TOPへ


吹き荒れる風が、青年の長髪を巻き上げる。
誰もが心のどこかで異変を察したかのように引きこもる無人の町を、青年は高みから見下ろし、独白する。

「見るがいい……。ついに、裁きの刻が来たんだ」

深夜だというのに、一羽の鴉が一声鳴き、青年の肩に舞い降りる。
まるで言葉を交わしたかのように青年は頷き、薄く笑う。

「これで、わかる。僕たち――――人間の犯した罪の重さが。見せてもらうよ、緋勇くん。君たちが信じるこの東京がどうなるのかを――――」


「もうすぐ、闘いが始まる」

自らが望んだ深い眠りから醒めた少年が、病室で小さく呟く。
闇を見通す――夢を渡る瞳で、彼は嘆息する。

「緋勇くん。君は、勝つ事ができるのかい? 自分の心に負けずに。――亜里沙、どうか無事で」

上野に集う『彼ら』のうち、己を救ったふたりの姿を思い浮かべて。


おっとっと――酔っ払った老人が揺れに毒づく。

「ちッ、おちおち酒も飲めやしねェ。危うく酒が溢れる所だったわ」

苦笑しながら、今度は細心の注意を以って杯に口を寄せる。
一挙にそれを空け、美味そうに一息ついてから、不意に空を見上げる。

「柳生よ。人が、龍脈の力を得ようなどとはおこがましいとはおもわねェか。大地の力は、人の手に入らぬからこそ価値がある。おめェが、今まで求めてきたものの答えを、しかと見届けるがいい。長き刻の中を生きて来たおめェが正しいのかを……な」

その表情は酔っ払いの老人のものではない。
老境に達し、己の大切なものの為に、地位を捨て去った――賢者の憂いの顔であった。


「この振動は。それに、この氣の乱れ……。あの時と同じだね」

龍命の塔の起動、それに備え病院内を見回っていた医師が歩みを止める。
ロビーから外を眺め、彼女は続けた。

「緋勇――――。死ぬんじゃないよ」


む……。いよいよ、始まりおったか――竹林の中の古びた邸内で、置物のように座していた老人が、静かに目を開ける。

「弦麻よ。あの若者たちの行く手を照らしてやってくれ。お主の子供が、闇に迷わぬ様に――――」

それは心よりの願い。
十七年前、彼らは護りきることができなかった。此度は護り抜いて欲しい。
自らの弟子を、何度か訪ねてきた若者たちの顔を、思い浮かべながら、切望する。

昔とは違う結末を――――。


―― 東京魔人学園剣風帖 第弐拾参話 ――



新年であり、深夜――だというのに、制服姿の一団が居た。
別段示し合わせたという事はなかったのだが、彼らは皆、自然とその服装を選択して、この場に臨んでいた。

「くそッ、まるで、地の底から何かが這い上がって来るようだ」
「あァ、こいつは急がねェとやばいぜッ」

忌々しそうに吐き捨てる彼らの顔には、明らかな焦りの色が見えた。
予想していたよりも、遥かに早く異変が起きようとしている。

東京を――――龍脈を巡る最後の闘いとなる舞台、寛永寺は、空間さえも歪んだようであった。
喩えるのならば、破裂寸前の風船、そういった緊迫感を内包している。

誰もが多かれ少なかれ焦りを隠せない中、ひとり落ち着き払った青年が、仲間である皆を見回す。

「くれぐれも、パニックにならないように。そして、基本的には彼らの指示に従うように」

嘗て東京を鬼たちから護り抜いた彼らは、再び鬼に挑む。
永き刻を生き、東京を、いや世界を破壊と殺戮が支配する闇へと堕とそうと画策する剣鬼――――柳生宗崇に。

緊張で固まった仲間たちの表情に、この闘いの鍵を握る者、黄龍の器という重い宿星を架せられた青年――緋勇龍麻は、笑って告げる。
心からの願いを、祈りを、命を――――。

「必ず生きて帰るように」


門を潜った先の妖気に、彼らの表情が一斉に歪む。
苦痛ではなく――――ひたすらに強烈な悪寒。術者だけではなく、感覚は鈍いはずの者たちまで、思わずその身を縮める、澱み、滞り、濁った大地の邪氣。

「ふっふっふっ……。ようやく、俺の元へ辿り着いたな」

幽鬼のようにただ佇む剣鬼の群れから、紅の制服を纏った真の剣鬼が現れる。

「よく来たな。緋勇 龍麻――――。そして、菩薩眼の娘と《力》持つ者共よ」

嘗てと同じように集う、黄龍の器と菩薩眼と《力》持つ者たち。
仕組まれたが如く、同じ行動を取る彼らを、柳生は嘲弄する。

「すべては宿星によって定められた因果の輪の内というわけか」
「てめェ――」

憤怒を込めて睨み付けてくる剣士の眼差しを、心地良さげに受けて止め、柳生は悠然と笑った。

「貴様らは、実によく働いてくれた。龍脈の《力》を活性化させるために……な」
「何だと……」

白虎の怒りさえもが、彼にとっては賞賛の声。

「見ろ、この氣の奔流を――――。聞くがいい、大地の鳴動を」

全ては彼らの業績。
彼ら《陽》が裏のシナリオに気付きもせずに、命を賭して《陰》と闘った功績。
陰と陽との激突により、龍脈の昂ぶりは、最大とも言える規模に達した。

「そこで、見ているがいい。ヒトの滅びる様を――」
「ふざけんじゃねェッ!! 俺たちが、この場で引導を渡してやるぜッ!!」

剣士の反応が、当然のもの。普通の感情。
龍脈を護るべく《選ばれし者》全てが、程度の差はあれど、彼と同じく怒りの表情を浮かべる中、ただふたりは違っていた。

いや、そのふたりは正確には《選ばれし者》ではない。

ひとりは《菩薩眼の娘》美里葵。彼女はひたすらに哀しみの眼差しを剣鬼へと向けていた。
もうひとりは、《黄龍の器》。彼の顔には、怒りも憎しみも浮かばない。ただ冷めた目で、無感動に黒幕の演説を眺めていた。

