個人史の例-1 |
ヴォルフガング・リュッケラート
BASFジャパン 勤務、国際ビジネスマンにも戦争の翳(400字詰原稿用紙27枚に相当します)
大企業のビジネスマンとして、日本、アメリカ、ブラジルと、世界を股に活
躍する在日通算十五年のドイツ人にも、言葉が通じない現在のロシアの
田舎に疎開し、一歳のとき父を東部戦線で失い、嘆き悲しむ母親ととも
に廃墟の中から立ち上がった過去がある。
僕の母、僕の父
『僕の母は、ベルリン出身です。祖父母、曾祖父母もそこで生まれました。僕の両親が結婚したのも、僕がこの世に生まれ出たのもベルリンです。僕が生まれたとき、父が戦争にいっていたのは、母にとってたいへんつらいことでした。僕が生まれてくるのを待っているというのに父がそこにいない。それはどんなに悲しかったか、以前、母は話してくれました。
すぐに、母がとても心配する事態になりました。生まれて十四日目に僕が突然大病にかかって、母は僕を病院へ連れていかなければなりませんでした。「助かるかどうか、わかりません」とお医者さんがいうので、母の心臓はいまにも張り裂けそうでした。何か月もしてから、母はやっと僕を家に連れて帰ることができました。その間に一度、父が休暇で一時帰還しました。でも僕を腕に抱くことが許されないで、ただガラス越しに見るだけでした。それは、母にとってもつらいことでした。
僕はほとんど家にいませんでした。お手伝いさんがジフテリアにかかって兄と僕に伝染したので、二人は入院しなければならなくなりました。ジフテリア菌が鼻と喉をおかしていたからだと母はいいます。僕たちが退院して二、三日もすると、もう母は僕たちとベルリンを出なければなりませんでした。空襲が激しくなったので、小さな子どもを連れてもっと安全なところへ逃げなければならなくなったからです。列車がどこへ行くのか、母には分かりませんでした。母がいうには、汽車は三十六時間走ったそうです。一九四三年のとても暑い日のことでした。列車は、真夜中に東プロイセンのある村に着きました。
それぞれの母子に、村人の家が割り当てられました。僕たちはトラケーネン村(現在ロシア領、馬の産地)の教師の家に連れて来られました。案内された屋根裏部屋には一本のろうそくがともっているだけでした。母が激しく泣いたので、教師は寝ていた妻を連れて来て、僕の父の職業を聞かせました。父がよい職業に就いていることを聞くと、彼女は僕たちによい部屋をくれましたが、母はたくさんお金を払わなければなりませんでした。寝るときになると、母はいつも心配でした。マットレスの中に鼠の巣があって、ネズミがこわかったからです。ネズミどもはベッド走の中をり回っていました。僕にはまだ何もわりませんでした。
一九四三年の八月から十一月まで僕たちはそこにいましたが、母はもう我慢できなくなりました。僕たちは、戦争が始まるまで父が判事をしていたグラウデンツ(現ロシア)に来ないかという誘いを受け入れました。その間に、僕は一歳になりました。クリスマスに父は休暇で帰還しましたが、それが、母が父に会った最後でした。
父はロシア戦線に投入されました。一九四四年八月、母はグラウデンツももう耐えられなくなりました。彼女はひどく不安な思いにかられて、どうしても家に帰りたくなったそうです。三歳だった僕の兄は、ほとんど一日中「かわいそう、お父さん死んじゃった」といい続けたので、母はそのことを怒りました。ベルリンにもどって四日後にようやく、兄が「かわいそう、お父さん死んじゃった」といい続けていたころに父が死んだ、という公報が届きました。
母はそのころ、僕たちを育てられないのではないかと思っていました。母はいつも泣いていて、食べることもできないで、兄が母に食事をすすめ、涙を拭いてやりました。一九四五年二月まで、僕たちはまだ家にとどまっていましたが、ロシヤ人はもうベルリンの間近に迫っていました。西へ向かう最後の列車に乗って、僕たちはベルリンを離れました。飛行機がいつも低空から列車を銃撃しようとしていたので、途中で死にそうになりました。多くの爆弾がそばに落ちました。やっとの思いで、ヴェストファーレンに来て、それからジュヒテルンに着きました。僕は、母の人生についてもっとたくさん書くこともできるけれど、それは心の中にしまっておきます。』
