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やっぱり起きてしまった事故

ルール地方のラブ・パレード

事件が起きた日:2010年7月24日

★ ベルリンなら起きなかった?

週末ルール地方の年デュイスブルクでラブ・パレードが行われました。元々は壁が開く直前のベルリンでこじんまりと始まった催しですが、参加者は10年の間に1万倍の150万人にまで膨れ上がっていました。発祥の地がベルリンだったこともあり、イラク戦争の頃まではベルリンで開催されていましたが、徐々に進んでいた不景気の煽りを受け2005年頃までやるやると考えられながら何度か中止になっていました。

ベルリンは徐々に撤退の色を見せ始め、このまま終了かと思われた頃、西ドイツから声がかかり、パレードはルール地方に引っ越しました。ルール地方のいくつかの中程度の大きさの都市が持ち回りで開催することに決まりましたが、2003年以降暫くはやるやる詐欺に近くなっていました。しかしやるやると言ってやらない方が、災いは少なく、賢明な決定と言えます。

ベルリンは元々西ドイツでは1番大きな都市で、壁があっても軍のパレード、お祭りなど色々な催しが行われました。壁が無くなり、正式な首都に決まってからは(ボンが首都になるという話もあった)、ますますセレモニー的な催しも含み色々な行事があり、警備能力に磨きがかかって来ました。ラブ・パレードだけに焦点を絞ってもドクター・モッテ(元々の主催者、職業DJ)は回を重ねるごとに経験を積み、毎回前回の失敗を反省しながら次に進んでいました。

★ ベルリンでは終了

ドクター・モッテは2000年代に入ってからあれこれ考えた末にベルリンでは終了を決心。元々は実にこじんまりとした150人ほどの催しでしたが、あっという間に巨大な利権が絡む大事業になってしまいました。それでもドクターはそれとともに成長したようで、150万人来てもちゃんと主催できていました。しかしどこかに終わりがあるものと感じたのか、ベルリンでは終了に至っています。裏にスポンサーの問題や市当局との交渉など色々あったのは確かです。巨大スポンサーもついたので、無理に続けるつもりなら続けられたとは思います。

★ ベルリンの受け入れ態勢

ベルリンでなぜ2003年頃まで続いていたかと言うと受け入れる側に色々なものが整っていたからです。ベルリンの人口はドイツ一。昼夜で流動的ですが400万程度です。若い人も多く住んでいて、外国から大勢若者が来る時は、ベルリンの若者が自分のアパートに他所から来た人を泊めるような習慣もできていました。地元の若者も無論参加しますが、ベルリン外の人、外国人も多く、とても普通のホテルやペンションでは間に合いません。加えて若者はほとんどお金を持っていない。なので知らない人でも若い人が家に泊めるようになっていました。受け入れ側の数も元々の人口が多いので、かなりカバーできます。たいていは上天気なので無論徹夜や野宿も可能ですが。

知らない人を家に泊める習慣は欧州では国にもよりますが広がっています。ドイツとフランスは中学や高校の頃に修学旅行で学校のクラスがお互いの国を訪問しますが、原則としてホームステイ。他の国でも似たような事をやっているようです。そしてドイツは70年代からかなり長い間若い人が家族のように共同生活をする習慣がありました。普通のアパートを数人で借り、1人1部屋個室を取り、台所や風呂を共同で使います。部屋と家賃を分けるだけというのと、一緒にご飯を作ったりテレビを見たり家族のように暮らすのと2種類あります。最近はあまり多くありませんが、現在の大人はたいてい若い頃に1度ぐらいそういう生活を経験しています。なので、参加する人はそういう家に来て、その家の若者と一緒にパレードに出向く例も多いです。

ベルリンでラブ・パレードが開かれる場所は町の中心部分で真中からやや東の方向に動きます。どの場所も地下鉄で行くことができます。うちの近くの駅で下車してそこから日本人なら結構長いと思われる道を歩く人も多いです。その日は無賃乗車の客がほとんど。ベルリンの地下鉄は一応有料ですが、週末は定期を持っている人が誰か1人一緒に連れて行ってもいいことになっていたり、交通局(現在は民営化)は24時間運行にも慣れていて(週末は年間を通して24時間営業)、ラブ・パレードの日を狙って検札などはしないようです。要するに体調が悪くなったらさっさと家に帰ることができます。

