難しいものだ。
たとえば長い時間黙っていなさいということだけでも難しいことだ。
電車・飛行機の中やレストランで子ども達の横に座ったことのある方ならば、
容易に理解できよう。子どもたちは、自分の欲望のままに行動する。
昔は、一般的にしつけが厳しく、他人に迷惑をかけてはならないということで、
日頃から注意してきた。そして周り(他人)も、子ども達を注意してきた。
子ども達も、行動して良いか悪いか、親の顔や周囲の顔を見る目をもっていた。
 ところが、現代では、注意すること自体が少なくなってきている。
子どもは騒ぐのが当たり前という雰囲気になっている。
だから、公の場で、騒いでいる時、多少注意しても、普段から痛い目にあっていないから、
子どもは、なかなか言うことを、きかない。
 子ども達の「わがまま」「欲望」が野放しになっている状態だ。
学校教育でも、子どもの個性を尊重する教育。子どもの持っている能力を伸ばす教育。
子ども達に、人間に生まれたことを喜び、自分の可能性を信じる教育が行われている。
小学校低学年では、このような考え方で良いかもしれない。
しかし、小学年高学年になって、自我が目覚めてくると自分の能力も見えてくる。
努力すれば、何でも出来るかのように教え込まれてきたのに、現実は自分の思ったようにはいかない。
このような時、やるせない気持ちを処理する力が、今の子ども達には少ない。
そして小学校低学年の時、勉強が出来、俗に言う「おりこうさん」が
小学校高学年・中学校で壁に当たった子が、たちが悪い。
「わがまま」「欲望」だけはしっかり根付いている。
むしゃくしゃした気持ちを「やつあたり」「いじめ」の方向に向けるのは、成り行き上、当然のことだ。
このような子ども達は、「いやがらせ」「いじめ」など、学校現場では、問題を起こし、
教師たちをてこずらしている。(また、「いじめ」によって被害者を自殺に追い込むこともある。)
しかし、このような問題児であっても、殺人を含めた警察のやっかいにまでは、なかなか至らない。
この垣根を越えさせるものが、家庭の抑止力が切れた場合である。
  私は、札幌市東区の保護司や青少年補導委員をしている。
研修会や少年院視察の際に青少年犯罪資料をいただくが、
少年院までお世話になる子の約9割以上が家庭に問題があり、
犯罪者の8割以上が欠損家庭(血のつながった両親がそろっていない)である。
多くの場合、犯罪を起こす一歩手前の子どもは、沢山いる。
しかし、犯罪を起こそうとする時、親の顔が浮かび、これが犯罪を押しとどめることがよくあると聞く。
 家庭に宗教が無くなった時、親は子どもに、善悪の判断、価値基準を育てることが出来なくなった。
昔の親は、学歴こそ高くはなかったが、善悪の判断はしっかり教えた。
「誰が見て無くてもおてんとう様は見ている」「悪いことをすると罰(ばち)が当たる」
「仏様・ご先祖様は、見ている」「悪いことをすると地獄に堕ちる」など時々に言って、
子どもの心に、悪いことすることの恐怖心まで植え付けた。
 感動した話がある。愛知県に宇野正一さんという方がおられる。
お生まれは、大正5年(1916)であるから、高齢でご健在か、もしくはもう亡くなられたかもしれない。
この方が、自分の生い立ちを、本にしたの読んだのだ。
 宇野さんは、4歳の時、母と死別した。その時すでに父はいなかった。
(父のことは、詳しく書かれていないので、死別か生き別れか分からない)宇野さんの母は、
息が切れる時、我が子の手を握って「私は、もう生きられない。我が子を残して亡くなっていくことは心苦しい。しかし、諸行無常の世界、どうすることも出来ない。お浄土に旅立っていくが正一のことは決して忘れない。
お念仏を申して仏様と一緒に生きておくれ」と言って亡くなっていきました。
残された宇野さんは、母方の祖父母に育てられます。無学文盲の祖父母でしたが、
一生懸命、孫育てを致しました。
 宇野さんが小学校5年生の時でした。小学校に顕微鏡という機械が初めて入った時のことでした。
理科の時間、先生が「顕微鏡は、肉眼では見えない色々なものが見える機械である。
何か見たいものはないか?」と生徒に問いました。すると利発であった宇野さんは、早速、手を上げ、
持ってきた弁当箱からご飯つぶを一つを顕微鏡のルーペに置き見てみました。
宇野さんは、顕微鏡を覗きながら、首をかしげ「おかしい、おかしい」と1人ごとを言い出しました。
それから、友達の弁当箱からご飯粒を頼んで分けて貰い、顕微鏡を覗きこみ、
また「おかしい、おかしい」と独り言い出しました。それを見ていた先生が
「正一、いったい何がおかしいのか?」と尋ねました。宇野さんは、正直に「先生、仏様が見えないのです。
うちのじいちゃんは、ご飯粒の中には仏様がいらしゃる。ものを粗末に扱ったらいかん。
もったいない、勿体ないと言っているもので、顕微鏡というすばらしい機械が入ったもので是非とも
仏様を見たいと思ったのです。」と言いました。すると先生は「正一!馬鹿っだな!そんなものいるわけ無いだろう!ご飯粒に仏様がいるなんて言うことは迷信だ」とみんなの前で腹をかかええて笑いました。
クラスの友達も、普段優秀な宇野さんが先生に馬鹿にされたものですから、みんなも笑いました。
宇野さんは、悔しくてたまりませんでした。学校が終わるとすぐ家に帰っていつも尊敬の念を抱いている祖父に向かって「やい、じいじ!今日僕は、恥をかかせられた。ご飯粒に仏様がいるというのは迷信だと先生にまで馬鹿にされた!よくも嘘を教えたな!」とありとあらゆる悪口罵声を浴びせました。
祖父は、黙って宇野正一さんの話を聞き、宇野正一さんが言うことがなくなって静かになった時、
お仏壇に向かい、念仏を称え、「それでも、仏さまは、いらっしゃる。」と目に涙をためながら言ったそうです。
この姿を見た、宇野さんは、もうそれ以上祖父に口答えはしなかったそうです。
そしてこの光景は、瞼の裏にしっかり焼き込まれました。
 宇野さんは、その後教育大学に行かれ、小学校の先生になりました。
その後、福祉関係の仕事を経て、岡崎女子短期大学教授・童話作家としても活躍しました。
仏法の篤い地域でもあり、母・祖父母の影響もあり、宇野さんは、聞法(お寺参り)や仏教書をよく読みました。そうして、ある日じいちゃんの言っていた「ご飯粒には仏様がいらっしゃる」というのは嘘ではなかったということに気付かれるのです。
 勿論、物質的には、お米の中に仏様は、おられません。
これは、「はたらき」を言っているのです。私たちは、色々な命を頂いて生かされているのです。
魚・肉・やさいなど命を頂いて生きているのです。
そのはたらきを端的に「ご飯粒には仏様がいらっしゃる」と言われたのです。
 ものを見る眼は、誰もがしっかりしているでしょう。しかし、愛情・友情・思いやりを見る心の眼は、
退化してきています。ほんとうに、心の眼が育つような環境を必要ではないでしょうか?
これが、聞法(お寺参り)なのです。
(2003.7.18 長崎の12歳の殺傷事件報道を見て)

