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「ええッ!? ど、どうしたんですか? 手なんか握って……。恥ずかしいです……」

聞こえてきたのは、比良坂さんの声。
ひとりで話しているということはないはず。

龍麻が目を覚ましたの?

……手なんか握って?

「皆さん!! 龍麻さんが目を覚ましました!!」


―― 春待月 ――



六道さんの空間に封じられてから、三日間。
龍麻はひたすら眠り続けていた。

『刻は戻る。過ちの原点へ――。汝は帰る。相応しき世界へ――』

今までの人格とは違う――男の人のような話し方になった六道さんの言葉と同時に、龍麻は昏倒した。
桜ヶ丘中央病院に運んだけれど、診察結果は、ただ『眠っている』だけ。

外傷もなにもなく、脳波も、普通の睡眠中のもの。
でも、翌日になっても目を覚まさない龍麻に検査をしてみたところ、その脳波が、ずっと夢を見ている時――レム睡眠のものだと分かった。
そんなことはある筈が無いのに。

私が嵯峨野くんの夢に封じられた時とは逆――常に浅い眠りにあると。

彼の近き存在――四神の人たちも、壬生くんでさえも、異常はないと断言した。
――私も、そう思う。

なのに、彼は目覚めない。
夢を見続けている。




付き添いは、私の番だった。
少し、うとうとしかけていた。

「感謝するよ」

聞こえた僅かな声に、顔を上げる。
寝言にしては、力強いしっかりとした声。

皆を呼ばなくちゃ――そう思って、立ち上がりかけたはずだった。


気がついたら廊下で、皆と並んでいた。

え?

今は私の順番だったんじゃ……?

寝ぼけているのかしら。
龍麻が目を覚ましかけたことは――私の夢だったの?


「龍麻さん、龍麻さんッ」

ドアの向こうから、嬉しそうな声が聞こえる。
え……と、今の順番は、……比良坂さんだった……のかしら。




龍麻が無事に目を覚ました事は、すごく嬉しかった。

「葵? そんな顔してどうしちゃった……あッ、ひーちゃんとのクリスマスデートの代わりをしたかったの? あと少しの我慢だよ」
「ごめんなさい〜。でも、ダーリンは、もうちょっとお休みした方が良いの〜」

本人は、もう平気だと言い張っていたけれど、あと数日入院を言い渡されたのも、当然の事だと思う。
小蒔や高見沢さんの言葉は、正しいと思う。

晴れない顔をしているのだろうけど、原因は龍麻の入院ではない。
何かが、釈然としなかった。


比良坂さんが苦手ということは、正直……少しある。

けれど、それが理由ではなく……。
『龍麻が目を覚ますとき、傍にいるのは私だったはず』――そう思ってしまう。

私がいるべき――という主張ではなくて、付き添いの順番として、私だったはず。
なぜか、その想いがどうしても消えない。


余程ひどい顔をしているのか、今日は龍麻への付き添いが許された。
家への連絡は、いつものように、小蒔とマリィがしてくれた。


嫉妬……しているのかしら。

眠る龍麻の髪に、そっと触れる。
手なんか握って――比良坂さんの言葉が、ふっと蘇った。


龍麻の右手をとり、頬にあてる。

手なんて……何。
私は、彼にもっと触れられている。

この髪にも、この頬にも、この――

「きゃッ!! た、龍麻!?」
「わーい、葵が積極的だ」

いつの間にか、身体を起こしていた彼に、抱きすくめられていた。
にこやかに笑う彼に、少しだけ怒りが湧いた。

「何よ、比良坂さんの手を握ってたくせに」

叩こうと、枕を取り上げた。
龍麻は動きもしなかったので、見事にボフっと頭にあたる。

「どうして、避けないの?」

当然躱せたはずなのに、龍麻は身動ぎもしなかった。
あまりに真剣な顔をしているので、怒りは消えてしまった。



しばらくの間、考えをまとめるかのように黙っていた龍麻は、静かに口を開く。

「葵の記憶の中でも、比良坂は無事だったのか?」
「無事って……比良坂さんはずっと仲間だったじゃない。あの廃屋で、お兄さんが……亡くなってからは、桜ヶ丘に住み込みで――高見沢さんと同じ看護学校に……編入し……て」

本当に、そうだった?
頭に浮かんだ彼女に関することを、口に出していたら、違和感が溢れてきた。

本当にずっと仲間だった?
廃屋で――あの燃える館に消えたのは、お兄さんだけだった?



