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―Contraries cure contraries― 黒と朱のカンファレンス

「おお、会うたびに大きくなっていくなぁ」
「今度はゆっくりできるのかしら?」

上品な老夫婦が、満面の笑みを浮かべて彼らの『孫』を招き入れる。

「休み長めに取れたので、クリスマス過ぎまではこちらでお世話になれます」

朱色の派手な上衣を纏った長髪の青年は、軽く頭を下げて慣れ親しんだ『下宿先』に足を踏み入れて、部屋へと向かう。


「ちッ……何て澱みだ」

煙草に乱暴に火を点け、すっかり口癖になってしまった『祖父母』にはとても聞かせられない四文字を連発しながら、青年は『自室』の窓を開けて外を眺め、低く唸る。

「聖杯戦争開幕の数段階前といったところか」

この街ごと緊迫した雰囲気を覚えている。
少年であったあの頃は、彼は能天気に己が手に宿った令呪を眺めて歓喜したものだが、今では到底そうは思えない。

あまり長居すれば、またもや参加資格を授与されてしまうかもしれない。
がしがしと乱暴に髪をかきむしっていた青年は、食事の支度ができたという呼び声に応じ、暗い表情で窓を閉めた。


食卓で、最近の冬木の情勢などをさり気なく聞きだした青年は、どんどんと暗くなる気分を覆い隠し、明るく能天気に、彼の王のように笑って口を開く。

「しばらくしたら、仕事が落ち着くんだ。おじいさん、おばあさん。少し前に連絡を入れるから、そしたら2週間くらい、ロンドンに遊びにきてくれるとボクが嬉しい」

気軽な誘いのような、提案の形をとった――懇願。
該当期間に、冬木に彼らを居させない為に、急ぎ情報を集める必要があった。


妻が食器を洗う音をBGMに、テレビに視線を向けたまま、老人は小声で尋ねた。

「また……何かあるのかい?」

挨拶もなく立ち去った気の良い客人。
同日、多数の死者を出した原因不明の大出火。

昔を思い出しているのだろう。
不安を隠せぬ表情に、青年は落ち着かせるようにゆっくりと答える。

「調べないと断言はできないけれど――」

あれから十年が経った。身長160cmに届かなかった少年が、30cm近くその背を伸ばしたように。
『祖父母』も同じく年を取った。割とがっしりしていた体格も、幾分か細くなった。

赤の他人を――巣に潜り込んだ郭公を、気付いていながら受け入れてくれた人。
郭公だってモズを――偽親を守りたくもなる。

「十年前のようなことが起きる可能性が零じゃないんです」



この街で、聖杯戦争に詳しい知人は二人居る。
悪徳神父か人喰い大妖怪か。

どちらがまだマシか散々悩み、出た結論に疲れきった表情を浮かべ、電話に手を伸ばした。

『カカカ、久しいのう。……聖杯戦争の下見かの?』
『断じてNOです。戦争について質問がいくつかあるのですが』

笑いながらも探りを入れてくる相手に、青年は疲れた声音で応じた。
再び参加するなど冗談ではない。むしろ早めに脱出したいくらいであった。

『ほう。ワシよりも、腐っても監督役の綺礼の方が適任ではないか?』
『あの人腐りきってるじゃないですか……何かお手伝いしますよ。お腹空いてませんか?』
『確かにそろそろ交替の時期じゃな』

情報の対価の食事の手伝い。
それが何を示すのか、青年は当然理解していたが、今更躊躇うことなく支度を整える。


ごく一般的な、人の無意識下に『何となく近付きたくない』と思うように働きかける結界。

防音も『消臭』の効果も無い簡易なもの。
だが元より人通りの少ないこの公園内であれば、近くに一般人さえ居なければ彼の食事は気付かれない。
悲鳴はすぐに呑まれるし、身体はすぐに飲まれるのだから。

己とその周囲まで結界の影響を無効化した狩猟者が、哀れな獲物に手を引かれながら近付いてくる。
そちらに目を向けた青年は、狩猟者の本日の姿に吹き出しそうになりつつ、懸命に耐えた。

