安心のファシズム  −支配されたがる人びと−
 斎藤貴男著/21.07.2004/岩波新書

 携帯電話,住基ネット,ネット家電,自動改札機など,便利なテクノロジーにちらつく権力の影。人間の尊厳を冒され,道具にされる運命をしいられるにもかかわらず,それでも人びとはそこに「安心」を求める。自由から逃走し,支配されたがるその心性はどこからくるのか。

 このようなト書きがある。我々は今自由から逃走し,支配される事に安心を求めているらしい。そして,それはナチスドイツ台頭の頃の状況に似たものがあるらしい。
 著者は日本の現状を6つの側面から論じているので,1つずつ評する。

第1章  第2章  第3章
第4章  第5章  第6章


第4章「監視カメラの心理学」
 冒頭,「渋谷,新宿,池袋と東京のB級盛り場を並べてみて,現代人がまず連想させられるのは,ムードでもロマンでもない。警察が運用する監視カメラ網の存在だ」と言うが,東京の(しかも23区程度の都市部に限定される)現代人の感覚を,全ての現代人がそうであるかのように言ってしまえるところに著者の論の脆弱さが現れている。
 まあ,東京以外の都市部の「監視カメラ」(警察では「防犯カメラ」と言うらしいが,防犯が主なのか撮影が主なのか分からない点で,多分に変な名称である)導入に言及し,「過疎の村や町でも,監視カメラの話題だけは大都市に負けていない」と書いているから,東京に閉じていると言い切るのは酷であるが,「監視カメラ」導入について,東京都市部での思想が全国に通じると思っているように見える点で脆弱であることに変わりはない。
 そもそも,人口3万人の町が「過疎」と言えるのかどうか疑問に思うべきなのではないのか。面積にもよるかも知れないが,3万人も人口があれば「そこそこ」のレベルである。それを「過疎」と言うのは,それ以下のレベルの町や村を切り捨てていることになりはしないのか,それも考えて欲しかった。
 さて,「この国は今や監視カメラだらけだ。歩行者や住人のプライバシーが侵害される,などという認識レベルは完全に超えた」と著者は言うが,この指摘は当を得ていないのではないか。そもそも,町中を歩いている人のプライバシーとは何なのか。顔を撮られない権利だとすれば,それは肖像権の問題であるが,公開を前提としていないカメラに撮られることが肖像権の侵害と言えるかどうかは議論の余地があるし,その時その場所を歩いていたことを公権力に察知されない権利に至っては,どのような権利というのだろうか。プライバシーの侵害(「認識レベルを完全に超えた」と,その存在については曖昧にしている)と簡単に言ってしまうが,細かい部分で主張している内容がよく分からない。
 さらに,著者は「目的の一部だけを抽出する(「防犯カメラ」のことを指す)よりは,機能の全体を表現した“監視カメラ”の方が中立的だと思われるが,この呼び名にはそれだけで批判的なニュアンスが込められていると考えられがち」としている。ただ,「監視」が「中立的」な根拠や「批判的なニュアンスが込められている」ことを示す根拠は示されていない。
 確かに「監視」という言葉は,「(悪事が起らないように)見張ること」(『広辞苑』)等のように,辞書上では一見して中立的に思える。しかし,「悪事が起こらないように」という部分で批判的に捉える可能性を残しており,もう少し検討されて然るべきものではある。

 「この国の社会ではすでに,一九九九年から警察に電話やファックスの盗聴を認めた通信傍受法が施行されている。国民総背番号制度に結び付く住民基本台帳ネットワークも構築された」と著者は,これまでに成立した監視のためのシステムを総括する。
 「安全と自由とを天秤にかけて安全が優先された構図だが(…中略…)監視と安全との相関は曖昧で,そもそもトレードオフの関係とも言い難い。安全の見返りなど伴わないのに,ただ監視される結果だけがもたらされている場合が少なくないのではないか」と著者は危惧する。この危惧が全くの的外れであるとまでは言わないが,「監視カメラ」の導入が「安全と自由とを天秤にかけ」たものであるのかどうかが全く検討されていない。
 そもそも,「安全と自由」がゼロサム(一方を増やせば一方が減る)の関係にあるのかどうかすら議論の余地があるが,安全を求めればその分自由が犠牲になると言うことの根拠は何なのか示されていない。

 著者は「監視カメラ」の導入について,警察との関連からしか述べていない。しかも,警察に対する不信感のみで述べている。このため,商店街等が独自に「監視カメラ」を設置しようとする動きが,どのような心理から来ているかを説明し切れていない。しかも,そのカメラで撮られた映像が警察に回ることだけを捉えて「何もかも警察の掌(てのひら)の上。誰かがモニター室で笑っている」と言ってしまう。日常の光景をモニター室で見て笑っていられる程,警察官は暇なのか,暇なのだろう,著者の感覚からすれば。
 要は使い方な訳で,犯罪を未然に防ぐ意図でカメラの映像を利用すれば良いのだろうが,権力機構はプライバシーの侵害しかしないと著者は考えているのだろうか。