「やっぱり違和感があるんだな。力が強いほど、おかしいと思うのかもしれない。それとも強弱じゃなくて、力の性質かな」

術系の人とかには、効きにくそうだもんな――ひとり納得するかのように頷く龍麻に、混乱が酷くなる。

そうよ。比良坂さんは、あの時――



ノックの音に、考え事は中断された。
どうぞ――龍麻の答えに応じ、扉が開く。

入ってきたのは、御門さんと村雨さん。

「貴方の意識も戻ったことですし、もう皆さんは帰るようです。が」
「その前に、俺たちには、先生に聞きたい事があってな」

長くなりそうだね――龍麻は笑いながら、彼らに座るように勧める。

「あ、椅子をどうぞ」

そうは言っても、座る場所はベッドくらいしかないので、少し奥の方にあった折り畳みの椅子を取り出し、彼らに渡した。

「失礼」
「お、すまねェな、姐さん」



彼らはしばらくどちらか切り出すか目で語り合っていた。
頷いた御門さんが、先に口を開く。

「率直にお伺いします。彼女は――どこのどなたさまですか?」
「座敷童じゃあるまいし、何だって皆『ひとり増えたこと』に気付かねェんだ?」

彼女って……比良坂さん?
ひとり増えたって、やっぱり……。

龍麻は、予想していたのか苦笑し、それから少し困った顔になった。
ほぼ無表情の中の困惑。


最近分かるようになったけれど、龍麻は本気なほど、表情が乏しくなる傾向がある。
だから、これは本当に困っているということ。

静かな抑揚の無い声で、龍麻が条件を出す。

「ある手法を取らないと誓ってくれるなら、全て説明するけど」

御門さんと龍麻との間に、一瞬緊張感が走る。
ある手法って……まさか。
しばらくして、御門さんが、苦笑を洩らした。


「陰は陰に、死は死に――あるべき姿に戻れ、というものでしたら、心配は御無用です。陰陽寮は、無理にでも秩序を重んじる組織ではありません。それに――」

言葉を切ると、御門さんは肩をすくめた。

「貴方が望まないその方法を、誰がどうやってとるというのです? 柳生辺りに、助力を頼むのですか?」
「ははは……、それも、中々良い案だ」

ひとしきり笑ってから、龍麻は頭を下げる。
感謝する――そう真剣に言ってから、説明を始めた。

この意識不明の間に在ったことを。




あの時、六道さんの中から力を行使したのは、柳生だったこと。
眠り続けていた三日間に、異空間で力無き存在として、平和で――平凡な真神学園で、半年以上を過ごしていたこと。
その世界では、違和感がどうにも消えなかったこと。

そして、ある時、その世界に耐えられなくなって、破壊したこと。

「世界を壊した……? 自分が無意味に傷付けられたから? その辺は人間として、どうなのですかね」
「そこ、人の話は最後まで黙って聞きなさい」

呆れた様子で呟いた御門さんに枕を投げつけ、龍麻は説明を再開した。



本来は、その壊した時点で戻ってくるはずなのだろうけれど、なぜか違う世界に移ったこと。
そこは比良坂さんが、龍麻を庇った場面で、思わず彼女を助けたこと。

その助けられた世界とは、実は龍麻の力で創られた異世界の一つであったこと。
比良坂さんには、『世界と世界を結ぶ糸を紡ぐ』という特殊な力があった為、彼女を救えたその世界と、庇って亡くなった本来の世界とを部分的に交換し、現実と繋いだこと。

「世界の創成に、交換か――さすがに、先生はスケールが半端じゃねェな」
「茶化してる場合ですか。これだけのこと、例の機関に伝わりでもしたら、龍麻さんといえども――面倒ですよ」

真剣な表情となった御門さんに、龍麻は不敵に笑ってみせた。

「面倒――か。『大変』でもなく、ましてや『危ない』でもない。なら、構わない」

あの宗教の論理は、正直好きではない――彼は前に言っていた。

「だけど、バレやしないだろう? 救った世界と交換したのだから、歴史歪曲の事実さえも残っていないはずだ」

丸ごとの交換――変えたという事実さえも残らないのならば、確かに誰も気付く事は出来ない。
真実を知るのは、当人とごく数名に留まるはず。


「書き換えられた世界の歪み――些細な違和感に気付けるのは、彼女の死から復活までの間に、関わった事のある強力な術士のみ。そして、理由――彼女が一度死したこと――までわかるのは、伝統的な術系統を持つ者――つまりは、君らだけだろう?」

龍麻はそれから、急に思い出したように、もうひとりの名を付け加えた。

あ、あとはミサちゃんか――と。


麻の言葉を吟味するかのように、ふたりが考え込む。
痛いほどの沈黙の中、御門さんが顔を上げる。

「美里さんは、どうだったのです?」
「え……と、違和感はあったのですけれど、それ以上は」

本当の事。
霞がかったような違和感ならあった。けれど、それだけ。



今から考えれば、私は彼女の復活の瞬間に、龍麻の病室から退けられたのだと思う。

病室で、皆を呼ぼうと思ったのに、気付いたら廊下にいた。
これだけの直接の影響があってもなお、僅かな違和感しか感じなかった。

「姐さんでさえ、分からないってことは、『力』だけじゃねェ。陰陽の理なりカバラなり、『理論』にも精通してなくちゃならんってことだろ。……俺たちさえ黙ってりゃ、どうにでもなるんじゃねェのか」

