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La piel fría / Cold skin / La pell freda / 冷たい肌

Xavier Gens

Spanien/F 2017 108 Min. 劇映画

出演者

Ray Stevenson
(Gruner - 燈台守)

David Oakes
(新任の気象観察官)

Aura Garrido
(Aneris - 雌の両棲人間)

Winslow Iwaki
(セネガル人)

John Benfield
(Axel - 船長)

Ben Temple
(船の仕官)

Iván González
(1番新しい気象観測官)

Alejandro Rod
(ポルトガル人)

Julien Blaschke

Damián Montesdeoca

Israel Bodero

Roberto Rincón

見た時期:2018年1月

2018年ファンタ参加作品

要注意: ネタばれあり!

見る予定の人は退散して下さい。目次へ。映画のリストへ。

原作はカタロニアの人類学者兼小説家アルベール・サンチェス・ピニョルの長編冷たい肌

スペイン、フランス映画ですが、使用言語は英語。主人公はアイルランド人。

キャスティング・リストの中で、話の中心になるのは1番上の3人だけです。他の人は最初と最後にちょっと出て来るだけです。

★ あらすじ

第1次世界大戦が終わり、アイルランドの独立戦争にも関係した青年が気象観測官として南半球の極地に近い孤島に赴任して来ます。「青年がこの仕事に志願したのは戦争に絶望した後で、一種の逃避だ」といった事を書いている記事もありました。

赴任先にはグルナーというあらくれ男がいて、彼の正式な職業が燈台守なのか、気象観測官なのかは今一つはっきりしませんでした。見終わって考えると、彼は燈台守で、観測官ではなかったように思います。本来は観測官1名と、灯台の世話をする技術屋さんが1名いて、(1年の)任期が終わると次の人と交代と言う規則になっていますが、グルナーは本人が希望してか、長くこの地に残っていました。そして前任の気象観測官の姿はありませんでした。

気象観測官本来の仕事は気象を観測して報告を出すことなのですが、到着早々からとんでもない状況に巻き込まれます。建物は家屋と灯台の2軒あるのですが、そこへ夜な夜な両棲人間の大群が押し寄せて来て、島ただ2人の男たちはあらゆる手段を駆使して、両棲人間を追い払わなければなりません。夜間でも目が見えるらしく、相手は自由に動き回ります。人間の側は非常に不利です。両棲人間がエイリアンなのかなどという説明は一切無く、観客はいきなり戦いを見せられます。

事の成り行きで2人は灯台に同居せざるを得なくなり、波長の合わない2人は一緒に両棲人間と戦う状況に追い込まれます。そして青年はグルナーが両棲人間の雌を囲って慰み者にしていることを知ります。従順な女性で、グルナーの言う事を聞きますが、セックスの相手にも使われていて夜な夜な上の階からは大きな音が聞こえて来ます。普段もグルナーは雌が言う通りにしないと血が出るまで殴ります。青年はそれを驚きながらただ見ているだけ。グルナーの目の届かない所で時たまちょっと優しくしてあげたりしますが、直接グルナーに「止めろ」とは言いません。肉体的には戦争経験者の青年はタフで、毎夜襲って来る両棲人間との戦い、厳しい気候、悪い食糧事情に耐えられます。

武器が少なく、弾薬も尽きようとしている時、2人は海岸近くに沈んでいる船からダイナマイトを引き上げようとします。昼間、両棲人間が襲って来ない時間を狙って海に出、青年がジュール・ヴェルヌの小説に出て来るような潜水服を着て潜り、グルナーが上から空気を送って来ます。苦労の末とにかくある程度の数のダイナマイトを確保します。

グルナーの雌に対する暴力的な振る舞いに徐々に堪忍袋の緒が切れそう、それでいて、正面切って対決するような性格でない青年はある日池で雌とセックス。暫くすると明らかに彼の顔が遺伝している子供が生まれます。驚きを持ってそれを見る青年。内心安らぎと、喜びが静かにこみ上げて来ます。雌の背後には何百頭もの両棲人間が立っていますが、子供の誕生がきっかけで青年とは敵対しません。

そこに現われるグルナー。彼は頭に血を上らせて怒りますが、その場からは退散。ところが後ろに立つ灯台に戻って、そこから信号弾を子供に命中させます。子供は青年、雌、そして後ろに立つ何百もの雄の目の前で死んで行きます。

