シュリナガル    srinagar   カシミール州の州都
ダル湖に浮かぶハウスボート(水上ホテル)           シカラという小舟でハウスボートに着いた
 
 デリーの空港近くで1泊したあと,カシミール州の州都,シュリナガルに飛んできた。そして,空港からタクシーでダル湖までやってきた。
 しばらく,ダル湖の畔で待っていると、シカラと呼ばれる手こぎボートがやって来て、対岸に係留されたハウスボートまで乗せて行ってくれた。シカラは中央に四人が座れる屋根付きの座席のついた小型のボートで、船頭が船の後ろにしゃがみ、先にハート型の板が付いたオールで水をかいて進むようになっている。全体としてはベネチアの小型のゴンドラに似ているが、もっと素朴である。このハート型のオールは観光客受けを狙ったものかと思ったが、後で博物館を見たとき、昔のオールも同じハート型だったので、たまたま昔からそういう形をしていたらしい。
注・(と その時は思ったが、違う形のオールも存在すると後から分かった)
 ハウスボートだが、これは船の形をした浮かぶ宿泊施設である。昔、インドがイギリスの植民地だった時、デリーに住むイギリス人は、夏でも涼しいカシミールに別荘を建てたかった。しかし、当時のカシミールを統治するマハラジャが許可しなかった。カシミールはイギリスの直接支配を受けていなかったのだ。そこで、イギリス人は頭を使い、ダル湖に船を浮かべ、そこで避暑生活をすることにした。イギリス人がいなくなった後は、それが、ホテルとして営業されるようになったそうだ。
 一隻の宿泊定員が少ないので、ツアー一同は分散した。もっとも、隣の船までは木造の通路を通って行けるようになっている。
 私が案内されたのは、ムムターズ・マハールという最高級のハウスボートだった。ムムターズとは、アグラにあるタージ・マハールに葬られている王妃の名前である。ハウスボートの名前としては、上品な方だ。ダル湖の絵はがきを見ると、ラヴリーナとかゴールデン・イーグルなどの俗な名前のハウスボートが写っている。
 同じボートに、仙台組の六人が泊まることになった。K氏だけが違うボートになった。ホテルは二人部屋だから、七人の仙台組はどうしても誰かが、一人ぼっちになってしまう。
 ハウスボートは、船尾が入り口で、中に入ると、まずホールがある。ホールには見事な彫刻が施されたテーブルと椅子があった。また、床と壁はすべて木製で、床には豪華な絨毯が敷かれ、壁は彫刻で覆われている。壁の彫刻には何の塗装もなく、白木である。ホールの奥に食堂がある。そこから更に奥に続く通路沿いに、ベッドルームが並んでいる。
 荷物を部屋に置き、一息ついていると昼食の時間になった。サーバントの給仕つきの食事だ。大英帝国の貴族と同じことを私はしたのだ。
 食堂に行って椅子に座ると何とも座りづらい。なぜかというと、背もたれが、床に対して垂直になっているからだ。背もたれと椅子の足が同じ一本の真っ直ぐな材木で出来ていて、日曜大工レベルの構造だ。これは座ってみると分かるが、後ろに気持ちよく寄りかかることができないのだ。しかし、いつも姿勢の悪い私の背骨の矯正には役だった(ということにしておく)。
 メニューは、メインデッシュはマトン、付け合わせはポテト、インゲン、食後に紅茶かコーヒー。コーヒーを希望したら、インスタントコーヒーが瓶のまま出てきた。インドのビールも飲んだ。ホップがたっぷりなのか、水のせいなのか、独特のすごい後味を感じるビールだった。ビールの瓶は同じラベルが付いているのに色つきだったり、透明だったりして面白かった。(ビールの名前 King Fisher,Golden Eagle)
                     
