TOPへ
咫尺

月夜


夜中にふと目が覚めた。
部屋が随分と明るい事を不思議に思い、窓の外に目を向けて納得した。

円い明かりが、そこに在った。
目を凝らす必要も無く、真円の月だけで事足りた。
こんなにも綺麗で大きな月は、久しぶりだと思った。

月に誘われて、バルコニーに出てみると、先客がいた。

彼は何も見ていない――乾いた瞳で、ただ夜空を見上げていた。
それは記憶にある瞳だった。……そう、家族同然の青年を失った時の己と同じだった。

放っておけば何時まででも、朝まででも彼は身じろぎすることもなく、月を眺めつづけるだろう。
だから、悩んだけれども声を掛ける。

「風邪をひくよ。明日は大切なんだろう?」

ぼうっと振り向いた彼には、表情がなかった。
同盟軍のリーダー、真の紋章の継承者、そして、自分をかばった家族同然の少女を喪った少年。

哀しいほどに、自分と重なる。

「あ、ミツキさん……。あれ、もう……こんな時間ですか?」

うつろな瞳。
あれほど聡い少年だったのに、心はここにはなくて。

信じられないのだろう。
常に共にいたあの元気な少女が、もう存在しない事が。

よく笑う、可愛い子だった。


僕は、同盟軍の軍師――シュウに、快く思われていなかった。

これから革命を為すのに、そして新たな英雄を掲げているのに、既に出来あがった英雄が存在することが、どれほど邪魔かは、理解していた。
だから、気分を害することもなかった。
彼の行動は、軍師としては、当然の事だ。

けれど、あの少女は、とても気にした。
ごめんなさいと、何度も謝られた。軍師のせいではないが、当然彼女のせいでもないのに。

本当に優しい子だった。


理解はしているんです――と、少年は呟いた。

明日が大切なことも。
ここで呆けていても、何も利点がないことも。

それでも眠ることができない。
繰り返し問うてしまうことがあるから。

「どうしてナナミが、死ななければならなかったんだろう。
どうして、明日ジョウイを倒しに、行くのだろうって考えていたら……」

言葉に詰まったらしく、彼は途中で黙りこんだ。

まだ彼は十六歳だと聞いた。
なのに、重すぎるものを背負って、立場ゆえに感情を表すこともできずに。

「ミツキさんは、どうしてこんな事になってしまったんだろうって考えた事は、ありますか」

彼は右手を眺めながら呟いた。

複雑な感情を抱いているのだろう。

旗印という立場につかせた力に。
友人と争わなければならない宿命に。

数々の危機を救ってくれた紋章に。

眠る時でさえ手袋を外さない己の右手を眺め、苦笑してしまう。

当たり前だった。
そんな事……何度も何度も、いつも考えた。

「何度もね。君はどう思う?
自分が選択して来た結果か、それとも何か運命とやらに操られた結果こうなったのか」

似た運命を背負わされた、だけど、僕ではない人の気持ちを聞いてみたくなった。

「……全て、自分で選択して来ました。
あの山頂で、僕とジョウイが死を選んでいれば、多くの人間の命が助かったんじゃないかって、思ったこともあります。でも、たとえあの時に戻れたとしても、僕は生きる事を選択します」

思っていたとおり、彼は強い人だったようだ。
静かな表情で、淡々と話していた彼だったが、不意に言葉に詰まった。

「けれど……けれど、それでも運命とやらを感じられずにはいられない」

彼は、表情を失ったままで泣いていた。

僕も嘗てそうだった。
リーダーという旗印である限り、皆の前で泣く事は許されなかった。
悲しむ暇もなかった。

ただひとりで、夜になると、部屋で泣き、朝がくれば、平然と部屋を出ていった。だから、朝が怖かった。
普通の顔をして、部屋を出る事が、いつか出来なくなるのではないかと、不安で仕方なかった。

「そうだね、僕もそうだった。僕の事は、誰かから聞いた?」
「はい、フリックさんと、ルックさんから大体は」

少しだけ目を伏せて、彼は答えた。
フリックがそういった気配りをする人なのは分かっていたが、ルックまで?


