「先生、今日なんか予定あっかな?」
蓬莱寺クンが、言いにくそうに口を開く。
クリスマスイヴ――聖なる夜に、信仰心も無いのに騒ぐ、日本だけの不思議な風習。
「フフフ、お誘いかしら。嬉しいケド」
「あ、俺じゃなくて、ひー……緋勇がな、イヴにせんせーを誘いたいって言っててよ」
「龍麻クン――が?」
美里さんと彼が恋人同士なのは、周知の事実だった。
それなのに?
「でも美里サンは?」
それは俺も気になったんだけどよ――そこまで言ってから、蓬莱寺クンはしまったという顔をする。
素直なコだと思う。
「と、とにかく、あいつはせんせを誘いたいってさ。もし約束がなければ、会ってくれねェかな。あいつ……やっと重体から回復したことだし」
「わかったわ……そう伝えておいてくれるかしら」
何者かに襲われて重体。その報を聞いたとき、血の気が引くのがわかった。
実行者は想像がついた。
柳生宗崇。
人の身ながら、ワタシたちに最も近い存在。
あの男に《力》が渡れば、この世界は混沌と化す。
だから――その前にワタシが手に入れる。
待ち合わせ場所に時間より少し早く着いた。
けれど、彼の姿はまだ見えない。
いえ……近くから血の香りがする。
路地裏かしら?
視線を向けると同時に、肩や腕を抑えた柄の悪そうな人達が逃げ出してきた。
……あのコったら。
「龍麻クン―――!! こんな所で、一体、何を……、手に血が付いているわ」
路地裏から続いて出てきた彼の手には、血が付いていた。
軽く嗅ぐだけで分かる、数人分の血の香り。なのに、これしか血が付いていないなんて、逆に恐ろしい。返り血さえも浴びないように、気を配っているということ。
「ひとりの女の子が、複数の柄の悪い男たちに、追われていたので。しかもこちらに絡んできたので、……ノシてしまいました」
ははは――照れたように苦笑いを洩らす彼には、悪気はないように思えた。
彼はトラブルを吸引しがちのようだけれど、確かにそれは彼の責任ではないだろう。
「体を動かした後で、お腹が空いているんじゃない?」
「少々」
頷いた彼を、気に入っているレストランへ連れて行く。
隠れた名店というべき所で、奥まったところにあるために、イヴとはいえ待たされることはないだろう。
「女性に奢らせるような教育は、受けていないんですが」
ワタシが奢る――そう告げると、彼はごく自然な動作で首を傾げた。
本当にそういう生活を過ごしてきたのだろう。まだ二十歳にも満たないのに。
フフフ、でも、お金なんていくらでもあるのよ。宝石でもなんでもね。
普段は使う必要もないのだけれど。
「フフフ……。でも、教え子に奢らせることはできないわ」
抗弁しかけ、それから彼は溜息を吐いた。言い争いに終始するのも無粋ですね――と。
譲歩の姿勢を見せて、何か小さな箱を取り出す。
「クリスマスプレゼントです。このくらいは受け取って下さい」
「ありがとう……開けて良いかしら」
その石は深い――紅をしていた。
ワタシの魂を、力を表すかのように。
「先生は深紅の輝石、そういうイメージがあります」
にこやかに微笑む彼に裏などないようだった。
だけど、それは断罪に近い。血に塗れた真紅――それは確かにワタシの色だから。
新宿駅西口の大きなツリーを見上げ、何気なく訊ねる。
「ねェ、龍麻。アナタはクリスマスツリーを飾ったことがあるかしら?」
「いや……少なくとも、物心ついてからはないと思います」
え? だって前の高校はカトリック系のミッションスクールだったはずなのに。
お家の方が、クリスチャンなのかと思っていたわ。
じゃあワタシと同じ。昔を――遥か昔のことを、思い出してしまった。
そのせいか、龍麻とふたりで、光の塔を見たいと思った。
広場の巨大なクリスマスツリー。
これはワタシには、人の業の象徴に思えた。
光があまりにもキレイで眩いから、人は隣りに寄り添う闇の存在を、見失ってしまう。