で、あの姐さんの方は、復活程度気にしねェだろ――そう結び、村雨さんは豪快に笑った。
まあ、彼女はそうでしょうね――しみじみと、御門さんが頷く。

ミサちゃん……彼らにさえ、こんな風に思われているのね。
でも……本当に気にしなさそう。


「これ以上、おふたりさんの邪魔するのも、野暮ってもんだ。失礼するぜ、先生」
「では、お大事に」

納得したのか、立ち上がる彼らに、龍麻が御礼を言う。

「ああ、見舞いありがとな」

それで話は終わったのかと思っていた。

龍麻が、続けて爆弾を投げかけるまでは。


「君らが望むなら、世界の創成、試してみるが。……そっちが、本当の目的だったんだろ?」

出口に向かおうとしていた彼らの動きが、見事なほどに止まる。

きっと図星だったのね。


しばらく彼らは硬直していたけれど、やがてどちらからともなく顔を見合わせる。
先に御門さんが口を開いた。

「ええ、本当は。もっと当たり障りの無い方法ならば、こちらから願おうかとさえ思っていました」
「けどよ――征樹は、陰陽を司るものにとって、重要な人物。あの事故から今の間まで無事に暮らしてた世界と取り替えたら――陰陽寮全体の騒ぎになっちまう。連中は――強力で理論に精通した術士ってのに、完璧なまでに符合してんだからよ」

補足するように続いた村雨さんの言葉が、気になった。
マサキって、秋月さんではないの?
でもあの人は、足こそ動かないけれど、普通に……。


「そっか。基本的には一般人の彼女と違い、星見の一族の継承者は目立ちすぎるか」

もしかして、あの秋月さんが護りたくて、星見の力を使ったという相手のこと?
その人が征樹さんなのかしら。

「考えが足りなかった。余計なことを言ってしまったし……本当に済まない」

頭を下げる龍麻に、彼らはやっと笑みを取り戻す。


「構わねェよ。大体、征樹は眠っているだけだ」
「そのうち目覚めるのですから、気にしないで下さい」

びっくりするほど、柔らかく彼らは笑った。
考えただけで優しく笑える――マサキさんとは、そんな人なのかもしれない。

いつもの皮肉な表情は消え、穏やかな笑顔で、御門さんが続ける。

「それに――世界の創成は、流石の貴方でも、コントロールは不可能なのでしょう? 六道さんという方の力を受けたからこそ、可能だったはず。そんな危険なこと、征樹の為にも、――貴方の為にも、止めて下さい」



自分が情けなかった。

眠り続ける大切な人を信じ、なおかつ龍麻のことを気遣っていた御門さん。
同じ気持ちであったであろう村雨さん。


家にまつわる重圧だって並みではないはずの彼らは、大切な人の不幸があってもなお、優しさを失っていない。
彼らの皮肉っぽさや、どこか冷めたような態度は、人を遠ざける為のものなのだと思う。
これ以上、大切な人を増やさないように。

抱えきれないものは抱えずに、護りたいものを護りきる――優しい人たちなのだから、それに心が痛まないはずが無い。
でも、彼らはそれを選択した。大切な存在の為に。

彼らの強さに比べて、自分のことを振り返ると哀しくなってくる。
何でも護りたくて、何でも救いたくて……何にもできなくて。

私は、庇ってもらって……助けてもらって、生きてきた。


なのに……嫉妬した。
龍麻を庇い、救い――死した彼女に対して。

そして、今もまた、嫉妬している。

龍麻が、黄泉から連れ戻してきた。
世界を創り、現実とそれを交換して――大掛かりな異変を起こしてまで。


そのことが、こんなにも胸を締め付ける。



不意に肩に手を置かれた。
間近から、龍麻が顔を覗き込んでいた。

「葵? 気分が悪い?」

何度も呼ばれていたみたい。
考え事をしていて――情けなくて、聞こえていなかった。

「ええ、ごめんなさい。ちょっと……考え事を。どうしたの?」


本当に大丈夫? ――心配そうに訊ねてくる彼に、頷いて平気だと示す。
気分が悪いんじゃないもの……。



「明日、五色不動を巡りたいんだけど、葵も予定が空いていたら、付き合ってくれないかな」
「予定は空いているけれど……まだ入院していなくてはいけないでしょう」
「脱走するからOK」

