安心のファシズム  −支配されたがる人びと−
 斎藤貴男著/21.07.2004/岩波新書

 携帯電話,住基ネット,ネット家電,自動改札機など,便利なテクノロジーにちらつく権力の影。人間の尊厳を冒され,道具にされる運命をしいられるにもかかわらず,それでも人びとはそこに「安心」を求める。自由から逃走し,支配されたがるその心性はどこからくるのか。

 このようなト書きがある。我々は今自由から逃走し,支配される事に安心を求めているらしい。そして,それはナチスドイツ台頭の頃の状況に似たものがあるらしい。
 著者は日本の現状を6つの側面から論じているので,1つずつ評する。

第1章  第2章  第3章
第4章  第5章  第6章


第1章「イラク人質事件と銃後の思想」
 2004年4月から5月にかけてイラクで日本人5人(3人+2人)が人質となり,その後解放された事件。このときに巻き起こった人質とその家族に対する批判の嵐についてである。
 著者の指摘では,この人質となった人に対する批判,最初は自作自演説が盛り上がっていたが,それが否定されるに及び,今度は自己責任論が持ち出されてきたという。
 政府は「外野席から無責任な野次を飛ばす人々」と同一歩調を取り,自作自演説を裏付けるべく人質とその家族の思想・信条を洗い出しを始めたという。著者は政府までもが人質に批判的だった理由の1つを,この人質事件が公になった直後に各地で展開されたデモに共産党系の団体が多く関わっていた事としている。
 この指摘は,幾分かは正しいかも知れない。連立与党の一つ公明党は共産党と仇敵関係であるし,共産党が自衛隊のイラク派遣(共産党を始めとする反対派はイラク派兵と呼んでいる)に当初から反対しているのも事実であるし,この人質事件が自衛隊撤退要求の弾みとなったことも言うまでもない。
 だが,これは政府の価値観を述べたものに過ぎない。これだけでは,外野席の人々と政府とを繋ぐ糸はまだ見えてこない。

 この事件でキーワードのように言われてきた「自己責任」,しかしそもそも「自己責任」とは何なのか,これはあいまいなままである。「自己責任」を考える上で非常に参考になるのが桜井哲夫著『〈自己責任〉とは何か』(1998/5/20,講談社現代新書)であり,この本でも引用されている。
 しかし,著者の引用は前半部に偏り,しかも,権力者が責任逃れをしている部分のみを引用していて,桜井氏が検討している「無責任体質」にまでは踏み込んでいない。桜井氏の論を,余りにも自分に都合の良いように引用しているのではないかと思えるのである。

 著者は,今回の「人質バッシング」に部落差別に似たものを見出している。現代のこの国の社会における差別の本質は,部落差別の怪文書に書かれていた「差別する事によって心を回復させる事ができる」という心理であると説く。このこと自体別に間違いではないし,インターネットの無責任発言者に,このような(この場合,「人質とその家族」をバッシングすることによって自らを癒そうとする)心理の持ち主が居る事は否定しない。
 しかし,ここでも著者の視野は狭く,世の一般人は皆人質に批判的で,バッシングする事で心を回復させようとしているように感じられてしまう。実際には著者とて一般人の1人に過ぎないのに。

 人質とその家族を批判するコメントには,「政府の価値観を絶対視する視座と,人質事件が自衛隊撤退の世論へと結びつく可能性を極度に警戒している」共通点があると著者は指摘する。その指摘は間違っていないが,それに続いた「政府には政府の価値観があり,ジャーナリストにはジャーナリストの,ボランティアにはボランティアの価値観が,またあらゆる職業や立場にはそれぞれ特徴的な価値観が存在する。いわゆる職業倫理というやつだ」は意味不明だ。「政府には政府の価値観があるかも知れないが,ジャーナリストやボランティアには,彼ら自身の価値観があるのであって,それを押しつぶすような事があってはならない」と言いたいのかも知れないが,多様な価値観が認められるのは平和が保たれているときに限られる。
 戦闘地域である(自衛隊派遣反対派はそう定義付けしていたはずである)イラクで,多様な(しかも賛成と反対がない交ぜになっている)価値観を認めるのは,指揮の統一性を欠くものであり,安全に事を運ぶのに支障となる可能性を考えれば,慎重になるべき事である。
 「多様な価値観が急速に失われつつある今日の日本社会」と評するが,一般人の中に政府の価値観に盲従する人がいる事を否定できないにしても,この評価には「全世界が平和に満ちている」,「一般人は事の判断を何者かに任せてしまうものである」との錯覚があるように思う。人質を批判した人の中に,「戦闘地域では多様な価値観が足かせとなる事があるので,今回は人質の方を批判させてもらう」,「今回は人質の方に欠点がある」と考えた人はいなかったのだろうか。全ての人が政府の価値観を優先し,多様な価値観を失ったのだろうか

