「黄泉からの逃亡」

 

 高く鋭い山々のふもとに、マネチス帝国ルタクス地方ジオラスの街はあった。
その街の最大の特徴は、市街の中心地にそびえ立つ巨大な円形闘技場。
そこでは毎日のように、剣闘士奴隷たちが自らの命を賭けた、望まぬ闘いを繰り広げていた。
 剣の打ち合う音。負った傷による痛みの絶叫。倒れた相手に留めを差したときの、あの手応え。
なにより、昨日までは共に生きてきた仲間を殺さねばならない。
しかし、死を選ぶことも出来ない。死ぬには、試合で同じ剣奴の手にかかるか、猛獣に食われるしかない。
剣奴たちにとって、そこは地獄以外の何でもなかった。
…そして、そんな中でも希望を失わない者がいたことを、彼らは信じることが出来ただろうか。

 一日の厳しい「調教」が終わり、剣闘士養成所は短い休息の時を迎えた。
割り当てられた寝室…というより牢屋に近い部屋に、剣奴たちは二人ずつ押し込められる。
「ほら、とっとと戻れ!」
見張りの兵士に背中を蹴られ、ロロムは兵士を殴り飛ばしたくなる衝動に駆られた。
しかし、反抗したってムダなことも分かっている。上げかけた腕をそっと元の位置に戻した。
「あ、そうそう…」
 ?
「明日、お前の部屋に新入りが入ることになったからな。まぁ、せいぜい仲良くするんだぜ」
新入り…またどこかの村でも襲って若者を捕まえてきたのか、
それとも、鉱山なんかから生きのいい奴隷を買ってきたのか。
……どちらにしろ、迷惑な話だ。もちろん、自分にとってではなく、「新入り」にとってだ。
(でも……)
兵士が部屋から離れたのを確かめた後、ロロムは小さく呟いた。
「…俺にとっては、希望になるかもな」