これは、一九五六年七月二十一日、ヴォルフガングが十四歳のときに書いた作文で、丁寧な字体、色鉛筆で美しく縁に模様をつけた用紙が印象的である。子どもらしい簡明な文章の中に、恐ろしい時代が母に残酷な運命を押しつけたこと、記憶こそないが紛れもなく自分自身が体験したこと、そして幼いながらも総領の立場を演じる兄が、見事に描き出されている。続いて、次の週には父についても作文を書いている。学校に提出したのだろう、二つの作文とも、「よくできました」と採点されている。
『僕は父を知りません。父がロシアで死んだとき、僕はまだ一歳だったからです。でも、父のことについては、母から沢山聞きました。一九〇九年、父は、ガス製造工場の工場長の息子としてベルリンで生まれました。父の祖先の地は十六世紀以来オイスキルヒェンとバーデンバーデンでした。父はベルリンとハイリゲンシュタットの人文系高等学校に行きました。はじめ父は牧師になろうとしましたが、法律学、政治学、経済学、歴史をボン、ブレスラウ、ウィーン大学で学びました。父は、ケルンとアールヴァイラーで上級公務員見習の期間を過ごしました。一九三五年に、父は上級公務員候補者になりました。それから一九三六年に、弁護士補となって僕の母と結婚しました。
父は一年後に、自分の弁護士事務所をベルリンで開きました。父は、よく母を法廷に連れて行ったり、母を会議に同席させたりしたので、母にとって素敵な時代でした。一九四〇年判事としてグラウデンツに赴任しました。父は、そこで未決囚を尋問するために毎日拘置所にいくことになりました。父は公正で温情のある判決を下したので、被告たちに好かれたと、母はいっています。
一九四一年に僕の兄クレメンスがグラウデンツで生まれたとき、父はとても喜びました。幸せのあまり、はじめは口をきくこともできませんでした。産院のお医者さんが、こんなに子どものことを喜ぶ父親を見たことがない、と母にいいました。父は、母のほかにはだれも子どものベッドに近づかせませんでした。兄はさっそく、電気で動く鉄道模型を父から買ってもらいました。でも、判事仲間が夜トランプをしに来ると、父がその鉄道で遊ぶことが多かったのです。僕たち兄弟がそれで遊べるようになったときには、もういろいろ壊れていました。
一九四二年の春、父は海軍に志願し、ベルギーで教育を受けました。一九四二年十一月に僕が生まれました。そのとき、父は家に帰ることができませんでした。父は二人の息子ができて大喜びだったと、母はいっています。父は、よく小さな息子たちのことを喜んでまわりに話していました。息子たちが自慢だったのです。毎日、僕たちの写真を見入っていました
一九四三年、父は軍法会議法務官になろうとしました。でもそのとき突然、三十五歳以下はなれないという規則が出されて、父はロシアにいくことになりました。前線に投入されて、一九四四年にほかの兵士とともに十日間ロシア軍に包囲されました。父は一睡もできませんでした。両足も凍傷になりました。父にとって、もっと苦しい何週間、何か月が過ぎました。もし家に帰れたら、父は何もかも母に話したかったでしょう。夏には休暇で一時帰還することになっていて、母はそれをずっと待ちこがれていました。母も父と沢山話しがしたかったのです。
でも、父は帰って来ませんでした。榴弾が当たって、心臓が破れたのです。戦友が父をラトビアのクールランドにほうむりました。僕たちは、よくクリスマスや父の誕生日、父が亡くなった日、僕たちの誕生日にじっと座っています。そうすると花で飾られた写真と思い出だけが心に残るのです。僕たちは、我が家の家長にとても会いたい。そして、父のことを思うと、僕も、母も兄も目に涙が浮かびまかす。僕にとって、父を全然知らないというのがいちばんみじめなのです。父方の祖母も祖父も、父が死ぬより前に亡くなっているので、父の死を知りません。(もしそれを知ったら)祖母はきっと心臓が破れてしまったでしょう。僕は、立派な父のことを思うのが好きです。そして、まだ一度も父の墓参りをしてないのが悲しいです。』
学生時代
ヴォルフガング・リュッケラートは、一九四二年十一月二十三日にベルリンで生まれ、一九四五年の敗戦直前に、母と兄ととともにジュヒテルンにきた。幼子を二人抱えて夫を失った母は、大混乱期をとにかく生き抜くために働かなければならなかった。彼の母は豊かな家の出身だったが、特別高い教育を受けたわけではなく、職業に役立つ資格や技術もなかった。しかし、幸いジュヒテルンの小児病院で看護婦見習いの仕事を見つけることができた。