「ねェ、龍麻……。アナタの瞳には、どちらが美しく映るのかしら?」
「闇ですね」
気負うでもなく、彼は平然と答えた。
陽の象徴ともいえる、烈しく輝く魂を持つ人が。
「闇は、恐怖ではないでしょう? むしろ安らぎだと思います」
彼は、ごく自然に口にする。
とうに失われてしまったはずの真理を。
ワタシには分からない。
どちらが正しくて、どちらが間違っているのか。
何が真実で、何が虚構なのか。
分からないまま、前に進んでいるのかもしれない。
「見失ってしまった真実なら――分からなくなるほどに幸せな虚構なら――、虚構を選んでも、良いのかもしれませんよ。選んでも、きっと誰も責めないでしょう」
「龍麻……。もしも光と闇が、対立することなく、再び共存できたなら……」
何を言っているのかしら。
そんなことがあるはずはない。
光と闇の共存など、ありえない。
闇の女でも、夜に生きる者でも愛している――そう言ってくれた人は、人間だった。
彼は闇に臆しなかった。
けれど……人間は、ワタシもろとも彼をも恐れた。
彼を闇に囚われた者――吸血鬼の眷属に堕ちた者として……殺した。
人間が、人間である彼を寄ってたかって。
吸血なんて、虜化なんてしていなかったのに。ただ愛していただけだったのに。
流去る時を生きる者でも、その命が尽きるまでは、君と共に生きる――そう誓ってくれたあの人は、命を半ばにして人間の手によって断たれた。
だから――光と闇の共存なんて、ありえない。
気まずい沈黙が続いていた中、不意に周辺の人間たちが、歓声を上げた。
皆が空を見上げている。
つられて上をみれば、舞い降りてきたのは、白い雪。
知っている。
これは単に、空気中の水分が塵に付着し、冷却されたそれが結晶となり、落下してきただけのもの。
それなのに、どうしてこんな事を思うの?
空からの純白の贈り物。聖夜の奇跡だなんて。
今は――――今だけならば、信じてもみても良いんじゃないかなんて。
ビクッと反応してしまう。
龍麻が、髪を一房手にとっていた。そこに口付ける。
「嫌がらないならば――止めませんよ?」
嫌なの? ……わからない。
だけど、暖かい。離れたくない。
ワタシを抱きしめる温もりを、離したくはない。
龍麻――。
「今日、いいえ、今だけは、忘れて。お互いの立場も、明日が来ることも。全部忘れて……」
今夜だけは。
ワタシの中の彼を強く感じ、その背に手をまわす。
「好きよ、龍麻――――――」
灼熱するような感覚の中で、ただ呟く。
「今だけは、誰よりも貴方を」
それは真実。そして嘘。
好き――愛している。一瞬だけなんて思えない。
口に出すことはできない相反する想い。
アナタを愛している――アナタは狙い続けた獲物なのに。
アナタの血が欲しい――アナタを愛しているのに。
「それではみなさん、良い冬休みを」
ワタシだけ万感の想いを込めて学期末の挨拶をする。
どちらに転んでも――彼等の大部分とは、二度と会わないから。
ワタシに挨拶していくコたちの顔を、ひとりひとりじっと見つめる。
職員室に戻ると、待っている人がいた。
「マリア先生、ちょっと良いですか?」
普段通りの、何気ない声。だからワタシも、平然と応じる。
「マァ、なにかしら」
人通りの無い廊下で、彼は普段の仮面を捨てる。
同じく闇に生まれながら、ワタシとは違う道を――、月明かりの下ではなく、太陽の照らす道を選んだ者。
神の名を冠し、人を守護しながら生きる魔。
真神学園――狼の居る園。
「君ももう、わかっているんだろう? 共に過ごした時間が、君に答えを教えたはずだ」
答えなんて教わっていない。
共に過ごした時間は、悩みを増やしただけ。
どれほど彼らを思おうと、一族のことを忘れる事は許されないのだから。
「いつまでもつまらない理想に縛られていることはない。君は……、君の人生を生きればいい」
ワタシの人生?