 そして話は,東京都杉並区の「監視カメラ専門家会議」へと移る。
 区長が専門家会議に諮問した文書で既に「監視カメラ」は有効性,有用性のあるものとして定義されてしまい,「実は有効でも有用でもないのではないかという可能性を検討する姿勢,議論の余地が,あらかじめ封じられていた」ため,「議論が大詰めを迎えた四回目の会合(二〇〇三年十月三十一日)になって『本当に有効なのか』という,振り出しに戻るような意見が提起されたのも当然だった」と著者は指摘する。
 加えて,「有効性を裏付ける具体的な資料は何も提示されていない」と,「監視カメラ」導入推進論の脆弱さを批判する。
 確かに,引用された議事録を見ても「監視カメラ」の有用性を裏付けるデータが示されている訳でもなく,具体的な数字を言っている訳でもない。
 また,著者が挙げているイギリスの例も,考慮されるべきものであるし,議事録を見ると,都合の悪そうな情報を黙殺し,何が何でも「防犯カメラ」を導入しようとしている動きがよく分かる。
 しかし著者は,導入推進派の委員については「最高裁長官時代に米軍用地の強制使用をめぐる憲法訴訟の裁判長として国側を勝たせ,退官後は元号法制化や新憲法の提唱などを進めてきた国民運動ネットワーク『日本会議』の会長に就任したことで知られる」や「内閣府や東京都,警察庁などが設置する少年犯罪などに関する審議会の常連だった」と言う説明を付けているのに,反対(慎重)派の委員については何も説明を付していない。
 さらに,この部分の結論として,専門家会議で名称を「防犯カメラ」に統一したことを取り上げて,「“監視”も“防犯”も,ある種の“イデオロギー”であることに変わりはない。人間の尊厳や自由を重視したイデオロギーが警察や企業のイデオロギーに敗れ」と書いたのは,全く公平性を欠く。
 「監視カメラ」と言う名称が「人間の尊厳や自由を重視したイデオロギー」である根拠はどこにも示されていないし,「防犯カメラ」と言う名称が「警察や企業のイデオロギー」である根拠もない。さらに,前者と後者が対立して前者が敗れ,後者が台頭していると言うことも,根拠に乏しく感じられる。全てはイメージで語られているのである。
 根拠を示さずイメージでものを語っているのは著者も同じであり,「思い込み,と言って悪ければイメージだけでそういうことにされている」と言う部分は,そっくりそのまま(あるいは「のしを付けて」)著者にお返しするべき部分であろう。

 「監視カメラ」がらみの技術で,顔認証について述べている部分がある。「顔認証とは撮影された映像に映し出された人間の顔と顔貌データベースとを瞬時に照合できるシステム」と解説が付いているが,その直後「実現の暁には,監視カメラを運用する主体は,いつどこで誰が何をしているのかの一挙手一投足を,全て把握できてしまうことになる」と言う部分には重大な欺瞞がある。
 顔認証の解説で,映し出された顔と顔貌データベースとを照合すると言っているのだから,このシステムは,あらかじめ顔貌を登録しておかなければ機能しない。つまり,監視カメラの運用主体が顔貌を登録できる状況を設定しなければ,ある人を照合するには至らないのである。
 つまり,著者の言い方は,全て把握できるまでの道筋についての説明を飛ばしていて,ある種の誇張があり,不安を煽る材料に使っている。

 「監視カメラ」導入には「犯罪性があっても,犯罪機会がなければ犯罪には及ばない」と考える向きがあるとも著者は言う。監視を強化し,犯罪機会を減らせば,犯罪は減るという理論である。
 「監視カメラを運用する側の人々の近年の発想は,一般の常識や想像を絶している」とか「誰もが犯罪者になり得るのは確かでも,そこから導かれる,ほとんど国民皆犯罪者論とでも呼ばれるべき論理展開は乱暴すぎる」とかは,著者のイメージから出た表現でしかない。「一般の常識や想像」とは何なのか,「国民皆犯罪者論」という理論が存在するのか,論理展開が乱暴といえる根拠,いずれも説明されていない。これでは説得力に欠けるなどと言うものではない。もはやただのぼやきの類なのではないか。
 それに,「監視カメラ」を運用する側の人々には,商店街の管理組合の人々や住宅街で自警活動をする人々も含まれるはずなのだが,著者の観念ではこういった人々をもはや「一般」とは言わないらしい。ならばどういった人々が「一般」なのだろうか。
 また,著者は「国民皆犯罪者論」の論理展開で,所謂「割れた窓ガラスの理論」にも否定的に触れている(第5章で「割れ窓理論」として詳しく触れられている)。犯罪機会をなくすという動きそのものが,乱暴なものとして捉えられてしまうのもまた問題なのではないか。
 いや,そもそも,「犯罪」と「犯罪には至らないが,社会生活の秩序を乱す行為」との間に,決定的な違いがあるのか。「犯罪」など法律に規定されているものに過ぎず,本来は社会秩序と相関関係にないのではないか。そして,社会秩序を守るのに「監視カメラ」が必要ないとするならば,どのような方法で社会秩序を守るのか。それとも,最初から社会秩序とは「守られているもの」で,ことさらにそれを守る必要性がないのか。こういった疑問に著者は全く答えてくれない。ただ,「監視カメラ」を巡る現状を批判するのみに止まる(この姿勢が批判されるべきものかどうかは別の問題)。