共命の鳥(ぐみょうのとり)
「阿弥陀経」の中に、お浄土には、常に種々の奇妙雑色の鳥が有る。白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥なり。と説かれております。白鵠は鶴の一種で白鳥とも言われております。孔雀・鸚鵡はおなじみの鳥です。舎利とは人の言葉を語る九官鳥に類する鳥とか百舌鳥と言われています。迦陵頻伽は、極楽鳥とか妙音鳥といわれ美しい声で鳴く鳥で藪鶯や雀に類する鳥とも言われております。最後に共命之鳥という鳥の名前が出てきます。共命之鳥以外の鳥は、この世でも似たような鳥はいます。しかし、共命之鳥だけは、この世にいないとされております。それは、このような話で伝えられております。共命之鳥は昔、ヒマヤラの近くに生息しておりました。命命鳥とか生生鳥ともいいます。一つの胴体に頭・首が二つ鳥です。一つの頭は優れて頭もよく、餌もよく採りました。健康にも気をつかっておりました。しかし、もう一つの頭は、頭も悪く色々な能力も劣っておりました。優れた方の頭は、事ある度にもう一つの頭を愚弄しました。能力の劣った頭は、ついに自分は生きていてもしょうがない。もう一つの頭に迷惑をかけると思い、毒を飲んで死にました。すると胴体が一つの鳥ですから、優れた頭の方も死んでしまったということです。頭が二つということは、比較されたり、良い悪いと区別される。この世で、生きることの難しさが表されております。ですから、共命之鳥は浄土でしか住めない鳥なのです。
 今の地球は、まさに共命之鳥だと思います。色々な国々は、頭です。どの国が良いとか悪いとか言っても胴体は地球ただ一つです。環境問題を含め「共命」ということを真剣に考えなければならない時代に来ていると思います。地球が絶滅しない為に。
(アメリカがイラクに武力行使「戦争」をしかけようとしている時。2003.3.16)

「この国のゆくえ」を読んで
私の長男息子は、高校1年生である。正直言って不安だらけ息子である。その息子が、1月18日(土)の夜、神妙な顔で「親父、お願いがある」と切り出した。なんだろうと話を聞くと世界史の冬休みの宿題で、指定された歴史の本を読んで感想文を提出しなければならないと言う。「提出日はいつなんだ」と聞くと「20日(月)だ」と言う。指定された本も買っていない、進級も危うい息子だけに、親は気がかりだ。とりあえず、近くの本屋(ダイヤ書房本店)に行って指定された本を買わなくてはならない。お説教や怒るのは、ある程度提出する感想文のめどがついてからすることに決めた。
 本屋に行ってみて、指定された本を探してみた。週刊誌やマンガの本、時の話題の本は、書店に所狭しと並べられてある。しかし、たくさん指定された歴史の本が書かれているのに、その本屋には、見あたらない。何とかしなければと思いつつ指定された本を探した。 岩波ジュニア新書のコーナーでやっとのことで、「この国のゆくえ」梅田正己著を発見した。息子に「これしか見あたらない。これでいいな!」と念を押して買った。家に戻って、急いで読むことを進めた。30分も読まないうちに、「この本は面白くない。俺は歴史上の人物を取り上げた伝記みたいのが良かった。」など、簡単に言えばダダをこねはじめた。私には想像していた通りだ。それでも、何とか20日までに感想文は提出した。(無論、私がアドバイスしたが、このことは省きたい)
 息子は、感想文を提出した後は、この本は見向きもしない。しかし、私は、もう一度読み直したいと思い、読み直した。非常に面白く、ためになった。
 「この国のゆくえ」というこの本は、高校生に向かって、しっかり歴史認識をしてほしいと訴えている。現在、政治問題になっていること
(教科書・日の丸・靖国)が、第二次世界大戦後の日本の歴史認識から起こっていることを指摘している。確かに私自身、近現代史は、中学・高校の歴史では習っていない。近現代史は、受験には出ない。だから真剣に勉強しない。また、教える先生も思想・政治的要素が強いので、先生の見方によって全く異なるので教えたくても教えられない。(先生によって支持する政党も異なる。)
 靖国神社は、成り立ちから、戦争を進めるために存在した神社である。であるから、戦前、靖国神社の管轄は、陸軍省・海軍省の下におかれた。宮司も正規の神官ではなく陸軍大将など軍の高官がつとめた。人はだれでも死を恐れる。戦争に行くことは、死の危険に身をさらすことだ。しかし、死んだとしても、靖国神社に「英霊」という神なることは、国民として最高の栄誉だと教え込む。このことで、戦争遂行の原動力となる。現在、自衛隊が海外に出ることによって、死の問題が浮上してきた。この時だけに、是非ともこの問題(靖国神社の国営化)が必要になってきている。
 また、日本が高度成長に終わりを告げ、不景気になってきた。それに合わせて日本人の子どもの非行犯罪が増加してきた。それを与党自民党の多くの議員の方は、日本の戦後の教育が間違っているとした。日本人が、日本人として誇りを持つ教育になっていないと考えた。(これは私個人としては間違っていないと思う)それは、第二次世界大戦の見方を、日本の侵略戦争と見る、一方的な、自虐的な史観から起こっているとした。(私は、ここからは賛成できない)そこで先の大戦を、白人の植民地からアジア独立の戦争と位置づけ、日本人のやってきた行動を正当化しようとするものだ。当然従軍慰安婦問題も南京大虐殺も無かったか、あっても仕方がなかったとした。
 これに同調するが如く、藤岡信勝東京大学教授を中心に「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、上記の趣旨に合わせて、皇国史観(天皇が国家統治することまたは存在する国)を強く打ち出した教科書を作成することになった。
梅田正己という著者は、1990年代から非常に危惧を抱いている。それは、日本が「戦争をしない国」から「戦争もする国へ」変貌してきていると指摘している。
 それは、現与党自民党が、自衛隊海外出動に必要な法案を次々可決されている。新ガイドラインにもとずく「周辺事態法」やPKO協力法などである。
 最後に著者は、この国のゆくえの中で、「自国中心主義」「国家主義」「軍事力重視」から「国際主義」「市民主義」「平和主義」への転換が大切だと訴えている。私も、総論では賛成だ。しかし、戦後の教育の中で、個人の尊重を重視したあまり、団体・公共に対して配慮が欠ける人も増えたのも事実である。自分が大切ならば、相手という個人に対しても同じように大切にしなければならない。美しい国土・大地・故郷という日本も大切である。郷土愛・隣人愛・愛国心も大切だと思う。だから「国歌」「国旗」も大切だと私は思う。ただ「日の丸」「君が代」でなくてもよい。きちんと論議して国民投票などして決めれば良かった気もする。(勿論、過去に悪用された歴史も教えて)多くの国民は、国歌を君が代、国旗を日の丸で良いという意見が、90%以上である。
 いずれにしても、今後の日本はどうなるのだろう?我が子やその友達を見てつくづく憂うのである。
(息子と一緒に本を読んで 2003.2.5)