両棲人間との共存はグルナーの望みではなかった、夜な夜な戦い、雌を毎日暴行する習慣が彼の存在意義を形成していたのです。

改めて大戦争が勃発し、グルナーは大勢の両棲人間に食われてしまいます。青年は無傷。そして間もなくやって来た船に乗り、欧州へ戻って行きます。

★ 筋は通っているが、思想が前に出過ぎた演出

原作を読んでいないので、記事だけを比べていますが、多少原作と変えてある部分もあるようです。

映画を見た限りの感想ですが、グルナーには人間の邪悪さ、残酷さ、暴力的な面を代弁させ、青年には優しさ、愛情、思いやりなどを代弁させて前半は進みます。非常に分かりやすい図式にしてあります。それで2人の立ち居地がほぼ観客の頭に定着します。

後半に入ると、2人ともそういった正、負の面では合わない、しかし深い孤独を抱えているという点では共通しているのだという描写になって行きます。グルナーにはやや狂人に近い凶暴さを出させ、青年は知的な面を見せるように演出されていますが、それが本当は紙一重、きっかけや状況によっては誰がどちらの側につくか分からないような面もちらつきます。

そうして、どの記事にも出ていなかったのですが、私が見てすぐ思ったのは、雌がストックホルム・シンドローム型に描かれているなあと言う点。物語が始まって間もなく、観客には両棲人間の知的水準が結構高いことが分かります。それこそ言葉を教えたら理解するかも知れません。ところが彼女はグルナーからどんなに殴られても、性の慰み者にされても毎日戻って来るのです。海の生物なのですから、食料は海からいくらでも獲れますし、外出が禁じられているわけではないので、出て行ってしまうことも可能なのに、なぜか毎夜戻って来ているのです。

ストックホルム・シンドロームの視点からの解説はまだ見つけていませんが、3者は白人社会の植民地主義的な支配欲を持った人間、白人社会で植民地のステータスから抜けたがっている国から来た人間、そして両棲人間は人間社会で別な文化、言語、習慣を持った異人種を代表しているのかもしれません。

加えて、グルナーと青年の対立は、これまでの支配方法で押し通して来た側と、リベラル的な思想の持ち主、要は自由と愛情を前に出す側の対立という図式を表わしているように見えます。

ただ、私は第1次世界大戦の頃と比べると世の中がかなりリベラルになっており、当時の既存体制と戦って徐々に勝ち始めたリベラルの社会に生きた世代です。日本にその波がやって来た70年代からの変化には居合わせています。その立場から言うと、リベラル派の怠慢を挙げたく、せっかく手にした自由や前より良いと思われる社会をメンテナンスすることなく、惰眠をむさぼったことに行き着いて反省しているリベラル派には今のところお目にかかっていません。

ニュー・シネマなどが社会批判の佳作を次々に世に出していた頃、私にも納得できる話は色々ありました。しかしその当時から私は「なぜそれまでにあった物を全部ぶっ壊してしまい、自分たちの提案だけを通そうとするのだろう」と疑問に思っていました。「前の人が作った制度の中でいいと思うものは使い続ければいいじゃないか」と、節約の好きな関西人根性でつい思ってしまったのですが、「革命は素晴らしい」という青年たちの輝く目を見て、「理想主義だけでどこまで行き着けるだろうか」と思ったものです。

常時メンテナンスをしなかったつけが最近回って来て、トランプ政権登場となりました。彼に投票した人がこれだけの数いたということは、ないがしろにされていたメンテをちゃんとやれという催促状であり、昔の悪い所に戻れと言っているのではないでしょう。

督促状を突きつけられたリベラル側は最近までどうやら快い夢の中にいたようで、まだ人が何を欲しているのかの分析がちゃんとできていないように思います。今年のファンタには思想性を前の方に出した作品がちらつきましたが、やり方が直接的、図式が単純な物が目立ちます。以前の作品には光と影を使いこなした、ストーリーを全面に出し、思想をそこに巧みに絡めた物がちょくちょくありました。2017年、18年になり、自分の側の有権者を教育し直さないと行けないと感じた人たちがいたのでしょうか。それにしては手法がやや単純、子供っぽくなったように感じます。

★ デル・トロ監督とかぶりそう

冷たい肌冬のファンタの1日目の第1作。今回のファンタでは2日目の終わりから2番目にギレルモ・デル・トロ監督のシェイプ・オブ・ウォーターが来ることに決まっていました。シェイプ・オブ・ウォーターはアレクサンドル・ベリャーエフばりの両棲人間と人間の女性の間の恋の物語です。夏のファンタでは時々主催者の好みに応じて、60本強の作品の中に、共通するテーマの作品を数本紛れ込ませることがあるのですが、10本の中に2本両棲人間が出て来ると目立ちます。

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