「シルフの夜想曲」


  ――辺りをなでた力強い風に、はっと気がついた。
 体中傷だらけだった。腕には鋭い刃物で引き裂かれたような切り傷、頭には鈍器で殴られたような腫れ。
そして、身に付けている服のところどころが黒く変色し、焦げ臭いにおいを発していた。
 …一体何があったんだろう。一体何をしていたんだろう。
そう思いながら地面から立ち上がろうとして、ある事実に気づいた。
 …動く? 体が、動かせる?
試しに指を動かしてみた。動く。痛みこそ伴うものの、自由に動かせる。
 …これは、どういうことなんだ?
しかし、その疑問は、目の前で繰り広げられる光景に吹き飛ばされた。
 …あれは!
反射的に立ち上がっていた。いつから握っていたのか分からない右手の剣をさらに強く握りしめて、
悲鳴を上げる足を叱咤しながら、一歩一歩、ゆっくりと歩き始めた――――

 月のない、漆黒の夜だった。
僕は小さな音を聞いた気がして、ベッドから体を起こした。
こんなことで目を覚ますなんて珍しいなと思いながら、とりあえず音の原因を探してみる。
「あ」
 ベッドが一つ乱れている。
確か、セツラが寝かされていたベッドだ。
「セツラ…?」
 ひやりとした風を顔に感じて、僕は半開きの扉が夜風に揺れていることに気付いた。

――抑圧された心、封印された真実――

 シルフの歌が聞こえる。

――水に紛れる涙、闇に消える足音――

「…なるほど、ね」
 僕は他の皆を起こさないように、そっと部屋を抜け出した。

 傭兵宿舎から少し歩くと、小さな池が澄んだ水を湛えている。
普段は仕事のない傭兵達が釣りや水浴びをしてくつろぐ場所だが、
どうやら今夜は違う一面を見せてくれているみたいだ。
「…………わからないよ…何にも……………」
 池の側に、一人の少女が僕に背を向けて座っている。

「抑圧された心、封印された真実」

 僕が呟くと、少女は肩をびくっと震わせ、ゆっくりと顔を僕に向ける。

「水に紛れる涙、闇に消える足音…」

 歌を呟きながら、僕は少女へとゆっくり歩み寄った。
「…セロカ…さん…」
「気が付いたんだね、セツラ」
 セツラは目を閉じて首をゆっくりと横に振った。
「どうして? ちゃんと目も開いてるし、ここまで歩けたし、僕の名前だって言えるじゃん」
 わざとだった。
「……セロカさんだったら、分かる…と、思う…」
「僕なら分かるって、どういうこと?」
「………いつものセツラとは違うって……………」

 『いつもとは違う』セツラは、両目に溜めていた涙を服の端でぐいっと拭った。
 池の周りには涼しい夜風が舞い、シルフがセツラのことを寂しそうに歌っている。
「…どうしたらいいか分からないんだよ。やっと体が自分の自由になったのに、ちっとも嬉しくないんだ…
 やりたいことがたくさんあったはずなのに…自由に、なりたかったはずなのに……」
 むせび泣くセツラの髪を、夜風がさわりと靡かせた。
「……あのさ、『いつもとは違う』セツラ」
「……?」
 僕はわざと無愛想に訊ねた。
「やっと自由になれたとか、どうしたらいいかわからないとか言われても、僕なんにも分からないんだけど。
 人に何かを相談したいんだったらさ、最初から筋道立てて話すもんなんだよ?」
「……ごめん、なさい……………」
「ごめんなさいとかいうヒマがあったら、早く話して欲しいな」
「……わかった………」

