「Fool's Wish」

 アラディア。それは魔女たちの守護神。
 太陽たるルシファーと、月たるディアナの間に生まれし娘。
 迫害される魔女たちに、ディアナを崇めよと希望を与えし女神。

 しかし、その実体は虚構。
 彼女は人間によって生み出され、崇められし架空の守護者。
 彼女を巡る物語に真実はなく、彼女の与えし希望も幻。

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 何かが脈づく音がする。
どくん、どくんと、まるで何かの胎内にいるようだ。

 薄っすらと瞳を開くと、そこはただただ紅い世界。
周囲を血のように紅い光が流れ、壁、床、天井がまるで生き物のように脈動している。

 ……ここは、どこだろう?

 高尾祐子はゆっくりと立ち上がると、何ともなしに周囲を見回した。
……もちろん、人の姿などなかった。

 ……そうか、ここが所謂「地獄」という場所なのかもしれない。
高尾祐子は己の犯した罪を思い出し、自嘲する。
己の心の弱さ故に、世界を滅ぼし、多くの罪無き人々を死に至らしめた。
そればかりではなく、僅かな生存者――そのほとんどが自分の教え子――には、死よりも恐ろしい運命を背負わせてしまった。

 罰を受けて、当然だ。

"いや、お前が受ける罰は……この程度で済むものではない"

 不意に頭の中に響いた声。
今まで聞いたことのあるどんな声よりも冷たく、低く、背筋を震え上がらせる。

"虚構の娘アラディアの化身よ。
 お前は存在してはならぬ希望を説き、生まれてはならぬ存在を生み出した"

「……あなたが誰なのかはわからない。けど、あなたの言いたいことは重々承知しているつもりよ。
 私は世界に絶望し、自分の望む世界を創ろうとした。その結果、混沌とした絶望の世界を産んでしまった……」

"それは違う"

 いつの間にか、高尾祐子は書斎のような部屋に立っていた。
机と本棚、サイドボードの上に飾られたいくつもの写真……ボルテクス界を写したものだった。

 目の前には車椅子に腰掛けた一人の老紳士。この部屋の主なのだろうか。

"お前が説いた希望は、一人の幼い人間。お前が生み出した存在は、一人の幼い悪魔"

「!」

 車椅子の老紳士が、手に持った杖でサイドボードの上に立てかけられた写真の一つを示す。
そこには、祐子のよく知る……一人の少年の姿が写っていた。

君……」

"氷川という人間とお前しか生き残ってはならぬはずの受胎。しかしお前はこの人間を故意に生き残らせた。
 何故だ? お前とこの少年は、ただの教師と生徒という関係でしかなかったはずだ"

「……」

 東京受胎の起こるその日に見舞いに来るように、祐子は少年に伝えた。
その行為に深い考えは何もなく、ただ漠然と、彼には死んでほしくないとだけ思っただけだった。
……橘千晶でも新田勇でもなく、たった 一人だけに。

"理由などないはずだ。何故ならそれはお前の意思ではなく……他ならぬ、アラディアの意思"

「!? それは、どういう――」

"彼こそ希望。虚構たる我が娘が、我らに説いた黒き希望の種"

 老紳士が杖の先端で写真を軽く叩く。すると、少年の姿が豹変した。
全身を走る刺青。項から生えた一本の角。少年は、人間ではなかった。

"高尾祐子。お前の犯した最も重い罪は……この少年の存在を我らに教えてしまったことだ"


 祐子は、オベリスクの頂上でと再会したときのことをぼんやりと思い出していた。
彼の変わり果てた姿に、何の驚きも感じなかった。むしろ、この姿こそ本来の彼なのだと思うほどだった。

"お前は、オベリスクでアラディアの存在を知った。しかしアラディアは、受胎前からお前のことを知っていた。
 東京受胎にひとつのイレギュラーを混ぜる程度には、お前の意思に干渉することが出来たのだ"

「一体、何で……」

"アラディアの目的は、実体を得ること。そのために、虚構から実体を生み出す必要があった"

