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レポート3  第3回目の訪問 6月14日15日

鼓動を聴く、上下で遊ぶ……

1.

 14日11時にO養護施設へ着く。
 食堂では職員の研修をしていた。

 脇を通って幼児の部屋へ行く。

 AとHが遊んでいた。
 私が幼児室へ入っていくと二人とも私のそばにきた。

 Hの私に対する態度の変化に気付く。
 ライヤーと絹の布を出す。
 Aが、こどものともの年中版を持ってきた。
 「よんで」  インディアンの昔話である。
 赤ちゃんのときからおおきなおならをするおんなのこがいた。
 そのむらには、毎月まんげつのときにうみからかいぶつがこどもをさらいにきていた。
 おんなのこはむらのひとびとにたのまれ、うみからくるかいぶつをおならでふきとばしてしまった。

 Aはこの少し長いお話をじっときいていた。
 『そうか、このおはなしは、Aの経験なのだ。……
 うみからこどもをさらいにくるかいぶつとは、おんなのこ(A)の実らなかった思いであり、おんなのこ(A)の意識を悩ますもやもやなのだ。
 おならでふきとばすとは、おんなのこ(A)がこのことに気付くということを現している。』
 
このひ、Aは、3才7ヶ月ではじめて、2語文をしゃべった。

 「ありさん、きた」
 「やあ!Aがはじめて2語文をしゃべったぞ!今日は記念すべき日だ!」

Hは、O養護施設に来て5ヶ月目であるが、大きな変化をあらわしてきた。
 左が、O養護施設にきた直後の2月、中央が4月、右が6月である。

  2月には、脳挫傷があり、自傷行為がみられ、自分の意識で自分の体を動かそうとし、それが周囲の環境に受け入れられないと絶望し泣き叫ぶことを繰り返していたが、6月には、自傷行為が減り、保育士に自分の身をゆだねることが少しできるようになった。

Hは、なかなか私に身をゆだねてくれなかったのでフォルム治療ができにくくかったのであるが、これからはフォルム治療が進む状態になるものと思う。

2.

 午後になり幼稚園から子どもたちが帰ってきた。
 金曜日の午後はボランティアがたくさんきてくれている。
 幼児たちは、ボランティアと一対一の時間を過ごすことによって、よりいっそう甘えることができるようになった。

 レポートの中で何回も繰り返して書いてきたが、
『人間の自立とは、他者を支えることができることなのである。
 
他者を支えることのできるものは、他者に身をゆだねられねばならぬ。
 母親(母性を持ち自分を支えてくれる他者)に身をゆだねた経験のないものは、他者に自分の母性を注ぐことができない。

 外見的な自立を目指してきた、明治から昭和にかけての近代的教育・育児観は根源的に見直されねばならぬのである。』

 Hとともに、気にかかっていたI(5才)の変化もうれしい出来事だった。  
5月の訪問のときに、Iは、初めて、ひとりでいることの恐怖からパニックを起こした。
 
その後、Iのパニックが多くなった。職員やボランティアに甘えることがおおくなった。
甘え方も、ペッたんとだっこされるようになった。(中央の写真)

 3月に彼がO養護施設にきたころには、彼は恐怖を起こさず、マイペースで遊んでいたのである。

 4月と6月の彼の表情の変化を注意深く味わっていただきたい。

 4月には彼の意識障害が深く、職員と同期した現在の意識を持つことが少なかったのであるが、6月には彼の意識障害が減り、職員や他の子どもたちの気持ちを味わえるようになってきたのである。
 

2.