 「テクノロジーは,かくて支配のための暴力装置となった。彼らが操る世界で監視カメラと顔認証システムが一体化すれば,やがて必然的に住民基本台帳ネットワーク=国民総背番号制度や,ICカード,携帯電話,自動改札機などの多用なハイテク監視システムが結び付く」と結論付けられる。「彼ら」とは具体的に誰のことを指しているのか,自動改札機が「ハイテク監視システム」に当たるかどうかは議論するべきであるが,文章が警察(権力機構)とメーカーが手を組み,支配のための暴力装置を作り上げているという流れになっているのが気にかかる。
 「権力から遠い人間は何もかもを見張られて萎縮し,あるいはシステムが推奨してくる消費行動に駆り立てられる…(中略)…いつしか人々は,自らの行動を律している自分自身に気づくことになるのではないか」という部分を読むと,著者もまたエリート意識を持った1人(one of elites)に過ぎないのではないかと思われてくる。「権力から遠い人間」には自己意識というものが欠けていることが前提になっているような書き方,つまり権力者が「権力から遠い人間」を操るシステムが「既にあるもの」として著者には認識されているのではないか。

 前述した杉並区の監視カメラ専門家会議では,カメラのハードだけでソフト(映像を映す能力)のない「模造の監視カメラ」についても議論されている。
 ただ,著者が引用した議事録を読むと,〈模造カメラは絶対に設置してはいけないというのが欧米の考え方です〉とはなっているが,これも根拠が示されていない。
 結局は推進派も反対(慎重)派も,イメージ先行型の理論なのである。

 著者は最後にザチャーミンの『われら』の「人間の自由=0なら人間は罪を犯さない。それは明白である。人間を犯罪から救い出す唯一の手段は,人間を自由から救い出してやることである」を引いて,「日本の監視カメラ網はまさにこの方向に向かって暴走している」と言う。しかし,この章がその論の根拠となり得るであろうか,これだけイメージ先行型の理論で。

 さて,警察が絡む「監視カメラ」について著者の批判は集中しているのであるが,偶然写り込む可能性をはらむカメラは何もこのようなものに限らない。鉄道の駅では,車掌が目視しにくい範囲をカバーするためにカメラが設置されている駅があるし,テレビ局が無造作に町の様子を写すカメラは,プライバシーという面に限って言えば,監視カメラよりも質が悪いと言うことになるが,このことについては触れられていない。このことも合わせて指摘しておきたい。

第5章「社会ダーウィニズムと服従の論理」
 「現代という時代を理解するためには,どうしても知っておかなくてはならないことがある。世界やこの国の政府によって,はたしてどのような未来社会が構想されているかという問題だ」と始まり,「多くの学識者が,それぞれに魅力的な議論を展開している。人々はそれらにも学び,咀嚼して,自らの世界観を築いていけばいい」と続ける。
 そして,著者の場合,武者小路公秀氏が記念講演で語った内容が「腑に落ちた」そうで,武者小路氏の論を元に話が進む。
 「近年のいわゆるグローバリゼーションの基調は新自由主義(ネオリベラリズム)と新保守主義(ネオコンサーバティズム),すなわちネオコンとのコンビネーション」とした上で,「新自由主義と新保守主義がセットになって成立しているグローバリゼーションは,三段重ねの重箱」のようなものだと言う。
 その構成は,「頂点に大企業と国家による大競争」,「真ん中が市民社会で,人権を守るNPOなどもこの階層に含まれるが,うまい汁を求めて国家や大企業の望む方向になびきがち」,「そして底辺だ。あらかじめ切り捨てられているこの層…(中略)…は切り捨てられているのに,しかし労働力,消費者としては利用される。つまりは搾取される」と言うことである。また,底辺には「リストラなどで中層からはじき飛ばされた人々もどんどん流入」してくるとも指摘されている。
 もう一つの形として武者小路氏の講演内容を引用して〈村が貨幣経済に巻き込まれていくと,もっと安全で,もっと豊かな生活をしたい人達は先進工業諸国に移住していきます。ところが,先進工業国は,その国のためになる,例えばITの専門家は入国させるけれども,単純労働をしている人達は入れない。それで非合法入国をすることになる。…(中略)…アメリカでも,ヨーロッパでも,非合法入国という形でやっともぐりこんだ人たちだけでなく,その子どもたちの世代までが,同じところに住み,同じ貧しさのなかで暮らさざるを得ない。かつてアメリカン・ドリームと言われていたのは,貧しい人でも一生懸命働けば大金持ちになれる,それが昔のアメリカでした。でもいまのアメリカは,非合法入国をしてスラムに住んだ人たちは子どもたちも,そのまた子どもたちもスラムからぬけだせない。新自由主義のグローバル化がすすむ間はぬけだせない,そういう新しい身分社会ができ上がってきているという問題があります〉と言う。
 ただ,この問題提起では,「非合法入国」(即ち「不法入国」)があまりにも軽く捉えられている。入った先の国の立場からの考え方は全くされていない。確かに不法入国はその本人のみに帰するべき罪であるが,それでも,その子どもたちをスラムから抜け出せる(この定義自体曖昧であるが)ようにすることが国家の仕事となるのか。そもそもそれを「福祉政策」と呼ぶべきなのか。もしこれが国家の責務となるのであれば,どんな手段を使ってでも不法入国してしまえば,子どもは福祉政策によって身分を保障されることになってしまう。それを不法に入られる先の国が許容するのかどうかが考えられなければならない。
 もちろん,この不法入国者達は労働力としては消費されるのであるから,不公平と言えば不公平であるが,国の直属の労働力(公務員)として消費される訳でないのであるから,その責任を全て国に押し付けてよいのかどうか疑問である。そもそも不法入国者達のこの状況が,「新自由主義のグローバル化」と括られてしまってよいのか,「新自由主義のグローバル化」が終われば,不法入国者達のスラム暮らしは終わるのか。こういった疑問には何も答えてくれない。

