ダイスをる神 

 個と全ては 







俳句の歴史に終止符を打つプレイ等。                  .

                       __________ 頑張って短歌もいってみよう





大変数学的で無機的な話ではあるが、
存在しうるすべての俳句を出し尽くし、
俳句の歴史に終止符を打つ、というのは、いかがだろうか?
名付けて、”ジ・エンド・オブ・俳句”。



俳句は、字余り、字足らずという例外をのぞけば、
基本的に五、七、五の形で構成されているのは周知の通り。
つまり、発音する文字数は、5+7+5=17(文字)で、
日本語が単純に50音の発音で構成されていると仮定すると、
重複順列により、50の17乗通りの文字列ができる。
もし、これが存在可能な俳句のパターンをすべて内包するならば、
以上で俳句の歴史は完全に終結する。
コンピュータで簡単なプログラムを組み、すべてのパターンを書かせて、
プリントアウトして製本すれば、終了する。





高名な歌人が素晴らしい景色に感動し、一句したためた瞬間、
ななめ後方からその本を持って近づいていって、



なんて言えたら、さぞかし気持ち良いだろうな(僕はね)。










しかし現実はそう、甘くない。
実際の日本語には、濁音、半濁音、さらに促音が存在する。
濁音はカ行、サ行、タ行、ハ行、半濁音はハ行、
促音はア行、ッ、ャ、ュ、ョがあり、これらの数は全部で34文字、
つまり50+34=84(文字)、文字列の数はその17乗となる。




これで完璧かとおもいきや、そうではない。
字余り、字足らずに対応するとなると、更にやっかいになってくる。
まず、字足らずに関しては、上記の文字列のすべてから、
一番下の一文字、二文字と消去していくことで完全に対応できる。
ここでプラスされる文字列の数は、その桁数からいけば、
最初の数と比べるとはるかに小さく、さほど問題ではない。
大変なのは、字余りの対応である。
一文字増えた18文字の字余り俳句について考えると、
すでに作られたすべての17文字の文字列に対して、
一つにつき、84通り出来てしまうのである(涙)。
すると、文字列の数は、18の84乗通りとなり、激増する。
更に二文字増えた19文字の字余りになると、
19の84乗通り、20文字になると、、、、。







現代は個人が扱える優秀なコンピュータが
溢れているし、そもそもこれは、
そういった利器を大胆に頼らなければならない程の
法外な数字ではない。
唯一課題があるとすれば

「字余りの文字数をどこまで認めるのか?」

ということだろう。









スーパーコンピュータを駆使しての
円周率の桁数の更新や、
最大素数の発見など、
人々の日常生活におおよそ役にも立たない
(最大素数の更新は、軍事暗号に活用)
研究がなされている昨今であるが、
そもそも俳句を終わらそうなどと、
何の意味があろうかとおっしゃるだろう。
ましてや言葉や文学は、生き物であり、心である。
そこに人間の感情が深く関与している限り、
永遠に極めてファジーな存在だ。



しかし、この俳句においては、
テクノロジーが文学を完全に制覇できるかもしれない
数少ないチャンスなのだ。そう考えると、
これは大変な偉業に思えてくるのである。

逃す手はなかろうに。


















デカルトを科学。                             
.

                    〜 ”我”思ったら、どんなふうに”我”あるんだろ 〜





量子力学の世界では、
「”観測”(視覚により認識)されて初めてそこに物質が”存在”する」
と定義されている。
観測されていない物体は、存在するかもしれない空間的範囲全体において、確率分布する。
そしてその考え方は、量子テレポーテーションを実現可能手前まで押し進めるに至った。


その昔、大哲学者デカルトは「我思う 故に我あり。」という言葉を残し
これにより、自己の”存在”の確実性を宣言した。

自分が見ていない(観測していない)ものなど、本当に存在するかどうかわからない。
しかし今、考えてる自分(自我)は確実に存在する。
そしてその確実に”存在”する自我を内包する肉体も確実に存在し、
その肉体が触れてその触覚により認識される物体もまた、確実に存在している。

あくまで自分自身にとって確実に”存在”する”自我”という絶対的一点から
自分にとって確実に存在する世界を広げていく、
その他のものは、存在するかどうかは懐疑的であるという、
確実性を求めながらも、どこか後ろ向きな哲学である。

ここに、前述の”量子力学的存在感”を当てはめてみる。


「我思う 故に我あり。」

「我思う」 これは自我が”観測”されることで
その”存在”の確実性が実証されたことを意味している。

では、そもそも”観測”の定義は何か?