龍麻は、悪戯っぽく微笑む。
普通ならこの病院――岩山先生の結界から逃げるなんて不可能。けれど、彼にならばそう難しくないのだろう。

もう……、まだ体調だって、完全ではないのに。


でも、少し嬉しかった。

ひとりでいると、自分の狭量な考えが、嫌になってくる。
だから、一緒にいたかったから。


「ね……どうしてここなの?」

強風が、髪を薙いでいく。
スカートが膝の上まで、捲くれ上がる。


龍麻も私服に着替えていたけれど、ここは――病院の屋上。
確かに人気はないから、脱走には向いているのかもしれないけれど。

「ここが二番目に、結界が弱いから」
「え? 一番の場所から逃げないの?」

そこが不思議だった。
私も、一番弱いと思ったのは、屋上ではなく病室の窓だったから。

尤も、龍麻の病室は六階なので、高さはそこまで変わらないかもしれない。

「ああ、あれは罠。結界の強度は低かったけど、センサーみたいなのが散りばめられていた」

わざと弱点を作っておくのは基本なんだ――そう説明する彼に、少し頭痛を覚えた。
そこまでする先生も先生だけど、看破する龍麻も、どうかと思うの。


「さて」

近付いてきた龍麻が、私をヒョイと抱え上げる。
そして、微笑みながら、甘く囁く。

「怖かったら、目を閉じて」


……とてもロマンチックなシチュエーションだと思う。
あくまでも、これからの展開を、想像しない場合に限るけれど。

「ちょっと待って。まさかッ!!」
「そのまさか」


行くよ――安心させるように優しく笑い、龍麻は私を抱いたまま、足を踏み出す。
ほんの一瞬の違和感。
それはおそらく龍麻が結界を無効化し、抜けたときのもの。

それはまだ良い。
問題は、ここの場所。

七階建ての建物の屋上から――空へ。


「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁーー」
「目開けちゃ駄目だって」

しばらく落ちると、方向が変わって、速度が緩やかになる。
木を蹴って、スピードを殺しているみたい。

それを何度か繰り返しているうちに、慣れてきてしまった。
あれだけ言われていたのに、堅く閉じていた目を、少し開けてしまった。


……私、バンジージャンプって……、絶対にできないわ。



「なぜここに? ……どうかしたの?」

五色不動を巡る――確かにそう言っていたのに、最初に訪れた場所は違った。
等々力不動。
九角さんの一度目の死の場所。そして、九角家の栄華の終焉の地。

龍麻は境内で、軽く目を閉じて手を合わせる。
参拝をするときのように。

「ちょっと許可を貰おうと思って。俺自身も一応とはいえ、九角の血も引いてるんだから、きっと許してくれるだろ」


何の許可か、誰の許可か――それは、語らなかった。
けれど、ほんの一瞬とはいえ、真剣な表情になっていた。……思い詰めたような目だった。


等々力不動から最寄り駅に向かう途中、交差点を渡ったところ、商店街の入り口で、龍麻は立ち止まった。

「あ、ちょっとここに寄っていこう」

彼が指したのは、小さな喫茶店。
いえ、正確にはケーキ屋さんだった。雑誌で見た事もある有名店だったと思う。


席はテーブルがふたつしかなかったけれど、クリスマス後という時期の為か空いていた。
私はダージリンティーと綺麗なガトーショコラを、龍麻はシンプルにアッサムティーとオペラを頼む。

一口含むと、ふわっとチョコの香りが広がった。
小さな笑みが、自然と浮かぶ。


「やっぱり……おいしいわね」
「だよね。兄がこの近くの大学に通ってたころ、よく買ってきてくれたんだ」

等々力不動での言葉を思い出した。
お兄さんは、九角の血を濃く引いている人……なのよね。


「ね、龍麻。お家の……角倉の方たちは、その……恨みとかは、抱いていないの?」

彼は一瞬きょとんとし、直後に笑い出した。
ほ……本気で心配しているのに。


「ははははは……。腹が痛。……あの人たちに、そんな精神構造は存在しない。義父と実母の両親――要は母方の祖父母は血縁。おばあさんは九桐の人間とかで、期待されてたらしいけどな」

九と角の出会いだから――そう続けた声だけは、少し沈んでいた。
身分を、名を隠し散った九角の家系は多くても、そのどちらかの字を冠する家系は少なく――そして強力。

それだけ期待され、実際に妹さん――龍麻のお母様は、菩薩眼だった。
それなのに、恨みは持っていないの?