 次の日、「調教」を終え、ロロムは兵に見張られながら自分の寝室へ戻ってきた。
昨日の話は、はっきりと自分の脳に刻み込まれている。「新入り」のことだ。
「新入り」次第では、もしかしたら自分の長年の夢が叶うかもしれない。
しかし、まだそれを兵士たちに悟られてはならない。
ロロムは緊張を押さえながら、他の剣奴と同じようにぐったりと頭を垂らし、絶望に沈んでいる風を装った。
 コッ…コッ…コッ……
誰かがやってくる。それも、一人じゃない。
ガチャリと音がし、部屋の扉が開かれた。
「ほら、入れ!!」
どがっという音と共に、誰かが部屋に飛び込んできた。いや、突き入れられた。
ロロムはそっと頭を上げ、「新入り」の様子を伺った。
 齢13、4くらいの少年だ。その体は歳に見合わずたくましく、鍛えられているようだった。
しかし、ロロムは少年の肉体が本人の望んだものではないことにすぐに気がついた。
…全身を走る、鞭の跡だ。少年は、どこかから買い取られてきた奴隷に間違いなかった。
おそらく、鉱山など肉体労働関係というところか。
 そして、ロロムがなによりまず注目したところ…少年の目。
ドブ水のようにどんよりと濁っていて、一見希望など皆無に見える。
しかし、見抜くものは見抜くだろう。
――濁った水の下には、澄んだ清水がこんこんと湧き出ていることに。
「明日からしごいてやるからな、くれぐれも逃げ出そうなんて思うんじゃないぞ。
 …もっとも、そんな気力があればだがな」
少年に一瞥くれたあと、兵士は下品な笑い声を上げながら、部屋を出ていった。
「………」
少年は兵士が出ていった後、閉じられた扉の方をじっと恨めしそうに凝視している。
その眼差しには、もはや濁りは見られなかった。
「大丈夫か、新入り?」
兵が離れていったことを確かめた後、ロロムは少年に声をかけた。
「いつまでもそこで立ってたって何にもならないだろ。こっち来ないか?」
「………」
少年は無言のまま、ロロムの方へ歩み寄った。しっかりとした足取りだ。
そして、ロロムの横へ腰を下ろすと、不思議そうにこう訊ねた。
「…アンタこそ、大丈夫なのか?」
「ん?」
「こういうところで他人と仲良くなんかすると、あらぬ疑いをかけられて罰せられるって聞いたんだけど」
「…俺の心配してくれてるって受け取っていいのかな?」
「…勝手にしろ……かな?」
少年は少し表情を崩した。いくらか安堵したようだ。
「俺はロロム。よろしくな」
ロロムは少年に向け、そっと握手を求めた。
それと同時に、ロロムはこの少年なら、自分の夢を叶えてくれるという確信を抱いていた。
おそらく、協力してくれるはずだ。なぜなら、彼も同じ夢を抱いているはずだから。
でなければ、他人の心配なんかしない。
「???」
 少年は目を大きくしばたたかせている。ロロムの意外な行動に驚いているようだ。
「だから、よろしく」
「……いいのか、本当に?」
申し訳ないとも聞こえる口調だ。
「ああ。明日、俺がお前に殺されることになったとしても。
 もっとも、逆の場合はどうするんだと言われればそれまでだけどな」
「…」
少年の表情がさらに緩んだ。
「………ガライだ」
少年…ガライはロロムの手を固く握った。それは、自分がロロムの力になるということの示しでもあった。
「しかし、驚いたよ」
「ん?」
ガライはロロムをじっと見つめながら言った。
「こんなところにも、生存者がいたなんてな。剣闘士奴隷ってヤツは生ける屍しかいないと思ってたのに」
「生ける屍ぇ?」
ガライの言葉に、ロロムは頓狂な声を上げる。生ける屍という言葉が少し耳慣れなかったらしい。
「だってそうだろ? 生きる気力をなくし、一日一日を淡々と過ごしているだけ。
 そんなヤツらを生きていると言うと思うか? まだ目的を持って動いている亡霊や吸血鬼の方が生者らしいぜ。
 目的ってヤツはあった方がいい……たとえそれが、恨みや妬み、復讐だったとしても」
最後の部分に、ロロムははっとした。心の中を見透かされたような気がしたのだ。
「そう思わないか、………えっと…」
「ロロムだ」
「…そう、ロロム」
そう言った後、ガライは申し訳なさそうに苦笑いを浮かべた。
「なんか、アンタが誰かに復讐したがってるみたいな言い方だったな。すまない」
「謝ることはないさ。だって、実際に俺には復讐心があるんだからな」
そして、ついでとばかりに、自分のいきさつをガライに話し始めた。
「まだガキの頃、俺はビンボーのせいで奴隷商人に売られたんだ。そんでそれからというもの、
 ずっと自分を売り飛ばした家族へ復讐することだけを夢見て生きてきた。
 それで、自由を得るために何度か逃亡を試みてきんだけどことごとく失敗しちまってな…
 そんなわけで奴隷根性なんかちっとも身につかず、問題児扱いされたあげく、行き着いた果てがこれだ。
 剣闘士奴隷ってのは、奴隷の中でも最も卑しい…奴隷のクズとも言える存在だからな。
 もっとも、俺はこうなったことを嘆いちゃいない。逃げるための力を身に付けるには絶好の身分でもあるからな」
全てを話し終えた後ロロムはそう笑った。
出会ってまだ数時間と経っていないが、ガライを気を許してもいい人物だと判断したのだ。
「しかし、本当に大丈夫なのか?」
話が終わってから、ガライが遠慮がちに話してきた。
「まるで、自分はいますぐにでもここから逃げ出します、みたいな話だったぜ。
 本当にあらぬ疑いをかけられちまったらどうするんだ?」
「大丈夫だ。だって、ホントに俺は逃亡を考えてるんだからな」
「………」
あっけに取られたような顔をしばらくしたあと、ガライはぷっとおかしそうに吹き出した。
「俺に逃亡を手伝えってことか! なんか初めてにしちゃあ親しげなヤツだなって思ってたら、
 なるほど、そういう魂胆があったワケだ!」
「だって、お前も何度も逃亡を試みて、失敗して、最終的にここに売り飛ばされたんじゃないのか?」
「よくわかったな、まさしくその通りだぜ!」
ガライは初めて気を許せる人間に出会ったとでもいいたげに笑い始めた。
しかし、何かに気付いたらしく、その口をさっとロロムが塞ぐ。
「?」
「しっ……兵が来た。大方エサの時間なんだろ。なるべく生ける屍のフリをするんだ…
 …俺の計画に協力してくれるんだったら」
返事はなかった。その代わり、ガライの目から光が消え、泥のように濁ってしまった。
…濁ったように見せ掛けているのだ。
それを確かめた後、ロロムはガライから手を離し、ひざを抱えて顔を伏せた。
「おい、メシだ! ここに置いとくぜ!」
扉の下側に取り付けられた小さな窓の前に、雑穀パンが二つ置かれた。
「それとロロム、新入りをそそのかしてまたここから逃げ出そうなんて思うんじゃねぇぞ。
 次やったら、ムチ百叩きじゃすまさないぜ!! 新入りもだ、わかったな!!!」
(…言われなくとも、とっくにそそのかしてるぜ)
ロロムとガライは、ほとんど同時に心の中で呟いていた。

