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その日、緋勇龍麻は、たまたま煙草をきらし、たまたまマンションのすぐ下の自販機に、いつもの銘柄がなかったために、少し遠出をした。

本人が意識しているのかは不明だが、彼にはこういったことが多い。
いくつかの『偶然』によって、事件に遭遇する――本人が望まなくとも。

その日も『そう』だった。


――ぎゃあ

小さな悲鳴が耳に入り、緋勇は眉をひそめた。
近道に中央公園を突っ切ろうと考えた自分を責めながら、元から希薄な気配を瞬時にして消す。
足音を立てぬように細心の注意を払いながらも、足早にその場を去ろうとする。

ちなみに助けにいく、助けを呼ぶ等の発想は微塵も浮かばないようだ。
必死で面倒事から遠ざかろうとするその姿勢は、いっそ清々しいほどであったが、それを問屋が卸してくれるようであれば、真神を巡る物語はそもそも始まらなかったであろう。
残念な事に、例によって例の如く、厄介事が彼の元に舞い下りる。


―― 雪見月 ――



殺気が走るのを感じる。直後の微かな風切音に、緋勇は舌打ちしながらその場を飛び退いた。
一瞬前まで彼がいた場には、ナイフが数本刺さっていた。

ちらっと見えた襲撃者の姿に、思わず苦笑が浮かんだ。
彼の目に間違いがなければ、それは最早見慣れてしまった制服――拳武のもの。


その時点では、彼にはまだ余裕があった。

目撃の程度も調べずに消そうとするのは感心しないな――などと考えながら跳躍し、木々を飛び移って逃げようと試みる。



油断があったのかもしれない。
相手の気配を振り切ったことも原因であった。

相当離れ、他者の姿も気配も存在しないこと――それを確認してから、速度を緩め、地上に飛び降りる。

その滞空状態を狙われた。
躱しようのない姿勢に、急所目掛けて幾本ものナイフが襲い掛かる。

咄嗟に腕で喉と顔を庇えたこと自体が、奇跡であったかもしれない。
腕に、容赦なく鋭い刃が食い込む。

着地地点に更に降り注ぐ刃の雨を避けるために、手近な木を蹴って無理矢理方向転換を行う。
その無茶な行動の当然の報いとして、刺さった箇所に激痛が走る。

痛みにあがりかけた苦痛の声を、緋勇は懸命に押し殺した。
些細な事でも情報を渡さない方がいい――そう判断したために。

呼吸を整えてから目の前の青年を観察し、内心で舌打ちをする。
殺人淫楽症・戦闘中毒者、そういった輩ならば、対処もしやすい。だが、その青年の目には殺意さえ存在しなかった。冷徹な実行者――緋勇のよく知る者と同じ目をしていた。



緋勇は心底疲れたように下を向き、深く長い溜息をついた。
そして、嫌々ながら心を切り替える。
浮かんでいた苦笑が消え、瞳に冷たい光が宿る。

様子の変化に気付いた青年がナイフを振りかぶる前に、緋勇は一挙に距離を詰めた。
腕のナイフを抜くこともせず、そして、予備動作もなしに。

青年の無表情に、僅かながら、驚愕とそして感嘆の色が浮かんだ。

尤もゆっくりと感嘆している暇はなかったが。
顔面に迫りくる蹴りを、彼は飛び退いて躱した。

間断なく襲い掛かる蹴りを躱しながら、青年はナイフを投じるタイミングを計っていた。
青年の呼気が鋭くなったのを感じた緋勇は、半ば背を向けて裏拳を見舞う。
痛む腕を使ったためか、それは明らかに大振りであった。

青年はそれを好機と判断し、寸前で見切り、距離を詰めようとした。
が、目に痛みが走る。
大振りは誘い。緋勇の狙い通りに、血が目に入り、青年の視界は塞がれた。

無意識のうちにか、緋勇は冷笑を浮かべながら、体重を乗せた蹴りを放った。
そして、直後にその笑いは消えた。

青年は、その目を確かに閉じたままで、肩へと吸い込まれようとしていた蹴りを止めた。
その足に向けてナイフを振り下ろされる前に、緋勇は青年の胸元を蹴って距離を取った。

