映画と音楽のページ

バカラック、ディートリッヒ、ベルリン
Bacharach - Dietrich - Berlin

Burt Bacharach (1928* - )

Marlene Dietrich (1901* - 1992)

考えた時期:2018年7月

サッカー世界選手権、猛暑、仕事などがどっと押し寄せたため、アップが遅れましたが、7月の音楽情報にバート・バカラックを載せておきました。

私の耳には彼の作品はソウルに聞こえないのですが、彼はソウルの作曲家のリストに名を連ねています。

アメリカ人の好みから言うと彼は元超イケメン。年齢は民主的に誰からも美しさを奪うらしく、今では90歳の普通のおじいさんです。と言うか、元々はあまりイケメンでない人が年を取ると味のある顔になる例もあるので、人生はどこかでバランスが取れているのかも知れません。

★ バハラッハという地名

バハラッハというのはドイツのライン地方の都市の名前。語源はドイツ語ではなくケルト語。

今でこそケルト語は島の方でしか使われませんが、紀元前数世紀の頃は欧州大陸でも使われていました。何しろケルト人大繁盛の時代で、紀元前400年頃には英国、アイルランドは勿論のこと、スペインの半分近く、フランスの殆ど、ドイツの半分、東欧、北イタリアなどローマ人といい勝負の領域に住んでいました。その名残がバハラッハ。その名前を姓にしているのがドイツ系ユダヤ人のバート・バカラック(現代英語式の読み方)。

★ バカラックという人

本人は欧州人ではなく、米国ミズーリ出身。カナダ、アメリカで音楽を学び、作曲家としてイージー・リスニングの業界で大活躍。しかし彼はソウルの作曲家となっています。御年90歳。「なぜ今ドイツに来たの?」というのが正直な感じです。

学業を終え、無名時代に彼は、ヒットラーと反りが合わずアメリカに移って来た、映画界の大スター、マルレーネ・ディートリッヒのお抱え音楽プロデューサーに就任。1958年から活動を始めています。当時30歳。

ヒットラーを嫌って海外に出たドイツ人と、ヒットラーに酷い目に遭ったユダヤ人の系統の血を引くバカラックは話が合ったようです。

★ ディートリッヒという人

れっきとしたベルリン人で、遺骸はベルリンに埋葬されています。

映画で成功して、スターになります。時代は第二次世界大戦に向かい始めます。ヒットラーは彼女の人気に目をつけて、祖国を強調したプロパガンダにでも使おうと考えたらしいのですが、ディートリッヒはそれを嫌がり、1939年に米国市民権取得。

話がややこしくなるのはその先。彼女は米国移住後アメリカのプロパガンダには協力し、兵士の慰問に積極的に参加していました。そのため、戦後の彼女の帰国時にはドイツ人から強い非難も受け、その後ドイツから足が遠のきました。

彼女がヒットラーと対立するのはなるほどと思えるのですが、政治プロパガンダに使われることに反発したのだとしたら、米側の話にはすぐ乗った所で私は躓きます。身の安全、プロパガンダ反対まではアメリカへの移住の理由としてついて行けるのですが、芸能人が政治に積極的に乗り出すと大変な結果を招くことがあります。ヒットラーの誘いに乗った人も、断わった人も大変な人生を送ったと聞いています。当時のスターは身の振り方をはっきりせいと迫られたようではあります。

戦時中のドイツにはフランスやイタリアと違ってはっきりしたレジスタンスは生まれていません。ドイツ人にしてみればドイツを捨てるのではなく、ドイツ内でヒットラーに反対してもらいたかったのかも知れません。また、当時の一般人はインターネットも無い時代で、プロパガンダが上手な政権が生まれると、国民は他に情報を得る手段が無いので、今の時代よりずっと乗せられ易いです。実際当時のドイツ人は乗ってしまいました。

そんなこんなで、彼女の居住地はアメリカになります。1950年代に入ると、映画には出なくなり、舞台に1人で立って、シャンソンのような歌を歌うステージ活動に移りました。その時彼女の面倒を見たのがまだ無名だったバカラック。そこそこ成功し、海外公演もしていました。で、久しぶりにドイツに戻って見たものの、彼女をあからさまに嫌う人もいて、ドイツに定住することはありませんでした。

怪我をしてからはコンサートも止め、パリに移って天寿を全う。ところが彼女の墓をベルリンに作り、通りに彼女の名前をつけようとしたら、住民に反対を受けるありさま。彼女を許さない人がまだ一定数いたわけです。死後も政治問題に巻き込まれたままです。

★ バカラックとディートリッヒのステージ

彼女が歌ったのはドイツ人がシャンソンと呼ぶ系統の曲。フランス人の言うシャンソンとややスタイルが違います。私はディートリッヒの曲は好きではありませんが、それはこの種のジャズっぽいシャンソンが好きでないから。誰が歌っても好きではありません。それを彼女は英語で歌うのでさらに違和感を持ってしまいます。大人向きの音楽で、まだ子供だった私には向きませんでした。