「虚構から……実体を?」

"アラディアの説く希望は、どんなに現実味を帯びていようとも、所詮は彼女と同じ虚構に過ぎぬ。
 しかし、この少年は……お前の、アラディアの説いた幻の希望を現実のものとしてしまった"

 老紳士が杖を一振りする。すると、目の前に光り輝く球体が現れた。
カグツチ……このボルテクス界の中心に位置する、次なる世界の卵。
そして、そのカグツチに対し、闘いを挑む複数の姿が見えた。

君っ……!?」

"彼は間もなくカグツチを倒す。そして、創世を果たすだろう。
 ……お前が絶望し、滅ぼした、かつての世界と寸分違わぬ新世界を。
 それは本来あってはならぬこと。カグツチが望むのは、完全な秩序に基づき息づく世界のみだからだ"

「……存在してはならぬ希望を実現させる。虚構たる存在を実現させる……」

"そう。それこそ、アラディアが実体を得るために必要なこと……
 ……そして、それこそ、我らが悲願"

 老紳士が杖を一振りすると、カグツチとそれに対峙する少年の姿がかき消えた。

"間もなく世界は生まれ変わる……だが、高尾祐子よ。お前の罪は決して消えることはない。
 お前に与えられる平穏はつかの間のもの……僅かな幸せを謳歌するがよい"

 その瞬間、何かが爆発するような大きな音が響いた。
それと同時に、祐子は自分の体が薄れ始めたのに気づいた。

"ではまた会おう……幻たる、我が娘よ"

 遠くに老紳士の冷ややかな笑みを感じながら、高尾祐子はその意識を手放した。

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 何かが脈づく音がする。
どくん、どくんと、まるで何かの胎内にいるようだ。

 薄っすらと瞳を開くと、そこはただただ紅い世界。
周囲を血のように紅い光が流れ、壁、床、天井がまるで生き物のように脈動している。

 ……ここは、どこだろう?

 高尾祐子はゆっくりと立ち上がると、何ともなしに周囲を見回した。
……もちろん、人の姿などなかった。

 だが、この場所。この感覚。まるで自分はかつて、この場所に来た事があるような……。

"まっていたよ"

 冷たい声が響いた。子供の声には違いないのだが、それはとても暗く、残酷なもの。

"きょこうのむすめ、アラディアのけしん。
 こんとんのくろいきぼうのたねを、このせかいにまいたニンゲン"

 いつの間にか、高尾祐子は書斎のような部屋に立っていた。
机と本棚、サイドボードの上に飾られたいくつもの写真……ボルテクス界を写したものだった。

 目の前には喪服を着た一人の少年。年齢にそぐわない、冷たい瞳で祐子を見据えている。

"どんなにキミががんばっても、アラディアがじったいをえることはない。
 アマラうちゅうがこのままであるかぎり、おおいなるいしが、カグツチがそれをゆるさないから"

 ゆっくりと、少年は祐子へと歩み寄る。小さな体なのに、そのプレッシャーに足が思うように動かない。

"げんにキミは、またせかいにぜつぼうした。またせかいをほろぼしてしまった。
 せっかく、かれがたすけてくれたのに。せっかく、かれがおしえてくれたのに"

 少年は祐子の体に手を置いた。金縛りにあったかのように、息が詰まる。

「あっ…ああ……」

 胸の中から染み出す記憶に、ただただ絶望した。
自分が招き、生き長らえさせた一人の少年。虚構を真実に変える力の持ち主。
しかし、彼が真実と成した虚構を再び幻と化させてしまったのは……他ならぬ、自分。

"かれはキミにはわたさない"

 少年の宣告。その手から溢れ出した闇に、祐子は侵食されていく。

……くん……」

 漠然とした感覚。彼がこれから辿るであろう運命。
悪魔を殺し、天使を殺し、死神を殺し、親友を殺し……神を殺す、血塗られた闇の道。
虚構に過ぎなかった混沌の希望を真実と成すために……。

"さようなら、アラディア"

