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※この内容は,雑論8−3「傲慢な人に「傲慢」と言われる」が下地になっています。内容の重複などあるかも知れません。
「ことば」について考える際には,「ことば」自体の意味を規定しなければなりませんが,そもそも「ことば」は我々が普段使うような音声言語のみを指す概念ではないとするのが一般的と言えましょう。つまり,発声方法の差によって異なってくる音声の組み合わせによって表現されるもの以外にも,手振り身振りなどのジェスチャーや発声器官以外で発生される音による表現等も含まれるということです。
もちろん,音声言語を用いてコミュニケーションを取るということについて,それが人間特有のものであるという事実についてそれを明確にする意味合いで,音声言語を別の表現で表すことは,有用と言えましょう。
では単に音声の組み合わせによって構成される音声言語,またそれによって構成される意味の固まりを何というのか,それにふさわしいのは「言語」という語でしょう。
しかし,我々が普段用いている「言語」の音声言語の部分を取り出して研究することは,言語学(特に音声学)において有用であるとしても,「言葉」そのものの機能を考える材料とはなりません。なぜなら,我々は「ことば」や「言語」によって物事を伝える際に,必ず「記号化」という作業を行っているからです。音声の部分のみで「言語」が構成されているわけではなく,「ことば」や「言語」の重要な機能の1つである「記号化」という作業を含めたものとしての言葉を考えなければ,「ことば」を多角的に考えることはできないのではないかと思うのです。言語は,主体が見た世界を叙述し他者に伝える媒体だったのではなく,世界の見方そのものを生み出す根本的な媒体だった*1「カルチュラル・スタディーズ」の文化論的転回の最初の宣言が,「言語論的転回」であったことについて,言語の特徴がこのように述べられています。つまり,言語は単に内容を伝える媒体としての機能(前者)のみならず,物事を記号化する機能(後者)を持っている媒体なのです。
大まかに言えば,記号化とは物事をある範疇の中に限定させること,あるいは,その範疇を規定することと言えましょうか。「記号化」という単語自体がすでに記号化されているものであり,「正確に」定義することは難しいものですので,これ以上突っ込むのは止めておきましょう。
およそ物事が表現される際には,必ず記号化という作業を伴っています。ヴィトゲンシュタインが「およそ語りうることは明晰に語りうる」と言っているのは,表現することのできるものは,表現を工夫すれば,あらゆるものについて,明確に表現することができるということを言っていると考えるのが適当でしょう。「語り得ないものについては沈黙せねばならない」しているのは,記号化できないものについては語ることすらできないということなのでしょう。以上のことを総合してみると,語りうることというのは,記号化できるものとすることができるでしょう。
「自分の中にある何かもやもやした気持ち」は,言葉化された時点で,自分の中にある「他の気持ち」とは区別することができていますから,この段階で記号化ができています。ですから,最終的には明確に語りうるものです。もちろん,言葉を尽くせば,という条件が付きますので,実際問題として明晰に語られるものになるかどうかは別問題です。
ここで分かることは,「記号化できる」ことと「明晰に語られる」こととは等価ではないということです。「伝達手段」と「伝達されるもの」とが分離可能なのかどうかということも1つの問題です。いわゆるメディア学に関して言えば,この2つは分離可能なものとして捉えられていると言えましょう。書物からラジオ・テレビやインターネットに至る伝達手段について考えてみると,伝達手段は伝達されるものである「表現されているもの」の本質に影響していないのです。表現されているものの表現手法は,伝達手段によって規定されています。書物ならば文字・絵・記号などの可視情報しか織り込むことができませんし,ラジオは可聴情報のみ(FMの文字情報はもちろん除かれます)ですし,テレビやインターネットはその両方を織り込んでいます。しかし,表現手法が記号化の作業そのものに影響を与えているのではありません。記号化の過程で,ラジオの場合絵を言語情報に置き換えたり,書物の場合音声情報を文字情報に置き換えたりという作業は行われていて,その際に「再記号化」とでも言うべき作業は行われていますが,その記号化を行っている「言語」そのものに関わる影響はないのです。
ここまで踏まえた上で「テレパシーとインスピレーション」の話ですが,荒唐無稽と片付けるのは簡単です。実効性がないので,荒唐無稽なのは分かっているのですが,それ以上に,論理的に無理があると考えられるので,その点を衝くことにします。
“「テレパシーやインスピレーション」が発達していれば,「言葉」(これ自体,Kellyの表現の中で揺らぎがあって分かりにくいが,媒体としての「ことば」を指す)が不要になる”という考えについて,私が「間違い」と言い切った理由は,言葉が「世界の見方そのものを生み出す媒体」であるからです。上でも述べているように,言葉は単に情報伝達の媒体としての役割だけでなく,記号化の主体としての役割も果たしているという点で,「テレパシーやインスピレーション」よりも果たす役割の範囲が大きいのです。Kellyは“「テレパシーやインスピレーション」に記号化の役割がある”とは書いていないので,読む限りでは,情報伝達媒体を「テレパシーやインスピレーション」にしたところで,記号化は「ことば」によってなされることになります。
こうなると問題は明らかです。記号化の段階で,「ことば」が使われているのですから,どれだけ情報伝達媒体が発達しようとも,それだけでは「ことば」の抱える(Kellyが言うところの)弱点を克服することができないのです。
Kellyの挙げた例を取り上げてみましょう。Kellyは「テレパシーでコミュニケーションがとれたとしたら、きっともっと正確に感情やイメージあらゆるものを伝えることができたでしょうね。映像や情報だけでなく、自分と同様の感じ方まで伝えることができたでしょう」*2と言います。