★ 全方位非常口

そしてこれまでパニック事故になっていないもう1つの理由は、パレードの会場が360度どの方向にもオープンだという点です。このパレードは日本の大きなお祭りと同じで長い道路を積極的な参加者(大型トラックをチャーターして、DJと音響機器をのせ、踊り狂うクルーを何人か乗せている人たち、祇園祭の山鉾の現代版のような感じ)がねり歩き、沿道で観客がそれを見るという形式になっています。入場券などというものは無く、どこかに入る、出るといったものではありません。長い長い道路の両側に人が立ち止まり、動くのはトラックの方です。

その長い長い道路は動物園という名の区域にあり、それはベルリンのど真ん中にある馬鹿でかい森の中。確かに恐ろしい数の人が集まっており、航空写真などを見ると呆れますが、後ろに障害物は無いので、万一何か起きた時は四方八方に逃げることができます。どの方向にでも動け、ちょっと行くとどこかしらの駅にたどり着きます。森に道もありますが、道でない所は芝生なのでそのまま歩けます。要するにどこかで何かが起きたらすぐそこを去ることができます。

★ ボッフムが断わった理由

確実に100万を越える人が集まるわけですが、ルール地方の場合、開催する都市は中程度。人口は30万〜50万人台。その一部分がラブ・パレードを楽しむ年代。あまり多くありません。そういう町に、ある週末100万人からの人が押し寄せて来るのですが、たいていの場合遠距離の列車に乗って他所からやって来ます。これで鉄道関係者がまずお手上げになります。パレードは週末開催なので、どこかしらで寝泊りも必要。どうやらボッフムはベルリン規模の開催ができる会場が見つからなかったようで、開催を辞退しています。

★ 今年の無理

今年はデュイスブルクという町ですが、あろうことか会場が周囲を囲まれたような場所で、入り口というものがあったそうです。そこへたどり着ける道は1本のみ。そこにトンネルがあり、帰りたい人と入りたい人はそこで対面で出会います。

報道を見る限りではテロ行為、火事、爆発の類のトラブルは全く起きておらず、誰かが不用意な事をしゃべって起きたパニックでもなかったようです。これまで伝わっている状況をみる限りでは単にそこにいた人たちが押されて倒れ、その上にさらに次の人が重なるという所謂将棋倒し状態になってしまったようです。

専門家の計算では23万平方メートルの囲まれた場所に(ベルリンじゃ囲まないぞ!)に35万人の観客を予想して許可を申請してあり、実際に来たのは140万人前後だったそうです。そのなぜか囲まれた会場に出入りできる道は1本(知らない人が聞いても「あり得ねえ」という状況)。その道の一部が事故の起きた巾16メーターのトンネル。

★ ほとんどの人が正しく考えた不思議な事件

報道によると会場の様子、予想される訪問者の数(どのラブ・パレードでもおよそ130万人にはなる)、当日の実際の状況を見てほとんど誰もが正しい判断を下していました。消防署はこの数では警備の人数が足りない、駅は突然一定の時間に全ドイツ、欧州各国から来る若者の改札はできない、警察は35万人での申請は入場者数の過小評価だと思っていて、開催決定に反対の意見を示していたそうです。加えて当日会場にすでに入っていた若者も人が増えて会場が狭過ぎると気づき、本来は翌日の明け方まで続くパーティーをその日の午後3時に切り上げて帰宅し始めています。

ボッフムはこういった事を開催前に予想して開催辞退したようです。デュイスブルクでも公的な関係者は開催に否定的な意見が多かったようなのですが、なぜか最終的に主催者に押し切られてしまったようです。なんでやねん?