 さらに著者は,これを身分差別の逆回転(身分差別の促進)と捉えているが,この事象から「近代以降の人類が築いてきた価値観を,もしかしたら市民革命やプロレタリア革命が起こされる以前,中世のそれへと再び逆戻りさせたような世界に限りなく近づいてしまうのではあるまいか」という危惧にいきなり至るのは論理飛躍である。
 確かに,大企業,雇用者が優先されている現状は問題である。しかし,それを不法入国者の問題から見たのでは,問題の本質がぼやかされてしまう恐れがある。
 不法入国者はあくまでも「不法」な存在であり,国家が想定する範囲ではない。そもそも著者の論では「非合法入国」が先進国に入国する手段として認められているように感じられる。世界中の全ての人が同じような生活水準を享受するようにしなければならないでも言うのだろうか。それが理想であるとしても,実現のための手段を持たない以上は,これも「絵に描いた餅」になってしまう。  ちなみに,アメリカンドリームは「一生懸命働けば大金持ちになれる」事を象徴しているのではなく,「大金持ちになるチャンスは誰にでも手に入れられる場所に転がっている」(チャンスを手に入れるための資格は存在しない)だけのこと,即ち結果平等ではなく,機会平等なのでしかないと私は思う。
 「一生懸命働けば大金持ちになれる」と言うのはアメリカンドリームに対して抱く幻想であるとも言える。
 さて,著者は労働者を「ボロ雑巾のように酷使されては捨てられる」と形容する。しかし,この労働者達が夢見ているのは他ならぬアメリカンドリームの幻想である。出世や金儲けのチャンスがどこにでも転がっていると考えるなら,ボロ雑巾になる前に別の可能性を見出そうとすると思われるのだが,貧しい労働者にはその能力も意欲もないと言うことか。

 著者の指摘では,現代の帝国主義は「アメリカの覇権というオールマイティー」によるものである。その点で「欧米列強による世界の分割統治と説明されてきた時代」の帝国主義とは異なるものであり,現在の日本はアメリカと結び付くことによって,「虎の威を借るキツネの“衛星プチ帝国”を明らかに志向し始めた」と言うことである。
 そして,「新自由主義に貫かれた現代の帝国に“福祉”の二文字は存在しない。代わりに採られた国民統合のための方法論は,ハイテクノロジーという凶器を得て,むしろ剥き出しの暴力性を帯びた」と言うことになる。最後に「キーワードは『恐怖』,そして『安心』である」と言うことで,これまでの論とつながる。
 著者の「福祉」が何を指しているのかが分からない以上,批評のしようがないのだが,「存在しない」
 それに,“福祉”が存在しないの(とするならば,それ)は「現代の帝国」だけではない。「全ての人の平等」が志向されたはずの社会主義国で,福祉政策が資本主義国に劣っていたのはよく知られたことではなかったか。そもそも,全ての人間が平等の環境下で生活するという理想の下では,完全な福祉を実現することはできない。