母は病院の看護婦寮に住み、彼と二歳年上の兄は、この小児病院で病気の子どもたちと一緒に寝泊まりしていた。こんな生活が一九五二年まで七年間続いた。小学校も病院から通った。当時のノルトライン・ヴェストファーレン州の学校制度では、小学校四年修了のときに将来の進学コースを決めた。彼は学校の勉強が好きではなかったし、母の考え方もあって実科学校のコースを選択した。
母は、判事と結婚して安定した幸福の絶頂にいたのに、突然不幸の淵に突き落とされてしまった。実家の家柄が豊かでも、職業上の教育や訓練を何も受けたことがなかったために、自分の立場と社会の激変に翻弄されて、苦しい思いをしてきた自らの過去の経験から、子どもたちにとって、まず自力で世の中を渡っていけることが最も大切だと考えた。
そのために、一般の大学に直接進学する高等学校ではなく、できるだけ早く職業を身につけられる実科学校のコースを勧めた。また、高校に行くと勉強は午前中だけで、午後は遊んでしまうのも、母からみると問題だった。実習生ならば、午後も職業活動があるので心配がなかった。母はいつも人生の逆転を心配していた。余計なことをするより、まず安定した生活を築き、将来の変動にも耐えられる準備をする、これが母の人生訓となった。彼女は何でも溜めておいた。食料でも少し余分に買い込んで溜めておく、お金も一生懸命溜めた。すべては、逆転の人生から得た教訓であろう。
ヴォルフガングも、母の人生観に強く影響されたのか、「金にならない仕事はしない」ことにしている。ただし彼の妻は、在日ブラジル人の相談、ドイツ人のための通訳などいろいろなボランティア活動に参加して社会に十分貢献しているから、彼ら夫妻を単位として考えれば、金にならない仕事をしないどころか、大いにその逆を励んでいることになる。この夫婦は、夫が現実的な金儲け、妻が理念的な社会貢献の役割を分担しているのだ。
勉強ばかりしていた兄のクレメンスと違って、学校の勉強が好きではなかったヴォルフガングにとっても、実科学校コースの選択は好ましいものに思われた。弟からみると、兄は二歳しか年が違わないのに父親の代役を演じていたように思える。ヴォルフガングには兄クレメンスのそんな態度に抵抗があった。「クレメンスには友達がいなくて、いつも広い世界ばかりを夢見ていたけれども、僕はジュヒテルンに根を張っていた」と彼はいう。この兄弟は、傍からみていると遠く離れて生活していても仲がよい。実際そうだと思う。でも、互いのライバル意識はかなり強烈である。ヴォルフガングは、兄のデザインの才能は認めるが、その他のことはあまり褒めない。
ヴォルフガングは八年の学校生活の間、大いに遊び、友だちとの関係を深めた。十四歳で学校を出ると、ビジネス部門の実習生として地元の工場の事務所や商店などで実習し、週に一日学校へ通う生活が三年間続いた。だがいまから考えると、実習でおもしろかったことや、とくに身についたことは思い出せない。高校へいっている人たちが午後になると遊んでいるのを横目で見ながらで、ついつい遊びたい気が先にたってしまうのだった。十四歳の少年だったからやむを得ないことだった。
十六歳のときフィールゼンの商業学校に入学して、二年間ビジネスに必要なことを学んだ。英語、経済地理、経済史、タイプライター、速記、簿記、ドイツ語などである。今の勤め先であるBASFのビジネスマンとして英語を使って日本、米国、ブラジルで四半世紀やってこられたのも、このときの英語学習が基礎になっている。商業学校を卒業すると、ケムペンの郡役所で行政事務実習をし、さまざまな部局をまわって経験を積んだ。二年たったとき、このまま役所に残って公務員となるか、大学へ行くかを選択することになった。
小さいころ嫌いだった学校もそれほど毛嫌いしなくなっていたし、何よりも実社会で安定した職業に就いて力を発揮するには、大学教育が必要だと考えるようになっていた。大学へいくまでの半年、ベルリンのタービン会社で働いた。大学はメンヒェングラートバッハの専門大学を選んだ。
リュッケラートがたどった教育課程をドイツでは第二教育過程といっている。かつて、大学にいくには高等学校へ進学する以外ほとんど道が閉ざされていた。ところが高校進学コースにするか、それ以外のコースをとるかは、小学校の四年生で決定されてしまう。十歳の子どもに長期的なビジョンで将来を決定できる能力を求めるのがそもそも無理なので、実質的に生涯にわたる教育の問題は、子ども自身が決めるのではなくて、親が決めると同じだった。
