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誰も知らない /
Nobody knows

是枝裕和

2004 J 141 Min. 劇映画

出演者

YOU
(福島けい子 - 4人の母親、デパート勤務)

柳楽優弥 (明 - 長男)

北浦愛 (京子 - 長女)

木村飛影 (茂 - 次男)

清水萌々子 (ゆき - 次女)

韓 英恵 (紗希 - 中学生)

串田和美
(吉永忠志 - 家主)

岡元夕紀子
(吉永江理子 - 家主の妻)

平泉成
(中延司 - コンビニ店長)

加瀬亮
(広山潤 - コンビニ店員、子供に食べ物をやる)

木村祐一
 (杉原 - タクシーの運転手、子供の父親)

遠藤憲一
(京橋 - パチンコ屋店員、子供の父親)

寺島 進
(野球を監督している教師)

タテタカコ
(宮嶋さなえ - コンビニ店員)

見た時期:2005年4月

カンヌで賞を取っており、世界に名前が知れた作品。久しぶりに北野武でなかったので、日本の映画人の中で1人だけに国際的な注目が集中せず良かったと当時は思っていました。私はこれまでに是枝裕和の作品は2本見る機会があり、これが3本目。他の2本がわりと良かったので、期待していました。見てみると誰も知らないは青山真治の Eureka ユリイカにかなり近いのでがっかり。パクリとは言いませんが、テーマの扱い方がよく似ています。何が 共通しているかと言うと、長い時間をかけて人の上に起こった不幸を記録して行くというアプローチの方法。内容ではその人の苦しみを理解できる人たちが集まって血筋に関係の無い家族関係に帰結する点が似ています。

★ Eureka ユリイカの概略

青山の作品の方は、こんな具合。バス・ジャックで殺されかかり、かろうじて生き延びた運転手や乗客が事件後普通の生活に適応して行けなくなります。裕福な家に育っていた子供たちは学校や地域に溶け込めなくなり、運転手も家庭が崩壊に向かいます。その両者がある日めぐり合い、共に何とかやって行こうという結論に達するまでの時の流れを3時間以上の長い時間をかけて描いて行きます。

最初のバスの事件以外はこれといって目立つ大きなドラマは入れず、淡々とこの人たちの身の上に事件後に起こった変化を見せて行くという手法です。見終わった観客は事の次第に納得します。ここまで丹念にやってくれると、犯人でもない善良な人間が無気力になってしまい、他の人とうまくやって行けなくなるという状況が理解でき、そういった事件の当事者になってしまった人への理解が深まると思いました。

★ 誰も知らないの概略

是枝の方は、バス・ジャックのような一時に緊張が集中するような事件はありませんが、12歳以下の4人の子供たちが隠れるようにアパートで暮らしています。外に顔を出していいのは長男1人。他は誰にも見られては行けません。母親は独特な考えの持ち主で、子供たちを学校にやらず、施設に預けることもせず、自宅に置いています。父親無し、子供4人では置いてくれるアパートが無いので強行手段。デパートに勤めその給料で5人はそれなりに幸せに暮らしています。しつけはかなり良くて、家事は子供たちが分担して受け持ち、母親はデパートの仕事と買い物。そして読み書き、計算なども覚えるようにと家の中で練習 させています。

子供を学校へやらないという無茶を除けば驚くほどうまく機能していて、子供たちは不自由を味わっているものの不幸の真っ只中という雰囲気ではありません。実話を元にして心理的な動きは監督が考え出したフィクションだという断わり書きがありましたが、私にちょっと気になったのは子供を一切外へ出さないために起こり得る健康上の問題。それには触れていません。

★ 外国の事情がドイツ人に伝わるか - 補助だらけのドイツ

日本語にドイツ語の字幕で見たのですが、日本の住宅事情、そして事件のあった80年代の社会の事情は説明がゼロなので、ドイツ人にこの母親がなぜ強行手段に出ているのかはほとんど伝わりません。母親は結婚しておらず、4人の男から4人の子供を得ているのですが、これが日本の社会でどういう意味を持っているのかドイツ人に説明無しで伝わるかどうか、そしてドイツ人が実感を持ってくれるかどうかは不明。