そんなもの、とうに終わってしまった。愛する人を殺されたあの時に。
「ワタシの人生を――ですって? 今更ッ!! ワタシの答えは、もうとっくに決まってる。これ以上は待てないわ。もう、時間がないのよ……」
早くしないと、龍麻はあの男の元に向かってしまう。
陰の器に手出しできない以上、彼を手に入れるしか方法はない。
緋勇――犬神先生の唖然とした呟きに、急いで後ろを振り返る。
そこには、いつもの五人が困惑した様子で揃っていた。
「お前たち……、どうせ立ち聞きしてたんだろう?」
「否定はしません。正確には通りかかったら、話し声が聞こえたのですが」
龍麻が落ち着いた様子で答える。
……どこから聞いていたの?
「せんせ邪魔して悪かったな」
「大事な話……、だったんじゃないの?」
おずおずと見上げてくる蓬莱寺クンと桜井サンに、怒れるはずはない。
そもそも怒ることでもないでしょう。
会話自体は、それほど聞かれて困るような内容でもなかったのだし。
「でも、突然龍麻が来た時は、さすがに驚いたわ。もしかして、ワタシを心配してくれたの?」
「そういう事です」
肯く彼の姿に、昨日の……、いえ、今朝のことが思い出された。
「どうしたんです?」
彼の――龍麻の部屋で、一枚のCDをまじまじと見つめていた。
この曲……。
「この曲、大好きなのよ……」
Don’t let this moment end
『貴方には私じゃない人が、私には貴方ではない人がいるのに――。
それでも、この一瞬が終わらなければと思う。』
今のワタシたちのようで。
まるで、ワタシのこの一年のようで。
夢は終わり。『this moment』は、やはり一瞬で終わってしまった。
「ありがとう、龍麻。
フフフ、心配しないで。ワタシは決して……、いい加減な気持ちなんかじゃないわ」
雨の音に気付いた。
流石の職員室でも、元旦では、ワタシしか存在しない。
立ち上がり、窓の近くへと寄る。
結構な強さのようで、水滴が強く窓を打っていた。
ひとりで居ると、溜息が洩れる。
決めたはずのことを、色々考えてしまう。
……ワタシは、この期に及んで何をしようとしてるの?
あのコは、決して首を縦には振らない。
それはわかっているはずなのに、そんなこと、できるはずがないのに。
頼んでみるの? ワタシの為に、死んでくれないかって……。
「マリア先生、いらっしゃいますか?」
「うわッ、暗い……」
「カーテン開けますねッ」
突然入ってきたのは、三人の女の子。
遠野サンが、卒業アルバムの制作の為に泊まり込んでいることは知っていた。
けれど、美里サンと桜井サン……それに、気付かなかったけれど、その後ろには龍麻もいた。
「あ……ごめんなさいね。ちょっと、考え事をしてたものだから」
息を呑みそうになったのを隠し、どうにか冷静に応対する。
龍麻はただ静かに、どこか哀しい目をして立っていた。
彼女たちに新年の挨拶をし、それから一息空ける。
平静を心掛け、何気ない様子で話し掛ける。
「龍麻……、カゼなんてひいてないかしら?」
「はい。健康そのものです」
肯く姿も、平然としたもの。
何もかも知っているようにも、何も知らないようにも思える態度。
「そう……よかったわ。今が一番大事な時期だもの。体には気をつけてね」
万全な状態が望ましい。……その血に宿る力が、強力であるように。
「センセー……。ねッ、ボクたちこれから花園神社に初詣に行くんだけど、センセーも一緒に行こうよッ!!」
「そうですよ、先生。その……気分転換くらいにはなるとおもうし」
初詣。お参り。
神に願いをかける行為。