「愚かな……。この俺を、斃せるつもりでいるのか。俺を斃す事は、誰にもできぬ。たとえそれが、神であろうともな。この無限の刻の中を生きる俺を、たかがヒトが、斃せると思うか?」

柳生は気付かない。聖女の哀れみにも、大地の王の蔑みにも。
彼は遥か昔より、極端な視野狭窄を起こしている。彼に見えるのは、最早ほんの僅かな個所のみ。


「もうすぐ、新たな覇王が誕生する。《器たる者》に、この地下に集まる龍脈の力が流れ込めば、偉大なる黄龍の力を手中に収める事ができる」

――そうなれば、俺は黄龍の《力》をもった《器》を操り、この現世を混沌の陰に覆われた世界へ変えてみせる。

歪んだ信念に基き彼は行動してきた。その執念ともいうべき想いは、実現する直前。ここに集った者たちを蹴散らせば、彼の狂った積年の願いは遂に叶う。

「そんなコトさせるもんかッ!! この東京を、キミの自由になんかさせてたまるかッ!!」
「貴様が、その永い刻の中で何を見、何を聞いてきたかは知らないが、たかが、130年の年月を生きて来た奴のために、この東京を滅ぼさせる訳にはいかない」

恐怖に震える身体を必死に抑え、決意を表明する彼らを、柳生はゴミでも見るような目で眺めた。ヒト風情が何を言っているのか、不思議でさえあった。

「たかが……だと? 俺は、今まで、ずっとこの国の歴史を観てきた。ヒトの無力さとヒトの愚かさを、そして、天命という、もって産まれた宿星の力を――」

望まずとも観続けた。
飽きるほど長い時間、ずっと、ずっと――。

「因果の流れは、全ての者に平等ではない。現世に於いて、その流れに逆らう事ができる《力》を得られるのは、天に選ばれた者だけなのだ」

彼にとってはそれだけが事実。
平等など有得ない。どれほど願おうとも、死は彼以外の者に襲い掛かった。

彼とて、死ねぬ身体を嘆いた時代があった。

自暴自棄になり、闇雲に、身体を痛めつけるように旅をする彼を助けた、貧しい村の幼子がいた。
それは、親を早くに亡くし、自身も貧しい身の上ながら、行き倒れの見知らぬ人間を、必死に看護した。

悲しむ人がいるだろうから――――そう微笑んだ幼子は、数年後に柳生が訊ねた際には、美しく成長した容姿と、そして何より天涯孤独な身の上が災いし、村近くに住まう、ある神の生贄として捧げられていた。

ほんの少しだけ、柳生の到着は遅かった。彼から見れば、微小の力しか持たぬ低級の妖霊如きに、少女は、その身を生きたまま喰われた。

「ちッ、狂ってやがるぜ」

それは確かだろう。
あれが契機だった。厭世的になりかけ、それから救ってくれた少女が、他者ならば幾らでも犠牲とできるヒト達によって殺された。
弱い者に容赦ない時代だった、そうでなければ生きていけなかった――――そんなことは理由にならなかった。

ゆえに、柳生は狂った。
歪んだ世界で生き続ける身で、正気を保つ理由など無かった。

凶つ神を村人の前で、引き裂いた。
そして、数年おきに生贄を要求する凶神から解放され、感謝の意を示した村人たちに、彼は笑って応じた。壊れたからこそ美しい、透明な歪んだ笑みで。

逃げ惑う村人たちをひとり残らず虐殺しながら、彼は笑い続けていた。
村中の魂と血を使い、身体を再構築し、反魂を施して少女の魂さえも堕としてしまっても、彼の笑いは止まらなかった。
彼は独りでなければ気付けたのかもしれない。
少女が堕ちてしまった事の方が、彼女が死んだことそのものよりも哀しかったことに。

だが、彼は独りだった。ゆえに今もなお――――気付けない。

「ふっふっふっ。貴様ら――――ヒトに何がわかる」

吐き捨てるように、『ヒト』と己とを分かつ男の言葉に、今まで一言も発していなかった少女が、一歩前に出る。
彼女には少し理解ができた。この男が堕ちた理由は、怒りと憎悪と――――哀しみだと。
けれど、認めることはできなかった。彼がしてきたことは――――否定することだけだったから。その力を救いには向けず、破壊のみに使用し、自分と同じ哀しみを味わう人を、量産するだけだったのだから。

「人の歴史が愚かなものだというなら、その愚かな刻を生きてきたあなたは、何なの? あなたは、その歴史の中で、泣いていた赤子と同じじゃない。何もできず、誰にも認められず、ただ、泣いていただけのあなたは――――」
「よく口の廻る女よ。貴様らの《力》がいかに無力か――、その考えが、いかに愚かか、教えなければわからぬか……。見せてやろう、俺の《力》を――。俺が、刻の中で、何を観てきたか――」

美里に対し厳かに告げた柳生は、笑い声を聞いた。
可笑しくて堪らない――そう告げるように、緋勇が嗤っていた。
射殺さんばかりの柳生の怒りの視線に、緋勇はやっと気付いたようで声を止める。
尤も、嘲るような瞳も、貌に張り付いた嘲笑もそのままであったが。