まず,「自分と同様の感じ方」とは一体何によって示されるのかが明らかではありません。感情というのを脳の中のニューロンの関係とし,シナプスを流れる電流量のデータそのものを相手の脳内で再現することと考えることにして,その上でどうなるかを検討しますが,このこと自体,検証済として前提条件にできないものなのではないでしょうか。実際に脳内に電流を流すなどして,同一の条件を2体以上の個体に対して再現させることで検証できるのでしょうが,現時点で個体差がないということは証明されていません。つまり,特定の電流量が個体の脳内の特定の部分を流れたとして,発生する感情の種類や強さが全く同じであるとは証明されていないということであり,そうならば,「自分と同様の感じ方」はどのようにして相手に伝えられるのかという問題が発生することになります。
この段階で,分かっていなければならない情報があまりにも多くあることに気付かされます。「自分と同様の感じ方」を相手にもさせるために,どのような情報及びその強さが必要となるのかということ,それ自体をどのようにして知るのでしょうか。こうなると自分から「テレパシーやインスピレーション」を送る前に,相手からそれに関する情報を「テレパシーやインスピレーション」で受け取る必要があることになりはしないのでしょうか。しかも,もしそれで分かるとするならば,相手は自分の感じ方をすでに知っている*3ことになります。これは論理的に無理が生じているのではないでしょうか。無理を生じなくさせる方法の1つは,個体差を認めないことですが,それでも,使用言語による差がどのように克服されているのか言及されておらず,無条件で克服できるとは考えにくい。
ここで,使用言語による差を問題視するのは,例えば言語Aを母語及び通常使用言語とする者と言語Bを母語及び通常使用言語とする者の間で,全く普遍的な価値基準を共有しているという考え方が果たして成立するのか,という疑問によるものです。さて,Kellyによれば,テレパシーでコミュニケーションを取れるのはいわゆる超能力者と呼ばれる限られた人達なのですが,同時に「本当は私たちにもそういう能力が備わっていたりするのだろう」とし,さらに「それをどのように訓練して能力を発揮することができるのか」とも言っています。
テレパシーでコミュニケーションを取ると言えば,アニマル・コミュニケーションが思い浮かびます。アニマル・コミュニケーションも「動物と意思を疎通させる」建前であり,媒体は言語ではなくテレパシーです。何の能力もない一般人でも,動作や表情を読み取ることで,「動物の意思」を感じ取れるような気もしますが,アニマル・コミュニケーションの意思疎通手段はそれではなく,あくまでもテレパシーなのです。
アニマルコミュニケーションでは,テレパシーを「言語を使わない異種間コミュニケーション」*4と規定します。しかし,「確実にペット達はあなたにテレパシーを送っていて、あなたはそれを直感や第六感で受け取っているのです」*5とまで言われると,テレパシーの媒体としての意味を考えざるを得なくなります。そもそも,言語でもそうですが,我々はコミュニケーションを取る時に,自分が規定する特定の受信者のみに発信している気になっていないでしょうか。つまり,仮にAとBとして,AがBに話をするとき,AはBに向けてのみ情報を発しているという錯覚に陥っていないかということです。これは,これまでのメディア論やコミュニケーション論が陥りがちだった(陥らざるを得なかった)悪癖なのですが,例えば音声言語は音声が届く範囲であれば誰にでもその音声情報は届いているので,Aの発話がBのみに届いているという状況は,非常に限定的なものでしかないのです。
実際のところ,Aの発話はB以外にも,音声が届く範囲であれば届いているのですが,Aの発話に興味を示さない(あるいは理解できない)者はその内容に留意せず,Aの発話によって何らの影響も生じないことが大半なので,その場限りで見ると,あたかもAの発話がBのみに届いているように見えるだけなのです。*6
だから,「自分の伝えたいことすべてを「ことば」に託すことなどできない」から,「ことば」の代わりにテレパシーをコミュニケーションの手段とする場合でも,この問題(意図する相手以外にも伝達されうる媒体の性質)に関してどのように考えるのかが表明される必要があります。テレパシーによるコミュニケーションでは,送信者が意図する相手にのみ情報を届けることができるのだ,と考えるのは簡単なことです。しかし,すぐに思いつく限りでもいくつか問題点を指摘できましょう。
まず,送信者が意図するとされる相手に情報を伝達する場合,何を以て送信者が「意図する相手」と「送信者が意図する相手」とが同一化されるのかという問題があります。これは現に目に見えている(視線が通っている)場合は問題とならないのですが,送信者が心に思い描く相手に伝達する場合は厄介なものです。極端な假定を挙げれば,受信者が一卵性の双子(いわゆる見た目で区別が付かないほどそっくり)のとき,送信者が「意図する相手」として思い浮かべた像が本来の受信者とは違う側の特徴を備えていた場合,「送信者が意図する相手」が取り違えられる可能性は,何によって排除されるのでしょうか(「名前」は何らかの記号によって示される必要があるので,答えにはなり得ません)。
また,送信者が「意図する相手」として思い浮かべた像が数十年前のものであり,実際の受信者の像はそれとはかなり変化していた場合などはどうでしょうか。
これ自体,対象が「記号化」されていなければ,同一化が為され得ないことを示しているのではないでしょうか。つまり,「記号化」の操作を通さずに,どのように対象を同一化するのかという問題が,どのように解決されるのかということです。送信者の目に見える(視線が通る)限りにおいて伝達できる,とすれば問題は解決できそうですが,その場合,視線が通らなければどれだけ近くにいてもコミュニケーションは成立しないことになります。後ろ向きやブラインド越しではコミュニケーションが取れないなんてことになると,音声言語より不便な状況が出現します。さらに,受信者が送信者をどう特定するのかというプロセスにも着目するならば,受信者も送信者が見えていなければ送信内容が送信者のものであることが分からないことになり,この假定は非常に絶望的なものであることは明らかでしょう。つまり,この假定の下では,テレパシーによるコミュニケーションは,言語によるコミュニケーションよりも不便であるということです。
これらを解決する1つの手段として,「霊」が考えられましょう。しかし,ほとんどの場合意味不明になります。一見したところ,「霊」とテレパシーでコミュニケーションを取る場合,上記の問題はかなり解決されているように思われます。しかし,現在知られているコミュニケーションでは,やはり同一化の問題が残ります。よく見られる憑依などは,いかに「それなりなもの」であったとしても,同一化に関して確定的な証拠があるものはありません。せいぜい「それっぽい」の度合いが強まる程度です。つまり,ほとんどの場合,誰の「霊」であるかという問題は,「霊」本体に尋ねることによって解決されますが,同一化はすでに為されたものとして扱われており,「霊」が本物か否かを問うことがないのです。また,問うたとしても,その問答によっておこなわれるのは状況証拠の積み重ねに過ぎず,「それっぽい」の度合いを強める以上の役割を果たさないのです。
