平成14年3月9日作成
年代 | 月日 | 年齢 | 主な出来事 |
1755 | 11. 2 | 0 | マリア・テレジアの末娘としてウィーンのシェーンブルン宮に生まれる。(三万人の犠牲者が出たリスボン大地震の日) |
1763 | 8 | NEW!フランス王太子ルイ・オーギュストの結婚相手の候補となるが、フランス側は慎重に対応する。 | |
1765 | 8月 | 10 | 父フランツ・シュテファン、インスブルックで次男レオポルトとの結婚式の最中、発作を起こし他界。 |
1767 | 12 | ルイ15世の孫ルイ・オーギュストとの結婚話が進み始める。 | |
1769 | 14 | NEW!フランスからようやく、王太子妃養育係が派遣される。 | |
6月 | NEW!正式な結婚の申込み受ける。 | ||
1770 | 5.16 | 14 | 王太子ルイ・オーギュストと結婚。 |
1773 | 6月 | 17 | NEW!王太子とともにパリを訪問。民衆の熱烈な歓迎を受ける。 |
1774 | 1.30 | 18 | アクセル・フォン・フェルセンと初めて会う。 |
5.10 | ルイ15世の崩御に伴い、国王ルイ16世がフランス国王となる。 服飾商ローズ・ベルタン嬢、王妃の服飾、髪型の相談役となる。 | ||
NEW!プチ・トレアノンを手に入れる。 | |||
1775 | 19 | ランス大聖堂でルイ16世の戴冠式。 | |
ポリニャック夫人への寵愛、宝石・賭博好きが目立つようになる。 | |||
アメリカ独立戦争が始まる。(1775-1783) | |||
ルイ16世からプチ・トレアノンをもらう。 | |||
1776 | 20 | テュルゴー財務総監を罷免。 | |
1777 | 4月 | 21 | 長兄のドイツ皇帝ヨーゼフ2世来訪。 ルイ16世、手術を受ける。 |
1778 | 8.12 | 22 | 第一子の王女(マリー・テレーズ)を出産。 |
NEW!フェルセンと親しく付き合うようになる。 | |||
1780 | 11.29 | 25 | マリア・テレジア死去。 |
NEW!プチ・トレアノンに小さな劇場を作り、自ら舞台に立つ。 | |||
1781 | 10.22 | 第ニ子の王太子(ルイ・ジョゼフ)を出産。 | |
1783 | 4月 | 27 | NEW!アメリカ独立戦争に参加していたフェルセンが帰国。 |
1785 | 29 | 第三子の第二王子(ルイ・シャルルのちのルイ17世)出産。 | |
首飾り事件が表面化。 | |||
1786 | 30 | 首飾り事件裁判。 | |
7月 | 第四子の第二王女ソフィー出産(翌1787年に結核で死亡)。 | ||
1787 | 31 | NEW!プチ・トレアノンの庭園を拡張した村落「アモー」が完成。 | |
NEW!凶作により、社会不安が高まる。 | |||
NEW!財務大臣の人事にかかわるなど、国王に対し、政治的な干渉を行うようになる。 | |||
1789 | 5. 5 | 33 | ベルサイユで三部会が開かれる。 |
6.3 | 王太子、死亡。 | ||
6.20 | 国民議会の議員によるテニスコート(ジュー・ド・ポーム)の誓い。 | ||
7.11 | 財務総監ネッケル解任 | ||
7.14 | パスティーユ監獄を襲撃 | ||
10.5 | 女性を中心とするパリ群集と国民衛兵がベルサイユ行進。 | ||
10.6 | 国王一家、パリに到着。国王と議会はチュイルリー宮殿に入る。 | ||
1790 | 7月 | 34 | 革命進行の阻止を図るミラボーと会見。 |
7.14 | 連盟祭に出席し、民衆の歓呼を浴びる。 | ||
1791 | 4. 2 | 35 | ミラボー死す。国王夫妻はパリを脱出するという考えに傾き始める。 |
6.20 | 国王一家、パリから逃亡(ヴァレンヌ逃亡事件)。 | ||
6.21 | バレンヌで逮捕。人民の捕虜としてパリに連れ戻される。 | ||
1792 | 6.20 | 36 | パリの民衆、テュイルリー宮殿に侵入。 |
8.10 | パリ民衆と連盟兵チュイルりー宮殿を攻撃。 夜 議会が国王の権利停止を宣言。国王一家、タンプル塔に幽閉。 | ||
12. 4 | 37 | 国王の裁判問題。 | |
1793 | 1.21 | ルイ16世処刑される。 | |
7. 3 | ルイ17世と引き離される。 | ||
8. 2 | 特別法廷移管のため、コンシェルジュリー牢獄に移送。 | ||
8月〜 9月 | 騎士ド・ルージュヴィル、王妃救出に失敗。闇牢に移される。(カーネーション事件) | ||
10.12 | マリー・アントワネットの革命裁判(予審)。 | ||
10.14 〜16 | 裁判。 | ||
10.16 | 昼、国費を浪費した件で処刑。 | ||
1815 | 1月 | 遺体発掘。 | |
1826 | パリ第八区に贖罪礼拝堂建立。 |
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