青色青光 黄色黄光
(しょうしきしょうこう おうしきおうこう)
 
2003年(平成15年)も明けました。よろしくお願い致します。
本年は、私が小学生だった頃、盛んに見ていました鉄腕アトム(手塚治虫原作)が、
生まれた年という事です。何かしら色々考えさせられます。鉄腕アトムの世界は、
ずっと先の未来、おとぎ話の世界という感じがありました。その年が、今年なのです。
 手塚治虫さんの描いた2003年の未来が、現在まさに現実化したものも少なくありません。
愛犬ロボットやリニアー・モター、携帯電話・コンピューターで管理している住宅などです。
その他、五十年ほど前では考えられなかったことが、科学・医学の進歩で可能になったことが
沢山あります。こう考えてみますと、ずっと先のおとぎ話的なことだと思っていたこと自体が
誤りだったのでしょうか?それとも、それだけ私が年をとったということかもしれません。
しかし、反面手塚治虫さんの描いた未来と全く異なっていることもあります。
その一つは、アトム・ウランなど手塚治虫さんが登場ロボットに付けた名前。
それは、平和利用の象徴として愛着をもって名付けられました。
しかし、現在、原子力・ウランなどの響きは、平和より戦争を想起する言葉です。
北朝鮮の核開発疑惑など、新聞紙面を賑わしております。
また、既に核を保有している国は、既成事実として、所有しておきながら新しい国には
核の保有を認めないという矛盾だらけの状況です。
 もう一つの大きな違いは、科学・医学がいかに進歩しても、
人類の幸福には直接つながらなかったことだと思います。
一人一人が、幸福感が得られるには、一人一人が、自分で幸せと思う心の問題なのです。
物質や環境がいかに整っていても、一人一人が心に不満を持っていれば幸福では、ないのです。
現代の多くの福祉・教育の発想は、恵まれない方に、基本的人権として生きる権利を保証する。
貧からの解放を目指してきました。高い山(高額所得者)から低い所に財を回す。
(税金で生活保障する。)これが平等と考えてきました。社会保障は、勿論大切なことですが、
しかし、それだけでは人間は、感謝する心・幸福感は得られないようです。
このような心の問題を解決する一つとして宗教があります。
仏教の平等は、高い山から削って低い所にもっていってならすのではなく、
高いものは高いまま。低いものは低いままと見る。どちらも素晴らしい。
高いからといって威張る必要もなく低いからといって卑下することも必要ない
心のあり方を言っているのです。
そのような世界の実現に向けて、実現は娑婆では無理でしょうが、
浄土を願う心は失いたくありません。今年も一歩でも仏法が伝わるように
前進精進するよう生きたいと思います。 合掌
(2003.正月を迎えて)
※追記 
 法話を書いた後で、妻になかなか良い文だろうとプリントアウトして見せました。
そうすると、「この様なアトムのことを書いた記事みたよ!確か道新の卓上四季だった。
新聞を見て書いたの?」と聞かれました。「エエエエエ」私は見てはいなかった。
急いで新聞を調べると1月14日の朝刊の卓上四季にアトムのことが
偶然にも書かれてありました。似たような指摘もしてありました。
私が、手塚治虫のフアンとしてアトムの名前の由来は多分そうだろうと
思っていたことが、やはりその通りであることも分かりました。
(かえって嬉しかった)
決して盗作で法話を書いた訳ではないのでそのまま掲示します。

近くの小学校の周年行事に参加して
近隣の小学校の周年行事に招待されて、出席してきました。
私の子供の通っている小学校と比べ、児童数も多く、
にぎやかで、これぞ小学校といった雰囲気がありました。
式典も子供を中心とした式典に構成されておりました。
時間も、1時間以内に終わりました。
(個人的にはその小学校PTAの会長との繋がりが深かったので
PTA会長の祝辞の挨拶を聞いてみたかったです。PTA会長は、記念品の贈呈のみ)
 演出もピアノの伴奏を主にしたもので、くどくなく、子供達の澄んだ声に
あってさわやかですばらしく思いました。
ただ、一点思うことがありました。これは、昨年の私の子供の通っている
周年行事の時にも感じたことです。
 それは、こども達が歌う曲の歌詞に、非常に英語の言葉が多いと言うことです。
私は、決して国粋主義者ではありません。
しかし、今、日本語の乱れが、ひどいと指摘されております。
(私自身も正確な日本語は分かりませんが。)
現代の小学校では、今のところ英語の授業はありません。
全部詩が英語で、授業などに用いるのは勿論構いません。
また、作詞者や作曲者が、日本語と英語の混ざった曲を作るなという事でもありません。
 ただ式典などに、歌として一番盛り上がる「さびの部分というのでしょうか」所が、
英語という曲をもちいなければならないのかという疑問です。
一番盛り上がる箇所は、日本語(母国語)ではっきり表現した歌を
子供達が元気に歌ってもらいたいと思います。
(そのような意志・表現が子供達の生き方の手本になるのですから)
 曲を決める先生方にお願いしたい思うことです。