この理由は簡単です。「霊」自体を調べる方法,つまり,ある個体から遊離した「霊」が,その個体から遊離したことを示す証拠を調べる方法がないからです。テレビなどで示される場合,「霊」と個体との同一性は,個体の外見的特徴をそのまま「霊」が備えていることによって保証されます。もう1つの問題は,媒体がテレパシーであれ言語であれ,「誤解」が何によって生じるかが明らかにされていないことです。有名なHallの"Encoding-Decoding"モデルでは,情報がどのようにエンコードされようと,発信者がどれだけ受信者に影響力を及ぼすことができようと,受信者のデコーディングのメカニズムを直接操作することはできない(あくまでも受信者が発信者に合わせるのであって,発信された情報を直接受け取るのではない)のですから,誤解は「コードの違い」によって起こるのです。ならば,情報伝達手段がどうであれ,「コードの違い」をどのようにすり合わせるのかを議論しなければなりません。
Kellyは「言葉の意味することや、イメージすることは、決して1つではない」と言うのですが,それこそ「コードの違い」であり,その時点で,「言葉は変幻自在」なのです。Kellyの言いたいことは「誤解をなくす」こと*7ですから,コードを画一化することを奨励するのですが,その時点で「言葉が死ぬ(活力を失う)」ということにKellyは言及していません。「ことば」がその活力を失った時,我々は「ことば」を活用することによって得られているものも失うのですが,果たしてそれはどのくらいの範囲に及ぶものなのでしょうか。テレパシーによるコミュニケーションの最大の欠点は,誤解が生じないコミュニケーションなのに「閉じている」ことです。
どういう事かというと,「ことば」の代わりにテレパシーを媒体としたコミュニケーションにおいても,伝達は発信者(あるいは受信者)の次元で自己完結してしまっていて,「情報が伝わったかどうか」は問題とされていないか,情報が伝わらなかったケースが取り上げられていない故に,コミュニケーションとしての有効性があらかじめ保証されてしまっているのです。
「閉じている」とは,情報が発信者の手を離れた時点で改変可能なものとなっているため,発信者の世界が実際には受信者に開かれていないということを指しています。受信者は発信者の情報をそのまま受け取っているのではなく,発信者によってコード化された情報を受け取っているに過ぎず,また受信者自身は,発信者のコードを参照しながらであるとしても,受信者のコードによって読み解くというHallのモデルによれば,発信者のコードを完全に理解していなければ発信者からの情報を「正確に」読み解くことができないという点でもこのコミュニケーションは「閉じている」のです。
そもそも,「情報は伝わらない」*8ので,全てのコミュニケーションは「閉じている」とも言えるのですが,そうならばなおさら,テレパシーによるコミュニケーションもその例に漏れず,これまでの「閉じているコミュニケーション」の批判をし,その欠点を埋めることができると主張しながら,結局自らも「閉じている」という矛盾を含むのです。
Kellyは「開かれたコミュニケーション」,すなわち情報が発信者の手を離れても改変されることなく受信者に届く世界を夢想していますが,媒体が「ことば」からテレパシーになったところで,「ことば」が「いかようにでも変形(解釈)」されるように,情報そのものが「いかようにでも変形(解釈)」されるのですから,それのみで「開かれたコミュニケーション」は成立しません。情報が変形されるならば,そのコミュニケーションは「閉じている」ので,逆の「開かれたコミュニケーション」のためには,情報が変形されないことが必要です。ここで,情報が変形されないためには,伝達体系の再構築も必要ですが,情報の変形を許さないような価値体系の存在も必要になります。そしてその価値体系とは,一神教的な,画一的なものにならざるを得ません。価値観が異なれば,同じ情報に対しても,自然と異なった解釈が可能になってしまうからです。
この価値体系の下では,自分の発する情報は変形されませんし,相手から受け取る情報は相手が発したそのままのもので,誤解など生じようはずがありません。但し,一見便利に見えるその価値体系ですが,「ことば」と同じように,画一化した時点でその価値体系は活力を失って死ぬことになってしまいます。
これは単なる感想なのですが,Kellyのweblogを読んでいると,「宇宙エネルギー」とか「真理」とかいう言葉がよく出てきます。全く説明なくそのような言葉を使うのもさることながら,そのようなものに假託すること自体,一神教的な「普遍的価値」の存在を信じているのではないかと思われます。それ自体は問題ではないのかも知れませんが,主張する「普遍性」が「自分を基準とすること」とさして変わらないという,ある種ナショナリズムにも通じるような身勝手さ(自分の主張が理解されないことが発端となっていることからしても)には,辟易するほかないのですがね。
*1 佐藤健二・吉見俊哉編『文化の社会学』,有斐閣アルマ,2007年,p.7.
*2 Kelly-「限られた世界」記事内での発言,以下同記事からの引用。
*3 こちらが「相手と同様の感情」に言及する時,相手の感情のメカニズムが分かっていなければならないとすると,同様に相手が「こちらと同様の感情」に言及するならば,相手はこちらの感情のメカニズムが分かっていなければならないことになります。しかしこれは,いつ情報が交換されているのかが不明で,「鶏が先か卵が先か」式の無限循環に陥ってしまいます。
*4*5 animalcommunicate.com内の説明より。
*6 例えば電車の中で携帯電話を使っている時,自分の発話は電話の相手だけでなく,自分の音声の聞こえる範囲内の人全てに届いてはいるのだという事例を考えてみると良いかも知れません。
*7 Kelly-「限られた世界」記事のコメント部分参照。
*8 西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』,岩波新書,2007年,pp.10-14.
