TOPへ

―― 5th.Discovery 星の牧場 ――

「ゴメ〜ン。あたし、行くところあるから」

聞き慣れた声の、珍しい断りの言葉――そして珍しく弱々しい声音に、葉佩は顔を上げた。
友人たちの昼食の誘いを断り、教室を出ようとした八千穂は、葉佩の視線に気付いたのか、彼の席まで戻ってきて尋ねる。

「葉佩クン、元気してる? 何か悩んでる事とか、ない?」
「特にないが……なんでまた?」

いつも通りの明るい笑顔。
だが、八千穂の顔色は優れなかった。辛そうに、青ざめた顔で――なのに、笑っていた。

「えへへッ、あたしね、最近は少しでも多くの人に親切にしようって決めてるんだ。そうすることで自分も幸せになれるんだって」

汚れのない瞳で、セミナーにいかなくちゃと歩き出す彼女の背を眺め、葉佩は溜息を吐いた。

美しい理念だ。
だが、そういった考えと、セミナーという言葉から連想するのは、言ってはなんだがアレな人たちだ。知人にできたら面倒なタイプの善良な人々。

「おい、何やってんだ。大丈夫かよ」
「大丈夫ッ、ちょっとつまずいただけだから」

急にふらついた八千穂を支えてやった皆守に、彼女は弱々しい笑みを見せて、平気だと言い張った。
ふらふらと、それでも急いで教室を後にする八千穂の背中に、友人たちが心配そうに顔を見合わせた。

例の倶楽部が云々という会話に、葉佩の目が光ったことに気付いたか、さり気なく彼女たちとの間を遮るように立ち上がり、皆守は葉佩の腕を引っ張り、立ち上がらせる。

「詮索しても仕方ないだろ。さっさと昼飯に行こうぜ」


「いらっしゃいませェ〜マミーズへようこそッ!! 何名――」
「ひと――――いてぇえええ」

いつもの奈々子の台詞に対し、即座に笑顔を浮かべてにじり寄る葉佩の頭を、皆守はぐゎしと掴んだ。そのまま、コキリと横に折るかのように除けて、断言する。

「二人」

首が折れたぁぁあああとか叫んでいる葉佩のことは、完全無視らしい。

「何だか先手を取られましたね――葉佩くん大丈夫ですか?」
「こいつは首がもげても死なないだろ」

どこの不死者ですか俺は――と、ぶちぶち文句を言う葉佩であったが、またもや無視された。

「アレはほっといて、さっさと案内してくれ」
「はァ〜いッ、それでは二名様、お席へご案内しま〜す!! そういえば、お二人ともご存知ですか? 最近女生徒さんが話してるのをよく聞くんですけど――」

隣人倶楽部。
デジタル部が主催している集まりで、参加者は、穏やかな気持ちになって、その上ダイエット効果まであると評判なのだと、奈々子は噂話レベルのものを語った。

「少し冷静になって考えてみろ。胡散臭いにもほどがあるだろ」
「でもでも〜ッ、ホントに評判なんですよ〜。代表をやってるタイゾ〜ちゃんがもォ〜、めちゃめちゃプリティでェ〜」

忠告されながらも、まだ集まりとやらに未練がありそうな奈々子の言葉を黙って聞いていた葉佩が、話題を変える。

「奈々子さん、奈々子さん。お客さんが呼んでる」
「あ、は〜い。只今参りま〜すッ。それじゃあ、ごゆっくりどうぞ〜」

ぺこりと頭を下げ、ぱたぱたと、呼ばれた方へ向かう奈々子の背を眺めていた皆守は、視線を葉佩へと移す。

「……そんなにやばいのか?」

今、葉佩は明らかに話を逸らした。彼女を巻き込まないように――つまりは、隣人倶楽部とやらは、危険なのだ。

「やっちーの目が、セミナーとかで騙されている人のものとそっくりだ。今にも浄水器を売りそうなくらい。で、この学園では、搾り取られるものは……金とか物質面に限らない」
「……まァ、飽きっぽい八千穂のことだ。すぐに戻るだろ」