そして、ひたすら逃走する。清々しいほどに、一直線に。



気配が完全に消えたことを確認してから、青年は袖口で目をこすった。

ゆっくりと呼吸を整え、胸の鈍い痛みを和らげる。
その痛みから、どうやら骨に異常はないものと判断して、彼の顔に安堵の色が宿った。
が、直後に先程の相手を思い浮かべて、表情が曇る。

相手の技量、即座に退く判断の素早さ、そういったものに、同業者かその類であることが想像できたゆえに。

面倒事の予感に顔を顰めながら、彼は本来のターゲットの状態の確認に向かった。




一方、逃走した緋勇は、十分に離れた場所にて、己の腕を嫌そうに眺めていた。
しばらく溜息を繰り返してから、意を決したように、ナイフの柄に手を掛ける。

「ぐッ」

抜く際には、さすがに声が漏れる。

抜いたナイフを地面に並べ、それから、苛々とした様子で髪を軽く掻きまわす。
彼にしては珍しいことに、不機嫌そうな表情となっていた。

自分の存在が既に捉まれていた可能性を考えずに気配を消したこと、気配が無いからと言って、不用意に動いたこと、そもそも深夜の公園を通ろうとしたこと等々、迂闊さに腹が立っていた。
また、相手の技量も、憤慨の一因であった。


「つーか視力を失ったら、喰らうのが礼儀だろうに。心の目とかで見るなよ」

とうとう独り言で、ぼやき出す。
それほどに、目潰しをしても尚躱されたことは、心外だったようだ。

「浴びせ蹴りなんて、実戦じゃ滅多に使えないのに」

まだ言っていた。
視界を奪ったからこそ使った大技を防がれたことは、相当に悔しいらしい。

ぐちぐちと、それからしばらくの間、彼のぼやきは続いていた。




翌日、年寄のように早い時間に目を覚ました如月は、悲鳴を上げた。
常に冷静な彼らしくもないが、朝起きると部屋の隅に180を越える大男が座っていたのだから、無理もないことだといえよう。

「やあ、おはよう」
「な、なな……どこから入ったッ!?5W1Hで答えろッ!!」

珍しく混乱してるな――そう面白そうに呟いてから、緋勇はしばし黙り込んだ。
律義にもしっかりと5W1Hで考えているらしい。

「When  いつ   : 一時間ほど前、つまりは四時頃だな、
Where どこで  : これは『どこから』で良いのか?だったら庭から、
Who   誰が   : 当然俺だな、
Why   なぜ   : 調べてもらいたい事があって、
How   どうやって: 罠を乗り越えて、
What  何を   : これは『何をした』ってことか?じゃあ 侵入した……かな」

臆面もなく答える緋勇に、如月の眦がギリギリと上がっていく。
彼は深呼吸をしてから、確認する。

「つまりは、君個人の都合で、人の家の侵入者よけの罠をすべて突破して、朝っぱらから陰気に座っていたということか?しかも人が寝ている部屋で」
「そゆこと」

平然と頷く緋勇を怒鳴りつけようとして、如月はそこでやっと気付いた。
緋勇が奇妙なほどに、無表情になっていることに。
一部の者しか知らないが、これは彼の中では最高級に怒っている顔。
敵に見せる侮蔑の表情などは、これに比べれば遥かに穏やかな心持ちのときのものだ。

「珍しい事もあるんだな。君がそんなに怒っているとは」

驚きに軽く目を見張った如月に、更に驚愕すべき言葉が返ってきた。

「ほっといてくれ。俺は本来は負けず嫌いなんだよ。ただ、やる気がなくても負けないから、それが表に出ないだけで」

その言葉の意味するところに、如月は今度こそ目を見開いた。
愕然として訊ねる。


「き、君が負けたのか?」
「負けてない――ちょっと殺されそうになっただけだ」

それを負けたというんだろうに――そんな内心を如月は押し殺した。

怖かったから。

それゆえに慌てて話題を逸らす。

「だが、もう拳武の館長が帰国したのだろう?僕よりも、そちらの方が情報が早いのでは?」
「残念ながら、相手は拳武だったんだ」


あまり拳武には関わりたくはないのだが――そう渋りながらも、如月は何処かに消えた。
情報収集の場がどこかにあるようだが、緋勇といえどもそこに立ち入ることは許されていない。
残された緋勇は、しばらくは如月の戻りを待っていたが、やがて飽きたのか、そのままにされていた寝床に潜り込んだ。



