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―Contraries cure contraries― 黒のlast days

その日、庭から衛宮邸を訪れた言峰は、縁側で目を閉じる衛宮の姿に足を止めた。

うたた寝でもしているだけだと思いつつも、急ぎ駆け寄り首筋に指を当てる。
弱々しく、だが確かに脈打ってることを確認して安心した後、その手を――――離せなかった。

最近めっきり濃くなった死の影。
あと一月もすれば泥に連れ去られる男を、少し力を込めれば、己が手で殺せる。

半ば無意識で、手を頚動脈から頚部へと移した言峰は、喉に当てられた硬く冷たい感触に動きを止めた。

「何か用か?」

女スパイかお前は――と言峰は突っ込みたくなった。

いつから起きていたのか。いや、そもそも寝てなどなかったのか。
手のひらに納まる小型銃の代名詞、デリンジャーが喉元に突きつけられていた。

「折角無防備に寝ているのだから、首でも絞めようかと思ってな」
「じゃあ僕は折角の状況だから、引き金でも引こうかな」

どちらが先に指先に力を込めるか。

今、この状況、この瞬間に限るならば、互角の殺し合いになるのだと気付いた言峰の面に、自然と薄っすらとした笑みが浮かんだ。
衛宮は、無意識下の行動であったものに、却ってスイッチを入れてしまったことを悟り、静かに問う。

「……心中する気かい?」
「悪くないな」

衛宮としては、非常に宜しくなかった。
空気を読まず配達人でも来てくれないだろうかと、本気で願う。

残り少ない命程度、これまで世話になったのだから言峰にくれてやっても良かったのだが、問題はその後にある。
絞殺された養父が拳銃を手にした状態で、見知らぬ銃殺死体と共に在る――そんな悪夢の光景を、養子の目に入れる訳にはいかない。



膠着する状況を変えたのは、衛宮が期待した訪問者などではなかった。
当人よりも先に、喉元に手を置いていた言峰の方が先に気付いて腰を浮かす。

「かふッ」

だが少し遅かった。鮮血が衛宮の口元を濡らす。
見慣れぬ者なら怯えるであろう、呼吸器系出血の証である鮮やかな赤。

「衛宮ッ」
「ぐ、く……くくッ」

喀血の苦しい呼吸の中で、衛宮はつい笑ってしまった。
かなり本気で人を絞殺するつもりであったというのに、血相を変えて己の指を斬り魔力を与え治療しようとする言峰の矛盾は、傍から見ていると面白くさえある。

突きつけられた指の傷口から、とくとくと溢れる血を舐めとり嚥下する。
しばらく血を啜っていた衛宮は、やや呼吸が落ち着いたところで手を離し、冷蔵庫を指差す。

「もう良いから癒せ。冷蔵庫にまだ血のストックあるから、あっちを持ってきてくれ」

勝手知ったる他人の家。言峰はずかずかと上がりこみ、冷蔵庫内の視覚妨害がされている一角からパックを取り出す。
手渡されたそれを、衛宮は躊躇うことなく口元に運んだ。

「そのまま飲むのか」
「もう味覚も臭覚も殆どないからな」

初期は血は不味いから云々とほざき、摂取の際には嫌な工夫をしていた。
今では鉄錆の匂いも血生臭さも感じ取れないのだという。


殺人現場の清掃員のように。
やたら手馴れた様子にて、無表情で機械的に片付けを手伝ってくれた言峰に、衛宮は薄く笑いながら語りかける。

「なあ言峰、僕はそろそろ死ぬよ」
「……見ていれば判る」

最初に言峰が、衛宮の喀血姿を目撃したのは、かなり昔の話であった。
ふらりと冬木から消え――おそらく行き先はドイツなのだろう――また戻ってきた際に、激しく咳き込む衛宮を屋敷で見掛け、嘲笑うつもりで近寄った。
だが、口元から溢れる泥のような血に、凍り付いてしまった。

泥による呪いは当然理解していた。だが、衛宮はある程度魔術を行使し、また言峰や魔術師共から魔力の摂取もしていた。
それゆえ、まだまだ時間はあるのだと思っていた。

『君や魔術師たちの血――魔力は寿命を延ばすわけじゃない。器の底が抜けているのだから、幾ら注いでも満ちることはない。縁やヒビに僅かに引っかかった分が苦しみを少しだけ緩和する、終末医療にすぎない』

呆然と立ちつくしていた言峰に、衛宮は笑いながら宣告した。
終わりは決して遠くはないのだ――と。


「あまり認めたくないが、君には色々世話になった。僕の殺害がお望みなら、後始末をしてくれるなら――」
「昔、違うと言ったはずだ」

その時と同じく力なく笑う衛宮の言葉を、言峰は途中で遮った。
ただ殺すだけなら、今までいくらでも機会はあった。そんなことは望んでいない。

「今までの礼だと? 願いを叶えてくれる気があるならば、殺し合いをしてくれ。但し昔の体調でな」
「無理を言うなよ……僕を殺したいって話なら、数日分の命くらいくれてやるんだが。君はホント業が深いね」

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「先日そんな会話を言峰としまして。で、相談があるんです」