 己の魂が文字通り「喰われる」のを感じながら、高尾祐子はその意識を手放した。

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「先生、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。何もエロ本とか読んでるわけじゃないんだし」

「でも、君。その本が何だかわかってるの?」

「わかってるから読んでるんですよ。僕はわからない本を読むほど読書好きじゃないんですから」

 一体どれくらいの本が納められているのだろう。家が丸々一軒入ってしまうほどの広さを持つ部屋を埋め尽くす本棚の林。
そして、本に囲まれて読書に耽っているのは、齢17、8くらいの一人の少年。
その少年を心配そうに見つめるのは、黒い服に身を包み、顔をヴェールで覆った一人の女性だった。

「そうよね。あなたはあまり本は読まない方だったわよね」

 口唇を僅かに吊り上げ、女性は少年に微笑みかける。

「……そのあなたが、戦闘指南書や天使の辞典以外を読むなんて、どういう風の吹き回しなの?」

「ナイショ」

 少年も負けじと女性に笑いかけた。とても柔らかな、見るものを幸せにするような笑顔。

「それじゃ、この本借りていきますよ。大丈夫、ちゃんと返しますって」

「絶対に失くしたりしないでね。失くしたらモト劇場に招待してあげるわ」

「うへぇ……わかりましたよぅ!」


 少年が去った蔵書室の中、女性は独り佇んでいた。
何故自分と少年は、未だにこのようなやり取りを交わしているのだろう?
自分が「高尾祐子」の振りをする必要は、もうどこにもないというのに。

 女性の名はゴモリー。魔王ルシファーに仕える72柱の悪魔の中で、唯一の女性悪魔だった。

 いくつもの姿を持つ彼女が高尾祐子の姿を持つようになったのには、それほど深い理由があったわけではない。
高尾祐子の教え子の一人、という少年を懐柔するために、彼の慣れ親しんだ教師を模しただけだった。
 もっとも、いくらゴモリーといえど、全くの無から実在する人間の演技を完璧にこなすことは出来ない。
そこでルシファーは、高尾祐子の魂をゴモリーに吸収させるという手段を取った。
……結果、高尾祐子の記憶はゴモリーに受け継がれ、その人格は彼女の分霊の一つとして構成されることになった。

君のせいよ……未だに私のことを『先生』って呼ぶんだもの」

 ルシファーの策が功を奏し、は今やルシファーに次いで魔界ナンバー2の実力を持つ「混沌王」と呼ばれる悪魔となった。
もっとも、それは戦闘能力という側面に限っての話であり、魔界における身分は決して低くはないもののさしたる重鎮というわけでもない。
底知れぬ潜在能力を秘めているが、が悪魔となって過ごした時間はあまりにも短く、幼すぎるのだ。

 天界との戦いの合間を縫って、はこのケテル城の蔵書室を訪れるようになった。
その理由は様々。苦戦した天使について学習したり、戦術の研究をしたり、新たな魔術の習得であったり。
 そして、いつの間にかゴモリーはそんな彼の勉強の手助けを行うようになっていた。
……いや、正確にはゴモリーの分霊のひとつと化した高尾祐子が
ゴモリーの持つ知識を、悪魔として過ごした経験を、少しずつへと教授していったのだ。
まるで、かつて二人がまだ人間だった頃のように。

「彼だってとっくにわかってるハズ……私がもう『高尾祐子』ではないってことくらい。
 それなのに、どうして彼は私を『先生』と呼ぶの? どうして私は…彼を『君』と呼ぶの?」

――彼を呪われた道へと誘ってしまった私を……どうして未だに慕ってくれるの?

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 天界との決戦は未だ続いている。しかしどんなに長い戦争にも、小康状態というものはあるものだ。
は「夏休みに勉強するなんて僕も変わったよね」と、人間の少年そのままの笑顔で、魔界の居城で勉学に励んでいる。

――もう私は用済みのはず。でも、どうしてあの御方は、私をここに留めたままにしているの?

