「夏目漱石」

 青い空の下、は新宿の街を歩いていた。
相変わらずの雑踏。誰もが自分のことに精一杯で、他人を構う余裕なんかない…そんな場所。

 そう、ここは新宿。決して赤茶けた大地に赤茶けた空、青白い思念体が彷徨う荒野なんかではなく。

「おい、何考え事してるんだよ?」

「ちょっと君、最近何か変よ?」

 隣を歩く勇と千晶に、全く同じタイミングで全く同じツッコミをされる。
ああ、この二人は間違いなく勇と千晶その人だ。
決して孤独を司る神でも、強き者の守護者でもない。どこにでもいるような普通の人間。

 ごめん、ちょっと考え事をしていた、とは微笑する。
こんな何気ない日常の中にこそ安らぎは有る。
これを否定することは、何者にも…大いなる意思にさえ、出来やしない。
…いや、させやしない。


「あ、ちょっと、そこのキミ…」

 不意に雑踏の中から声を掛けられた。勇のものでも、千晶のものでもない。
若い男性…恐らく変声期を終えたばかりの少年…の声。
どこかで聞いたことのあるような、でも思い出せない、もどかしい声。

 立ち止まると、一人の少年…年齢は自分と同じくらい…が自分に近づいてきていた。
緑色のジャケットに青ジーンズ、ゴーグルをつけた少年。
…その顔に憶えはない。少なくとも小中高の同級生ではないはずだ。
でも、どこかで見たことがあるような……?

「えぇと…確か、君、だったよね?」

 困惑するをよそに、意志の強そうな眼差しに人の良さそうな笑みを添えて、少年は問いかける。

「アンタ誰だ? …まぁ、間違いなくコイツがなんだけど」

がそれに応える前に、勇が少年に答えを返していた。

君なんだね? よかった…キミに会えて。ずっと探してたんだ」

 千晶と勇が、この少年と自分の関係について小声で議論をしている。
どうやらこの二人も、この少年のことについて何も知らないようだ。

 一体何の用? と少し警戒しつつ尋ねる。
これはボルテクス界で染み付いてしまったクセだ。

「そんな大した用じゃない…これを返したくて」

 少年の手には、一枚の古びた千円札…それも、夏目漱石。

「随分前に借りてそれっきりだったじゃん。でもキミの住所とか聞くの忘れてたし…
 あ、あのスプーンは返さなくていいよ。千円札と違って大した価値もないしね」

 千円札? スプーン?
それらの単語で結ばれた存在が、何かひとつだけあったような…。

「…本当にいろいろありがとう。それじゃ、またね…

 。自分が「人修羅」だった頃の名前。
この世界に決して存在してはいけない者の名前。
……一瞬、体が強張った

 そんなに笑いかけると、少年は新宿の雑踏の中に、まるで幻のように消えていった。


「何だ。オマエアイツに金貸してただけなのかよ。
 見知らぬヤツに金貸すなんて、ホントお人好しだよなぁ」

「でも、それをちゃんと律儀に返しに来る彼も彼よね。
 お人好しでは君といい勝負だわ」

 勇と千晶は揃って呆れた表情をに見せた。
…二人がという名前に何の反応も示さなかったのには、少しだけホッとした。

…あの少年は明らかにボルテクス界の記憶を多少なりとも残している。
まさかとは思うが、万一氷川やあの「坊ちゃま」の関係者だとしたら……。

「おい、オマエいい加減その夏目漱石、財布にしまったらどうだ?
 いらないのなら俺がもらっちまうぜ?」

 勇の声にはっとしたように、手に握られたままの千円札を見つめる。
徐々に野口英世にその地位を侵食されつつある、現代文の教科書に必ずといっていいほど載っているお馴染みの顔。
それは不自然なほどボロボロだった。本来ならとっくに回収され、ダンボール箱にでもされていてもおかしくないくらい。

「あら? スカシの部分に何か書いてあるわよ」

「前にこのお札を使ったヤツがメモでもしたんだろ?
 …おい、いいかげん夏目漱石とお見合いするのやめろって…」


 千円札の中心の円には、小さな文字でこう書かれていた。

――創世お疲れ様でした。

FIN.

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