死に近い重病人から、何とも嫌な惚気的な話を聞かされた英雄王と老魔術師は、同じ表情をしていた。
ウヘァという内心がそのまま顔に出ていた。

半死人にそこまで執着する神父も、応えてやろうとする彼も異常であった。

「理解できぬな。おぬし……付き合ってやるというのか」
「ふむ、意外であったな。貴様は綺礼の渇望を知った上で、無視したまま逝くのだと思っていた」

相談ということは、『願い』を叶える気があるのだろう。
二対の呆れた眼差しに対し、あんな泣きそうな顔をされると、父性本能が刺激されてねと衛宮は苦笑いで肩を竦め――

「どうせ保たない命だ。お礼に使っても惜しくはないし――言峰綺礼を殺せる可能性があるなら、損はない」

――殺し屋の顔で結んだ。

「なんとも物騒な父親じゃな」
「だが……その方が、貴様ららしいか」


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「若返りの薬を少しばかりくれてやっても良いぞ」
「ありがとう」

いくつかの案を出し合う内に、ポロリと英雄王から漏れた破格の申し出に、衛宮は微笑んで、だが、頭を振った。

「それが一番確実で楽なんだけど、君の薬は当時の自分が『出る』だろう? 記憶はあっても、それは違うと思う」

そもそも当時の僕が出たら、あんなのとの殺し合いなんてしないで狙撃すると思う――と見も蓋もないことを言いながら苦笑する。

「この辺が僕のデッドラインなんだけど、そのぎりぎり――この満月の前の晩に、十数年単位で最大の魔力になる刻がくる」

最大の力で、健康な肉体まで遡り、その時点で固定すれば、『健康なころの自分』の出来上がりである。
どんなもんでしょうと首を傾げる衛宮に、何とも言えぬと間桐臓硯は首を振った。

「……時間操作は、おぬしの専門であろう? 稀少な魔術についての助言などできん」

魔術で為せる時間操作は、加速・停滞まで。
時間遡行は、魔法の領域に踏み入りつつある。だが、彼の父は、そこに至りかけたからこそ、封印指定となったのではないか。

「ゆえに純粋に制御に関することになるのだが――おぬし、刻印を養子に継がせる気はないといっておったな」
「ないですね。本音を言えば魔術に関わらせたくない」

ならば魔術刻印を陣に組み込むと良い――と、刻印の継承を重要視する魔術師の常識を何処かに豪快に投げ捨てるようなことを老魔術師は口にした。

「そもそも家系の魔術を制御するためにあるもの。時間の制御精度が段違いになるだろう」
「ああ、確かに、名案ですね」

封印指定の魔術師をも経由した刻印を、使い捨ての陣とする。
まともな魔術師であれば、半狂乱で止めるようなことを、自分の家系以外には基本興味のない老魔術師が提案し、魔術そのものを手段としてしか見ていない魔術使いが、納得した表情で頷いた。

時計塔の若き魔術師がまだ居たなら展開は変わったかもしれないが、残念ながら代わりに居たのは魔術に欠片の興味もない英霊。
魔術話に飽きたらしく、途中から砂肝とぼんじりとせせりと軟骨の食感の違いに夢中になっていたこともあり、止めるはずもなかった。

「じゃあその路線で。あとは僕がその日まで生きているか――賭けだな」



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「で、当日まで生きてしまうのが、宿命っぽくて嫌なんですよね」
「文句を言わずに手を動かせ。ああ、そこ間違っておる」
「あホントだ。どうも」

魔術書を元に、複雑な陣を描いていく一応は魔術師なふたりを暇そうに眺めていた英雄王は、ふと、結構な魔力の塊を持っていたことを思い出した。

「これもなにかの足しになるのではないか」

英雄王より無造作に渡された大振りの宝石を、ありがとうと軽く受けとった衛宮は、いつものように魔力を引き出そうとして違和感に気付いた。

「え、この魔力って娘さんのじゃなくて、遠坂のだろ。まだ持ってたのかい」
「単独行動中に何か不測の事態が生じた時にと、渡されていた。正直、要らんのだ」

慎重派の遠坂家当主らしい用心と心遣いに、衛宮は苦笑した。
土地の管理者という立場・一流魔術師の実力、監査役との癒着、他マスターの抱き込み、そして召喚したのは、最強の英霊。

普通に進んでいれば高確率で勝者となれたであろうに、気の毒なことに、弟子と英霊とが非道すぎた。

「……遠慮なく使わせてもらうんだけどね」

水銀による陣に、紅の宝石を溶かし上乗せをしていく。

莫大な資産価値を費やした陣が一旦完成したところで、衛宮は上着を脱いだ。

ネクタイを外し、シャツも脱ぎだした男の身体に、英雄王は顔を顰めた。
当時、この男に興味など殆ど無かったが、それでもここまで細くはなかった記憶がある。

「随分と痩せたものだな」
「食欲も減少するから、どうしてもねェ」

そんな会話と薄い肉とに、息子という設定の子孫のことを少しだけ思い出していた間桐臓硯は、衛宮に歩み寄り、背中の刻印に触れた。

「わ、びっくりした」
「では……引き剥がすぞ」

魔術刻印の摘出。最適な施術者は当然言峰なのだが、それではサプライズパーティーの仕込みを当人にやらせるのに等しい。

「……ッ」

さして適性のない間桐臓硯による施術では、生皮を剥がされるような感覚だろうに、衛宮は呻き声すらあげなかった。
日常では、寒いだの足が攣っただの痺れただの、至極どうでもいいことで大袈裟に悲鳴をあげるくせに、此方の場面においては、彼は血を吐こうが怪我をしようが、驚くほど声をあげない。