 それから、ロロムとガライは厳しい調教と、非情な試合に耐えながら、逃亡する機会を虎視眈々と狙っていた。
しかし、決定的な機会が見つからないまま、月日は無情に流れていき………。
「…とうとう…か」
 ロロムが意外に冷静な声で呟いた。
彼の横では、ガライが血の気のない顔で、部屋の扉を虚ろに見つめている。
 今から三日後に行われる剣闘士の試合の、組み合わせが原因だった。
「どうするガライ? 覚悟を決めて殺り合うか?」
…返事はない。
「思えば二年間、よく生き残って来れたよな俺たち」
…返事はない。
「おかげで、生ける屍のフリばっか上達した気もするけどよ」
…返事はない。
「………ガライ…」
「………逃げ出そう!」
「えっ!?」
ガライが勢いよく立ち上がった。
「俺には、ロロムを殺ることなんか出来っこない。でも、まだ死ぬわけにもいかないんだ。
 だったら、選択肢は一つしかねぇ――今日中に、ここから逃げ出す!」
その表情、声、瞳…どれを取っても固く強い決意が滲み出ていた。
「…出来るか?」
「絶対にしてみせる! 俺のダチに、アレリアの王城からたった一人で逃げ出したってヤツがいるんだ。
 そいつに出来て、俺たちに出来ないハズがない。しかもこっちは二人だ!」
「どういう根拠なんだよ……」
苦笑いを浮かべながらロロムはゆっくりと腰を上げた。
「でも、そこまで言われちゃやるっきゃないな」
ガライと視線を合わせ、ロロムは小さくうなずいた。
これが最後のチャンスだと、心の中で自分に言い聞かせながら。

 その夜。
巡回の兵士が近付いてくるのを見計らって、打ち合わせた通り、ガライは扉を大きくドンドンと叩き出した。
「お〜い、医者か司祭を呼んでくれ! 相方が突然苦しみだしたんだ!!」
「なんだと!?」
兵士が扉を開け、中に入ってくる。そして次の瞬間、扉の側に潜んでいたロロムによって頭を強打され、
痛みを感じる間もなく、夢の世界へと案内されてしまった。
「行くぞ!」
ロロムが気絶した兵から武器を奪い取り、ガライに先行して走り出した。
しかし、すぐに目の前を、複数の松明の光が塞いだ。
「!!」
「ガライとの試合を組めば、すぐにでも行動を起こすと思ってたぜ」
待ち伏せしていた兵士たちの先頭に立つのは、かねてからロロムに目を付けていたベテラン兵士だ。
どうやらロロムたちはまんまと罠にかけられてしまったようだ。
「だが、逃がすわけにはいかねぇんだよ。お前もガライも、この養成所で一、二を争う人気剣闘士だ。
 その二人の対決なんてカードは、もう二度とお目にかかれないかもしれないのによ」
「…もう二度とお目にかけるもんか。いや、一度もかけさせねぇ!!」
「ガライっ!?」
突然ガライが兵士たちに飛びかかった。あまりの勢いに、兵士たちが一瞬ひるむ。
そのスキにガライは二人の兵士を殴り飛ばし、その武器を奪い取っていた。
「…その代わりに、その人気剣闘士の腕前をじっくりと味わわせてやるぜ…てめぇの体でな!!」
剣の切っ先をベテラン兵に向け、ガライは挑発するように叫んだ。
「よせ、ガライ! この人数を相手に出来るものか!!」
ロロムがガライを止めようとする。しかし、逆にガライはロロムに向け、小さい声でこう話しかけた。
「お前一人逃げることが出来るだけの時間だったら、なんとか持ちこたえられるさ」
「!?」
「もうイヤなんだ…自分のせいで大切なヤツを死なせちまうのなんか、たった一度で充分だ」
「バカ! てめぇのせいかよ!!」
叫ぶや否や、ロロムは握りしめていた剣を、すぐ目の前のベテラン兵に向け勢いよく振り下ろしていた。
あまりの速さにベテラン兵は抵抗することもできず、血飛沫と共に床に崩れ落ちていった。
「まだ死ぬわけにはいかないって自分で言ってただろうが!! 男のくせに言葉を違えるんじゃねぇ!!!」
「誰がここで死ぬつもりだって言ったんだよっ! 俺にゃ元から死ぬつもりなんかこれっぽっちもねぇ!!!」
ガライもロロムに負けじと叫び返す。と同時に兵士に素早く斬りかかり、その胴をかっさばいていた。
口と体が別の意志を持っているかのように、二人は言い争いながら兵士を一人、また一人と斬り倒していき…
……口論が終わったときには、彼らの周りに敵はいなくなっていた。