この制度は、大学進学者のほとんどがホワイトカラー家庭の子どもで占められ、ブルーカラー階層の子どもはあまり大学にこないという結果をひきおこした。産業が小規模で、一握りの知識人で十分運営できた時代が終り、戦後ドイツの奇跡の復興といわれた時代になると、大学教育を受けた人が従前とは比較にならないほど大量に必要な社会が到来した。それまでの学校制度を改革すべきだという声は、社会的公正を求める人たち以上に、産業界から強く上がった。このようにしてヴォルフガングが選んだような進学コースが可能となった。
ビジネスマンとして
一九六六年六月、二十四歳で大学を卒業すると、ハンブルクのコンサルティング会社に就職した。しかし、そこには三か月しかいなかった。BASFの募集広告を見て応募し、面接試験を受けて採用が決まり、一九六七年一月に入社した。ドイツ最大の化学工業会社BASFは、一八六一年にソーダ生産のデッカーホフ・クレム社としてマンハイムに創設され、その後アリザリン染料(合成紅色染料)、インジゴ染料(合成藍色染料)、アンモニア合成を手掛けて発展し、イーゲー・ファルベン社となった。戦後、会社は一旦解体され、一九五二年に再発足して一九七三年に現在の社名に改称された。ルートヴィヒスハーフェンに本社と主力工場があり、従業員四万五千人を擁している。
はじめは、巨大なBASF全体をよく知るために三年間本社に勤めた。そのころ兄クレメンスのケルン大学の学生寮仲間の日本人女性朋子と知り合った。彼女は鼻筋が通って美しく、一重瞼の東洋人の目だが、どことなくヨーロッパでもそのままありそうな面立ちと、開放的でおおらかな性格が人を惹きつけた。現実を受け入れて、そこからものごとを組み立てる方法は、ヴォルフガングと朋子に共通だった。彼はたちまち彼女に魅せられた。ユーゴスラビア人のガールフレンドがいたことはあったが、彼にとって外国人との本格的な交際は初めてだった。だが、当時ほとんど例が見られなかった日本人との結婚も、何ら抵抗感がなかった。
彼女のほうは、ある程度の葛藤がなかったといえば嘘になる。しかし、彼との愛情が深まるにつれて、その現実を認めた中から、将来を築こうとする持ち前の明るいリアリズムが、結婚を決心させた。でも、「実家にはなかなか報告できなかったんですよ。早くいってくれれば親も応援できたのに、何もかも自分だけで背負い込もうとしたんですよ」と、彼女の兄嫁はいっている。一九六九年五月、二人はハイデルベルクで結婚式を挙げた。朋子が、その二年前ハイデルベルク大学に移っていたからである。
一九七〇年、リュッケラートは日本へ赴任する。もちろんこの決定に日本人と結婚していることが大きな要因となったことは想像に難くない。日本駐在は二回で、通算十六年近くになる。三十一年間のBASFビジネスマンのキャリアの半分を占める。現在は、BASFジャパンの代表取締役専務・財務・管理担当の要職にある。
最初の日本赴任で八年間滞在して、その間に一男一女が生まれた。その後、アメリカのボストンに七年、ブラジルのサンパウロに三年半いて、一旦ドイツの本社に戻って四年間勤務してから、一九九一年に再び日本勤務となった。BASFジャパンは十五社からなるグループで、グループ全体の従業員は二千人である。彼は、BASFジャパングループ全体の財務、ロジスティック、購買、情報システム、関連事業管理、本社レポーティングなど、生産、販売、人事以外はほぼすべての分野を担当していて、彼のセクションには五十人が直接所属している。
リュッケラートが自分でいうには、「僕は、地位が高くて仕事の責任が重い人には厳しい態度で接する。でも、そうでない人には優しく対応している。どんなに些細なことや物でも、できあがるまでには大勢の人の仕事の協力が貢献している。僕には、上から下までよく見える。それは、僕が第二教育過程を通ってきたので、上だけしか見えないような教育を受けてこなかったからかもしれない。」
彼は、プライベートの生活では、与えられた現実の条件の中で人生を楽しむようにして、「どうしてこういう現実になったのか」とは考えない。現実をそのまま認めてしまう。「追求して考えるのは、仕事のときだけだ。仕事ではとことん考える。ところが、日本人は一般的にいって、仕事の世界でも『なぜ?』に弱い。『理由や原因なしに、結果がこうなんだ』で、納得してしまう傾向が強い。日本人はもっとはっきりと意見をいうべきだ。相手が欧米人だろうと、だれだろうと、ひけをとることはない。卑屈になることはない。自分の意見をあらかじめ価値がないと決めつけてしまって、発言しないことが多い」というのがリュッケラートの日本人評価だ。