 最後に,著者が「禍々しい」と書いた「外野席から無責任な野次を飛ばす人々」が,何故人質となった人々やその家族を攻撃対象としたのかを考えてみると,人質の家族が,事件が公になった直後,どう行動したかという事が大きく影響したのではないかと私は考えている。著者もそのことについては考えているようだが,私の考え方は少し違う。
 そもそも,人質となった人が政府の自衛隊イラク派遣に反対の立場をとり続けていて,政府の批判をし続けていた事,これは「政府のやる事に批判的な人々」と認識される前提となっている。
 さらに,高遠氏の家族だったと思うが,政府の役人に詰め寄った事があった。これが先の前提と合わせられ,「ただ単に人質となった家族を思うが故の行き過ぎた行動」とは認識されなかった。
 私は,もしかしたら「役人に詰め寄ることで,世論はさらに自分たちを後押ししてくれると計算した上での行動」だったのではなかったかと思っているが,一般の認識はもっと違っていた。
 「普段は政府を批判ばっかりしているのに,いざとなったら政府に泣きつき,あれこれ言うのはあまりにも自分勝手ではないか」と思われたのである。人質の家族は「あれこれ言っても世論は味方に付く」と考えていたのかも知れないが,世論はむしろその「身勝手さ」を捉えて敵に回った。実はただそれだけの事である。
 著者が指摘しているように,今回は「何事もなければ美談になったはずのエピソード」(「ヤンキー・ボランティア」)すら攻撃材料となった(「ヤンキー弁護士」や「ヤンキー先生」を美談と言うべきかどうかは議論するべきと思う。これも一般人のミーハーぶりを表すものなのである)が,それが何故かについてはあまり言及がなされていない。
 最後に著者は「(人質の家族を低姿勢にさせたのは)大衆である」と大衆の責任を追及しているが,大衆が人質とその家族の味方に付き,彼らの主張に盲従したとしたらどの様に書いただろうか。ここまで悪し様に書く事はあり得なかっただろう。この場合,どちらに付こうと「盲従」という点では同じ事なのだが,著者は自分と違う意見に同調される事,あるいは政府に反対する意見に同調してもらえない事に不満があるだけなのだろう。
 著者の考察は「肉親を焼き殺されたくない一心で」や「生身の人間のごく自然な言動」と簡単な表現で済ましてしまっていて,人質の家族を善意にのみ解釈している点で足りない部分がある。

第2章「自動改札機と携帯電話」
 前半で自動改札機を後半で携帯電話を主に扱っている。
 著者は,冒頭でラッシュ時の駅改札での光景を採り上げ,「(定期入れを取り出しては,機械上部に開かれた窓にかざしていく)電子音の洪水」と「すぐそばの自動切符売り場でも同じような音の連続」が「重なり合ってやかましい」と書いている。
 自動改札を通り抜ける人の波は,「日本中の大都市圏にある鉄道駅のほとんどすべてで,毎朝繰り返されている,ごく日常的な光景だ」と著者は書く。
 改札を通るときに電子音(icカード:ここではsuica,関西ではicocaやpitapa等)なのだから,採り上げた駅(JR船橋駅)は非常に機械化が進んでいる駅である。
 自動券売機でも自動改札機でも電子音が鳴り響くという,この本の出版当時最も進んだ機械化を以て論ずるのは結構なのだが,「(首都圏では自動改札が完全に定着し)若い世代には,もはや自動でない改札を想像することもできないだろう」と言い切ってしまうのが,果たして妥当なのかどうかは考えなければなるまい。
 まず,首都圏には1つとして自動でない改札が無いと言えるのか。次に,首都圏で若い世代に自動でない改札を想像することもできないとしても,それが全国的な自動改札論の根拠となり得るのかどうか。
 そもそも,自動改札はまだ全国に普及したとは言えないものなのである。私の記憶が確かならば,2003年旅行したとき,大都市と言って差し支えない広島駅に(広島以西では岩国,[当時の]小郡,新下関,下関でも)自動改札は存在していなかった(2004年9月の台風の時のTV映像でも,広島駅に自動改札は見受けられなかった)。機械化が先行する新幹線改札口にすら自動改札はなかった。

 さて,自動改札機(それを中心とする改札システム)の本論に入ろう。
 著者がJR東日本の担当者に取材したところ,自動改札機を導入する目的は「省力化,サービス向上,キセル防止」だと言う。「お客に手間をかけさせて何がサービス向上か」との意見もあるが,「プリペイドカードも利用可能になった」,「通路を増やせたので行列することもない」,「省力化は経費節減なので運賃値上げの抑制にもなる」と言う。
 著者が小段の最後に述べた「自動改札機は物理的な“モノ”としての部分も前面に顕れている点に大きな特徴がある。かつ,その場の空間を制御し,人間の通行をコントロールすることのできる機能が,今後,重要な意味を帯びていくに違いない」は,著者の根底の思想を表すものとして興味深い。
 自動改札に関して著者が示す1969年の資料(「自動改札装置に関する人間工学的研究」:当時の国鉄鉄道労働科学研究所)を見てみると,「現在から見れば」実態に即するものではないのだが,著者からすれば,そういった利便性は利用者に報いる鉄道会社の「アメ」なのだと言う。そして,それによって「いわゆる交通弱者の不満や反発は,敢えて無視した」とする。
 「自動改札機の扉が怖いという妊娠中の女性からの投書…(中略)…JR側は“ゆっくり歩いてほしい”と回答するだけだった」,「原則的に右利きに合わせて設計されているのが自動改札機だ。左利きにも考慮したデザインを取り入れたのは東芝だけで,採用する鉄道事業者も少ない」,この辺りは「自動改札機の問題点」ではなく,自動改札機を取り入れる鉄道会社側の問題点である。
 妊娠中の女性が自動改札機の扉を怖がるのは分かるし,それに対するJRの回答も決して満足できるものではあるまい。しかしそれはJRの態度を問題にするべきであって,自動改札システムの問題とは言えない。
 自動改札機が右利き用になっているのは,自動改札が両面通行可能になっているからである。確かに片面通行の自動改札では左利きに考慮したものを設置するべきだとは思うが,それとて他(両面通行)の改札機が右利き専用ならば「ややこしい」と文句が出るのが関の山である。それに,もし両面とも左側に挿入口を配した自動改札機を導入して,「左利きの人に配慮しました」で(絶対多数派の)右利きの人は納得できるのか。この辺りは完全に考察が足りない。