深入りしないように。
危険な兆候だという葉佩の話を、敢えてあっさりと断ち切ると、皆守は、タイミング良く到着したカレーに手を伸ばした。


マミーズを出たふたりは、下駄箱にて、レースとフリルの塊に遭遇した。

「こんにちは、お二人さん。葉佩クンにお知らせしたいことがありましたの」

隣人倶楽部という集まりの事を知っているかとの椎名リカの問いに、皆守が呆れたように肩を竦める。

「やれやれ、今日は随分とその名を聞く日だな。まさかお前も参加希望者なのか?」

どこか刺のある言葉に、椎名は余裕たっぷりに微笑んで、ご冗談を――と、首を振る。

自分を救うことができたのは、神でも隣人でもなく――ただひとりだけだったのだと。

「ただ、あそこには葉佩クンのお友達が熱心に通っているようなので、ご忠告申し上げた方がよろしいかと思ったんですの」

あの集まりは危険だと。
このままだと、大変なことになってしまうと、真剣な表情で忠告してから、椎名は一転して悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ねた。

どう出るつもりなのか――と。

「ありがとう、知らせてくれて。彼女はちゃんと引き剥がすよ」
「ふふふッ、葉佩クンはやっぱり素敵ですわ」

この学園には貴方の知らない怖い人が――執行委員が、まだまだいるのだから気を付けてと、意味深な笑みを残し、彼女は優雅に踵を返した。

その小さな背を苦々しく睨んだ皆守が、舌打ちし、呟く。

「八千穂の奴、予想以上に面倒なことに首を突っ込んでるみたいだな。……どうもお前が転校してきてから、厄介事に出くわすことが多くなった気がするな」
「それはね〜この地の石たちが葉佩君を呼んでるからさ」

ギロリと睨まれた葉佩が口を開く前に、横手から会話に割り込んできた人物がいた。
誰何するまでもない。内容から、相手が推測できる。

「君はこれを受け取るのに相応しい人物だ」

あげるよと、軽い口調で手渡されたものは、遺跡研究会――彼の城の鍵。
転校生は、晴れて聖域に立ち入る権利を――それなりの信頼を得たらしい。

「ラララ〜、石は何でも知っている〜。ラララ〜、石がどこかで見つめてる〜」

歌いながら黒塚が去った後、なんとも言えない沈黙が訪れる。

「……やれやれ、お前も大した奴に見込まれたもんだな」
「ま……鍵貰えたのは、純粋に嬉しい。探索可能域が増えてくのって、わくわくしないか?」

戦利品たる鍵をキーケースに加えながら、葉佩は同意を求める。
音楽室・美術室・理科室と、段々と増えていく鍵を嫌そうに眺め、呆れ顔で知るかと首を振った皆守は、用事があるからと、何処かへ消えた。

ひとり暇になった葉佩は、なんとなしに売店へと向かう。
とくに意味はなく、ただ使えそうなモノがあれば買っておこう程度の気持ちであった。


売店の前には、山が在った。

「ああ……どうしてお昼の売店は、こんなに混んでいるでしゅか。……また、ボクはやきそばパンが食べられないのでしゅね」

嘆き悲しむ、今にも泣き出しそうな小山のような物体を、不思議そうにまじまじと眺めてしまってから、葉佩は、どこかの教室からかっぱらったものがあったはずと、所持品を漁った。

一応、消費期限内であることを確認し、軽い口調で手渡す。

「よかったらどうぞ」
「ええッ、本当でしゅか!? あ、ありがとう、でしゅ……」

おずおずと、それでもしっかりと握り頭を下げる巨漢の男子生徒に、葉佩は笑顔で気にしなくて良いと答えた。拾い物だからと、内心でそっと付け足しながら。

「あの……、キミは誰なんでしゅか?」
「名乗るほどのものでもございませんよ……うそうそ、葉佩 九龍」

ニヒルに笑って、立ち去ろうとした葉佩であったが、男子生徒の目に、じわっと涙が滲んだことに気付いて、慌てて名乗った。――流石に衆人環視の中で、人を、しかも男を泣かせるのは決まりが悪い。

「葉佩 九龍……。そうでしゅか、キミが転校生の……」

だが、気遣いは裏目にでたようだ。
つい先刻まで、泣きそうだった男子生徒の声が、静かに沈む。
それから振り切るように声を明るくして、彼は何かお礼をしたいと言った。

「何か悩みはないでしゅか? 辛かったり苦しかったり淋しかったりすることがあれば、ボクが何でも解決してあげるのでしゅ!!」

悪い魂を吸い取ってあげる――と、澄み切った、歪んだ目で、彼は自信たっぷりに笑った。
苦笑し、必要ないと首を振る葉佩の言葉の意味が理解できないのか、巨漢の生徒は、さかんに首を傾げ、再度セミナーとやらへ参加するように告げて去っていった。