「何をしている、何を」

刺の塗された声が降ってくる。
寝起きで、未だぼーっとしている緋勇に、如月は持っていたファイルを投げつけた。

「普通に拳武の最強クラスを調べたら出てきたよ。徒手は壬生、剣は八剣……いや、もう違うか。で、飛び道具はその彼のようだ。飛剣の新藤という二年生が居るらしいね」

しっかりとキャッチし、それに目を通し始めた相手に対して、如月はその概要を説明した。
その内容に、緋勇は首を傾げた。

「飛剣って……クナイみたいなヤツを指さなかったか?彼、ナイフだったが」
「語呂の問題だと思うよ。投げナイフの新藤なんて言われても……ねぇ?」

その言葉に、納得したように緋勇は頷いた。
ファイルを読みながら、ふと何かに気付いたらしい。顔を上げて訊ねる。

「それにしても新藤ね……、お前の同類か?たしか萬川集海とかいう忍術の秘伝書の中で、新堂って家系があったよな」
「さてね。能力は?」

途端に緋勇は顔を歪めた。
思い出すたびに腹が立つらしく、表情が消える。
その無表情の状態で、抑揚ない声音で答えた。

「純粋に運動能力だと思うが。だがもしかしたら、氣も使えるかもしれない。
とにかく迅い。で、隠行が完璧だ。俺が気付かなかったくらいに」

如月は、少し考えてから推測を伝える。

「それは、ほぼ確実にそうだろう。では、武器も、ナイフだと考えない方が良いね。忍びなら、己の得意武器を公開はしないはずだ」
「心得とくよ。ありがとな」




拳武館館長室――そこで定例の報告が行われていた。
報告を受けるのは館長と、臨時で副館長代行に就いている館長の補佐。

目撃者とその処遇についての報告を聞くにつれて、頭を抱え込んだ館長とその補佐を、新藤は不思議そうに見ていた。
鳴瀧は激しい頭痛に耐えながら、怒りを殺して訊ねる。

「二年戌組、新藤――なぜ、目撃したかも定かでない人間を殺そうとした?」

だが、彼は不思議そうに首を傾げる。
何かいけない事をしましたか――と言わんばかりの面持ちで。

「なぜと言われましても……指導された通りに。疑わしきは殺せ、と」

指導者は誰だったんだ――呼吸困難になりながら訊ねた鳴瀧に、補佐は陰鬱な声で答えた。
『八剣 右近です』と。

拳武では、一年の指導は、二年が行う。彼が一年の時、指導にあたったのが、不幸にもあの殺人狂だったのだろう。八剣は、その時点では特に異常性は認められていなかったのだが、表に出ないところでは既におかしかったようだ。
そんな教育を受けて、今まで新藤に問題がなかったのは、ひとえに目撃されることがなかったからであった。
その幸運に感謝しつつ、初の犠牲者であるその目撃者に、鳴瀧は心の中で謝罪した。


「君は……再教育の必要があるな。で、その死体はどう始末した?」
「いえ、逃げられました」

目を剥いた責任者たちから視線を逸らし、新藤は説明を続ける。

「そう指導されたとはいえ、無意味に労力を増やすのも業腹ですので、目撃者を出さないように心掛けてきました。
今回の場合は、目撃した人物の気配が非常に希薄だったため、実行中は私でも気付けなかったのです。ターゲットを仕留めた瞬間に、その微かな気配が完全に消失し、逃走する姿を確認しました。よって、目撃されたものだと判断し、抹殺しようと考えたのですが」

言外に仕事をする事が面倒だと匂わせながら、新藤はそう締めくくった。
館長と副館長代行の顔色が変わる。だが、どうやら新藤が仕事嫌いだということに対してではないようだ。