「葵の言う通りだよ。永き刻を生きる? それは可哀相だな。だが、お前は生きてないだろ。刻の中で、何を観てきたか――――だと? はは、お前は何も見てないだろ?」

緋勇は、ゆっくりと首を横に振る。
柳生の過ごした永き刻に、意味などなかったのだと。

「哀しいことがあって、それからは、ただ膝を抱えて、震えていただけだろう?」

よく、そこまで自分だけを哀れめるものだ――彼は肩を竦める。
心から嘲弄する言葉。話の通じない相手を、蔑む瞳で。

「過酷な永き生を過ごした者は、他にもいるだろう? 少なくとも私はふたり知っているよ」

緋勇の心に浮かぶのは、学園の教師たち。
人と共に暮らし、過ぎ去る人を見てきた、永劫に残される者たち。

「人を護り人と生きる、気高き月の狼。人間を憎み、それでも愛してしまった哀しき夜の女王。――彼らと比べたら、貴様の事情なんぞ、ただのガキの我が侭だ」

柳生は、己の思想の否定など、赦さない。
彼は、家督争いにて実の兄の手の者に襲われ、瀕死の重傷を負った所を、とある仙道に助けられ、不死となってしまった。その哀しみで彷徨い、苦しみ、小さな救いの光を見つけたかに思えたのに、それは無残に人の手で消されたのだから。
どれほど願おうと、人は死んでいく。限りある生の中で駆け抜けていく人間たちから、取り残され続け、彼は狂うことを、己の意思で選択した。

皆が老いていくのならば、皆が逝ってしまうのならば、ひとり永劫に遺されるのならば、

――――人間など存在しない世界へ、変わってしまえばいい。

遠い過去にそう決意した彼は、プログラムの如く反応する。
己を否定し、その願いに立ち塞がる者を、排除する為に迅速に動く。
狂ったがゆえに心無く、精密機械のように正確に。

「ほざけ、小僧が!!」

叫び、一足で距離を無とする。
瞬時に間合いを詰め、神速で振われる抜刀の冴えを躱す事など不可能。
そうとしか思えぬ剣撃を、緋勇は手甲にて止めた。

僅か一週間前であれば、確実に切り裂いたであろう攻撃をあっさりと止められ、内心では狼狽する柳生に、あくまでも冷たい声が嗤った。

「認めろ。――――貴様は、ただの餓鬼なのだよ」

認めてしまえば、柳生の数百年の意味は一切消失する。
龍脈の力を掌中にすべく、幾多の争いを起こしてきたことも。
無邪気で優しかった少女を、残酷な部下に堕としたことさえも。


故に、嘗て無い速度で踏み込み、斬り、突き、払う。
しかし、それすらも緋勇は悉く躱す。

幾度かの鋭い攻撃の遣り取りの後、彼らは同時に大きく跳び退った。

頬に付いた血を荒く拭い、柳生は目を光らせて哄笑する。

「真に殺すには惜しい男よ。今からでも構わぬ――我が元に下らぬか? 何しろ、貴様は、我が野望の為に働いてくれた最大の功労者のひとりだ」

本音も含んでいた。
緋勇の血に連なる真の器が、己が下で動く。それは喩えようもなく愉快な考えであった。
また、彼の有能さは、今更語るまでもない。

だが、それだけとはとても思えぬ悪意を含んで、柳生は続ける。

「緋勇龍麻、九角天童。貴様らは、実によく働いてくれた。龍脈の《力》を活性化させるために、先祖共々……陰と陽の象徴として、道化としてなッ!!」

おそらくは挑発を目的とした言葉に、何人かは密やかに冷笑した。彼らは確信していた。龍麻が、安い挑発に惑わされるはずはない――と。

だが、直後に、彼らは一様に怪訝な表情で、リーダーを見つめた。
静かに――押し黙った緋勇の様子は、通常とは異なっていた。

緋勇龍麻は、己への侮辱であれば、確かに気にも留めなかったであろう。
だが、今の柳生の言葉だけは聞き捨てならなかった。
更に『彼』にとっては、己と友の苦渋に満ちた末の最期の選択を汚されることは、許せることではなかった。

「ふざけるなッ!!」

殺意を凝縮したような、緋勇の激しい怒りの声に、彼の仲間が呆気とられ動きを止める。
それも親しければ親しいほど――――より正確に述べるならば、彼の本性を深く知っている者ほど、激しく戸惑う。

「貴様に躍らされた!? 勝手な事を抜かすな。あれは我らの意志だ。これ以上双方に無駄な犠牲を出す前に――――何者かにいいように操られ続けるよりは、決着をつける。そう考えた我らの結論だ!!」

何人たりとも、汚す事は許さん――――依然として続く、激昂した言葉の内容から、幾人かが納得した様子で頷いた。
柳生の挑発は、逆鱗に触れたらしい。
今の彼は、怒れる黄龍――――緋勇龍斗。

癇癪を起こした子供のように、ただ腕を振るえば、生じた突風が、強力な防御力を誇るはずの鬼たちを弾き飛ばす。そして彼の怒りそのものの様な猛炎が、柳生に襲い掛かる。

それは刻を経て、失われてしまったはずの奥義。眷属たる四神の名を冠する、元素さえも操る秘技。

あまりの威力に、しばし凍り付いていた仲間たちは、突然『彼』が通常の状態へと戻ったことに気付いた。
怒りに燃えた双眸は、不意に氷へと変じ、ただ静かに佇んでいるかに見えた。

精神の集中は解かぬまま、彼は右手を上げる。

「汝を召喚す。我が元へ来い。童子切安綱」

呟いた彼の手元に、一振りの刀が現れる。
結界さえも切り開き、空間を跳んできたそれは、強力な妖刀であった。
だが、柳生は焦りもせずに嘲弄する。

素人がなんのつもりなのか――――柳生に限らず、その場にいた人間の共通認識。
いかに強力な刀であっても、扱う人間の技量の差は埋め難い。ましてや柳生の刀とて、同じく業物。