「や……やだ、怖い」

鮮やかな赤のミニスカートに身なりの良い服装。

怯え震える声。
絹のように艶やかな黒髪に美しい碧の瞳。利発で勝気そうな顔立ちが、今は不安に曇っていた。

「うるせぇ、俺だって怖いんだよ。帰りはひとりなんだからな」

視線も合わせず、ぼそぼそと小声で呟きながら、男は『少女』の腕を掴んだまま乱暴に、公園の奥へ奥へと進んでいく。
死地へ死地へと進んで逝く。

後はいつも通りの展開。

「だ……だれか……た……す」

いつも通りの殺戮劇。


「あの姿ってトオサカの……」

五分ほどで普段の姿で立ち上がった間桐の御老人に、青年は呆れた様子で話しかける。

「小娘の十年前の姿じゃな。成人が対象な連中ならばそこそこの美人の方が良いが、ああいった現実を見ない手合いには、幼少時のあやつの作り物じみた美しさは、凄まじくウケが良くての」

犠牲者に申し訳なく思う気持ちも少しはあったが、十に満たない少女に手を出した挙句に殺害する気だったのだ。
まあ生きる価値は低いんじゃないかなと、随分とスレてしまった青年は、罪悪感ごとあっさりと忘れることにして本題に入った。

「昔、Mr.衛宮に、柳桐寺地下に拉致されて見たがあります。あれが大聖杯。そしてアインツベルンが用意するものが小聖杯で良いんですね」
「大聖杯が長い年月を掛けて霊脈からマナを吸い上げ、聖杯戦争に必要な魔力を貯める。アレが在る限り、何度小聖杯が壊されようとシステムに支障はない。ご明察じゃな」

好々爺といった様子で頷いていた老人は、不意に表情をなくして問うた。
聖杯戦争を止める気かの――と。

薄ら寒い殺気に背筋を冷やしつつ、青年は否定する。

「ある程度システムを理解しておきたいんです、あの人たちを巻き込まない為に。戦争自体には手を出しませんよ」
「……まあ今回は明らかにイレギュラー。間桐のスタンスは様子見――信じるとしようか」

冬木という優れた霊地にて、大元を涸らさぬように、全域から少しずつ汲み上げ、長い年月を掛けて魔力を大聖杯に蓄積する。
サーヴァントの召喚等、必要な魔力が集まったら聖杯戦争の予兆が生じ、アインツベルンが商品――小聖杯を用意し、監督役たる教会の人間が神秘の秘匿などの運営を行う。

大体、嘗て魔術師殺しがチマチマと隙をみては収集していた情報と合致していた。


大聖杯にはあまり近付きたくないと、どこか感傷的な表情となっていた妖怪と別れ、青年はひとり現場へと向かった。
数年前にふたりで辿った――首根っこ掴まれて連れて行かれた、地底へと続く道。

魔術的にも、そして機械的な監視もされていない現状に僅かに引っかかりを覚えはしたが、ここで調査を止めては話にならない。


闇を進み、開けた空間に出た青年は、目を細めて全ての大元を見上げた。

変わっていない。
大地の霊脈に根を張り、奇跡を起こす魔術の集大成――聖杯。
時計塔に戻ってからも継続していた地道な調査により、穢れ澱み災厄を呼び寄せるだけのものと成り果てていると知った上で、尚も魔術師として憧憬を捨てきれない、美しい見事な芸術品。

既に凄まじい魔力が溜まっている上空を睨み、青年は物騒な恩人と昔交わしたやりとりに想いを馳せた。

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「うわ、凝ってますね……」
「聖杯戦争は大体六十年周期。五十年弱で地脈のエネルギーを歪めて溜め込み、大聖杯ごと崩落させるつもりなんだが」

どうだろうと、魔術師殺しと呼ばれた魔術使いは首を傾げた。
銃火器ぶっぱなしている姿と、屍燃やしている印象が強すぎるが、そういえば地属性も兼ねていたんだなぁと今更思い知った。

元々ある霊脈から吸い上げる術式に様式を似せ、僅かな歪みに少しずつ魔力をチョロまかし、崩壊を引き起こす。
詳しく説明されなければ判らないほど、巧妙に隠し、紛れ込ませている。

「バレないんじゃないかと思います……多分」
「えー、頼りないなぁ」

普通の魔術師が、時折確認に訪れる程度ならば、気付かない可能性が非常に高い。

問題は『彼』の執着心と特異性。
もはや興味などないと、お前など抜け殻に過ぎないのだと、ことある毎に口にしながら、何処からどう見ても依存に近いレベルで仇敵に執着している精神と、泥に――聖杯の穢れによりその命を繋いでいる、聖杯の眷属的な存在という立ち位置。