長いこと日本で生活し、妻も日本人で、大勢の日本人と仕事をしているリュッケラートにとって、三十年前に初めて日本にきたときもカルチャーショックはなかった。もちろん食べ物などの好き嫌いはある。刺身や寿司、天ぷら、焼き鳥は大好きだが、納豆やホヤは嫌いという。野菜のオクラは粘っていても気にならないで食べられるのに・・・。京都出身の朋子の納豆嫌いが伝染しているのかもしれない。パンはもちろん大好きだが、日本でよくある水分の多いパンは、食べるけれども美味しいとは思わない。
ある意味では、ヴォルフガングは日本を知り尽くしているといえる。朋子のテニス友だちから頼まれて、仲人をしたこともある。英語でしかスピーチができないからと断っても、是非にといわれて引き受けた。そうしたら、同じ仲間のもう一人からもまた頼まれた。ドイツ人として日本で生活して割りを食ったことはない。どこへ行っても丁重に扱われ、貴重な体験もできた。彼はいう
「ヨーロッパ人に比べて、在日韓国人、朝鮮人、中国人、台湾人は、まったく別の立場だと思う。彼らの問題は、アメリカの黒人問題の日本版と考えられる」
リュッケラートにとって、日本人とのつき合いには限界があるという。
「ドイツの友人は、かつては血を交わす儀式をしたほどに強い絆で結ばれている。家族ぐるみのつき合いだ。でも日本では、長年友だちづき合いしても、子どもが何人いるかすら互いに知らない場合も多い。それと、男女間の交際がぎこちない。男の人と雑談しているところへその人の奥さんが来ると、もう話が途切れてしまう。日本人の年賀状のつき合いは何だろう? あれがつき合いだとしたら意味がない。せっかく知らない者同士が集まったパーティーでも、日本人は新しいつき合いを開拓しようとする努力をほとんどしない。すでに知り合っている者同士が固まってしまって、新しいつき合いを求めている人が入り込めない雰囲気をつくって排除している。唯一の例外はバーだ。ここではだれもが分け隔てを感じないで話しを交わす」
アメリカでは、女性秘書の誕生祝いを勤務時間中にオフィスでするなど、ある程度の自由があった。また、女性従業員との接触も日本流にいえばかなりベタベタしている。日本では、勤務中にバースデーパーティーを開くなどもってのほか、という雰囲気だ。オフィス全体が堅い感じがする。一般社員が出張するとき利用する交通機関を普通車からグリーン車に格上げしようとしても、まっ先に日本人が反対する。
リュッケラートは長いこと日本で勤務してきたが、これはBASFでも例外だ。彼のほかはみな、三、四年で転勤していく。BASFは超大企業で、本社にはさまざまな分野のスペシャリストがいるけれども、日本の現地法人の全体をみられる専門家としては彼が第一人者だからだろう。でも、このような人生を歩んでこられたのも、BASFという大企業に職を得たからだと思っている。
定年がいつになるかは、まだわからない。制度上、五十八歳から六十二歳の間とは思うが、自分の考えと会社の事情で決まる。定年後の生活をどこで送るかも決めていない。ただいえるのは、ドイツの生活は東京に比べると単調だということだ。東京では、区立図書館にすらドイツの週刊誌『シュピーゲル』があって毎週読めるくらい、文化的な刺激に満ちている。だからといって、ドイツの生活が劣っているわけではない。これが彼の主張だ。
子どもたちはアメリカで生活している。娘はアメリカ人と結婚したし、息子もアメリカで小児科医をしている日本女性と結婚しており、ずっとアメリカにいるつもりだ。日本ではドイツ人学校に通ったが、アメリカでは現地の学校、ブラジルではアメリカンスクール、ドイツでもアメリカンスクールに通ったので、子どもたちのライフスタイルと文化基盤はアメリカだ。アメリカでは、他人とちがっていないと認められないし、日本では周りと同じでないと認められない。だから娘と息子が日本で生活するのは無理だ。
そんなわけで、ヴォルフガング、朋子夫妻は、子どもたちの行く末を応援はしても、心配はしないで、二人だけのフリーハンドで生活できる。定年後の生活の場も、ライフスタイルも、二人だけで決められる。兄のクレメンスは夢をもって世界を視野にしているが、ヴォルフガングは現実にたって、いま生活している場を故郷と思ってきた。だから、どこで暮らしてもよいと考えている。それに、定年直前の所得の八十%が年金として保障されているので経済的な心配もない。現実主義者の彼としては、ぼけたり寝たきりになったら生きたくないという。そばから朋子が「そうなったら、ひと思いにあの世に行かせてあげるからね」と、願望とも本音ともつかないで横槍を入れた。