「残念だけど、あなたはそう簡単に用済みになんかなれませんよ。
 あなたにはまだ……僕の教師という役割があるから」

――教師? 私があなたの?
 冗談はやめてちょうだい。もう私は教師じゃないし、あなたも生徒じゃない。
 通っていた学校も、住んでいた街も、国も……世界すら、ないじゃないの。

「それでも、あなたがかつて僕の先生だったという事実はなくならない。僕があなたの教え子だったという事実もね」

――…一体いつまで、私はあなたの教師でなければならないの?
 一体いつまで、あなたは私の生徒でなければならないの?

「永遠に、じゃないですか?」

――あなたは……辛くないの?

「時の永さを愁う心なんて、とっくに捨ててしまいましたから」

 そう答えて笑う彼の姿は、あまりにも無邪気で、それがあまりにも……悲しすぎて。

「……先生、どうしてそんなに僕を辛そうな目で見るんですか?
 どうして自分の境遇よりも、僕の境遇を嘆き悲しむんですか?」

 は、喪服の淑女の顔を覆うヴェールをそっと持ち上げた。
下からかつて彼の教師だった、一人の人間の女性の顔が現れる。

「僕は今の自分に満足してる。あなたが今の僕を見て辛く思うような理由は何にもない。
 ……だから、僕なんかのために悲しまないで。いつまでも過去に囚われないで」

 優しい微笑み。彼が幾千・幾万という敵を打ち破ってきた混沌王だという事実を忘れてしまいそうなほど。

「後ろばかり見ていたら先に進めない。反省は必要だけど、それ以上過去から学ぶものはない。
 失くしたものは戻ってこない。先生が滅ぼした人間の世界も、僕が捨てた人間の心も。
 でも……どんなに変わり果てても、僕たちはまだ笑うことが出来るんだ」

 僕たちは生きている。ここにこうして存在している。
 過去には戻れなくても、未来に進むことが出来る。
 無くなったものは取り返せないけど、新しいものをいくらでも創り出すことが出来る。

「だから先生……授業の続きをお願いします。僕はもっと多くのことを学ばなきゃいけないんですから」

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――Eko Eko Azarak, Eko Eko Zamilak.

 魔界の空の下、呪文が風に乗って遠くへ響いていく。

――Eko Eko Cernunnos, Eko Eko Aradia.

 全身に刺青の施された一人の少年が、荒野の中心で呪文を唱えている。
そこには呪術には不可欠であるはずの小道具は一切存在しない。
少年は己の躯と呪文のみで、呪術の儀式を執り行っているのだ。

――堕ちし太陽と月の娘よ。我は求め、訴えたり。今こそ来たれ、我が許へ!

 少年の躯から紅い光が天に向け放たれる。
紅い光を受けた空は、それに応えるように一筋の稲妻を少年の傍へと落とした。

……稲妻の中から現れたのは、七色に輝く蝶のような、蜘蛛のような形をした光。

"男よ、我は汝の言葉に応えたり。我が名は……"

「異神アラディア。太陽たるルシファーと月たるディアナの間に生まれし、自由を司る神」

 自らが召喚した神の言葉を遮ると、少年は七色の光へと手を伸ばした。

「ようやくあなたを呼び出す術を見つけることが出来た」

 そう囁く少年の瞳は、血のように深い真紅。
不敵に笑みを浮かべるその面持ちは、まるで少年の方こそ召喚された悪魔なのだと錯覚させるほど。

"……男よ。汝は我に何を求むる……?"

 魔女の守護神の問いに、少年は応えた……いや、宣告した。

「僕のものになれ。虚構たる我が姉よ」

 

"男よ。何故汝は我を『姉』と呼ぶ。汝は何者……"

「僕を憶えていないのか。かつてボルテクスと呼ばれた世界の卵の中で、僕はあなたと出会ったことがあった」

"……女を救いし男。確かに我はあの男とあの世界を憶えている。
 しかし、汝はあの男であって、あの男ではない"

 少年は七色の光をその手に掴んだ。優しく、しかし圧倒的な力を込めて。

「あなたが説いた、存在してはならない希望。虚構を現実にしてしまう力の持ち主。
 あなたの知る僕が『種』なら、ここにいる僕はその『種』が発芽し成長したもの。
 僕はあなたが見つけ、あなたの父が育てた、あなたの弟。自由という名の愚か者だ」

