「がはッ」
真神学園の体育館裏では、数ヶ月前と似たような事件が起きていた。
倒れ、ただ唸ることしかできない男も同じ、それをした者も同じ。
喧嘩を売った方が、倒れている事も同じ。
ただ、今は周囲に誰も居ない――彼らふたりだけ。
それが異なる。
「緋勇……てめェ」
「佐久間君さあ、いい加減しつこいよ」
四つん這いの佐久間の腹を、緋勇はつま先で蹴り上げた。
「ぐわ……あがッ」
半回転し、仰向けになった佐久間の胸を踏みながら、心底厭そうに告げる。
「もう面倒くさいから、教えておくけどさ、俺の格闘経験、一年未満だよ。去年の十二月からはじめたんだ」
素っ気無いその物言いが、むしろ真実だと語っていた。
佐久間は、驚愕に目を見張る。
「な、なんだと」
「事実だよ。だから君がどんなに努力しても無駄だ。俺は更に進むんだから」
差は広がるばかりだね――そう冷然と笑う緋勇に、佐久間は怒りのまま怒鳴った。
いや、怒鳴ろうとした。
「くそッ、ぶっ殺してや……ぎゃあぁぁ」
負け惜しみさえ許さないらしい。
更に足に力を込めながら、緋勇は氷の貌で続ける。
「その言葉ね……大っ嫌いなんだよ」
そして、言葉の上だけの丁寧ささえも、投げ捨てる。
「よくもまあ、人を殺した事も無いのに面白い事をほざけるな。
貴様が他者に暴力を振るおうが、他校生と揉めようが知らん。勝手にしろ。
ただし、また私に近寄れば……次は殺す」
緋勇は、佐久間を残して去っていった。
恐怖に凍りつく彼を、一瞥もせずに。
「なんで、俺はアイツらに勝つ事ができねえ。
緋勇――、蓬莱寺――、醍醐――。クソッ!!」
やっと動けるようになった佐久間は、公園をひとり歩いていた。
心に、緋勇たちへの、憎悪の念をかきたてながら。
なにを悩む事がある?
我らが同朋よ――。
鬼面が闇の中に浮かび上がる。
その真紅の面は、さらに続けた。
主の抱くその怨恨は、我らが鬼道の恩恵を得るに相応しい。
限りなく我らに近き魂を持つ者よ――。
さあ、解き放て。
なぶり、殺し、そして喰らうがよい……
はじめ驚愕していた佐久間は、いつしか憑かれたように、ただその面を見つめていた。
魅了されたのか呆けた顔をしていたが、少しずつ表情に澱がたまっていく。
恨め―― 憎め―― 殺せ――
「なッ、なんだ?頭が」
さあ、堕ちるがよい…
変生せよ。
堕ちよ佐久間。
「じゃあねー、みんな」
「はい、また明日」
「おやすみなさい、センパイ」
「あの女、丁度いいところに…」
佐久間の目に陰火が灯る。
その視線の先に居るのは、部員達との打ち上げを終えた桜井小蒔。
真神学園体育館裏で、佐久間は待っていた。
「佐久間ッ!!桜井はどこだ!?」
「いつもてめェはそうだ。
他人の事ばかり気にしやがって」
佐久間は唸った。
やって来た醍醐の第一声が、気に障ったらしい。
「俺はなぁ、もうてめェの手下じゃねェんだよ」
「俺はお前の事をそんな風に――」
佐久間は、醍醐の言葉を聞き入れず、怒鳴り散らす。
「うるせェ!!
てめェはそうやって俺を嘲笑ってたんだ。
俺が、お前の影でどんな想いをしていたかッ――!!」
あの杉並中の醍醐が転校してくる。
その話を聞き、佐久間はすぐにケンカを売りにいった。
結果は、散々逃げ回られた上に、完敗。
更に、レスリング部に入部させられた。
だが自分でも信じられない事に、それも悪くなかった。
くだらないと思っていた部活動も、醍醐とともに居る事も。
なにかが狂いだしたのは、美里に執着し、それを醍醐や蓬莱寺や桜井に牽制されだしてからだった
そして、更に決定的におかしくなったのは、あの転校生――緋勇龍麻が来てからだった。
美里葵は、その完璧さゆえ高嶺の花となり、どの男も近寄らなかった。
ある意味で、彼女は男を拒絶し、そしてされていた。
だが、緋勇には違った。その美里が、自分から親切に扱った。
それでも、緋勇をシメてしまえばいい。
そうすれば、もう誰も美里に近付く者はいなくなる。
そう考え、呼び出した緋勇は…強すぎた。
佐久間では、相手にすらならなかった。醍醐でさえ、負けたと噂で聞いた。
だが……今は違う。
「俺は、力を手に入れたんだ。あいつらから――」
「何……だと?」
醍醐の驚愕の顔が、佐久間の気分を良くさせる。
余裕が、人質の存在を思い出させる。
殴りすぎてぐったりとした桜井を、佐久間は引きずってきた。
彼女の髪を掴み、その姿を醍醐の前に晒した。
「桜井!!」
「醍醐。てめェこの女に惚れてんだってなァ。このアマ、以前俺の事叩きやがってよ……」
「佐久間!貴様!!」
「動くと、こいつの面に一生消えねェ傷がつくぜ」
「あう…」
小型のナイフを、意識を取り戻した桜井の頬にゆっくりと当てる。
硬直した醍醐の様子を見て、佐久間は満足そうに嘲笑った。
「てめェの次は、蓬莱寺と緋勇をブッ殺して美里を手に入れる。
今の俺の勝てる奴なんざ、いやしねェのさ」
「うう…」
「醍醐クン!」
醍醐が、苦しげに膝をつく。
桜井には当然、そして氣を感知できない佐久間にさえ、醍醐に、膨大な力が流れていくのが分かった。
苦しむ醍醐の輪郭が、わずかにブレる。
ただでさえ逞しい体躯が、更に一回り膨らむ。
「がああああぁ」
そう吠えた醍醐は、異形へと変じていた。
髪は逆立ち、顔には文様が生じる。
『彼』は、尖った耳と鋭い牙を有していた。
「ちょっと、ふざけただけじゃねェか、なッ?」
佐久間は思わず桜井を離し、あとずさる。
だが、無駄な媚であった。今の醍醐と、意思の疎通がとれるはずがない。
ゆっくりと怒りに満ちた目で近付いてくる醍醐を前にして、佐久間の先程までの優越感は消し飛んだ。
情けない悲鳴を上げる。
「誰か、助けてくれ――!!」
変生せよ
鬼面から囁かれた言葉が、今甦る。
脳裏にその言葉だけが、大きく響く。
佐久間よ…。
さあ、堕ちるがいい
そこで、人間としての佐久間の意識は途切れる。
――永遠に。
幸運だったかもしれない。
地脈の力に暴走した四神 白虎に、己が首を刎ねられる最期を認識する事はなかったのだから。
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