「そうね……、一年の初めだものね。神様に……お願いすることもたくさんあるわね」
でも、まだ作業が終わっていない。
「でも少しだけ、しなければならないことが残っているから、それが済み次第、ワタシも神社へ行くわ」
不思議だった。
ワタシが居なくなっても――生徒達が困らないように取り計らっている。
冬休みに入ってから必死になっているのは、それが原因だった。
あのコ達の為に、誰か別の人が担任を引き継げるように、書類を、資料を整えている。
真神に来たのは、器が現れる学園だから。それだけが理由だったのに。
「それじゃあ、私たち先に行ってますね。先生がいらっしゃるまで、参拝せずに待ってますから」
「ありがとう、美里サン。それじゃあ、みんな。また後でね」
彼女たちに手を振り、机に戻る。
まず何人かの内申書を、終えなくてはならない。
――龍麻は成績も完璧だった。
国立の一流大学の工学部を目指すという。暗記だけは苦手気味だから、良い選択だと思う。
――美里サンは、龍麻とは違う大学の教育学部。
彼女も成績は完璧。どちらも、相手に合わすことは可能だろう。けれど、『一緒の大学に行こうね』などという互いの夢の為にならない行為は、取らないようだ。
――蓬莱寺クンは、成績も出席日数もギリギリだけど、先生方から、本当に好かれている。
問題児だとの認識は一致していても、皆、それぞれの方が、彼の良いところを知っていて、卒業できるように取り計らっている。
――これは遠野サンに頼まれた、記事の英訳の添削。
ジャーナリストになるには必須だからと、彼女は何度か持ってきていた。
最初の頃は、直訳そのものだったのに、最近は言い回しや、ちょっとしたウィットに富んできた。
――これは推薦のコ。
大学どころか、師事したい教授まで決まっている彼女は、コツコツと勉強して、指定校推薦の基準に到達した。
数学が苦手なのに、必要だからとはいえ、必死で勉強していた。
これは、スポーツ推薦のコ、これは、家業を継ぐために、専門学校への入学が決まっているコ……。
書類を処理する度に、クラスのコひとりひとりの顔が浮かぶ。そのコの事情を思い出し、心配になってしまう。
そうだ、あの就職するコの推薦文に、人知れないところで無理をする癖を書いておかなくちゃ。
知っている人が気を配らないと、あのコはすぐに身体を壊してしまう。
……。
ワタシは何をしているの?
人間の事情なんて……知ったことではない。
そもそも、将来も何も、明日がくるかさえも分からないのに。
ワタシが彼を手に入れれば、闇が復活するのに。捕食される側に戻った人間が、呑気に夢を見ることなどできないだろう。
あの男の器が龍脈の力を得てしまえば、それどころではない。
混沌と化した世界では、魔人ならざる只人が生きていけるのかさえも分からない。
それなのに、将来の夢? 受験勉強?
愚かな下らないこと。戯言。
分かっているのに、書類を作り続ける。
彼らの願いが叶うようにと、矛盾した想いを抱きながら。
……文字が滲んでしまった。上から降ってきた水滴によって。
いやね、雨漏りでもしているのかしら。
……急いで、そこを訂正しなくちゃ。
「おッ―――、どうやら、来たみたいだぜッ」
手を振る蓬莱寺クンのおかげで、彼らの姿に気付けた。
思っていたよりも遅くなってしまったので、急いで近付く。
「待たせてしまって、ごめんなさいね」
「いェ、俺たちもさっき集まったばかりですから」
醍醐クンが、否定する。
本当に優しいコ。彼は卒業したら、プロレスラーになるとのことだったけど、こんなに優しくてやっていけるのかしら。
「さァ、みんなもこれからお参りでしょう? 大事な時期だもの。しっかりお願いしなくちゃね」