この当時の選曲はディートリッヒの好みで行われたらしく、バカラックらしい個性は全くありません。ジャズっぽいシャンソンというカテゴリーにきっちり照準を合わせており、まだバカラックは独り立ちしていなかったのでしょう。

★ 1960年のバカラックとディートリッヒ

1960年に2人はベルリンにやって来て、3回コンサートを行っています。場所はティタニアという映画館。私も映画を見に行ったことがあります。1928年に高級な映画館としてオープンしています。戦争で破壊もされず、かすり傷程度で残りました。

映画館ではありますが、50年代からはエンターテイナーがやって来ると、ここでショーをやりました。ルイ・アームストロング、モーリス・シュヴァリエ、ジセフィン・ベーカーなど有名人の中にディートリッヒの名前もありました。

戦後初めての帰国でしたが、ディートリッヒは歓迎だけを受けたのではなく、「マルレーネ・ゴー・ホーム」と書かれた紙を掲げられたりしています。ベルリンが彼女の故郷なので、ベルリン人に「ゴー・ホーム」と書かれてしまうと、彼女はどこへ行けということなのでしょうか。米国籍を取得しているので、アメリカに帰れという「ヤンキー・ゴー・ホーム」のつもりだったのでしょうか。

まあ、戦時中にはっきりした態度を示すことは、こういう結果を招くことにもなるので、本人には覚悟があったものと考えられますが、深く傷ついたとも思われます。客席には空席が目立ったそうです。

そういう状況を側にいたバカラックも一緒に経験しています。どうやらこの時期の2人はロマンチックな関係にあったようですが、2人はいずれ別れが来るだろうと分かって付き合っていたようです。このあたりは周囲の人が推測、想像した話を伝えているので、噂の域を出ません。

★ バカラック独り立ち

1901年生まれのディートリッヒと1928年生まれのバカラックは結構な年の差がありますが、ウマは合ったようです。ディートリッヒはアメリカに移住してからは歌手として巡業をしており、そのプロデュースを一手に引き受けていたのがバカラック。しかしある時、彼女はバカラックを思いやってか三行半。「自分の所に留まらず、先に進みなさい」という意味だったようです。1961年のことです。

その後のバカラックの躍進は目を見張るものがあり、まだバカラックという名前を知らなかった頃ヒットしていた何人かの歌手の曲は実は彼の作品でした。

ディオンヌ・ウォーウィックの初期のヒット曲の殆ども彼が書いています。1962年が彼女がブレークした年です。そのためソウルに分類されています。ウォーウィックの曲をソウルと考えるべきなのかは私は疑問に思っていますが、まあ、それはアメリカの事情なのでつべこべ言いません。

後のバカラックは編曲の神様と呼ばれるほどの巧みなオーケストレーションを書いていますが、ウォーウィックの頃の彼のアレンジは「ちょっとねえ」という泥臭さ。ウォーウィックというのはかなり洗練された女性なのですが、その彼女にも泥臭い歌い方をさせています。素晴らしい声質なので、もっと違う使い方があると思うのですが。バカラックもウォーウィックも本来はソウル以外のジャンルに向いていたと今でも思っています。

ウォーウィックで連続ヒットを飛ばした後、1969年に明日に向かって撃ての音楽を担当し、さらに大評判。私はバカラックの本当の分野はこちらの方ではないかと思います。一通り学校で音楽を学んだので、何でもできてしまい、当時分野としてヒットしそうだったソウルで始めたのでしょう。

作詞を担当していたのはハル・デヴィッド。キャリアの前半では殆どの曲をデヴィッドと一緒に書いており、レノン・マッカートニーのコンビと比べられることもありました。デヴィッドはバカラックよりやや年上で、既に91歳で他界。コンビとしての初仕事は1956年。

★ 失敗もしている

彼の責任かどうかは分かりませんが、1973年に担当した失われた地平線は大コケ。1937年の映画化後のリメイクで、何とミュージカル化を狙ったそうです。

ジェイムズ・ヒルトンの原作が好きだった私に取ってはリメイクの方が原作に近いので、機会があれば見たいとは思いますが、あの作品をいったいどこの誰がミュージカルにしようなどと考えたのでしょう。この大失敗でハリウッドからはミュージカルが消えてしまいました。

出演者はこんな組み合わせは他ではみられないという不思議な人たち。普通の映画にすれば当たったかも知れません。歌が下手で吹き替えになった俳優も多く、何のためのミュージカルだったのかは今もって不明。

バカラックの音楽は批評家から批判を受け、ハル・デヴィッドとはこれで袂を分かつことになり、生涯亀裂が生じたままになります。

★ バカラックのステージ

東京でライブを見たことがあります。1971年だったと思います。明日に向かって撃ての成功の後、 失われた地平線の失敗の前でしたので、彼が最高に輝いていた時期です。私は 浪人中で、両親からお小遣いを貰う身。大枚はたいて入場券を買い、ステージを見ました。オーケストラを従え、自分はピアノに向かい、時たま歌を歌っていました。