そうやって腑抜けた男から魔術師殺しに切り替わる姿を見てきたから、言峰はいつまでも望みが捨てきれなかったのだ。


宝石にて描いた陣に、刻印を重ねあわせ、比較的体調の良いときに採取しておいた自身の血液にて馴染ませる。

微かに発光しだした陣に足を踏み入れ、滔々と呪文を紡いでいた衛宮が、不意に苦しげに顔を歪め硬直する。

「ウエストがきつ……、く、苦しい」
「「さっさとベルトを緩めろ」」

失敗かと身を乗り出した英霊と老魔術師は、徐々に若返る男の間抜けた言葉を、声を揃えて切り捨てた。


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夜の九時頃、礼拝堂に居た神父は、慣れた気配が、シラフのまま帰ってきたことに首を捻った。

大きいほうの金色は、出かければ朝まで戻らないことが少なくない。
日付が変わるどころではない、こんな早い時間帯に帰ってくるなど稀少といえるレベルであった。

「随分お早いお帰りだな、珍しいことだ」
「貴様は我の母親だったか」

軽く眉を吊り上げ嫌味を放ってきた同居人に対して、英雄王は露骨に顔を顰め応じた。

「産んだ記憶はないな。産む能力も有していない」
「少しばかり、衛宮切嗣と遊んでいたのでな」

真顔で答える聖職者に、英雄王は、久しぶりにその澄ました顔を歪めたいと思い、わざと意地の悪い言い回しをした。

「……半死人を連れ回すのは感心しないぞ」

途端に苛立つ様に笑みを噛み殺し、更なる爆弾を投下する。

「なに『今』は元気なものだ。ああ、奴から伝言を預かっている」
「今? 伝言だと?」

請うように、焦がれるように。
必死の形相で顔を上げた迷える子羊に、導き手はいっそ慈愛といって差し支えの無い笑みを浮かべて、魔術師殺しの言葉を伝えた。

「『二十二時まで待っている。五年前の続きをしよう』だと……」

最後まで聞くことなく、言峰の姿は消えていた。
彼の自室から、どたがたと音が聞こえてくるので、装備一式でも整えているのだろう。

「出かけてくる。私が戻らなかったら――今後は好きにしろ」

顔を出し、早口で告げた言峰は、法衣に上着を纏い、司祭職用のストラまで掛けた状態であった。
そして、そのまま施錠もせずに走り去っていった。

流石の英雄王も呆気に取られ、しばらく経ってから笑いの衝動が襲ってきた。

「……くくく、は、はははははッ! 拗らせすぎだ。綺礼が死んだら、時臣の娘の所にでも押しかけて、適当に飽きるまで生きるか」


言峰は中型のバイクに飛び乗り、エンジンをかけた。
半端な距離であり遅い時間でもある為、いっそ走っていくことも考えはしたが、わずかな体力も魔力も無駄にしたくなかった。

場所の指定はなかったが、あの時の続きだというならば、思い当たるのはただ一つ――冬木中央公園。



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相変わらず固有結界のように。
整地された後も、現実的には惨劇の記憶と傷跡が、感傷的には死者の苦しみや怨念が渦巻いて残り続け、未だ人通りも殆ど無く、生命の気配も薄いままであった。

そんな他に誰も居ない空間で、真円に近い月を見上げる男がいた。
足元には遠目でも判る魔力に満ちた陣。複雑怪奇な文様から、かなり高度なものなのだろうと推測できる。

服装もまるであの時の続きのように、黒のスーツに同色のコート。
男は、右手に銃を握った物騒な格好で、ただ静かに月を見ていた。

言峰の足音か気配に気付いたのか、ゆっくりと振り向いた黒の男は、無言で銃を構えた――だけではなく撃った。

「……いきなりか」

感極まる時間すら与えてくれない問答無用のヘッドショットを、咄嗟に黒鍵で弾いた言峰は、低く唸る。

「『ようこそ、この素晴らしき惨殺空間へ』――――とかムード出すの僕らっぽくないだろ」

前半は雰囲気たっぷりにコートを靡かせ低く掠れた声で嗤い、歓迎するように両手を広げた衛宮は、後半はいつも通りの表情で、軽く肩など竦めてみせた。

「全力での戦闘は、ブランクがあるんだ。少し戻りすぎてしまったけど、それはハンデとしてくれ」

声も僅かに若い。
言葉通り緊張しているのか、やや早口で肩を竦める男は20代前半程度に見えた。
記憶の中の――あの時の衛宮切嗣よりも、更に若い。

「確かに私たちの間に、雰囲気のある会話など――邪魔だな」

会話の途中で、言峰は微塵の遊びもなしに間合いを詰めた。
固有時制御を使う隙など、与えるつもりはなかった。
苦痛を愉しむことはできないが、それでも泥に攫われる前に、万全の衛宮切嗣をこの手で殺すことを最優先とする。

頬を掠めた銃弾には構わず、衛宮の二丁の銃を黒鍵で外側に乱暴に弾き、内に入ろうとした言峰は、何かを見過ごした――何かを決定的に間違えた感覚に怖気だった。

今の衛宮に、あの時の再生力はないはずだった。
四年間共闘してきた。
時間操作という彼の魔術特性も、起源弾の効果も、一発しか装填できない魔術礼装たる銃の構造も今は知っている。どこにも間違いなどない。