「そうですね。それじゃあ、行くとするかッ」
皆が真剣な顔で、お参りをする。
そんな中で、龍麻だけが奇妙に冷めた瞳をしていた。
僅かに苦笑さえ浮かべ、ゆっくりと手を合わせる。何を――祈っているのかしら。
ワタシは……。
ワタシが望むのは、ただひとつだけ……。
「これで今年の初詣も無事にお終いね。龍麻は……、何をお願いしたの?」
「ヒミツ」
同じく龍麻を見つめていた美里サンが、気になったのか訊ねていた。
もっとも、龍麻は冗談めかして答えなかったけれど。
「へェ……そういわれると、なんだか気になるわね。龍麻のお願い事……、一体何なのかしら」
「よせよせ、そんなもん、追求するようなことじゃねェよ」
参戦しかけた遠野サンを、蓬莱寺クンが諌める。
それはもっともな話だった。
「そうね、ミンナ、想いはそれぞれ違うけれど、願い事が叶うといいわね」
「そういうセンセーは、何をお願いしてたの? 随分、熱心に手を合わせてたみたいだし」
首を傾げる桜井サンに、笑って誤魔化すことにした。
ワタシの願い――告げるわけにはいかない。
「フフフ。さァ、何かしらね。それじゃあ、ワタシはそろそろ行くわ」
「えッ!? もう行っちまうのかよ!! なんだ、せっかく俺たちのために来てくれたとおもったら、これから男とデートかよォ」
「フフフ、ご想像にお任せするわよ」
蓬莱寺クンの言葉に苦笑しかけ、それから、それも正しいかもしれないと思った。
確かに、素敵な男性とデートするための仕度をする。ただ、この月夜の逢瀬は、殺愛が前提だけれど。
フフフ……その前に、素敵な男性を、誘わなくてはね。
「龍麻……。アナタに、大切な話があるの。後で――――ひとりで学校まで来てくれないかしら?」
「嫌です」
周りの皆が、息を呑んだ。
即答――しかも、今のは心底嫌だという思いが込められていた。
彼は、拗ねたように視線を逸らしてしまう。
やっぱり気付いているのね。だけど……
「それでも……、ワタシは待っているわ」
ねェ龍麻……ワタシ、己惚れても良いのかしら。
アナタがそんなに感情をストレートに出すことに。
学園に放している蝙蝠が、校門にて龍麻の姿を捉えた。
しばし思案するかのように月を見上げた彼は、一息つくと門に手をかけ、一気に乗り越えた。
着地し、周囲を見渡して、また溜息を吐く。
一点――ここに視線を止めて、諦めた様子で歩き出す。
その後も、扉が在る度に彼は立ち止まった。
罠の警戒をいった風ではなく、引き返そうか悩んでいるかのように。
けれど、彼は結論を出したようだ。
ワタシの目の前の扉が、音を立ててゆっくりと開いた。
「来て……くれたのね」
その瞬間、彼は顔を歪めた。
悩んでいるのは、ワタシもよ。
どちらを望んでいたのかしら。アナタが来てくれること? それとも……。
けれど、もう……、引き返すことはできないわね。
ワタシたちは選んでしまった。
「ご覧なさい、今夜は満月……。紅の満月が心を奪い、心地よい狂気へと誘う……。そんな夜だわ」
魔の力が最大となるとき。人の心のバランスがおかしくなるとき。
龍麻は、眩しそうに目を細めて、独白のように呟く。
「こんな紅の月は、好きではないです。友人を殺したのは、こんな月の夜だった。ですが、月の下の貴女は――本当に綺麗ですね」
ありがとう……でも、それはワタシが闇の者だから。
こんな紅い月の夜には、血が騒ぎ高揚する闇の者だから。
「龍麻、今夜アナタをここへ呼んだのは、教師としてじゃない。ワタシは―――、ワタシは、アナタを……」
何を言えば良いのかしら。
アナタが欲しい? それとも、愛している?
