序/闇 | ―――Dunkelheit |
硝子の砕けるような澄んだ音。 それを境に、僅かな隙間から差し込んでいた不吉な紅い光が消えた。 “彼”は自分の上に幾重にも折り重なった瓦礫が作り出した闇の中に、ただ独り取り残される事となった。 ―恐怖はない。 そういう だが、暗闇は彼に恐怖を抱かせるものではない。 元より彼の安息は、一条の光も差さない それでも。 僅かでも役に立てるのなら、とその境遇を受け入れ、 反逆し暴走した別の被検体から身勝手な ――――破れた。 無理もない。 それ以外の そうして、彼は今倒壊した研究室の天井だった 循環液が致命的に足りずまともに機能しない 《――胴体は落下した瓦礫の直撃により断裂、他37箇所に損傷―現状において自力での脱出は不可能。完全機能停止まで残り20フェイズ》 脳内で ―そうして状況を把握した所で、やはり恐怖はおろか落胆さえ湧かない。 それが、彼という存在を造り上げた研究者達が与えた能力にして耐久実験という名目の元連日受け続けた一方的な暴力を耐え抜けた理由。 その気になればいつでも再生し、瓦礫を だが、そうする気になれなかった。 何せ理由がない。 研究所は完全に倒壊し、研究者達は残らず殺されてしまった。 設備が残っていたとしても、それ以前に実験を行える者が存在しない。 最早、自分を(良識のある者が聞けば眉を顰めるような目的にせよ)必要としてくれる者は居ないのだから。 ならば生き延びた所で何になる。 闇の中、そうして遠からず訪れる筈の死の手を待とうとしたところで 『――― ―――思い留まる。 その前に、己には成さねばならぬ事があるのではないか? 何の事は無い。 指示を出す人間が居ないなら、己の 『そうだ―― それが、廃棄処分を拒み造反した挙句、この研究所を壊滅させたモノの名前。 彼を一撃で 驕りから天を追われ、魔王に身を堕とした大天使の名を持つ人造天使。 只「死にたくない」という純粋すぎる そんな冗談じみたモノが、潜在能力だけなら最強のポテンシャルを持つ 道理で歯が立たない訳だ、と納得してしまった。 それでも、“00”を野放しにして置く訳にはいかない。 あれは既に 外に逃げ出せば誰彼構わず襲いかかり、この 人に創られたモノであるが故に、“彼”はそれを看過できない。 それは彼の存在理由にして、魂の根底に刻み込まれた最優先事項― ―即ち、“侵魔からの人類の保護”に抵触する。 それに、勝算はまったく0というわけではない。 “00”が止めを刺そうとこちらに注意を向けた隙を突いて、 それに、 ―もし彼らが“00”に破れたなら、生き残った自分が止めるしかない。 天を血紅に染め上げていた侵魔出現の証―紅月こそ消失しているが、それは必ずしも“00”が倒されたという証明にはならない。 『そうだ、何を呆けているたわけめ。まだ為すべき事は山積みではないか』 己を叱咤すると残された感覚を総動員して、最早 “彼ら”は一般的な その最たる特徴が、 『―――“00”、“01”、“02”――― ――― 最も“ 『だとすれば恐らく機材もろとも―』 ――考えるのを止めた。 そんな事を知った所で何もならず、どうしようもない。 唯一出来る事と言えば、生まれる事無く命を落とした魂をあるべき場所へ還してやる事だけ。 それでも、一縷の希望を託し最後の一人の波長を感じ取ろうとする。 『―――っ、 《完全機能停止まで残り10フェイズ》 もう何度目かも忘れた再検索を終えた所で、更に雑音が混じり始めた己自身の声で我に返った。 少なくとも、彼が知る限りこの周辺に生きている者はもう誰も居ない。 『――それでも』 まだ、 ここには行き場を見失い迷っている魂が多すぎる。 この地で亡霊と化して人に害を為す前に、逝くべき “兄弟”であるなら尚更の事だし、単に感知可能な範囲から外れている可能性も充分ある。 まだ、斃れるわけにはいかない。 『―再生開始。 《―受諾》 直後、全身を声も上げられない程の苦痛が襲った。 何しろ欠損した肉体を もっとも、声帯も“00”に撃ち込まれた杭によって破損していたので声を出すなど到底無理な芸当ではあったのだが。 それに、連日受け続けた耐久実験の 《―再生完了。残り再生限界:2、警告― 己の腹を半ばまで斬り裂いていた瓦礫を掴み砂糖菓子のように容易く粉砕し、その上に積み重なる障害物を積み木か何かのように押し退け、立ち上がる。 その中心に立ち、その瞳を「別の用途」に特化されたそれに切り替える。 夜空(彼自身、それを見たことは無いが)を写したような蒼が、血の紅に変わる。 機材の中に居た そういったものたちの魂は案の定、未だに自分が死んだ事を理解できず現世に留まり、生あるものの気配を頼って纏わり付いてくる。 “痛い” “寒い” “苦しい” “助けて” “助けて” “助けて” “助けて” 悲しき 「―――逝け。この地に居憑いた所で、お前達の魂に安息は無い」 ばさり、と。 その背に翼が現れる。 魂の導き手たる死の天使の漆黒の翼。 それに触れた魂達は、安堵の表情と共にこの世界から去っていく。 自ら妄執を棄て、解放を求める魂を導くのは容易い。 ただ、死の壁の向こう側に至る路を開いてやるだけで良いのだから。 彼の翼は、扉そのもの。 それが、研究員達も与り知らぬ所で彼― 暫くの間、“兄弟”達の気配を探りながら廃墟と化した研究施設を歩き回る。 どれだけ探しても相変わらず反応は無く、取り残されていた魂達を導いてやる事しか出来なかった。 最後の部屋の探索と魂の葬送を終えた、その時。 「――――!」 崩れかけていた天井が落下し、彼は再び積み重なった瓦礫の闇の中に逆戻りする事となった。 通常空間に戻った今、瓦礫に押し潰されたところで もはや今の彼に、瓦礫を押し退けるだけの力は残されていなかった。 《――生――界突破―活――能まで―り10フェイズ―完――能停止まで―》 言われなくても分かっている。 この身はもう長くない。 驚異的な再生力にも、それが科学による産物である以上限度がある。 残された僅かな生命力も、魂を導くなどという出鱈目の代償として使い果たした。 『ここまでか。悔しいな…送ってやれたのは、ここで死んだものだけか』 ふと、そんな事を考えた。 外の世界には、もっと沢山の彷徨える悲しき魂がいるというのに、と。 意識が闇に落ちる寸前、 微かにだが“03”、“04”、“05”、そして“07”の波長を感じた。 『ああ――無事だったのか。良かった』 看取る者もおらず、一度も外の世界を見ることなく。 それでも――今度こそ安心して、彼は己の運命を受け入れようと瞳を閉じた。 |