 「恐怖」を和らげるための「安心」の1つである「監視カメラ」,これを導入する根拠として説明されることが多い理論として「割れた窓ガラスの理論」(“broken windows theory”,「割れ窓理論」,「“壊れた窓”理論」,「破れ窓理論」)がある。
 著者は,この理論は「軽微な犯罪の予兆段階でも容赦しない,情状酌量の余地も残さない,警察権力による徹底した取締り」であるとし,「ゼロ・トレランス(寛容ゼロ)と呼ばれる戦略思想と表裏一体」と指摘する。
 そして,「割れ窓理論」への批判として「いかなる事情があろうとも,たとえば無差別殺人のような凶悪犯罪が正当化できるはずもない。だが,善良な一般市民でも犯しやすいレベルの軽微な違法行為にまで,虐げられた人々への共感や配慮をあえて無視した治安・防犯対策ばかりを追求していけば,やがて辿り着く終着駅は,恵まれた階層の人々と,そうでない階層の人々とがまっぷたつに分断された社会以外にあり得ない」と言う。
 まず,戦場において寛容が許されないのは当たり前の話なのだが,これと「割れた窓ガラスの理論」が表裏一体だとして,そこにどのような問題があるのかが全く抜け落ちている。著者は管理社会の存在そのものに否定的であるように見える。管理社会が必要ない程に人々のモラルが高いのなら,どんな人でも軽微な違法行為すら起こさないはずなのだが,実情はそうなっていないし,著者も軽微な違法行為は起こるものとして捉えている。
 凶悪犯罪が正当化できない中で,軽微な違法行為は情状酌量の余地があるというのはどういう事なのか。そもそもこれらを分けるものとは何なのか。また,「虐げられた人々への共感や配慮」と言うことは,「虐げられた人々」なら「軽微な違法行為」は許容されるべきであると言うことなのか。ならば,それは「法の下の平等」に違反するものではないのか。しかも,「虐げられた人々は罪を犯しやすい」と考えるならば,これも差別の1つではないのか。
 役人が「大企業の役員を厳重にチェックしてもしょうがない。それよりも危険な(とされる)国籍を持つ人間を厳しく調べた方が有益」と言えばそれは「剥き出しの差別意識」と批判するが,著者の差別意識は「剥き出し」でないだけにより質が悪い。
 弱者を「自分よりも劣っている者」として捉えることによって,劣等者と定義付ける。差別反対の旗を掲げた人間によるこのような差別意識は,もっと問題にされてよい。

 「何もかもが怖い人々は,とりあえず最も強そうなものに縋りつく(※すがりつく)。そもそもの恐怖の種をまいてくれた,他ならぬ国家の警察と軍隊に」と言う部分にも,自己意識が欠けている人々が投影されているように見える。
 こういった人々を,恐怖の種をまいた存在が分かっている我々が導かなければならないという意識が見えてくる。所詮,一般人はエリートに操られるものとしてしか認識されていないのである。

 面白いのは「近頃の筆者は,空港の手荷物検査で撥ねつけ(※はねつけ)られない時がない」らしいのだが,それを「家柄や組織の後ろ盾がないからか,戦後十一年間もシベリアに抑留させられ,亡くなるまで公安警察の監視下に置かれていた父を持っているためか,筆者自身の文筆活動が好ましく思われていないせいなのか,まったくもって単なる偶然なのか,理由は何も分からない」と分析する部分である。何ともひがみっぽい,そこまで空港の手荷物検査システムは進んでいる(顔認証システムが完全に機能している)のか。
 ちなみに,はっきり言ってしまえば,決して単なる偶然ではない。とは言え勿論,著者が挙げたそれ以外の原因の可能性は全くない。単に,手荷物検査で反応しやすい金属を身につけているというだけの話であろう(だから必然ではある)。

 ここでのキーワードは「自由」である。全てが「新自由主義」で説明されている。何もかもが新自由主義のせいなのである。こんな無茶苦茶な論理展開はない。この世の中を覆っている空気が「新自由主義」だとしても,世の中の全ての事象を「新自由主義」で説明できるはずもないのは明らかであるのに。

 ただ,アメリカ国防総省の「ライフログ」プログラムの部分には少し興味を持った。顔認証システムと同じ弱点を抱える(事前のデータ入力無しにデータ照会ができない)ものであるが,「個人の生活に関るあらゆる情報をデータベース化し,検索可能にする」時に〈送受信した電子メールから撮影した写真,閲覧したウェブページ,通話,視聴したテレビ番組,読んだ雑誌に至るまで,とにかく全ての行動〉を情報として取り入れるというのであるから,何とも壮大な計画である。どのような方法でデータを収集するのかということが分からない以上,その構想そのものには何とも言いようがない。
 著者の「アメリカで起きていることは,放置しておけば日本でも必ず起きる」と言う論評は聞く必要もあるまい。アメリカにはアメリカの,日本には日本のデータ収集方法があるので,それぞれどのような方法となるのか,また,どのように縛りを掛けるのかと言うことが問題なのであるから。