★ 具体的な事故

早めに切り上げて引き返し始めた人たちと、行った先がそういう狭い場所と知らない入場者が対面で出会ったのが問題のトンネル。主催者が行きの人と帰りの人の通る道を分割でもして、真ん中に1メートル程度の空きでも作っていればこんなことにならなかったのかも知れませんが、現実には行き組と帰り組を分離していなかったので、ばらばらにぶつかってしまったのです。それでもぶつかり合って殴り合いをしたとかいう話ではなく、ゆっくり後ろから押されて前に押し出されるような形で双方がゆっくりぶつかり合った様子です。

軽装で汗をかいている人たちの体がくっついてしまってそのまま倒れる人が出たので、逃げようにも体を人の群れから引っ張り出すことが難しかったようです。下の方にいた人の中から死者が出ています。運良く見知らぬ人が体を引っ張り上げてくれて難を逃れた人もいます。押しつぶされて怪我をしている人が多いですが、1番の問題は下の方の人が呼吸できなくなったことだったという証言があります。怪我も下の方の人は深刻ですが、それだけですぐ死ぬというほどでない人が多く、上から重量で押され、顔を上げて空気を吸うことが難しくなった人に犠牲者が多いです。

★ 悪夢の実況

日本人が初めてアメリカからのテレビ中継を見たのは60年代。その第1報はケネディー大統領暗殺の知らせでした。そこまで大袈裟な話ではありませんが、今年のラブ・パレードは初めてライブでインターネットに乗ることになっていました。実際行われました。ところが第1報が死亡事故です。誰かが仕掛けたという類の話ではなく、誰もが楽しい状況をライブで届けたかったに違いありません。

★ じゃ、インフラのあるベルリンに戻せば

・・・ってな話にならなかったので私はほっとしました。私は元々あまりラブ・パレードに賛成ではありませんでした。ベルリンにはもう1つ夏場にほぼ同じような形で行われるパレードがあります。町の人は十分楽しんでいます。

私は1度ラブ・パレードの行進が終わり、人々が徐々に帰宅するところに居合わせたことがあります。山車が動かなくなると、パーティーが始まります。そこは裏側から見るとドラッグの見本市のような状態になります。年端も行かない若者にドラッグを売る人が徘徊します。ラブ・パレードは一応政治的なデモとして届けが出されており、許可を取ってやっていました。なので翌日の清掃は市の仕事。そしてその日は市の森林管理人が涙に咽び嘆き悲しむ日。それからまた1年かけて丹念に芝生の手入れをし直すのです。

ベルリン市、警備関係者その他が徐々に疑いを持ち始め、「この催しは全く政治のデモではないではないか」と言い出したのがきっかけで議論が起こり、ベルリンでは今後やらないことになりました。それがルール地方に引っ越した理由です。ラジオなどでは何度か議論がありましたが、無事ラブ・パレードは終了しました。

ベルリンはサッカーで成功例があり、そちらに移行した様子です。クリンツマンの率いるティームで世界選手権に出た時と、その後の欧州選手権でファン・マイルという会場を元のラブ・パレードの会場あたりに作り、大スクリーンにサッカー中継を映し出し、そこに大勢の人が集まってビールを飲みながら一喜一憂していました。若者だけでなく年配の人も来ます。これは毎回やったとしても2年に1度なのですが、どうやら人々はこれで満足している様子。どういう風に辻褄を合わせているのかは分かりませんが、警備は全く問題ないようです。時期的には今年は例えば6月11日からの1ヶ月で、ちょうど1年で1番日が長い日を含みます。つまり午後10時頃まで辺りは日本の午後4時頃のような明るさ。南アフリカとは時差も無いので、楽しいひと時を過ごして、真夜中になる前に帰宅。どうやらベルリンの人はこれで満足しているようです。

加えて市内の至る所にある飲み屋、場末の映画館、カフェ、普通の店などが大型スクリーンからただのテレビまでを持ち出し、特に料金を取らずにサッカーの中継を見せてくれます。なので100万人規模が嫌な人は数十人規模でその辺の店で楽しめます。

