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あとがき


     肯定  水彩 2002年11月8日
絵の上にカーソルをかざしますと、midiで音楽が流れます。

   シューマン 悲嘆 リーダースクライスより

今、前書きを読み返している。

子どもたちにとって、この3年は、
1年目は、幼児たちが自分の体の鼓動を感じ始めるまでの一年間であり、
2年目は、幼児たちが自分の体を保育者(お母さん)に預けるようになるまでの一年間であり、
3年目は、幼児たちが他のおともだちの鼓動を聴けるようになるまでの一年間であったと思う。
残念ながら、私の任期の内には、幼児たちが他のおともだちの鼓動を聴き共有できる状態には至れなかった。
こどもたちのひとりひとりは、自分とお友達が違う人間であることを意識できるようになった。
しかし、まだ、自分の思いでお友達を動かそうとしてしまう。そして、お友達が自分の思いでは動かないことに、挫折し、わだかまってしまう。

今年一年のFのわだかまりがそうであった。
彼女は子供たちの中で一番母性をもっているとおもう。
母性を持っているために、他の子どもたちのお世話をしてあげる能力が高いのだが、他のこどもたちの鼓動を聴き共有できるようにならねば、他の子供の気持ちをそっと支えることができないのだ。
他の子どもにとって見ればおせっかい焼きでうるさい存在に見える。他の子がFの行為を拒否すると、Fは傷つき、わだかまる。
今年一年、Fは、何度もわたしのオィリュトミーを求め、私の腕の中で泣き、眠った。
わだかまってぐずるこどもは、私たちがその状態を知り、そばに居つづけることによって、癒され、自分の足で歩き出すようになる。

職員の仕事は、その子のわだかまりを知り、そのこのそばに居つづけることなのだ。
@ 職員が職員自身の体の鼓動を感じ始めるまでの一年間、
A 職員が職員自身の体を私に預けるようになるまでの一年間、
B 職員が子どもたちの鼓動を聴き共有できるようになるまでの一年間。
この意味では、O養護施設の職員と私との関係は、幼児部の職員の@ABは確立されたが、学童の職員と私との関係はついに@に至ることなく未完に終わった。
このことは、心残りなことであった。

わだかまり、これは、意識が体の感情や認識や判断を感じつつも意識化できないときに起こる。意識がうまく言葉を起こせない時、ともいえる。
大脳の意識が体をとおして他者に表現される過程に、深い緊張や、微細障害がある場合、わだかまりがおこり、自分の言葉は他者にうまく伝えられなくなる。
鬱病、リューマチ、分裂病、は、この意識の下降過程の緊張から起こる。
そして、この意識の下降過程の緊張は、どの健常者でも持っているのである。

保育に関わるもの、養護施設の職員であるものは、こどもたちの意識が不完全であることへの自覚とともに、自分の意識が不完全であることの自覚が必要である。
子どもや他者の思いや行為の意味がわからないときや誤解してしまったときは、自分の意識の上昇過程(環境・他者→体→視床→大脳)に緊張がある場合であり、子どもや他者のことを思っていても、自分の言葉が子どもや他者に届かないのは、自分の意識の下降過程(大脳・視床→脳幹→体→他者・環境)に緊張があるからなのである。
しかし、自分が愛して関係しているならば、子どもや他者の思いや行為の意味は、待っていれば必ず、認識できるようになり、自分の言葉は、待っていれば必ず、他者や子どもに伝わる経験が起こる。
その時、自分自身のコミュニケーション障害が治癒し、自分自身の成長が起こるのである。

3年間のO養護施設の仕事は、私にとって大変な幸福であり、私の鬱病はこの仕事によって大きく癒され、治療された。
私の言葉が、子どもたちと職員によって実現していく過程であったからである。

さよなら あんころもち またきなこ

2003年5月5日


千葉義行

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