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扉の軋む微かな音に、少女は顔を上げた。

数十年前――大破壊以前にはありきたりの、だが今では稀有な服装。それは制服と呼ばれていたもの。
肩より少し長い黒の髪の、まだ二十歳に届かないであろう少女は、乾ききった無感動な瞳を、少しだけ扉へ向けた。


また愚かな者たちがやってきたのだろうと、僅かな嘲弄とともに思う。
昔は懸命に忠告したのだ。――数年のうちは。

閉じ込められた狂った娘を、興味半分で覗きに来る者たちへ。


この街の真実の姿を告げ、早く逃げてと叫んだ。


反応はいつも同じ。

ああ、本当に狂ってると。
まだ若いのに可哀想にと。

嘲笑とともに彼らは肩を竦め、そして己の幸せを噛み締める。悪魔の跳梁する地獄の中で、楽園のような街へ辿り着いた幸運に。

彼らに二度と会うことは無い。
彼らは幸せに、街の一員となるのだから。己の存在に疑問を抱かない、永遠に在り続けるだけの住人に。


ここ二十年、常にそうしていたように、少女は無表情で口を閉じたまま、闖入者をちらりと見た。

一人目で目を見開く。
二人目で涙が出そうになった。

「美月……時雨」

言葉を発したのは何年ぶりだろうか。

「どうして変わってないんだ……紅葉」

真女神転生 白の終焉


上納金の対価として悪魔を抑えているシンジュクとは違い、無償で悪魔から守られた街――ロッポンギ。
そんな美味い話があるはずがないと、はなから信じていなかった美月は、足を踏み入れるなり、気持ち悪いと言った。
絶えず漂う、強めの甘い香りが気に障るとも。

ゆえに彼は『おかしくなった子』が閉じ込められているという情報に、強く反応した。

どこか異常な街の中の『おかしい子』。
それは正常なのではないか。

そして、予想はある意味で正解であった。
彼女も勿論、正常とはいえなかった。異常なのは身体。正常なのは精神。

己の境遇に気付いてしまったことが、異端の原因。

街中の人間――いや屍たちが、己の死に気付かず、変わらない日々を享楽的に過ごしている中で、彼女は自分が既に死んでいることを知った。
街を支配する男たちの魔力によって動かされている屍人形なのだと、自覚した。