「気配が希薄で、悲鳴を聞いたら瞬時に気配を消して逃げた――だと?」

それは目撃したのではなく、面倒事を避けようとしたのでは……鳴瀧は、意識していないのか独り言のように呟いていた。

新藤――そう呼びかけてから、鳴瀧はたっぷりと沈黙した。
それから意を決したように、口を開く。

「現場は中央公園だと言っていたな」

怪訝そうに頷く新藤に、より一層沈痛な面持ちで訊ねる。

「外見は覚えているかね」
「年は二十才前後で服装は黒ずくめ、髪瞳ともに薄茶。整った顔立ちに、長身で」

新藤の説明の途中で、ゴンッと音を立てて、鳴瀧は机に突っ伏した。
補佐は視線を逸らして遠い目をした。

彼らの反応の理由がわからずに困惑する新藤を尻目に、鳴瀧はその姿勢のまま力無く呟いた。

「三沢……海外出張を入れてくれ。そう……可能な限り遠く、どこかの島にでも」
「残念ながら、前副館長燻り出しのために、通常業務が滞ってるために却下です。話し合って下さい。親友の忘れ形見で、直弟子でしょう?誠意を尽くせば、心が通じますよ」

決して視線を鳴瀧に向けず、天井の隅だけを見ながら、三沢は相手を励ました。
尤も、その言葉が本心がどうかは、行動が十分に物語っていたが。





校門にて腕組みをして壁に寄りかかった青年は、視線を集めていた。
そもそも目立つ外見をしている上に、全身黒ずくめ、そして、その学校の裏の顔を考えれば、当然のことと言えよう。

鋭い眼光の男がひとり歩み出て、青年に訊ねる。

「何か御用ですか?」

いつの間にやら青年の周囲は、数人の男たちに固められていた。
彼らがそれぞれの配置に着く前に、青年――緋勇は、邪気のない顔で微笑んだ。

緊張で殺気立っていた先頭の男でさえも、呆気に取られるほど無邪気に。

「いとこの学校の前を通ったので、会っていこうかと思いまして。ただ携帯が繋がらなかったので、ダメモトでここで三十分ほど待ってみようかと」

どうやら事情を知らない者が遊びに来たらしい――男はそう判断したが、保安部に属する己の立場から、念の為にその相手の名を訊ねる。

「ああ、私は壬生と申します。いとこは三年の壬生くれ」

あまりの大物に男たちの顔がこわばるのと、当の本人が出てきたのは、ほぼ同時であった。

「久しぶり。この学校は、ヤンキーが多くて喧嘩を売られやすいから、近寄らない方がいいと言ってあっただろう?」
「お、おい、そんな言い方、この人たちに失礼だろう?すみません、こいつ口が悪くて」

『あの』壬生の頭を抑えて、申し訳なさそうに謝る青年に、誰が疑念を持ち続けるだろうか。
彼が壬生の戦闘力・立場を知らない一般人である事は確実だと、保安部の人間は判断した。


彼らが完全に離れてから、壬生は無表情で訊ねた。

「何の用だい?疫病神」
「あのね」

緋勇は可愛らしく首を傾げて、満面の笑みを浮かべる。
本来であれば壬生に向けられる事は決してない、緋勇必殺の『対外用』の笑みだ。反射的に背を向けた壬生の制服の裾をしかと掴み、微笑んだまま続けた。

「館長室の場所教えて」
「語尾にハートをつけても教えられないよ。闇討ちするのなら、協力したいくらいだけど、今は三沢さんもいるのだから危険だ――僕が。お前はどうでもいいけどね」

強引に戻ろうとした壬生に、悪魔の囁きが聞こえた。

「もみじタンって、新藤くん好き?」
「なにッ!?」

思わず足を止めてしまった彼に、悪魔は囁き続けた。

「嫌いだよね?仕事への感情も、通常の性格も自分に似てて、嫌だよね?八剣亡き今、拳武最強の座を彼と並び称されてることも、実はちょっとばかりご機嫌ナナメだよねェ?」

くすくすと。
機嫌良く微笑む緋勇の背に、壬生は黒い翼を幻視した気がした。

「おまけに鳴瀧さんと三沢さんには、八剣の件で迷惑を被った。俺はこの騒動が収まるまでの生活費を出させることで手打ちしたけど、もみじタンはなにかしてもらったのかな?――これに協力してもらえると、彼ら三人にちょっとばかし損害がいって、気分すっきり心晴れ晴れとなると思うんだけど」


彼は更に、無垢なる笑顔にて付け加える。
絶対にばれないようにする、と。

壬生は――――堕ちた。




「無茶をするんだね」
「そうでもない。お前がいれば、氣を限りなく無にできる。黄龍をやるんで、臨界点まで俺の氣の量と併せながら頼むよ」

そこは館長室のほぼ正面に位置する木の上。
意識すればという条件付きではあるが、陰陽が共にいることで、彼らは互いの存在を――気配を無にすることができる。そう、本来は隠しようのない、錬氣の最中でさえも。