だが、予想は覆される。
どれほど反射神経が凄まじかろうと、所詮、剣に関しては素人であるはずの緋勇が、永き刻を生き続けた、真の剣鬼と呼ぶべき男の剣を、受け、捌き、そして斬り込む。

それは、道場剣法ではありえない――――実戦剣術。
己は斬られることなく、相手を斬り殺す為に特化された、洗練された鬼の剣。

幾度目かの鍔迫り合いの後、彼らは大きく離れる。
苛立った表情で構えた柳生を見て、『緋勇』も構える。鏡に映したように、同じ構えを。


有り得ない――――、驚愕に目を見張りつつも、もはや今更止めることは不可能であった。
柳生は、奥義を行使する。

「「乱れ緋牡丹」」

声が唱和する。
同じ構えから放たれた同じ技。結果は、当然の如く相殺。またもや鍔迫り合い。
そして――――同じだけの隙が生じるはずであった。

しかし、緋勇は硬直する様子も無く、即座に剣から手を放す。
勢いのついた柳生の剣が緋勇に達する前に、光が爆発する。直前まで別の氣を使っていたはずだというのに、何の溜めも無く、奥義が行使される。

溢れるほどの大地の氣が集う地。己に存在する道を極めた者の記憶。
それらの助力により、緋勇が使った秘拳黄龍の威力は、尋常ではなかった。


力なく地面に伏したまま、柳生は呆然と呟く。

「ば……ばかな。貴様のこの《力》は、いったい……。乱れ緋牡丹は、殺人剣の奥義。なぜ……」

こんなことが起こり得る筈が無かった。
先程まで使っていたのは、陰氣を用いた洗練された殺人剣。そして、今の技は、表の龍、拳の奥義というべき五行全てを兼ねた力。

同じ人間に宿るはずの無い、相反する力である。

「そう、鬼道衆の頭目になら簡単の事だな」
「誰がてめェに操られたって? あぁ?」

答えは、ふたりから語られる。
但し身体はあくまでもひとり。緋勇龍麻の表情と口調が、ころころと変わる。

柳生は事態を察し、それゆえに声を絞り出す。
確かに、彼を利用した。だが、彼の怨嗟の念は、彼自身が有していた紛れも無い本物であったのに。

「九角天童……か。なぜ、貴様が陽に……手を……貸す?」
「てめェが気にくわねェからだ。陽も陰も関係ねェよ」

『彼』は肩を竦めると、不意に苛立った表情となる。
が、何処に対し怒ればいいのか分からないのか、真下を見ながら荒っぽい口調にて続ける。

「人使いの……いや、怨霊使いの荒い奴だな。折角気分良く眠っていたのに、何てことさせやがる」

一瞬動きを止めると、一転して柔らかい表情で首を傾げる。
だってむかついただろ? ――と同意を求めて。

「まぁな」

ぶっきらぼうに応じ、拗ねた様子で顔を背ける彼の姿は、一歩間違えるとある種の芸のようであった。
――――その上、不気味でもあった。

その後、『彼ら』はしばらくの間、ぶつぶつと、ある意味で爽やかに言葉を交わし、別れを口にする。九角は確かに還ったようで、緋勇の瞳の温度が急激に下がる。

それを見て取り、仲間の何人かが頷きあう。
この後起きるであろう惨劇を、皆に見せるわけにはいかない。彼らの中では、その意見が前もって可決されていた為、御門と如月が残り、速やかに他を先に進ませる。そちらの方の指揮は、壬生が担当する様子であった。


彼らの遣り取りには目もくれず、ただ眼前の敵だけを見据えて、柳生は呪いの声を搾り出す。

「だが、もう遅い……。まもなく、黄龍が目醒める。この俺の造り上げた《陰の器》によってな。何もかも、もう……遅い」

破滅を、一切の破壊を信じて疑わない柳生は、その意味に於いては勝利を確信していた。もはや龍脈の暴走を止める術は無い。それは真実。
そして猛った龍脈を受け入れるのは、真の器ではなく、既に受入態勢の整った陰の器。それもまた真実。

「ふふ、ははははははは。本当にそう信じているのか? 楽天家だな、気の遠くなるほど生きた男が」

だが緋勇は、声をあげて高らかに嗤う。
強がりなどではなく、心より愉しそうに。

全ては狙って仕組んだこと。

陰と陽との度重なる闘いによって、龍脈の昂ぶりを抑えることは既に限界であった。ならば、その力を、誰かが受け取るしかない。――――が、地球の根源に繋がる、原始の混沌とも称するべき力。人としての自我も形体も保てなくなるほどの狂った莫大な力。

緋勇には、そんな厄介な力を受け取るつもりはなかった。
だからこそ、もうひとりの器の存在は、彼にとっても願ったり叶ったりといえた。
陰の器が、変生し、それを龍脈の力で以って倒せば、相当量の力が相殺される。後に残った力を制御することは、緋勇と幾人かの仲間たちの能力をもってあたれば、そう難しいことではない。


ありがとう、東京を護り、そして私を護ってくれて――緋勇は、優雅に頭を下げる。毒を含んだ嗤いを消さずに、柳生を見下ろしながら。


「貴……様ァ、まさか……わざと遅れて……」

憎悪を込めて睨み上げる柳生に、緋勇は笑って肯定の意を示す。
それから思い出したように懐に手を入れ、数日前に五色不動で入手した五色の珠を取り出す。

意図を悟り、目を見張った柳生に対し、緋勇は告げる。
冷え切った殺意だけが迸る眸で。

「己が手で創り出した、純然たる陰の結晶。これが織り成す結界ならば、ほぼ無限に近く貴様に供給される氣も遮断できよう。その間ならば……貴様を殺せるな」

凄惨な内容をあっさりとした様子で告げ、緋勇は摩尼を置く。柳生の身体を中心として、狭い範囲にて。
半目となり、意識を柳生と摩尼とに等分しながら、彼は義兄より――ひいては九角鬼修より伝えられた言葉を紡ぎだす。

