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レッド・ライディング I /
Red Riding: In the Year of Our Lord 1974

Julian Jarrold

2009 UK 102/298 Min. 劇映画

出演者

Andrew Garfield
(Eddie Dunford - ヨークシャー地方新聞の記者)

Mary Jo Randle
(エディーの母親)

Rachel Jane Allen
(Susan Dunford)

Anthony Flanagan
(Barry Gannon - エディーの先輩記者)

Rebecca Hall
(Paula Garland - 行方不明の少女の母親、未亡人)

Peter Mullan
(Martin Laws - 地元の神父)

Robert Sheehan
(BJ - カラチ・クラブのバーテンダー、男娼)

Kelly Freemantle
(Clare Strachan - カラチ・クラブのウェイトレス、模倣犯の犠牲者)

Sean Bean
(John Dawson - 地元の不動産、建設方面の有力者)

Cathryn Bradshaw
(Marjorie Dawson - ジョンの妻)

Warren Clarke
(Bill Molloy - 地元警察幹部)

Shaun Dooley
(Dick Alderman - 捜査官)

Chris Walker
(Jim Prentice - 捜査官)

Paddy Considine
(Peter Hunter - スコットランドから派遣された刑事)

David Morrissey
(Maurice Jobson - 刑事局長)

Daniel Mays
(Michael Myshkin - 幼女連続殺人犯、知的障害者)

Gerard Kearns
(Leonard Cole - マイケルの友人)

Tony Mooney
(Tommy Douglas - カラチ・クラブ事件で負傷し、引退した刑事)

Sean Harris
(Bob Craven - カラチ・クラブ事件で負傷した刑事、トミーの当時の相棒)

Tony Pitts
(John Nolan - 刑事)

Jim Carter
(Harold Angus - 刑事)

見た時期:2010年3月

2010年春のファンタ参加作品

要注意: ネタばれあり!

見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

春のファンタの所でもご紹介しましたが、小説をテレビ・ドラマ化したものです。

★ 1974年は間延びしていた

どうやら小説は1974年1977年1980年1983年と4つあったようなのですが、テレビの方は1974年1980年1983年の3つに絞ったようです。それでも全体の長さは298分に及びます。第1作は102分。ほぼ3分の1です。テレビは枠が先に決まっていることが多いので内容の濃さとは関係なく時間内に収めなければ行けないらしく、1作目に当たる Red Riding: In the Year of Our Lord 1974 はいささか間のびしていました。ファンタの所にも書きましたが、同じ行動は1度きちんとシーンとして出し、その後は暗示するだけで事足りると思います。そのために90分になったとしても出来がそれで落ちることは無いでしょう。

ファンタの記事にも書きましたが、間もなくDVDが発売されるために、続編は夏のファンタには出ません。ファンタの常連には期待して見に来た人もいました。見終わって長過ぎるという意見が出ていましたが、扱われている事件については詰まらないとか否定的な意見は聞かれませんでした。この先2作続くので壮大な物語になるのだろうと思います。だからこそもう少しメリハリをつけたらよかったかと思います。

後記: DVDの店の話でも、客の何人かが「1974年は間延びがしている」と言っていたそうです。

★ こんな町が実際にあったら・・・

ストーリーですが、ヨークシャーの町に複数の事件が起きます。凶悪残忍な連続少女暴行拷問殺人事件と町全体を巻き込んだ汚職事件。それに加えてジプシー居住区の大火。その接点を主人公の駆け出し記者エディーが探り始めます。若手でやる気満々。危険があるかも知れないなどとは考えません、何しろここはヨークシャー、ロンドンやニューヨークではありません。先輩が一足先に深く調べを進めていて、「自分に万一のことがあったら資料をエディーに提供するように」と知人に言い残してあります。先輩は自分がそれほどやばいネタを追っているという自覚がありましたが、エディーはまだ楽観的。

実は地元の有力者が首までどっぷり汚職に浸かっている上、警察も上層部までどっぷり。ですから調べ過ぎると記者は刑事に殺される危険もありました。そんな事を危惧していた先輩は先に昇天してしまいます。扱いは事故。計画通り死後袋いっぱいの資料がエディーに届けられます。改めて気合を入れて調べるエディー。

エディーが現在追っている話はもっぱら凶悪残忍連続少女暴行拷問殺人事件。最近行方不明になった後死体で発見された少女の第一発見者はいくらか知恵遅れのきらいがある若者。警察は一応容疑者かも知れないと見て、留め置いています。この少女の死体は非常に損壊されていて、背中に白鳥の羽が縫い付けてありました。

エディーは過去の事件の被害者の家族を訪ね、中の1人と懇ろの仲になります。彼女は娘を失った後、夫にも自殺され、現在は1人で暮らしています。彼女の家のすぐ先には町の不動産王ドーソンが住んでいます。死んだ先輩はもっぱらドーソンの周囲を調査していて、少女の事件ではなく汚職の調べがかなり進んでいました。写真もあり、町の各方面の有力者が絡んでいました。