《4人の男から4人の子供》+《未婚の母》というのはドイツには多いわけではありませんが、あり得る話で、それをとやかく言う人はほとんどいません。80年代でも日本ほど摩擦は起きないと思います。住宅事情もドイツは日本よりかなり良くて、子供がうるさいからというだけでは追い出しは難しいです。その上生活がきつい人には当時は生活保護の他に住宅補助もあり、子供が1人であろうが4人であろうが国からは頭数の分だけ子供養育の補助金が出ます。

学校の費用もかかりません。受験戦争は無しで、塾へ行く必要ゼロ。医療費は月額あまり高くない保険料を払うだけですが、生活保護を受けている人は免除。しかも80年代ですとドイツはまだ豊かな時代ですから、子供が4人いると、お母さんが働きに行かずに補助金だけで何とかなる可能性があります。そういう人にこの日本のお母さんの立場分かるかなあ。

★ 出産事情のお国柄

それとは別にこの女性が子供を堕ろさず、産んでいるということも、ピルがとっくに普及していたドイツでは解説無しに理解というのは難しいでしょう。日本はピルが国の監視の元にかなり普及しているドイツと事情が全然違います。ドイツでは妊娠中絶の方がずっとややこしく、70年代にはまだもぐりの医者に手術してもらって母親の命が危なくなったなどという話が多く、わざわざ近隣の他の国へ行って堕ろすなどというややこしい話がいくつもあります。

暫くしてからはややこしい手続きを踏めば中絶が合法的に可能になっていますが、その後また条件を厳しくする動きが出て、現在はそう簡単ではありません。(ドイツのカソリックは時代に合わそうという面もあるのですが、法王の反対にあってあまりおおらかにはできないようです。)ピル の方は相変 わらず国がしっかり監視して(=怪しい薬は出さない)たやすく手に入り、母体に影響が少ない種類を推薦するという傾向が強いです。日本では逆にピルはなかなか 手に入りませんでしたが、妊娠中絶は設備の整った所で健康上あまり大きなリスク無しに行えました。ですからこのお母さんが4人 の子供を抱えているというのは日本ではある意味で特殊、妊娠を知って子供を殺す気は無かったと言うことができます。

両国の事情を短くまとめると
 ・ 比較的安全なピルが大きな負担も無く、国のしっかりした薬品管理の元で配られるのがドイツ
 ・ ある時期までピルは全面禁止、その後も質に差のあるピルが売られるが、妊娠中絶の方はかなり前から比較的安全な環境で行われるのが日本
という感じです。

私が日本を離れてから国内事情が大きく変わったようですが、80年代はまだ上に書いたような状況が一般的。ドイツは変化が一足先に大きな変化が終了しており、私が渡欧した頃には上に書いたような状態で安定。時折妊娠中絶是非論が交わされますが、一般的に妊娠の前に打つ手があり、そこのシステムがしっかりしているためか、中絶はそれほど簡単ではありません。ここで教会の発言が大きく出ますが、少子化を防ぐという意味で政府も無関心ではありません。できてしまった子供はその家で面倒見るなら金を払う、ダメなら国が引き取るから殺すなというスタンスです。

★ 矛盾 - インフラがあればいいのか

ただ実際の社会を見ていると、子供を負担と感じている人が多く、私の知っていた頃の日本のように子供がいることを喜ぶ親をあまり見かけたことがありません。やれ正月だ、七五三だ、七夕だ、ひな祭りだ、子供の日だと言っては子供と一緒に外出し、疲れが残っているお父さんも一緒になって子供の成長を喜ぶ姿はあまり見ません。実際にはドイツは国が学費を負担してくれ、設備はよく整っているので、子供の将来にと長い間貯金をする必要も無く、それだけ親が子供と過ごす時間も長く取れますから、負担と感じる物理的な理由は日本よりずっと少ないです。よく忘れられることですが、通学に長い時間がかかることが無く、私立の学校というのは少ないです。

