提出済みレポート。
(多少オリジナルとは変えています)

フォトジャーナリズムとアート写真 (六枚中三枚目)


2章  Photo journarismeの再定義の試み

 Photo journarismeはアートから分離されるべきものである、という観念が一般的に広がっている。この現象に関して、スーザン・ソンタグもその著書の中で次のように言っている。

 不幸や不正の目撃証拠である写真は、それが「美的に」、つまりあまりに芸術的に見えると批判を浴びる。記録を作ることと視覚芸術の作品を生み出すという写真の二重の力は、写真がなすべきこと、なすべきではないことをめぐっていくつかの著しい誇張を生じさせた。最近のもっとも一般的な誇張はこの二つの力を対立するものとして捉える態度である。
(スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』(北條文緒訳、みすず書房、2003年)74-75頁)


 つまり、photo journarismeが芸術(アート)を内包するということを、人々は受け入れないばかりか、それを悪として考えているのである。
 しかし、第一章で繰り返し述べたように、実際はどうしても構図を気にしてしまう点や、演出の問題など、photo journarismeにも芸術的な要素が含まれている。というよりもむしろ、写真というメディア自体から芸術性を排除するのは不可能なのではないかと思うのである。
 そのような状況の中で、photo journarismeはどう定義したらいいのであろうか。これまで多くの人に思われているように、「アート」と完全に峻別されたものとして捉えるのはかえって不自然であるような気がしてならない。

 僕は次のように報道写真を定義している。
 報道写真もアート写真も本質的にはそれほど変わるものではない。報道写真にも美しさや芸術性は認められる。そのなかでも、より報道色の強いもの、つまりそれによって伝えたい内容がjournarismeとなるであろうものを、報道写真と呼ぶ。だから、どのレベルから報道写真と呼ぶかという点については人によって判断がことなるであろう。また、報道写真でもあり、アート写真とも考えられるような写真も存在するであろう。はっきりとどのレベルから報道写真と認めるか決めるというのは、まるで電球を徐々に暗くしていって、どの段階まで明るかったかということを問うのと同じようなものであり、ナンセンスである。

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