「…ずっと、疑問に思ってたんだ。正義とか英雄とかって、一体何なんだろうって。
 だってそうだろ? 正しいと思うことなんて人によって全然違うんだし、
 ある国では英雄と呼ばれている人間が、別の国では悪党にされてることだって多いんだ。
 これこれこういう事が正義だ、こういうことをする人間が英雄だとかって、誰かが決めたわけじゃない。
 …それなのに、自分は一体何をしているんだろうって。一体何を、目指してるんだろうって………」
ゆらゆら揺れる池の湖面を見つめながら、セツラは語りはじめた。
普段見慣れない顔に、ウンディーネが興味ありげに集まっているのがわかった。
「…でも、そう思うたびに、自分はこう言ってきた。
 『正義とは悪を滅ぼすもの。英雄とは悪を倒し、世界に光を導くものだ』ってさ……。
 じゃあその『悪』ってのは何なんだ? 『光』ってのは何なんだ?
 『絶対に正しい存在…例えば神など…を邪魔するものが悪。そして光とは悪が存在しないこと』……
 ……そこで終わりさ。いつもそれで納得しちまうんだ。そんな…自分の納得いかない答えなんかで…………」
そして、セツラは膝を抱えると顔を足の上に伏せた。
「…いつのことだったんだろ。自分が、まるで自分に無視されてるように感じたのは。
 そう思ったときには、もう体は自分のものじゃなかった。自分は…自分に捨てられてたんだ……」

 最後の方は泣き声だった。セツラは再びむせび泣きはじめていた。
そんな彼女の声に共鳴するかのように、シルフが一斉に悲しげな歌声を響かせはじめる。
あまり聴き良いものではないので、僕は思わず「うるさいな…」と口に出してしまった。
「…!」
 セツラの泣き声が止まった。
「あ、セツラのことじゃないから安心して」
「…じゃあ、誰の………?」
「シルフだよ。風と大気の精霊。知ってるよね」
「知ってるけど…どうして」
 僕はセツラの隣に腰かけて、頭上の闇を見上げる。
「彼女たちは歌が好きでさ、しょっちゅう何か歌ってるんだ。
 ほとんどは近くにいる人間の感情を率直にあらわしたものなんだけど、
 たまに予言みたいなことを歌うシルフもいてさ、聴いてると結構面白いもんなんだよね」
「…精霊の歌…?」
「すごいことじゃないよ。精霊使いの心得がある人だったら、誰だって精霊の言葉は理解できる。
 …もっとも、シルフの歌の意味を知ってるのは、多分僕くらいのもんだろうけどね」
ちょっと意地悪な口調で言った。これは僕の自慢だったのだ。
「…そっか。悲しいとき、風も悲しく吹いてるように感じるのは、シルフが悲しい歌を歌ってるからだったんだ…」
 セツラが感心したように僕を見た。
「だから、セツラも泣くのはやめてよ。シルフが悲しい歌の大合唱をはじめててうるさくてたまらないんだ」
「…わかった………」
 かすれた声で返事をし、セツラは再び涙を袖で拭う。
そのとき、僕は不意にシルフの歌の曲調と歌詞が変わったことに気付いた。