 著者は「割れ窓理論」を批判するが,治安の悪化はそれこそ「軽微な違法行為」を放置することから起こるのではないか。法がきっちりと施行されないことが治安の悪化を招くのではないか。
 それでは,法の厳然たる施行を妨げているものは何か。1つは「官僚体質」(別名「無責任体質」)である。責任をたらい回しにすることで,それを取る者が誰もいなくなると言うもので,先の戦争責任についてもこの体質が指摘されている。
 もう1つは「人権」である。「人権」を理由に法の厳然たる施行が妨げられている。法を作ってしまえば勝ちという現状に一石を投じるものと言えば聞こえはよいが,決まりを守らなくても良いという考えを生み出すものとして考えられなければならない。
 官僚体質については,マスコミも問題視し,取り上げられる事例がよく見受けられるようになった。ところが,「人権」の名の下に法の厳然たる施行が妨げられている現状についてはあまり顧みられることがない。法務大臣に「自分の任期中は死刑執行の書類に印を押さない」と言う人が居たが,これそのものは法の執行を妨げるものである。
 「人権」を盾にとって自分に都合の良いように法を曲げて解釈している人達が,「統治行為」を盾にとって自分に都合の良いように法を曲げて解釈している人達を批判するのであるから,どっちもどっちであり,法の施行が徹底されない訳である(第4章の「日の丸・君が代」の問題もこれに当たるか)。
 それゆえ,法律を厳しくすれば即治安が安定するというのは,いささか論理飛躍な感がある。法の施行を徹底する努力無しに法を厳しくすればよいと言うのは,徹底されない法が増えるだけであり,本末転倒である。
 ただ,商店街レベルでの「割れ窓理論」実践に警察が関与していることを権力への追従とすることについては,議論されるべきであろう。

第6章「安心のファシズム」
 「かつて生活に意味と安定をもたらしていた全ての絆から解放されて孤独に陥り,無力感と不安とでいっぱいになった者の目の前に,興奮を約束し,生活に意味と秩序とを与えてくれる政治的機構やシンボルが現れたとしたら,その人間は何もかもを受け入れてしまうのではないか」
 
 エーリッヒ・フロムのものとして著者が挙げるこのような言葉は,保守主義者から出てきても何の不思議もない言葉である。スローガンとなる言葉が違うだけで,政治的機構やシンボルが批判されるべき対象であるという考え方は同じである。
 著者は「現状も結局,過去の数世紀にわたって繰り返されてきた歴史の焼き直しということになる以上,フロムのような古典に当たることが,最も手っ取り早く,理解を助けてくれる」と言うが,それなら,資本主義も結局はプロテスタント発生以前の思想の入ったものであるのだが,そのことについてはどう答えるのだろうか。
 また著者は,資本主義が「大衆一人ひとりを孤立させ,無力感と不安の虜にさせた」,プロテスタントが「個人をたった一人で神に向かわせた」というフロムの言説をそのまま取り込んでいるが,資本主義と相反する概念は中世社会ではないし,プロテスタントもそこまで否定的に捉えられる考え方ではない。

 著者の説明(フロムの言説を要約したものに過ぎないが)では,カトリックは「教会とは個人と神とを結ぶ媒介であり,一方で個人の自由を制限しつつ,他方では個人を集団の構成要素として神に立ち向かわせていた」のに対して,プロテスタントは「個人をたった一人で神に向かわせた」ものであるとしている。しかし,それが日本において起こることについて,どのようにプロテスタンティズムと結び付くかが説明されていない。もともと日本にプロテスタントが根付いていなかった以上,どのように受け入れられるに至ったのか,その辺りは全く触れられていない。
 「フロムの議論はあくまでもヨーロッパを念頭に置いたものだが,この際,関係ない。地域性が多少の彩りを施すことはあっても,資本主義はどこまでも資本主義でしかない」となれば,自分の意見を補強する使い方ができるものなら何でも都合よく使おうという姿勢が見受けられ,著者の議論は既に御都合主義的になってしまっていると言える。

 「敢えて日本の特殊性を持ち出すなら…(中略)…教育現場での日の丸・君が代の強制のように,かえって伝統への回帰を求める主張が強まっていることだろうか」と言う部分を見ると,日本はプロテスタント的要因からは離れたものとなるではないかと思われる。「武士道を以て社会ダーウィニズムを受容した」から,現在の日本はプロテスタンティズムの賜物(であるところの資本主義の賜物)であるというのは論理飛躍してはいないだろうか。
 また,プロテスタンティズムが資本主義と結び付いて,人々を圧迫するものでしかないのなら,福祉大国として知られるスウェーデンは何故プロテスタント国家であり続けるのか説明が付かないのではないか(「伝統的であることから逃れられなかった」ルター派ではあるが)。

 著者の想定しているモデルはこのようなものだろうか。
 個人の自由をある程度奪って集団の構成要素とした伝統的社会(「生活に意味と安定をもたらしていた全ての絆」,カトリック)→伝統的束縛からの解放(ルネッサンス→強力な有産階級→資本主義,プロテスタント)→大衆一人一人の孤立(「孤独に陥り,無力感と不安とでいっぱいになった者」)「生活に意味と秩序とを与えてくれる政治的機構やシンボル」の登場(「新自由主義と新保守主義がセットになって成立しているグローバリゼーション」)→「何もかもを受け入れてしまう」(自由からの逃走,「安心のファシズム」)

