聞こえたのは風切音。そして何かを弾くような音。
それと鈍い音。
振り返った目に映るのは、スローモーションのように、ゆっくりと倒れていく義姉の姿。
その腹部を、一本の矢が貫いていた。
「「ナナミッ」」
事態が理解できずに、ただ叫んだ。
どうして僕がこんなことに気付かなかった。
殺気にも人の気配にも、全く気が回っていなかった。
「貴様らを、両方殺せばワシが」
そこに居たのは、騎士の誇りも失った愚かな男だった。
機も碌に読めず、ただその場の強者に付くだけの下衆が。
彼は、またも愚かな選択をしたということだ。
僕らを殺せるとでも――、そして、赦されるとでも思っているのか?
簡単な闘いだった。
ふたりの真の紋章によって、あっけないほどに白騎士達が倒れていく。
かろうじて、残ったゴルドーも、ジョウイとの連撃によって倒れる。
最期まで、くだらない欲望を抱いて。
そうだ、こんな奴など、どうでもいい。
「「ナナミ」」
矢は、まともに急所を貫いていた。
たった一本なのに。
それがどうしようもない箇所に刺さっている。
そのままでも、どろどろと溢れ出す血。
それは流れていく生命の量。
「ジョウイ……紋章を使うから、同時にこれを抜いてくれ」
「ああ……」
「許す者の印」
そっと抜かれた矢から、一段と血が溢れ出す。
癒しの紋章の力を、最大に発揮しているのに。
でもそれでさえ、出血を弱める程度でしかない。……傷が深すぎる。
「だ……だいじょうぶだから……だいじょうぶだから」
蒼白となった顔色で、どくどくと血を流し続ける傷を負いながら。
彼女は笑顔で安心させようとする。
「ナナミ……しゃべらないでくれ」
ジョウイがその手を握りながら力なく首を振る。
英雄として――数多く人を殺してきた僕らには、理解できてしまう。
この傷が致命傷であることが。
「だから……ケンカ……しちゃ…ダメ」
ハイランド皇国の皇王と、同盟軍のリーダーと。
今ではどうしようもないほど離れてしまったふたりの距離を、まるで無いものと見なすかのように。
他愛の無い喧嘩を、止めているだけのように微笑む。
「ねぇ、ルーシェ……
おねえちゃん…て、呼んで…くれる?」
いやだ、最期の願いみたいな言い方をしないで
「ね」
泣きたくなる程に、弱々しい笑み。
こんな表情、見た事が無かった。
「おねえ……ちゃん」
明日はルルノイエに突入する。
それが軍師の進言であり、僕も同意した。
帝国を倒すには、この勢いに駆られた今を逃す手は無い。
そんなことは理解している。
ただ――信じられない。
ナナミが側に居ないなんて。
それでも関係なく、闘いが進んでいくなんて。
物心ついた頃から、一緒に居た義姉と親友。
ふたりとも居ない。
親友はこの場に、義姉はこの世に。
大きな、丸い月を眺めながら、祖父の言葉を思い出した。
自分の真の名は、ルーシェではないと。
置き手紙に書いてあった名前、それはルシフェル。
ある国に伝わる、死の魔王と同じ名……天界を裏切り、冥界の王となった、最高位の堕天使の名前。
不吉だからと、祖父はその名を使うのを禁じた。
でも、実の親のつけた名だからと、縮めてルーシェと呼んでくれた。
「風邪をひくよ。明日は大切なんだろう?」
微かな気配を感じると同時に、背後から、声をかけられた。
声だけでわかる。それは、ただひとり僕が憧れた人。
皆が、僕を腫れ物に触るように扱った。それが、有難くもあり、鬱陶しくもあった。
この人は、一切触れなかった。
何事も無かったように……というのとは、違う。
側にいてくれた事もあった。ただ、何も言わなかった。
緩慢に振り向くと、やはり彼が居た。
月明かりの下で見る彼は、一層静かだった。
外見は、僕とそう変わらなくみえる。けれどその年齢にはあり得ない、穏やかな強さ。
静謐……その言葉が相応しい。
フリックさんが、彼のことを話してくれた。
帝国の大将軍の息子でありながら、親友から託された真の紋章を護るために、革命軍にその身を投じたと。
その親友は、闘いのさなか、彼の腕の中で長すぎる生を終えた。
そして、帝国を……皇帝を護る為に立ちはだかった父を、彼はその手で……。
苛酷過ぎる経験からか、あまり笑わなくなったと、フリックさんは悲しそうだった。
昔は、太陽のように、明るくよく笑う少年だったのに、外見は変化していないのに表情が違う……。
彼の強さも優しさも、何も変わっていない。
ただ表情が少なくなり、笑いも月の如く静かな微笑みになったと。
ルックさんが、彼の紋章のことを教えてくれた。
持ち主に絶大な力と不老を与える二十七の真の紋章の中でも異彩を放つ、近しき者たちの命を喰らう呪われた紋章だと。
「ミツキさんは、どうしてこんな事になってしまったんだろうって考えた事は、ありますか」
僕が、いつも考えている事。
そして一度、彼に尋ねてみたかった事だ。
何度もね――と、彼は小さく呟いた。
その右手をみつめて、どこか乾いた声で。
「君はどう思う。
自分が選択して来た結果か、それとも何か運命とやらに操られた結果こうなったのか」
ここまで来た道?