――ただ一人戦に身を投じ、自らを犠牲にして全てを守らんとする者よ
    光なき心を胸に秘めし汝を引き留めることは、我には出来ないのか――

「誰…?」
「えっ?」
セツラのことを歌っているのではない。
「近くに誰かいる」
「!?」
 僕は辺りを見回した。シルフのやはり悲しげな…しかし強い決意を感じさせる歌を聴きながら、
薄闇に包まれた視界から、何かを洗い出そうとする。
「!!!」
 いた。
傭兵宿舎から出てきたらしいその人物は、人目を忍ぶように足音も立てずゆっくりと歩き始めた。
その仕草から、かなりの腕の持ち主であると推測した。でも、一体誰……
「アールさん…?」
「!」
「アールさんっ!!」
 セツラが突然立ち上がり、宿舎に向かって走り出した。
その人物もセツラに気付いたらしく、歩みを止めて目を大きく見開いてセツラを見つめている。
「セツラ……? ………どうしたんだよ、一体」
「気がついたんですね、よかった…」
セツラの言葉にアールは驚いているようだった。
「…でも、どこに行くつもりなんですか? そんな変装までして…」
 そう、アールはいつもの皮鎧ではなく、女性がよく身に纏うようなゆったりとしたローブを着ていたのだ。
髪も頭の上の方で一つにまとめて縛ってあり、遠目から見るとまるで気品ある貴婦人のようにさえ思える。
「どこへ行こうと、おれの勝手だろ。もう魔王はいないんだ。おれがアレリアにいる理由なんてない。
 っていうか、セツラこそ大丈夫なのか? おれにそんなこと言うなんて、一瞬頭イカレちまったのかって思ったぜ」
「そう、イカレちまったんです…いつものセツラじゃないんです、自分」
 そう言って、セツラは悲しげに微笑んだ。
「でも、そう言うアールさんこそ、普段のアールさんとは違いませんか? 何て言ったらいいんだろ…なんか…
 ………思い詰めてるような感じがするんだ。自分の気のせいだとは思うけど……」
 僕はセツラに驚いた。アールが何かに対して思い詰めているのは、シルフの歌のおかげですぐ分かった。
でも、精霊使いでもない彼女がそんなことを見抜いてしまうなんて、普段のセツラからはとても想像つかない。
…そっか。普段のセツラじゃなかったんだ。セツラと一緒だと考えるのは大きな間違いだってことか。
「……やっぱり、おれの見込んだとおりだ」
「へ…?」
 突然アールがセツラに顔を近づけた。そして、きょとんとする彼女の顔をまじまじ見つめ、
「初めてお前を見たときから分かってたんだよ。セツラという人物には、二つの顔があるってな。
 片方はどうしようもなくバカで単純でおこちゃまで救い様もねぇヤツだが、
 心の奥底に押し込められてるもう一つの顔は違う。普段のセツラにはない強さを秘めているって…」
囁くように言った後、セツラの頭をくしゃくしゃかき回した。
「…強さだけじゃないな。迷い、躊躇、絶望なんていう弱さだって充分だ。
 単純に言うと、似てるんだよ、お前は……昔のおれに」
 昔のアールと聞いたとき、僕の頭に一人の少女の姿が鮮明に浮かび上がってきた。
悲しい瞳をした少女だった。だが、その悲しさの奥には力…怒り、憎しみ、復讐心を含んだ強さが垣間見えた。
大人になっていれば、その強さを自在に操れるようになっていれば、世界は変わっていたかもしれない。
 でも、彼女は大人になることはなかった。少なくとも、僕は彼女が生きているという話を聞いたこともないし、
彼女が海に落ちたあの日以来、シルフも彼女らしき心を歌ったこともなかったんだから。
いくら今のアールが彼女に似ているからって、まさかそんなはずは………。
「昔のアールさんに? 自分がですか?」
「そっくりだよ。自分の置かれてる環境に納得が行かなくて、泣いたり悩んだりするところとか、
 それでいて何にも出来ない自分を憎んだりするところとか、さ」
「!」
「おれもそうだったんだ。もっとも、思い出したのはホント最近なんだけどよ。
 多分、昔の自分を無意識のうちに見出してたんだろうな…記憶にはなかったのに、どこかに残ってたんだ」
 アールは視線をセツラから外すと、闇が果てしなく続く天にそれを移した。
闇の向こうに輝いているだろう星や月でも見つめているのだろうか、どことなくうつろな表情だ。
「…そう、だから行かなきゃいけないんだ。少なくとも、今この国をゾロムに滅ぼさせるわけにはいかない…」