だが衛宮切嗣が、あの魔術師殺しが、簡単に手を読ませるだろうか。
根拠などない勘と、この数年のある意味――信頼が、言峰の踏み込みを止めた。

「……さすが」

急に倍速で動き出した衛宮が外に流れた銃口を戻し引き金を引くのと、言峰が強化した脚力にて全力で飛び退いたのはほぼ同時。

勘に従い退いていなければ、言峰は二発の弾丸で頭を撃ち抜かれ、あっさり終わっていただろう。
己以上に遊びと容赦の無い宿敵を睨み、構えなおして唸った。

「貴様……」

呪文を口にすることなく、魔術の発動の気配もなく。
つまり、衛宮の魔術は、とうに発動済みであったということ。わずかに早口だったのも道理であった。

「……全盛期だと倍速を常時使用できるのか」
「そんな筈ないだろ。ほんの少し維持時間が長いだけさ」

言峰が訪れる直前から使用し続けていた固有時制御を、今はじめて解いたのだろう。
僅かに上がった息で、衛宮は苦笑した。

だがその否定の言葉を、言峰は信じないことにした。
今の衛宮は倍速ならば常時使用可能――そのくらいの前提で、戦略を練り直す。



衛宮切嗣の性質上、戦闘中に応えなどないかもしれないが、言峰はつい文句をつけた。

「ガン=カタなどありえないと言っていなかったか?」

幾度かの間合いの取り合いの末に、内に入り揮われた黒鍵の刃を受け止めたのは、双の銃身。
挙句それらを攻撃にも用いる技術を、ガン=カタ以外になんと呼べば良いのか。

「拳銃相手に突進してくる猪なんて、滅多にいないから使い道が少ないんだ。貴様用に習得しておいた、感謝してくれ」
「……それは光栄だ」

意外にも返答はあった。刃鋼と鉄塊を叩きつけ合い弾き合いながらの至近距離での会話。
懐かしい貴様という呼び方に、言峰は口元を吊り上げた。

衛宮は倍速を織り交ぜつつ動き、致命的な攻撃を受け止め躱し、攻撃に転ずる。
超高速で揮われる鉄塊など、それ自体が凶器そのもの。元々、防弾生地は耐刃性には難があり、魔術で防弾効果を高めようとカバーできるものではなく、容易く法衣とその下の肉を引き裂く。

互いに、致命以外の攻撃は避ける気が薄く、双方の血がびちゃびちゃと派手に飛び散る。

衛宮は、接近戦が苦手な訳ではない。
銃の技量が非常に高く、本人の性格上も遠距離から一方的に攻撃することを好む為、基本的に避けてはいたが、近接戦闘技術も充分にある。

その上、この四年間彼らの戦闘条件は異なっていた。

言峰は衛宮の援護を受けつつ、最前線で闘えば良かった。
衛宮は言峰の動きや行動パターンを織り込みつつ、後方から支援していた。

動きを知っているから――思考さえも熟知しているから、本来近接戦では言峰に傾く筈の天秤は、どうにか均衡を保っていた。

「triple accel」

言峰の血液から魔力を精製することなど、この数年ですっかり慣れているのだろう。
顔にびしゃりとかぶった血を舐め取った衛宮は、瞬時に魔力を取り込み、固有時制御を発動し、首ごと刈り取るであろう凄まじい蹴りを、地を這うほどに低い姿勢をとって躱し、懐に手を入れる。

だが、三倍速まで使用して、衛宮が取り出したものは、爆弾でも新たな銃でもなく――輸血用パックだった。
彼はパックを乱暴に食い破り、口元を血で濡らしながらもう一度、現状の限界速まで制御を引き上げる。

「Time alter triple accel」

倍速ならば、言峰は追い縋れる。三倍速までは迎撃に限れば可能。
だが三倍速で離脱に専念されると、どうしても距離があく。

そうして距離をとった衛宮が何をするのか――――今は知っていた。

衛宮が魔銃のトリガーを引くタイミングに合わせ、言峰は首廻りのストラを外し呟く。

「Sanctus」

ただ一言『聖なるかな』と。
預託令呪をもって超高速で、ストラに仕込んであった防御魔術を起動させる。

妹弟子の薦めに従い、たったひとつ、ある魔弾を防ぐ盾としてのみの機能を与えたそれは、数年分の魔力で以って魔弾を包み、ただ一度きりの命を完遂する。
魔術でもって起源弾に抗した為に、その恐るべき報いが対象に還る。但し術者本人ではなく、魔力元であるストラと間に入った令呪とに。

起源弾を再装填させるつもりはない。令呪を使用し、身体能力を強化する。

四次聖杯戦争終了後、間桐雁夜から回収され監査役に再付与された三画。
言峰は、この愉しみの為だけに、その分までを使って良いと決めていた。

フィードバックされた魔力により、弾け跳ぶ紫紺の布の向こうで、カタンと小さな音がした。
それが投げ捨てられたコンテンダーであると知り、訝しげに眉を顰めながらも前進しようとした言峰は、驚愕のあまり足が止まった。

この四年間で、何度も見た光景。
撃ちきった銃を投げ捨てて、装填済みの銃を懐から取り出す衛宮の動作は見慣れていた。

だがいつもと違ったのは、取り出した新たなもう一丁も、コンテンダーであったこと。当然、それは装填済なのだろう。


いつか殺し合える日の為に、父の形見に魔力を込め続けた言峰と同じく。
一発の魔弾で確実に屠ってきた有象無象の魔術師連中相手には不要であった魔術礼装の後継を、この瞬間の為だけに衛宮は用意し改造し調整した。

