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レポート5  第5回目の訪問 8月23日24日


これでいいのだ……自分の感情の肯定

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音楽

さわさわ

作曲 中川ひろたか
作詞 新沢としひこ
演奏 千葉
    アルトライアー

さわさわするのは
なんのおと なんのおと

さわさわするのは
なんのおと なんのおと

さわさわ はっぱのゆれるおと

さわさわ ひかりのやれるおと

さわさわ わたしのゆれるおと

1.
 23日10時半に到着する。
 AとHがいた。
 「ようちえんはもうはじまっているのですか?」
 「いえ、夏季保育で…、月曜日から行っているのですよ。
久しぶりの登園で、こどもたちがおちつかなくって。」
 「今日は女子学童がディズニーシーへ行っているので、幼児はファミリーレストランに食べに行こうと計画しているんですが、いっしょに来ていただけませんか。」
 「そりゃあたのしそうですね」
 近くのファミリーレストランまでみんなで手をつないで歩いていった。
 「ぼく、ちばせんせいとてをつなぐ!」
 GとCが、わたしのてをつなぎにきた。
 Cが私の左に座り、Eが私の向いに座った。
 二人ともお子様ランチを食べ、私に、アイスクリームをおすそ分けしてくれた。
 そのアイスクリームはとてもおいしかった。
当たり前のことなのだけれど、自分のものをわけてあげることは、とてもうれしいことであり、それを「おいしい、おいしい」といってもらえることは、無上のよろこびなのだ。
自然に物をわけあって、それをうれしいとおもうこと。それは、自分の感情が大脳の意識まで上ってきて、大脳の意識がうれしいという感情を意識できなければおこらない。
二年前のこのこどもたちには、それは起こっていなかった。
これは、二年間の保育と治療教育の成果なのである。
雨が降ってきたので、帰りは園バスが迎えにきてくれた。
「今日のみんなは、思ってた以上におぎょうぎがよかったとおもうひと!」
「はーい」全員の職員が手をあげた。私も手をあげた。
2.
 23日の午後はたくさんのボランティアが来る日である。
 こどもたちは、一対一であそんでもらい満足していた。
 子供たちが模造紙にクレヨンで描いた作品が壁に貼ってあった。
 たくさんのクレヨンの色を重ねて描いたM(年長)の作品、Mの内面の優しさが表現されていてすばらしいものであった。
3.
 夕食後、女子学童の居室に上がる階段のしたでP(一年生)にあった。
 「ディズニーシーはたのしかったかい。」
 「うん……」
 私が階段に座ると、Pは私のひざにのってきた。
 30分ほど彼のフォルム治療をした。

 幼児たちに添い寝をした。
 ここはてっくび てのひら
 ありゃりゃに こりゃりゃ
 せいたかぼうずに いしゃぼうず
 おさけわかしの かんたろうさん
 おやゆびねむれ さしゆびも
 なかゆび べにゆび こゆびみな
 ねんねしな ねんねしな ねんねしな
 えんやらもものき ももがなったら だれにやろ
 Aちゃんにあげよか せんせにあげよか

4. 24日朝に、幼児たちにイカの水彩画を指導した。

A(3才)

力強い。

胴の描き方がしっかりしている。心肺の力が増してきているためであると考えられる。

B(年少)

目が堂々としている。

足の表現がたくましくなってきた。

C(年少)

胴の描き方が歪んでいるが、しっかりしてきた。

私に身を預けられるようになった。記念すべき作品である。

D(年中)

胴が拡散してしまった。

知恵遅れの状況が絵に現れている。

E(年中)

目と足が生き生きしている。

胴の歪みに意識障害が見られるが、躍動感があり、傑作である。

F(年中)

目と足が堂々としている。

力強い。

G(年中)

力強い。

胴の描き方がしっかりしている。心肺の力が増してきているためであると考えられる。

I(年長)

胴が立派である。

脊椎が発達してきたことを感じる。

……ひとりじゃないよ、みんなと一緒だよ……

M(年長)

目と足がしっかりしている。

胴が細くなるのは、神経症がまだ残っているためである。

K(年長)

「Mのように自分ひとりで描く!」

「だめ、Mだってちばせんせんはそっとてをそえていたんだから。」

       

5.

 絵画のあとはみんなでビデオを見た。
 Cが私の膝に登ってきた。
 Cが私にこれだけ甘えてきたのは始めてであった。

今回の訪問で一番大きな展開を見せたのは、Cが私に甘えるようになったことであった。

 ライアーに触ってあそんだ。
 澄んだ音が響いた。

6.
 今日の昼食でのAは、しっかりとしていて楽しそうだった。
 ときどき私と目が合うとにっこりとする。
 しっかりと、おいしそうに昼食を食べている。
これでいいのだ……自分の感情の肯定……
Aの体に記憶されているゆたかでしっかりした感情が、Aの大脳の意識まで届いている。
Aはこの体の感情を無意識として聴いているのだろう。
しかし、この体の感情を無意識として聴いているときのAの大脳の意識は、しっかりとしていてたのしく今起こっている経験を感覚し意識し続けるのである。
 下の写真は昨年4月(2才6ヶ月)の写真である。
このときは、表情がなかなか動かなく、自分の思いで自分の体や職員や環境を動かそうとするために、『自分の思いが実現しない』という悲しみと怒りの中で生きていた。
 そのために、ADHD(前頭葉の微細障害)と行為障害から自傷行為がおこり、話し言葉の発語が遅れていたのだ。
 現在のA(3才11ヶ月)は、急速に発語が発達してきている。

 「ありさん」「ありさんきた」という一語文、二語文から、副詞、助詞、を使った複雑な言葉をしゃべるようになってきた。

 24日午後1時に私は恩寵園を後にした。

 さよなら あんころもち またきなこ

2002年9月19日

千葉義行

 

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