「…………アールさん?」
「……余計な話しちまったな。まぁとにかく、おれとお前は似てるんだ。
 今は訳あってゆっくり出来ねぇけど、今度時間があったら一緒にライスコーヒーでも飲みながら話しようぜ。
 …そうだ、お前、名前はあるのか?」
 いきなり表情と口調を変えて訊ねるアールに、セツラは一瞬たじろいでしまったようだ。
「お前自身の名前さ。セツラじゃない、お前だけの名前」
「自分の……名前……………????」
 しばらくセツラは思索するように沈黙した。しかしやっと開いた口からは「ない」という力ない言葉。
「自分はセツラなんだよ…。いくらアールさんが違うって言ってくれても、
 自分はセツラという人間であることに…あったことに変わりはないんだから…」
「それこそ違ってるぜ。もともと名前なんてのは、人間が自分以外の存在を区別するために考え出したもんなんだ」
 池へ数歩歩いたあと、セツラを軽く振り返りながらアールは教師のように話し出した。
「わかるか? 名前が縛りつけるのは、名前を付けられた当人だけなんだよ。
 お前の場合、セツラという名前を付けたのが父親なのか母親なのかは知らねぇけど」
「いちおう…母が付けたって聞いてる」
「…まぁ、そうだとしても、セツラのおふくろさんがセツラという名前を付けたのはセツラたった一人だけなんだ。
 確かにお前はそん時ゃセツラの一部だったんだろうけど、おふくろさんがセツラと名付けた存在から、
 もうとっくにお前は離れちまってる。セツラって名前はお前のものじゃない…つまり、お前とセツラは他人なんだ」
アールがこんな難しい話をするなんて少し考えつかなかった。
でも、そういえば前に城の地下書庫で彼が読んでいた本も、かなり難しい分野だったような気もする。
「今のお前は名前がない、生まれたての赤ん坊みたいなもんなんだよ。わかったか?」
「なんとなくわかった…多分……」
「そうこなくっちゃな」
 アールは再びセツラ…だった人物に向き直り、楽しそうに笑った。
「それでだ、人間は名前があって初めて一人の人間になれるんだけど、そのほとんどは他人…
 まぁ両親とかが勝手に考えて、勝手な願いやら欲望やらを込めて本人の了解も取らずに付けちまったものだ。
 つまり、人間は名前というものによって、自分の意志とは関係なく生まれながらに他人に束縛されちまってるのさ」
だから、とアールは息を短く切った。
「おれは自分で自分に名前を付けたんだ…もっとも、正体を知られないための偽名だったんだけどな。
 それなのに、初めてその名前で呼ばれたとき、自分を縛りつけてたもん全てから解放されて、
 初めて自分になれたような、そんな感じがしたんだ。今でも覚えてる…っていうか、思い出したばかりなんだけど」
アールの顔には、懐かしさが滲み出ていた。喋りながら、少しずつ昔の記憶を思い出しているのだろう。
…ヘンなヤツだな。昔も、ちょっと前だって、思い出すのをあんなに嫌がってたくせに………………。
「……思いっきり長くなっちまったな。簡単に言うとだ、おれはお前に自分で名前を付けろって言ってるんだよ」
 いい加減このまま長話はまずいと思ったのか、アールは突然話をまとめ、簡潔に終わらせてしまった。
「自分で、自分に名前を…?」
「考えてみるとけっこう楽しいもんなんだぜ。名前も言葉だからな、それぞれ意味を持ってるんだ。
 カッコよくなりたけりゃカッコよさそうな名前にすりゃあいいし、頭良くなりたいんなら賢そうな名前にすればいい。
 もちろん、自由になりたいなら『自由』って名前だ。フリーダムとか、リバティとか……………響き悪ぃな」
「……ありがとう、アールさん。でも、とてもすぐには決められないよ」
「いいんだ、次の機会で。どうせもうおれも行かなきゃいけねぇんだし。
 次に会ったとき、また名前訊くからさ、自分の名前で応えてくれよ」
「あぁ!」
 セツラだった人物は、名前の代わりとでも言うように笑って応えた。
僕はそれを見て、セツラは今まで僕たちの前で一度も笑ったことがないんだと、強く思った。

――木々が歌うは願いの詩、流れ過ぎていく川のせせらぎ――

 いつの間にか、シルフが穏やかな歌を歌いはじめていた。

「行っちゃったなぁ、アールさん…」
 小さくなってゆくアールの背を見ながら、セツラだった人物がポツンと呟いた。
「大丈夫、また会えるよ。約束したんだろ? 自分の名前を教えるって…」
「セロカさん…」
 優しくそよぐ夜風にその髪を静かに踊らせながら、セツラだった人物は目を静かに閉じた。
「いい風だなぁ……なんか、夜想曲でも歌ってるみたいだ」
「歌ってるよ」

――夜の息吹、憎しみも怒りも涙も包んで、
    時の彼方に忘れ去られた隠された真実の姿を、この風のもとにさらけ出して――

 次の日、再びセツラは昏睡状態に戻ってしまった。
城中がアールの行方を追うのに遁走している中、ただ一人セツラだけが静かだった。
 僕は彼女が目覚めない理由を知っている。彼女は…もしかしたら彼女じゃないかもしれないけど、
アールとの約束を守るために、夢の中で自分だけの名前を考えているに違いない。
きっとそれまでは、本体のセツラも目覚めることはないんだろうな。かわいそうに。

FIN.

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