鳩山邦夫が法務大臣に就任して以降,死刑執行の概要が報告されるようになり,改めて死刑の存在を知り,考える機会が得られたわけですが,死刑の必要性については意見が分かれているようです。
死刑が必要であるという根拠の主なものとしては「遺族感情」*1と「犯罪抑止効果」が挙げられます。しかし,当然ながら「全ての」被害者/遺族が死刑を求めるわけではありませんし,全ての犯罪を抑止できるわけでもありません。また,法定刑に死刑が含まれない犯罪の被害者/遺族が死刑を求めることもあるでしょうし,死刑が無くても犯罪抑止効果があるかも知れません。それは押さえておく必要があるでしょう。
私は,現時点の日本において死刑を廃止することには反対しています。理由は現状を鑑みるに,死刑を廃止することによって,日本からますます社会から「死」や「殺」の存在が隠蔽され,「死」や「殺」について考えることがなくなるのではないかと懸念するからです。
死刑廃止論者の中には,とりあえず死刑の執行さえ止まれば良いというような,死刑執行の停止のみを目的としているとしか思えない者もおりますが,これまでの法体系を考えるに,死刑は「最も残虐な刑罰ではない」ことを認識しておく必要があるでしょう。
例えば,現在の日本には「肉刑」(肉体の一部を切り落とすかその機能を奪う刑罰)がありません。古代中国の法体系では,肉刑よりも死刑の方が重いのですが,今は肉刑は死刑よりも残虐であると考えられているようです。ここからも,現在の死刑の位置付けは考えられる必要はあるでしょう。先にも述べたように,私が死刑廃止に反対する理由は思想的なものなので,「死」や「殺」を隠蔽している現在の死刑執行体制が「望ましい」ものとは思っていません。拘置所の奥深く,一般の市井に住む者が決して目にすることができないような所で,ひっそりと死刑を執行*2し,最近でこそ法務省が執行状況を報告していますが,これまでは死刑が行われたことすら知らされることがないという,徹底的に「死」を隠蔽した扱いが為されています。このような状況下では,私が死刑に期待する効果は非常に限定的で,死刑が存在するということによってしかその効果が期待できないのです。
王雲海は次のように言っています。
もし死刑の現場を見ることで「死刑支持率」が下がるのだとしたら,これまで日本人が如何に「死」や「殺」から逃げていたかが分かろうものではないかと思いますが,他人任せにしている限り,死刑を,引いては「死」や「殺」を身近には感じられない可能性もありますので,何とも言えない部分はあります。また,2008年には死刑執行の様子がラジオ放送されたらしい(関西では放送されなかった)ですが,こういった試みも十分に為されるべきだと思います。死刑がどのようなものであるのか,実態を知ることも,この論議の前提としては大事なことなのですから。
今の日本では,国民の八割近くが死刑の存置に賛成しているが,これほど高い死刑支持率を保っているのは,日本での死刑執行は行刑密行主義に沿い,極めて密室的なやり方で行われ,ごく少数の関係者以外は誰も死刑執行の場面や状況を見ることも,知ることもできないからであろう。もし死刑囚に対する絞首の生々しい場面や過程を一般国民が見聞きできるようになったら,日本での死刑支持率はかなり下がるのではないかと筆者は思う。*3 さて,死刑は非常に矛盾に満ちた刑罰ではないかと思います。
「社会」という視点から見れば,その構成にとって脅威となる者(反社会的分子)の排除において最も効果的な手段が死刑(最もコストが低い社会からの永久追放:「社会は間違えない」という前提の存在と生かすために物資を費やす必要がないこと)であり,また,「犯罪抑止効果がある」とも言われています。しかしこの考え方も問題があり,最近の哲学では無批判に「社会は間違えない」とは言いませんし,「犯罪抑止効果」についても「死刑があろうとなかろうと,社会構成員の大多数は罪を犯さない(ルールを守る)」ということは忘れられているのです。そして,刑罰としての死刑が持つ矛盾は次の2点でしょう。
- 刑罰である以上,「殺してくれ」と言う者に死刑を与えるのは,本来刑罰という願望を制限するものによって,それを制限されるべき者の願望を積極的に叶えることになるということになるため,「死刑になりたい」という「凶悪犯」死刑を与えるのは却って無意味になります。
- 日本では,死刑は「更生不可能な者に対して」下される場合が多いのですが,犯行もしくは判決以後,人間的更生を遂げた者でも死刑の執行停止が行われることはありません。ここでは,更生の可能性があれば死刑が回避される(場合がある)のに,更生した者を死なせるという矛盾が存在しています。これは日本における死刑執行に関する思想が持つ矛盾かも知れません。
ただ,本来刑罰は行為と結果に対して与えられるべきものということなので,「社会的制裁を受けた」はともかくとして「反省の態度」や「後悔の念」があるからといって刑罰を軽減するのは,法治体系としてあるべき姿とは言えないとも考えられるのです。
以上のように考えてみると,そもそも「死刑廃止論者」と「死刑存置論者」という二分法に無理があるのです。死刑存置論者には,単に死刑廃止による影響を心配し,影響が発生しない死刑存置を主張する者も居るでしょう。また,死刑の意味づけを考えれば,死刑に期待する効果が他の刑で得られるならば死刑を廃止しても構わないと考える者も居ます。逆に死刑の積極的運用を主張する「死刑推進論者」とでも言うべき者も居ます。もちろん死刑廃止論者にも種々の考え方があり,1つに括ることが難しいのですが,「死刑への反対」と「死刑以外でもその効果が得られる」という2つに大きく分けられるでしょう。そうなると,「死刑存置論者」の一部と「死刑廃止論者」の一部は連係できることになり,死刑の考え方を深めることもできるでしょう。
さて,私は死刑が「必ずしも無ければならない刑罰」とは考えていませんが,先にも述べたように死刑をすぐに廃止することには反対です。
死刑廃止論の弱い部分は,積極的に死刑廃止を根拠付ける意見を持っていないところです。まず,死刑が犯罪抑止力になっていないというのは,「死刑推進論者」のうち,死刑による犯罪抑止力を主張する者にとっては都合の悪い情報ですが,死刑による犯罪抑止力を根拠としていない人にとってはどうでも良い情報で,しかも死刑廃止論にとっては積極的な理由になっていません。