「龍麻、今夜、寛永寺へは行かせないわ。今、アナタを、失うわけにはいかないのよ」
何を続ければ良いのか分からなくて、話を変える。
敵としての会話へと。
「フフフ。なぜワタシがそんなことを知っているのか、なぜワタシが、アナタを必要としているのか……。聞きたい事がたくさんあるんじゃない?」
ずっと顔を伏せていた龍麻が、目線を上げる。
そこにあったのは、ひたすらに静かな哀しみ。激情なんて欠片も存在しない。
「何も――聞きたくなんてないです」
龍麻は、もう一度目を伏せて首を振る。
気付いていないはずがないのに。何もかも知っているはずなのに。
ワタシの目的も、正体も――。
「こんな寒い中、風邪をひきますよ。早く中に入りましょう」
手を差し伸べてくる。
この手を取れば――まだ戻れる。
「龍麻……アナタはいつもそうやって、ワタシを戸惑わせるのね」
誘惑に耐える為、瞳を閉じ、かぶりを振る。
元に――教師と教え子に戻っても、仕方ない。
この世界で、彼とワタシは共に生きられない。
それならば――――。
瞳を開き、最後の機会を捨てる。
「ワタシが生まれたのは、欧州はトランシルバニアの古城……。紅き血潮の香りを求め、月と共に永劫を生きる者……。本当はもう、気が付いてるんじゃなくて? ワタシが、人間ではないことに―――」
「とっくに。だから何ですか? あなたは大切な――」
龍麻の言葉を掻き消すように、地震が生じる。
それで良いのよ。決定的な言葉を聞きたくはない。
「ワタシは、アナタを待っていたのよ。アナタに出会い、そして――、アナタを、殺すために―――」
何も答えず、彼はただ首を振る。
龍麻……アナタは知っているかしら。
自分が泣きそうな顔をしていることを。
それはもう――アナタの中では決断が済んでいるのよ。
ワタシを倒すことを覚悟している。
だから……アナタは、ただそれを自覚すればいいの。
「ねェ、龍麻。少しだけ―――、少しだけ、ワタシの話をきいてはもらえないかしら?」
遥か昔の物語。思い出すだけで傷が疼く、ずっと前の話。
龍麻は、無言で肯く。
「ありがとう。フフ、こんなことを人間に語る日が来るなんて、この数世紀の間、一度たりとも考えてみたことはなかったわ」
かつて、地上にはふたつの世界が存在していた。
神によって等しく創られた陽と陰から成る、ふたつの世界。
そのそれぞれに生きる、ふたつの種があった。
人は太陽の下で、そして、魔は月の下で―――、互いの領域を侵さぬよう、ふたつの種は共存してきた。
けれど―――
それを壊したのは、愚かな恐怖に駆られた人間たち。
全てをその手に掌握せねば気が済まぬ程、人間とは弱く、愚かで卑小な存在だった。
闇を自分たち以外の存在を受け入れられぬ人間の愚かさは、破壊と殺戮という衝動となってワタシたちに襲いかかった。
土地を奪い―――、
城を破壊し―――、
やがて人間は全てを治めた。
「以来、わずかに生き残った闇の末裔たちは、それでも尚、人間との共存を目指そうとした」
人を護ろうと思った闇の者たちもいた。
捕食を止め、人間に近付かないようにした者たちもいた。
でもその結果はやはり、破壊と殺戮でしかなかった。
磔にされ、炎にくべられ、胸に杭を打たれて。
人を害しても、人と関わらなくても結果は同じこと。
ワタシたちの安息、生きる権利さえも、すべてが人間によって蹂躙された。
どうせ同じ結果ならば――
闇への畏怖を忘れた人間たちに、再び、補食される立場の記憶を蘇らせてあげる。
それが、太古より続いてきた、この世界の自然な姿なのだから。
すべては、ワタシの望みのために。
アナタの《力》が、アナタの血が欲しいの。
なのに、どうして……?
敏いアナタが、どうしてただ首を振るだけなの?
冷酷であるはずのアナタが、どうして納得してくれないの?