「嵐巻き起こすは木鬼……」

配置された五色の摩尼が、緋勇の呪言に応えるように輝きを増す。

その様に焦りながら、柳生は必死にその身を起こそうとする。
今まで無様にも地に身を横たえたままであったのは、復元を待っていたから。今もなお、供給される邪氣が、陽の氣によって破壊されきった身体を、急速に修復していた。

だが、このままでは――――。

「天の息吹、地の息吹。我が手に集え、陰陽五行の脈々よ」

一辺を四メートル程度とする、五芒星が完成する。
同時に、空気の流れが止まる。

柳生はあまりの孤独感に、怖気だった。
百年以上もの間、老いさえも塞き止めるほどに、己に流れ続けていた邪氣が、一切感じられない。

東京をも守護せし力を内包する宝珠。その密度をここまで高めた結界は、完璧なまでに邪氣の流れを拒む。世界から独立した、別空間ともいえるレベルであった。

「貴様……」

剣を支えとして、柳生が立ちあがる。この結界内に居る限り、これ以上の回復はありえない。そして、術者を消さない限り、この結界は、解けない。ゆえに、如何な僅かな可能性といえども、彼は立ち上がり、足掻く。永き間、そうしていたように。

「剣掌鬼剄!!」

だが、此度は相手が悪すぎた。緋勇の家に生まれた真なる器であり、前世の記憶を有したままであり、更には九角の家系で育てられ、陰の龍の手で鍛えられた青年。

最期の力を振り絞り、刀を振るった柳生に対し、緋勇は薄い笑みを零す。
迫る敵に身じろぎもしない。刃が触れんばかりの距離に近付いたとき、やっと緋勇は動いた。
ただ無造作に右手を内から外へ薙ぎ、無慈悲に剣を弾き飛ばす。

乾いた音をたて、刀が突き刺さる。たかが数メートル先、本来の柳生ならば一瞬で手にとることが可能な距離。だが、今は本来の状態には程遠く、そして、対峙している相手は、緋勇である。

絶望に歯噛みした柳生に対し、緋勇はもう一度笑いかけた。

かと思えば、直後には、彼は柳生の目前に居た。

「おやすみ。己が弄んだ哀しい鬼たちの力によって」

数瞬の間。
それが『位置』を見極めていたのだと、柳生が知ることはなかった。

――――死ね

宣告とほぼ同時に、正面からの貫手が、柳生の胸を貫いた。
心臓というポンプを破壊された結果、やや柳生の方が高いとはいえほぼ同じ身長ゆえに、緋勇の胸から顔にかけて、夥しい血が降り注ぐ。
が、彼は怯むことはなかった。目を逸らさず、ひたすらに玲瓏な眼差しで、柳生の現状を見据える。


柳生を生かし続ける為に世界から供給される氣は、五色に輝く魂により防がれる。
外部からの修正無しに、心臓を貫かれて生き続けられるものは存在しない。
百余年を生き続けた魔人であろうと、例外ではない。

数度、死の間際の痙攣を繰り返し、そして、止まる。
同時に、その身体は塵へと変じていく。日に当たった吸血鬼の如く、人型に戻った変生した鬼の如く。
緋勇は怪訝な表情でそれを見遣り、しばし後に得心がいったように頷いた。

嘲弄と、そして、微かな憐憫の色を瞳に滲ませながら、彼は結界を解除する。
いまだ淡い輝きを放つ宝珠を手にとり、歩き出した彼は、佇む二つの影に気付いた。

「終わったようだね」

如月が、緋勇の様子をざっと観察して、確認の問いを投げる。

彼らは事が終わるまで、緋勇と柳生の方へ、一切視線を遣らなかった。
彼らにとって、血も人の死も、そう動揺するところではなかったが、――――それでも、緋勇にとって見られたくない事だと理解していたから。

「ああ。ありがとう、あやうく仲間の前で、殺人をするところだった」

どこか自虐的な緋勇に対し、御門が話を逸らすように言う。

「それよりも顔を拭いたら如何ですか?」

呆れた様子で、まるで冗談で済ますかのように。

実際のところ、緋勇の上半身は、見事なほどに血塗れであった。その姿のまま、仲間の待つ先へ進もうとしたのだから、彼もやはりどこか疲れているのかもしれない。

顔に手をやり、紅に染まったそれを嫌そうに眺めてから、緋勇はタオルを取り出し、乱暴に拭う。胸にまで被った血を大体拭ったときには、タオルから赤以外の色彩は消えていた。