 また,自動改札機など自動系の規格を定めている団体が「日本鉄道サイバネティクス協議会」を名乗っていることを根拠に,「鉄道における人間工学はまた,サイバネティクスと呼ばれる思想体系ときわめて近しい」と断じ,この意味の「ネガティブな評価」である「新しい形の人間機械論」でしかないと判じ,乗客の圧倒的多数は「自動改札機の“操舵”に慣れき」っているため,著者のような人間は「それでも残る“不満分子”」と片付けられるのだとしているが,このような操舵は何も自動改札機に限られた事象ではない。有人改札も操舵の一種であるし,図書館や博物館などの入口ゲートも操舵である。これら全てを否定するのでなければ,自動改札の操舵性のみを責めることはできまい。もし,多数の人を処理するシステムとしての自動改札機を問題にするのであれば,効率的なシステムが何かを考えるべきである。有人改札への回帰はその方策とはなり得ない

 自動改札機論の中で唯一共感できる部分があったのは,障害者(著者は「障がい者」と書くが)への冷たさの指摘である。ただ,これとて「自動改札機の問題」ではないということは認識されておくべきである。
 自動改札機はとにかく幅が狭く,車椅子の人が通ることは絶望的である。ただ,これは「駅のバリアフリー」の観点からも考えられるべきで,自動改札を幅の拡張などで改善すれば即解決するような問題ではない。
 また,「緻密な作業ができない巧緻性の障がいがあると,切符を改札機になかなか挿入できないのですが,傍目にはわかりませんから,有人改札に行くととがめられます」との身障者団体の関係者の話も取り上げられている。有人改札ならまだ楽だと言いたいのだろうが,これも鉄道会社の姿勢が変わらなければ有人改札であっても不快な思いをすることに変わりはない
 ただ,障害者は結局特別扱いされなければ交通機関を利用できないという現状は考えられて然るべきではある。電車・バスは橋渡しをしてもらわないと乗ることができないような設計になっている。駅の改札の幅が広くても,そこまで車椅子の人が補助無しで行けるようにはなっていない。車椅子の人にとって自動券売機は使いにくい。その他,車椅子の人のスペースを確保していない車両が多いし,目の不自由な人にとっては規定の位置に車両が止まらない(オーバー,ショート)のも困惑の原因となろう。
 挙げていけばきりがないし,全てを解決するようなバリアフリー策を全ての駅で施すのは(立地条件的にも経費的にも)無理があるだろうが,少しでも全ての人に使いやすい方向に向いてもらいたいとは思うのである(特に駅の改装などの時には)。そしてこれは,自動改札機云々だけの問題ではないと言うことも合わせて指摘しておきたい。

 ちなみに,私は自動改札にさほどの嫌悪感を抱いていない。自動改札機を通るのに支障がないからでもあるが,人間よりも確実に処理してくれるからでもある。もちろん,機械の設定は人間がしていて,料金取り過ぎなどミスも多発しているのであるが,機械であれば,キャッシュカードと定期券を間違えたりはしない(私の知り合いは実際そう言う不正をしていた)。キセル防止の効果は確実にあると言える(キセル防止で運賃をきっちり徴収してもらわなければ結局は乗客が困るのであるから)。また,荷物を持っていると通りにくいと言うのも確かであるが,自動改札を通れない程の荷物を持って電車に乗るのは,他の乗客の迷惑になるのであまりお勧めできない。
 加えて,著者は自動改札機を漏斗(醤油や酒を飛び散らないよう,瓶や徳利に注ぎ入れる為のもの)になぞらえているが,先にも述べたように,これは改札が自動でなくても同じ事であり,自動改札機の功罪とは関係がない。もし,漏斗を通されるのが嫌なら,改札を無くし自分で消印を押す(あるいはパンチ穴を開ける)ようにしなければなるまい。ヨーロッパでは自分で消印(composter,timbrare)しなければならない鉄道もあり,消印を忘れて車内検札にかかると,たとえ切符を持っていても罰金(通常の料金より高い)を払わなければならないという。
 消印の為の機械は駅内に設置されているが,その機械の存在に気付かずに車両に乗ってしまう人もいると聞く。このような,日本の改札システムに比べてはるかに自由度が高いが,鉄道のことを知っていないと,消印機を探さなければならないことにすら気付かないような状況になっていたとしたら,著者はどの様に言うのだろうか。
 「切符を持っているのに罰金を取られる理不尽なシステムである」,「電車に乗るときに自動消印機を通らなければならないようになっていれば,消印を忘れると言うこともないはずだ」,「客がわざわざ消印しなければならない怠惰なシステム」など欠点は色々指摘できるだろうが,日本の鉄道のシステムは一応これら全てをクリアしているのである。
 乗るときに改札を通らなかったとしても,それによって罰金を取られることはない。電車に乗る時,必ず切符に消印かハサミを入れてもらうようになっている(無人駅はこの限りではないが,その場合消印をする必要はない)。自動改札でも有人改札でも客は切符に消印かハサミをしてもらえる。
 日本のシステムは囲い込み式ではあるが,これはこれで一定の成果を上げている。改札の通行幅やバリアフリー,有人改札を通してくれないなどの問題はあるが,それは自動改札機の問題と言うよりは,駅の設備や職員の態度の問題である。
 それと,今後普及するであろうICカード,JR方式(suica,icoca)はプリペイド,スルッとKansai方式(pitapa)はポストペイ(クレジットカードでの後払い)である。その方式の違いによる使い勝手やカード亡失時の対応などが今後の論点となるかなと思う。