彼女――時雨の恋人にして、美月の幼馴染。
レジスタンスのリーダー紅葉と同じ名を持ち、同年代であった為、捕らえられ、そして死した少女。

「美月のことは、よく噂で聞いていたの」

あの頃と変わらない声で、変わらない姿で。
少女は、あの頃よりずっと沈んだ表情で、静かに苦笑した。

最近、死人たちの間でも噂されていたのだと。

この荒廃したトウキョウを歩ける数少ない者たち。
魔や神と渡り合う、救世主たちのことは。

「最初はまさかと思ったんだけど、噂聞いている限り、あんな酷くて、美月っていう名前の人が、他にもいるとも思えなくて」

大破壊から数十年は経っている。けれど、それがどうしたというのだろう。
今更こんな世界で、常識に当てはめても仕方がない。

「そんな美月だからこそ、頼みたいことがあるの」

おずおずと、少女は願いを切り出した。
本当に、何かのついでで良いから、もしも面倒でなかったら――と。

「反魂香が手に入って、もしも近くを通ったら――私に使って」
「紅葉!!」

時雨が叫ぶ。
今更――死後数十年を経過した死人である彼女に、反魂香を使っても、生き返ることはない。
むしろ魔力から解放され――ただの死体に戻る。

いいのと呟いた少女の、疲れきった表情に、時雨は息を呑んだ。
彼女は理解している。

今度こそ完全な死が訪れることを。

それほどに疲れたのだ。それほどに長かったのだ。
自我を持ったまま、死者であった三十年は。



長い沈黙を破り、何を言ってるんだと、美月は笑った。
そうだよね、私はもう屍鬼なんだもんねと、俯いた少女に、何も――三十年前より変わらない声が掛けられる。

「お前、俺に頼むとき、そんな言い方したことないだろ?」

明るい声に、少女は顔を上げる。
そこには、幼馴染の変わらない笑顔があった。

「いつもみたいに偉そうに言え。必要なんだから――ちょっと反魂香を持ってきなさいよって」

こんなにも存在は離れてしまったのに。
生者と死者の間には、途轍もない距離があるのに。

昔のままに美月は笑った。

「……馬鹿。私……時雨にはおしとやかなのよ」

詰まり、睨む紅葉に対し、美月はからかうように、首を傾げる。

「おしとやか〜? 中学生のときに、言い寄ってきた横柄な先輩に平手打ちしたよな」
「余計なことは言わない!!」

あのあと庇うのが大変だったのになあと、尚も非難がましい幼馴染の胸を、少女は鉄格子ごしに、ぽかぽかと叩く。

「馬鹿美月。私が……」

崩れそうになる怒った顔を、最大限の努力で維持する。
彼の捻くれた優しさが分からないほど馬鹿ではなかった。ずっとずっと幼い頃からの――友人なのだから。

「欲しいんだから……探して……きなさいよ」
「了解」

涙は出ない。
身体はとうに死んでいるのだから。

それでも、微笑んで頷いた美月の言葉が、泣きたいほどに嬉しかった。
心は生きているのだから。



ロッポンギには一秒たりとも居たくないという美月の言葉に、ふたりは賛成した。
実態を理解してしまえば、あの清潔で綺麗な明るい街は、恐怖の対象にしかならなかった。

「ところで相談なんだが、ハンマかけるんじゃ駄目かな」

街より少し離れた、崩れかけたビルを野営の地と選んだ美月は、暗い雰囲気の中で、切り出した。

「美月くん!!」
「不謹慎よ、美月」



夜中、ふと人の動く気配を感じて、時雨は目を覚ました。
今日は美しい女神が、寝ずの番を任されているらしく、上空に浮いていた。

美月は相当に合理的で、悪魔を使役することに抵抗がないようで、夜の見張り等は、寝なくとも平気な仲魔に任せて、人間は眠れるように取り計らっていた。

「美月くん……は?」

彼の姿が居ないことを怪訝に思い、時雨は女神に問うた。
彼女は、ちらっとだけ視線を時雨に向けると、黙って右手の広間の方を指した。

「ありがとう、彼女の事を頼むよ」

眠る紅葉を指してそう言うと、クシナダ姫はただ肯いた。
気さくな者たちも確かに存在するが、プライドの高い悪魔は、基本的に美月以外には答えない。
反応するようになっただけでも進歩と言えるので、時雨は気を悪くしたりはせずにそちらへ向かった。


階段に腰掛けた美月を見つけたが、彼がCompを操作しているのに気付いて、声を掛けて良いものか、時雨は迷っていた。

「リリムちょっといいかな」

美月は、実体化中の煙に向けてそう言った。

「あら、ふたりきりだなんて。夜のお相手?」

婉然と微笑む美女が、ゆっくりと存在感を増す。

「残念、ちょっと違う。聞きたい事があるんだ」


「反魂香とハンマの違い?」
「そう、あと反魂香のありかを聞いた事はないか? できる事ならメシア教会とは、あまり関わり合いになりたくないんだ」

美月は昼間のこと――幼馴染の少女が、魔力により屍鬼へ変えられた事、そして彼女が解放を望んでいることなどを語った。

そういう事だったのね――と、ふむふむ頷いていた美女は、人間にも分かり易いように、噛み砕いて説明する。

「まず、ハンマは邪なる存在を浄化するもの。その彼女も、悪魔のまま浄化されるのよ。反魂香とは、魂をあるべく状態に戻すもの。その彼女に使えば、魂が人間に戻り、そして体が死んでから時間が経ちすぎているから、復元はできずに、人間として死ぬの。結果として『死ぬ』ことに変わりはないわ。
ただ大きな違いは、ここでしょうね。屍鬼としてか人間としてか」
「そうか……、反魂香のありかはわかるか?」

彼女は割に情報通の部類に入る。
悪魔も人に近い面もあるのか、若者口調や女性型は、『噂』レベルには強く、口も軽い。

秘匿されるべきことに強く、口が堅い老人口調とは真逆となっている。

「色々なものを持っている存在なら、聞いた事があるわ。確か宝石と引き換えにしてくれるそうよ」
「あ、ラグの店か。盲点だ。宝石が惜しいから、貰える物のチェックさえしてなかった。……明日行ってみるか」

