見慣れた誰かにそっくりな、和服の青年が皮肉な表情をする。
「はじめまして。九角の姫君」
「貴方は?」
そこに悪意を感じて、訝しげに問うた。
「貴女の種馬の第一候補ですよ」
「無礼なッ!」
「それが貴女の選んだ道だ。一族郎党を犠牲にして……な」
綺麗な顔に侮蔑の表情。
それが、この青年に会うと向けられるもの。
最悪の第一印象。
愛する事になるなんて、思わなかった。
まして、愛されることになるなんて。
……今の夢は一体?
内容は既に、覚えていない。
でも、懐かしく哀しい想いだけは残っている。
―― 東京魔人学園剣風帖 第拾参話 美里 葵 ――
「これが目赤不動の祠か」
「よし――、封印するぞ」
四つ目の封印が終わる。
周囲の邪気が、弱まっていく。
「飯でも食っていくか」
醍醐くんの言葉に、みんなが同意する。
だけど、わたしは家族と約束をしてあった。
「今日はマリィと一緒に家族で、外食の約束があるの。ごめんね」
「じゃあ、俺はそこまで送ってくよ」
龍麻くんが、ごく自然に言った。
だって折角みんなで食べに行くのに……本当にいいの?
「龍麻くん、付き合わせちゃってごめんね」
本当に申し訳なく思った。
よくわからないけれど、沢山迷惑を掛けてきた気がして謝った。
「私ってだめね。いつも、みんなに護られて。
ごめんね……。私、龍麻くんに迷惑ばかりかけている」
そう、助けてもらってばかりいる。昔からずっと。
……昔?
「なんのこと? 心当たりはない」
龍麻くんは、きっぱりと言った。
その冷たい口調に、かえって優しさを感じた。
「龍麻くん……、ありがとう。あなたはいつもそうやって、私を励ましてくれるのね」
昔から……あなたは、私に酷い態度をとっているようで、護ってくれた。
最大限の自由を与え、そして、私を……。
「私、あなたの事……」
うわごとのように、想いがそのまま言葉となって出てきた。
「緋勇龍麻と美里葵に相違ないな……」
遮るように鬼道衆の人が現れた。
……私、今なにを言おうとしたの? こんな状況で。まだ想いの整理さえできていないのに。
前後を囲まれている。……どうしよう、闘えない私は、足手纏いにしかならない。
「葵、自分に防御をかけて、少しだけ耐えて。すぐに助けるから珠とかを使って」
牽制にしかならないけれど、なんとか時間を稼ぐ。
龍麻くんなら、きっとすぐに助けてくれるから。
やっぱり、彼はすぐに助けてくれた。
普通の人たちに闘いを目撃されていて、走って逃げる羽目になってしまったけれど。
走っているうちに、家族との待ち合わせの場所の、すぐ近くまで来ていた。
「あ……龍麻くん。今日は送ってくれてありがとう」
その角を曲がれば、家族がいるから。
もう大丈夫。――もうお別れ。
「ああ、それじゃ。気を付けてね」
去っていく彼の後姿を見ていると、苦しい。
想いが、表情に出てしまったようで、待ち合わせ場所につくと、マリィが心配そうに訊いてきた。
「ア、葵オネェチャン……どこか痛いノ?」
「ううん、何でもないわ、マリィ。大丈夫よ」
どこも痛くない。ただ、なにかが苦しいだけ。
「貴女は、龍斗を……」
「畏れ多いことを仰いますな、美里様。
私は、緋勇様に仕える者。ただそれだけの存在にすぎませぬ」
時代劇のような、重厚な屋敷に、ふたりの和服を纏った人。
「でも、……貴女はいつも龍斗を見てる!!」
え!?
叫んだ女性は、私と同じ顔をしていた。年もそう変わらない。
「任務ゆえのこと。あくまでお疑いならば……」
目が覚めれば、夢は失われる。
なのに、今日の夢は、はっきりと覚えている。
龍斗? 美里? そして……緋勇?