言峰綺礼が衛宮切嗣の戦略を信じたように。

衛宮切嗣も言峰綺礼の執念を信じた。
起源弾の効果を知った彼ならば、必ず対策を講じていると信じていた。


おそらくはないはずの再戦の為に、互いに万全を期していた。


停滞はほんの一瞬であった。だが彼らのレベルでは、僅かなロスが大きく響く。

頭部狙いのままであれば、言峰の拳は僅かに届かない。死神の銃に、再度撃ち抜かれるだろう。
だが胸部ならば、可能性がある。どちらに死が先に届くかは、神のみぞ知る。

再生力を持たない今の衛宮ならば、心臓を潰せば確実に殺せる筈であった。

殺せると確信し、殺されると覚悟する。あとは天命とやらの領域。
全てがあの時の再現なのだと、双方が理解した。

「本当に貴様が嫌いだよ」
「お互い様だろ」

殺戮を望む聖職者が、冷徹な戦闘機械が、最期になるかもしれない別れの言葉を発し、目を細め、そっくりな表情で微かに笑った。

感情があったのはそこまで。

表情を消した言峰が、令呪によって強化された脚力で一直線に駆ける。
虚の瞳で、衛宮は照準を定める。




衛宮が言峰の前から消え、全力を持って振りぬかれた――人を殺せる拳は、空を切った。
だが、言峰が撃たれることもなかった。泥の横槍が入ったわけでもない。

「……本気でごめん。時間切れだ」

声が戻っていた。

衛宮が視界から忽然と消えた理由は単純明快。
固有時制御でも何でもない。
彼が、前のめりに倒れたからであった。

「…………頭を踏みにじっても良いか」

二度目の最高潮での強制中断。何とも形容しがたい、苦虫を大量に噛み潰していそうな渋面で言峰は唸った。
あと少し、ほんの少しだけ、衛宮の魔術が保っていたら、殺せた、または殺された――決着はついたというのに。

「潰しても構わない。僕は本気で殺すつもりだったんだし」

数年来の腐れ縁。それなりの情は抱いてはいるが――言峰綺礼は、養子の暮らす町で生きていない方が望ましいと確かに思ったのだ。
ゆえに本気。殺せるのなら殺す気だった。

殺し合い『ごっこ』に付き合ってやったわけではない。

「私も殺す気だった。何故貴様はこうも最高のところで……」

倍速に付き合いながらの殺し合いの高揚と緊張から解放されると、立っていることすら辛い程の疲労を覚えた。
言峰はどさりと音を立てて地面に座り込み、膝を抱えて疲れきった声音で、ぽつりと呟いた。

「次の聖杯にお前の復活でも願うか」
「……勘弁してください、面倒すぎる」

多くの困難を乗り越えて復活させて――そして殺し合うと。
無駄骨としか言いようがないが、彼なら本気でやりかねない。衛宮は突っ伏したまま、拒絶の言葉を返した。

「大体君はしつこい。二回やって駄目だったら諦めろよ」
「貴様が軟弱なのが悪いッ! あと数秒で良かったのだ。耐えろ」
「な……世界の揺り戻しがどれだけきついと思ってんだ! 誰もがお前みたいなタ一ミネ一タ一だと思うなよ」

うつ伏せで倒れたままと、膝を抱え座った状態という妙な絵面にて、つい先程まで真剣に殺し合っていた血塗れの男たちは、ぎゃあぎゃあと口喧嘩へと移行していった。

「何をしてるのだか……うぬらはもう諦めるのだな」
「なかなか愉しませてもらったが、これこそが貴様らの運命とやらなのではないか」

あと一度奇跡とやらが起きて機会を得たとしても、おそらく決着がつかないだろう――と、老魔術師と英雄王が呆れた様子で闇から姿を現した。

彼らに気付いていなかったらしく唖然としている言峰はとりあえず放って置いて、緊急性の高い半死人の方へふたりは近寄った。

「立てるか」
「傷は主観で十年弱経過したから治ったけど、残り体力が数ドットだね。金色タクシーになってくれると非常に助かる」
「王をいいように使うか、痴れ者が。……まあ、良い出し物だった。褒美をくれてやろう」

英雄王は呆れ返った表情ながら、突っ伏したままの男の腕を掴み、無造作に引き起こす。

「ああ、待って、腕抜ける。もう少ししたら立てるから、まだ座らせて」
「本当に注文が多いな、貴様は」

立眩みがなどと抜かす男を、英雄王は珍しく根気良く面倒を見ていた。
もう一度座らせてやり、落ち着くまで待っている間に、老魔術師へ警告をしておく。

「我はこやつを送っていく。綺礼をしばらく見ておけ。喰ったりするなよ、魔術師」
「……せんわい。ワシが衛宮に頼まれていたのは、片方または双方の死体の始末。双方生きているなら契約外じゃ」

魔術師としては平凡な男一体を喰らうことと、英雄王を敵に回すことなど、天秤に掛けるまでもない話だった。
それに個人的な感情からも、言峰綺礼という肉体を纏いたくはなかった。



「臓硯さんも多種多様に、お世話になりました」
「それは本当にこちらこそ――じゃな。世話になったし、色々と助かったわ」

まだ辛そうながら、英雄王の手を借りて立ち上がった男は、意外に礼儀正しく深々と頭を下げた。
間桐臓硯も同じく頭を下げて応じる。
面倒ごとに巻き込まれたとは思うが、それなりの益もあり、なによりこの数年、確かに楽しんでいた。

「では行くぞ」
「ああ。……少し待って」

先程、彼らの間では別れは済んだようなものだったが、それでもこの四年間、魔力を貰い治癒を受け、共に闘った、世話になった相棒もどきではある。衛宮は、身体をそちらへと向けた。

座したまま、顔も碌に上げない宿敵に、別れを告げる。

「今までありがとう――さようなら、言峰綺礼」
「……さらばだ、衛宮切嗣」

遠ざかる足音。
最後に黒衣の背中でも目に焼き付けようと、言峰は顔を上げ――後悔した。

気配を察したのかタイミングを読んだのか。
衛宮は振り返り、悪戯っぽく笑いながら、ひらひらと手を振った。

同じく『普通』から逸脱していようと。
多くの共通点があり、どれほど似ていようと。
他者――主に若き魔術師辺り――から、どれだけ死んだ目コンビだの外道だの悪辣だの謗られようとも。