 三瀬さんと話をした。

 「ボランティアが多いのはいいことだね。」
 「いろんなかたがいらっしゃいますけど……

 家庭の中で使っているものが欲しいんですけれども、『それなら、わたし、子どものために作ってあげていたわよ』なんて、使いやすいものをどんどん作ってきてくださる。

 子どもたちのほんやおもちゃも、使いやすいようにせいりしてくださっているかたがおります。
 子どもたちの靴箱も、ボランティアのおじいちゃんが作ってくださったんですよ。」
 「O養護施設というおうちと、外の環境であるボランティアが呼吸していることはとてもいいことだね。

 どんどん、定期的にきてくださる方々にはおまかせして、たよって甘えることですよね。

 子どもたちに対してと同じく、ボランティアに対しても、本人の本当にしたいことをじっと待って、それがおこってきたら、甘えて、たよって、『ありがとうございました』って、心からお礼を言うことだよね。
 こどもたちは、そういう職員の姿を呼吸して、味わって、育っていくんだよ。」

3.

 子どもたちが庭で遊び始めた。

 「おにごっこしよう。」
 「じゃあ、木にさわっているひとはおにはつかまえちゃいけないんだよ。」

 「じゃんけんぽん」
 V(2年生)とO(1年生)がいっしょに遊んだ。
 Vの遊び方がとてもたのもしかった。
 他の子どもの気持ちを呼吸しながら、自分の気持ちを他の子どもの気持ちに添わせると、他の子どもが楽しく遊べるのである。
 年かさの子どもたちは、この経験を積み重ねて、大人になっても他者の面倒が見れるように育っていくのである。そして、この経験こそが、『愛する』ことの本体なのだ。
 昭和30年代までの日本では、年代の違う子どもたちが、こうやって、路地でいっしょに遊んでいたのである。

 子どもたちが集団で遊んでいた、なわとび、まりつき、おてだま、おにごっこ、いしけり、これらの遊びの中に、
@     鼓動を感じること・自分の体の感覚を生き生きと感じ喜ぶこと
A     他者の鼓動と自分の鼓動を共有すること・息を合わせること
B     自分の気持ちを呼吸すること・自分の体が喜んでいることを意識すること
C     他者の気持ちを呼吸すること・他者の体が喜んでいることを意識すること
を育てる力があったのである。

 養護施設に来なければならないという経験を起こしている子どもたちの殆どには、この4項目に問題がある。
 そして、このこどもたちの親の殆どには、この4項目に問題があるのである。
 これは、養護施設だけの問題ではない。
  自我を確立しようとする思考に問題があるのだ。
  自我を確立しようとすれば、甘えなくなる、たよらなくなる、他者の気持ちを自分の気持ちで推し量るようになる。
  自分の思いを他者にさせようとするから、他者と争う。

  これは、明治、昭和にかけての西欧文明の考え方で日本の思考文化をあらせようとしてきた日本人全体の問題であり、近代的教育の根源的欠陥なのである。

4.

 今日も男子学童の子どもたちと一緒に風呂に入った。

 そして、食堂の片隅でライヤーと木の太鼓とピアノを演奏した。
 3Y(3年生)がひとりで現れた。

 「ライヤーかして」「どうぞ」

 人差し指で弦を引っかき強い音を出そうとするが、  「ゆびをのばして、てまえに引っぱってごらん」というと、優しい音が響く。
 この経験を繰り返していくと、優しい音が出せるようになるのである。
 「ぼくがやる!」といいはる子どもは、自分の力を抜くことをなかなか覚えられないのだ。
  U(2年生)V(2年生)Z(2年生)はじめ(4年生)Mしょう(3年生)6M(5年生)は、集団で楽しめるようになってきた。

  VとZは太鼓が上手である。
  私が基本拍を手と足で取ると、VとZは自由なリズムを木の太鼓で刻むことができたのである。

 6MくんとMしょうは2拍子3拍子の基本拍を木の太鼓で打てるようになった。

5.

 15日朝6時半すぎに幼児の部屋に行こうとする。
 渡り廊下でじっと待つ、7時に女子と幼児の棟の鍵が開いた。
  休日は7時に鍵を開けるというルールを、この日まで私は知らなかったのである。
 子どもたちの寝起きのマッサージをする。

   えんやらもものき ももがなったらだれにやろ
   しょうちゃんにあげよか Kちゃんにあげよか
   だれにあげよか

 こどもたちはみな、すてきなえがおで起きることができた。

6.