正面の垂れ幕の一つが、下がらないアクシデントもありました。何とか、退場までに
先生協力して、垂れ下がりました。
(小学校の30周年に参加して 2002.10.25)




時の人
 この1ヶ月の中で、政治家でも俳優でも芸能人でもないのに、マスコミに一番多く登場した人は、北朝鮮に拉致された被害者会家族連絡会代表の横田滋(しげる)さん69歳(横田めぐみさんの父)ではなかろうか?ノーベル物理学賞の小柴昌俊東大名誉教授や、ノーベル化学賞島津製作所主任田中耕一さんよりもテレビに出ている気がする。小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問して以来、拉致事件が明らかになり、毎日連日連夜の報道の度、死亡・生存に関わりなく横田滋さんのコメントが報道される。新潟の県議会で拉致問題を政府に真剣に対応するように嘆願して欲しいとか、早稲田大学で学生に「人権」をテーマに講演したなどもニュースになっている。いささか出過ぎの感があり、いかなるものかと思った。
 今回の拉致事件の被害者の写真がテレビで報道されたとき、何故だか、横田めぐみさん(失跡当時13歳)の写真だけ見覚えある気がした。お風呂屋さんのお尋ね不明者で見たのだろうか?警察署で見たのだろうか?不明になった時、テニスラケットを持っていたという記憶が私にあった。そんな話までお尋ね不明者の写真に書いてあったのだろうか?疑問に想っていた。
 先日、私の卒業した高校の同窓会の友達からメールを頂いた。横田滋さんは、同窓生(新制高校の1期生,同じクラスには俳優の若山弦蔵さんもいました。)であり、同窓会の総会の資料に度々、横田めぐみさんの失踪についての「ちらし」を入れていた方であることが分かりました。それで私が何度も見覚えがあったことが、判明しました。そのわりには、私がしっかり事件のことを把握していなかったことに愕然としました。同窓会の関係者に聞いたところ、横田滋さんは、24年の間片時も休むことなく拉致事件の解明の為に心血を注いでおられたとのこと。しかし、北朝鮮の拉致ということがはっきりしていなかった為、こどもの行方不明だけで、マスコミにも取り上げてもらえず、苦しい日々を送っていたとの事です。
 今回の報道は、北朝鮮の拉致事件と認定され、ようやく横田さん(めぐみさん)の事件が、市民権を得たのでしょう。報道は、おそろしいものです。今までは、何も報道せず、明らかになった途端、毎日連日連夜の過剰報道。横田滋さんが悪いのではないのです。日本人のマスコミが熟成していないのでしょう。あるテレビ局のニュース特集番組もなくなりました。お笑いバラエティー番組だけがはびこる時代。
 ノーベル賞受賞者の言葉で、「常識にとらわれない研究」ということばがありました。「マスコミという常識にとらわれない生き方」をしなくてはならないと思いました。
 私も子供を持つ親です。子供を奪われた悲しみ苦しさ。横田滋さん、今まで報道されなかった24年間の分の言いたかったこと言って下さい。私は、もう少し我慢して横田滋さんの報道聞かせていただきます!
(2002.10.11拉致事件の報道を見て)


葬儀を考える

平成14年9月24日(火)の北海道新聞の札幌圏版に、特定非営利活動法人(NPO法人)「葬送を考える市民の会」主催の模擬葬が中央区の会場で行われたことが報道されておりました。4回目で会員80名が参加し、あいさつ、弔辞がなく、ひつぎの周囲に参列者が一人ずつ生花を並べる簡素な葬儀を擬似体験した。と紹介されてありました。

何故、このような事が、記事になるのだろうか、考えてみた。これは、現在の葬儀のあり方を批判しているから、このような会が存在し、成り立つのでしょう。それでは、現在の葬儀の問題点はどのようなことが考えられるだろうか?私なりに考えてみた。

 葬儀費用が、かかり過ぎる。

現在の一般の葬儀、香典など頂いた費用とは別に最低200万ほどの持ち出し

が必要とされている。

普段付き合いのない、僧侶が来て、高額なお布施を請求される。

付き合いのない町内会や会社関係の仲間にお手伝い頼まなくてはならない。

宗教心がないのに、葬儀の時だけ、今までの宗教で葬儀をするのはおかしい。

などなど、いろいろ考えられる。①~④までを吟味してみたいと思う。

①の葬儀費用がかかる一番は何だろうか?それは、葬儀祭壇ではないだろうか。ある葬儀会場は、会場料が無料となっている。しかし、無料ということは収益を目的としている葬儀社では、絶対に有り得ない。葬儀祭壇料に含まれているのである。祭壇料が100万というのも一般的でありザラである。また、葬儀費用がかかるからと言って積み立てしても、その費用は祭壇にのみ利用。その他には利用出来ないシステムになっているところが多い。

一般のシロウトには、50万の祭壇・80万の祭壇・100万の祭壇・200万の祭壇の違いなどほとんど分からない。(祭壇自体そのような価値がないから分かるはずもない。)

 本来の仏教の葬儀は、質素だったのである。特に、浄土真宗系の葬儀は、質素である。お釈迦様が亡くなられた時、沙羅双樹の木が半分枯れたことから、紙華花(しかばな)を用意したが、現在多くの祭壇で用いている生花は、殺生をするということで禁じ、用いなかった。紙で、蓮の花を作り、荼毘にふす為の焚き付けにしたようです。ですから、一般に仏教の生花で飾り立てた祭壇が本来の祭壇と思っている人がいるようだが、正式なものではない。大願寺では、仏壇(お内物)を形どった常設の祭壇を用意している。その中に、遺族の気持ちで少なめに花を入れている。(勿論、花を入れなくても構わない。)

 大願寺は、札幌の多くの葬儀社に嫌われている。(営業妨害と思われている。)花を多く入れたりする・しないは、遺族の意向にまかせております。ただ、花を多く入れたから亡くなった方の供養になるとは思わないで頂きたい。