 続いて携帯電話の問題である。著者は携帯電話が持つ機能の多様性を考慮に入れて「ケータイ」が一般的な呼称として適切であるとしている。
 「(ケータイが)ライフスタイルそのものになっていく過程で。様々なトラブルが社会問題化した」として
1.「ケータイの呼び出し音や大声の会話が原因で,列車や飲食店で客同士の喧嘩になったケースは枚挙に暇がない」
2.「学校の授業や試験はもちろん,芝居やコンサート,式典などをぶち壊しにする場面が各地で繰り返され」
3.「心臓ペースメーカーなど医療機器の誤作動を招く可能性が幾度となく指摘された」
4.「薬物の売買や組織売春と言った犯罪の陰では,必ずといってよいほどケータイが重要な役割を果たすようにもなった」
5.「ケータイが原因の交通事故も頻発した。運転中のドライバーが呼び出し音に気を取られ,あるいは話に夢中になって,何の落ち度もない歩行者たちを轢き殺していった」
こういった例が挙げられている。
 3.以外は全て携帯電話の問題と言うよりは,使用者のモラルの問題である。呼び出し音の迷惑さはヘッドホンステレオの音漏れと似たようなものであるし,大声の会話はおばちゃんや女子高生にとって携帯電話など必要としない売りである。式典などをぶち壊しにしてしまうのは,携帯電話に慣れていない時期・人のエラーであるし(むしろ最近の方が慣れてきていて質は悪くなっている),犯罪の陰で役割を果たすのは包丁も同じである。
 3.については,携帯電話の普及と共に持ち上がってきたものであるが,まだ確定的な根拠が示されていないので法による規制は期待できない。ここは使用者のモラルで対処しなければならない問題である。一応の基準として「ペースメーカーから22cm以上離す」というのがあるが,これすら確定的ではない。逆の立場からは「22cm離れていれば問題ない」と言うことになるし,「22cm以内に入れば即誤作動」と言う訳でもない。また,携帯電話の機種(の古さ)によってもその距離は異なるはずであり,その辺りの研究も待たれるところである。
 5.について,著者が「当初は問題視していた警察やマスコミも,やがて黙殺に転じ」,「大勢の人々の命よりも,ケータイの徹底的な普及が優先された」とまで言い切ってしまっている。こういった事態を問題視するべきはまず我々一般人であり,それが警察やマスコミを動かするべきと言う考え方でも良いような気がするが,対策を警察やマスコミに任せてしまうのだろうか。
 そして,普及の結果「ケータイを持たない者がこの国の社会で生きることは,今やとてつもなく難しくなった」とし,「そのマイナス面は相変わらず」ながら「ここまで普及してしまえば,傍若無人な利用者に抗議することもはばかられる」のだそうで,それは多くの一般人(「自分は周りに迷惑をかけないよう努力しているつもりの利用者」)も同じだと言いたいようで,『ケータイを持ったサル』が売れている背景にあると言う。
 不満を持っている人が皆でかかれば,傍若無人な利用者を叩きのめすことは可能な筈だが,それをしないのは,「周りに迷惑をかけないよう努力しているつもりだが,自分も電話がかかってきたときには同じように他人に迷惑をかけているのではないか」という風に思っている,つまり目に映る傍若無人な利用者は,自分の分身に他ならぬという事が,行動に移らない理由なのではないかと私は思う。あるいは,自分が直接の被害を被らない限りは周りの状況に批判を加えない心性か,注意して逆ギレされるのが怖いのか。

 著者は『ケータイを持ったサル』をある程度評価しているが,「実態の表側だけが強調されていて,それ以外の面がまったく捉えられていない」と言い,「現代のこの国におけるケータイというものの意味は理解できないばかりか,せっかくの分析が誤解を招き,かえって新たな危険をもたらしてしまう」と指摘する。
 ここから話は「そもそもケータイは,どうして繋がるのだろう?」という基本事項に戻り,携帯電話網の仕組みを説明する。が,個々の利用者の端末が信号を発して位置登録(基地局と端末との位置関係を確認する機能)することを根拠に「利用者たち自身がどのような感覚,意識でいようと,ケータイを使って通話したりメールを交換するという行為は,NTTや民営化以前の電電公社,総務省の前進の郵政省のそのまた前進だった逓信省なりが構築した電機通信網…(中略)…国家規模のインフラストラクチュアを利用者個々人が丸ごと受け入れていることに他ならないのだ」と結論付ける。そして,携帯電話と固定電話との違いは,「その時その時で異なっている個人の位置情報を,敢えて積極的に捕捉されていく」ことであるとも言う。
 さらに,「そのインフラは,自然にできあがったものではない」とも言う。ただ,この国家規模(インターネットに繋がっている現状はもはや世界規模か)のインフラが,つながりたい相手同士で独自に作り上げたもの(これは個人ネットワークと言えよう)ではないのは,電話や電波は国家によって管理されているので,国家の管理下に入らなければ繋がることができないということを考慮すれば当たり前であり,その後に続けて「ケータイとは個人が国家やNTTと直接結ばれる,比喩でも制度上のイメージでもなく,電気通信の最新テクノロジーによって,文字通りの管理下に置かれるのだという現実を,図らずも物語っている」とまで言ってしまうと,国家というのを絶対悪視しているように見えてしまう。しかも,ここの表現には国家規模のインフラの管理下に置かれるメリット・デメリットの説明がないので,表現の感じ方に頼ることになり,読む人によって捉え方が異なり,著者の考え方が見えにくくなっている。