独り言のような最後の呟きに、リリムが驚いた顔をする。

「意外〜、助けてあげるんだ。いいの? 確か反魂香はダイヤと引き換えよ」
「な……何、ダイヤ!? ……いや、いいや。紅葉は幼馴染だしな。それにあのままじゃ、時雨が辛いだろう」

時雨の名を聞いて、リリムが微かに顔をしかめた。
それに目敏く気付いた美月は、聞いた。

「その反応は、なんでだ?」

実は、彼女だけでなく、仲魔にはこういう反応をする者が他にも居た。
時雨だけでなく、衣更にも同様の反応を示す者たちが居た。

常々彼が不思議に思っていた事だった。
悪魔は、通常人間を嫌うほどの関心を持たない。

悪魔使いである自分ならまだしも、他の人間は、本来『どうでもいい』はずなのに。

「なぜ、お前らは時雨を、ロウの連中は衣更を嫌がるんだ?」
「えっと」

しばらく口篭もってから、リリムは口を開いた。
対等に話していても、美月はやはり彼女の主であるから。

「あの子は危険だわ。偏りすぎているのよ。あの子だけじゃなく今まで居た子も。まるで人間ではないかのようだわ」
「人間ではないとは?」

力の有無かとも思ったが、この変わった世界では、魔法が使える人間は、珍しくはあるが稀有というほどではない。

「人間って、力も碌に持たないくだらない生き物だけど、唯一能力があるの。それは、自分の意志で何かを決めることよ」

魔は、誕生した瞬間に、全てが決まっているのだと彼女は言う。
属性も考え方も。

「人間は、自分で決めるの。自分が体験した事・感じた事、それによって変わっていくの」

あなたはそうでしょ――という問いに、美月は頷いた。

「だけど、あの子たちは違うのよ。まるで悪魔のように固定されているのよ。何を見ても、何を感じても動かされることなく」
「酷いいわれようだな。あいつらは、意志が固いってのとは違うのか?」

問いに、リリムは首を横に振った。

「違うわ、固いというのは、少しは動くのよ。だけど彼らは微動だにしない。まるで作られた生命みたい」

彼女から見れば、時雨は極ロウの魔――天使のように見えるのだと言う。
逆に、ロウからは、衣更は極カオスの魔――魔王や破壊神のごとく映るのだろう――と。



時雨は、拳を握った。

イイ子ちゃんだの石頭だの。
人間の中でも、散々言われてきた。少し可笑しいとさえ言われたことがある。

何が可笑しいのかなんて分からなかった。決められた規律を守ることは当然ではないのか。
ケースバイケースなんて言葉の方が、妙だと思っていた。

悪魔にすら、異常と疎まれていたのかと思うと気分が悪くなってきた。

『これは神に捧げられし魂』

初めて美月たちと会った夢の中で、そんな声を聞いた。
美月が救世主であり、衣更が力を求める堕ちた魂ならば、自分は生け贄に過ぎないのだろうか。

「それがあいつらの個性だ。ただそれだけだろ」
「……そうね、ごめんなさい」

美月の強い口調に、はっとさせられる。
昔も、なんだか下らない原因にて、衣更と言い争っていたら、うるさいと蹴っ飛ばされたあとに、美月は言ったのだ。

『けど、それがお前らなんだろ。認めろ、で、喧嘩すんな』



「偶々渋谷でダイヤを手に入れてたんで、反魂香にします。はい決定。使う当てもないしな」

平然と断言すると、さっさとシンジュクへと向けて歩き出す。
幼馴染は、なにかのついでで良いと言ったのに、従う気は欠片もないようだ。

「はいはい……ねぇ、時雨。本当に良いの? そりゃ確かに彼女は生きていないけど、香を使ったら本当に……」

美月が先へ進んだのを確認してから、紅葉は小声で時雨に聞いた。
たとえ偽りでしかなくとも、彼女は今存在しているのに、消滅してしまう。

時雨は、しばらくしてから、頷いた。
彼女の望みなのだから、仕方ないと。


「ありがとう、これで私、人間として死ねる」

あまりの早い再来に、流石に驚いたようであったが、少女はすぐに事態を理解して――覚悟を決めた。
三十年間、夢見ていたのだ。

正常なる死が訪れることを。


「さようなら、美月。私ね、あなたのことも、ちょっと好きだったのよ」
「俺は普通に好きだったよ」

さらりと答える。

これは本当の別れだというのに。至極自然に。
目を丸くする幼馴染やその恋人や現恋人に気後れすることもなく。

「男が出来たっておじさんから聞いて、相手見に行ったくらいだ。だから元々時雨のことは知ってた」

やな奴だったら整形必要なくらいぼこるつもりだったが、惜しいことに、まともだったのだと、本当に残念そうに呟く。
そんな場合ではないと分かっていながらも、時雨は認められたことに感謝した。