「……やっちーを引き剥がすのは、急がないとな」

ぼそりと呟き、葉佩は今後の予定を組み立てた。

探索と金稼ぎと依頼と。
時間のかかるものは後回しにするかと、決めた。

その決定すら、遅かったのだと、たった二時間ほど後に、思い知らさせることになったが。



「あ、明日香ッ!!」
「先生ッ、明日香がッ……八千穂さんが、急に倒れて」

体育の授業終了後、体育館にいた男子生徒たちは、女生徒たちの悲鳴を聞いた。
校庭の方に視線をやり、集い慌てる女生徒たちの姿を遠めに眺めながら、皆守は隣の人物に話しかけ――そして、硬直した。

「ちッ、やっぱりこうなったか。どうす……」

級友が纏っていたのは、既に非日常の空気。

「shit……もちろん様子を見に行く。対応が遅れた俺のミスだ」

小さく舌打ちし、葉佩は拳を強く握った。
兆候も情報も、事前に掴んでいたというのに、防げなかったことが腹立たしかった。


保健室の主は、訪れた二人組に、手早く現状を説明した。

こういった症状で運ばれてきたのは、八千穂が初めてではないと。
彼女も今までの者と同様、皮膚にウィルスと思われる何かが付着していたと。

生命活動に必要なエネルギーを吸い取られ、感染者は衰弱する。だが、ウィルス自体の生命力はそう強くなく、ゆえに継続的に接種することで、威力を増すのだと。

「……隣人倶楽部か」
「フッ、君にしては情報が早いな。いつもは他人のことなどどうでもいいという顔をしているのに」

揶揄の笑みを浮かべた相手に、皆守は顔を顰め、首を横に振る。

「勿論どうだっていい。ただ葉佩の近くに居ると、嫌でも耳に入ってくるんだよ」

巻き込まれているだけなんだと、嫌そうに応じる皆守に、瑞麗は微笑んだ。
不快でないから、一緒にいるのだろうと。

「いい傾向だよ。そうして人と関わることをさけばければ、いつかアロマも必要なくなる。……葉佩のようないい友達もできたことだしな?」
「この豊かな包容力で、暖かく包んでおきます」

照れるのが普通な瑞麗の褒め言葉に、自分の胸をトンと叩き、臆面もなく頷く葉佩の面の皮の厚さに、皆守の方が赤面する。

「くそッ、こんなことならわざわざ来るんじゃなかった。とっとと帰……」

強い口調が、途中で消える。
原因は、目を覚ました八千穂の――弱々しい姿。

血の気の引いた顔で、来てくれてありがとうと微笑む彼女の姿に、毒気を抜かれたのだろう。皆守が、隣人倶楽部へ行くのはもう止めろと、静かに――優しく首を振る。

「……タイゾーちゃんが皆を救いたいって思ってる気持ちは、嘘じゃない気がする」

ただ少し方法を間違えてしまっただけ。
何よりも救われたがってるのは、彼自身なのではないか。

力なく、それでも彼を庇おうとする八千穂に、それ以上きついことを言えるはずもなく。

彼女のことは、瑞麗に任せ、保健室を後にした皆守は、廊下の端にちらりと視線を遣り、問いかける。

「……まったく、いつからここは、お節介の溜まり場になったんだ。なァ――白岐」

呼びかけに姿を見せた彼女は、乏しい表情で、それでも心配そうに、八千穂は無事だったのかと問うた。

「今は落ち着いた」
「生き死にに関わるような話じゃないのは確かだ」

葉佩の答えに、皆守のフォローに、僅かだが、安堵の色を見せて良かったと呟いた白岐は、すぐに表情を暗く沈める。

あの集まりはおかしいと。
愛すべき隣人のために、何もかも差し出し、尽くすことが幸せだと信じる彼らは、本来の言葉の意味を損なっているのだと、白岐は静かに語った。

「汝の隣人を愛せ。葉佩さん、あなたは、この前に語られるべき言葉を知っている?」
「Love your neighbor as yourself. 汝自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ」

葉佩の答えに、白岐は、頷いた。
大切な部分こそが、すっぽりと消えてしまっているのだと。

「自らを愛する事なく、他者を愛することなどできない。あの倶楽部で教えを説いている者に欠けているのは、その感情……」
「自らを省みないものに、真に他者を思いやることなどできない、か……」