 G−W.ブッシュ氏(Jr.)と小泉純一郎氏とに共通点が多いことを著者は指摘する。
 「ブッシュ大統領は親の七光りによるベトナムへの兵役を回避した過去(ベトナム従軍の可能性のないテキサス州兵に入隊)が指摘され,小泉首相はと言えば,慶應義塾大学在学中に婦女暴行事件を起こしていた疑いがあるとして,二〇〇四年三月には東京地裁に損害賠償請求の訴えまで起こされている。原告は日本テレビ出身のジャーナリスト・木村愛二氏で,“日本国民として計りがたい屈辱と苦悩を強いられた”という主張である」
 まず,ブッシュ氏については,「要領良い人間」の可能性はゼロなのか,指導者としてならある種の要領良さも必要とされるのではないのか等々,様々な疑問点を考慮した上での論法とは思えない。ただただ,ブッシュ氏を批判する意見を採り入れたいだけのものである。
 また,小泉氏に対する指摘などは,「疑い」のレベルであり,婦女暴行事件が事実であったとは認定されていないし,損害賠償請求の訴えに至っては,架空請求の手段としても使われるレベルの問題でしかない。また,著者はブッシュ氏や小泉氏について色々経歴を暴露するのだから,原告となった木村氏についても経歴を明らかにするべきであった。そして,訴えられていることが小泉氏が「首相としての資質に欠ける」要因であるというのは,論理飛躍と言うよりも二重基準であろう。
 「いずれも世襲政治家だ。意味不明の発言を繰り返すブッシュ大統領を揶揄した『ブッシズム(Bushisms)』という本が全米でベストセラーになり,ネット上に立ち上げられた同じタイトルのサイトが数千本を数えるという話は有名だし,小泉首相ほど失言や迷言を重ねた宰相も前代未聞である。二人の言語表現は複雑な事象を短いフレーズで単純化してしまう点で共通しているが,それ以上に『誠意』とか『真心』『責任』『思慮』『深み』『呻吟(※しんぎん)』などといった要素の一切合切が,決定的に欠損している」
 数千本のインターネットサイトのうち,著者が批判した「2ちゃんねる」的なものはどれ位あるのかと言うことは考慮されるべきであるし,小泉首相の失言迷言度はどこかの石川出身宰相よりはましであると思う。
 「複雑な事象を短いフレーズで単純化」することは,小泉首相就任当時には,「分かりやすい」ものだと魅力として理解されていたのではなかったか。「誠意」,「真心」等の欠損は自民党政権の首領に共通していることであり,小泉氏には最初から欠けていた。
 この本では小泉氏の「迷言」として紹介されている,平成13年5月場所の優勝力士貴乃花関(当時)に,賞状を読み上げた後かけた一言「痛みに耐えて,よく頑張った,感動した」は,当時名言とされていた。政治的評価が変われば発言の捉えられ方も変わる良い例である。
 これらの批判が全て的外れであることに,著者は全く留意していない書き方をしている。所詮ブッシュ氏も小泉氏も,それまでの伝統的な支配者とあまり変わることがない。ただ,この2人は発言がストレートでサービス精神に溢れていて,深慮遠謀に欠けるため,「迷言」とされる発言が多く見受けられるように感じるだけの話である。

 この指摘の後,「保守系政治家たちの言葉のすさみ方は,以前にも増して凄絶だ」として「思想信条以前の暴言」が幾つか挙げられているが,以下の2人の場合,言葉の使い方に問題があるだけである。
 竹中平蔵氏の「(ETF=株価指数連動型上場投資信託は)絶対儲かりますから。皆さんもぜひひとつ」,これは「私は絶対儲けます。皆さんもどうですか」と言えば何ら問題のある発言とはならなかった。「自分は絶対に儲ける自信がある」が「絶対に儲けられる」になり,「絶対儲かります」になってしまったのであろう。言葉の使い方の甘さが指摘されるが,「思想信条以前の暴言」とは到底言えない。
 麻生太郎氏の「(創氏改名は)当時の朝鮮人が望んだことだ」,これもこれだけでは問題発言とはならない。これそのものは(背景に色々と複雑なものを抱えていて,「望み」そのものが仕組まれていた可能性を抱えてはいるものの)歴史事実であり,暴言とするにはどのような文脈で言ったか等,思想が絡まなければならないため,これも「思想信条以前の暴言」ではない(思想信条以後の問題となる可能性は含むが)。

 ファシズムというとこの人なのか,ウンベルト・エーコ氏の『永遠のファシズム』の内容を整理したものとして,「原ファシズム(Ur-Fascismo)」ないし「永遠のファシズム(fascismo eterno)」(「ファシズムの典型的特徴」のことである)の14の特徴が述べられている。
 エーコ氏の主張については,和田氏訳本を直接当たる方がよい。著者のまとめには著者の見解が混ぜ込まれているので,エーコ氏の言説をそのまま知るには不適当である。
 さてこの本,和名は『永遠のファシズム』であるが,イタリア語名は“cinque scritti morali(5つの道徳的書き物:訳者解説を借りれば[五篇の「モラル」に関する考察])”で,「永遠のファシズム」は5つのうちの1つである。ファシズムを語る上では「永遠のファシズム」のみでよいのかも知れないが,できれば他の4つも取り入れて欲しかった。
 それはともかく,「日本の現状は,このうちいくつ当てはまっているだろうか。おそらくは全部である」と著者は指摘するが,実はこの14箇条,民主党はおろか日本共産党にも社会民主党にも全て当てはまる。何のことはない,日本は右も左も昔も今も原ファシズムの賜物なのである。
 こう言えば,例えば第4の特徴を取り上げて「批判は受け入れている」とか,第5の特徴を取り上げて「人種差別などしていない」等,誰もが反論の余地を感ずる。しかしエーコ氏は,第4の特徴については「原ファシズムにとって意見の対立は裏切り行為」であり,第5の特徴については「余所者排斥」がスローガン(故に人種差別主義)であるとしているのである。このようにしてエーコ氏の挙げる特徴を精査していけば,右も左も過去の日本も,この特徴から逃れることは容易でない。
 誤解を恐れずに言ってしまえば,日本の戦後民主主義とて原ファシズムの要因を多分に持っている点で批判の対象となるのであろう。