観測が視覚によるものであれば
”自我”はなんらかの物質により構成されていなければならない。
自分の目で、自分の肉体を黙視することはできるが
デカルトの言う”自我”とは、肉体のような物質ではない。
”思っている主体”そのものである。

この主体は物理的な体積や質量を持つものではなく
思っているという”事実”というものの存在であると思う。
観測者と被観測者が同一であるという
極めて特異な行為(現象)ではないだろうか。

そもそも量子力学で、”我”思っただけで
本当に”我”あることになるのか、ということを考えてしまうが
”我”がなかったら、おそらくなにもないことになってしまうし、
ここでは、これを彼の偉業によるところの”観測”と考える。


観測されていないものは存在すると言ってはいけない。


量子の世界を吟味する為のこの大前提が、
悲観的哲学とも称される彼の結論を導く大前提と
あまりにも大きな近似性を持っている事を以て、
物理学と哲学の整合性を言うのは危険なのだろうか。

しかし事実、これら偉大な大前提は、
言わずもがな現代社会においてなお弛まぬ技術革新の礎となり、
更なる未来への可能性も計り知れない。















この”観測”された”自我”は、いったい”どこ”に”存在”するのだろうか。

視覚により認識されていないが故、
更に空間を占有する体積(位置)という概念がない故に、
量子力学的観点から、存在する可能性のある空間全域に渡って確率分布するとすれば、
その分布の範囲は自分が観測していない(できない)範囲、
つまり全宇宙に広がるのではないか?

とすれば、「自我は全宇宙と等価」と考えて不自然ではない。


一つ一つの”自我”によるこの”観測”により
全宇宙との等価性を実証できたとすれば、
個々の人間はバラバラで切り離された一点的存在でも、
全宇宙で共有されている、という俄には理解しがたい概念がそこに見えてくる。

点は大きさを持たないため、量的には0だ。
仏教には、空間の極めて微細な一点をさらにどこまでも大きく拡大した時、
そこには何もない空間があるのみで("空")、
マクロの世界をその連続ととらえる考え方がある。

一方で宇宙は末端など観測されていないが故
無限大の可能性(存在の確率)を持つとすれば、”0=∞”という、
途方もない概念(?)が浮かび上がってくる。


両端に向かって無限に伸びていくと思われている数直線において
実は0と∞がリンクしているとすれば、
この摩訶不思議な”円”から
仏教思想にある「輪廻」 を思わずにもいられない。



更に別な角度から考えてみる。

自分というものの定義、ことに人間における生命の定義といおうか、
「自分というものの主体は何であるのか」をよくよく考えるときに、
まず自分の身体が自分自身だとなると、
亡くなった時にも体は物質的な存在として残っているが、
そこにすでに意識は存在しないので、それが自分の主体であるとは考えずらい。

ではやはり、「我思う 故に我あり。」が自分の主体の定義として完璧に妥当なのか。

主体が心(=気持ち)となると、居所は胸の奥か? いや、
やはり考える、思考の中枢である「脳」が自分の存在の主体であろうか。


こんな仮説がある。

脳をはじめとする人体の神経系はニューロンと呼ばれる膨大な数の神経細胞から構成されている。
この神経の最小単位であるニューロンと、まったく同じ働きをする人工の電子素子が開発されたとして、
脳のニューロンをその素子と一つずつ交換していくことを考えてみる。

まず一つ交換してみる。それでも何も異変は起きないだろう。
続けて二つ、三つ、更には脳の半分、ついにはすべてを交換したとしても、
異変は起こらず、思い、考え、尚もそこには心が存在するだろう。

であれば 自分の主体が存在するために、身体という物質的な土台は必要ない ということになる。

この仮説においても、「我思う 故に我あり。」と定義される自我の存在と
全く矛盾しないと言える。

自分自身とは、やはり物質ではないのだ。
では「観測可能」なのか?