白岐の言葉を引き継いだ皆守は、所在なげに立ち尽くす少女に問う。

「どうしてそんな事をわざわざ俺たちに?」

誰にも関わらず。
ひとりで居続ける彼女が、なぜ例外をつくるのか。

「解らない……葉佩さんに何を期待しているのか……彼女が倒れたことにどうして動揺しているのか」

しばし考え込み、それでも本当に答えが浮かばなかったという風に、白岐は首を振った。
その真摯な可愛らしさに、葉佩は小さく笑った。

「簡単な話だ。君は、彼女のことが好きになりかけてる。動揺? ちがう、心配してるんだよ」

きょとんと。
初めて年相応といえる表情を見せた白岐は、呆然としたまま背を向けて、フラフラと立ち去った。

「あ、おい――。あの女が顔色を変えるとはな。どういう女たらしだお前は」
「失礼な。ああいう壁を作るタイプは、壁を破壊してくれるやっちーみたいな人か、気にもせずに通り抜ける人が相性が良い」

わずかに笑うと、葉佩はすたすたと歩き出した。
隣人倶楽部に行ってみるという説明に、皆守は少し迷ってから、小さく問いを口にした。

「壁を通り抜けるってのは……お前みたいな奴か?」

呟きに、葉佩は答えなかった。
聞こえなかったのか――それとも答えたくなかったのか。
もう一度問う気にはなれず、皆守は、先を行く葉佩の背を無言で追った。


「ここは神の牧場。誰もが等しく救われる権利を持つ場所でしゅ」

電算室に現れた巨漢の男子生徒は、にっこりと笑った。
葉佩くんにまた会えて嬉しいとはしゃぐ彼からは、悪意も害意も感じられない。

だからこそ、皆守はきつく睨みつけ、自覚なく人を害する者へ尋ねた。

人を集め、病原微生物をばらまく行動――何が目的なのか。


あれはウィルスなどではなく神の光なのだと。
救いを求める者の心に届き、悪い心を吸い取るのだと。

自信満々に語る肥後に、皆守は詭弁は止めろと首を振った。

「八千穂は結局どうなった? 衰弱しきって保健室に担ぎ込まれただけだ」

鋭い指摘に、肥後は狼狽する。
八千穂にそんなに悪い心があるはずがないと、取り乱した彼は、おそらく余計なことまでも口にした。

「みんなから嫌な魂をあつめれば、この学園ももっとよくなるってあの仮面の人が――」
「仮面の人?」

口にしてしまった重大なキーワードが、皆守の疑問が、そしてタイミング良く響いた鐘の音が、肥後に冷静さを取り戻させた。

「下校の鐘でしゅ。『一般生徒』は早く帰った方がいいでしゅよ」

口も、心も固く閉ざした彼は、それ以上語らず立ち去った。



「まったく……、黒い砂だの仮面野郎だの、一体、執行委員はどうなってるんだ」
「どうも何も、元々非常識なものに非常識なことが起きても当たり前だろ」

生徒会の法に従い、急ぎ校舎を後にしながら、皆守はぼやく。
が、正論を、同じく非常識な存在にあっさりと口にされ、顔を顰めた。

「急に常識ぶるなよ。そういえば……何番目かの怪談に仮面男の話があったな。少し前に見たって奴が大騒ぎしていた気がするが……」

記憶を辿っているわずかな間に、葉佩の姿は、かなり離れていた。
その背中に滲む緊張感は、遺跡に在るときのものに近い。

足早に進む彼を追い、既に答えが解りきった問いを投げる。

「やっぱり今夜も行くのか?」


着信音が、けたたましく鳴る。

仕度をしていた葉佩は、いい加減諦めて、H.A.N.Tを手元に引き寄せて――苦笑した。


十通目のメールが届いていた。
いずれも、『絶対に絶対にずぇーーーったいに、連れていってね。仲間はずれなんてなしだよ』――という、半ば脅す内容。

なんていい子なのだろうと感心してしまう。

『ベッドに入る前なら付き合ってやらないこともない』

行くに決まっているだろうと。
遅れれば遅れるほどに、八千穂の容態に関わると答えた葉佩に対し、皆守は気が進まぬ素振りで言った。

「ふたりとも優しいよな。正直、彼にはかなりむかついていたけれど――」

肥後の純粋な想いなど知らない。

ただ、それでも彼は悪くは無いと庇った優しい少女の為に。
不機嫌極まりなく、それでも確かに付き合うと言った意地っ張りの為に。

「――ちゃんと助けるか」


「すっげー!! インディージョーンズだ!」
「んな場合じゃないだろッ!?」

後ろを時折振り返り、楽しそうに笑う宝探し屋に対し、皆守が必死の形相で突っ込む。
気分としては蹴りくらいかましたいのだが、そんなことをしていたら命が危うい。

八千穂は、無言で、青褪めながら、やや前方を走っている。病み上がり、かつ、女性とはいえ、さすがは運動部所属である。


響く轟音。背後からごろんごろんと転がってくる大岩。
どこに設置してあったんだと、遺跡に突っ込みたい気持ちで一杯の皆守だったが、その暇があったら足を動かすべきだと分かっている為、今は必死である。