普段付き合いのない、僧侶が来て、高額なお布施を請求される。

これは、普段から僧侶と仲良くなって頂きたい。色々な僧侶がいるのです。学校の先生、お医者さんも色々な人がいるように、僧侶も色々いるのです。普段から宗教に関心を持って、菩提寺をよく考えて決めましょう。(死んだ時、バタバタして病院から葬儀屋さん、葬儀屋さんからお坊さんを決めるのは、最悪のパターンです。)

現在はお金を出して、まかないをやってくれる、バンケッターもあります。でも、これも普段から、町内会や会社関係をうまくしておきたいものです。村八部という言葉もあります。葬儀ぐらいは、お付き合いがあっても良いでしょう。葬儀のお手伝いをして、葬儀のしきたりや僧侶のご縁・葬儀屋さんのご縁も出来ます。

宗教心がないのに、葬儀の時だけ、今までの宗教で葬儀をするのはおかしい。

これも、普段から宗教心を養っていただきたいと思います。信仰心を自分勝手に思わないで下さい。たとえば、宗教は、自分の困ったことを、神や仏に祈って、かなえてもらうこと。だから、弱い人がすがるものが、宗教だ。自分はそのような宗教は信じられない。

思ったことを、述べてみました。(9.26 道新を見て)


結婚式のスピーチで


※注(この写真は、本文中の結婚式ではありません)

ある結婚式の、媒酌人をすることになった。両人の略歴は、少しは話さなければならないが、
略歴は、当日のパンフレット等に詳しく紹介されていることが多い。
両人を美辞麗句を並べ立てて褒め讃えるのも、私の意ではない。
どうしようと悩み迷ったが、結果は、今思っていることを、話させてもらった。
(後で考えてみると基本的には、お通夜での通夜説教とほとんど変わりがなかった。申し訳ない。)
 結婚した方ならばよく分かると思う。結婚して1・2ヶ月は、熱々(あつあつ)の新婚生活であるかもしれない。しかし、それからは、こんなはずではなかったの連続生活ではなかろうか?
現代では、愛が無くなった時、即離婚ということもありうる。性の不一致という言葉もよく聞く。
芸能界では、くっついたと思ったら子供がいても、即離婚。このような芸能界の環境を見聞きし、
生活していくならば、一緒に生きていくことはまず不可能な事かもしれない。
 昔の方は、仏教用語の「娑婆」という事を良く理解していたような気がする。
娑婆(しゃば)とは、この世のことで堪忍土と訳します。つまり、この世は「堪え忍ぶ所」と押さえる。
もともと、環境の違う中で育った2人ですから、顔や身長が異なるように、性格も違っていて当たり前だ。
恋愛の時は、お互い自分の良いところばかりを相手に見せようとするから、欠点がなかなか見えない。
「恋愛の時は、両目をしっかり開いて相手の良いところ悪いところしっかり見なくてはならない。」
「結婚してしまったらひたすら、あきらめて目をつぶり、相手の良いところだけを見よ!」
といった諺もあるが、この諺は結婚生活を言い当ている気がする。
 何かこの世を「娑婆」と見る見方は、あきらめ的なマイナー的な生き方に思えるかもしれないがそうではない。「娑婆」と見ない生き方は、この世が浄土の如く思い通りになると思って生きている。
それが思い通りに生きられない。「どうして私だけこんなつらい目に遭うの?」と愚痴る。
もともと100点(満点)でなければならないのに、これもダメ、あれもダメと減点して考えてしまう。
「娑婆」と見る見方は、もともとは、0点。0点であるのが当たり前なのに、
不思議にも思い通りになることがあった。これもあった。あれもあった。有り難いということになる。
0点から不思議にも思いがかなったことを積み上げるのだ。まさにこれが、プラス思考なのだ。
 現代人は、この世を「浄土」と勘違いし、本当の浄土を求めない。
この世を「娑婆」と自覚するとき、娑婆に生きている自分が欲望だらけ煩悩だらけの「凡夫」
(思い通りに生きられない)存在と分かるのです。
(2002.8.12結婚式の媒酌人をして)

木について想う
札幌の街も、桜の花が咲き、街路樹の柳も新緑の芽を出してきました。
いままで、冬の間モノトーン(白黒)の世界から一転して、色鮮やかな世界になりました。
おのずと気分も明るくなります。木々の緑は、心を和(なごま)ませてくれます。
 梅原猛さんの授業「仏教」という本が、出版されております。中学生に授業した講義を
本にしたもので、仏教を大変分かりやすく話されております。是非、ご一読することをお勧めいたします。
 その中で、平安時代から仏像は、木彫仏{もくちょうぶつ}になったことが取り上げられております。
(P143・P166)仏教が中国・朝鮮から伝わった頃は、金銅仏(銅でつくり金メッキをした仏像)、
乾漆(かんしつ)仏(漆{うるし}を固めてつった仏像)、塑像{そぞう}(泥でつくった仏像)、
石像もたくさんありました。それが、日本人の感覚なのでしょうか、
神聖なものには木が良いということになったのです。
神や仏が宿るのに、木が適していると感覚的に考えたのでしょうか。
 インドのお釈迦様は、偶像崇拝を禁じて、仏像を作らせませんでした。
その時、お釈迦様の悟りを開くご縁になった菩提樹を、礼拝の対象物にしたことも、
何か納得出来る気がします。
 木は、消費しても、次の木を植えておけば、再利用出来る資源です。
(石油・石炭は一度利用すれば無くなります。)
 また、文明は森の多くあった近くに起こっている説を聞いたことがあります。
人間と木の関係は深く大切であります。現在木々が伐採され、砂漠化している状況を見るにつけ、
木をもっと大切にと想います。
萌黄色(もえぎいろ)、日本人は、黄緑色を芽が吹き出してくる頃の色を、
このように呼んでいる、繊細な感覚があったのです。
なにかしら、冬を越えて、芽を出してきた木々に,
ようこそ、頼むねと、木に合掌する私です。
(柳の新緑の街路樹をみて 2002.4.25)