また,「命を奪う権限は誰にもない」ことと「国家による殺人」とが矛盾しないのも大きな問題です。この考え方そのものが単なる「人間絶対至上主義」とでも言うべきものであり,個人の上に社会を置く考え方から見れば,「個人には他人の命を奪う権限はないが,個人の集合体としての社会は,一定の手続きの後に個人の命を奪うこともできる」と考えることは可能となるのです。森巣の様な手合いは「死刑は国民の名でおこなわれる国家による殺人」とまことしやかに言い,一見「死」を現前させているように思われますが,言っていることは死刑になる側の結果のみを見た議論です。しかもそこでの「殺人」は単なる「文字通りの意味」でしかないのに,それを刑罰の対象となる「殺人罪」の「殺人」と何の根拠もなく結び付けています。これは感情的な効果を狙う以外何の効果もないものです。つまり,このような主張は感情論でしかなく,「死」や「殺」の意味を考えるものとはなっておらず,結局のところ「死」や「殺」を隠蔽する思想の下に為される議論の類なのです。
さらに森巣は殺人を「自然犯罪」(法律で規制されなくてもやってはならない行為)と位置付けていますが,これこそ近代国家以後の非伝統的な思想によるものです。そもそも「法律によらなくても犯罪と思われているもの」自体が,結局は社会の了解によるものでしかなく,如何にそれが人類に共通であるかのように思われているとしても,それは決して「自然」ではないのです(種々の前提あっての「自ずから然り」でしかない)。我々の認識が如何に変わろうとも不変の法則ということではない以上,これを「自然犯罪」と呼ぶこと自体奇妙なのです*4。
それをあたかも「自然犯罪」が自然発生的に存在し,「法定でなくても“犯罪”である」ということを「天賦のもの」であるかの如く考え,あまつさえ無根拠にそれを「国家による殺人」と「殺人=犯罪」とに結び付けたのが死刑廃止論の主流*5です。このような死刑廃止論は,犯罪者をとにかく社会から排除すれば良いと考えるような死刑存置論と同じく,害悪でしかありません。また,死刑廃止を「世界の趨勢」と考え,死刑廃止の根拠の1つとする向きもあるようですが,これもあまり感心できない主張です。この考え方では「世界の趨勢」が死刑存置に向いているならば,死刑を廃止しないのが正しいことになります。これは単に「長いものには巻かれろ」ということでしかなく,正しい(と考える)ことは「ひとりでもやる」という主張とは矛盾します。死刑廃止を「世界の趨勢」と考える人は,「国家の軍備」も「世界の趨勢」である*6以上,憲法9条を守り非軍備の主張をするのはおかしいことになるのですが,そこではまた別の意見が持ち出されます。つまり「世界の趨勢」は,自らの主張を補強する手段に過ぎず,それ自体が自分にとって「使えないもの」である場合は口をつぐむだけなのです。
欧米で死刑廃止が進んでも凶悪犯罪が増加しないことについて,1つの理由が宗教的倫理観に求められることがあります。これを平たく(し過ぎて)言えば「超越的な視線」に対する恐怖でしょう。これがあることによって,人の行動は自動的に制限されることになります。また,必ずしもこれを宗教に求める必要はありませんが,「超越的な視線」に対する恐怖がないと,人の倫理性は低下していきます。「法律に違反してないなら何をしても良い」とか「法律のどこにこれをしてはならないと書いてあるのか」とかいう,法律によってしか行動基準を定めない考え方は,このような考え方から出てくる面もあるのではないでしょうか*7。
ただ,欧米の死刑廃止と日本の死刑廃止とが同列に論じられない要因は,一般的に「文化の違い」として片付けられる中に存在していることになっています。日本における宗教的倫理観は,主に佛教的倫理観によると思われますが,そこでは「超越的な視線」に対しての恐怖が,行為の結果に対してではなく,行為の思考に対して求められています。つまり,悪業はそれの因となる行為をした時点ではなく意識した時点で積まれると考えるのです。これが違いであると考えられる向きもありますが,キリスト教の姦淫に関する考え方はこれと同様のもの*8を含んでおり,これだけが原因とも言えないでしょう。管見の限り,現状死刑廃止論を唱える者に「死」や「殺」の教育の必要性について説く例が見受けられません。死刑によって凶悪犯罪の現象が期待できないのが確かだとしても,死刑廃止によって「死」や「殺」の隠蔽がますます進むことは確かでしょう。死刑制度の存置によって人々の心が歪んでいるという主張もありますが,単なる死刑制度の廃止もまた人の心を歪ませるのではないでしょうか。
そもそも,死刑がなぜ「凶悪犯罪」の減少に繋がらないかということを考える必要があるでしょう。少なくとも日本においては,死刑が犯罪抑止力にならないことを意味しているのではありません。死刑が存在していても,「死」や「殺」が隠蔽されている限り,人を死に追いやる行為の罪悪に目が向けられることはないので,凶悪犯罪の減少に繋がる流れが出来上がらないのです。
このことについては,養老孟司が『死の壁』を出す前から言われているはずなのですが,死刑存置論者も死刑廃止論者も「死」や「殺」の隠蔽に躍起になっています。死刑存置論者は死刑の執行を他人に押し付け,死刑廃止論者は「死」や「殺」を徹底的に忌避するのみでそれについて考えることなく,現実に「殺」を司る職に在る者だけが精神的打撃を受け続けるのです。
「村野瀬玲奈の秘書課広報室」というWeblogの記事にこのような「公約」が挙がっていました。
「死刑の執行停止」と「無期懲役」に関してはそれなりに分かるものですが,やはり「死刑廃止」以後の対策について具体性が低いように思います。国民会議を設けたところで,参加が強制されないのでは,社会全体を巻き込んだ議論は期待できないので,国民的論議にはなりようがありません。それでいて死刑執行の方はすぐに停止させるのですから,結局「死」や「殺」を隠蔽する以上の効果は期待できないのではないでしょうか。
死刑以外の方法で犯罪被害者とその遺族を慰撫し支援する方法を社会全体で考え出すという作業を社会全体に経験してもらう。そのための機会(国民会議など)を設ける。ただし参加を強制してはならない。被害者、被害者遺族への救済を「死刑に頼らず」政策化するためのオープンな国民的論議を起こし、広く提案をつのる。
その作業を通して実際にその方法を見つけること、そして、それを政策として具体化する。