 「すでに一部のケータイで実用化され,これからのケータイが本格的に取り込んでいくと予測されているテクノロジー」である「GPS」は,「アメリカが打ち上げた24個の軍事衛星と地上の制御局,基地局,端末の位相を解析することで,そのケータイが地球上のどのポイントに存在しているのかを特定する技術」であり,「本来はミサイルの誘導など軍事目的で開発されたのだが,このところ民間への開放が著しい」と言う。しかし,「GPSケータイが定着していけば,国内だけのインフラとは桁の違う,米軍が統治するシステムが,人々の生活様式を規定することになる」と結論付けるのはどうか。
 1つの携帯電話端末で,世界各国で電話をかけられるようになりつつある現状や,今は廃れてしまったが,衛星携帯電話網の存在を見れば,GPS無しの携帯電話網が国内だけのインフラと考えること自体が既に誤解であるし,インターネットへとつながる携帯電話も国内レベルとは言えまい。
 それとも,アメリカの軍事技術に生活が支えられることに何か意見があるのだろうか。そもそも,軍事技術が民間へ開放されるのは珍しいことではない。インターネットはアメリカ軍が発祥であるし,パソコンすら一番最初はアメリカの軍事技術(ミサイルの軌道計算)であったのだが,それに今の生活は完全に飲み込まれている。実は既に「米軍が統治するシステムが,人々の生活様式を規定することに」なっているのであろう。
 「ケータイの生理的器官化も,そして,やがて比喩やイメージでなく実体化する」として,その例である骨伝導携帯を取り上げている。「難聴や聴覚障がいのある人々がスムーズに通話できるようになるのだと技術者たちは口を揃えるが,このテクノロジーが定着するということは,人間の肉体そのものがケータイの部品の一部になるということでもある」という結語はよく分からない。携帯電話の存在そのものを疎んじる観点からは,これを電話のバリアフリーの一環とは捉えない訳なのだろうか。

 さて,その携帯電話を紛失したときのショック度合いの調査を引き合いに出し,「ケータイには友人や知人,取引先などの電話番号が登録され,時計やメモや,日常生活に必要なデータ,過去のメールのやりとりなども入力,保管されている。ほとんど命綱にも等しい存在になっている…(中略)…ここまでくると,人間とケータイのどちらが道具なのだかわからない」,「人々はケータイに依存し,時には操られていると表現しても過言でないのではないか」,「小さなケータイに,ありとあらゆる機能が詰め込まれていく」と言うが,友人,知人,取引先の電話番号を登録したり,ありとあらゆる機能を詰め込んだりするのは,手帳時代から同じ事であり,携帯電話を特別視することはない。ただ,大きさのない携帯電話端末は紛失しやすく,命綱としての安定性が低いと言うだけのことではないのか。さらに言えば,端末の小型化・大衆化によって,文字として保存する手帳からデータとして保存する端末へと命綱が変わっていっただけの話ではないのか。
 「ケータイは人々の観念で成立しているわけではないことが忘れられてはならない,と思う。サイバネティクスと同様に,国家や多国籍企業のような巨大な存在でなければ運用し得ない,きわめてリアルなテクノロジーなのである」と著者は言う。これは先程の主張の繰り返しであるが,ようやく自動改札機と携帯電話が繋がった。

 「ケータイの機能が拡大すると言うことは,人々の生活がシステムの稼働と同義になると言うことだ」と著者は言う。しかし,同義になるなら,携帯電話の機能の拡大と共に,元々その機能を果たしていたものが廃れる,即ち携帯電話に取って代わられなければならないのではないか。
 どれだけ携帯電話の機能が拡大しても,今後,携帯電話に取って代わられることはあり得ないと思う。
 そもそも,携帯電話は総合機であり,単独の機能では元ネタに劣る。カメラ機能,メール機能,ニュースや天気予報の受信,ボイスレコーダー,バーコードリーダー等々,全て専門機の方が現在は優れている。そして,どれだけ携帯電話に詰め込む機能が進化しても,携帯電話がコンパクトさを求められている限り,この状況は変わらない。

 著者は携帯電話の様々な弊害を述べているが,2002年9月札幌の西友で起こった牛肉代金返金に伴う騒動について,従来はデマの「伝播に要する時間が,一定程度の歯止めにもなっていた」が現代は携帯電話の普及のせいで「ちょっとしたデマでも,場合によっては取り返しのつかない被害,悲劇をもたらしかねない」と判じたが,これは携帯電話を邪悪視しすぎてはいないだろうか。
 関東大震災の混乱の中,朝鮮人や共産主義者が虐殺された背景にはデマが流れていたという指摘もある。携帯電話がなくても取り返しの付かない被害,悲劇はもたらされるのであるが,携帯電話が普及していたらもっと大きな被害をもたらしたと言うことなのだろうか。
 携帯電話の普及が,デマを消す方向に働くという可能性はないのだろうか。この辺りの考察も考えられるべきではある。
 著者は「ケータイがなければ何もできない,暮らしていけない時代がやってくる」と言う。この指摘は確かに当を得ているかも知れない。しかし,「巨大なシステムに操られることが苦痛にならない,むしろ心地よく感じられる時代が」と続けたのは的外れである。巨大なシステムを利用者が操る時代の到来の可能性は考えないのだろうか。確かに,利用者が操っていると思っても,釈迦(国家)の掌中の話かも知れない。しかし,システムとは元来そう言うものであるのだから,システムに操られることを楽しむことも必要となってくる。同時に,苦痛を与えるシステムへの反乱も。
 最後に,携帯電話の機能が拡大し,今では携帯電話でお買い物までできるようになったが,これを弊害と呼ぶまでには,現金での買い物ができなくなるくらいにまで機能が浸透(既存の機能を略奪)することが必要であろう(現在はそこまで携帯電話が生活を浸食してはいない)。
 もちろん,携帯電話の使用が義務化されていない以上,携帯電話無しで人が生活できるのは,権利の一つであるし,携帯電話無しでの生活が不便にならないよう配慮されるべきではある。しかし,それは携帯電話の問題ではなく,携帯電話を使う人・使わせる人の問題であり,ここでも著者の批判が的外れである。