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追憶を断ち切るように、腕に軽い痛みが走った。

「う……ひどいな、問答無用か」

警報代わりに置いておいた使い魔が、銀の光を認識すると同時に潰れた。
襲撃者を視ることすら叶わなかったが、まあ確実にあの人なんだろうなぁと青年は頭を抱えた。


カツ……カツンと、近付いてくる靴音が鳴り響く。
そんなもの、本当は消せるだろうに――侵入者に知らせ、その焦りを愉しむ為なのだろう。

ゆえに焦ることも足掻くこともせず、青年は来訪者の到着を静かに待っていた。

暗闇より浮き上がるように現れたのは、予想通りの黒衣の神父――言峰綺礼。

壮年に達した彼は、嘗てと違い薄笑いを浮かべ、少し長くなった髪を流していた。
生真面目であった頃とは随分と印象が変わっていたが、この虚無の瞳を見違えるはずもなかった。

「お久しぶりです。Father言峰」
「ふむ、誰かと思えば君だったか」

さらりと――おそらくは互いに、相手を観察する。

言峰の身長は、あの頃よりも更に伸びている。東洋人としては珍しいことに、190cmを越しているだろう。
僅かに細くなった気もするが、それでも十分すぎる筋肉量と上背。

指導者としていかに名声をえようとも、魔術師としての青年は、あくまで凡庸。
言峰も治癒を除いては魔術師としては平凡の域を出ないが、彼には卓越した戦闘技術と経験とがある。

物理系統に限るならば、最盛期にはかなり迫れていた自負はある。だが、時計塔に戻ってからは研究三昧。
言峰自身や『魔術師殺し』から学んだ体術も戦闘技術も、すっかり錆び付き鈍って護身用程度のレベルにまで落ちている。

念の為に持参していた礼装の一部(ネオ水銀ちゃん 命名 by バカな天才弟子)を使用した上で、撤退戦ならばどうにか凌げるか――といったところだろう。

「お元気そうで何よりです。ギルも相変わらずですか?」
「……ああ、アレは変わらない。何もな」

まだ英雄王は現界したままのようだ。
何も――外見すら変わらぬまま、現世を謳歌しているのだろう。

「センサー的なモノの有無は、魔術は勿論、機械も含めてチェックしたんですが。接近にどうやって気付いたんですか?」
「申し訳ないが、私はアレと泥で繋がっている。何かが近寄れば感覚として判る」

何でもないことのように、魔術師的には途方もないことを口にして、神父は肩を竦めた。

「今回も参加希望かね? 『グレートビッグベン☆ロンドンスター』」
「……なんでよりによってソレを選びやがりますか」

数々の不本意な異名で呼ばれる身ではあるが、その中でもワースト1・2を争うヤツであった。
『人の嫌がることをすすんでやりましょう』という彼の理念は相変わらずのようだ。

「先程も聞かれて――やはり脅されましたけどね」

そんなふざけたことを口にしながらも、迸る殺気は申し分ないのだから、勘弁して欲しいものだと、悲しくなってしまった。

「本当に偶然で、ただ寄宿先に遊びに来たんです」
「偶然……君の強運は、相変わらずのようだ。いや、悪運か」
「ほっといて下さい」

しみじみとした呟きに、青年は苦笑で応じた。
聖杯戦争中、何度か運のお陰で魔術師殺しの網から逃れていたと、当人から聞かされ、血の気が引いたものだった。

「ところで……Father言峰、聖杯戦争は六十年周期だったはずでは?」

既に空間に充満している魔力に顔を顰めながら、知識と現状の差異を問い質す。


「十年前、集まった莫大な魔力は、願いに使われることはなかった。小聖杯を吹き飛ばしただけでは、消費しきれなかったのだろう」

祈る聖者の一枚絵のように、上空に手を掲げ、聖職者は、破壊の術式の核をはっきりと指差し、薄く笑った。

「何もなければ、アレは完成間際に壊そうと思っていたのだがね」

確かに魔術師殺しの為した術式は『時折確認に訪れる程度ならば、気付かない』程の完成度だった。

だが、暇をみてはこの場に訪れ、聖杯と繋がっており、術者に執着心を抱くこの男には、とうにお見通しだったらしい。

「Mr.衛宮の仕掛けた魔力瘤による崩壊の魔術は――」

不発に終わるな――と、神父はいっそ爽やかともいえる笑みで楽しそうに応じた。
呪いに苦しむ身体で、それこそ血を吐きながら為した衛宮切嗣の大魔術は無駄だったのだと、本当に嬉しそうに。