可視化できない、かつ理論的に実証されている存在______。

それはいったい、どういうモノ(?)なのか。
最大の謎は、正におのれが「内包」しているのだ。


究極の神秘であり、「神秘であり続けるべきもの」と今は結びたい。


生まれ、生きることこそが最大の幸福であり
日々笑顔で営めばなお良しとする平人にとって、
"知る必要のないもの" が、きっとそこにあると強く思うからだ。



                               (2016/11/25 改)















引っ張ったら、あっちゃ行かない理由。
                .
 

                           ___________ ダイスを振る神。



最近、気になることがある。

”なんで、引っ張ったら、こっち来るの?”

世の中のありとあらゆる物理現象は、
数学を根底におく物理法則で成り立っている。
(現時点で説明できていないものを除いて。)

基本的にすべて、数学を使って、論理的に説明できる。
しかし、一つだけ、説明不可(だと思われる)ものを、
先日見つけてしまい、アタマから離れないのだ。

冒頭で挙げた、”引っ張ったら、こっち来る”。
当たり前すぎて、誰も疑問に思わない。
こっちに引っ張ってんだから、こっち来るに決まってんだろ。

え?  なんでですか?
なんで、引っ張ったら、あっちゃ行ったらダメなんですか??

理由、言えますか? 説明できますか?


その昔、ニュートンは、木からリンゴが落ちるのを見て、
引力という概念を発見したと言われます。

でも、そのときのニュートンの頭には、
”物体が引っ張られたら、引っ張られた方向に動く”
という現象に関して、元々常識としてしかとらえておらず、
それ自体に対しての疑問など、全くなかったに違いない。
それでなければリンゴが落ちるのを見ただけで引力を思いつき、
万有引力という法則を見いだすに至らなかっただろう。








昔、中学生の頃、数学で図形の合同を証明する勉強をした時、
その章のはじめに、まず”定義”と”定理”という言葉を学んだ。

例えば、
”3本の直線で囲まれた平面図形を三角形と呼ぶ。”
これは三角形の”定義”である。
「なんでそれを三角形と呼ぶの?」
とかいう疑問は意味がなくて、そういう図形を三角形と呼ぶと、
”人間が決めた”のだ。

その定義がまずあって、そこから導き出される様々な事実を
”定理”と呼ぶ。

例えば、
”三角形の内角の和は180度である”
これは”定理”であり、絶対に論理的に覆せない”事実”である。

世の中の、数学を使った物理現象の表現、説明、証明等は、
完璧な”論理”であり”事実”であるから覆せないのだ。

しかし、そのすべての根底にある数学では、説明できない、
だけど、元々昔からそうなってるから当たり前でしょ?
っていう事実(定義)があり、その結果生まれる様々な物理現象(定理)を
数学を使って人間は証明してきたのだとすれば、
その世の中のすべての現象の要因となる”定義”はまさに、
”引っ張ったら、こっちくる”
なのではないかと思う。

世の中の、論理的に説明された物理現象は、
すべて数学の中に”内包”されている。
だから完璧に説明できるし、覆せない。


















ところが、”引っ張ったら、こっち来る”は、
数学の”外側”にあって、それを基盤として、
そこから導き出される様々な現象を数学で説明しているにすぎないのだ。





では、”引っ張ったら、こっち来る”って、
誰が決めたの?

もちろん人間ではない。人間が存在するずっと前から、
世の中では、”引っ張ったら、こっち来る”のが当然だったのだ。


ある物体に、こっちに引き寄せる力を働かせたとき、
こっち来るか、離れてっちゃうか。
もし選択肢がその2つであるとしたら、
その2つのうち、どうやって1つがこの世の”定義”として選択されたのか。



もう一度言う。
引っ張ったらこっち来なくたって、別にいいじゃない?
引っ張ったらあっちゃ行ったって、いいじゃないですか?
或いは、引っ張ったら爆発したって良くない?
引っ張ったら照れるっていうのは、どう?
っていうか、引っ張ったって何も起きなくてもいいじゃん。


でもこの世の中は、”引っ張ったらこっち来る”ことになってるんです。
いったい誰が決めたのだ?











宇宙というものが誕生した当時、
AとBの可能性があって、人間の関与できないところで理由もつかずAが
選択されているとしたら、
それはきっと神様がサイコロを振ったにちがいない。