アルバムを買い内容をよく記憶していましたが、ステージはその範囲を出ることなく終わりました。何となく、全てが予定通りの感じで、あまり感激しませんでした。びっくりしたのはコンサートの直後に出会った人物。ドラムを担当していた人で、少し話をした後、住所をくれたので手紙を書いたら、何と手書きで返事をくれました。2度も。エルビス・プレスリーのバックをやっていた人で、映画にも映っています。

大学が忙しくなったりしたので、文通はその2回切りでしたが、彼はその後もずっと活躍していました。こちらの方が楽しい思い出になりました。

バカラックはどこか「これ、本当なの」と思わせる人で、オーケストラの指揮を見ていても、あまりバンマスらしくなく(スマイリー小原の方がずっとそれらしかった = バンドが彼の指揮に従っていた)、歌っても、こういう個性の曲が好きな人でないと好きになれない、あまり一般受けしない歌い方。当時の作曲家としては珍しく、ルックスに気を使っていて、写真写りが良くなるような工夫はしていました。当時有名な他の作曲家は「歯科医のようだ」と雑誌に嫌味を書かれるような時代でした。

せっかく大枚はたいたのですが、「わざわざステージを見に行く必要は無かったのかなあ」と思いました。

★ ベルリンに来るんだって

バカラックがドイツという国に足を踏み入れたことは過去にあったのかも知れません。自分が主役のコンサートをやりに来るのは御年90歳で初。

アドミラル・パラストという特別にいい会場でコンサートをやるのが、7月14日。サッカーの3位決定戦とぶつかります。わざわざバカラックを見に来る人がいるかなあ。今年はドイツが早々と敗退したので、サッカー熱は上がらないだろうと思っていたのですが、それにしてはまだ通りを歩くとカフェや飲み屋さんでは大スクリーンで上映しています。私も仕事の合間を縫って見に行ったり、会社の人事もちょっと早めに帰宅していいと言ってくれたり。同じ階で働く同僚のうちの2人は本来はサッカー・ファンでないのに私に話を合わせて、毎日結果を聞いてくれたり、コメントを発してくれたり。なので、決勝の前日にベルリンにやって来ても、コンサートに行こうと思う人がいるだろうかと考えている次第です。

★ ベルリンで何をやるんだろう

まさかディートリッヒ時代の曲はやらないでしょう。ウォーウィックの曲も強力な歌手が必要なので、彼が主演ならやらないでしょう。

彼の才能はブラスをソフトに演奏させるアレンジ。曲中に拍子を変えるのも彼の特色ですが、この方法はあまり感心しません。4拍子で始めたらずっとそれで通し、その中できれいなメロディーを書く方がいいと思うのです。

ポップスの作曲家(でもあり、自作を歌うのが下手くそなことも共通している)ジム・ウェッブもきれいなメロディーを書きます。私はポップスというカテゴリーの中で話をするのなら、ウェッブの方がポップスらしくて好きですが、バカラックが美しいメロディーを書くのも事実。その際は変に拍子を変えて奇をてらったりしない方がいいと思います。

一体90歳のご老体が、多くの人がサッカーを見ている時にやって来て、コンサートを開くのはなぜなんだろうと考えている最中です。彼は米国がリベラルになり始めた頃からその波に乗って活躍していました。今はトランプ氏が大統領になったため、リベラル派の人たちはトランプに対して危機感を抱いている様子。

それでアート・ガーファンクル(ちょっと前にベルリンに来ました)やバート・バカラックなど当時のヒット・メーカーを総動員して、リベラル派をかき集めようとしているのでしょうか。

私はクラシックな保守的な環境で育ったので、原則的には保守派。しかし好きな音楽や映画はリベラル派の流れを汲むものが多いです。バカラックやウォーウィックのアルバムは複数買いましたし、空で覚えるほど何度も聞きました。

しかしですよ。もしリベラル派が有権者の関心を集めたい、できれば選挙の時には票に結び付けたいと思っているのなら、なぜ大古の、黴が生えるような古いスターを駆り出して来るのでしょうか。なぜ60年代、70年代のソウル、ファンクのような新しい音楽を今生み出さないのでしょう。私の印象では80年代頃から音楽のジャンルが細分化され過ぎ、「ごく僅かな人が好む音楽」が多く生まれました。過去に比べ、個人の好みがきめ細かく反映されるようにはなりましたが、大勢の人が一緒に楽しみ、年を取っても共通の曲が友人を結びつける・・・ということがなくなりました。

そして大昔のスターを連れて来ても喜んでくれるのは60歳をはるかに越えた年代の人たち。入場券を払う財力はあるものの、中にはもう死んでしまった人もいる世代です。

誰がどのファン層を狙って呼んだのか、彼自身が行かせろと言ってやってきたのか分かりませんが、会場に空席は無かったそうです。ご苦労様でした。

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