「此度の聖杯戦争は、何が起きるのだろうな」

楽しみで仕方ないと笑む彼の脳裏には、あの大火災の光景が浮かんでいるのであろう。

呻き声と悲鳴と嘆きが、彼にとっては天上の音楽。
破壊と悲劇と惨劇こそが、彼の望む世界。

「『殺しておけば良かった』と、奴があの世とやらで歯噛みするのならば――それだけで私は幸せだ」

『死ぬまで恋慕じみた執着は消えまい』

老魔術師の分析は、大正解であったようだ。

もうあの人は居ないのに。
正義の味方に置いて逝かれた悪の化身は、その一途でさえある歩みを止める気はないらしい。

しばらくの間、間違ってしまった聖職者を見つめていた青年は、深々とした溜息を吐き――色々と諦めた。

正義感で止めることも、傲慢に救いあげることも。

命を賭してさえ、可能性は低い。
あの人でさえ出来なかったことを、為せる自信はなかった。


「次はいつ頃始まるかの大体の予定を教えて下さい。それと――始まったら知らせて頂きたい」

青年の言葉に、監督役は口元を歪めた。
確約はできないな――と大げさに肩を竦めてみせる。

「時計塔の精鋭などに参加されては、厄介な」
「私の教え子連中を、こんな無益な死地には送らない」

嗤いを遮る暗く低い声は、聖杯戦争に参加したひとりの魔術師であった頃とは違っていた。
もはや青年は未熟な魔術師ではない。家柄も才も持たずに伏魔殿たる時計塔にてのしあがり、その名を内外に轟かす若き重鎮。

それこそ嘗ての天才魔術師級か、それに近い程の英傑たちを育て上げ、教え子を纏め上げれば塔内の派閥勢力を一変させるとまで言われる男は、黒衣の神父を真正面から見据えて臆することなく告げる。

「必要だったら戦争に手を出さないと『誓い』ますよ。期間中『祖父母』をロンドンに招きたいだけです」

また、あの闘いが始まる。
しかも此度の監督役は、己の嗜好を――歪みを理解してしまった破綻者であり、なおかつ最強のサーヴァントを従えたまま。

尚更『祖父母』を此処には残せない。

青年の強い眼差しに、神父は少しの間考え込み、承知した――と頷いた。


帰り道、あと少しで地上に戻るといったところで、不意に神父がポツリと言った。

「君の成長は好ましかった。見ていて楽しかった。出来ることならこの手で殺してみたかったが――ギルガメッシュが煩くてな」
「突然何ですか! ボク、何かしましたか!?」

人の背後で、やたらと物騒なことを呟かないで欲しかった。
焦り振り返った青年が見たものは、悪徳神父にしては珍しい作り物ではない、ごく普通の穏やかな笑み。

 アレはどうでも良いモノは簡単に無造作に殺すし、執着した者は丁寧にじっくりと殺したがる。
 どちらにしても迷惑極まりないんだよね。

恐ろしいことを、笑顔交じりで語った男に、殺すという結果は同じじゃないですかと、疲れた声で突っ込んだ短くも危険で楽しかった日々を青年は思い出した。

つまり青年は、割と破綻者に気に入られていると言えるのだろう。

突然こんなことを言い出した理由は、容易に推測できた。
神父の表情に、見覚えがあったから。
冬木を発つ送別会にて最後に呼び止めたあの人と同じ、透明で消え入りそうな笑み。

「……死ぬんですか?」

どうにか搾り出した青年の問いに、神父は死ぬな――とあっさりと頷いた。

「私の心臓は泥で動いている」

心臓を撃ち抜かれた彼は、その欠損を聖杯より溢れたモノ――泥にて埋めて、死んだまま生きている。
魔術師殺しには猛烈な呪いとなり死に導いた泥は、彼のことは祝福し生かした。