死刑についてすべての論点についてオープンな国民的討議を起こす機会をつくり、十分な時間をかけて討議する機会をできるだけ多く設ける。
一定期間、死刑判決と死刑執行を停止する法律を制定し、オープンな国民的討議を続ける。
無期懲役の現状を広く国民に知らせる。
そして,このWeblogの他の部分では「遺族感情を理由に死刑制度を肯定するなら、イラク人がアメリカ政府要人や司令官や兵士を殺すことも論理的には肯定しなければ筋が通りません」としていますが,死刑と死と殺人と復讐とを全て混沌の中に落とし込んで訳の分からないものにしておきながら,その責任を遺族感情という自らに纏ろわぬ者の根拠になすりつけて責任逃れをした類の物言いです。死刑存置論者が全て復讐を肯定している訳ではないので,これはそもそも筋が通っておらず,根拠のないデマの類でしかありません。いずれにしても,死刑推進論者はより積極的な死刑運用を求める必要を持っているものの,現状では死刑が執行されているので,このまま議論が進まなくても泰然自若としていられます。一方,死刑廃止論者は現状死刑の執行が続いていることに対する不満があるので,とにかく早く現状を変えたいという思いがあるのかも知れませんが,結論を急ぐあまり戦略が粗雑です。
国民的議論を巻き起こすには,死刑が最も顕著に表現している,犯罪者に対する「社会からの排除」という現状を見る必要があります。「刑罰よりも社会的制裁が重い」と言われることもあるように,日本では一度「犯罪者」と目されると,その後その人がどのように更生するか/その人をどのように更生させるかということには目が向かず,とにかくそれをトカゲの尻尾切りの如く排除してしまえば良いと考える傾向があるようです。
また,刑罰も「教育目的」である割には,教育効果に関係なく期間が来れば追い出すように刑務所から「排除」し,見向きもしないというのが現状ではないでしょうか。
さらに我々も,如何にして犯罪者を出さない世の中にするかということにはほとんど関心が無く,どうやって毎日「何事もなく」過ごすかということに興味が向けられているため,一度罪のペナルティを受けた者については,それを徹底的に排除することで,自分の身の回りを「綺麗に」保ちたいという欲望しか持っていないのではないでしょうか。個人的にはそれが許されるのかも知れませんが,積極的に社会に復帰しようとする「犯罪者」に対して社会としてどう向き合うのかを考える場合,排除するということだけでは済まないように思います*9。
最近たまに聞かれる高校への入学拒否なども,所謂「柄の悪い生徒」と「障害を持つ生徒」とでは対応の根拠が違っていると感じるかも知れませんが,根底にあるのは「何事もなく」毎日を送りたいという,自分にとっての「異物」を排除する論理なのではないでしょうか(これで単なる犯罪者論から社会構成の方向へ繋がった,…気になっています)。「被害者感情」と一口に言っても,その感情には2種類あります。1つは「受けた被害をそのまま加害者にも受けてもらいたい」という「復讐」の感情,もう1つは「同じ日の下で存在するのが嫌」とか「二度と社会に出てきて欲しくない」といった言葉で表されるような「排除」の感情です。
殺人事件で遺族が「死刑を求めます」と言った時,2種類の感情のどちらが出てきても,この言葉が出てくるのだということは押さえている必要があります。遺族が死刑を求めたとしても,それは必ずしも「復讐」の感情のみに拠っている訳ではないのです。死刑推進論者も死刑廃止論者も,この点に対する注意が足りないことが多いように思います。*1 通常は「被害者感情」と呼ばれますが,死刑を論じる場合,ほとんどのケースで被害者が死亡しているので,普通は「遺族感情」と呼ばれます。
*2 これを「殺人」とは称さず,死刑執行は「機械的に行われる」ことを建前としている筈なのですが,死刑執行(のボタンを押す)者が「人」であり,死刑囚も「人」の形をしている以上,死刑執行者が死刑執行を「死刑囚の命を奪う行為」と考えてしまうのも無理からぬことです。そして,ここにあるギャップが,死刑の問題点の1つであると考えます。
*3 王雲海『日本の刑罰は重いか軽いか』,集英社新書,2008,pp.219-220。
*4 この「自然犯罪」と呼ばれているものは,英語で"natural crime"となるようですが,これはせいぜい不文法と成文法の違いでしかありません。結局のところ社会的了解に基づくものでしかない以上,英語では"natural"と言えるのかも知れませんが,日本語では「自然発生的」ではなく「当然の」程度の意味と考えるべきです。単に「自然犯罪」と聞いた時に,そこまで理解できる者は少ないのではないでしょうか。
*5 アムネスティ然り,「死刑廃止を推進する議員連盟」の議員も然り。目的が「死刑廃止」でしかなくて,「如何にすれば現在死刑相当の罪を犯す者を減らすことができるのか」に対する意見がない(あるとしても空虚な=具体性のない意見しかない)のです。
*6 国軍/与党軍を持っている国家の方がそれを持たない国家よりも多い訳で,現状では国家は国軍/与党軍を持つのが「世界の趨勢」なのです。
*7 だれでも,情欲をいだいて女を見る者は,心の中ですでに姦淫をしたのである。(Matthew, 5.28)
*8 このような考え方の権化と言われるアメリカですら,キリスト教社会であり,「超越的な視線」に対する恐怖の土台はあるのです。
*9 当然前提として,受け入れられる者が積極的に社会に溶け込もうとする必要があり,社会の側の片務とする訳にはいかないでしょう。しかし,積極的に溶け込もうとする者を「異物」として排除するだけの社会で良いのかということではあります。参考
アムネスティ・インターナショナル日本:日本支部声明 : 死刑廃止を求める声明
http://www.amnesty.or.jp/modules/news/article.php?storyid=493
村野瀬玲奈の秘書課広報室:世界愛人主義同盟公約(5) (不定期連載) (人が殺された後に (2))
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1171.html
党治国家(一党独裁国家とも)においては,愛国は愛党に繋がる訳で(逆もまた然り,愛党は愛国に繋がる),如何にして人民に党を愛して貰うかというのが1つの課題となります。