一瞬思案した彼は、タオルを上空に投げ、視ていた。
直後に炎に包まれたそれは、地上に落ちるまでに燃え尽きた。

構えるでもなく拳を媒体するでもなく、ただ視るだけ発火する。既に発火能力者――――朱雀の宿星を持つマリィの域に達していた。

龍穴という特殊な場ゆえか、緋勇龍斗が明確に宿ったゆえか、どちらにしろ、今の緋勇龍麻の力は、増大していた。



途中そこかしこに打ち捨てられた崩れかけの鬼の身体を辿り、彼らは本堂らしき場所に行き着いた。
一斉に振り向いた仲間たちに向かい、緋勇は静かに笑いかけた。

「待たせた。途中、ありがとう」

彼のあまりに静かな様子に、皆が臆したのか黙りこくる。
その中で、ひとり疑問を口にしたのは、祖父を傷つけられた巫女。

「龍麻さん……柳生は?」

彼はあくまでも穏やかに笑みながら、ただ一言だけ答える。
終わったよ――と。

その言葉の意味に、それでも変わらぬ優しい笑みに、完全な沈黙が降りる。
僅かな恐怖と、そして――――彼ひとりに罪を背負わせてしまった申し訳なさから。

皆が軽い金縛りに遭う中で、緋勇は一歩足を踏み出した。
中から言い知れぬ圧力を発し続けるその扉を、彼は無造作に開ける。


そこに待っていてのは、長髪の青年。

「我が名は、渦王須――――。太極を知り、森羅万象を司る――――」

それしか言葉を与えられていない、機械仕掛けの人形のように、彼はぎこちなく呟く。
ただ笑いのように見えるカタチをとった顔で、闖入者たちを眺めていた彼の視線は、ある一点で静止した。

作り物の貌に、無機質な瞳に、初めて感情が宿る。
それは嫉みか憧れか。なんにしろ、負の感情であることだけは確かであった。

ホンモノを、菩薩眼の女と類稀な強き氣を有する男より生まれた、確かに人間である陽の器を見つめながら、渦王須はその身をより深い陰へと堕としていく。


渦王須の動きを正確に掴めた者は、少なかった。
大体の者に分かったのは、不意に彼の姿が消えたこと。そして、次の瞬間には、緋勇の間近に現れ、鈍い音が響いたこと。
――その程度であった。

「龍麻さんッ!?」
「龍麻ッ!!」

悲痛な声さえもあがる。
角度によっては、渦王須の肘が、緋勇の頭部にめり込んでいるように見えたから、無理もないことではあった。尤も、実際には、その間には緋勇の右腕が入っていたが。

緋勇は、静かな口調で宣言した。

「これは引き受けるから、他を宜しく」

黒の学生服を纏ったふたりの器たる青年は、弾けるように同時に離れた。
その言葉を合図としたように、鬼たちも動き出す。



陰と陽の器の激突が幾度か繰り返された頃には、鬼は殲滅されていた。
だが、仲間が緋勇に加勢することは、事実上不可能であった。――――ふたりの動きが迅すぎて。


「まさか」

大きく距離をとり、相手の構えを正面から見た緋勇は、呆然と呟いた。
いや、分かってはいる。だが、認めたくはないのだろう。

「人の虚を突き、隙だの死角だのを容赦なしに狙う、そのいやらしい闘い方は、お前のものだよ。体術も技も呼吸も――間違いない」

最も理解しているであろう壬生が、遠くから断定する。
彼に限らない。ふたり同時に視界に入れることができれば、明らかであった。
術系の仲間に至るまで、とうに気付いていた。緋勇と過王須の動きが酷似していることは。

駄目押しを喰らい、緋勇の口元が僅かに吊り上る。
少しだけ笑い、そして、一切の表情が消え去る。能面のように凍りついた彼の端正な顔に、仲間の何人かは身震いした。彼らは知っているから。緋勇の無表情というのは――――激怒の顔だということを。



遠く離れたまま、器ふたりが、まるで同じ構えをとった。
同じように大地の氣が彼らに流れ込み、同じタイミングで、増幅された強大な氣を前方に放つ。

秘拳鳳凰同士の相殺。
溢れた光が、目に痛い程に激しく飛び散る。

鳳凰と同時にスタートした過王須に対し、緋勇はその場で佇むように、静かに立っていた。自然体にて、謳うように呟く。

「秘拳」

同時に、周囲の光を吸い込んだかのごとく、彼の周囲が翳る。
静謐で大気に溶けこむその様は、まるで――――陰の龍の如し。

固唾を飲んで闘いを見守る仲間の中でひとり、壬生の瞳が興味深げに光った。
それは、裏の龍において、真の秘奥義であったはずのもの。威力は絶大だが、五行全てを一挙に操る無茶な技であるがゆえに、しばらくは動くほども不可能となる、あまりに巨大すぎる諸刃の剣。ゆえに陰を担う裏は、それを形式のみの奥義とした。
一対一などとは限らない、そして正々堂々とした闘いなど滅多にない裏にとって、全ての力を使い切ってしまうことは死を意味していたから。いくら最大の攻撃力を有しても『使えない』との烙印を押された技。

だが――――この氣に溢れた地ならば、半ば覚醒した王龍の手によるのならば、相手を確実に屠れる。
強力な再生能力を持つ器相手には、寧ろこの上なく有効な手段となる。
力を使い切った後のことも、この地にある限り、考える必要はない。回復も容易であろう。


渦王須は、その技を知らない。彼が本能的に使用可能な技とは、緋勇が既に有している技のみであるから。

緋勇の通常戦闘行動を写したが如く、フェイントを行使しつつ、過王須は距離を詰める。
近距離から繰り出される過王須の連撃を、緋勇は最低限の動きで躱す。いくつか芯を外して貰ったものの、集中した氣を散らすことなく発現させる。

「五龍殺」

陰の象徴である月より、五色の龍を模した強大な氣流を、緋勇は、その身に受け取る。

古来より、深き関わりを持つと言われていた月と狂気。
全身の氣を変調させるほどの狂った奔流が、彼の身体を駆け巡る。
そして、加速されたその力は、眼前の敵を目掛けて猛り狂う。