「もう、なんで……美月の許可が要るのよ」

掠れる声で、それでも彼女は気丈に、怒った顔を作る。

だって守るって約束してたから――と、呟いた美月に、皆の動きが止まった。
いつもの彼の表情ではなかった。

「なのに守れなくてごめん。こんなことしかできない自分が嫌だ」

死なせることしかできない。
たとえ解放であろうとも、感覚的には殺すことと等しい。

そっと、少女の手が、美月の顔を包む。
体温などとうに失われた冷たい手にも、美月は身じろぐことなく、幼馴染を見つめる。

「ありがとう。そりゃ幸せなんかじゃなかった。充分に生きられたなんて思ってない。――でも、時雨とあなたに会えて良かった」


最期まで微笑んで、塵へと戻った恋人が、完全に消え去ってから、時雨は震える声で訊ねた。

「好きだったって……本当ですか?」
「当たり前だろ。隣に住む同じ年の幼馴染だぞ? しかも可愛い」

そんなシチュエーションで惚れない方が可笑しいと、断言する。
抜け抜けと応じた美月に、時雨は言い返そうとした。

「可愛いのは知ってますけど……いや、知ってました……けど」

途端に言葉に詰まる友人の様子に、流石の美月も困った顔になる。
なにしろ彼の表情は、限界寸前なのだと雄弁に語っていた。

「ああ、もう。……悪い、しばらくこいつを見てやっててくれ」

召喚されたのは二体の悪魔。
こくりと悪魔たちが頷いたのを確認してから、美月は既に背を向けながら、時雨に告げる。

「離れすぎないところでひとりで哀しんでこい。怒鳴るなり泣くなり好きにしろ」


「まったく……美月くんは」

何を考えているのだろうと思う。
自分勝手なくせに。恋人たちの別れの場面で、臆面もなく告白をかますような、図々しい人間のくせに。

なのにこんなにも的確に気遣う。

「……こんなときだけ」

ぽたぽたと、滴が頬を伝う。


「自分には……恋人が出来たっていうのに……生きているのに」

どうして異変の日に、デートの約束をしてしまったのか。

きっと待っているであろう彼女が心配で、どうにか向かう手段を探していた。
レジスタンスだの悪魔だの、本来関わりがないことにも首を突っ込んで、探して、求めて。

いつからだろう。
まるで呼吸でもするかのように、普通に魔法が使えて。

同じく強力な魔力を持ち、攻撃面に優れた友人。
そして、悪魔使いたる資質を持つ剣士である友人。

彼らと出会い、バランスにも恵まれていたせいか、そう苦労することもなく、旅は楽しかった。

しばらくの間、彼女のことを忘れていた。
認められるにつれて。
神と魔の名を冠した化け物たちを倒し、人を救う一行として、尊敬の眼差しで見られるようになるうちに。

この世界では三十年もの時が過ぎたと聞いて、勝手に諦めてもいた。


なのに彼女は、あの日のまま。
服装すら、見慣れた制服姿のまま、記憶があるが故に他の屍鬼たちのように、己を人間と信じ込むこともできず――ずっとずっと捕らえられていた。




「そろそろ落ち着いたか?」

ええ――と静かに頷いた時雨に、美月は笑いかける。
目にした悪魔たちが滅ぼされてきた、獰猛な笑みで。

「俺は、この街のおじさん連中ぶっ殺すからな」

強いから強制はしない。
お前にも紅葉にも。

妙なところで他者を気遣う友人に、時雨は笑って返した。

「もちろん……僕も参加します。ぶっ殺しましょう」


「よ、よく考えたら、こいつが……地下の壷を、怖がっているっていう……情報があったな」
「ほ……ほんとにね。なんで……私たち、真面目に闘ったの……かしら」

刀を杖のようにして辛うじて立っている美月に、既にへたり込んだ紅葉が答える。
魔力が尽きるまで回復を唱え続け、その後は慣れぬ肉弾戦に参加させられた時雨は、無言で突っ伏していた。