瞳を閉じ、緋勇が静かに精神を集中する。
それを横目に見ながら、同量となるように壬生も同様に氣を練る。緋勇が黄龍を放てるほどに、壬生が狼牙咆哮蹴を発動できるほどに、陰と陽の氣が発生する。ただし、それを認識できるのは彼らふたりだけ。一歩でも離れれば、陰と陽の和は『無』、存在さえも確認できない。




「事件に巻き込まれて気分を害しているあれと、話が通じるものか。おまけに怪我をしたのだろう?私は逃げる」

一方館長室では、部屋の主とその補佐の、愚痴も入った話し合いが続いていた。
暗殺者一名は、暇そうにふたりを観察していた。

その時、外で途轍もない氣が突如として発生した。

「館長ッ!!」

鳴瀧も三沢も、館長室の窓の強度は熟知していた。
それでも己の勘の方を信頼し、身を躱す。

それが正解だった。直後に金の輝きが炸裂し、窓ガラスが粉々に割れる。
特殊防弾ガラスであるはずのそれが、呆気ないほどに脆く砕け散る。

ガラスの砕ける音に紛れた小さな風切音を、彼らは聞き逃さなかった。
反射的に三人とも構えたが、狙われたのは唯一人であった。

新藤の目と首を正確に狙ったナイフが飛来する。
己の武器を利用されたこと、それに僅かとはいえ怒りを覚えた彼は、避けるのではなく敢えて受け止めようとした。

「なにッ!?」

だが、四本を掴み取った時点で、彼は己の浅慮を悔いた。
先の四本は囮。寸分違わぬ軌道で、黒塗りされた刃が迫る。

それでも一瞬の判断で、彼は後方に倒れこむことができた。

結果、被害はその内の一本が頬を浅く削いだことにとどまった。
しかし、本人にとっては信じがたい屈辱に、新藤の頬がカッと紅潮する。
彼は乱暴に傷口を拭い、立ち上がった。

「くッ」
「待て新藤」

窓に走り寄ろうとした新藤は、鳴瀧に腕を掴まれて止められた。
彼らの間には、相当の距離があった。新藤にさえ気取られずに、鳴瀧は瞬時にして、その距離を詰めたようだ。

「ここまでされて、逃すおつもりですか?御自身の弟子だからといって」

珍しくも感情的になった新藤に、鳴瀧は率直に告げた。

「龍の性格上、これは九分九厘、罠だ。追うのは危険すぎる」
「館長のおっしゃることに、私も同感だ。あれの性格の歪み具合は想像を絶する。止めておいた方がいい」

酷いいわれようではあるが、仕方のないことでもあった。

もしも部屋にいたのがこの三人でなければ――気配を感じ取ることのできない常人だけではなく、多少感じられる程度の三下連中がいたら、その人物は、始めに氣が叩き付けられた時点で、ほぼ確実に死亡していたはずだった。

しかし、そういったこと対する配慮は、緋勇の発想には存在しなかったのだから。
もしくは、どうでも良いと考えているのかもしれない。が、それはそれで人として酷い。




「ちッ、ここで追ってくるほど馬鹿じゃなかったか」

師匠の予想通り、下で迎撃の用意を済ませていた緋勇は、高めていた氣を通常のレベルにまで落とした。同様に、壬生も力を抜く。

「館長がいらっしゃるからね。じゃあ、僕はそろそろ行くよ。
これ以上手伝うと危険だし、面白いものも見れた。確かに心が晴れ晴れとしたよ」

三人の引き攣った表情を思い浮かべながら、壬生はそう言った。
彼も大概にイイ性格をしている。

「ん、サンキュ。これから俺は罠を仕掛けなきゃならないし、行くよ」




壬生は、何食わぬ顔で教室に戻り、真剣に掃除当番をこなした。

その後、彼は呑気にもスーパーの特売等に思いを馳せながら、帰路につこうとした。
だが、玄関付近である人物を見かけて、足を止めた。

それは新藤。
くれぐれも報復に出たりしないように、鳴瀧らに言い含められた彼は、相当に苛立っていた。
それは言外に相手の方が上手と告げられているようで、彼には納得できなかった。