 著者は上の指摘から,2004年に至って「この国の政府は再び,あからさまな思想統制を開始した」として事件例を挙げる。
 「東京・西荻窪の公園の公衆便所にラッカースプレーで落書きをした二十四歳(当時)の書店員が建造物損壊容疑で起訴され…(中略)…懲役一年二ヵ月,執行猶予三年の判決」については,「差別落書きの類ではない」,「公衆便所の壁面に,“戦争反対”“反戦”“スペクタクル社会”と書いた」と言うが,だからどうなのか。差別落書きは駄目で,戦争反対と書くのは許されるとでも言いたいのか。刑法には落書きの内容について規定されていないし,書かれる側からしてみれば,差別落書きだろうが反戦運動の書き物だろうが,消す手間は同じである(特に公衆トイレなら,特定の思想に関する書き物は残されるべきではあるまい)。
 「三多摩地区の反戦住民団体“立川自衛隊監視テント村”のメンバー三人が警視庁公安部と立川署に逮捕され…(中略)…自衛隊立川東駐屯地の東側にある官舎で,イラク派兵反対を呼びかけるビラを配布した活動が,住居侵入罪に当たるとされた」については,「額面通りに受け取れば,飲食店などがメニューをポスティングしても犯罪である理屈」というお決まりの反論が付いている。これは,著者の指摘が当たらずも遠からずである様だ。ただ,「自衛官たちに戦争反対を訴えたから,彼らは捕まった」は,犯罪行為を構成している以上,そう見えるだけかも知れないことは付け加えるべきである。
 「社会保険庁目黒社会保険事務所の係長が東京地検によって起訴された…(中略)…三度にわたり日本共産党の機関誌『赤旗』の号外を配布したことが,国家公務員法の定める政治的行為の制限に違反したとされ」た事件については,「号外を配布した日は,いずれも日曜や祭日の休日だった」から,「休日の政治活動も犯罪とされるなら,公務員には思想信条の自由はまったく認められないことになる」と批判するが,配っているのが自民党の広報誌だとすれば,著者から擁護されるだろうか。この批判をそのまま受け止めるのには無理がある。「一方で自民党郵政族の大票田と言われる全国の特定郵便局長たちが罪に問われる可能性は万に一つもない」となっては,近畿郵政局に絡む選挙違反事件で特定局長が逮捕されたことはどこに行ってしまったのかと言いたくなる。彼らとて「罪に問われる可能性は万に一つもない」とは言えないのである。

 まとめの章に入って,著者の考え方が実はある種の固定観念に基づくものなのではないかと思われてくる。ファシズムは権力機構の専売特許と思われているかも知れないが,状況によって権力機構となり得る組織には,その萌芽が存在してもおかしくはない。なので,野党でもファシズムの賜物であり得る。
 例として思想統制を挙げよう。これについて逆説的ではあるが,「“思想統制をしようとする思想”をあらゆる手段で否定しようとする」ことが思想統制に当たる以上,現政権の専売特許ではないと言える。何故なら,思想統制への対抗自体は人権を守る上で重要なのだが,この考え方には「思想を統制する」部分で,批判している対象の思想統制と同じものを持っているからである。
 日本が原ファシズムの賜物であることは既に述べた。もしかしたら,原ファシズムは「和」の思想と底流部分で共通するところが多いのかも知れない。だとすれば,日本がファシズムから逃れるには,現政権への抵抗では足りないのではないか。『安心のファシズム』は容易に「『安心のファシズム』のファシズム」を生み出す可能性を秘めている。

 評価:評価対象外;日本ではファシズム批判もファシズムだと言われる状況をよく表しているものだと思う。
 権力機構はやることなすこと全て悪であるのかという疑念が離れない。自分に都合の良いことなら,法律に関係なく善とする傾向も見受けられる。
 著者に敵と見なされれば,あらゆる経歴を洗われ,全て批判の材料となるのである。公権力がこのようなことをすれば,著者の猛批判にさらされるのであろうが,著者レベルの人間は何をやっても良いのかな。
 このような内容ならば,西村眞悟衆議院議員の名前の漢字を間違え続けたのはご愛敬か,それとも意図的か。


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第4章  第5章  第6章

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