ヨークシャーの汚職王になりつつあるドーソンとエディーの新しい恋人になった未亡人に接点があることが判明し、エディーはドーソンと対決せざるを得なくなって来ます。そこから大きな悲劇に向かって突進。

3部作の1番目なので勧善懲悪やハッピーエンドはありません。ヨークシャーの評判をどん底に叩き落し、不条理のままのエンディング。

★ 俳優陣

かなりの数の人たちが3部通しで出演しています。1作目から顔を出していて、後から妻や子供も出て来る登場人物もいます。舞台になる町はとんでもない腐敗ぶり、親近感を持てる登場人物はゼロに近い、寒々とした景色など、冷た〜い雰囲気を通します。町自体も登場人物と同じぐらい語り掛けて来ます。

俳優は非常に良く自分の役を解釈していて、こんな腐った町は早く去った方がいいと観客はエディーに呼びかけたくなるほどです。それだけきっちり役を演じているわけで、英国系の俳優の力量が凄いと分かります。ショーン・ビーン、エディー・モリセイ、パディー・コンシダインのような主演を張るスターも出ています。ビーンは英国人ではありませんが、アクセントの問題はなさそうです。

おもしろいのは英語の映画で、出演者も英語をしゃべっているのに、英語の字幕がついていたことです。どのぐらい正確なのかは分かりませんが、出演者はほとんど全員強い方言をしゃべっていました。とは言うものの、ドイツ語圏の側からすると英語の方言の方が米語などより聞き取り易いです。私も聞いていて、かなり良く聞き取れました。あの字幕は一体誰のためなんだろうと考え込んでしまいました。

ネタばれあり!

別なネタバレの話をしながら主人公の運命もばれます。見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

★ 書くべきか、書かざるべきか、それが問題だ

グリーン・ゾーンでも触れられているネタバレが起きます。主人公の行動はグリーン・ゾーンと逆です。エディーはグリーン・ゾーンに登場する記者と違い駆け出しの記者で、そこを見抜いた上で町の有力者ドーソンが捏造資料を提供します。「その材料を使って記事を書くなりドキュメンタリーの本を出すなりすれば、一気に有名になれるぞ」とおいしい話を持ちかけられます。それほど思慮深い、用心深い男には見えないエディーなのですが、なぜかはっきり断わります。この時の拒否が自分にどういう災いをもたらすか想像もできなかったためだとは思いますが、ここでこんな話を受けたら記者として後でどういうことになるかという方の想像は正しくできたための拒否だと思います。

これはちゃんと自分の役割を知った上で引き受けるゴーストライターとはわけが違います。ある筋の人からスキャンダルになり得る資料を提供されて、記事や小説を書く、すると資料を渡した人の政敵や商売敵がスキャンダルに巻き込まれて地位を失う、書いた人は本が売れたり契約がたくさん飛び込んで来て名を挙げる上に儲かるという仕掛けです。それだけでも問題ありですが、さらにもしその資料が捏造だったら・・・。エディーはそのぐらいの事を考える頭は持ち合わせていました。

現実にアメリカでこの種の話を引き受けたらしいノンフィクション作家が大ブレークし、出版後あちらこちらの番組に引っ張りだこになった挙句に自殺と思われる状況で発見されるという出来事が起きています。本人がリサーチしたことになっていましたが、後になって考えるとその作家が信用できると思った方面から材料を提供されたのではないかとの解釈が可能になって来ます。何年か経って学者が彼女の持ち出した資料がことごとく捏造だったことをデーターを出して証明してしまったため、この女性は立場がなくなってしまったのかも知れません。まだ自殺かどうか100%証明し切れていないのですが、死ぬ寸前の状況が怪しげだったことは確かです。

もし本人がジャーナリストだと考えていたのなら乗っては行けない誘惑ですし、もし本人が作家だと考えているのならフィクションとノンフィクションの境界線をはっきり示さないと行けません。フィクション作家として登場するのなら何を書いてもいいですが、ノンフィクション扱いでしたらそれなりの証拠がそろっていないと行けません。証拠とされた物に大きな疑いが生じた時、この作家は行き場を失ったのではないかと想像する人が死後増えています。

エディーには最初からこんな話を引き受けるとその種の窮地に追い込まれかねないと想像する程度の常識は備わっていました。ノーと言えるヨークシャー人だったのですが、断わったらどうなるかの方には考えか及びませんでした。一見負の選択肢しか無いようではありますが、視野を広げれば別な選択肢も無いわけではありません。その辺がまだ駆け出しの記者で経験が不足しています。

例えば私はショーダウンのあたりでなぜエディーは資料の入った袋を抱えてロンドンなど他所の町へ出なかったのだろうと思いました。最後の騒ぎの頃にはエディーにもどの程度の危険を扱っているのかが分かっています。ヨークシャー以外の場所に取り敢えずは緊急避難すればよかったのにと思いました。

このようにしてエディーの物語はエディーの命と共に終わり、6年後別な人が事件に首を突っ込みます。《2作目に続く

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