常の無表情とは異なる新藤のその表情を、壬生は面白そうに眺めてしまった。
当然、そのような揶揄の感情の入った視線に、暗殺組の者が気付かぬ訳はない。
更に不機嫌な表情となった新藤は、壬生の元へ近付いた。

「なにか面白いことでもあったのですか、壬生さん」

こういう態度に出られて優しく接するほど、壬生は大人ではない。
薄い笑みを浮かべて返す。

「怪我しているようだから、どうしたのかと思って。気分を害したのならすまないね」

全くそう思っていない顔で言われて、ただでさえ限界に近かった新藤の忍耐はいよいよ切れ掛かった。壬生と苛立ちの元凶が、妙に似ていたことも、余計に拍車をかける。
無意識であるのだろうが、新藤の手が袖口に隠れる。
その動作に気付いた壬生は、意識して軽く足を引く。

今現在トップを張る二名の一触即発の重い空気に、偶々居合わせた暗殺組の一年が青ざめる。
必死で周辺を見回した彼は、視界の端に救い主を見つけた。



「何をしている?紅葉、新藤」

一年生から事態を聞いた鳴瀧は、廊下の向こうから走ってきて彼等を分かつ。

息を荒げている哀れな一年生に、冷たい一瞥を与えながら壬生は緊張を解いた。

単に下校の挨拶を――そう平然と答える壬生を、新藤は憤然とした様子で睨んでいた。
その目に気付いた鳴瀧は、再度強く注意をしておいた。
彼の立場としては当然の行動であった。だが、これが駄目押しとなった。

嫌々ながらも堪えようとしていた新藤の決意は、脆くも崩れた。

鳴瀧の言葉に頷く新藤の頭の中には、もはや耐えるという選択肢は無かった。
結果として、壬生は緋勇の仕返しのアシストを務めたことになる。




昨夜と同じ時間帯、新藤は新宿中央公園に居た。
人気のないところを選び歩いていると、程無くして闇から声が掛けられた。

「素直ですな、本当に来るのかどうか、心配していたのですよ」
「お話する余裕があるのですか?」

言葉と共に、ナイフが飛来する。
予備動作も無しに、十本を投じた相手の技量に内心でげんなりしながら、緋勇は腕だけを動かした。

澄んだ音が鳴る。
最低限の動きのみで、手甲にて弾いたと知り、新藤の表情が凍る。

「多分、動かなくとも当たらないと思いますよ」

手甲に触れながら、緋勇は余裕の笑みを浮かべる。
新藤の預かり知らぬところではあるが、それは黄龍甲という名の大業物であった。

緋勇の言葉が偽りでないことを感じながらも、新藤は動じなかった。
ナイフを仕舞い、冷えた声で問いかける。

「武器と己の名が知れ渡るようでは二流、そうは思わなかったのですか?」
「その台詞は、無茶苦茶知れ渡っている壬生に、是非とも伝えて下さい。ガンガンと」

くすくすと楽しそうに、緋勇は笑っていた。

余裕を訝しむ声が、確かに新藤の中に存在した。
だが、武器の性質上の優位が、その小さな声を黙殺した。

彼は疑念を振り払って、懐から紐状のものを取り出す。
それは鞭ほどの太さはない。だが、糸ほど頼りなくもない。

鞭にとって、素手とは最も与し易い戦闘形態。
中距離以上では絶対の優位を誇り、そして、刃物系とは異なり斬りとばされる恐れもない。
また、鞭ほど見切りの困難な武器はない。ましてや、新藤のそれは通常の鞭よりも細身。