以前は「愛しなさい」と言って抑え付けていればそれで何とかなっていた訳ですが,最近は人民も知恵を付けてきて,強制が大きな反発を生むようになり,それを考慮したのか,近年は国家主席が人民と触れ合い,人民が熱烈に歓迎、感動するという映像を多く流すことで「愛しましょう」と言うようになっているようです。 これは,好意的に見れば独裁、強制が弱まっていることの証で,中華人民共和国が民主主義国家に進化している過程だと取ることが出来るようですが,そもそも中身が全然変わっていない国家体制で,「愛しなさい」が「愛しましょう」に変わったところで,一体何が変わったというのでしょうか。
中華人民共和国では,国慶節(建国記念日)に時期を合わせて,「偉大な祖国を愛そう」とか,「我が中華人民共和国を愛そう」とか,「祖国の恩に報います」とか,大々的にTVでの宣伝が行われました。しかし,そもそもそんなものを大々的に宣伝して一体感を出そうということ自体,この国が内部分裂の可能性を含んでいることを示すものであり,そこまでして統合している意味,統合の必要性というものが逆に問われてくるのです。
まあ「中国は多民族国家だから」などと無反省に言う人が居ますが,そもそも「中華人民共和国は多民族国家でなければならないのか」を問うこと無しに,「中華人民共和国が多民族国家である」という前提を受け入れている時点で,議論の俎上に上る資格がないものです。その前にある前提を議論し終わってから議論するべき事でしょう。
無理矢理にしか統合できないのなら統合などしなくて良いのであって,それを某かの強制力で統合しているのは,過去の遺産だったはずの帝国主義の名残であり,インフラや社会制度の変革をもたらそうが,それを以てその強制力が善であるなどとは到底言えないことは,過去の某国の植民地支配を批判する手合いなら当然ご存じの筈です。
そして,そんな国家で愛国や報国が呼びかけられていることについて,何らかの奇怪さや違和感を感じない方が,国家のメディア戦略にはまっているという疑いを持つべきではないでしょうか。しかしちょっと待てよ,翻って日本はどうかと言えば,それこそ「愛しましょう」と言っても愛されていることを実感できないので,一旦は「愛し合おう」とか「愛し合うのが当たり前じゃん」とか言ってみたものの,結局なかなか愛されていることを実感できないものだから,「愛しているのならそれを形にして現せ」となってしまい,結局の所「愛しなさい」に戻りつつあるような感じになってしまいました。
しかも,「愛しているのならそれを形にして現せ」を拒否しようものなら,「愛してないんだったら出ていけ」とまで言い,周りがそれを支持して,例え「ご主人様の言うことだから」くらいの表現で済ませるとしても,「形にして現す」事を拒否する人を責め立てる構図までできあがってきています。
何のことはない,「愛しているならセックスしてくれるよね」という,「自分が愛されていること」を確認する行為を求めるためだけに為される言動,セックスしないとでも言おうものなら「愛してないんだったら出ていけ」(「日本を愛していないんだったら日本から出て行け」)とか「愛してないんだったら何で付き合ってるんだ」(「日本を愛していないんだったら何で日本に居るんだ」)とか言い出すようなもの,これってデートDVと同じような構造でしかないのではないでしょうか(まあ「愛する」が如実に現れやすいという点でこの例が分かりやすいという程度ですが)。式があるとなれば国旗を掲げずに居られず,式次第に国歌斉唱を入れ込んでさらに声の大きさを測らずには居られないという,そのような形での国旗国歌の扱い方を見ると,もはや「愛しなさい」レベルにも達していない,無いと不安になるもののレベルであるようです。愛を形で確認しないと愛を感じられないこと自体,さらにはその形が自分にとって都合の良い形でなければ認めないという了見の狭さ,精神的に貧困だなと思います。同時に,愛されるべきは国旗・国歌を代辯する(威を借る)「自分」なのか国旗・国歌の背後にある(国旗・国歌が代表するところの)「国家」なのかすら分化できていない「愛国」の実体まで見えてくる訳ですね。
9月27日の秋葉原では,「在日特権を許さない市民の会」がデモを行なったとき,「排外主義 反対」と書いた紙を持って立っていた人に集団で暴行したという事件があったとのことです。
その時に国旗やその竿が使われたということになると,その状況は確実に4年前の中華人民共和国と被ります。あの時の合言葉(キーワード)は「愛国無罪」でしたが,今回は「“愛国者”が持つ国旗はどう使おうが無罪」というところでしょうか。「御旗の下に」って事であれば,何をやっても良いと考えるのでしょうか,その人たちは当然4年前の「愛国無罪」には理解を示し賛同したことでしょうね。
この事例ではもう1つ,4年前の中華人民共和国と被るところがあります。それは,この紙を持って立っていた人のような「外国人擁護」(事はそう単純でもないが)の側に立った人に「愛国者」たちが殴りかかるという構図*1。何のことはない,「右も左も」どころか,日本の「愛国者」たちは自分たちが最も嫌いな中華人民共和国の「愛国者」たちと同類でしかないということが,これで分かろうもの(やたらと国旗を飾りたがるのも似ていますね。まあ,逆もまた然りというのも笑い事でしかない:笑っている場合でもないですが)。さて,ここからしばらくは「過保護者会」に睨まれると怖いので,フォントを小さめにして,いつでも削除できるようにしておきます。
愛するというと,「いままでのあらすじ」の中に出てくる歌詞が興味深いですね。はたあきがそこまでの事を意図して書いているとは思いませんが,見てみると面白いものがあります(どのパートを誰が歌っているのかが分かるともっと面白い。各行の後半部はキョン)。
なによりも きみがすきだキョンは「あいしなさい」に「むちゃくちゃゆーな」と反発した後,「あいしましょう」に「やさしくゆーな」と反発し,さらには「あいしあおう」に「こっちをみるな」と反発しますが,なぜそうなったのかというのに興味があるのです(さらには「あいしてる」と言われて「気持ち悪いぜ」と反応するのも)。
としよりも きみがすきだ
あいしてる! 気持ち悪いぜ さわるな
あいしなさい! むちゃくちゃゆーな
あいしましょう! やさしくゆーな
あいしあおう! こっちをみるな!
続きは? つづかない!