札幌の礎
(いしずえ)
中学1年の次男が、「冬休みの自由研究に、歴史に関わる事なんでもよいから模造紙に書いて提出しなければならない。父さん、何かないかい?」と助言を求めてきた。私は、早速、「現如上人(げんにょしょうにん)の
事について書いたらどうだろう!」と答えた。次男は、「現如上人て、誰?」といぶかしげな顔で聞き返した。
 それだけ、現如上人は、現在の札幌市民には伝わっていないのである。
 札幌の開拓の出来事で有名な人の一人に島判官がおります。
札幌市役所の1階のロビーに、札幌最初の開拓使判官「島義勇(しまよしたけ)」の像があります。市役所の他にも、北海道神宮の第二鳥居のそばと、札幌建設の地、南1条西1丁目の角にもあります。それだけ有名であり、札幌市民にも、その遺徳が顕彰されております。
 しかし、実際はどうだったのでしょうか?
調べてみると島判官は、明治2年10月12日に銭函から北海道に入り、12月に札幌に入りました。構想は雄大なものがあったようですが、実情には合わず、莫大な経費が必要で、すぐに財政が困窮したため、すぐに職を失いました。翌年2月11日罷免。
 現在でも、冬の札幌は、雪に閉ざされ大変な事が多いです。明治初期の12月・1月・2月にどのような開拓が出来たでしょうか?札幌開拓の構想は、すばらしいものがあったかもしれませんが、実際の開拓となると、たいした実を上げたように思われません。
 しかも、罷免になった後は、郷里佐賀に戻って、士族の反乱、明治7年佐賀の乱の首謀者と目され、江藤新平とともに斬首されております。

 この他、札幌の開拓に、屯田兵の話や北海道大学の前身札幌農学校の先生クラーク博士や外国人技師の話は有名ですが、現如上人の話は、本願寺道路ぐらいで、札幌の開拓とはあまり関係ないように思われています。
 

 現如上人は、京都東本願寺の第22世住職で、天皇家とも関わりのある方でした。しかし、明治維新により、国の政策が、天皇を中心とした、国家神道になり、廃仏毀釈運動も起こり、東本願寺は苦境に陥りました。
 この時明治新政府は、財政難の為、思うように北海道開拓進んでいない状況にありました。東本願寺は、函館から札幌までの道つける。(すでに道が出来ているところもありました。伊達虻田から平岸まで103キロ。明治4年完成)移民を札幌に住まわせて、札幌の開墾にあたる。このような条件で、東本願寺の存亡の危機を乗り切ろうとしました。
 現如上人は、その時に19歳。新門(本山住職になる前の名。後継者の意味)。
本州で、募財と移民を集め、明治3年7月24日札幌到着。島判官の後の岩村判官と相談して、札幌の開拓に引率してきた本願寺百姓に命じております。(農夫40名)
 しかし、開墾した場所は、札幌の中心部だった為、将来商業地域するべき計画があった為、農業を営む本願寺百姓の土地にすることは出来ず、開拓使は、琴似に移転を命じました。これが、琴似24軒村となった。
これ以外にも、現如上人の移民奨励に応えて多くの方が、北海道・札幌に移民してきました。
 現如上人は、多くの移民奨励引率後、明治3年9月に東京・京都に戻られております。 開拓は、引率してきた方々によってなされましたが、札幌の開拓を決意し、押し進めたことは、間違いなく現如上人の行為によるものです。(アイヌの方々を労働に使ったりして、アイヌの人を苦しめたという見方もあります。明治新政府の意向もあり、時代の趨勢とも言えると思います。しかし、開拓に伴う、いたみは忘れてはならない事です。)
 事実、現如上人の晩年、自分の人生を鑑み、「自分の人生は北海道開拓に明け暮れたものだと回想し、自分の遺骨を札幌の発展のみえる地に埋葬してほしいと遺言されました。」 大正10年。それをうけて札幌の地が一望出来る藻岩中腹に土地を求めました。
 大正12年2月8日行年72歳に亡くなると、遺言通りに「北海御廟」を建設いたしました。
現如上人は、札幌は自分が切り開いた街。札幌市民は、自分の孫・ひこみたいなものと
思ったことでしょう。しかし、前述のように札幌市民は、現如上人の名前すら知りません。
学校教育には、いろいろな視点や物の見方があると思いますが、現如上人のことがまったく
知らないのは寂しすぎると感じました。
(1月15日、次男の冬休みの宿題の資料を手伝って)

クリスマスが終わって
毎年12月になると、どのテレビ・どのラジオの番組でもクリスマス特集となる。
仏教徒である私にとって、あまりおもしろくないことであるが、
日本の現在の状況から考えてもいたしかたのない状態であることは理解できる。
多くの日本人は、クリスマスとキリストの誕生日とは別に考えて、サンタを中心に
考えて、子供や家族にプレゼントをする日・パーティーをする日としているようだ。
日本人は、西欧かぶれという言葉もあるが、どうもそちらの系統に弱いかもしれない。
プレゼントする日やパーティーをする日がクリスマスでなくてもよいが、雰囲気的に
この日がよいみたいだ。(ちなみに家にも子供がいるので、クリスマスの時期に
何もしないのでは、子供には理解するには難しいので、12月8日に成道会(じょうどうえ)に
ささやかなパーティーをしたり子供にプレゼントを上げている。
こどもたちも、何とかそれなりに納得理解してくれている。)
Christmasと英語を生活言語としているところでは、キリストの誕生日・ミサという
意味以外理解出来ないとおもう。
イスラム教徒やユダヤ教は、決してクリスマスは祝わない。
「商売としてするが、心までは売らない。」
(アフガニスタン・カブールでのツリーを売るイスラム教徒)
 21世紀の初めは、ニューヨーク国際センタービル爆破から始まったと世論でいう。
はたしてそうなのか?私は、タリバン政権が、バーミヤム仏教遺跡を破壊したところより
始まるような気がしてならない。
 イスラム原理主義のもとで、仏教遺跡を破壊した。
ある面から言えば、イスラム原理主義者が、仏教徒に挑戦してきた。
一部の方々は強く反対したが、一般的世論にもならず、仏教遺跡は破壊されました。
特に、日本での報道や扱われ方は小さく、私は寂しく感じました。
ここに次の事件の予告を感じました。
そしてあの、ニューヨーク国際センタービル爆破。相次ぐ自爆テロ。
人命が失われたことも併せて、大々的に報道されました。アメリカのブッシュ大統領が
国民に戦うために十字軍の話をしたように、決して宗教戦争を持ち出すわけではないが、
イスラム原理主義と戦うキリスト教徒のアメリカを鮮明に打ち出しました。
そして、報復の意味合いも含めたアフガニスタンへの戦争突入。
世界までも仲間に入れて、戦争を遂行。
仏教徒の国際的社会貢献を考えると、寂しくなる。和の精神は、世界に通用しないのか?
日本人の国際的社会貢献ということにも重なる。
寛容(トレランス)と曖昧・いいかげんとは異なる。
「釘に刺された足は痛い。ありを踏んだ足は痛くない。」の
ことわざの如く、被害者だけがいつも悲しい思いをする。