第3章「自由からの逃走」
〈それから自由という点について申し上げれば,大きく分ければ何々「から」の自由と,何々「へ」の自由があると思う。エーリッヒ・フロム(主著「自由からの逃走」)ではないが,多くの国民は自由を求めているようでいながら,実は自由から逃れたいと密かに思っている。この国の国民はこういうふうにものを考えれば幸せになれるんでるよということをおおまかな国のなかで規定してほしいというのは,潜在的にマジョリティーの国民が持っている願望ではないか。〉
 これは,著者が引用した自民党憲法調査会第9回会合での伊藤信太郎衆院議員の発言である(ちなみに著者が言うように,憲法調査会の発言要旨は自民党のHPhttp://www.jimin.jp/で見ることができる)。
 著者はこれを「新憲法で日本国民のあるべき生き方を定めてやるべきだと主張しているように読みとれる」とし,「伊藤議員の真意はいずれ憲法をテーマとするルポルタージュの取材で質すつもりだ」と言う。確かに,この部分だけを読むと,伊藤議員がこのような主張をしているように見えるが,「それから自由という点について申し上げれば」と言うように,この第9回会合の中で,既に他の議員によって,自由についての議論は展開されている。その流れの中で伊藤議員は自分の意見を展開したのであって,この部分だけを取り出されて質問されるのではたまったものではないだろうなとは思う。
 この自民党憲法調査会第9回会合の概要を読むと,思わず頭を抱えたくなるような意見が続出している。しかし,伊藤議員の発言に関する著者の文章は,章の題目からも分かるように,伊藤議員がフロムを引き合いに出さなければ成立しなかっただろうという位に言いがかりである。
 著者は「伊藤議員は,発言要旨を読む限り,むしろファシズムに通じる国家のありよう,人間の生き方までを定めた憲法による国民統治を正当化する材料に,フロムの分析を利用したい意向であるように思われる」とするが,私はこの意見は当を得ていないと思う。
 伊藤議員の他の発言を見ていると,自由とか思想とかについて突き詰めようとし,簡単に結論を出すことに慎重であるように見えるからである。ファシズムを正当化する意図でフロムを引き合いに出したと言うより,フロムの分析のような状況が今国民の中に起こりつつあるという指摘をしているのではないかと思うからでもある。
 実は,伊藤議員の指摘は意味深である。この指摘の後にどのようにするべきか考えることが重要になるからである。「だから自己決定力を付けさせなければならない」のか「だからレールを引いてあげなければならない」のか,もしくはその他か。議事録を見る限り,伊藤議員はこの後の部分に言及していない為,彼がファシズムを正当化していると断じるのは早計(もしそう断じる根拠が別にあるならば,それを示すべき)である。
 二世議員であると紹介され,「華麗なる経歴は,ただし伊藤議員が独力で築き上げたものではない」とこき下ろされ,「基本的人権という概念そのものを消し去り,近代以前の封建社会に回帰するということでない限り,彼のような考え方に基づく改憲はあり得ない理屈」とまで評されたおまけ付きの割には,伊藤議員にとっては散々な取り上げられ方であっただろう。
 著者が「基本的人権という概念そのものを消し去り,近代以前の封建社会に回帰する」と「同じような発想」と指摘する発言には,他に森岡正宏衆院議員の〈家族を大切にして,家庭と家族を守っていくことが,この国を安泰に導いていくもとなんだということを,しっかりと憲法でも位置づけてもらわなければならない〉があるが,私はその意味では〈夫婦別姓が出てくるような日本になったということは大変情けないこと〉とか〈少なくとも国防の義務とか奉仕活動の義務というものは若い人たちに義務づけられるような国にしていかなければいけないのではないか〉(これら3つの森岡衆院議員の発言は全て自民党憲法調査会第9回会合でのもの)とかの方が適していると思う。
 夫婦別姓を情けない風潮とするのは,真の意味でのフェミニストに痛い目に遭わされた事への腹いせとしか思えない(夫婦別姓が家庭を崩壊させる訳ではないことは,夫婦別姓を基本とする文化を見れば明らかである)。国防の義務化は,それに伴う費用の捻出方法が,奉仕活動の義務化は,無報酬で働かせるとすれば憲法上問題で,報酬を出すとすれば,その費用の調達方法が問題となる。なのに,運営方法が議論されていないことが問題なのである。
 家庭と家族を大切にすることを憲法で位置付けなければならないと考えるのは,単に考えが古い(新しい家庭や家族のあり方を創出できない)だけで,近代以前の封建思想への回帰と片付けられるものではない。もし,自民党議員達が近代以前の封建思想へ回帰しようとしているのならば,それこそ考えが古いだけではないか。