「次の聖杯が発動すれば、間違いなくこの長かった余生は終わる――これでお別れだ」

『おそらく、君とはこれで本当のさよならだ。お世話になったね』

死期を悟り微笑んで別れを口にしたあの人と、彼は同じようなことをそっくりな笑顔で口にした。


普通から逸れ、何も持っていない彼らは、ひどく似ていた。
それゆえ、互いを的確に解析できる。

だが、持たずに生まれた者と全て捨ててきた者――結果こそ似ていても、根本が異なっていた。
だからこそ、理解はできない。


「英雄王でもMr.衛宮でも良い……もし、もっと早く出会えていたら、あなたの歪みはここまで大きくならなかったんですかね」

信仰心と良識とで、耐え切れなくなるほどに抑え続け、挙句爆発する前に。

『それでいい』と首肯するのでも、『アホか』と否定するのでも構わない。
対応は、助長するのでも喧嘩でも殺し合いでも良い。
歪みを知り、適度に発散させてやることが出来る者と、もう少し早く出会えていたならば――もしかしたら彼は。

「……ifなど在り得ない。ギルガメッシュと会うのは聖杯戦争であり、私と衛宮切嗣は相容れない存在だ」

聖杯戦争の時点では、彼のたわみは既に限界で。
彼と衛宮切嗣の関係は、悪友ではなく、宿敵で。

「私はなるべくしてこう成っただけの話。だから――君がそんな顔をする必要は無い」

少しだけ辛そうに、だがそれ以上にきっぱりと、言峰綺礼は本当に最後の救いの手を拒絶した。



『最初のサーヴァントが召喚された。間もなく始まるだろう』

冬のさなか、青年はそんな国際電話を受けた。

『教えてくれて、ありがとうございます』

悲劇の幕開け、惨劇の開始の合図。

戦争の状況やら冬木の様子など、ざっとではあるが教えてくれる律儀な聖職者の言葉を、高速で噛み砕く。
青年は、内心で仕事のスケジュール調整と、旅行の手配などについて考えを廻らせながら、おそらく無駄になるであろう正直な想いを告げる。

『どうしても止められないんですか? 破綻者でも壊れていても悪辣でも、ボクはアナタたちが好きでした。――生きて欲しいと今でも思います』

含み笑いの気配が消える。
きっと今、昔のような無表情になっているのだろう。

長い長い沈黙に、このまま切られてしまうかと不安になったとき、囁きが聞こえた。

『ありがとう……Dominus vobiscum 』
『……Et cum spiritu tuo』

小さく息を呑んだ海の向こうの破綻者に、青年はざまあみろと思いながら、電話を切った。

人のことをいつまでも語学が残念な小僧だと思っているから、ラテン語といえど本音を漏らすのだ。
これでも時計塔に戻ってからは、努力を積み重ね、知識を蓄えた。

Dominus vobiscum.
主は皆さんと共に または、主はあなたと共に。

司教・司祭の挨拶であり祝福。主の恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたと共にありますようにという祈り。
破綻し歪み、いまや悪に塗れた彼の、それでも神を信じる――聖職者としての真摯な想い。

魔術師である青年は、英国民でありながらキリスト教徒ではない。
だから、また司祭と共に――という決まり文句で返したのは、貴方の優しさを理解しましたよ、受け取っちゃいましたよと思い知らせる為の、ただの嫌がらせだった。


きっと神父はこの会話など忘れたかのように、聖杯戦争に参加する。
裏で暗躍し聖杯戦争の上辺しか知らぬ参加者たちを思惑通りに操作し、非情に、残虐に進めるのだろう。

彼はそれを愉しめるだろうが、同時にまたそんな己の外れっぷりに、傷付くのだろう。

「主よ……あなたが本当に居るのなら」

青年は、神の実存を信じていなかった。
正直、宗教というもの自体を、マーケティングの成功例だと思っている。

「ずっとあなたを信じ、求め続けたあの人を、お救い下さい」

けれど、衛宮切嗣という唯一の縋れる存在すら喪い、教義として自死さえ許されないまま、もがき続けた――悪辣な本性と敬虔な信徒としての立場の間で――背反し苦しみ生きてきたあの人には、救いがもたらされても良いと思う。

「最後の、唯一の望みくらい――拾い上げてください」

神でも人でも【使い魔】でも、誰であっても構わない。
どうか彼を止め――安らかに終わらせて欲しいと、心から祈った。