提出済みレポート。
(多少オリジナルとは変えています)

フォトジャーナリズムとアート写真 (六枚中二枚目)


1章  問題提起 Sebastiao Salgadoの写真展でのできごとなど


 まず問題提起として、僕にとって「報道写真とアート」というテーマについて考えるきっかけとなった一つのエピソードを紹介したいと思う。
 先日、東京都写真美術館で開かれていたサルガド展に行ってきた。それは彼のこれまでの作品の中でも特に有名なもの、そして特に印象深いとされているものをまとめて見る機会となったのだが、その途中、サヘル地帯の枯れた木の前に立つやせ細った少年の写真の前で、とある女性の集団(50代前半であろうか)が話していた内容に、ついハッとしてしまったのである。
 彼女らはおそらくフォトジャーナリズムについて特に詳しいわけではなく、恵比寿に来たついでにふとこの展覧会に立ち寄った、というような趣きだったのだが、そのうちの一人が件の写真を前にこのように言ったのである。
 「すごいわね。この写真。ちょうどこの男の子が後ろの木と同じふうに見えるように、できているのよ」
 この一言を聞いて、思わず唸ってしまった。もちろん、この写真において、少年と後ろの木が対比的に論じられるのはよくある議論だし、僕自身もそのことはよく知っている。ただ、いわゆる「一般」の観客に対し、第一印象としてその「対比(つまり『構図』である)」に注目させてしまう事は、この写真が「アート」的な要素を多分に含んでいることの表れではないだろうか…という疑問を持ったのだ。
 Sebastiao Salgadoと言えば、いわゆるHumanisme的な面を持つ報道写真家であり、その点で色々批判があるとは言っても、決して「アート」としての写真家ではないと一般的に認知されている。アート写真を扱うartisteとphoto-journaristeとの間には、違いがある(または、違いがあるべきである)と考えられているのだが、実際はそれらの間にどれほどの差があるのだろうか。というような疑問をもつきっかけとなった。この疑問は第2章で述べる、「photo journarismeの再定義」という思案に繋がっていった。
 この章の冒頭で紹介したサヘル地帯の少年の写真のみならず、他にも「絵・構図として」綺麗な写真はサルガド展において散見された。Henri Cartier-Bressonが構図を重視するように、おそらくいかなる写真家(敢えてフォトジャーナリストとは言わない。いわゆる一般の写真愛好家を含む、写真の撮り手全体)も意識的にしろ無意識的にしろ、絵・構図として綺麗な写真を撮ろうとしているのであろう(1)。これは報道写真家であっても、ある一面でアートとして写真を捉えているということにならないだろうか。
 そして、今回のサルガド展においては、写真に被写体の名前が添えられていなかった、という点も指摘できる。この事実からHumanismeの功罪といった結論を導く事もできようが、今回はHumanismeではなく「アート写真と報道写真」という議論をしているので、そちらの視点からこの事実を眺めてみたい。被写体にそれぞれの名前を添えていないという事は、すなわち、被写体の個性を重要視しているのではない事を示す。つまり、被写体がAさんという人でもBさんでも構わないということであり、被写体は芸術用語でいうところのmodeleに過ぎないのではないだろうか。サルガドの場合、敢えて被写体の個性を強調しないでおくことで人類全般的な問題として捉えようという試みがなされていると考えられるので、なおさら被写体はun modeleに過ぎないという印象が強くなる。写真を撮る上での「対象物」であるという感覚である。それは僕にとって、アートと報道写真の分別をより難しくする、また一つのファクターである。
 さらに、これまでなされてきた、写真報道に許される作為性に関する議論も、僕にとってアートと報道写真の垣根の低さを考えさせる一つのきっかけであった。というのは、その議論では「やらせ写真はどのレベルまで認められるか」というようなことも論じ合われたのだが、その中で「よりわかりやすくするために、ある程度の演出(例えば、人物の位置を少し変える、など)は許容される」という説を述べる人が、少なからずいた。しかしこの演出は、その写真をより「アート化」する要因とならないだろうか?わかりやすいように人物の位置を変えるなどの行為をしてしまうと、その時点で、そこで起こった事(つまり、写真に撮られたこと)は本来あった事実とは異なる。これは舞台演劇や映画と同じことではないだろうか。舞台演劇は昔から一つのアートとして考えられているし、映画は現在フランスで「septieme art(7つ目の芸術)」と呼ばれている。いま、僕はこの行為が報道写真として良いか悪いかを考えているのではない。その判断は人によって異なるであろう。ただ、この行為は、報道写真をよりartistiqueにするのではないか、と思うのである。

次へ


B A C K