赤おじさんこと赤伯爵の正体は、魔界における王のひとり――ベリアルであった。
確実に今までで最強の敵。

本当にぎりぎりの勝利。
始めに玉藻を――物理攻撃を反射する妖狐をけしかけ、その強大なる攻撃力をベリアル自身に返せたことが大きかった。

東洋の魔の特性など知らぬ、魔界の王だからこその慢心。
それがなければ、屍を晒したのは、美月たちの方だったろう。


あまりの疲労によって、三人は泣き続けるアリスの言葉に気付くのが遅れた。

「ひどいよーー、黒おじさん」

少しだけ時雨の反応が早かった。
三人の魂を一撃で刈り取るであろう死神の鎌から、二人を逃がす。


「ほう、高司祭のごとき霊位。ひとりの魂しか奪えなかったことは屈辱ですが、質はかなりのものですね」
「でもお兄ちゃんの方が良かった〜」

ぷぅっと愛らしく頬を膨らませた少女のおぞましさに、時雨は身震いした。
魂だけの存在になった今は分かる。彼女の怨念が、妄執が、凄まじい歪みを形成している。

「もうすぐ彼も手に入りますよ、ここにお友達の魂がある以上、来るでしょうから」
「うわーい。ありがとう、黒おじさん」

拘束され、動くことのできない時雨は、歯噛みする。
せめて、美月に伝えたかった。
すぐにこの街を出るんだ――と。


「ぎゃあーーー」

秘書と名乗っていた死人が、炎に包まれて吹き飛ばされてきた。
黒男爵は、腕の一振りで、炎塊を消滅させ、苦笑する。

「せめてドアから入ってきて頂きたいものですね」
「時雨を……さっさと戻せ!!」

壁をぶち破り、瓦礫を蹴飛ばしながら部屋へ入ってきた美月が、剣を突きつけ叫ぶ。

「おやおや。今、この世界で最も死と悪魔とに触れている貴方なら、もう分かっているでしょう?」

気障に肩を竦めて、黒男爵は嘲笑した。死霊使いたる自分が狩った命が戻るはずがないと。

ネビロスという真の姿に戻った黒男爵に、美月は無言で構えて見せた。



後の結末はいつも通り。
こうなった彼を止めることなど、できはしない。時雨は知っていた。

また、同時に理解していた。

もう自分は身体に戻る事はできない。
これが死というものなのだろうと、わかってしまった。

だが、現実感が無いのかもしれない。
恐怖より悲しみより強く感じる感情があった。

飄々とした、つかみ所の無い美月が、本気で自分の為に怒っている事が嬉しかった。


消えていく死霊使いにも。泣きじゃくる愛らしくもおぞましい少女にも。
ろくに注意も払わずに、美月は一目散に、時雨の身体へと駆け寄ってきた。

「ほら、ラグ脅して、後払いで反魂香奪ったから。さっさと使え」

脅して奪って後払い。
宝石店の主人が、どんな目に遭ったのか、想像しただけで申し訳なくなった。


時雨は、苦笑して、静かに首を横に振った。

「……時雨?」
「本当は分かっているでしょう? もう行きます。僕の紅葉も待っているから」


僕はもう消えてしまう。

こんな世界に君たちを遺していくのは、不安だけれど。
でも、君たちならば助け合って、生きていけると信じている。

さようなら――君たちに、そして、衣更くんに会えてよかったと思う。


薄れながら、彼は笑った。――笑えた。

美月を助けて死ぬ事は、彼の与えられた役割ではなかった。
そして、彼の本来の役割、ロウ側の新たな救世主として、人々を導くことを引き継がせる為に創られた彼のクローンは、旧友を殺す事を拒み、再び死した。

それは、美月は知らぬ事だった。
神に捧げられた魂――神の使いとやらから紹介された友人の、正確な最期を知ることはなかった。

それでも時雨は確かに、自分の意志で、与えられた運命とやらを変えた。
彼は、神に造られた人形などではなかった。