こんな風に笑える衛宮切嗣は、言峰綺礼とは別なモノなのだと思い知らされる。


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「いつまでそうして膝を抱えておるのだか」

結構な時間が経過しても動く気配すら見せぬ神父に、間桐臓硯は呆れた様子で声を掛けた。

「――そこまで未練があるなら、葬式後に死体を奪って人形でも造ったらどうだ?」

カカカと笑う老人は、言峰の答えなど分っているのだろう。

「……それは衛宮切嗣なのか?」
「最高位の人形師ならば、衛宮切嗣と同一の身体と記憶と能力を有するモノが出来上がるが」

金が幾ら必要か想像もつかぬがな――と笑みを消さぬ間桐臓硯に、言峰は首を横に振った。

「不要だ。奴の代わりなど望まない」


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「あやつの愉悦に浸る笑みを見たのは久方ぶり――貴様のおかげだ。礼を言おう」

金色タクシー ヴィマーナにて、玉座に座る王は、傍らで胡坐をかいてぼんやりと流れさる風景を眺めている男に、通常営業の傲慢な態度ながらも礼を言った。

自覚していたかは判らないが、言峰綺礼は、殺し合っている間、ずっと笑っていた。
それは愉悦による嘲笑だったのかもしれないし、本当に楽しくてただ微笑んでいたのかもしれない。

「お礼と……罪滅ぼしだった。それだけだ」

ぎりぎりの境界で目を堅く瞑り、必死に『常識と良識』にしがみついていた聖職者。
その手をとって深淵に飛び込ませたのはこの英霊だが、そもそも深淵に目を向けさせたのは、己の同類なのではないかと縋らせてしまった魔術師殺しであろう。
言うなればあの破綻者は、彼ら二人による協力作業によって生まれてしまった。

「ま、あんなにも愉しんでくれるなら、もっと早くに付き合ってやっても良かったんだが」

でも限界まで、士郎と平穏な世界で生きたかったんだ――と、魔術師殺しはひっそりと笑った。

養子との平穏な生活と宿敵との殺し合いとを、優しげな穏やかな笑みで同じ口に乗せる男に、英雄王は目を眇めた。
生まれついての破綻者や長き年月で魂が腐れた者に引けを取らぬ悪辣な行為を、正気のまま為せるこの男もやはり異常なのだと、再認識した。
こやつに召喚されていたとしても、聖杯戦争をそれなりに愉しめただろうな――とも思う。

「あ、そうだ。これ王様へのプレゼント。うわ、血が」
「なんだこれは……地図?」

輸血パックを破いたときのものか、景気良く血を流していた彼らどちらか、または双方のものか。
渡された、べっとりと血糊でくっついてしまったホラーな装丁がされた冊子を、バリッと力任せに開いたところ、中身は比較的無事であり、様々な地図が入っていた。

「無名のパワースポットの地図。君、時々有名どころを巡って地脈から吸収してるだろ」
「……知っていたか」
「金髪赤眼の美貌の男が数箇所で目撃されたら、そりゃ噂になるよ。この辺の無名なとこも織り交ぜれば、少しは目立ちにくくなるんじゃないかな」


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無駄に広い武家屋敷の屋根に、金の船は降り立った。
そのまま屋根から飛び降りようとした重病人の首根っこを掴んで止め、英雄王は庭までおろしてやり、自分だけ再度屋根へ登る。
高いところ似合うなぁと見上げていた衛宮に、王の中の王は、久しぶりに王気とその神性さえも充溢させて問いを口にした。

「一つだけ、問いに答えよ衛宮切嗣」

雑種でなく、セイバーのマスターでなく。
名を呼び問いかける。

「最後のアレは、本当に時間切れだったのか?」

言峰綺礼は嘘をつかない。真実を隠す、他の方向へ誘導する――などはするが、嘘はつかない。
もしかしたら、それこそが彼らの最大の相違点かもしれない。

「ああ、勿論」

衛宮切嗣は嘘に慣れ親しみ過ぎた。周りを欺き、己すらも騙し続けた。
ゆえに薄らと微笑んだその答えが真実か否か、英雄王の慧眼をもってしても判らなかった。



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「すっかり大きくなったのう」
「親戚ですか」

長髪の青年が、数年前のように老人にツッコんだ。
無理のある魔術修練が阻害していたのは身長・体格に限らず、おそらくは成長そのものだったのだろう。
第四次聖杯戦争参加時――19歳の時点で少女と見まごう中性的な容姿をしていた彼は、今は、顔立ちこそ整ってはいるが、どこからどうみても男性であった。

身長も更に伸び、臓硯の見上げた感じから判断すると、金の王と衛宮切嗣の間くらい――つまり180cm前後になっている。

「あ、作法が全く分かりません」
「ワシの真似をすれば何とかなる。基本は僧侶、遺族に一礼して、遺影に合掌し、焼香……香をつまみ額にもっていき、香炉に落とすのを三回。で、再度合掌し、一礼する」