高圧的に「あいしなさい」と言われて「むちゃくちゃゆーな」と反発するのは比較的理解しやすいと思いますが,逆に「あいしましょう」と言われて「やさしくゆーな」と反発するのと,相互行為的な「あいしあおう」に対して「こっちをみるな」と反発するのは,何とも理解しにくい部分があります。
しかし,この3つに共通していることがあります。それは「キョンに主体性が認められていない」ということです。『涼宮ハルヒの憂鬱』及びそのシリーズに於いて,キョンは主体性が低い巻き込まれ型のキャラクターとして描かれますが,『消失』などで見られるように,重要な場面に於いてキョンはその「巻き込まれているような状態」を主体的に選択していることがあります。畢竟キョンは自分の意思で巻き込まれているのであって,強制されること自体は嫌っている節が見られる訳です。そういうことになると,この3つはいずれの言い方も「愛する」という行為を強制していることに変わりはないということになり,キョンにとっては受け入れられないものということになるわけです。無茶苦茶言おうがやさしく言おうが相互行為として言おうが,1つの行為を強制することに対して反発したのであって,言い方とその実体との本質をキョンは見抜いたのだという捉え方が可能だと考えます。
その上で私は,この歌詞と愛国心の問題とが非常に重なって感じられてしまうのです。
国を愛することが当たり前だと考えている人の中には,それを行為に現すことさえも当たり前だと考えている人が居て,それ故にあらゆる場面で「愛国の行為」を強制することが,「国を愛することが当たり前だから」,何の問題もないことだと考えてしまっているということなのでしょう。
ここでは,国を愛することが当たり前だということにすら考慮の余地があるというのに,それを飛ばした上,さらにそれを行為に現すことが当たり前だと考えていることになります。この思考体系は見事なまでに「国を愛すること」の多様性を奪っているのであり,多様性を奪われた「愛国」に批判の余地が無い訳がないのです。
そして,批判の余地がある「愛国」を基礎にしているのですから,「愛しなさい」と言おうが「愛しましょう」と言おうが,「愛し合おう」と言おうが,結局の所批判の余地があることに変わりないのです。その議論をすっ飛ばして「国が嫌いなら」という「愛国」の反対語*2の議論をしているのは,もはや噴飯ものでしかありません。「私は日本が好きです」*3と言ったとき,その「日本」は国家としての日本なのか,地域としての日本なのか,「日本」と呼ばれる場所に住んでいる人たちのことなのか,「日本」と呼ばれる場所で育まれた生活体系のことなのか,「日本」と呼ばれる場所で生産される物品のことなのか,日本という国家の政府や国家に属する企業がもたらしてくれる富のことなのか,それともまた別の何かなのか,全くはっきりしないのです。
それにも関わらず,それを全て「国家」に還元する手合いが居ることによって,また,そうでなければならないと考える手合いが居ることによって,「私は日本が好きです」は捻じ曲げられて来ました。
あらゆる「私は日本が好きです」が「国家」に還元されるとき,「好きなのならそれを(「国家」にとって都合の良い)形に現せ」という言説が有効になり,それに当てはまる「私は日本が好きです」だけが本物で,当てはまらないのは偽物だと考えられるようになります。つまり「好きになり方」=「愛し方」が(この場合「国家」によって)規定され,それに当てはまる「本物」だけに繋がる心が「愛国心」となる訳です。姜尚中(を始めとする一部の人)は「国には愛し方がある」と言って「愛国心」の考え方を批判していますが,そもそも「愛国心」の考え方が「私は日本が好きです」を捻じ曲げて来た背景を考えると,何らかの「愛し方」があると考えることそのものが,「私は日本が好きです」を捻じ曲げているのであって,この意味で言えば姜も姜が批判する「愛国心」論者も同じ穴の狢でしかありません*4。私は「国には“愛し方”など無い」あるいは「国の“愛し方”に決まった作法など無い」と言いたいし,またそうでなければならないと考えます。さらに言えば,「国の愛し方」を知っている者など(少なくとも人間には)存在しないし,人間外の存在の声を聞く者によって人間外の存在が知っているということになっても,人を介してしかそれを聞けないのであれば,それは無効であるということです*5。
「日本が好き」な人が,日の丸・君が代は嫌いであって構わない(勿論好きであることにも何の問題もない),外国人に政治参加の機会を与えようと考えても構わない(絶対排外的な外国人の政治参加反対でなければ,それに疑問を呈することにも問題はない),日本の将来の為に「国家解体」を考えること自体も構わない(勿論今の日本をそのまま継続させようと考えるのも問題なし),色々な「国の愛し方」があって当然ですし,その多様性は国を豊かにするでしょう。
「私は日本が好きです」と言う人が,日本にどのような形であって貰いたいかということに多様性があるのは当然であって,そういう多様性の中に「愛国」は存在するのだと,そしてある形に収まらなければならないような「愛国」など実際には「愛国」ではないと,こういう風に心得るべきではないかと思うのですね*6。その意味では,昨年中華人民共和国の四川を中心にして起きた大地震の際,金持ちの「愛国心」を寄付金の額で決めつけ,額の少なかった金持ちを「愛国的ではない」と責め立てた中華人民共和国の「市民」を礼賛する連中もまた,今回の「愛国者」たちと同列でしかないのです。「愛国心」を問うこと,その時点で既に自身が「愛国者」たちと同じ穴の狢となっていて,他者による国の「愛し方」を自分の視点で判断してしまっていることを自覚して欲しいものです(「金持ち」を「権力者」と言い切る愚かさは救いがたいが)。
尚,「村野瀬玲奈の秘書課広報室」にある1つの記事及びそこに書き込まれているコメントを下敷きにしている部分があります(記事の本文に引き込まれる程の所はないので,引用はしませんでしたが)
また,今回は「国家に所属する国民」による「愛国」を話題としましたので,外国を愛する事というのは埒外ということで勘弁願えればと思います。(ドナルド・キーンが日本にとって「愛国者」かどうかというのは埒外ということです)*1 4年前の中華人民共和国での「反日デモ」の時大学生だった留学生の話によれば,その人は大学内の日本人も住む寮に押し入ろうとした「愛国者」たちに対して張ったバリケードに参加したとのこと。当時こういう人たちは,例え殴りかかられないにしても,内から結構批判された訳ですね,日本の「愛国者」たちには気に留められることもなく。
*2 そもそも「愛国」の反対語が「日本が嫌い」ってのも奇妙なものですし,何を以て「日本が嫌い」と判断しているのかというのもまた奇妙なものですがね。
*3 愛国心と言う割には,「愛国心に関するテーマ」という前提がないときに,いきなり「私は日本を愛しています」とは言わないでしょう。普通は「日本が好きです」程度の表現になることでしょう。
*4 もっと言うならば,他人の教条的な愛し方を否定しておきながら,自分の愛し方も結局教条的なのだから,実は姜尚中の方が質が悪い。
*5 ある人が人間外の存在の声として「国の愛し方」の最も正しい方法を聞き,それを個人レベルで実践するというのなら,それはその人の勝手として認めるべきではある,しかしそれはその人以外の人に対しては無効であるということです。
*6 日本という国が現在の体制、領土を守り続けなければならないと考えることそのものにも疑問を呈する権利はある訳で,それを「国家転覆」の一言で片付ける人が,さらに中共の「国家転覆罪」を笑えていることの方がむしろ不思議。