 少年が七色の光に口付ける。
そして、光をいとおしむ様に抱きしめる。
その表情は、まるで母親に抱かれる赤子のように安らかで。

 虚構たる我が姉よ。
 どうか僕たちのために希望を唱えてくれ。
 存在しない未来を、存在しない自由を唱ってくれ。
 僕はあなたの唱を叶えよう。
 存在しない未来を、存在しない自由を創り出そう。

「僕はあなたを恐れない。僕はあなたを蔑まない。
 僕の中では虚構も真実も境界を持たない。僕の中なら……あなたは、真実になれる」

 だから、僕のものになれ。永き時を彷徨いし、救われぬ希望よ。

「あなたはそれを望んで、僕を生み出したのだろう?」

 混沌の王、。見た目も中身も年端も行かぬ少年ながら、秘めし力は底なし沼のよう。
一度捉えられたら、決して抜け出せない。希望も絶望も、真実も幻も混ざり合う混沌にただ呑まれるのみ。

 少年の手の中の光が、一瞬目映く輝いた。
しかしその輝きの後には……七色の光は、跡形もなく消滅していた。

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「先生、遅くなりましたけど、この本、ちゃんと返しましたよ」

「随分長く借りていたのね……そんなにこんな本が面白かったの?」

 少年が本棚に戻した本は、魔女とその守護者に関する魔術書。
時の支配者に迫害された魔女たちが崇めた女神アラディアに関する記述が多く記されていた。

「はい、少なくともそこら辺の戦術指南書なんかよりも」

 ゴモリーは顔をしかめた。長い間ルシファーに仕えて来た彼女にとって、主の娘を詐称したアラディアは憎しみの対象に他ならない。
高尾祐子にとっても、自分は彼女に見捨てられたという感情は未だ根強く残ってしまっている。

「あなたがアラディアを嫌う気持ちはわかります。
 ムリもありません。今まで誰も彼女の説く希望を実現させることが出来なかったんですから。
 でも、僕なら……アラディアの説く存在しない希望を、実現させることが出来る」

 意味がわかりますか? と少年はゴモリーに問いかける。

「アラディアの持つ『希望を唱える力』は確かなものです。
 彼女が僕たちの勢力に加わってくれれば、『大いなる意思を倒す』希望を唱えてくれれば……
 僕が、それを実現させることが出来るんです。今までよりもより確かな力で」

 それに……と、少年はゴモリーを見つめた。

「僕にとって、アラディアはあなたなんです。高尾祐子。
 アラディアを救うことが出来れば、あなたを救うことが出来るかもしれない。
 ……いや、絶対に救ってみせます。あなたを、深き絶望の闇の中から」

 少年はゴモリーに……いや、高尾祐子に手を伸ばした。
全身に刻まれた黒と碧の刻印。紅玉のような瞳。しかしその笑顔は、間違いなく高尾祐子の教え子だったのもの。

「先生。あなたにはやっぱり、青空の下が似合う。大勢の生徒に慕われて、学校で教鞭を取る姿こそ相応しい。
 あなたに全く非がなかったわけじゃないけれど、あなたはもう充分苦しんだ。そうでしょう?」

 だから……待っていて下さい。僕が大いなる意思を倒し、新たな宇宙を創るまで。
 そうして創られた宇宙の中に、僕はあなたの望んだ世界を創ります。
 あなたの気の迷いなんかで、簡単に滅びたりなんかしない世界を。
 太陽があって、青空があって、千晶や勇が笑って、あなたが絶望することのない世界を。

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 キーン・コーン・カーン・コーン…
授業の終了を告げるチャイムが高らかに響き渡る。