「ウォーーッ」

確かな苦悶の声を聞き、緋勇は呼吸を整えながら、ゆっくりと目を開いた。
狂っていた五感を正すべく、集中したままで。

「間に合ったようだな」

醍醐が、安堵の声を洩らす。

欠点を多く内包するゆえに、同じ全属性を行使する技であっても、秘拳五龍殺の純然たる攻撃力は、秘拳黄龍すらを凌ぐ。
いかに強力な再生機能があろうとも、それをまともに喰らって動けるはずはなかった。

事実、渦王須は身じろぎもしない。
それなのに、その氣だけは、膨れ上がっていく。

「おッ、おいッ。渦王須の氣が――ッ!!」

事態に気付いた京一の叫びにも、誰も反応することはできなかった。
暴風の如き圧力。実体の無い筈の大地の力が、もはや限界を超えるまでに高められた故に、確かにその存在が感じられる。

溢れ出した龍脈の力は、その入れ物に対し殺到する。
ひとつは断固として拒む意思を持ち、ひとつは受け入れることしかできない。

当然――――人型を保つことなど不可能な程の膨大な氣が、片方の器を目掛けて流れ込む。


目に痛い烈光の繚乱。乱舞する風に、鳴り止むことのない大地の鳴動。金色の嵐。
限界をとうに超えた龍脈の力が暴走し、異界を形成する。


そこは闇。
上も下も左右も存在しない闇の中で、彼らは確かに立っていた。
理解できずに騒ぎ出そうとした何人かは、聞き慣れた冷静な声で我に返った。

「そんな余裕はない。理解も必要ない。ただ敵がいて、滅ぼさなければ――東京くらいは消える」

緋勇の言葉の通り、上空と思える場には金の巨大な龍、地と思える場に突如として転移してきたものは、四色の巨大な宝珠。
では、倒せなければ東京が消えるとの言葉もまた、真実なのであろう。
皆の瞳に覚悟と決意が現れるのを確認し、緋勇は幾分柔らかくなった口調で告げる。

「宝珠を破壊すれば、この異界は維持できず、黄龍も消える」

黄龍の抑えは引き受けるから、頼んだ――――と。

そう笑ってから、彼は一切の意識を上空に集中した。
それ以外には、全く注意を向けない。そんな余裕など、欠片も存在しないから。

上空に浮かぶものは、作り物であろうと、器たる存在に宿った黄龍。その攻撃を喰らわば、龍脈の護り手たる《選ばれし者》たちであろうと、人間である以上一撃で霧散する。

緋勇が己の身を器と化し、攻撃を吸収して中和するしか術は無い。
一片の迷いでもあれば、完全な器ではいられない。その状態では、非常に強靭な――あくまでも『人間』。
攻撃を受ければ、仲間と同じくひとたまりもないであろう。


宝珠は着実にその数を減らしていった。
そして、同様に、緋勇の体力も確実に削られていた。
陰陽兼ね備えるとはいえ、陽が主である緋勇には、陰を強く顕現する渦王須の力の吸収は相当の負担らしく、肩で息をしている。