だが、重なる悪条件にも係わらず、緋勇の笑みは消えなかった。

沸き上がる不安を押し殺し、新藤は『糸』を展開する。
手首の僅かな返しのみで、正確に操る。
二本のそれが、己の周囲の空間を埋めていくのを、緋勇は笑って眺めていた。

「女王様とお呼び――ですね」
「この後に及んで、そんな口を叩けるところを尊敬しますよ」

糸が変幻自在に襲い掛かった。
意志を持つ蛇の如く、側面、そして死角から。

だが、それすらも緋勇は躱した。

肉眼で捉えられぬ高速の武器にどう対応するか――簡単なことだ。ならば、見なければいい。

「いっそ不可視にするか、1ミクロン以下の特殊鋼とかにすれば良かったのに」

余裕の笑みさえ見せながら、彼はほんの少しだけ動く。
目を閉じたまま、空気の――風の流れを感じ、舞うように糸を避ける。


躱し続ける緋勇の手が、ある時閃いた。

一本のくないが新藤の肩へと迫る。
ただし、何の工夫もなく、一直線に。

糸で落とすまでもない、新藤はそう判断し、軽く身を捩るだけで躱した。
そして、彼が次の攻撃のために、糸を展開しようとしたとき、背後で弦の切れる音が鳴った。

僅かに視線を向けた新藤は、驚愕に顔を引きつらせた。

そちらから大量に飛んできたものは、本物の矢。
無論矢尻を殺すなどの配慮は、なされていない。

それらを打ち落とすのに、新藤は全精力を尽くした。
そこで隙が生じるのは仕方のないことと言える。

気付いた時には、新藤の視界一杯に、緋勇の上腕が広がっていた。

「なにッ!?」

古武術使いが『らりあっと』。
意外性のあまり、新藤の反応が僅かに遅れる。だが『僅か』は彼らのレベルにおいては大きすぎた。

それでも彼は自ら後方に跳び、威力を殺すように試みた。

だが、直撃こそは避けたとはいえ、顎にしこたま強打を食らった。
当然の結果として、新藤の意識が一瞬飛びかける。

意識が戻ったときには、腕を複雑な形にてロックされ、抱え上げられた状態であった。
緋勇の意図を悟り、蒼白になって振りほどこうと暴れた。

しかし無駄な努力であった。
完璧にロックされたものが、そう簡単にほどけるはずもない。

「グッナイッ」

緋勇はにこやかに微笑むと、抱えていた新藤を叩き付ける。
両腕を固められていた新藤は、受け身も取れずに地面に激突した。

変形パワーボム。

どうやら緋勇は、今夜はプロレス系で攻めることに決めていたようだ。
ぐにゃりとした新藤が、完全に気を失っていることを確認してから、手を放す。
それでも信用していないのか、後ろ手に縛り上げてから彼を抱える。

余分に仕掛けた罠を解除しながら、緋勇は何処かへと向かった。
なぜか妙に楽しそうに。




「う……」
「おはよう。災難だったね」
「え……がッ」

聞き覚えのある声に、新藤は勢いよく起き上がろうとして、全身を襲う痛みに悲鳴を上げた。
そんな彼を、心なしか冷たい目で眺めながら、同僚は状況を説明した。

「止めた方がいい。ここは新宿のとある病院だよ。で、君の頚椎はヒビの一歩手前、首から背には挫傷。立派な重傷だ。
地面にパワーボムかまされたんだって?よくあんな人格破綻者の相手をする気になったものだ」

そこまで壬生が言ったとき、対象者が花を抱えて入ってきた。

「酷いなぁ。あ、これ御見舞いのお花」
「鉢植えのシネラリアか。お前にしては、意外にまともだね」

鉢植え、そしてシネラリア。二重の禁忌でも『まとも』。
壬生にとって、緋勇とはそういう者らしい。

「本当は大輪のラフレシアの花束が欲しかったんだが、いくら御門でも2〜3日かかるっていうから諦めたんだ。やはり椿の鉢植えの方が良かったか?」

二・三日でどうにかなるものなのか悩みだした壬生は置いておいて、自分を睨みつける新藤に対して、緋勇は悪戯っぽい笑みを見せた。

「お元気?お医者さん連れてきたよ」

聞こえてきた地響きに、新藤の顔が硬直した。
拳武の関連で、この病院の噂は聞いていた。幸いにして、今までかかる羽目になったことは無かったのだか。

現れた沼のヌシのような女性は、満面の笑みを浮かべる。

「ひひひ、美少年という感じではないが、結構な男前だね。楽しませてもらうよ」
「どうぞ、ご自由に」


足取りも軽く、緋勇は病室を後にした。
院長と、哀れな患者を残して。
一応患者の先輩兼同僚も残ってはいたが、彼に助けを期待することは間違っている。

「いつか殺していいですか」
「その時は手伝うよ」

ふたりの間に、不穏な会話があったようだが、それはまた、別の話である。


その足で、緋勇は拳武館の館長室へと向かった。

その後、賃貸マンションであったはずの彼の部屋は、いつの間にか彼名義のものとなった。
理由は不明であるが。