「はい、今日はここまで。みんな、復習と予習は忘れないようにね」

 そんな教師の言葉を最後まで聞くのももどかしいとばかりに、教科書やノートを鞄に詰め込み始める生徒たち。
そこには人間の姿も、子供の悪魔の姿も見受けられる。

「おーいセタンタ、今日もあの美人のお師匠さんのところで槍の訓練か?」

「はい、何なら勇も一緒に訓練を受けてみますか?」

「勇、こんな下心ミエミエで行ってもすぐに見抜かれて、ゲイボルグで串刺しにされるのがオチよ?」

「げっ、千晶聞いていたのかよ……」

「げ、じゃないでしょ。げ、じゃ!」

 コツンと頭を小突かれる勇の姿に、セタンタや千晶の取り巻きである天使たちが笑った。

「そういえば、セタンタ、勇」

「どうした、千晶?」

 千晶は教室の隅に置かれた、一つの机を指差す。

君、最近全然学校に来てないわよね? 授業とか大丈夫なのかしら?」

「まぁ…アイツはアイツでいろいろ急がしいんだろ? 父親の仕事の手伝いをしてるって前から言ってたしさ」

「……前はもっと毎日学校に来てたような気がするんだけど、私の考えすぎかしら?」

「……確かに、最近何かあったのかな? 何か大切なことを忘れてる気がするんだが……」

「大丈夫ですよ。お二方が心配なさることはありませんって。
 それよりも、そろそろ下校しないと。私も師匠との稽古の時間に間に合わなくなってしまいますし…」

 思考の海に沈んでいきそうだった千晶と勇を、セタンタが慌てて引き止める。

「それじゃ、私は予習復習があるからもう帰るわね」

 千晶が校門のそばに駐車されていたリムジンに乗り込むや否や、天からウリエル・ラファエル・ガブリエルが優雅に舞い降りる。
三人の織天使に守られながら、千晶の乗る車(運転しているのはアークエンジェルだろう)は学校から走り去っていった。

「やれやれ…じゃ、俺はアマラ経絡でひっきーたちと駄弁ってくるわ」

 勇は面倒くさそうに、学校内に設置されているターミナルへと向かった。

「満月にはお気をつけ下さい。狂った精霊や御魂たちに襲われないように」

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 夕焼けが辺り一面を、見事な橙色に染めている。
すっかり人影の少なくなった学校の屋上で、高尾祐子は空を見上げていた。

「先生、ここにいたんですか」

 高尾祐子に駆け寄る一人の少年。緑色のパーカーに膝までの長さのジーンズを穿いている。

君」

「すみません…今日もまた授業に間に合わなかった」

 そう言って頭を下げる。その姿はどこからどう見ても人間そのもの。

「いいのよ。こうして籍だけ置いておいてくれるだけでも、私はあなたの教師でいられるんだもの」

「…僕が甘かったなぁ。とりあえずこの世界は落ち着いたけど、まだまだ創るものが多くて。
 とてもこの世界の時間で1年以内に、普通の生徒としてゆっくりと学生生活を楽しめる気がしないや」

「ふふ、たった1年とは言わせないわよ」

 意味ありげに笑う高尾祐子。その手には赤点だらけの通信簿が。

「残った日数全てを出席して、試験で全部満点を取っても、赤座布団に届くか届かないかといったところよ。
 かつての世界を滅ぼし、かつての世界の創造主を滅ぼした混沌王を落第させられる教師なんて、私くらいのものね」

「!! せ、先生っ! マジで僕留年っすか!!」

「イヤなら、存在しない希望を現実のものにしてみなさい。それがあなたの力なんでしょう?」

「――――っ!!!」

 放課後の学校の屋上、夕焼けの紅い光に照らされた二つの影。
本来存在するはずのない世界。本来存在するはずのない姿。
しかし、彼らはここに、間違いなく存在している。かつてと同じ、教師と生徒として。

――アラディア。

 高尾祐子は、かつて己が祈り、そして見捨てられた神の名を呟いた。

――私の犯した罪は消えることはない。滅びた世界は戻らないし、人間の彼も戻ることはない。
   でも、私も彼も、昔と同じように笑うことが出来る。
   もう私は絶望しない。あなたの示した希望は……確かに、ここにあるのだから。

FIN.

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