あの落ち着いた女性の顔を……知っている気がする。
「あッ」
……頭が痛い。視界も狭いし、貧血の状態に近い。
でも、なんとか起きあがって、身支度をする。
今日は、最後の宝珠を封印する大切な日。
どうしても、行かなければならない気がするから。
一応鎮痛剤を多めに飲んで、家を出た。
「おはよう」
途中、気分が悪くなったりして、教室についたのは始業開始ぎりぎりになってしまった。
もうみんな集まって、昨日の事を話していたみたい。
「あッ葵、おはよッ……どうしたの? 顔色が悪いよ」
小蒔が心配そうに言った。
ありがとう。でも今日はどうしても一緒に行きたいから、用意しておいた言い訳を返す。
「ええ、少し体調が優れなくて。でも平気よ、薬も飲んできたし。今日は最後の不動に行くんですもの」
一応、みんな了承してくれた。
まだ心配そうではあったけれど、ちょうど始業のチャイムが鳴った。
「じゃあ、話の続きは休み時間にしましょう」
みんなを安心させる為に、笑顔で告げた。
「あの……龍麻くんに相談したいことがあるんだけど……、後で聞いてくれる?」
「俺でよければ、喜んで」
良かった。彼に聞いてもらえれば心強い。
どうしても、夢の事が気になるの。
「―――美里サン? どうしたの、顔色が悪いわ」
一時間目が終わった時、マリア先生に声をかけられたことに、しばらく気付けなかった。
そういえば、授業の途中から、あまり記憶がない。
心配そうな顔の龍麻くんと小蒔が、同時に立ち上がる。
「それじゃあ、葵、また昼休みに来るから」
「ノートは俺がちゃんと貸すから、ゆっくりと休むんだよ」
教室に戻ろうとするふたりに、お礼を言う。
……激しい胸の痛みを感じながら。
「ええ。ありがとうふたりとも」
頭が混乱しているのか、感情がコントロールできない。
どうしたらいいか判らなくて、目を閉じる。
私……龍麻くんと一緒に戻るというだけで、小蒔に嫉妬している。
放課後になってしまったけれど、眠っていたら大分気分が良くなった。
教室に戻ると、中から龍麻くんの声が聞こえてきた。
「二手に別れよっか。封印と、葵の付き添いで桜ヶ丘とに」
駄目なの、どうしてもいっしょに行きたい。
教室に入り、そう告げると、帰りに桜ヶ丘によるなら……ということで、納得してくれた。
どうして、こんなに望むのかは自分でも分からない。でも、行かなければならない気がして。
祠の目の前に立っただけで、眩暈がする。
宝珠を封印する光の中で、私に語りかけてくる声が聞こえた。
『目醒めよ、菩薩眼の娘――』
この声は……誰?
『そして戻れ、我が元へ』
奥まった小さな村。
子供たちの笑顔。
この景色は何? 懐かしい……でも哀しい。
「…い! 葵」
小蒔の声が、遠いところから聞こえる。
だめ……立っていられない。
「あ、葵!?」
「こ……まき? ここは一体?」
目の前には、小蒔や龍麻くんたちが揃っていた。
まだ少しふらふらする。
「目黄不動で、宝珠を封印した後、いきなり倒れたんだ」
小蒔がそう言うと、その後ろから、高見沢さんが顔を出した。
「突然、みんなで来るんだもん、ビックリしちゃったァ〜」
ということは、桜ヶ丘?
先生もやってきて、今日は泊まっていくように、と仰った。
私……またみんなに、迷惑をかけてしまった。
「みんな本当にごめんなさい」
これしか言えなかった。
みんなは、気にしないようにと、優しく言ってくれたけれど……。
だけど……気を失っている時に見た夢の中では、私という存在がみんなを……。
……あ、龍麻くんに相談をしていない。
病室を出ようとしていた龍麻くんに声をかける。
「龍麻くん……」
振りかえった彼の顔色は、相当白かった。彼も具合が悪いのかしら……。
そういえば、ずっと壁に寄りかかっていた。
そんな彼に、何も言えない。
それに、言うわけにもいかない。
「あの……、ありがとう」
夜、眠りにつくと、再び夢に見た。
『美里葵――。来たれ、我が元へ――』
呼び声の主は、名乗った。
『我は、九角――』
そうね……思い出したわ。
私こそが、鬼道衆が東京を混乱に陥れてまで捜していた女――。
みんなを……龍麻くんを守りたい。
私のせいで、傷付けたくはない。
病室を抜け出して、闇に向かって声をかける。
「いるんでしょう、私を九角さんの所へ連れていって下さい」
ゆらりと影が蠢いて、鬼道衆の人達が何人も現れた。
先頭のひとりが、重い口調で言った。
「美里葵だな」
「御屋形様――ー女を連れて参りました」
「御苦労、下がっていいぞ」
そう命令したのは、まだ若い青年。
「待ってたぜ、よく俺の申し出を受ける決心がついたな」
彼は、私に嘲笑を向けた。
知っている。この人を確かに。
「本当に……、これで他の人には手を出さないでくれるんですか」
向けられる悪意が痛い。
でも、どうしても確かめなければならない。
それを聞いて、彼は一瞬無表情になったあと、哄笑した。
「はははは……あいも変わらず、美しく愚かな考えだな」
変わらず? やっぱり私のことを知っているの?