私はこの種のお祭り騒ぎには反対ではありません。ドイツは70年代からじっくり40年かけて家族や友達関係を壊してしまいました。世代間の争いが大きくなり、親子関係はズタズタ。隣近所の関係も口を利かない関係に冷えてしまい、友情もあまり育たなくなってしまいました。日本から来て1番驚いたのは大学に入っても同期生というのが無かったこと。日本のように同じ年に始めた学生同士が友達という関係にならないのです。みなばらばらにやって来て、ばらばらに勉強を始め、1人1人が教授と日にちを決めその人1人が卒業試験をし、点数が卒業に達するとある日その人1人の卒業が決まります。事務所から卒業証書を個人的に貰い、それでおしまい。同期生が一緒に祝うなどという関係は成立しません。

そんなある日、サッカーという媒体を通じて1ヶ月ほど世代の違う人が大勢ファン・マイルや飲み屋に集まって一喜一憂。どうやらこれが気に入られたようです。1度ばらばらになってしまった社会がサッカーを機に少しだけ接近し始めたような感じです。ラブ・パレードですと若者がほとんどで上の世代とは関係の無い催しです。

★ ビデオで見たデュイスブルクの会場

事件後いくつか現場のビデオを見ましたが、信じられないような構造になっていました。事件前のシーンをアップした人と、事件報道がありましたが、トンネルを見ただけでぞっとしました。ベルリンにもああいうトンネルはいくつかありますが、140万人の出入り口がこれ1つというのはいくらなんでも無茶です。

★ 友人が巻き込まれていなければいいけれど

北ドイツの友人が最近就職でき、デュイスブルクに引っ越しました。長い間患った後なのでベルリンに来る時もディスコを訪ねたり、遅ればせながら青春を謳歌しています。ラブ・パレードはそういう彼にはぴったりの催しなのですが、参加したのかと心配しています。来週またベルリンに来る予定になっています。その時にちょっと話を聞いてみようかと思っています(幸いなことに犠牲者のリストには名前は載っていませんでした。ほっ)。

★ 追記 無事だった

ちょっと今体調を崩していて、記事を出すに至っていません。その間にデュイスブルクの友人に直接会いました。しっかり生存確認をしました。ラブ・パレードには行くつもりだったそうです。結構現場に近い所にいたようなのですが、この人もテレビを持っておらず、事故の話は暫く知らなかったそうです。

雑誌にも批判的な記事が載っていますが、主催者は大勢の死傷者が出たので、中止しようとしたDJにハッパをかけて続行させたそうです。下手に中止するとパニックが広がるというのが論拠だったそうです。トンネル、入り口の状況は私が雑誌で見たのと全く同じ状況で、友人が確認してくれました。呆れるほど危険な状況だったようです。この人はベルリンのラブ・パレードにも時々来ていたので、ベルリンの様子も知っていますが、デュイスブルクの状況は信じられないと言っていました。

まず、ラブ・パレードの会場を柵で囲むという考え方には私も友達もついて行けませんでした。デュイスブルクでは入場券でもあって料金を取るのかと聞いたのですが、全く無料で、そのため彼も囲む意味が分からないと言っていました。その柵で囲った部分には非常口が設けられていない、あるいは開いていなかったそうです。

大雑把に言うと長めの楕円形の会場の1ヵ所に出入り口の両方を兼ねた通路があるだけで、そこで人々は立ち往生してしまったそうです。本来の計画では、その楕円形の会場を大型のトラックの山車がぐるぐる回るようになっていて、夕方か夜には動きをやめてパーティーになるはずだったそうです。閉鎖された会場の中をトラックがぐるぐる回るというのは、ベルリンのラブ・パレードの形式を知っている者には物凄くばかばかしく思えます。長い一直線の通りだからこそトラックが動く意味があるように私たちには思えました。

とまあ、こんな状況の中で死ななくてもいい若者が2桁の数死んでしまいました。その結果今後ラブ・パレードは他の都市でも一切行われないことに決まりました。人が死んでようやく分かるような話ではなかったんですよ。始める前から危険だと言っていた人が多かったんですよ。早めに会場に入った若者もこれはやばいと思って引き返し始めていたんですよ。ムカッ。

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