「……これでも、まだ一人で敵を受け持つなんてほざく気か?」
「……そっちこそ、まだ言葉を違えるななんて言うんじゃねぇだろうな?」
肩で息をしながら、ロロムとガライは笑い合った。
二人とも自らが負ったケガと兵士の返り血のせいで、全身血まみれだった。
「これで、兵は全部か?」
「いや……数から言って、半分くらいか」
ロロムが額から流れ落ちる汗と血を拭った。
「でも、なんとか逃げ出せそうだな…」
「そうだな………ロロム?」
  ぽたっ……
「……やっと…逃げ出せるんだな……自由になれるんだな………」
ぽたり、ぽたりと涙を流しながら、誰に言うでもなくロロムは呟いた。
「……………………」
そんなロロムをガライはしばらく見つめていたが、やがて彼の背を軽く叩き、自らの目をごしごしこすりながら
「…早くここを出よう。泣くにはまだ早いぜ………」
と、そっと呼びかけた。

 逃亡に気付いた兵たちの怒号を遥か後方に聞きながら、ロロムとガライは夜のジオラスの街を走り続けた。
そして、怒号が途切れたときには、東の空がうっすらと明るくなりかけていた。
「これからどうするんだ、ガライは?」
街道をゆっくりと歩きながら、ロロムが二年間共に戦ってきた戦友に話しかけた。
「アレリアに戻ろうと思ってる。…ダチとの約束があってな。
 ただ問題なのは、そのダチが生きてるかどうかがわからないってことかな」
「そうか…じゃあ、ここでお別れだな」
 街道の分岐点に差しかかり、ロロムたちは足を止めた。
左向きの矢印には首都プーリア、右向きの矢印にはアレリア王国と書かれている。
「家族に復讐するんだったっけ?」
「ああ…俺は15年間、それだけを夢見てたんだ。…今のうちに言っとくが、止めたってムダだぜ」
それを聞くなり、ガライはぷっと吹き出した。
「止めやしねぇよ。前に言ったろ? たとえ復讐だったって、目的はあった方がいいって
 ―――――ただ」
「ただ?」
ガライが急に真顔になる。
「…復讐が終わった後、何しようかくらい今のうちに考えといた方がいいと思うぜ」
「……………!!」
ガライの言葉に、ロロムはまたもはっとなった。
「……それじゃ、また縁があったら会おうぜ。達者でな!!」
軽く右手を上げながら、ガライは分岐点を右へと歩き出した。ためらいのない足取りだった。
 
 ロロムは、ガライの後ろ姿をずっと見つめ続けた。
復讐を終えた後、何をしようかとぼんやり考えながら。
 そしてその後ろ姿が完全に見えなくなったとき、軽くかぶりを振ると、街道をゆっくりと左へ歩き始めた。
自分の長年の願いを果たすために。

                               FIN.

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