「覚えてねェのか? ならば、思い出させてやるよ。……お前の所業をなッ!!」
『どうして!? 私と引き換えに一族は助けて下さると――徳川様は』
泣き出す女性――私
目の前に広がるのは荒涼たる風景
家屋は焼け落ち、骸が点在する
子供、どころか赤子の大きさのものまで
『信じた貴女が、愚かだった』
冷たい声で答えたのは、……龍麻くん?
『貴女の存在が抑止力だった。
力で攻めようにも、貴女の身に何かあってはならない。だから徳川は攻めきれなかった。
それがなくなった今、九角の家は、邪魔でしかない――これが、施政者のやり口だ』
そんな…私は…ただ…皆を……子供達の笑顔を…守りたかった
『あいつも、残った連中も、もはや救えない。
これが、貴女のした自己満足への答えだ』
「あ……あぁ……」
「思い出したか? お前の清き心が生んだ結果を」
あの結末……私は、かつてこの人たちを裏切った……。
徳川に、私――菩薩眼を求められ、拒んで闘う人たちに申し訳なくて……。
鬼になってまで、私を護る人たちに何もできなくて……。
だから、私は自分から、徳川の元へ赴いた。
私は護ったつもりだった。
自分が犠牲になる事で、皆を護れるのならばと思った。
でも与えられた結末は、一族の死。
子供も……赤子さえも皆殺しにする、徹底的なまでの殲滅。
九角さんは、笑いながらこっちに手を向けた。
「安心しろ、お前はまた、自分だけは殺されない。
俺の傍にいて、俺の思うままに力を振るえ」
見えない何かに束縛される。気が……遠くなる。
「葵ッ!!」
「美里ォ!!」
小蒔たちの叫びで、意識が戻った。でも動けない。
口々に叫ぶ小蒔たちと違って、龍麻くんは私を静かにみつめていた。
その瞳は、先程の映像の彼と寸分違わない
僅かな怒りと、そして凄まじい哀しみに彩られていた。
「同じことを繰り返しちゃ駄目だろう、あおい。
君が、そうやって自分を犠牲にして、他人を守っても俺達は是とできないし、なによりも、そのタイプの脅しによる契約は大抵、反故にされるのが、お約束だ。……昔もそうだっただろう?」
昔……そして、あおいって――藍のこと?
龍麻くんも覚えているの?
言葉に刺激されたのか、記憶が連鎖するように甦った。
自分が狙われていた事も、龍斗や小鈴たちとの出会いも、九角の隠れ里の惨状も、徳川での扱われ方も――
――龍斗と天戒様の、闘いの結末も。
藍……、すまん。お前を……遺して逝く
お前は生きてくれ……そして、あいつらに……謝っておいてくれ
腕の中で、どんどん体温を失っていく龍斗の微笑が、浮かびあがる。
絶叫が、口から迸る。止められない。
「もういやぁー、やめてッ!! 天戒様ッ! 龍斗!!」
見ていられなかった、昔と同じように闘う九角さんと龍麻くんを。
互いの攻撃が当たるたびに、寒気が走る。
少しずつ、あの結末に近付く気がして。
突然、束縛から解放された。
「葵! 大丈夫だった!?」
小蒔が、目の前にいた。
龍麻くんも、怪我はしているけど無事のようだった。
ということは……九角さんは、倒れ伏していた。
……また、私のせいで、九角の人が……死んでしまった。
「私のせいで、たくさんの人が死んでいく。この呪われた力のせいで」
菩薩眼の力――傍らに立つものを覇者とするこの力を求めて、いくつもの闘いがあった。
一族は皆、殺された。
徳川から必死で護ってくれた当主の天戒様も、こんな呪われた女を愛してくれた龍斗も死んだ。
また、みんなを傷つける。
きっと、龍麻くんや小蒔たちのことも。
「何度も、同じ事を言わせない――昔も言ったはずだ。『つまらぬ運命が在ろうと、徳川の策略だろうと、そして、いかに多大な犠牲を払おうとも私は、お前に会えて良かった』と」
龍麻くんの声が、重なって聞こえた。
同じ声なのに違う調子で。ぶっきらぼうなのに優しいあの人の口調で。
「龍斗だけじゃない。俺もそう思う」
龍麻くんは、私を抱きしめながら、そう言ってくれた。
だって、私は呪われているのに……みんな死んでしまったのに……。
いいの?