    ハウスボートをつなぐ通路            ダル湖岸の道路
  
 午後は、シュリナガル観光に案内された。昼食で給仕をしてくれたハウスボートのムハメド・シャフィも一緒にシカラに乗り込んできた。さっきの白くて裾の長い民族衣装でなく、ストライブ入りの、ぱりっとしたカッターシャツに着替え、サングラスをしている。細身で彫りの深い顔だから、大変かっこいい。
 彼は、I嬢の隣に座り、まんざらでない表情をしている。実は、I嬢は、これからインドで、もてもての日々を過ごすことになる。彼女はインドの美人にぴったりの条件を満たしていたのだ。
 インドの美人の条件とは、まず色が白いことだが、I嬢は色が白い。日本では細身が好まれるが、インドではある程度は体格が良い方がいい。彼女は、山行では男に負けない山女であり、体格が良い。白人の女性並に大きい。白人女性はインド人男性の憧れの的である。故に、I嬢はもてまくった。逆に、色は白いものの細身のY嬢は、インドの男に言い寄られることはまったくなかった。         
 イギリス、(つまり白人)に自分の国の富をいいように持っていかれた歴史があるのに、インド人が色が白い人間を理想とするのはおかしいようだが、日本を爆撃し、占領したアメリカにすり寄る日本人も多いのだから、人のことばかりは言えない。   
 
 
スリナガルの少女                   街角で
ダル湖の水上バザール                     朝の学校前
                                小学校と中学校が一緒になってるみたいですね。   
水上バザール
 朝、5時半に起きて、珍しい水上バザールの見学に出かけた。水上バザールとは、早朝、ダル湖の一角に農作物などを積んだシカラ(この地方で使われている小舟)が集まって開かれる市場のことである。
 私はF夫妻と共にシカラに乗った。もう一方のシカラを見ると、早速、S氏が張り切ってオールを動かしている。やがて、前方にシカラの群が見えてきた。観光用のシカラと違い、塗装をしていないシカラが多く、まだ明け切らぬ薄明の中、すべてが淡い色に見える。集まっているのは親父たちだけであり、白か薄い水色程度の目立たぬ色のシャツを着ている。その中で、トマトや赤カブなど野菜の色だけが鮮やかに目に飛び込んで来た。
 と、横の方から、少女の乗ったシカラが近づいて来た。少女はハスの花を手にして私たちに渡そうとしている。花売り娘である。もっとも、ハスは目の前の池にいくらでも咲いているから、仕入れ値はただである。
 F氏が、花を受け取り、S女史が少女に五ルピー渡した。通り過ぎてから振り返ると少女はあわてて池のハスの花をとり、急いでシカラを漕いで追いかけてきた。多分、五十パイサか一ルピーで良かったのに、五ルピーも貰ってあわててしまったのだろう。少女は、私たちにハスの花を渡すと安心したように去って行った。  
 水上バザールには、数えた訳ではないが、百艘近くのシカラが集まっていたようだ。それぞれ、欲しい物を持って来たシカラを見つけ、お互いに器用にシカラを近づけて商談をする。インドのバザールはほこりだらけが普通だが、さすがに水の上ではほこりは立たず、清潔である。また、売る方も派手な呼び込みをするでもなく、黙って客を待っているから、思ったより静かであった。   
              
 歓びの園(ニシャート・バーグ)                  ダル湖の風景
ムガール帝国時代のマハラジャの庭園               山の上にハリ・パルバット砦が見えます
 
 
 乞食について   どこにでもいるぞ
 ダル湖の周りを大勢でうろうろしていると、物乞いが集まって来た。
 物乞いにもいろいろあった。子供、赤ん坊を抱えた痩せた母親、足で歩けずに手でいざって来る身体障害者などなど。
 子連れの母親には誰かが、小銭を渡したようだ。私の所には小さい弟を連れた子供が来て、腹が減っているという仕草をするので、さっき、水上バザールで買った菓子の残りを袋ごと渡した。すると子供は食べるでもなく、その場から一度いなくなり、やがて、手ぶらで再び現れた。その時、私はン?と思った。この人達は「管理物乞い」ではないのか?どうも、少し離れたところでこの人たちを操る人物がいるようだ?
 私の足下には足で立てない物乞いが来て何か言っていた。私はさっき疑念を抱いたため、知らん顔をしておしゃべりしていた。後で気が付いたが、私のウェストポーチからはみ出ていたボールペンはいつの間にか消えていた。何かもぞもぞやっているとは思ったが、黙って持って行くとは思わなかった。(インドでは、相手が何も言わなければ目の前でも平気で物を持って行くドロボーが本当にいるそうだ。−−−−たくさん持っている者から盗るのがなぜ悪い。人に施すのは善であるから、俺はお前に良いことをさせてやってるんだ!という理屈らしい
 
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