★ 矛盾 - 同じ人なのに

映画を見ていて人間の持つ矛盾がはっきり分かりますが、子供に愛情を注いで育てようとしている女性と、ある日男ができて、子供を放り出してしまう女性が同一人物です。私に唯一そういう矛盾の手がかりとして見えて来るのは、この母親(を演じている女優)が子供たちと地声で話さず、妙な作り声だという点。監督や俳優が意図してそうしたのか、YOU とい女優がいつもこうなのかは、日本にいないので分からないのですが、私は地声で話さない人は苦手です。

ドイツではドイツ人は無論のこと、日本人の女性でもオクターブ高い声で話すことを要求されたりしませんし、デパートの店員、エレベーター係りのような作り声を出す必要のある職場はありません。不思議なことにそれでも日本から来てもう20年以上暮らしている女性にはまだ日本の習慣を守って暮らしている人が何人もいます。日本は女性にそういう態度を強いる社会なのかとも思ってしまいますが、本人はいったいいつ自分に休憩時間を与えるのだろう、どのぐらいそういうマスクをかぶった生活に耐えられるのだろうとも思ってしまいます。ですから福島けい子が子供を放り出して男の元へ走ったのも何か《解放されたい》という気持ちと関係があるのかとも思いました。監督はこれといったヒントは出さず、見る人が勝手に解釈する自由を残しています。この事件は幼児虐待という扱いになっています。しかし言葉から想像できる《子供に折檻した》とか《子供を苛めた》という内容ではなく、子供を放り出した、遺棄したというのが映画の中の現実です。

さて、肉体的に苛められたりしていない子供たちは、学校に行かせて貰えないという問題を別にすれば、映画が始まった段階ではまだそれなりに幸せに暮らしています。子供として当然の《他の子供と遊びたい》という欲求は、4人兄弟な上、男女半々だったため兄弟で遊べ、冒頭大きな問題になっていません。しかし精神的にはこの時点ですでに問題を抱えています。映画ではあまり大きく取り上げていませんが、《よその人に見つかっては困る》という条件はのびのびと遊びたい年齢の子供にどういう傷を残すのか測りがたいです。自分がこの年齢に近所の子供と遊び、好きなだけ野原を飛びまわっていられたため、自分がこんな条件で暮らさなければならないとしたらとてもつらいだろうとつい思ってしまいます。

そして次の問題は、《母親に捨てられる不安》。当初は母親は長く家をあけます。それでも取り敢えずお金は置いていってくれたので、必要な物を買い、すでにやり慣れていた家事をいつも通りやっていれば何とかなりました。そして母親は暫くたって帰って来ました。ところが次の時には帰って来ません。現金書留が送られて来ます。しかしそのお金もやがて尽きてしまいます。家賃、光熱費が必要でも払えません。

★ ところで大人は

この辺りから周囲の大人の様子も一緒に描かれて行きます。呆れてしまうのは家主。家の様子を見、かつ家賃が振り込まれていないのに、福祉事務所に連絡をしません。コンビニでは万引きを疑われますが、疑いが晴れ、店の人は親切になります。その時にも父親がおらず、母親が長く家をあけていると明が言いますが、コンビニは役所に連絡しません。コンビニは客商売なのでそこまで他人の生活に首を突っ込まないのが普通なのかも知れません。コンビニは明に理解を示し、店員が食事を分けてあげたりしています。公式な義務は果たしていませんが、非公式に援助の手を差し伸べているという意味では何かしら人間性を見せています。子供の父親に当たる男性が福島けい子に仕送りをしないというのはドイツでは考え難いことですが、日本では慰謝料とか養育費という話が出るようになったのも欧米に比べ遅いですし、実際に支払われているのかを国が監視するというシステムもあまり整っていなかったようです。このあたりもドイツ人がこの成り行きを納得するにはちょっと解説が必要。

まだ小学校もきちんと終えていないのに一家を支える羽目になる子供というのは残念ながら時たまあるようです。母親が急に未亡人になってしまって、親子一緒にがんばるなどという感動的な話もありますが、まだ大人にならないうちに大人の仕事を引き受ける羽目になる子供というのは、理由が何であれ大変な負担を背負ってしまいます。ましてそれが親の無責任から起きた事ですと、私も腹を立ててしまいます。ドイツを見ていると、少なくとも社会制度が子供を引き受けた大人をサポートするという風になっているので、誰も知らないのような極端な事に発展するケースは稀で すが、それでも楽ではありません。その時当事者の子供はどういう風に感じるのでしょうか。