「養父は、両親に啖呵きったらしい。顔も知らない昔の人間の怨念を、背負う義理も義務も無い。それに鬼修とかいう人が、真に復讐とやらを望んでいたかどうか、本人にしか分からないだろう。だから、自分は自分の赴くままに生きる――と」

素敵な方なのね――と言うと、龍麻は黙り込んだ。
あれをステキで済ませて良いのか――と、首を捻っている。

……素敵な考え方だと、思うのだけれど。


「ま、天童も、あそこの家に産まれてれば良かったのに――と、何度か思った。天戒の記憶があってもなお、あの人たちなら、強要をしなかった。もう一度、新しい道を歩めたはずだった」

龍麻は笑いを消し、独り言のように呟いていた。
あの人が、本家直系に産まれなければ、起きなかったかもしれない悲劇。



しばらく無言の時が続いた。

重い空気に困った顔になった龍麻が、ごそごそと鞄を探り、何かを取り出した。
それは、深い紺のリボンで包装された、小さな箱。

「プレゼントがあるんだけど、貰ってくれるかな」
「え、ええ。……ここで開けても良い?」

頷く彼から箱を受け取り、ベルベッドらしきリボンを解く。
出てきたのは小さな銀の――いえ、多分プラチナのペンダント。
ペンダントトップが小さな鳥かごの形になっていて、中に深い蒼の石が入っている。


綺麗……。
これは、多分サファイア。私の誕生石だ。

「……ありがとう」
「本当は25日にすぐ渡そうと思ってたんだが……、悪いね」

苦笑を浮かべて、語尾を濁していた。
六道さんに襲われて、それから龍麻は眠り続けていたのだから、仕方のないと思う。


「だって、あの間は大変だったのでしょう?」
「ん。面白いところもあった。大半が不愉快な空間だったが」

六道さんの力による妖閉空間。
そこでは、もう一つの可能性の世界が展開されていたと、龍麻は御門さんたちに説明していた。

ふと気になったので、聞いてみる。


「ね、私は、そこでどんな様子だったの?」
「葵はあまり変わらなかったな。現実と同じく学園の聖女で、頭が良くて綺麗で優しくて」

真顔で答える彼に、赤面してしまう。
けれど、抗議するまえに、引き込まれた。


それでも付き合ってたんだ――という龍麻の言葉に。

「力も無くて、事故の後遺症で話せなくて、記憶も混乱している、何の取り柄も無い俺に『貴方は弱くなんてないわ。誰よりも優しくて暖かい、そんな貴方が好き』とまで言ってくれて。心細かったから嬉しかった。ありがとう」

龍麻なら――きっとどんな事があっても好き。
それは確かだけど……その世界での『葵』は、私じゃない。

「御礼なんて……その人は『私』じゃないのよ」
「俺が葵の事を、そう想ってるから、あの世界での彼女も優しかった。そういうことだよ」



それにしても、不思議なところだった――と、龍麻は続ける。
唐栖くんと雨紋くんが友人のままで、佐久間くんも凶津さんも無事で――。

「唐栖なんか夏でも黒のロングコート着て、あの長髪でさ。なんで普通に流してるんだ? 突っ込めよ『僕』――って、後で思ったよ」
「やっぱり……凶津さんも、現実では亡くなっているの?」


彼は『行方不明』のはずだった。
醍醐くんは、死体が発見された訳じゃない――と、今でも必死で行方を捜していた。
だけど、龍麻は、彼を佐久間くんと同じく扱った。

一瞬だけしまったという表情を出し、龍麻は諦めたように頷いた。

「わざと伝えてなかったが、鋭利な刃物に斬られたような傷で失血死しているのが、発見されている。拳武に抑えてもらっていた。どうせ犯人は鬼道衆――つーか風角だろうから、捜査も無駄だし警察の人が危ない」
「鬼道衆……」



そういえば、どうしてあの人たちは、ああなってしまったのだろう。
人の首を使っての召喚、人を大量に異形に変える、子供を非道な実験の犠牲にする――そんな事を出来る人たちではなかったのに。


「全ては覚えていない。けれど、時折、昔を夢に見るの」

あのとき――九角さんに過去を視させられたときから。
断片でも、幾度か垣間見た。

「鬼道衆の人は――鬼ではなかった。哀しみと憎しみに塗れてはいたけれど、彼らは――鬼なんかではなかった。なのに……どうして、あんな風に」
「あれは彼ら自身とは違うよ」

やりきれない想いは、あっさりと否定された。
冷酷になってはいたけれど、外見も性格も、ほとんど同じだったのに?