余計な同情を買うようなことを言ってしまったのかしら。
少し、おしゃべりが過ぎたみたいね。
ワタシのために死んで欲しいなんて、都合のいいことはいわない。
ただ―――、アナタの、気持ちがききたかった。
「たとえ、ワタシの屍を乗り越えても、アナタには、護りたいものがある……?」
「ええ……だからこそ、闘いたくない。止めて下さい」
哀しくも冷たい瞳が、宣言する。
護りたい者たちの為に、立ちふさがるならば倒す――と。
その答えが聞きたかった。
これで、ワタシの望みを実現させられる。
彼の周りに炎が揺らめく。美しい輝きが炸裂する。
大量のこうもりが、一瞬で消し炭に変わる。
……この一年の間に、相当な力を身につけたことは知ってた。
けれど、これほどとは。
相手にもならないかもしれない。
それでもワタシはアナタに挑むしかない。
ワタシの望みのために―――
……信じられない。
人間の反射精度で、ワタシの迅さに反応できるわけがない。
それなのに、彼は当然のように躱し続ける。かすることもできない。
限界まで、速度を上げているのに。
そう考えてから、笑いたくなった。
元から彼を倒せるなんて思ってなかった。
相性もあるし、それに、彼は本当に強くなった。
闘いを挑んだ理由はふたつ。
この世界では、アナタと共に生きられない。
世界を変えて、アナタを我が物にするしかない。
今更、自分を変えるには、永く生きすぎたから。
アナタを受け入れるには、もう遅すぎるから。
これで、どちらかは叶う。
楽しかった時間。
それはまるで、月夜の舞踏会。
ふたりきりの空間で、ステップの音だけが軽やかに響く。
赤の影が黒の影を追いかける。恋焦がれるように。
黒の影が揺らぐように踊る。焦らすように誘うように。
永劫に続くような、幸せな夢の空間。でも、夢には終わりがある。夜が明ければ消えてしまう。
その前に、自らの意志で終わらせなければならない。
彼のことを、仲間たちが――愛する者が待っているのだから。
本気で――彼を殺すつもりで、力を高める。
そうすれば、彼もワタシを殺してくれるだろう。
彼は避けなかった。
刃と化したワタシの爪が、龍麻の肩に食い込む。
溢れ出す血。あれほど望んだはずの黄龍の血が、ワタシに降り注ぐ。
どうして?
今のが避けられないはずはない。
龍麻は、誰よりも哀しい目で、ワタシを見ていた。
流れる血も傷も、何も気にならないように。
それはほんの一瞬の間だった。
だけどワタシたちは、見つめ合った。黒と赤と月の光しか存在しない、影絵のような舞踏場で。
「……駄目ですよ、それでは」
痛嘆な表情。それは即座に消える。
恐ろしいほどに、瞳が切替る。
哀しみに満ちた泣きそうな瞳から、ただ相手を観察する冷酷な瞳へと。
抱きしめられる。ワタシの爪は彼の肩を抉ったままで。
蕩けるような血の香りが漂う中で。
それはどれほどの時間だったのだろう。
気が付いたときには、冷たいコンクリートに伏した状態だった。
身体中に激痛が走る。
おそらく受けたのは不可視の攻撃――氣。
迷った様子で立っている龍麻に、身体を少し起こして告げる。
「ミンナが、アナタを待っているわ。お行きなさい、寛永寺へ」
アナタには、陽に満ちた場所が待っているのだから……。
ワタシと――闇とともに在る人ではないのだから。
本当はアナタの手で殺して欲しかったけれど、これでも大丈夫でしょう。
もう一度、強い揺れがくれば、いずれここも崩れる。この傷なら、ワタシも逝ける。楽しかった校舎と一緒に。
「先……」
龍麻が何かを言いよどむ。
一度くらい……名前で呼んで欲しかった――と、呑気な感想を抱く。
彼の考えていることは大体分かる。
ワタシを拒絶したから、もうワタシのことを心配する資格もないなどと、自分を責めているのだろう。
なんて理性的で、なんて律義で、――なんて哀れ。
ワタシもアナタと同じ。考えてしまう。
アナタの手を取りたくて、だけど、選ぶことはできない。
ワタシは、あの男のようにはなれない。
ワタシの中を流れる、誇り高い血が、決してそれを許してくれはしない。
地響きと共に、校舎が崩れていく。
これで龍麻ともお別れね。
その姿を直前まで焼き付けようと、彼の方を眺め、予想外の反応に驚愕した。
「先生ッ」
落ちつつあるワタシの手を、無理に掴む。
未だ血の流れる、傷付いた右腕で。
どうしてワタシのコトを。ワタシを、憐れんでいるの?