クリスマスの話に戻る。日本人がクリスマスをするのは自由。でも、しないのも自由。
しかし、今の日本では、しない自由すら認められない雰囲気がある。
うちの子供お話。小学校で、担任の女の先生に「北君のところは、お寺だから
サンタさん来ないの?かわいそう!!」先生に、言ってほしくない一言。
一辺倒なものの見方。
日本人の国際的精神文化が、問われている気がしてならない。
(クリスマスが終わって、年越しの番組が増えた12.28)



軍事報復に向けて強硬姿勢という情勢の中で
 
アメリカのニューヨーク・ワシントンから大変なニュースが飛び込んできました。
アメリカ時間、九月十一日午前九時頃、同時多発テロが起き、旅客機をハイジャック。
世界経済の中心的シンボル世界貿易センタービル(一一〇階)の南北両棟を倒壊させました。
又、世界の軍事中枢、国防総省(ペンタゴン)にもハイジャックした旅客機が突っ込み同省ビルを炎上させました。
旅客機の乗客も含め、数千人規模の死傷者が出たようです。
被害に遭われた方々すべてに対し哀悼の意を表したいと思います。
九月十四日では、まだ犯人が特定されておりません。
真相が究明されていない状態で、勝手に想像して意見を言うことは差し控えなくてはなりません。
しかし、ニュースを見ていながら、気になったことを書かせて頂きます。
 犯人究明やテロが二度と起こらないように防衛強化することは大切なことだと思います。
しかし、軍事的報復という考えは慎重に対処しなけらばならないと思います。
(全世界が軍事的報復を是として認める傾向にあるからこそあえて宗教家として苦言を呈したいと思います。)
 二〇世紀の第一次・第二次世界大戦を見ても分かるように、国と国との戦争は、
全国民を巻き添えにする総力戦になっております。
戦争をしている人だけとの戦争は出来ません。民間人や何もかかわりのない人たちも殺してきています。
イスラエル・中東での戦争は、報復に対する報復。
報復が、新たな報復をよんで、現在に至っております。憎しみが憎しみを生んでいるのです。
 今から、八六〇年ぐらい前、岡山県美作の地で、武士同士の争いがありました。
一方の武士(源内武者定明)が、夜討ちを決行しました。
夜討ちをかけられた方は完全にやられました。
押領使(今の治安警察官)であった漆間時国は、瀕死の重傷。
その時、妻と九歳になった独り子である長男を枕頭に呼び寄せ遺言したといいます。
武士である以上、仇を討つ事が、良いこととされ、当たり前の時代でした。
その中で、父時国は、「汝、仇を報ずることをやめよ。これ、ひとえに余が先世の宿縁なり。
わが傷痛み苦しみ、はなはだし。されど今こそ、わが傷の痛み苦しみによって、
他の傷の痛み苦しきことを知れり。
汝、敵を憎み殺せば、敵の子もまた汝に刃を加えこの痛苦を与えよう。
汝の子もまた敵の子を憎み刃を加えんとし、生々世々、殺し合い傷つけあうこと限りなくなろう。
汝よ、敵を憎むことを捨てて出家し、高き立場より敵をも抱きてともどもに救われる道を求めよ。
尊き宗教家に大成してわが菩提をとむらえよ。」こう言って亡くなっていきました。
劇的な父との別れを通して、この子は出家し僧侶となりました。
この人こそ、親鸞聖人の師匠、法然(源空)上人でありました。
この悲しい事件がなければ、浄土宗も浄土真宗も無いのです。
仏教徒として、現在のテロ事件の軍事報復行為を
しっかり考えてみなくてはならないと思います。
(9月15日米国テロ事件放送を見て)

七夕に想う

私の住む札幌市の東区地域では、七夕は、1ヶ月遅れの8月7日に行います。
私の子ども頃は、北海道には笹の葉が少ないので、柳の木に願い事の短冊等を吊るして、七夕飾りを致しました。
その頃は、各家庭でも七夕飾りが普通に見ることが出来ました。
しかし、この頃は七夕飾りほとんど見ることが出来なくなりました。
(我が家では、毎年八重桜に七夕飾りをしていましたが、今年は私が忙しく出来ませんでした。)
 ところが、「ロウソク出せ」の習慣だけは残っているのです。「ロウソク出せ」とは、
子ども達が、ちょうちんを持って各家々を回り「ロウソク」をもらって歩く行事です。
この風習がどうして出来たか定かではありません。しかし、私が考えてみるに、
7日盆(お盆のはじまり)であることから、こどもにお盆の「ロウソク」を集めてもらう、
相互扶助的要素があったのではないかと思います。(昔は、私の家の回りでも味噌・醤油・砂糖など、
なければお互いに貸し借りがありました。また、お寺に早くから電話がありましたので
近所の方の電話の取次ぎなども致しました。)ですから、厳しい生活をしていくなかで助け合うことは当たり前であり、
ご先祖さんを大切にしていた時代のお盆にお明かりを灯すことは大事なことだったのでしょう。
また、「ロウソク」は、電気の無い時代では、貴重なものであったかもしれません。
「ロウソク」のない家も、こどもを利用して「ロウソク」を頂くことがあっても不自然ではなかったと思われます。
大人はその意味や願いを知って、こどもたちに「ロウソク」を集めさせたのでしょう。
私の子どもの頃は、ちょうちんに明かりを入れ、「ロウソク」を一杯貰って歩きました。
 ところが、今の「ロウソク出せ」をみると、誰もちょうちんは持って来ていません。
「ロウソク出せ出せよ!出さないとカチャクゾ!おまけに食いつくぞ!」と恐ろしいような掛け声を言って回るのは一緒ですが、
「ロウソク」ではなく、みんなお菓子なのです。我が家では、お菓子もあげておりますが、
原点のロウソクもあげようとすると、「ロウソクなんていらない」です。
なかには「お菓子がなければお金頂戴」という子どもまでおります。
「ロウソク出せ」と言っておきながら「ロウソクはいらない」という行事。
願いもなくなって、ただ子どもがお菓子を貰って楽しいからでは、
この習慣・行事も止めにしたらどうかと思っております。     (8月7日七夕を終えて)