龍麻は、平然と続ける。

「連中が何者かに持たされていた、陰の氣を集める珠があったろ。陰――怒り、憎しみ、恨み等の暗い感情を凝縮したあの珠を、付喪化させたのが、あの五人だと思う」
「実体ではなかったということ? 外見は元となった人物に近くても、陰の感情によって作られているから、残虐になっていたの?」

確かに彼らは、一度目――変生する前に倒した時に、珠へと変じた。
それは、物の化身を倒した時に多い現象。


「そう。確か円空じいさんが、あれを五色の摩尼へ――守護の力に変化させると言っていた」

龍斗はその前に死んだから正確には知らないが――と、苦笑していた。
それはちょっと……笑えないのだけれど。

「摩尼を誰か――おそらくは柳生が、再変換して元の陰の氣の塊に戻し、天童に与えたんじゃないか。で、それを外法で、付喪にしたんだと思う。……具体的な戦力を有してなかったあいつは、闘いを始めなかったかもしれんのにな」

もう一度、さっきと同じ沈黙が降りる。

放っておいてくれたら、あの優しい兄は、違う人生を送れたかもしれないのに。
柳生 宗崇――彼が、陰と陽の騒乱を望まなければ。

許せない……許さない。



「あ〜おい」
「な、なに?」

何時の間にか、すぐ近くにいた龍麻が、私の頬を摘まむ。
むにむにとそれを引っ張りながら、労うように笑う。

「美人が勿体無いよ。笑って」

その笑顔につられて、私にも、少しだけ笑みが浮かんだ。


等々力不動から一番近い目黒不動。
龍麻は勝手知ったる他人の家――という感じで、スタスタと裏の祠まで直進していく。

周囲を注意深く見回して、彼は物騒な事を口にした。

「さて、人目はないよね?」
「ええ……まさか何かする気なの?」


ちょっと五色の宝珠を泥棒――笑って答える龍麻に、頭が痛くなった。
宝珠の役割を理解していない訳はないのに。

「東京の護りなのよ!? 無くなったら、鬼道衆を倒す前のような、氣の乱れが」
「これからまた龍脈が最高潮に乱れるから、この程度じゃ防げない。気休めのお守りは残しとくよ」

あくまでもにこやかに。そして平然と。



お守りって――嫌な予感がするのだけど。

「鋭い。黄龍と菩薩による封じ――龍脈制御には最適だろ?」

顔に出たらしく、龍麻はパチパチと手を鳴らす。

もう何も言うまい……というよりも、言っても無駄。
そう思って、祠を開き、珠に手を触れる彼を、ただ眺めていた。

「つッ」

安置してある台から離そうとした瞬間に、火花が生じる。
それは普通の人には見えないであろう、術によるもの。

手伝おうかと思った私を、龍麻は手で平気だと示して下がらせた。
更に色素の薄くなった瞳を細めて、一気に手を抜く。

それと同時に、結界の霊位が急激に下がったのを感じた。
でも、その影響が出る前に、龍麻が地脈から強力な力を呼び覚ました。


黄龍と菩薩による封じ――ということは、これを光に転化すればいいのね。

混沌とした力に意識を合わせ、浄化していく。
ゆっくりと、全てを光に変える。

私の役割は、ここまで。

その強大な光を、龍麻がその身に宿す。
懐かしい――『龍麻』では、初めてかもしれない姿。


完全に金となった瞳、襟足が少し伸びた――金の髪。
非人間的な美しさを纏った彼が、手を揮う。

眩い光が祠を包み、結界の一角を成す。
結界が、先程までと同等以上の力を発揮しているのを確認し、龍麻も私も力を切る。

「あー疲れた」

既に薄茶の髪と瞳に戻った龍麻が、しみじみと嘆息する。
演技ではなく、心底。


そんな苦労までしても、宝珠が必要なの?

「この宝珠による結界は、邪気の出入りを禁ずるよね」

疑問を口にした私に、龍麻は諭すように言った。
確かに、これは外部からの供給を……あ!!

