ここの背景画像は「materials Angelique」さんからお借りしました。

ロベスピエールの小部屋

■ 歴 史 / 子供時代 ■

平成13年2月27日作成

 誕 生

ロベスピエールの生家
マクシミリアン・フランソワ・マリ・イジドール・ド・ロベスピエール(Maximilien Francois Marie Isidor de Robespierre)は1758年5月6日に、ベルギーに近い北部フランスであるアルトワ州(現在のパ・ド・カレ県)で生まれました。

彼の祖先は元々は農民だったようですが、六代前のロベール・ド・ロベスピエールという人が1630年頃、代訴人件公証人となり、それ以降の子孫は法曹の道を進みました。ロベスピエール家は代々、健康で精力的で、地元のブルジョワの頑丈な娘と結婚し多産でも有名でした。

祖父はアルトワ州アラス評定院(上級裁判所の一種)所属弁護士となり、その長男でりロベスピエールの父であるフランソワも多くの依頼者を抱える裕福な弁護士でしたが、神経質で女性関係が絶えませんでした。1758年1月2日、醸造業者の娘ジャクリーヌ・マルグリット・カローと急いで結婚しました。つまり、その4ヶ月後に長男のマクシミリアンが生まれたのです。

地方年のアラスで、このように早過ぎる出産はおそらく人々の噂の種になったことでしょう。


シャルロット

 家  族

若夫婦は、1760年には長女シャルロット、1761年には次女アンリエット、1763年には次男オーギュスタンという二男二女に恵まれましたが、1764年には流産が元で母が亡くなりました。妻の死後、父フランソワは仕事に対するやる気をなくし、多くの借財を抱えました。そして、1764年には男の子を母方の祖父に預け、女の子を父方の叔母に預け、そのまま消息がわからなくなってしまいました。


 幼年時代

幼いロベスピエール
1764年、マクシミリアンは六歳にして幼い弟妹を抱えることになりました。長妹のシャルロットはこう言っています。

「兄はがらりの人が変わりました。それまでは年齢にふさわしく、無鉄砲で騒がしく、軽率だったのですが、長男として、つまり家長であることを自覚してから後は、落ち着いて、思慮深く勤勉になりました。兄は私達を敬服させるような一種荘厳な口調で話しました。私達の遊びに兄が加わるときがあっても、それは遊びを監視するためなのでした。」

その一方でマクシミリアンは花や鳥を愛し、またレース編みを習ったともいわれています。


 オラトリオ修道会

1765年から1769年までアラスのオラトリオ修道会の神学校に在籍しました。1769年、11歳のとき司教座参事会員エイメの世話でサン・ヴァースト修道院の四人の奨学生の一人に選ばれ、パリのルイ大王学院に入ることができました。


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