「い……行き止まり!?」
「嘘だろ!?」

懸命に走った先にあったのは、底が見えないほどの亀裂。
向かいへの距離もかなりあるのか、暗い視界では、先は見えない。

――だが、後ろには大岩。止まる気配は、微塵も無い。


「白鳥のように華麗にッ!!」

誰かの台詞を吐きながら、葉佩はたたらを踏んだふたりを両脇に抱え、走ってきた勢いのまま、前へ跳んだ。

「嘘ぉぉおおおッ!!」
「おいッ!!」

ワイヤーも明かりも。
身の安全を保証するものは何一つないまま、身を宙に投げ出される。



壁に凭れかかり、放心していた皆守は、葉佩を睨み、切れ切れの声で尋ねる。
未だにバクバクと刻む心臓が忌々しかった。

「……確証は……あったんだよなァ?」

膝を抱え込んでしゃがんでいた八千穂も、皆守の言葉に顔を上げ、命の恩人であり、過去最大限の恐怖を感じさせてくれた転校生を見つめる。

「一応。反響音から、対岸があるのは分かってた。地形から判断した距離は――跳べるかどうかはぎりぎりだったけど」

九割九分の圧迫死より、五割の墜落死を選ぶよねェと、既にひとりだけ呼吸が整った化け物は、平然と続けた。

五分五分だったと――五十パーセント死んでいたのだと知り、じんわりと恐怖が募ってきて、八千穂と皆守は、再度突っ伏した。


「さて、ボス前だ。覚悟はいいかな」
「もうこのエリアのハイライトは、俺としては通り過ぎた。勝手にしろ」

大丈夫だよッ――と元気良く返事をする八千穂とは違い、皆守はいつもよりも更に数段低いテンションで応じた。

なんかもう、大岩から逃れ、底の見えない亀裂を飛び越えただけで、困難はとうに終わった気分であった。

まだ敵居るからと笑った葉佩は、物々しい扉を押し開ける。
待っていたのは、予想通りの人物。


「生徒会執行委員として、キミを排除するでしゅ!! それがみんなの幸せのためなのでしゅ!!」
「……君が皆に強要していることは、献身でさえない。自己すら省みないのは、ただの馬鹿というんだ」

繰り返し信じ込んだ主張をあっさりと否定され、悔しさに顔を歪めた肥後は、葉佩の後ろに居た少女の姿に硬直した。

「タイゾーちゃん、あたしは大丈夫だから。もうやめよ――」

まだ少しやつれたままで。
手を差し伸べてくれる少女の言葉を、肥後は遮った。

「この場所を知ってしまった人たちを、見過ごすわけにはいかないのでしゅ」

悲鳴のような甲高い声で、執行委員として侵入者を排除すると、宣言した。



級友たちを下がらせ、雑魚を始末する。
その間に、肥後が動き始めたのは、視界の隅で確認していた。

ゆえに簡単に余裕をもって避けられる。

「とうッ」

緊張感のない掛け声と同時に、轟音が響く。

「冗談じゃない……足なんか、本当につぶされるな」

飛び退いた葉佩は、砕けた床と開いた大穴に、愚痴を溢した。

肥後に目覚めた力は、徐々に体力を吸い取るという、直接的な戦闘には不向きなものだった。外見通り、彼の運動神経は非常に鈍い。

大した攻撃力などないと判断した葉佩は、ある意味で正しく、ある意味で間違っていた。
たった一つだけ、彼には武器があった。

――洒落にならない体重が、そのまま武器となる。



葉佩は、少しだけ、心の中で謝った。
だが仕方がないよなとも、思っていた。彼は鳩尾も首も――顎さえも肉に埋もれている。手っ取り早い気絶させる為の箇所は、其処しかなかった。