 「憲法のようには大掛かりな手続きを必要としない領域では,国家が国民の生き方を規定しようとする動きが先行している。最も激しく,露骨なのが教育の分野だ」と著者は言い,その根拠として2002年4月から使用されている『心のノート』と2002年6月に行われた「心のアンケート」(正式名称は「道徳教育1万人市民アンケート」)を挙げる。
 著者は『心のノート』について,「大きく二つの点を指摘しておきたい。第一に,人間の心の中に関わる教材にしては善悪二元論に単純化されすぎていること。次に,どの学年用でもC(集団や社会,公共との関係)のつくりがきわめて誘導的であることだ」と言う。
 第一の指摘では,小学5・6年用のある設問に「好もしい答えは決まって」いて,その好もしい答えをするように「畳みかけてくる」事,小学1・2年用でロボットや熊のぬいぐるみを擬人化した設定は「そもそも嘘」であり,「国家の付く嘘は問題にならないという大前提での“道徳教育”なのである」事を挙げる。
 第二の指摘では,「『心のノート』に登場する集団,社会とはまず家族であり,次に学校,地域,ふるさと,国,世界,地球,という順に描かれ,家族に対する愛情が,そうやって同心円上に拡大していくべきものだと予定されて」いて,「所詮は人為的な統治権,制度上の存在でしかない『国』を,どこまでも個々人の思いの中にある『ふるさと』の延長線上に置く見せ方は詐術に近い」と言う。
 どちらの指摘も一見もっともである。しかし,第一の指摘は,国家の発行物で擬人化の手法を用いるのは騙しであると言うことになるが,教育(それも小学1・2年レベル)で擬人化を用いることを否定するのは,巷のキャラクターを使った教材はほとんど否定されることになる(ドラえもん,ハローキティ,しまじろう等々,全て動物が元となっている)。これは批判の手法を間違えたと言うことであろう。「好もしい答えは決まっている」に至っては,例が悪すぎる。「ありがとう」を言わない人にそれを言うように誘導するのは国の仕事ではないが,それすら国の仕事にしてしまったのは誰なのか? その辺りを考えなければ,『心のノート』の手法を否定できないのではないか。
 第二の指摘は,国を一義的に捉えているのは著者も同じ事である。確かに,国をふるさとの延長線上に置くか,人為的な統治機構に過ぎないと見るか,結論は思想によって異なるので,どちらかに統一させてその見方を強制するのはよろしくない。しかしそれならば,国を人為的な統治機構に過ぎないとする見方を強制するのも同じ事である。『心のノート』が詐術なら,著者の指摘も詐術である。
 さて,『心のノート』を使用することによって,国家が国民の思想を統制しようとしているとの指摘がある。そして,それは国家による陰謀であると考える人もいるが,文科省の木っ端役人にそんな深謀遠慮ある訳なかろう。
 実際,『心のノート』を利用して社会全体に共通の道徳的価値を広げたいと思っている人はいる(著者の指摘では押谷由夫昭和女子大学教授)ようだが,この『心のノート』で道徳教育が充実すると思っているようでは先が思いやられる。モラルの基礎の基礎で満足してもらっては困るのであるが。
 「心のアンケート」については,「大方の大人や子どもが抵抗しにくい質問の項目や設定が多用」されていて,携帯電話が登場していることを「環境をますます自らに都合良く変化させるよう促す力を秘めている」と指摘する。しかし,携帯電話をアンケートに取り入れること自体を批判されたのではたまったものではあるまい。アンケートに取り入れなければ,それはそれでまた批判対象となるのであるから。

 そして,議論は所謂「国旗・国歌法」にまで飛び火する。そして「危機感を抱く教師や保護者は依然として少数派で,多数派はと言えば特に積極的に賛成するのではなく,といって自分自身の頭で何事かを考えるわけでもなく,ただ大勢のあるがままに漂い,従っているだけの状況」で『心のノート』と「国旗・国歌法」を巡る動きは一致していると言う。
 そして,その動きはやがて「コンフリクト・フリー(激しい摩擦が生じてもおかしくない重大な事態が進行しているのに,またそれによって大きな被害を受ける危険性が高いか,実際に受けているのにもかかわらず,当事者の内面で葛藤が感じられなくなった状態)」をもたらすとされる。
 関学の教授が著者に〈大学で講義をしていても,話した内容を鵜呑みにするだけで,深く考えることを忌避する学生が年々増えてきた〉,〈ものを考えるということは,別の言い方をすると,論理の矛盾に対して一定程度のセンシビリティ(感性,細やかな神経)を持つということでしょう。彼らにも一応の考えはあるんですよ。でも,雑多な考えが矛盾していても,清濁併せ呑むというのか,結局は全部受け容れてしまえて,内面での葛藤も特に起こらない。コンフリクト・フリーだから〉と言ったという。
 大学の学生が講義に意欲的でなくなってきたのは,別の理由もあると思うのだが,ここではコンフリクト・フリーで片付けられている。ま,それはそれとして,内面での葛藤が特に起こらない人が最近急増してきたかのような言い方には違和感を覚える。
 そして,この関学教授が見てきたという日の丸・君が代に関する実例を読むと,制度や法律に問題があると言うよりも,それを基に行事を進める校長や教育委員会の人間の考え方に問題がある(逆もまた然りで,教師の考え方にも問題のあるケースは少なくない)としか思えないのだが,著者にかかれば,それは「ほとんどレイプと同じ発想」となるようである。レイプの発想というものがまずよく分からないが,抵抗を力(この場合は権力)で抑え込んで無理矢理にと言うことであるとすれば,わざわざ「レイプ」という表現を使うことはないのではないか。
 一つだけ突っ込んでおくと,「無理に自分の思いを押し殺し,歌いたくない歌を歌えば,その人の精神は踏みにじられ」るのであれば,今の学校制度の中で育った人の中には既にそうなっている人もいるのではないか。それは君が代を歌いたくなかった人だけではなく,音楽の授業の中で歌いたくもない歌を「授業だから」と歌わされていた人も含まれよう。しかも,児童・生徒に歌わせていたのは,他でもない音楽教師その人である! そんな人が,自分だけは歌いたくない歌は歌いたくない,自分にはその権利がある,などと言ってのけるのでは,何とも片腹痛い事ではないか。