そのあたりがこの作品では良く描かれていました。最初感心するほど良い子で、明るさも持った明ですが、事が徐々に軌道を外れ、母親とドーナッツ店で話している時の明の視線は、もうほとんど大人対大人の話になっています。12歳でここまで大人にならなければやって行けないという状況はムチャクチャ。下の子供たちはほとんど喧嘩をせず仲がいいのですが、思いっきり兄弟喧嘩をすることもできないのは、見捨てられては困るという不安が付きまとうからでしょう。わがままもほとんど言いません。ベランダで植物を育てるなどほんの僅かな望みをかなえるだけです。

★ 友達になってくれる子供

明は学校に行きたい、友達が欲しいなどこの年齢としては当たり前の望みを恐る恐る試してみます。親がいないので学校には入れません。友達は2人ほどできますが、《万引きをしろ》と言われ、《こりゃまずい》と感じます。その上2人が中学に入ると、塾などのスケジュールがきつくてもう遊んでくれません。明は別な友達を見つけます。学校で苛めにでもあったのか、登校せず公園に座っている女の子。最初は顔見知りになる程度ですが、やがて口を利くようになり、彼女は家に遊びに来ます。

映画が始まる時にはきれいに掃除ができていた家ですが、母親がいなくなり、生活が苦しくなるにつれ、掃除が行き届かなくなり、やがてごみの山になります。片付けのできない子供たちではありませんが、水道が出ず、お風呂にも入れない、洗濯もできない状況では徐々に薄汚れて行きます。中学生はそれでも嫌がらず、仲良くなります。自分も学校で阻害されているから心が通じたのでしょう。

彼女は一時明と揉めてしまいますが、ある日妹が事故で死んでしまいます。その弔いをする時に彼女の助けを借ります。その後彼女は死んだ妹の穴を埋めるようにこの家族に加わります。

★ 実際の事件との違い

事件として扱われたようですのでその後いつか警察に知られることとなったのでしょう。私はこの事件については何も知りませんでしたが、インターネットにはその後の別な遺棄事件は頻繁に載っています。時代が変わって行った、世の中のたがが外れてしまったと感じます。この事件はその走りだったのかもしれません。この事件の記事を後になって読むと、映画よりずっと悲惨で、残忍だったことが分かります。兄弟は元々5人で死んだのは2人。映画では途中中学進学で消えていく2人の友達が、実際の事件では女の子の死に大きく関わっていました。映画を見ていて私も気にしていたのですが、実際の事件ではやはりカップラーメンばかり食べていたため子供たちは極度の栄養失調に陥っていたそうです。

その他色々ある現実のエピソードを監督ははずしており、多少なりとも心あたたまるシーンを混ぜてあります。本当の事件では母親はこういう状況で子供を育てていくための役所などの知識がゼロで、最初の男が婚姻届も出生届も出していなかったのを母親は後になって初めて知ったそうです。その躓きがその後起きた事すべてのきっかけでした。映画では《家主が届けない》と私は腹を立てていましたが、実際の事件では家主が役所か警察に届けたようです。

★ 長屋であれば

映画の終わり方は《見捨てられた者が集まって家族を築く》という形。それが義務教育の終わっていない年齢なので観客は虚しい気分になってしまいます。これ、江戸風の長屋だったらどうなっただろうと考えてしまいます。母親がトンズラしても、近所の大家さんやご隠居さんがよってたかってご飯を食べさせ、寺子屋をやって いる浪人が読み書きを教え、髪結いのおばさんが服装や髪を整えってな具合で地域のコミュニティーで助けたでしょうねえ。そしてたまに母親が戻って来たら、寺の住職が説教。日本にはかつてそういう風に底辺を支える力がありました。《お母さん、あの長屋はどこへ行ってしまったんでしょう?》

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