不安顔の青年にざっと説明しながら、間桐臓硯は連れ立って受付へと進んだ。

多少間違っていても、大した問題はない。
明らかに外国人である青年に注意できる、度胸のあるお節介はそうそう居ないはずだ。



特筆すべきことも無く、非凡な男の通夜は、平凡に平穏に終了した。

「そんな射殺しそうな顔をしておきながら、参列せんのか?」

斎場のすぐ近くで、闇に溶け込みながら猛烈な殺意とも憤怒ともつかない気配を漂わせた聖職者と呆れた様子の金の英霊がいた。
剣呑な空気に怯むことなく、老魔術師と若き魔術師はそちらに歩み寄った。

「奴と表向きの係わり合いが無い」
「それはワシもそうだがな。何故か英霊殿は平然と参列するかと思っていたぞ」
「こやつが目立つし記憶に残ると言うのでな」

本人との別れは済ませてあるから構わんと続ける英霊は、ウェイバーの姿に気付き、笑みを浮かべた。
悪意の無い笑顔で、随分大きくなったなと、わしゃわしゃ頭を撫でる。
もはや普通に長身といえる青年は、少し困った表情で、それでも撫でられるままでいた。

孫のような存在たちの戯れを眺めていた老人は、不意に視線を斎場へむける。

「衛宮との契約はこれにて終了じゃな――今後、食事が面倒になるのう」

微かに沈んだ表情で、しみじみと嫌そうに呟く間桐臓硯に、言峰は、以前にウェイバーが何気なく口にし、衛宮が説明した言葉を思い出した。

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「アンタたちってまさに『Contraries cure contraries』だよな」
「反対物は反対物を治療する?」
「直訳すぎる。格言だよ。日本語訳なら『毒をもって毒を制す』だね」

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ウェイバーは、冬木の小悪党連中を害する自身を含めた魔術師たちのことを評していたのだろうが、今にして思えばその言葉は彼らの歪な関係をも的確に表していた。

間桐臓硯は身体の崩壊が迫れば、幼子でさえ喰らうだろう。
言峰綺礼は金のサーヴァントを現界させるために、人間を――哀れな孤児たちの嘆きを啜り、犠牲にしていく。

それはこれからも変わらない。

だが、きっと老人は認めまいが――以前よりその頻度は少し減り、対象者は可能な限りは屑連中から選定するだろう。
金のサーヴァントはふらふらと出歩き、地脈からもエネルギーを吸収する。

被害は決してなくならない。だが、軽減はされる。
衛宮切嗣という猛毒が、言峰綺礼と間桐臓硯という劇物を制し緩和していた。


追憶に沈んでるらしき神父をちらりと見やり、ウェイバーは敢えて明るく、軽く、まるで衛宮切嗣のように、提案をした。

「ところで朝一の便で帰国しないと大変なんですが、一度寝たら起きられない自信があるので、オールで飲みに付き合ってくれませんか」

朝日があがる前に逃げてよいならと間桐臓硯は頷き、最も尊き自宅警備員は拒むはずもなかった。
ただ一人、仕事ありの神父は遠慮しようとしたのだが、どうせ仕事にならんだろうと断定され、拉致される羽目になった。


金銭には余裕のある連中なので、広い個室を借りたのだが。
ひとりやたらと隅っこに座り、ちびりちびりと暗い顔で飲み始めた神父を恐怖の眼差しで見ていたウェイバーは、老魔術師と英雄とにひそひそと話しかける。

「神父、マジで暗いんですけど。放置して良いんですか」

彼は基本的に、常に暗いのだが。
今は、背後にブラックホールが渦巻いていた。

「緩やかに吹っ切れかけていたところに特大の燃料を再投入された上に、またもや中断。もはや己が死ぬまで恋慕じみた執着は消えまい」

ちらりとブラックホールに目を向け、ざまぁと言わんばかりの表情で、カカカと老人は楽しそうに笑った。
彼らの相性は相変わらずらしい。

「アレは放置しかなかろう。……貴様こそ意外だったぞ。それほど沈んでいないな」
「私は……ボクは帰国の時に、別れが済んでいるから。あの人は、あの頃から死を覚悟していたし――死に近かった」

これが本当のさよならだ――と告げた衛宮切嗣の笑顔は酷く透明で。
悪辣から爽やかなものまで、彼の様々な笑みを見てきたが、もう本当に長くないのだと納得せざるをえないほどに、生命力がなかった。

だから訃報を聞いたときは、『来たか』とすんなりと受け入れたし、最後に宿敵と殺し合ったと聞いて、感心すらした。



まもなく閉店で〜すとの店員の声に、財布を取り出そうとしたウェイバーは、パシッとその手を押さえられた。

「要らん。それなりに掛かったのだろう?」
「……確かに。ロンドン―オオサカ空港、約15時間。格安チケットを学生になんとか取らせたけど、10万円軽く超えるんだ」

切実な表情で溜息を吐くウェイバーに、英雄王は首を傾げた。
彼にとって十万円程度は、はした金の範疇な為、その重々しい溜息の意味が分からなかった。

「……金を使いたくないなら、帰りはヴィマーナで送ってやるという手も」
「ありがとう、だがやめてくれ。領海侵犯ってレベルじゃない」

戦闘機に撃墜されるわ――などと思ったが、よく考えたら彼の船は、宝具と化した戦闘機とさえ渡りあったのだから問題ないことに気付いた。
まあ根本から大問題なので、どちらにしろお願いする訳にはいかないのだが。


少し白がさしてきた空を見上げ、ああロンドンついたらすぐに仕事かと沈む気分を、ウェイバーはどうにか引っ張りあげた。
沈みっぱなしで、殆ど会話していなかった神父を見返り、気になっていたことを訊ねた。