「ルック?ああ、紋章の事だね。
紋章を宿した四年前のあの日から、僕の身体は変わらない。今でも君と同年代に見えるだろう」

一瞬後に思い当たった。
そういえば、彼は紋章に深く関連しているのだから。

「はい。本当は、今は?」
「二十一歳になるよ。
僕も、自分で選んだ。生きていく道も、戦いの時も。父をこの手で殺した時も、ね。殺したくなんてなかった。だけど、あの人の心を変えることはできなかった」

目の前で、武器を構えた相手は、父ではなく帝国の将軍で。
勿論、人数にまかせて取り押さえることもできただろう。いくら腕が立っても彼らは三人しか残っていなかった。こちらの勝ち戦だったのだから。
そうすれば父の命だけは助けられたかもしれない。
それでもあの誇り高い人は、決してそれを望まなかった。

「このソウルイーターが、親友の命を喰らっていた時もそう。それが、彼の決着方法だったから。
僕は、何もできなかった」

彼らが決めたことを、手出しすることも、変えることも。
僕にできることはたった一つだけのこと。

「だから、いつまでも、憶えているよ。彼らの考えも、想いも、その生き方も」

忘れない。彼らの全てを。
僕が憶えている。

「憶えて……記憶として?」
「そう、僕は、この永劫の時を生きていくことを決めた。
父を手にかけたことも、親友を喪ったことも、決して忘れずに。皆、いつかは失われてしまうのだろうけど……それでもね」

変われない、永遠の命。不死という名の呪い。
皆は違う。
有限の刻を精一杯生き、いつかは居なくなってしまう。

グレミオも、パーンも、クレオも……そしてカスミも。
僕を、好きだといってくれた少女は、もう女性になりつつある。
年下だったはずの彼女は、もう上に見える。

テッドはこんな想いをしながら、三百年間を過ごしたのだろうか。

それでも、いつかは、慣れていくのかもしれない。
そして、刹那の時を生きる人を、愛せるようにも……

「でもこれは、僕の結論だから。
君の結論は、君にしか決められない。君たちの結末も、君たちにしかね」
「僕とジョウイにしか……」

そう、たとえ待っているのが悲劇でも。
決めるのは彼らだけ。外野にできることは、ただ見守るのみ。

それとも、奇跡が起こるかもしれない。
深いつながりと、歴史を持つふたりだから。
僕が、父とはできなかった事を、果たせるかも知れない。

しばらく考え込んでいたルーシェは、顔を挙げて語りだした。

「……ミツキさん、僕は、平和なんてどうでもいいんです。
ずっと、ジョウイが僕たちの元から去った事が信じられなくて、彼を、取り戻す為だけに闘ってきました」

ひんやりと。静かな声で。
迷う様子を見せずに、彼は続けた。

「ルカ・ブライトもゴルドーも、敵味方の多くの兵士達も、僕の我儘のために殺されました」

強い瞳だった。
これが、真実なのだろう。
いつも義姉に護られていたのは、彼女がそれを望んでいたから。
この静かで、穏やかな少年は、本当に強い。闘う強さだけでなく、その心の芯から。

「でも、後悔はしていないんだろう」

彼が求めていたのは、平和ではなく、親友と義姉が平穏に暮らせる場所。
どちらが正しいのかなんて、誰にも決められない。

全てを犠牲にしてでも、どれほど自分が穢れても、平和な国を創ろうとした彼の親友と、
何があろうとも、ただ大切な身近な人たちの為に闘い続けた彼とを。

「ええ。決めました。それは、これからも変わらない。
どれほどの犠牲を払ったとしても、幾万の屍を乗り越えても……僕は、ジョウイを助けます。それを彼が望まなくても」

それは宣言であり、そしておそらくは予言。
彼がそう望んだから、きっと歴史もそうなるだろう。

少し彼が羨ましかった。

『それを彼が望まなくても』

断言できる心の強さが僕にもあったら、変わっていたのかもしれない。
父や親友の運命は。

戻る