 今年度になってから始めて、子どもたちに絵を教えた。
 もう一度たくさんの色造りから繰り返していく計画である。

 幼児だけしか触れないだろうと思っていたが、女子学童の子どもたちがやりたがり、できるだけ対応した。

B(3才)

右は昨年度、色がよく分かれて見えるようになった。

D(4才)

右は昨年度、色がよく分かれて見えるようになり、色と形のバランスを感じられるようになった。

F(5才)

右は昨年、色が分かれて見えるようになった。

色の丸の下に描いた棒状のものは彼女の意識障害である。自分のしるしを描きたかったのである。

G(5才)

右は昨年、色が分かれて見えるようになった。

意識障害がずいぶん晴れてきた。

M(5才)

優しい色である。

色の丸をつなげている線は、彼の意識障害を現す。

K(5才)

優しい色である。

色もいっぱい見えている。

おはなのマークは彼女の意識障害を表す。

N(1年生)

優しい色である。

色もいっぱい見えている。

色を縦横にきちんと並べているのは、彼女が思考にこだわっている現在をあらわす。

紫が多くなるのは、彼女の意識障害を現す。

S(1年生)

優しい色である。

色も見えている。

色を縦横にきちんと並べているのは、彼が思考にこだわっている現在をあらわす。

紫が多くなるのは、かれの意識障害の深さを現す。

R(1年生)

優しい色である。

色もたくさん見えている。

バラバラに美しくバランスが取れた。

O(1年生)

赤、青、黄、白、ピンク、水色、レモン色、オレンジ、緑、紫、とせっかくきれいに描けたのに、全部の色を混ぜ合わせ、塗りつぶしていった。

自分の体の喜びを意識できないという障害を現す。

P(1年生)

実に美しい。

縦横に並べて描いてしまうのは、彼の思考意識の残滓である。

知恵遅れが相当回復してきている。

U(2年生)

力強い。

茶色による塗りつぶしは意識障害と知恵遅れを現す。

T(2年生)

8個の色なりに調和がとれている。

いつも私のそばにいるが、手をとって教えることがなかなかできない。いつも「じぶんでやる!」である。

わたしは、「おしえて」といわれるまで待っている。

Y(2年生)

優しい色である。

色も見えている。

色を縦横にきちんと並べているのは、彼女が思考にこだわっている現在をあらわす。

5Y(5年生)

色をバラバラにバランスよく描くことができた。

楽しい気分が現れている。

ピンクの色の多さは意識障害と知恵遅れを現している。

6.

食堂でとった2枚の美しい写真である。
 幼児部の職員は、幼児の一人一人を、一対一で育てる力を確立してきた。
 したがって、ひとりひとりの幼児は、職員とボランティアに身を預けその気持ちを味わうようになった。
 この2枚の写真は、このことを現している。
 さあて……、次の課題は、子どもたちが、他の子どもの鼓動を聴き、呼吸し、共有し、それが自分の本当の生きがいなんだと意識できるように育てることなのである。
 子どもたちが、O養護施設という保護された空間から出、自分の出会う経験を『これでいいのだ』と肯定して生きるためには、他者の鼓動を聴き、呼吸し、共有できなければならぬ。
 男子学童、女子学童と幼児の関係、ボランティアと幼児部との関係、男子学童担当、女子学童担当と幼児部との関係、とりあえずは、これらの関係が互いの鼓動を聴き、呼吸し、共有する関係として確立されていかねばならぬだろう。

 『私の持ってきた絵本はどう使われているのだろう。』
 『私の持ってきた積み木はどう使われているのだろう』
 『私の持ってきたゴムまりはどう使われているのだろう』

 これもまた、O養護施設の環境を整えるために私が持ってきたものであった。
 環境とは、人間のグループ同士の関係のことなのである。
 いずれにせよ、物は、それが使われるようになるまで待たれなければならない。

 それを使うのは人間なのだから。

2002年7月7日

千葉義行

音楽

バッハ
小フーガBWV943

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