「全て、選択して来ました」
そのはずだった。
全てが自分の意思によって。ただ生き続けるために必死だった。
「あの山頂で、僕とジョウイが死を選んでいれば、多くの人間の命が助かったって思ったこともあります。でも、たとえあの時に戻れても、僕は生きる事を選択します」
多くの人よりも遥かに大切なふたり――義姉と親友を、哀しませない為だけに。
でも、今はそのふたりがいない。
「けれど……けれど、それでも運命とやらを感じられずにはいられない」
生きたいだけだった。
大切なふたりを哀しませることがないように。
護りたいだけだった。
大切なふたりが、この危うい世界で傷つかないように。
それなのに気付けば、ひとりは喪われてしまった。
もうひとりは、最大の敵対者として、明日には決着をつけなくてはならない。
こんな道筋など、望んだはずがなかった。
ミツキさんが、辛そうな顔をする。
この人も親友を喪い、前に立つ家族を手にかけた。
僕は、逆になるのだろうか……。
辛そうな顔は、ほんの数瞬。
自分も全ての選択は己の意思だったと――いつもの、無表情に近い、けれども強い表情で言った。
「いつまでも、憶えているよ。彼らの考えも、想いも、その生き方も」
この人は、全て抱えて生きていくのか……。
いつか皆が喪われたあとの、気の遠くなるほど永き時をひとりで。
「でもこれは、僕の結論だから。
君の結論は、君にしか決められない。君たちの結末も、君たちにしかね」
僕らにしか……。
僕の望んだ事、それは……何よりも簡単だった。
「ミツキさん、僕は、平和なんてどうでもいいんです。
ずっと、ジョウイが僕たちの元から去った事が信じられなくて、彼を、取り戻す為だけに闘ってきました」
それが、僕が闘う理由。
どうして彼が何も言わずに消えたのか。
どうして彼は、辛そうな顔で、帝国でのし上がっていくのか。
彼に何か考えがあるなんて分かっていた。
それでも悲壮な顔で、その手を血に染め続けている彼の姿を見続けることはできなかった。
ルカ・ブライトもゴルドーも、多くの兵士達も――全て、その我儘のために殺された。
理想の国を造る為でも、覇道のためでもなく。
ただ親友を取り戻したかった、都市同盟の盟主の願いの犠牲となって。
「でも、後悔はしていないんだろう」
あくまでも静かに、ミツキさんが問う。
そう、全くしていない。
……やっぱり、僕は死神なのかもしれない。
ジョウイは、平和をもたらそうとしていた。
だけど、僕はジョウイを取りもどしたいだけだった。
ジョウイとナナミと三人で、平穏に暮らしたいだけだった。
恒久の平和なんて、誰もが笑って暮らせる国なんてどうでもよかった。
この我が儘のために、多くの人が死んだ。
知っている。僕のほうが間違っている事は。
それでも……決めた。
ジョウイを死なせはしない。
「ええ。決めました。それは、これからも変わらない。
どれほどの犠牲を払ったとしても、幾万の屍を乗り越えても……僕は、ジョウイを助けます」
きっと、明日も多くの将たちが、立ちはだかるだろう。
皇王を護るために。命に代えても、僕を止めようと。
それでも。
その人たち、みなをこの手で殺してでも。
どれほど、この手を血に塗れさせようとも……構いはしない。
ジョウイ、君を助けるよ。
たとえそれが僕の我儘でも。
そして、それを君が望まなくても。
|