呆然と呟いてしまう。
何をしているの。このままではアナタまで……。
アナタは――冷静なはずでしょう。
「離しなさいッ!! アナタまで落ちてしまう!!」
なのに、彼は意固地になったように首を振る。
生きて欲しいから――そう言いきって、入らないはずの力で手を強く握る。
だけど、きっとそれが限界。
あの傷では、引き上げることはできない。
龍麻……ワタシ、本当はわかっていたのよ。
ワタシはとうの昔に、全てを―――、許していたんだって。
けれど、それを認めてしまったら、もう生きていく目的を喪ってしまうから。
だからもう良いの。アナタを巻き込みたくない。
離して……。
「最後くらい……、先生のいうことは、ちゃんときいてちょうだい」
「さっき襲い掛かってきた時点で、教師は解任です。だから、聞けませんね」
一条の血が、ワタシたちを結ぶ。彼の肩からの血が、手を伝ってワタシの首筋を流れる。
血に滑り出す手を、龍麻が強く握り締める。
身を乗り出してまで、ワタシを引き上げようとする。
駄目……このままでは、ふたりとも落ちてしまう。
どうすればいいか。
ワタシだけが、堕ちればいい――。
それは最初から望んでいたことに近い。決まってしまえば、簡単なこと。
ただ、どうしてもひとつ龍麻に訊ねたい。
「最後に……ひとつだけ聞かせて―――。ワタシ……、良い先生だったかしら?」
「当たり前です、どこぞの煙草吸いまくりのやる気のない先生とかとは、比べものになりません。だから……力を入れて下さい!」
本当に……、短い間だったけど、楽しかったわ。
「フフ、ありがとう、龍麻。ワタシもアナタたちがとても愛おしかったわ……。ワタシの可愛い教え子たち……。なんだか、本当に教師になったような気がしたわ」
皆の顔が浮かぶ。
龍麻や蓬莱寺クンたちだけではなく、クラスのコたち、ひとりひとりの顔が。
さようなら、ワタシの教え子たち。
「さよなら――――――、龍麻」
急に壁を蹴る。もちろん外に向かって。
龍麻であっても、反応はできない。まして、滑る掌で止めることも。
結ばれていた手が、離れる。
これでいいの。
世界に闇を戻すには、アナタを壊すしかない。
このままの世界では、共に生きることはできない。
ならワタシが消えるしかないじゃない。
アナタの手でなら、不死に近いこの身体でも、逝ける。
それに、アナタの記憶に残るような、最期が良かった。
ずっと彼を見ていた。待ち続けた者だったから。
どこか超然としていて、冷めた目をしていた。
大切な人たちにさえ、優しく――少し引いた態度で、見守っていた。
犬神……先生が、教えてくれた。彼は前世の記憶も有しているから。だから、悟ったような所がある――と。
そんな彼が、初めて見せる。
「先ッ……ッ、マリアッ!!!!」
マリアと呼んでくれた。初めて聞いた叫び声、十八歳の――年相応の男のコの顔。
きっと、彼のこんな必死な姿は、美里サンも知らない。
だから、それだけで十分。
一族の無念を晴らす事はできなかった。ずっとずっと狙っていた獲物を逃すなんて、夜魔族としては信じられない無様な事。
だけど――構いはしない。
もう一度、人を愛せたから。
「龍麻――――。アナタを――、愛していたわ」
綺麗な月……。
闇の中にぽっかりとあいた真円。
冷たい――。
澄みきった空気の中で、流れる血が体温を奪っていく。
寒い……けれど、まだ、生きているの?
瓦礫の中を、白銀の影が走る。
それは、人型へと変わり、紅い月の光を遮った。
「無事ですか……マリア先生」
「犬神……先生? どうして……? この傷では、……ワタシであっても、死ぬ……はずでしょう?」
何故?
純然たる光である陽の器の力を受けた。加えて、あれだけの高さからの落下。
確かに、全身が激しく痛む。けれど、これは生きている証。
「これでしょうね」
彼が指したものは、小さな紅い石。
それはワタシの胸元で、光を放っていた。そして、少し血が付いていた。
これは……。
そう……ね。ルビライトはパワーストン。
黄龍が祈りを込めた奇跡の石に、注がれた黄龍の血。強い力を持つのも道理。
でも……もういいのに。
生きていても……仕方ないのに。
「あなたは死を望んでる。が、それを望まない者たちも多い。だから――連れて行きますよ」
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