「今の間隔でさえも、東京を守護するほどの力を発揮する。この結界を、極狭い範囲で張ったら、それはそれは強力に、邪気を遮断する」

摩尼の力は邪気を祓うようなイメージがあった。けれど正確には、邪気の流入を防いでいる。
――邪気によって、ずっと生き続けている男が居る。

「たとえ無限に近いほどの、邪気を供給されるはずの男であっても、それを断たれてもなお、永久に生きられるのかということを試してみる」

正解だったらしく、龍麻は予想した通りのことを口にした。
にこにこと微笑みながら、剣呑な話を。

柳生 宗崇を、滅する為の手段として宝珠を使う。

あの人達を――哀しい鬼たちを死後までも弄んだ報い。
……自業自得だわ。


宝珠を取り、替わりに私たちの力で結界の核を創る。
それを順調に繰り返してきたけれど、最後の一個が終わった瞬間に、龍麻が膝をついた。

「あ、やばい。葵、相克のやつ一個持って」

軽い調子で言っているけれど、その顔色は紙よりも白い白。

「龍麻!? まさか黄龍が」
「ちょっと孵化しかけた。やっぱ、龍脈何度も呼んだ上に、五行属性全部持つと、つらいわ」



ここは目黄不動。黄は木。
木克土――樹は大地から栄養を奪い育つ。
黄龍である龍麻に、最も強い攻撃性を持つのは、木属性。

黄のそれを手渡し、幾度か深く呼吸を繰り返していた龍麻が、不意に表情を緊張させる。
あくまでもそっと丁寧に、私を後ろに追いやり、鋭い眼差しを前方に向ける。

そこには、揺らぐ影のような存在が、二体いた。
輪郭から判断するに、片方は女の人のようだった。


「よくもまあ、人間ごときが、稼働中の五色の摩尼を持って無事でいるもんだ」

しゃがれた女性の声。
感心している様子だけれど、友好的な存在の訳はない。
こうしていても、強い悪意を感じる。

「持ってかれると、色々と面倒なんでね。……置いていってくれないかい?」
「残念だが、断る。面倒事は御免被りたいので、そちらこそ、退いていただこうか」

丁寧に、けれど、あくまでも冷たく、龍麻が応じる。
慇懃無礼の見本のような態度に、影達の姿が怒りで揺らぐ。


「自信家なのだねェ。その顔が苦痛に歪むところを想像すると――愉しくて仕方がないよ」
「空想、いや、妄想は自由だ。こちらは自信というより、事実だ。結果の見えていることを改めて行うなど、互いに体力の無駄だろう?」

とっとと消えろ――冷たい声で告げる龍麻の瞳は、嘲弄にも全く揺らがない。
むしろ相手の人の方が、苛立ち出す。


「……限度を超えると、可愛くないもんだね」
「人間如キガ、図ニ乗ルナ」

今まで一言も発していなかった男の方も、不穏な空気を纏う。

「とうに実体を喪った影――最低限の役割をこなす能力しか与えられていない木偶ごときに、何ができるというのだ?」

臨戦態勢となる彼らを眺め、龍麻は鼻で笑った。
目を閉じ、馬鹿にしたように肩を竦める。


「良い態度だね。お行きッ!! あたしの蟲――ッ、あぁぁッ!!」

女は、命を最後まで口にすることはできなかった。
影の一部がグロテスクな蟲の影に変わると同時に、それが内側から弾けたから。



開かれた龍麻の目は、金――黄龍の眼へと、変じていた。
苦しむ女を無表情で見下ろしながら、龍麻は一言だけ告げる。
断罪の言葉を。

「滅せよ」

連鎖するように、女の身体のあちこちが弾けていく。
全てが消滅するまで、数秒と掛からなかった。

あまりの力の差に硬直していた残った敵に、龍麻は視線を向けて――笑いかけた。


「貴様もさっさと消えろ」
「キサマ……」

蝿ごときが人間に対し不遜だな――冷たく言い放ち、龍麻は軽く腕を振るう。
その軌跡の延長上、影の右半身が、ごっそりと消滅し、彼は絶叫をあげる。

「グァアッ!! クッ……コレホドトハ」

龍麻は無言のまま、一歩踏み出す。
そう見えたのに、次の瞬間には、もう影の目前にいた。


「ナッ」

驚愕の声にも構わず、突き飛ばすかのように、龍麻は両手を揃えて押し出した。
もう、悲鳴も上がらない。
双掌の周辺が大きく吹き飛び、消滅する。

周囲を見渡し、頷いてから、龍麻はこちらを振り向いた。

「葵、平気だっ……うわ」

陰の気配が消えた事を確認して安心したのか、彼はいきなり傾いだ。
慌てて支え、救急車を呼ぼうと、携帯を取り出したら、必死な顔で止められた。


「平気だから……タクシーにしよう。できれば……、先生を呼ぶのは、病室に戻ってからにしたい」


幸い道路も空いていたし、運転手さんが急いで下さったので、すぐに病院に着けた。

入り口では、龍麻が顔色を曇らせる。

「叱られる……よな。どうにか……裏口から入れないかな」
「そんな状態で、無理に決まってるでしょう!! 早く先生を呼ば……」


そこまで言った時に、必要が無い事に気付いた。
龍麻も同様らしく、寝たふりをしようとしている。

それは……無駄だと思うのだけれど。

「ようやくお帰りかい? しかも、全身の氣を変調させて……。よっぽど、付き切りで看病されたいようだな」



「あの……先生、もう逃げないので、拘束具は外して頂けると嬉しいのですが」

困った顔で言う龍麻は――ベッドに縛り付けられていた。
暴れる患者さんを抑える時等に使うものだったと思うけれど、布団の上から黒い抑制帯でグルグルに巻かれていた。

「残念だが、舌が十六枚くらいある奴の言葉は信用しない。これも打たせてもらうからな」
「せ、先生ッ!! その量、象でも眠りそうなんですけどッ!!」


先生の手には、特大の注射。
おそらくは麻酔薬が、それになみなみと入っている。

「龍用の分量だからな。安心おし、鯨一頭分と同じくらいだ」
「安心できません。それは死にます」

平気だ――そう断言して、先生がそれを躊躇いもなく、龍麻に挿す。

「ぎゃ……先生ッ、半端じゃなく痛いんですが。柳生に斬られた時並みです……痛ッ、注入がまた酷すぎッ」
「こういう言葉を知っているか? 自  業  自  得 ――と」