仏様が、何故靖国神社の英霊に?
世間では、参院選が12日に公示された。「小泉改革」人気に押されて、調査の結果、
政治に対しての国民の関心も高く、投票率も高まるそうだ。これは本当に良いことだ思う。
自民党総裁小泉純一郎首相は、「聖域なき構造改革」を打ち出し、
特殊法人の見直しなど今までの自民党政府が手の付けられなかった改革を打ち出し、国民の好感を得ている。
(参院選の投票したい候補者は、自民党の人。ほかの政党を大きく引き離している。各社の新聞社世論調査より)
 しかし、私は、すべての政策が良しと思わない。かえって人気があるからこの機会に、
問題ある法案を可決してしまう恐れもある。国民は、良いものは良い、悪いものは悪いという意識を持つべきだと思う。
 小泉首相は、韓国・中国からも、教科書問題も含めて、首相靖国神社参拝に、危惧されているのに、
当の本人は、「国のために犠牲になった人をお参りするのが何が悪いのか」という感情論で押しきろうとしている。
まわりからは、A級戦犯「分祀」案や国立墓地設立案も上がっているが、あまり耳を貸さないようだ。
8月15日終戦記念日には、首相として参拝するそうだ。その感情論の中で、靖国神社に合祀されているA級戦犯について
「日本人の国民感情として、亡くなるとすべて仏様になる。A級戦犯は現世で死刑という刑罰を受けている。
死者をそれほど選別しなければならないのか」と主要7党党首討論会で述べている。
 亡くなるとすべて
仏様になるものを、あえて靖国神社で英霊と祭るということは、どう考えても、おかしいです。
国民は、この点はっきり指摘しなくてはならないと思う。
(2001.7.12参院選公示日に思う)

現在は、日本に仏教が伝わる以前に戻った?
6月8日大阪教育大付属池田小学校で、死亡者8名を含む児童ら23名の殺傷された事件が起きました。
本当に、悲しい事件でいたたまれません。精神障害者に対する刑法見直しなど、
色々問題もあると思いますが、
このようなひどい悲しい事件が起こらぬように、法の整備もしていただきたいと思います。
 しかし、私にとって、本当におかしな政府の対応も見られました。
6月10日朝日新聞の社会面に「現場の教室当面使わず」文部省対策会議のニュ-スが載っておりました。
 そのなかで、全国の学校に安全点検マニュアルを見直すとともに、
事件のあった小学校で授業を再開する際は子どもの心の傷に配慮し、
当面は特別教室や隣接する付属中の教室を使うなど、
現場となった1・2年生の教室は使用しないことを確認。
将来的には校舎建て替えや改修を考えたい。
としている文部省の考えが載っておりました。
 日本に仏教が伝来する前、天皇が崩御すると、死を忌み嫌うことから、遷都しました。
ですから、一代だけ暮らすだけの建造物でした。それが、仏教が日本に伝わり、死を受容することから、
何代にも耐えうる日本の本格的建造物が出来ました。
聖徳太子発願による法隆寺など日本の代表的建造物が生まれました。
 それが、今回の事件の文部省の対応を見ると、死を忌み嫌う様な対応です。
死をしっかり見つめることから、仏法は始まります。
また、仏法に支えられて死を受容するのかもしれません。
心の傷に配慮することは大切でしょうが、事件のあった場所を見せない、
思い出させないことが、心のケア-になるのでしょうか?
 まさに、現代の日本は、宗教心を失って、死をただ単に恐れおののき、
忌み嫌うだけの状態に戻ったような気がします。
 事件の恐ろしさとともに、その政府の対応にも、何かゾ-といたします。
(6月10日大阪の児童殺傷のニュ-スの新聞を見て)

電話勧誘の断り方?
妻は、暇さえあれば、毎日手紙を書いている。私が、「何でそんなに手紙を書いているのか」と問うた所、電話をかけたくないからだと言う。
品物を戴いたお礼ぐらいなら電話で済ませても良いのではという私に「お父さんお寺に居てごらん。どれだけいろいろな電話がくるか?
大事な電話もあれば,勧誘などの電話もある。その度に時間がとられ、しようと思っていることが何も出来なくなる。」
だから、妻は自分のいやな経験から他人にはなるべく電話をかけたくないということである。なるほどと思った。
私も妻に見習って手紙にしようかなと思ったが、悪筆なので自筆だと相手が読めないので、かえって迷惑がかかるのでFAXやEメ-ルにしようの思う。
 それにしても色々な電話がかかってくるのは事実だ。一番多いのは、子供の家庭教師の電話だ。
中学生二人いるせいか、毎日かかってくる気すらするぐらいだ。大学生が安易な気持ちでお金を得る方法と考えているらしい。
家庭教師が、間違いなく責任をもって子供の希望する高校に合格させるぐらいの責任があれば考えないでもないが、
電話で売り込む人であれば、望むこと自体無駄である。
 次ぎに、資金運用の電話である。お寺がそんなにお金があるの思っているのだろうか?宗教法人は、収益を上げたりする法人ではない。
それなのに、この手の電話も後を絶たない。 次は、電話に関する勧誘である。
NTTが民営化になってから、似たような名前の関連企業が電話をかけてくる。これも多い。
 その他いろいろな電話がかかってくる。お寺であるから、不特定多数の方から電話がかかってくる。
お寺の印象を悪くしないように、又、相手に失礼の無いように応対しなくてはならないと考えれば、妻でなくても気を使い。疲れる。
それにしても、電話で勧誘する方は、プロであり、相手に切られないように、あの手この手で、勧誘でないような話のもって行き方をする。
それにも時間がとられる。お寺であるから、なるべく印象の悪くない断り方をしたいと考えているが、
一方的にしゃべりまくられる話にどうしようもなく、ガシャと切ってしまった。むこうも、ノルマを課せられてやっていることなのであろう。
私も、後味が悪い。何か良い方法はないものだろうか?
 相手を思いやる気持ちが、お互いにあればと思う。
                 (5月10日 勧誘の電話をガチャと切って)


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