「Father言峰――そんなに哀しかったのですか」

宿敵の死自体か、殺し合いについてか。
主語のない問いに、言峰はまだ酔いの残る頭でぼんやりと考え、は――と笑いとも溜息ともつかない音を漏らしてわらった。

「いや……非常に、たのしかった」



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小柄な身体で、桶と柄杓と線香を頑張って抱えて歩いていた少年――衛宮士郎は、養父の墓の前に佇む男に気付き、足を止めた。

「これは失礼。もう帰るところだ」

気配に気付いたのか、ゆっくりと振り向いたのは、やたらと大きな男だった。
養父も、日本人の同世代の人と比較すれば、結構な身長ではあったが、この男性の体格は、冬木で見かける外国人らと遜色ない――いや、それよりも大きいかもしれない。

「あ、花ありがとうございます。今日――俺しか来られなくて、子供ひとりで、線香と花両方持っていくのは危ないと言われてたから、花を諦めたんです」
「ちょうど良かった。私はクリスチャンゆえに作法がよく判らず、花しか用意していなかったからな」

男の言葉通り、墓には色とりどりの鮮やかな花が飾られていた。

「ずいぶんカラフルな……菊?」
「すまないな、一般常識とずれていて。一応菊科だが百日草というものらしい」
「ううん、じいさん、にぎやかな方が好きだったから、喜ぶと思う……います」


少年の言葉に、男は花屋の店員との会話を思い出した。

『騒がしい男だったからな。非常識レベルでなければ、このくらい派手で構わない』
『男性。お友達ですか。ならピッタリだと思います』
『ピッタリとは?』
『私、花言葉が好きで割と詳しいんですけど、百日草の花言葉は――』


回想内にて、快活に笑った店員の言葉を遮るように、少年はおずおずと尤もな疑問を口にした。

「じいさ……あ、父のお知り合いですか」

少年の問いに、男――言峰綺礼はしばし考えこんだ。

「……ああ、仕事上での知人だ」

二度真剣に殺し合い、四年間腐れ縁じみた相棒もどきを務めた間柄だと答えるわけにもいかず、言葉を濁した。
まあ嘘はついていない。



少年から己の記憶を消すべきか思案していた言峰は、焦げくさい臭いに顔をあげ、僅かに顔を顰めた。

「……貸したまえ」

手に煙草を持って、ライターで懸命に炙っていた少年から、言峰は煙草を取り上げる。

それを咥え、息を吸いながらライターを近付ける。
喫煙の経験がない子供には分からないかもしれないが、煙草は吸いながらでないと、簡単には火が点かない。

火が灯り、ふわりと煙草の香りが広まった。

当然のように衛宮切嗣が吸っていた銘柄であり、懐かしいような何だかよく判らない苛立ちのような感情に襲われた言峰は、思わず煙草を握りつぶしかけ――少年の存在を思い出して、どうにか止めた。


「ありがとうございます」

火の点いた少しくしゃりとした煙草を受け取り、少年は線香立ての横に、それをひどく大事そうに、そっと置いた。


「月命日でもないのに墓参りかね」
「墓参りって思いたくなくて、命日には来たことがないんです。ただ今日は……じいさんと俺が、初めて会った日だから」

ポツリと答え、慌てて父と僕が――などと言い直す少年に、言峰は思わず呟いていた。

「……私もそうだ」

初めて衛宮切嗣と言峰綺礼が邂逅し、殺し合った日。
彼の関係者と出くわす可能性が高い命日廻りの墓参りを避けたのだが、この少年が衛宮切嗣に拾われた日も確かに同日なのだ。

「では失礼する」

何か問いたげな少年に背を向け、言峰は足早に辞去した。
背後から礼の言葉が聞こえてきたが、片手をあげるに留め、振り返らずに進んだ。




少年は小さな身体で懸命に墓の掃除を始めていた。

「衛宮士郎……か」

その姿を、十分に離れた場から強化した視力をもって眺めながら、言峰は今まではさして興味もなく、資料の上でしか知らなかった名を口にのせた。

言峰綺礼という世界から逸脱した破綻者に、同類など在り得ない。
あれだけ共通項のあった衛宮切嗣でさえも同じではなかったのだ。
だが、衛宮切嗣に感じたのと同様に、少年からも、どこか己に似た『異常』を察知した。

切って嗣ぐ。

全くの元通りに直すことができない。
衛宮切嗣の特性は、この少年に対しても発動してしまったのだろう。

あの大火災で死に瀕し、衛宮切嗣によって救われ癒された彼は、元の通りではなく。

衛宮切嗣は、必死にロボットのふりをした人間で。
衛宮士郎は、懸命に人間の真似をするロボットで。

言峰綺礼は、最初から欠落した人間モドキなのだろう。


衛宮切嗣の代わりなど欲しくない。紛い物に興味はない。
その想いに偽りは無い。

だが、あの少年は――彼だけは別だった。
衛宮切嗣が地獄から救い、平穏の中で共に暮らし育て、空虚な魂に、彼の想いを――祈りを――願いを注いだモノ。

衛宮切嗣そのものになれる可能性がある。

「また会いたいものだ」

いつか――殺したい。殺されたい。
二度に渡って叶わなかった願いに――結末に、少年となら辿りつけるかもしれない。

「ふん、お前が連れていかないから――息子に縋ってやる」

成長した彼と出会えたなら、その時でも癒えていないであろう傷を存分に開こう――と想いを馳せる。

相応しい言葉を思いつき、言峰は口元を歪めた。
精々、仰々しく重々しく嫌味ったらしく、彼へ贈らねばならない。

『喜べ少年。君の望みはようやく叶う』――と、溢れんばかりの悪意を込めて。


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