皆が時折、不安そうに視線を遣る。が、誰も彼を手助けすることは叶わない。


緋勇が荒く息を吐いた瞬間、狙っていたかのように、黄龍が波動を二撃連続で放つ。
流石に焦った表情で、それでも即座に構えた彼であったが、その必要はなかった。

一撃を横からの人影が受け持ち、中和ではなく、流す。

彼は厳密な意味では、器ではない。
だが、黄龍の陰である紫龍。共に在る限り、黄龍と同じ『力』が使える存在。
そして緋勇とは逆に、陰陽兼ねつつも、陰を主とする存在。

「助けて欲しかったら、言いなよ」

平然とした様子で、彼は告げる。
流石に呆れた表情での緋勇の抗弁を遮り、変わらぬ調子で続ける。

「言っただろう。お前が『望む』のならば、協力させてもらう、と」

その言葉に、何かを思い出したようで、緋勇が黙り込む。

それは、彼らが幼き頃に交した契約。
対である存在として、師匠に引き合わされ、しばし共に修行した後に、別れの際に陰が陽へ告げた誓約。


『それが定められたことなら、仕方がないので協力はするし、君を護る。君が――――『望む』かぎり』

素っ気無い口調で告げたのは、確かに壬生。
そして負けず劣らず無愛想に返したのは、緋勇。

『余程の事がない限り――――望まない。代用品として生きる必要なんてない。好きにすればいい』

ふ――と、子供らしからぬ小さな笑みを浮かべ、壬生が言う。

『なら――何時か君が、それを望む時までは、僕は紫龍として生きないよ。決して』

それで良い――少年であった頃、そう頷いた青年は、顔を上げる。


「頼む」

陽の言葉は、簡潔だった。視線を向けることもせずに、呟くように。
対して陰の返しも簡素。隣に立ち、小さく肯くのみ。

「承知した」


陰陽揃った彼らが、防御に徹している。
それを傷つける力など、仮初めの黄龍にはなかった。

攻撃をいくら放とうと吸収され、その身を守護する宝珠は、次々と破壊されていく。



「秘剣、朧残月ッ!!」

朱色の宝珠、朱雀の守護位置――南に当たる下部へと、剣技が直撃する。
最後の一つであったそれが、悲鳴のような音を立てて消滅していく。

空間が歪む。ブラックホールに吸い込まれるが如く、黄龍が一点に引き寄せられていく。
だが、懸命に抗うように、黄龍が足掻く。

じたばたと、惨めに蠢く黄金の龍を、蔑みの目で見ていた緋勇が、固唾を飲んで見守っていた弟分へと向き直る。

「シェン頼むよ」
「へ、何を?」

いきなり話を振られ、首を傾げた相手に、彼は笑いながら告げる。
非常に高難度なことを、平然と。

「封龍の御業、双龍による完全な龍脈操作の制御を――――だよ」

耳を疑い、劉は、しばしの間硬直した。
だが目の前で、にこにこと笑い続ける兄貴分からは、終ぞ訂正の言葉は出てこなかった。

「ちょ、ちょい待ちッ!! あれは、仙道士級でないと使えん秘術や」
「今の君なら平気。ちなみに秘術――神龍天昇脚でなく、もう一個上」

焦り、どうにか問い正した劉に返ってきたのは、無慈悲な言葉。

「……禁呪やんけ」

呆然と呟くも、気には掛けてもらえぬようであった。
緋勇は話はついたとばかりに、ついと視線を移す。

「紅葉」

彼の一対の存在へと。


「ああ。では……陰たりし陽は、闇に舞う紫龍。闇王降臨、紫龍変」

既に察していたのだろう。
静かに頷いた壬生は、変生を促すかのように唱える。
それは精神集中の手段。言霊ともいうべき力を内包し、意識の集中をスムーズに行わせる陰に伝わりし言葉。

「陽たりし陰は、光煌く黄龍。聖王天臨、黄龍変」

緋勇が続ける。
対になる陽に口伝されし言霊を。


姿はそのままに、彼らは纏う空気を変質させる。
四神ほど、外見に変化はない。せいぜい瞳の色が薄く――壬生は紫がかり、緋勇は更に淡い茶へと変じた程度である。だが、増大する力は彼らの比ではない。

「龍吟の如く、鮮麗と天翔るは、陰」
「龍笛の如く、轟破と天貫くは、陽」

龍を降ろした彼らが発する強力な氣に、一瞬だけ溜息を吐き、それから気を取り直したように劉は展開する。己の血族に伝えられてきた秘術を。

「明白 陰之道 就 能体会力 剄力之處!!」

壬生の瞳が断ずる。
これは紫龍の裁き。滅せよ――――と。

緋勇の意思が命ずる。
これは黄龍が慈悲、元在る場に還れ――――と。

「「陰陽・神龍滅霊破陣」」

裏と表、陰と陽、紫龍と黄龍、闇王と聖王。揃った意思が、完全なる王龍。これこそが大極の具現。森羅万象を司どりし者たち。
その命には、何者も逆らえない――――造られた偽者の黄龍などには到底。


苦悶する黄龍はやがて渦王須の姿へと戻り、そしてそれすらも消えていく。
それも道理。限界を超え、人のカタチなど弾け飛んでしまった。黄龍の姿を喪っても、人の姿も既に存在しない。

造られた器は、造り手と同じく――――存在の痕跡さえ残さぬ最期を遂げた。


永きに渡る刻を生き、争乱の種を蒔き続けてきた男の野望は潰えた。
その男が造った、人間でありながら兵器であった存在は、限界を超える力をその身に引き入れ、結果、無へ還った。
乱れ澱んでいた濁流の如き龍脈は、本来あるべき姿へと戻った。

だが、全てが終わったはずの寛永寺を振り返り、美里が浮かない表情で呟く。

「これからも、こういった事が起こっていくのかしら」

龍脈とその力を手にすることが可能な器、それを巡っての争いは、幾度となく繰り返されてきた。
渇望していた男がひとり消えたところで、いつかまた別の人間によって、繰り返されるかもしれない。

「人の欲望が尽きない限り――――、心の奥底に陰がある限り――――、これからも、柳生の様な者たちは現れるだろう」

彼女の懸念を、醍醐は躊躇うことなく肯定する。
それは哀しくも、紛れのない事実。それゆえに、安易な慰めなど口にしない。

しかし、彼は同時に信じていた。
泣きそうな顔で己を見上げてきた美里に対し、その信念を口にする。

だが、人の心には、陽がある――――と。


彼らは、知ったはずであった。此度の陰と陽の闘いにおいて、強く実感していた。

確かに人の心には、陰がある。
だが、同時に、陽もあることを。

人は、誰かを護りたいと思うことができる。
希望のために闘う心がある。人を愛する心がある。

「その心がある限り、何度でも闘ってやるさ。たとえ、陽と陰の闘いに終わりはないとしても」

信ずるままに、そして、決意を新たにするように、彼は力強く宣言する。
確かで真っ直ぐな眼差しに、美里の口元が綻ぶ。

彼女にも、確信することができた。
その心がある限り、そして、仲間がいる限り。

誰よりも強く信じ、そして愛する人を見つめながら、彼女は誓いの言葉を口にする。

「えェ。この心があれば、きっと、乗り越えて行ける。何度だって。きっと。きっと――――」


自然と皆の視線も、その人物へと集う。
この闘いの中心人物であり、彼らひとりひとりの支えであった青年へと。

「本当にありがとう。無事に終わったのは皆のおかげだ」

軽く頭を下げて、彼はふわりと笑む。
そして、全ては終わったというかのように、前を向き直る。寛永寺を振り返ることはない。

「さあ――帰ろうか」

護り抜いた、大切な場所へと。
大切な人たちが待つ、それぞれの住む町へ。



彼らの歓喜の声を勝ち鬨として、此度の龍脈を巡る闘いは、終わりを告げる。

尤も、全員が、闘いから解放されるわけではない。

彼らの中には、役割を背負い続けるものたちがいる。

陰陽の均衡を保つ陰陽師の若棟梁、大陸の龍穴を封じてきた一族の唯一の生存者、東京を守護する一族の裔、世の暗部を担う暗殺者、練馬と世界の平和を守る者たち、華やかな世界の唄姫とその騎士。彼ら個人のそれぞれの事情に纏わる闘いは、今後も続くであろう。

だが――――それでも、選ばれし者たちに、ひとまずの平穏が訪れたといえる。
結果として、仲間内に誰一人の犠牲者を出すことなく、闘いは終わったのだから。

戻る