「え……あ」

突然消えた葉佩を探そうと、肥後がキョロキョロと周囲を見回せたのは一瞬であった。
次の瞬間には、視界いっぱいに広がる膝。

「ぶぎゃッ」

短い悲鳴だけを残し、肥後は糸の切れた人形のように、急に活動を停止した。
鼻と口の間――所謂人中。さすがに、そこには肉の鎧もそれほどなかった。

顔面の急所を、なんの容赦もなく強打されては為す術もない。
うつ伏せに倒れたまま、肥後は全く動かない。

「ちょ……少し酷くないかな?」
「文句は、葉佩に直に言え。まァ、言えるもんならな」

常の如く、冷静に観察していた葉佩は、武器を構え、肥後を見据えたままで、指示を出した。

「運ぶ……のは無理だろうから、いつものが実体化した瞬間に、吹き飛ばす。そうしたら、彼のガードを頼む」



遺跡の記述から、須佐之男を模したものだと思われる巨躯の化人が現れると同時に、葉佩は爆弾を無造作に投げて、吹き飛ばした。

倒れたままの肥後の側に、皆守たちが駆け寄って来たのを確認してから、前へと出る。
H.A.N.Tの情報を一瞥し、遺跡の壁に激突した須佐之男へ、持てる限りの爆弾を上へと投げる。ただし、点火しないままで。

「おいッ、それじゃ爆発しないだろ!?」
「葉佩クンっ!?」

疑問の声に、振り返ることなく、葉佩は応じる。

「弱点が本来なら頭がある辺りなんだ」

腹部に在るように見える頭は擬態で、首なしに見える頭の位置が弱点なのだと語り、葉佩は普段より大きな銃を取り出して、照準を上方へと向けた。

「点火して投げたら、届く前に爆発する」

どれほど優れたコントロール力なのか、適当に投げられたかのように見えた爆弾は、頭にあたる場所に上手く乗っていた。

片腕でひとつの銃を構え、常に移動可能なように重心を決して下げない通常の姿とは異なり、やや広く足を開き、長い銃身を左手で支え、右手を引き金に添える。

八千穂はもちろん、銃に詳しくない皆守にもわからなかったが、それはライフル――狙撃銃。

突進しようとする巨体にも表情を変えることなく、葉佩は右手の指を僅かに引く。
発されたのは、ただの一発。

だが、爆弾のうちの一つに確かに命中し、それが誘爆していく。


結局、ろくに近寄ることも許されずに。
さらさらと姿を崩していく須佐之男は、一冊の本へと姿を変えた。

「あ……それは……、ボクの聖書?」

朦朧としたままぼんやりと眺める肥後に、葉佩はポンと手渡した。
おそらく何度も繰り返し読んだのだろうと思える、擦り切れた表紙の聖書を。

「そうでしゅ……ボクはどうして忘れてしまってたんでしゅか……」

幼い頃、トロいと苛められていた彼を助けた転校生の少年が居た。

聖書をくれた少年は、確かに教えてくれたのだった。

『汝自らを愛するが如く、汝の隣人を愛せ』

自分で自分を好きにならなくてはならない。
そうでなければ、誰のことも幸せにできないし、誰にも幸せにしてもらえない。

なのに自分のことを嫌いなままで、ただ悪の心を人から消し去ろうとした。
教えを、都合良く改竄していた。

「ボクはただ、みんなに幸せになって欲しかったんでしゅ」

悄然とした肥後の肩を、懸命に背伸びして叩いたのは、八千穂だった。

「分かってたよ。タイゾーちゃんの皆を救いたいと思ってる気持ちは嘘じゃないって」

衰弱し倒れた――被害者である少女は、優しく微笑んだ。

「ちょっと方法を間違えちゃっただけだよね。もう――大丈夫だよ」

一番責める資格がある人物に、こうまで言われては、仕方なかった。
皆守は肩を竦め、葉佩は少し苦笑しながら、優しく罰を告げる。

「被害者の子らに――事情なんか説明しなくていいから、とにかく謝って、そして、治るまでちゃんと気を配ること」

心配そうに表情を曇らせていた少女は、今は明るく振舞っていた。
つい先刻まで、恐ろしいほどに冷たかった転校生の瞳には、優しさが滲んでいた。
勝手にしろとばかりにそっぽを向く青年の口元は、微かに笑っていた。

「八千穂たん、……葉佩くん」

断罪にきたと思っていた違反者たちは、許してくれたのだ。

「分かったでしゅ。謝りましゅ。そして、みんなが治ったら――もう一度頑張って自分のことを好きになるでしゅ」

自分自身のことを大切に思えるように。隣人を、本当に愛せるように。
彼らが人を許す如く、自分も人を許せるように。