私だって、本当は離れたくなんかない。
「大丈夫だよ。きっとなにもかも上手く行くよ。ね、帰ろう」
小蒔……本当に?
「くくくッ…甘いな」
嘲笑に、龍麻くんが、愕然として振り向いた。
ぼろぼろになりながらも、幽鬼のように立っている九角さんがいた。
目が、紅く輝いている。
これは……変生の兆し!!
「駄目! 九角さん、お願い、もう止めてッ、こんな闘いは――」
九角さんは、ほんの少しだけ動きを止めて、……そして、叫んだ。
「……さあ来いッ!! この地に漂いし、怨念たちよ。この俺の中に巣くうおぞましき欲望よ──ッ!! この俺を、喰らい尽くせ────!!」
「天童……」
鬼へ変じていく九角さんを見て、龍麻くんが哀しげに呟く。
その瞳から、光が消える。
「龍麻ッ!!」
如月君!?
顔を殴られた龍麻くんは、しばらく呆然とした後、如月君に何か言った。
唐突に、あの夢の続きを思い出した。
「ならば、再び見えるときは、彼の御方とは、同性に生まれましょう」
――このようなつらい想いを抱えずにすむように。
微かな呟きが聞こえた。
そちらが本音なのだろう。
芯から強いひと。
彼を護るべく、闘いの時も常に傍らに立つ、玄武の宿星を持った女性。
飛水の忍――涼浬さん。
本当に、同性に生まれて、そしてまた、彼を支えているのね。
「葵、もう攻撃ができるようになっているだろう。皆を護ってくれ」
振り返りもせずに言うと、龍麻くんは鬼となった九角さんに、ひとり向かった。
攻撃……今ならわかる。力を浄化にむける方法が。
「これらには、火や雷は効かない。水属性の技が使える人は居るかい?」
如月くんの問いに、沈黙が降りる。
言われてみれば、彼以外の人が水を使うのを見たことがなかった。
「……せめて冷気が使える人は?」
必死の問いに、京一くんだけが申し訳なさそうに答える。
「冷気なら一応俺が。あとは……ひーちゃんが」
先ほどより更に長い沈黙が降りる。
……確かに、龍麻くんも前に、術士系が足りないとぼやいていたことがあった。
あまりバランスが良いとは言いがたい私たちは、属性系の攻撃手段に乏しかった。
「……光は、美里さんと織部さんたちが、使える……かな? 裏密さんは?」
「うふふ〜、ミサちゃんはOKよ〜」
「では、使える人たちをメインに頼む。後の人たちは、回復や防御に専念してもらおう」
ゆっくりと近付いてくる、哀れな死霊たちを見る。
この中には、私の瞳を綺麗だといってくれた男の子も、世話をしてくれていた少女の魂も居るのかもしれない。
今、私にできること……。
「神に仕える大いなる力、四方を守護する偉大なる5人の聖天使よ――ジハード」
この力を、光に変えて放つ。
……彼らの姿が、より薄れ、消えていく。
ごめんなさい……私には、こんなことしかできない。
「ひーちゃんッ!!」
京一くんの叫びに振り向く。
龍麻くんは九角さんの攻撃を、最初から躱そうともしなかった。
腕や足に裂傷が走る。でも、動かない。
血塗れになりながら、彼はその技の名を唱えた。
まるで、死霊を浄化する聖呪の如く静かに――そして穏やかに。
「秘拳・鳳凰」
彼の身体から湧きあがった氣の奔流が、九角さんを包む。
金の光が集って、鳥を象り、そしてゆっくりと広がっていく。
「──見事だ。人の力──見せてもらったぞ」
塵となり、消えていく九角さんを、龍麻くんはずっと見ていた。
いえ、消えてもずっと。
誰も、その背中に声を掛けられなかった。
「葵は病院に戻りなよ、まだちゃんと治ってないだろうし。
あと、みんなありがとう」
たっぷり時間が経過してからそう言った龍麻くんは、いつものように微笑んでいた。
あまりに哀しかった。
他者に心を見せられぬ彼が。そして、見せてもらえない『他人』の私たちが。
夜中に龍麻くんの泣き声が、聞こえた気がした。
ごそごそと洋服に着替え、出て行こうとすると、背後から声をかけられた。
「こんな時間に、何処に行くつもりだい?」
「岩山先生……。お願いします、行かせて下さい。龍麻くんの声が、聞こえたんです」
いつの間にかそこにいらした先生は、黙り込んだ。
じっと、私の目を覗き込むように見てから、ため息をつく。
「ふざけるな、と一蹴したいところだが、お前がそんな目をするようでは、仕方がないな」
先生は、ポケットから、一枚の札をとりだした。
「護符だ、これがあれば、通常人からは見えなくなるから、変質者の類も問題ないだろう。さっさと行ってきな」
「ありがとうございます!!」
走り出した私の背中に、声がかけられた。
「妊娠には気を付けるんだよ」
先生!