 〈お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげた人があって,今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる〉,〈お国のために命を投げ出すことをいとわない機構,つまり国民の軍隊が明確に意識されなければならない。この中で国民教育が復活していく〉と語ったのは「民主党の西村眞吾(※原文のまま)・衆議院議員」で,「国家,というよりは己が国家を担っているつもりの選民思想の持ち主たちは,子どもたちの心の中に介入するだけでなく,はらわたまで引っかき回して,『お国のために命を投げ出しても構わない』人間に仕立て上げるのだとまで絶叫し始めた」と評される。
 この西村発言を見ると,“国は作られた。これからは国民を作らなければならない”という感じである。今の日本社会はこれまでで最も進化した形だと考える人が多いだろうが,実は国民国家以前の形にまで退化してしまったと言う可能性はないのだろうか。いや,そもそも民主主義が最も進化した政治体型だと考える根拠は何なのだろうか。民主主義は不完全ながら古代社会でも取り入れられていた概念ではないのか。堂々巡ってまた民主主義に回帰したと言うことなのか。
 そして,西村発言を戦前への回帰と言うのは間違っていない。ただ,何故戦前への回帰に思想が向くかと言うことについて,これまで戦後民主主義者には「過去の栄光を忘れられない」的な発想だと考えている向きもあったが,果たしてそれだけなのか。
 現在の教育崩壊(教室崩壊)や家族崩壊が,戦後の日本社会(の何か)に起因することは否定できまい。ならば,崩壊前の状態に戻そうと考えることも理解不能ではない。もちろん,それで終わってもらっては困るし,その原因が特定されている訳ではないのであるが。

 さて,著者は「かくて人々は,子どもの事件→教師,学校が悪い→行政権力が取り締まれ→取り締まりやすいように法律を変えてしまえ─という単純きわまりない連想の悪循環に嵌り込んでいく」と言う。この部分だけを読めば,人々が行政権力に操られていくことに警鐘を鳴らしていると取ることができるが,こうなる原因を著者はマスメディアのせいにしてしまっている。マスメディアが権力の監視機構となることで,人々は権力の監視に関心を払うようになるのだという考え方はある。しかし,それを連呼し,マスコミに役割を強いるだけでは,人々の考え方は変わっていかないであろう。
 しかも,著者は「個人としての価値観を培うことのできない会社人間」になるのは,彼らが「個人として国家に対峙する機会を,あらかじめ奪われていた」からであるという。個人としての価値観を培うために,個人として国家に対峙する機会が与えられていることが重要なのかどうかがまず分からないし,その機会がないから個人としての価値観を培うことができないと結論付けるのは,余りにも強引な論法ではないか。

 著者にかかれば,現代日本の様々な色々な制度が人々から考える機会を奪っていると言うことになる。
 著者は,フロム『自由からの逃走』からの引用を踏まえ,今の日本人の向かっている方向は,ドイツ人がナチズムを受け容れた頃のそれと似ているとする。所謂サラリーマン税制も,「源泉徴収も年末調整のいずれも,ナチス・ドイツの方法論を真似たものだったと言われる」とナチスとの関係を示す材料にされてしまう。
 著者が第1章で取り上げた桜井哲夫氏の著書にも,源泉徴収について触れられている部分がある。

 源泉徴収制度が生まれたのは,日中戦争が拡大していた一九四〇年(昭和十五年)のことです。ふくれあがる戦費をまかなうべく,五億円の大増税が目指され,所得税の課税最低限が千二百円から七百二十円に引き下げられ,納税者数は,前年の百八十八万人から四百八十万人にまで増大しました。
 ところが,税務署員も兵役に取られていましたから,手が足りず,やむなく徴税事務を雇用主に肩代わりさせる制度を取り入れたのでした。当時の大蔵官僚の回顧によると,ドイツの税制(ワイマール共和制のもとの一九二〇年に源泉徴収制度ができ,ナチス政権に引き継がれた)を調べて,これをやらない手はないとして始めたものだといいます。

 桜井氏は,著者が「アメリカをはじめ,大方の先進諸国には,源泉徴収はあっても年末調整はない…(中略)…年末調整の非民主制を指摘し,速やかな廃止を訴えいった」と説明した「シャウプ勧告」についても,「源泉徴収は効果的に機能していることを認めながらも,勤労者の大部分が税務署と接触がないのは問題だから,年末調整だけでも税務署に移行すべきだと指摘しました。ところが,徴税事務が複雑になることを恐れた政府は,勧告のこの部分は実行しなかったのです」とより詳しい説明を加えている。
 第1章で桜井氏の著書を引用しているのだから,この部分についても参考にするべきと思うのであるが,一言も触れられていない。
 ナチスと結びつけることによって悪とする思想そのものも好かないし,それを持ち出すことによって危機感を煽ろうという論法も好きになれない。著者がナチスと関連づけて主張するものの,その根拠に乏しいのも説得力のないことの象徴か。


第1章  第2章  第3章
第4章  第5章  第6章

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