88カ所のはじまり |
四国をぐるりと一周する四国霊場88カ所は遍路が歩く全行程 |
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1400kmは空海が平安初期の弘仁6年(815年)に修行して歩い |
た足跡を聖地として開創したと言われている。 |
この時空海は42歳で男の厄年だったから、出身地でゆかりの |
深い四国に、仏道修行の道場として札所を開創したという。 |
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※ 『発心の阿波道場』 |
徳島県の第一番札所から第二十三番札所 |
※ 『修行の土佐道場』 |
高知県の第二十四番札所から第三十九番札所 |
※ 『菩薩の伊予道場』 |
愛媛県の第四十番札所から第六十五番札所 |
※ 『涅槃の讃岐道場』 |
香川県の第六十六番札所から第八十八番札所 |
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空海が18歳の時に山林修行をした大瀧嶽は第二十一番 |
(太瀧寺)、また空海の口の中に明星が飛び込んできた |
室戸岬の洞窟は第二十四番札所(最御崎寺)であり、
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空海の生誕地は第七十五番札所(善通寺)である。 |
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八十八の数については、八十八の煩悩を消滅させ、 |
八十八の功徳を成就するのが意 |
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いつ頃から四国遍路が始まったか定かではないが、室町 |
時代に空海の霊場を巡礼する大師信仰が起きている。 |
その後、江戸時代の元禄から文化・文政の頃になると四国 |
遍路が大層盛んになった。そして現在に至るまで遍路の歴 |
史が途絶えることはない。この長い歴史を考えるといつの世 |
の人も俗界から離れて、自然に回帰したい願望を抱いてい |
る。八十八カ所はそんな人々の回帰にふさわしい聖地だと |
言える。 |
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空海その人について |
空海は宝亀5年(774年)讃岐国多度郡屏風浦に生まれる。 |
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父方(佐伯)、母方(阿刀)両方共地方の豪族である。 |
利発で学問好きな一方、野山を駆け回ることの好きな元気な |
子供であった。 |
15歳のとき都へ上り、叔父の儒学者から儒学を学び、18歳の時 |
大学に入学した。大学では明経科に進み儒学研究を主に明経 |
道を勉強する。だが突然大学を中退して、私度僧となり、畿内 |
や四国で山林修行を始め、叔父をはじめ一族の期待を裏切る。 |
聡明なだけに自分の将来が見えたのだろうか? |
延暦16年(797年)23歳で思想持論『三教指帰』を記すが、その |
後延暦23年(804年)第16次遣唐使船に乗船するまでの7年間 |
その足取りは不明である。 |
『空白の7年間』といわれるこの歳月こそ、大師伝説の土壌にな |
ったのではといわれている。 |
この空白期の成果が、入唐した長安で一気に花は開くことにな |
る。長安で真言蜜教第七祖の恵果に師事し、蜜教のすべてを |
授けられ正純蜜教の第八祖となる。恵果の門弟千人をさしおい |
ての第八祖である。 |
いかに空海がその真価を発揮し恵果のめがねにかなったかが |
分かる。毎年、3〜40万人の遍路が古人の跡を慕いて歩き、 |
感動を新たにするというほどの感化力のある人は『弘法大師 |
空海』以外にはいないだろう。1200年も前の人間が、いま尚 |
一般大衆の生活と深くかかわり、特有の文化圏をつくりあげて
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いる。 |
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同 行 ニ 人 |
いつの時代も絶えることのない四国巡礼 |
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日常の生活を離れ、お大師様と二人、文字通り同行ニ人の旅は |
いろんなことを考える機会にもなります。 |
常にお大師様と一緒の気持ちであることを忘れない。 |
つらいことがあっても『これも修行の一つ』と考え、お遍路は歩く |
のです。もう一人の自分に出会うために。 |
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真言とはなにか? |
真言とは読んで字の如しで、真実の言葉という意味である。 |
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蜜教では呪や蜜言ともいわれている。それを唱えたり書いたり |
すると仏の功徳があるという呪文で、仏の言詞。 |
古代インドの呪文の陀羅尼はサンスクリット語のダラ−ニの事。 |
空海が若い頃、山岳修行をしながら唱えた虚空蔵菩薩の真言 |
は『のうぼう あきゃしゃ きゃらばや おんあり きゃまり ぼり |
そわか』 空海にしても梵語を見て分かったというのではなく、 |
これこそ仏の真言と信じて百万遍唱えることを実行したから、 |
明星来影すという衝撃的な体験をしたのだろう。 |
空海は真言の威力を尊重して、自ら開創した宗派に『真言宗』 |
と名付けた。 |