思わず振り返った私に、先生は笑って言った。
「ほら、早く行ってやりな」
龍麻くんの居る場所が、はっきりとわかった。
まるで地上に落ちた星。
彼の存在が輝いて見える。
その方向へ、急いで駆け出す。
少しでも早く彼の元へ着く為に。
これ以上、彼を独りきりにさせないために。
中央公園の一本の櫻を、龍麻くんは静かに見ていた。
その背中が、泣いているような気がした。
「いざ友よ、ただ飲まんかな、唄わんかな」
呟くと、彼は手にもっていた杯から、酒を地面に注いだ。
あまりに哀しげな声に、胸が締め付けられる。
しばらく待ってから、そっと声をかけた。
「坂口安吾ね」
「葵? どうしてここに?」
呆然と振り向いた彼は、泣いてなんてなかった。
痛々しいほどに、表情が存在しない。
それでも、確かに泣いていたと、今は理解できた。
彼を抱きしめる。顔が見えないように、頭を抱きかかえて。
「これで見えないから……泣いて。龍斗の想いも、貴方の想いも抱えて辛かったでしょう。私が、もっと早く思い出していれば。そして、あんな愚かなことをしなければ良かったのに」
本当にごめんなさい――私には、謝ることしかできない。
彼は、しばらくその状態でいた。
声も出さない。当然、涙も。それでも、泣いていたのだと思う。
相当な時間が経ってから、彼は静かに言った。
「あれから……、龍斗と天戒が死んでから、藍はどうなった?」
「涼浬さんや、秋月家の御当主の協力で逃げて静かに暮らしたわ。ひとりの子供を産んで。多分あの子が、貴方の祖先でしょう」
そう、混乱に乗じて徳川から逃げ出した。江戸から離れた小さな里で、男の子を産んだ。
龍脈の乱れは、貴方たちが納めてくれたから、普通の人間だった。
ゆっくりと顔をあげた彼の表情は、もう普段通りに近かった。
……我慢して欲しくないの。貴方ひとりを苦しめたくない。
「病院からか。先生によく怒られなかったね。病院まで、送るよ」
「先生は、行ってきなって仰って下さったわ。それに――」
先生の直接的な言葉を思い出してしまい、恥かしくて、黙ってしまった。
彼は、怪訝そうな表情で言った。
「それに?」
ベッドに仰向けになり、バスタオルが解かれた瞬間、少し怖くなった。
ここまできて……。彼の部屋で、この状況で今更……。
震えが走ったのに気が付いたのだろう。
彼は、右手で私の髪を撫でながら、微笑んで言った。
「葵、今、君を抱きたい。けど、勢いであることも否定できない。人肌が恋しいだけかも知れない。……今なら、まだやめられるよ、そこら辺の人で間に合わせられる」
それでは、意味がないの。
貴方が、辛い事も哀しい事も我慢するのが、当然のことになってしまう。
「ううん。勢いかもしれない、あの人への罪悪感から逃げたいだけかもしれない。それでも、いいの」
少し起き上がって、私から口づける。
確かに、宿星のせいかもしれない。
前世の影響かもしれない。
でも、……貴方を愛してる。
愛してるわ、龍麻。
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