全てが注入される間は、つい目を逸らしてしまった。

龍麻はその量でも、なおも文句を言い募っていたけれど、流石に眠気が勝ったのか、しばらくすると静かになった。

「やれやれ。実際に鯨にも効く量だというのに、これほどの時間がかかるとはな。で、お前はどうするんだい? 別に付き添っても構わんが」

気遣って下さった先生に頭を下げ、付き添わせて頂くようお願いした。




龍麻は、多少の事でも大袈裟に言う。
甘えるように、笑い事にしてしまうかのように。

けれど、本当に酷い時こそ、それを隠す。

気付いているのかしら。
私が、それを哀しく、寂しく思っていることに。

こんなにも白い顔色で、深い眠りにつくほどの負担。
龍脈操作の負荷を私と等分すれば、ここまではならなかったはず。

少しは頼って欲しい。
もう少し、信じて欲しい。

血の気の引いた龍麻の頬に、手を当てる。
予想以上の冷たさに、思わず手を引いてしまいそうになる。

「お願いだから、ひとりで無理をしないで」

もう一度、その頬を両手でそっと包み撫でる。
冷たくなってしまった身体に、体温を移すような気持ちで。




不意に寒さを感じた。
どのくらいそうしていたのか、辺りは、すっかり暗くなっていた。

明かりを点けるのも、龍麻を起こしてしまいそうで、躊躇われた。
外の光だけが、僅かに室内を照らす。

龍麻の顔色は、いくら戻ってはいるものの、まだまだ白い。
ベッドの近くに椅子を引き寄せて座り、布団の上から――彼の膝の辺りに、顔を埋める。
微かな温もりが、その適度な堅さが、彼が確かに存在しているのだと、少しだけ安心させる。


「龍麻……」

しっかりした子、大人びた子。
それが、幼い頃から与えられていた私の評価。

だけど、今はそれが嘘のように、心細い。
気を抜けば、涙が溢れそう。

安心したくて、もう一度、彼の名を口にする。


「たつま」

自分のものとは思えない、けれど、確かに自分の口から出た声。

まるで、迷子の幼子。
母を――守護者を求め、不安に掠れた弱々しい、今にも泣きそうな、庇護される者の声。

そんな自分の声に、余計に不安が増していく。
タイミング悪く、色々思い出してしまう。


比良坂さんのお兄さんに、龍麻が囚われた時の事。
あの時も、血に濡れた龍麻の姿に息が止まるかと思った。

九角さんと闘う龍麻の姿に、昔の結末が重なって、気が狂うかと思った。
増えていく傷に、肌が粟立った。

柳生の結界を破壊した龍麻の下にできた、大きな血溜り。
事態が、事実として認識できなかった。
もしもあの時に、壬生くんたちが居なかったら……想像する事さえ、恐ろしい。


龍麻は自分を粗末には扱わない。
簡単に命を投げ出さない。

けれど……それが最善の策である場合に限り、彼は躊躇わずに踏み出す。
護るものを、その背に庇い、傷つく。


もしもまた、この人を喪ったら。
腕の中で冷たくなっていくあの恐怖を、また感じる事があったら……。


怖い想像に、涙が溢れてくる。

もう止まらない。
次から次へと流れ出す涙に、視界がぼやける。

眠る彼に、ぎゅっとしがみついて、心から願う。


「お願い……私をひとりにしないで」




いつのまにか、眠っていた。
龍麻の足に突っ伏すように寝ていたみたい。

目を覚ました理由は、小さな声と背中に掛けられた毛布の感触。
上半身を起こしていた龍麻が、その手を私の髪に移す。

けれど、そのまま眠ったフリをしていた。
涙に濡れたままの、こんな顔は見られたくない。

「本当はひとりで行こうと思ってたんだ。今日」


優しく髪を撫でられる。
拳を武器とするとは思えないほど、優しい手が、繊細な指が触れる。

「けど、クリスマスのデートをしてなかったから。……かえって迷惑を掛けた。本当にごめん」


起き上がり、そんなことない――と告げるべきか悩んだ。
けれど、今更起きていたと言うのも、かなり恥ずかしい。

結局、寝たふりを続ける。


「マリア先生に惹かれたのも、比良坂を助ける為に必死だったのも本当。だけど……愛しているのは君だから」

優しい睦言。
確かに感じるぬくもり。

それら全てが、嘘かもしれない。
これも、私が目を覚ましている事を知った上で、言っているのかもしれない。

それだけの事ができる人。
なんて人を愛してしまったのだろう――そう思うこともある。


でも……後悔はしない。

あなたを愛しているから。

その言葉を信じるわ。